礼拝メッセージ集 Messages
*大下正人牧師、大下陽子伝道師の主日礼拝メッセージを掲載しています。(2020年3月以前の大下正人牧師については、西那須野教会で話していた同じ内容を一部、リンクしています。)
2025年1月18日(土) 益子教会礼拝 大下陽子伝道師
聖書箇所 ヨハネの手紙Ⅰ 4:7-11 タイトル 「互いに愛し合いましょう」
ヨハネの手紙第一は、ヨハネの福音書の内容を踏まえた内容が多く記されていて、愛についての話題が3か所あます。その一番目はヨハネの手紙2章7節からで「初めから受けていた古い掟」、つまりイエス様の教え、ヨハネによる福音書の13:34-35で「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」を、新しい掟として書いているとし、(2:10)「兄弟を愛する人はいつも光の中におり、その人には躓きがありません」と記します。2番目も3章11-18節で「互いに愛し合うこと、これがあなたがたの初めから聞いている教え」とし、さらに(3:18)「言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう」と励ましています。そして3つ目が本日の箇所4章7節以下で、そもそもなぜ互いに愛し合うのかという根本的理由を「神は愛だからです。」(8節)と著者は記しています。
〇なぜ互いに愛し合わなければならないのか その理由
その理由が10-11節に記されています。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。 愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」互いに愛し合うのは、神が私たちに対する神の怒りをなだめるための生贄として、御子を世に遣わされた、そんな犠牲を払うほど、私たちを愛して下さっていることに対しての、私たちの応答です。「神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」神のしてくださった愛は、私たちが神に敵対していたのに、神を信じず、神に背いて怒りを積んでいたのにかかわらず、神は私たちを一方的に愛し、わたしたちの罪を処罰されるために御子を代わりに十字架で罰し、犠牲にされた。これが神の愛であります。この救いの御業を信じると、聖霊が信じる者に与えられ、自発的に神の命令:互いに愛し合うに従おうと応答しよう、それが理由であると記しています。
ルカによる福音書7章47節以下に借金を許された人の譬えが記されています。負債額500デナリと50デナリ(1デナリは一日分約1万円に相当)多く赦されたほうが、金貸しを愛する、感謝するという話です。同様に罪を多く赦して頂いたという自覚があればある程、救い主イエス様を多く愛したいと思う。「多く赦されたものは多く愛する」というたとえです。そして目に見えない神を愛するとは、目に見える人を愛することというのが、ヨハネの手紙の記していることです。
〇どのように愛せるのか? 神が私たちの内にとどまることで
「わたしたちが互いに愛し合うならば、神がわたしたちの内にとどまってくださり、・・・神はわたしたちに、ご自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしの内にとどまってくださることが分かります。」(12-13節)
旧約の時代では、神の臨在とか栄光は幕屋や神殿にありました。しかし、イスラエルの民が神から離れてしまったので、神の栄光はイスラエルの民からも、神殿からも離れ去りました。また旧約の時代は、士師、預言者やダビデ王のような特別な神の任務を受けた者達にしか聖霊は注がれませんでした。しかし、新しい契約、新約の時代には、再び神の栄光は戻ってこられました。どのようにして?それは御子イエス・キリストとして、言葉が肉となってわたしたちの間に宿われるという形で神の栄光が戻って来られたのです(ヨハネによる福音書1章14節)。イエスは「この神殿を壊してみよ。3日で立て直して見せる。」と、ご自分の体を神殿であるといわれました(同上2章19-22節)。3日で立て直すという意味は、イエスは私たちの罪を贖うため十字架で死なれ、3日後に復活されることを意味します。そしてイエス様は復活後、天に戻られて、神は約束どおり聖霊をイエスを信じる者に送られ、聖霊が人に住まわれるようにしてくださいました。今や、御霊は永遠に神のこどもたちの内に住まわれるとイエスが言われたことを受け(同上14章16節)、ヨハネの手紙は「信じる全ての人に神の霊が分け与えられる」と記しています。またパウロも言っているように、私たちは「神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです」(コリント信徒への手紙1 6章19節)。クリスチャンは神がとどまる幕屋であり神殿である、だから神は私たちを通して神の愛を現わそうとされています。こうして、恵みによって救われた罪人のわたしたちによって、神の愛が全うされる(12節)ようになると記されています。
この分け与えられた聖霊の働きよって、わたしたちが神のうちにとどまり、神もわたしたちの内にとどまって下さることがわかります。霊という目に見えない存在が、心の内に住まわれ、私たちの思いや意思に働きかけるということは、信仰によって理解するものです。この神と御子の交わりにあるなら、私たちは神の愛を共有し、他者を愛することが可能であるとし、この手紙の4章16節でもう一度繰り返されています。「神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もそ人の内にとどまってくださいます。」
「とどまる」とは神とキリスト、信じるものたちとが一つであるという「関係」を表しています。神との関係を持っているかどうか、とどまっているかどうかは神の掟を守っているかどうかによって明らかにされます。その神の掟とは、御子イエス・キリストの名を信じ、互いに愛し合うことだ(3章23-24節)とはっきり記しています。その掟を守るのに、自分の力でしようとせず、私たちの内に住まわれる聖霊が、神の愛を現わすように助けて下さり、導いて下さるということが大きな励ましです。
〇愛は忍耐 インスタントに愛し合えない 耐え忍んでイエスにつながり続ける
もちろん、互いに愛し合えない人間関係はたくさんあります。あの人は私をこんなに傷つけてきた。あの人も私を嫌いであろう、だからあの人だけは愛せない、と。しかし、たとえどんな理由があれ、相手がどうであれ、自分がどうであれ、信仰によって神との交わりを頂いて、光の中を歩ませていただいている者は、感情的に愛せなくとも、「互いに」にできなくとも、「一方的」にでも相手を愛せるよう、神様に祈って求めることができます。神の愛は忍耐とあります。インスタントに愛せるようにはなれないのです。
《証》ある高齢者の施設に入所している姉妹の証し 一年忍耐して祈り続け、突然、先方から和解を
私たちは自分で神の愛を造り出せないし、主イエスから離れて何もできません(ヨハネ福音書15章5節)神様は、私たちが簡単には他者を愛せないことはご存じのとおりです。忍耐が必要です。
「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。 すべてを忍びすべてを信じすべてを望み、すべてに耐える。」コリント信徒への手紙1 13章4-7節
パウロは愛は忍耐強いから始まって すべてに耐えると締めくくっています。相手を愛せない状態が続いても、相手から愛されない状態が続いても神様から忍耐する力を与えて頂くしかありません。また、相手の心を私たちは変えられません。相手の自分に対する敵意に関しては、可能な限り相手と和解を努めた後のことは、神様に委ねて、神様が取り扱って下さることを祈りたいと思います。この姉妹の証しのように、必ず祈りが聞かれる時が、時間がかかるかもしれませんが来ると、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐えるように待ち望みたいと思います。待っている間に私たちの品性も練られることになります。つまり相手が変わるのではなくまず「自分」の思いが変えられていくのです。
パウロはコリントの信徒への手紙1 13章13節で「いつまでも残るのは信仰、希望、愛、このなかで最も大いなるものは愛」と記しています。私たちは「今」救われていて、神の子供であるという信仰により生きていますが、まだ完成していない部分を持ち、それがいつか完成されることを待ち望んでいて、それが将来の希望であります。信仰と希望を結ぶのが神の愛です。だから、愛は最も偉大であります。わたしはまだすべての人と互いに愛し合えていません。まだまだ、忍耐に欠き、私が相手を愛そうとしても、逆に相手から嫌われる場合もあります。私はまだ互いに愛し合うことに関し発展途上であることを正直認めます。出来ていない自分がいます。それでも、御言葉を語らせて頂き、互いに愛し合いましょうと励まし合いたいのは、私たちは同じ罪を赦されて、憐れみによって主に愛されたもの同士だからです。神様は私たちが互いに愛し合えることを忍耐して待っておられることも、互いに慰めとなります。
〇神の愛は注がれる
最後にローマの信徒への手紙5章1-5節を読みます。
「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとしています。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を(別訳:練られた品性を)、練達は希望を産むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」
この聖書のみことばを信じ、愛せていない自分を前提として、キリストのように内側が変えられていく途上にあると信じ、聖霊により神の愛を注いでいただき希望を持って、互いに愛し合おうと一歩踏み出しましょう。(引用 新共同訳聖書)
2025年1月12日 益子教会主日礼拝説教要旨 大下正人牧師
聖書 Ⅰヨハネの手紙 4:7~12
メッセージ「神の愛が全うされる」
わたしたちに神様は、語りかけます。「互いに愛し合いなさい」この言葉は、古くもあり、新しいものであります。なぜならば、神様について聖書が語る場合、愛は不可欠であり、その愛なくしては神様を語ることはできません。もちろん愛ゆえに創造し、愛ゆえに滅ぼすこともあります。愛ゆえに与え、奪うこともあります。それは、わたしたちの信仰にかかわる事柄なのです。わたしたちが信仰に揺れ動かされる時、目先のものにしがみつき、より頼んでしまいます。それが神様ならば、神様の道が広がって来るのではないでしょうか?つまり新たな神様への道へつながっていくわけであります。しかしその目先のものがこの世的なものであるならば、わたしたちは息絶えるのです。なぜならば人間が作りしものは未来永劫残るものなく、すべて無に帰するからです。そのような中でわたしたちが示されましたのが本日の聖書箇所、1ヨハネの手紙4:7~12ではないでしょうか?
まず7節~8節にこう書かれています。愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。この言葉を読んでみて皆さんはどう感じたでしょうか?創世記を見れば分かるように、わたしたちを創造した時、神様は霊を吹き込まれました。その霊は神様そのものを分け与えるわけですから、わたしたちは生まれながらにして神様に愛を注がれているのです。しかし愛することのない者は神様を知りません。その言葉にわたしたちは、改めて自身を振り返るべきではないでしょうか?同じようにすべての人に愛を注げているでしょうか?自分と親しい人に対しては、愛を注ぐことはできます。しかしすべての人に対して愛を行えているかと言えば愛を行っていないかもしれません。また、知らない人に対して親切な心を持って接する行為、これは相手を思って行う行動ですから愛があると言えるのではないでしょうか?しかし愛は形が見えず、その思いに気付かない場合もありますし、相手が嫌がる場合もあります。相手が嫌がるとその愛は一方的な愛に変わり、嫌悪感を招くかもしれません。一方的な愛ほど空回りしてしまうかもしれません。ですから愛というのは非常に難しいものなのです。そのようにわたしたちは愛について教えられておりますが、イエス様のように全身全霊をもって愛を実践する完全な愛にほど遠いのかもしれません。ですから愛することなんてできないと卑屈になる必要は全くありません。そのわたしたちをまず愛してくださるのは神様なのですから。神様はわたしたちに御子をご用意されました。その御子の働きによってわたしたちは愛を理解することができます。そしてわたしたち自身の罪を贖ういけにえとして、その愛を教えてくださったイエス様をお遣わしになったのです。これこそ究極の愛であることを確信いたします。だからこそ神様がわたしたちを愛してくださったからこそ、互いに愛していかなければならないのです。わたしたちが互いに愛し合うのならば、神様がわたしたちの内にとどまり、神様の愛が全うされるのです。
お祈りいたします。御在天の主なる神様本日はヨハネの手紙からわたしたちが神様に示されたことは互いに愛し合いなさいということであります。わたしたちは神様の愛を実践していきたいと考えていてもなかなか愛を行うことができないものであります。しかしあなたはわたしたちを愛してくださり、このようなわたしたちの内におられることを感謝いたします。わたしたちのために御子をお遣わしになったことによって、わたしたちはあなたの慰めを受けました。その業こそ神様の愛そのものであり神様の愛が全うされる者であることをわたしたちは確認することが出来ました。世界では互いの事を認められず、自分の思いばかり大きくしておりますが、どうか神様が互いに愛し合い、認め合う世界をあなたによって与えられますように祈ります。どうぞあなたが愛をわたしたちに与えて下さい。そしてあなたの愛で世界が満たされますように。このお祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
2025年1月5日 益子教会主日礼拝説教要旨 大下正人牧師
聖書 ヘブライ人への手紙 10:32~36
メッセージ「約束されたものを受け取るためには」
わたしたちは、神様から約束されたものがあります。それは何かと申しますと、神様の救いを通して永遠の命を得る事という約束が与えられました。しかし、神様との関係はイエス様が現れる前と現れてからでは意味が違います。なぜならば、神様との関係を築くために毎回のように怒りを鎮めてもらうための献げものをささげておりました。しかし神様はその献げものを望んでいるのではないのです。むしろ悔い改めの心を持つことを望んでおりましたが、あくまでも自分の代わりに献げものを献げ宥めていくという形だけを重視しておりましたから、本当の意味での神様との関係を築くという事が出来ませんでした。しかしイエス様が現れたことによって、律法を守りさえすれば、献げものさえすれば、神様の救いに与ることを考えていたのかもしれません。しかし、律法を知らない人はその律法さえ守るどころか自分が救われることさえも知らなかったかもしれません。しかしイエス様は積極的に貧しい人、病気の人、社会的抑圧を受けている者、本当の神様の存在を知らない者に関わってきました。律法を知らなかった人が自分も救いの対象になると教えられた時、どのような感情になるでしょうか?それはどんなに言ってはいけないと言われても、その喜びを抑えきれないほどの喜びが体中を駆け巡るのではないでしょうか?そのような状況はかつてなかったかもしれません。ローマの圧政下の中、夢や希望を失いかけた時に生きるための光を感じることが出来たのです。もちろん律法を学んできた者にとっては、今までと違う教えに戸惑い、神様を侮辱しているとイエス様をとらえてしまったのかもしれません。しかしその者たちも、後に変えられていくのです。このように自分が変えられた喜びはひとしおです。
つまり本日の聖書で書かれてありますように、今一度自分を変えられたその光を思い出すことが必要です。なぜ私たちは、イエス様を信じたのでしょうか?もちろん半信半疑の人もいるし、神様を認めない人も世の中に沢山おります。しかし、キリスト教に関心を抱くのは、何か引き寄せられるものを感じたのかもしれません。
世の中は、必ずしも自分を認めてくれるとは限りません。ひどい仕打ちを受けるかもしれません。あざけられ、苦しめられ、見世物にさらされてしまうかもしれません。逆に、その立場になっていじめてしまう弱い者にもなりえてしまいます。人間は、善い部分と悪い部分を持っていることを自覚しなければなりません。神様はわたしたちの弱い部分も強い部分も知っておられ、忍耐を持ってわたしたちに寄り添ってくださるのです。有名なコリントの信徒への手紙Ⅰの13章に書かれてある忍耐も愛と書かれてあるように神様はわたしたちに愛をもって接してくださるのです。愛はすべてを包む大きな働きです。イエス様はまさに愛を、そして神を実践する方でありました。だからこそ私たちは神様を信じることが出来たのではないでしょうか?それは、この世の自分の財産が奪われ、自分の権利が奪われようとも必ず神様が我々と共におられ、そして救いの業を示してくださるのです。その確信をわたしたちは忘れてはならないのです。神様を知っていれば、わたしたちは、その恵みを感じることが出来るのです。その大きな愛を受け取ることが出来るのです。わたしたちは、時に自分勝手で、神様の恵みや救いを疑ってしまう事があります。こんなに従っても神様の救いを感じることが出来ない、一向に祈りが聞かれず、全然変わらないと文句が出そうになることはないでしょうか?そのような時、わたしたちは神様の計画は必ず行なわれる。と信じなければなりません。むしろ神様のような忍耐深さを学ばなければならないのです。37節~39節にこんなことが書いてあります。「もう少しすると、来るべき方がおいでになる。おくられることはない。わたしの正しい者は信仰によって生きる。・もしひるむようなことがあれば、その者はわたしの心にかなわない。」しかし、わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保するものです。この言葉を2025年の新たな思いをもって忍耐して愛を育んでいきましょう。
お祈りいたします。ご在天の主なる神様、今日こうしてヘブライ人の手紙から神様の忍耐を学ぶことが出来ました。感謝いたします。わたしたちも日ごろ忍耐が足りないことを覚えます。どうぞ忍耐を持って新しい年を歩むことが出来ますように導いてください。世界においても相手を認め、忍耐する心が広がっていきますように導いてください。このお祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
2024年12月29日 益子教会 主日礼拝 大下陽子 伝道師
聖書箇所 ヨハネの手紙Ⅰ 1:1-4 タイトル 「喜びが満ちあふれるために」
ヨハネの手紙の著者は1節「初めからあったもの」イエス・キリストを証しし、伝えるといっています。この「初めから」という書き出しは、創世記1章1節「初めに、神は天と地とを創造された」及びヨハネによる福音書1章1節「初めに言があった」が反映しているとされます。そして初めから永遠に存在し、神と共におられる言であるイエス・キリストによってこの世にもたらされた「命の言」について、また「今」という時に、私たちは永遠の命を預かる恵みを得ている(5:13)ことを伝えるためにと序文で述べています。ヨハネにとって、永遠の命とは、この体が死んでから与えられるもの、将来天国に行ったときにいただくものではなく、キリストを信じた時から与えられている命であることを記しており、またそれはイエス様ご自身がヨハネによる福音書にて言われていることに基づきます(ヨハネによる福音書6:47)。現代に生きる私たちはキリストの福音を信じ、キリストを信頼することによって、新しく神から生まれた者として、御父と御子の交わりにいれられることで永遠の命を「今」経験できます。この交わりにおいて私たちの新しいアイデンティティ「自分は何者か、どこから来たのか」がわかり、神の家族として新しく生まれることになります。
この「交わり」とはつながっている、結ばれているとも言い換えられでしょう。キリストを信じれば御父と御子イエス・キリストとつながり、これを基に信徒同士のつながりを持つようになり、この交わりゆえにわたしたちの喜びが満ちあふれるようになると記しています。神との交わりを持ち、御言葉に従うよう歩めば誘惑と罪に負けないように、抵抗できるように神は私たちを変えてくださる、つまり、光の中を歩めば、罪を犯さないようになっていき、たとえ罪を犯したとしても御子イエスの血によって罪から清められる(7節)ことを記しています。
光の中を歩むことを具体的には兄弟を愛することと記し(2章10節)、互いに愛し合うことを何度もこの手紙の中で奨励しています。このことはイエス様ご自身がヨハネによる福音書15章で弟子たちに「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」と言われ、木であるイエス様につながって、実を結ぶようにと話された箇所です。つまり、実を結ぶということは互いに愛し合うことであり、イエス様につながっているから可能となる、そして互いに愛し合えることでイエス様の喜びが私たちにも与えられるので、喜びで満たされるとイエス様は言われました(ヨハネによる福音書15章11節)。教会生活の交わりにより、私たちの信仰は支えられ、共に祈り合える兄弟姉妹がいかに大切であるかと実感しています。私たちは信仰によって天の父なる神様と御子イエス・キリストの交わりを教会として互いに持つことが出来、それによって永続する喜びが満ち溢れるという、恵みの体験を、他の人に伝えることができます。
先日、ドキュメンタリー映画を観ました。都内にある児童養護施設に入所している子供たちの、心の動きや語る言葉に焦点をあてたドキュメンタリー作品で、「人のつながり」について考えさせられる作品でした。施設という、血がつながらない人々との共同生活、しかし家族とも他人ともいえない「つながり」を持つ中で成長していく子供たちの一年を追った内容です。日本には施設等で暮らす社会的養護が必要とされる子どもたちが、4万2千人(2024年時点)もいるとのことです。
つながりは大切です。教会という共同体が、血はつながっていなくとも、自分たちを造られ神様を信じ、神様が天の父であるという、神の家族としての自分を認識し、互いに愛し合おう、お互いをケアし、支え合おうとする共同体となれたらと思わされました。私自身も教会生活での交わりにより私の信仰は支えられ、同じキリストを信じる信仰を持つ仲間とのきずながどんなに大切か実感しています。私たちは信仰によって天の父なる神様と御子イエス・キリストの交わりを教会として互いに持つことが出来、その交わりで喜びが満ち溢れるという恵みの体験を、他の人に伝えることができます。
一方で、教会の人数が多くなり、ただ礼拝に参加し食事をともにしているだけでは仲がよいのですが、奉仕を共にチームでしていくようになると、皆それぞれ個性があり、育ってきた環境や考え方が異なるため意見もぶつかることもあります。相手のちょっとした態度や発言に傷ついて、感情を害しもう関わりたくないと思うこともあるかもしれません。ひどい場合には、教会をさって別の教会にいってしまうという現象があります。しかし、神様は私たちに聖霊を通して、神の愛による平和を持ちなさいと、互いに愛し合いなさいと導かれます。わたしたちが御言葉を示されて、感情的には従いたくなくとも、それでも従おうとするのは、強制的ではなく、自分がどれだけ神様から愛されたか、忍耐してもらったかを思い返すからです。結局、赦せない相手が心の中にいると、その人に対する苦い思いが他のよいことや喜びを蝕んでいきます。
日常生活の中で、TVのニュースを見ていても愛せない相手が毎日のように現れます。先日TVのニュースを見ていて子を虐待をする親が、「自分は悪くない」と裁判で言っているのを聞いて思わず他人ながら「赦せない!」と言ってしまいました。ましてや当事者である虐待を受けて苦しんできた子が、虐待してきた親を赦せるようになれるのでしょうか。無差別に通り魔的に自分の子供が殺害されたら、その親は犯人を赦せるのでしょうか。一方、自分が発した言葉、態度が、まったく悪気がなくとも、相手が悪くとらえて傷ついてしまう場合もあります。人は人生において加害者にも被害者にもなり得るのです。関係がこじれると、こちらが謝っても赦してくれないことは多々あります。
しかし、神様はその赦せない思いに苦しむ、過去の傷で喜びが心にもてない人々のことも理解してくださる、憐れみ深い、やさしい方だと信じます。そして、加害者が悔い改めることを、神様は望んでおられる。両者とも同じ神様が創られた人間であるゆえに。そんな、加害者でも被害者でもすべての人が苦しんで悩んでいるこの世を、神様は憐れみの心を持って、御子イエス・キリストを通して救おうと決めてくださったのです。その愛がイエス様の十字架に現れています。
愛するとは赦すことです。教会内では主イエスを信じている者同士では、この同じ「互いに愛し合いなさい」とイエス様が言われたことをやろうとできますが、キリストを知らない人とは、キリストの言う愛をしらないので「互いに」が出来ません。それでも、イエス様は律法の中で大切な2つの戒めとして「主なる神を愛し、自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」と言われたように、隣人がクリスチャンでなくとも、その人を愛するようにイエス様は求めておられます。これは、聖霊の助けが必要ですし、神様の愛が注いでいただく必要があります。もし愛せない相手が自分の前に置かれても、イエス様の名によって天の父に助けを願えば、何でも与えられるとの約束(ヨハネによる福音書15章16節)が、大きな励ましであります。現実的に他者を愛することをできない場面があって落ち込むこともあるかもしれません。しかし、出来ない私たちの為に、イエス様が十字架で罪を贖ってくださったのです。自分の力で互いに愛せる人がいれば、イエス様の十字架の贖いは必要ないのです。たとえ赦せない相手がいても、相手が自分を赦しくれなくとも、諦めないで、いつか、神様が両者の心に聖霊を通して和解を導いてくださることを信じて、委ねていきたいと思います。相手の心を自分が変えることはできないですが、神様がこのことを取り扱ってくださると任せられたとき、心の重荷が軽くなれるのは幸いです。
「神に願うことはなんでもかなえられます。わたしたちが神の掟を守り、御心にかなうことを行っているからです。その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです」(ヨハネの手紙1 3章22-23節)御父と御子の交わりに自分自身も入れて頂くことで、私たちが御心に適うことを求めるように変えられます。すると、御心にかなった祈り、互いに愛し合えるように助けてくださいという祈りを神様は必ず答えてくださるとの約束を信じ、そして神様の愛が私たちを通して他者へ流れ出るよう、そしてキリストの内に喜びがあふれ続けるよう、共に祈り続けていきたいと思います。そして、今特につながりを求め、孤独でいる子供たち、大人たちがイエス様の愛に出会い、自分たちが愛されている神の子どもであることを御言葉に触れて知る機会がこの日本においてもなんとか与えられるよう願つつ、自分たちが何ができるか神様に祈っていきたいと思います。
2024年12月7日、8日益子教会 メッセージ 大下陽子 伝道師
聖書箇所 マタイによる福音書1章18-25節 タイトル 「神は我々と共におられる」
本日アドベント第2主日は、マタイによる福音書一章からメッセージをさせていただきます。エル・グレコというスペインの画家がいます。彼の「受胎告知」の絵画は有名で、倉敷市の大原美術館に展示されています。その中で描かれるマリアの表情が驚きと喜びの両方を表していて、とても力強い絵画です。おそらくこの絵はルカによる福音書のマリアの応答をもとに描かれたのではないかと思います。なぜなら、マタイによる福音書のイエス様の降誕のストーリーではマリアは沈黙していて、マリアの様子が表されていないからです。マタイでは、マリアの聖霊による妊娠というショッキングな出来事にとまどい、悩んだ、いいなづけの、そして夫となるべく決意したヨセフについて記されています。マリアより妊娠を知らされて、どんなに彼は悩んだことでしょうか。ここでの「正しい人」という意味は律法を守る人ということであり、もし律法に従うと、ユダヤ社会での婚約は結婚と法的に同等の為、マリアを姦淫の罪で石打ちの刑に至らせてしまいます。ヨセフはマリアを愛していたのでそれは避けたかったのでしょう、ひそかに離縁をしようと決心したとあります。ヨセフがマリアを妊娠させておいて離婚したとし自分が負い目を負う可能性をとろうとしても、マリアはシングルマザーとして生きなければならないですし、いずれにしても解決策のない行き止まり状態にヨセフは苦悩したに違いないのです。
そんな苦悩しているヨセフに、神様は夢でみ使いにより20節「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」と言われます。ヨセフは1章16節にあるようにダビデの家系ですが、ダビデの王家はユダ王国がバビロニア帝国により滅ぼされ人々がバビロンで捕囚となって以降、もはや王族ではなく、旧約聖書にも名前が記されていない一般市民へとつながっていることがマタイが記す系図によりわかります。それでも、ヨセフはダビデ家の家系であり、聖霊によって妊娠しているマリアを妻として迎えることで、イエス様は実子としてその家系に入れられました。なぜ、家系にこだわるのでしょうか。それは、旧約聖書でダビデの子孫からメシアがおこると預言されていたからであり、神様はその為にヨセフとマリア夫婦の子としてイエス様を生まれさせたのです。
イエスという名は当時よくある名前で、ヨシュアのギリシャ語です(ヘブル語だとイエシュア、「主は救う」の意)。イエス様は、その名の意味するとおり「自分の民を罪から救う」方で、キリストとはメシヤ(救世主)のギリシャ語ですからイエス・キリストは名前と称号の組み合わせです。ユダヤ人にとってメシア救世主はダビデの家系からでる、来るべき王をさしていて、このメシアを神が送り、ご自分の民イスラエルを回復させ、国家として独立させ神の民としての栄光を回復してくれるとユダヤ人は待望していたのです。しかし、1章21節が示すように、預言されている神様のご計画に基づくメシアは「罪から救う方」だとはっきり天使は告げています。それは、メシアは単なる政治的救世主ではないというメッセージです。そしてイエス様の公的生涯においても、ご自分が罪を赦す権威があるとされ(マタイ9章2節 中風の人の癒し)、ご自分が死ぬ目的は多くの人の「罪を赦すため」流される血である(マタイ26章28節)と最後の晩餐の時、ぶどう酒をとって説明されました。エペソの信徒へ手紙1章7節「わたしたちは、この御子の内にあって御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。」とあるように、この主イエス様による罪の赦しは、神様の豊かな憐みと恵みによることをクリスマス以外の時期でもいつでも覚えて感謝したいと思います。そして、もはや、イスラエルだけが神の民ではなく、イエス・キリストを信じるすべての民がこの恵みを受けられるという福音です。
1章23節「見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」はイザヤ書7章14節の預言の引用で、この預言がこのイエスの誕生で実現したとしてマタイは記しています。マタイによる福音書のスタイルは一貫して旧約聖書のメシアについての預言の箇所を引用し、それがイエス様において実現したことを述べています。マタイが指摘しているイエス様の来臨、誕生、生涯、死、復活に関しては300以上の旧約の預言が成就しているとされます。インマヌエルとは「神はわれわれと共におられる」という意味であり、これは名前というよりそのご性質や使命を表すと言えます。実際、イエス様が「インマヌエル」と呼ばれたことは聖書で記されていません。イエス様が昇天される前に「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28:20)と言われたように、イエス様はいつも共にいて下さる方であることをその名が示しています。「神が共におられる」ことは、旧約聖書で何度か神様が言われているメッセージでもあり、まずヤコブが2回(28:15エサウから逃げる時、46:4はエジプトへヨセフに会いに行く時)、それも人生の転換期の時、先が見えない危機的状況に独りで立ち向かわなければならない時に、神様より「わたしはあなたと共にいる。」と言われています。ヤコブの息子ヨセフも他の兄たちにエジプトに売られた時、神がともにいたから守られた(39:2.21)とあり、このように神様は共にいて導いてくださる方であることが記されています。ちなみに、このヨセフも夢で預言が示され、夢を説くことができます。
ダビデの子孫であるヨセフがイエス様の救いの御業において、神様から人としてイエス様の父親役を任されたように、私たち一人一人も様々な形で、小さいことかもしれませんが神様の御業において共に働かせて頂く協力者として招かれていることを、本日の箇所は現代に生きる私たちへ励ましていると思います。ヨセフは、神様を信じて神様の御告げに従いました。それは、簡単なことではなかったと察します。神様の救いの業に参加させられたマリアとヨセフは、ベツレヘムまでの旅が守られ、イエス様を無事に産むことができ、ヘロデ王の魔の手からエジプトへ逃避して、ガリラヤに戻るという、幾つもの危険な旅を乗り越えられました。この体験は、二人にとって神様がともにいてくださったことの実体験だったと言えます。ヨセフもそうだったように、神様の御業に関わること、つまり神様から示された道に従って歩もうとすると、いつも喜びや楽しみの道ではなく、苦しみ、痛み、困難が伴うことのほうが多いかもしれません。それでも、神様の約束を信じて従おうとし、乗り越えられる力が与えられると信じ続けられるのは、イエス様の約束「世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28:20)という、信仰の確証によると思います。
神様を信じるとは、神に従うことです。「いえいえ、神様、聖書にはそう書いてありますが、わたしはこれをたくないです。」と、神様の愛の戒めから離れ、自分がしたいことをするという態度を続けていますと、自分の中に二人の主人を持つような葛藤がおこります。するとさまざまな喜びは一時的で、結局自分のために生きている、もしくは人のために生きていかねばならない重荷と虚しさに行き詰ってしまうでしょう。また、教会内において、「私は教会へ行かないで、独りで神様を礼拝しお祈りします。一人で信じているので十分です。」という人がいたらどうでしょうか。神様は人を一人で生きるように造られませんでした、それでアダムにエバを創って傍につれてきたように、神様は人間を他者と関わる社会的な存在として、互いに愛し合うように人間を創られたことが、創世記の初めを読んでいてもわかるでしょう。
ヨハネの第一の手紙1章7節に「しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」と記されています。イエス様の十字架で流された血により、御父とイエス様を信じる者との関係を正しい状態に回復させられるのです。正しい状態に回復されることは、信仰によって義と認められることと言います。神様との関係の回復、和解がもたらされ、それがベースで人同士の関係の回復へとつながっていきます。ヨハネの手紙は特に、兄弟愛についての教えを記し、私たちがキリストの贖いによって罪が赦され、新しい命が与えられたものは、暗闇から光へと移され、光の中を歩む者となると記しています。イエス様が新しい戒めとして与えた「わたしがたあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」をただ聞くだけでは、その意味を知ることができないと思います。愛しにくい兄弟姉妹が目の前に置かれた時、私たちが出来ると思っていたことが出来ないと直面させられるでしょう。その時、自分は神様の憐みと恵による罪の赦しを受け、感謝してそれで終わるわけでなく、神様に従う気があるかが問われるのではないでしょうか。
私はクリスチャンホームで育ち、神様の存在は信じていましたが、30歳になるまで神様の救いの恵みがよくわからず、よって神様に従うということが窮屈に強制的に感じ、教会でも苦手な人は避けていましたし、自分を棚にあげて他者を裁いていました。ですから教会の兄弟姉妹の方々はどれほど私に忍耐して接してくれたか、その時は気が付かなかったのです。しかし、神様の憐みと恵によりイエス様の十字架の贖いがはっきりとわかり、悔い改めて信仰の道に戻していただいて以来、今まで教会の皆さんが私に忍耐をし、愛して下さったことを感謝することが出来ました。そして、今度は自分が愛する側になろう、忍耐する側になろうと、信仰が成長させられるのにずいぶん時間がかかったものです。主のために生きるとは、神様を信じ神様に自発的に従うことだとの確信が私の中で聖霊により与えられ、たとえ、不完全ではあっても、徐々に内側が変えられていっているのは神様の恵みによります。もちろん、罪は犯しますし、失敗はたくさんしますが、そのつど悔い改めに聖霊が導き、神様に赦され、立ち直らせていただけるという恵みのサイクルの中に生きることができるのは幸いです。
私たちは、神様が自分の人生において、どのようにヨセフのように神様のみ業の協力者として用いて下さるかはわかりません。分かることは、まずは神の家族である兄弟姉妹をキリストの愛で愛そうとすることが、神の御心にそった協力であり、それに従えるよう必要な助けを求めて祈っていきましょう。私たちをとりまく状況に様々なことがおこっても、心折れることがあっても、このインマヌエル「神がわたしたちと共におられる」で励まされます。神様がわたしたちを憐れみの心をもって、罪を赦してくださるために主イエス様をこの世に送ってくださり、その救いの御業により自分が今生かされていることを覚え、救い主イエス様の誕生を喜びつつ、この降誕節の日々を歩んでいきたいと願います。
2024年12月1日 益子教会主日礼拝説教要旨 大下正人牧師
聖書 イザヤ書 7:14~15
メッセージ 「しるしを与えられる」
本日は、イザヤ書7章から学んでまいりたいと思います。このイザヤ書に出てくるイザヤは宮廷預言者として仕えておりました。この頃イスラエルは、どのような状況だったでしょうか?7章2節に書かれてありますように、近隣のアラムがエフライムと同盟したと噂が流れ、王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺したと書かれてあるように非常に緊張状態であったのではないでしょうか?そのような状況の中にあって預言者イザヤに3節で神様が語りかけるのです。「あなたは息子のシェアル・ヤシェブと共に出て行って、布さらしの野に至る大通りに沿う、上貯水池からの水路でアハズに会い、彼に言いなさい。落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない」この言葉をアハズに声かけました。更に主なるあなたの神に、しるしを求めよというと王アハズは、「わたしは求めない、主を試すようなことはしない」と断りました。なぜアハズはしるしを求めなかったのでしょうか?アハズは、自分の取り囲む状況で不安を覚え、もしもしるしを求め、しるしを得られなければという思いがあったのかもしれません。その結果信じてはいるが、信じ切ることができなかったのではないでしょうか?そのような状況下にあって、イザヤは語り続けます。「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間にもどかしい思いをさせるだけでは足りず、わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか」このような思いを皆さんも感じたことはないでしょうか?神様はわたしたちにこのようなもどかしさを感じていらっしゃるかもしれません。
「あと一歩なんだけどな」その思いを主があらわされたのが本日与えられた箇所であります。それゆえ、わたしの主が御自らあなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。その言葉に偽りはありません。しかしその言葉をどのように信じたらよいのでしょうか?やはりしるししかないのです。それを拒否したアハズ、その事を語ったイザヤどちらもイエス様に出会うことなくこの世での活動を終えてしまいます。でもイザヤは思ったことでしょう。この「インマヌエル」の言葉を残さなければならない。この神様のしるしこそ、主が御自らしるしを与えられる証拠であるという気持ちになったのではないでしょうか?与えられる「インマヌエル」は、マタイによる福音書では「神は我々と共におられる」と書かれております。つまり神様は、大事なイエス様をわたしたちにくださる約束をしてくださったのです。なぜそのように大切なイエス様をわたしたちに与えて下さったのでしょうか?それは、ヨハネによる福音書3章15節に神は、その独り子をお与えになったほど、この世を愛された。独り子信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。つまりわたしたちを愛していることがイエス様を与える約束であり、愛の証しなのです。
しかしその愛が与えられるまでどのくらいの年月が経ったのでしょうか?神様の預言を受けたイザヤも聞いたアハズも生きている間はその御言葉が成就されませんでした。しるしもなく、その長い年月信じ抜くことが人間には出来たでしょうか?その約束を忘れてしまうかもしれません。その約束を信じながらも半信半疑になっていたかもしれません。大概の人はそんな約束がある事さえ知らなかったかもしれないのです。それでも言葉としてしるしを残されたのです。わたしたちはあまりにも見えるものに固執してしまうと本当のものが見えづらくなってしまうのです。今こそ、わたしたちは見えざるしるしを信じていきましょう。今こそ神様の約束が成就する時です。わたしたちは見えざる神様の愛が現わされるこのクリスマスを信じる心が与えられますように祈っていきましょう。
2024年11月24日 益子教会主日礼拝説教要旨 大下 正人 牧師
聖書 ローマの信徒への手紙 2:1~8
メッセージ「神様の憐れみが悔い改めに導く」
わたしたちは、知らず知らずのうちに人を裁いてしまうという事はないでしょうか?自分はどんなに裁くまいと考えていても、その人の服装や発言、行動によってついつい「何やってんの?」そう言って相手を裁いてしまう事はないでしょうか?もちろん口に出さなくても、心の中で思っていても裁いていることを神様はご存じであります。本日の聖書箇所であるローマの信徒への手紙でこんなことが書かれています。だから、全て人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。皆さんどうでしょうか?思い当たるふしはないでしょうか?人はどうしても裁いてしまうというよりも裁くことが好きなのかもしれません。自分の性格や環境、与えられたものすべてに影響を受け、わたしたちは今を生きております。その影響でこれは正しい、正しくないと基準を設け、そのことによって物事を判断してしまうのです。だから人を裁いてしまう者なのかもしれません。
創世記物語でアダムとエバが神様との約束を破って、善と悪を知る木の実を食べてしまった時に、事件は起こります。実を食べたことによって、自分自身が裸であることに気づき、神様の声が聞こえたので林の中に隠れます。神様の声に従って林から出てきたアダムとエバは、神様の「なぜ食べてしまったのか」という問いに蛇にそそのかされ、エバの言葉にそそのかされてというように弁明いたします。しかし神様の裁きは蛇には地を這う事をアダムには労働を、そしてエバには産みの苦しみをお与えになったのです。そしてエデンの園を出ていくように命じ、そのエデンの入り口には入れないように炎の剣を置きました。これが神様の裁きです。しかし神様は、アダムとエバに革の衣を与えるのです。必ず神様の裁きはそれで終わるものではありません。必ず憐みの心を与えられるのです。また、カインとアベルの話でも神様は殺人の罪を犯してしまったカインに対して、「自分の罪は重すぎます」といったカインの言い分を聞き、カインにしるしを与え、カインに復讐した者には厳罰を与える約束をするのです。しかし人間は愚かで歴史を重ねる毎に神様から離れ、神様を忘れ、神様の思いを軽んじてしまうのです。
しかし神様は、そのようなわたしたちを憐れんでくださる方であります。たとえ、自身の財産を浪費して財を半分に減らそうともその憐れみは変わることはないのです。新約聖書の物語で放蕩息子の物語があります。この物語は財を欲しがる弟にその財を与えたところから始まります。その財を得た弟はお金を湯水のように使い、暮らしました。しかし父親から離れてしまうとお金は減る一方であります。お金が無くなれば一人消え二人消え、しまいには助けてくれる者も、近づく者もいなくなったのかもしれません。そのような状況の中で飢饉が訪れ、誰もが厳しい状況にありました。そのような状況下の中で豚の世話をして、食べ物得たいと考えた時、初めて父の存在を思い出すのです。そして決意いたします。「父の元に帰ろう。そして血筋の者ではなく、働き人として父に仕えよう」その足は、以前のような足取りではなかったはずです。自分の立場は財産を浪費し、僕として働こうとしている訳ですから、身分が明らかに降格するという思いがあれば、足取りも重かったはずです。もしくは赦してもらえるだろうかという思いがあれば、父の元に帰ろうとは微塵も考えなかったかもしれません。ですが、帰る決心をするのです。なぜならば、父しか頼ることが出来なかったのです。この思いこそが父の憐れみ深さの賜物です。そこに気づくことが出来たのです。一方で父の方も弟が出ていってからも心配だったのでしょうか?遠く離れた所に弟を見つけると、走り寄り、抱きしめ、キスをした後、善い服を着せ、最上級のもてなしをしました。しかしもう一人の兄の方はどうだったでしょうか?その騒ぎに苛立ちを覚えます。不公平を感じます。そして自分が一生懸命やってきたことも虚しさを覚えたかもしれません。
そこで「この通り、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰ってくると、肥えた子牛を屠っておやりになる」この言葉に父親は、「子よ、お前はいつも私と一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなったのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」皆さんはこの言葉を聞いて何か腑に落ちないかもしれません。ですが、この兄が同じようにした時、父はもっと心配するでしょうし、もっと盛大に祝うかもしれません。その憐れみに触れるまで、兄の不平不満は尽きないでしょう。それでも父の憐れみは変わらないのです。わたしたちもなかなか神様の憐れみに気づくことが出来ないかもしれません。神様の憐れみは近くにいる時は、苦しくつらいものなのかもしれません。しかし遠くに離れた時私たちはその憐れみ深さに驚嘆するかもしれません。わたしたちがそのことに気づかされた時、わたしたちは神様の元に帰ろうと決心することが出来るのです。
お祈りします。 ご在天の主なる神様、感謝いたします。本日はローマの信徒への手紙から共に学ぶことが出来ました。わたしたちはいつの間にか裁く側に立っていることを懺悔いたします。わたしたちはあなたの憐れみによって、そのことに気づかされました。どうぞ、私たちも裁くことあなたに委ね、あなたの裁きを持つことが出来ますように導いてください。そしてあなたの憐れみをもって、人々を愛することが出来ますように導いてください。このお祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
2024年11月17日益子教会 メッセージ 大下陽子 伝道師
聖書箇所 エレミヤ書 29章10-14節 タイトル 「将来と希望を与える神の計画」
エレミヤ書とは、古代ユダ王国の最後の時期に、約40年活躍した預言者エレミヤが口述したものをバルクという書記により書物(巻物)に記させた書物です。エレミヤは北のイスラエル王国がアッシリア帝国に滅ぼされる前から、イスラエル・ユダの民が偶像崇拝をやめ、神へ立ち帰らなければ裁きが下り国が亡びるという神様からの警告の預言をしました。しかし人々は耳をかさず、かえって自分たちの王国はダビデ王朝が永遠に続くという神の約束に基づき、エルサレム神殿は神が守られるという確信を持っていました。そのためエレミヤは偽預言者・反逆者として王、高官、民たちから迫害を受け、牢に何度も入れられ殺されそうになりましたが、神様が彼を守られました。エレミヤは涙の預言者と呼ばれ、続く哀歌の作者でもあります。
本日の箇所は、エレミヤからバビロンの地で捕囚となっているユダの共同体の人々宛ての手紙です。神様が選んだ民ユダ国はバビロニア帝国に包囲され、BC597年に第一回捕囚(3023人)が行われました。その捕囚の地で偽預言者が人々に、「バビロニアの勢力が衰えて、すぐにも捕囚民が故国に帰還できる」と予告しているという消息がエレミヤのところに届き、それに対するエレミヤの捕囚の民への手紙です。当時、ユダ王国でバビロニア帝国により、ゼデキヤ王が傀儡政権として立てられていました。このゼデキヤ王や高官とバビロンの捕囚の民の間に書簡が取り交わされ、それをバビロニア帝国が容認していたようです。
エレミヤは偽預言者が言うように、すぐに捕囚は終わらないこと、つまり本当の神様の言葉を捕囚の民に伝えました。10節「主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。」70年間の忍耐の時となるので、捕囚の地で普通の生活をし、悔い改め、捕囚生活が長く続いても神による解放を待つようにと手紙に書きました。ユダの民の絶望と苦悩のただ中にあって、預言者エレミヤは神の将来と希望を与える平和の計画を(11節)、つまり、70年後の祖国帰還の恵みの約束として人々に伝えます。
また、12-14節「そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。 わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、 わたしに出会うであろう、と主は言われ」ました。心を尽くして神を求める者は神を見出すと、悔い改めて神を求める道を人々に指し示します。バビロニアで捕囚となったユダの人々は、以前のように神殿で礼拝ができませんでしたが、彼らは捕囚の身であっても比較的自由に普通に生活が継続できたので、安息日に集まって共に礼拝をすることを始めたのです。安息日に集まることで、彼らがどこにいても、捕囚の地であっても神が共にいて下さるという信仰が強められ、後に会堂という場所に集まるようになって、現代の世界中で散らされて住んでいるユダヤ人の生活に今でも引き継がれています。
そしてこの捕囚の時期に、今の旧約聖書の編集がなされていったと言われます。彼らは祖先から伝えらえてきた伝承や記録から、なぜ今自分たちがこのような苦しい目に遭っているのか、過去を振り返る時となりました。すると、神様がモーセを通してイスラエルの民に与えた律法をイスラエルの民が守ることで祝福があり、守らなければ呪いとなるという神との契約が記されていることを知りました。彼らにふりかかった禍いは、イスラエルの民が偶像崇拝を行い、神との契約を破った結果であることをようやく自覚したのです。
こうして彼らは、エレミヤを通して告げられた神様の言葉や、同時期に捕囚の地で活躍した預言者エゼキエルの預言を聞き、神様を求め、悔い改めたのでしょう。ユダの人たちは、このバビロニア捕囚以降、律法を守り、偶像崇拝は一切しなくなりました。しかし、彼らはまだ古い契約の下にとどまっていたので、律法を守ることで自分の救いを達成する律法を守るという教義に発展し、たくさんの生活上の規則をこの時期以降作り上げていき、律法主義が形成されていきました。表面上律法を守っているから自分は正しいと自負し、心は神様から離れ、そして他人を裁き、律法を守ることを他人に強制しました。イエス様は、このような律法主義に対してファリサイ派や律法学者と対決されたのです。どんなにうわべだけ律法を守っていても、心が神様に真剣に向いていなければ、結局神様から離れていきます。キリスト教であってもその後、その歴史において、何度人間は、形だけの礼拝・宗教に陥り、それに対して神様から示された人々が宗教改革や、原点回帰を求めて霊的覚醒運動が起こってきたことでしょうか。
現代に生きる私たちは心を尽くして神様を求めているでしょうか?イエス様は、マタイによる福音書7:7-8で「求めなさい・・・ 誰でも求める者は与えられ、探すものはみつかり、門をたたく者は明けられる。」と言われています。誰でもと言われているので、イスラエルの民だけでなくどの人種でも民族でも、心を尽くして神様を求めれば神様は答えて下さる方であるから、求めなさいとイエス様は私たちにも言って下さっています。私たちは、心を尽く、想いを尽くし、力を尽くして主なる神様を愛し、そして、神様を見出す、つまり日々神様と新たな出会いが、御言葉を通して与えられます。そのために、常に聖霊の助けを頂いて、神様に祈り続け、悔い改めるべきことが示されたら素直に悔い改め、赦しを受け取り、また仕切り直して神様の導きを求めていきましょう。
では、このエレミヤを通して示された神様の平和の計画、将来と希望を与える計画とは、ユダの民のためだけの計画なのでしょうか?この預言の言葉は、さらにもっと大きな、民族を超えた計画の一部分であることが、この後のエレミヤ書の31章31-34節の預言を通して私たちに理解を与えます。それは神様が新しい契約を全ての人に与えるという計画です。新しい契約があるということは、古い契約が存在するということで、それは神様とイスラエルとのシナイ契約です。それは、神様がモーセを通して民に与えた律法(十戒とその他の神の戒め)をイスラエルの民が守ることで祝福があり、守らなければ呪いとなるという内容で、民が守らなければこの契約は破棄となります。しかし、神は守れない民を見捨てず、憐れみの慈愛を持って、ユダの人々をエルサレムに帰還させ、神殿や町の城壁を再建することができるように、導かれました。ユダヤ人はその後、何度も困難な歴史が続き、現在イスラエル国はあっても、周辺国との戦争が続き、全世界に散らされている離散のユダの民はまだ一つに集められていません。神が遣わされた救い主、イエス・キリストを彼らがメシアとして信じていません。しかし神は彼らを神の民として選ばれたゆえに見捨てず、いつかメシアを信じて救われる時がくることが預言されています。
新しい契約は十戒のように石の板に書かれた文字でなく、イスラエルの人々の心に深く記され、強制でなく、自由意志の選択によって神に従えるように、神様の側がしてくださるのです。この新しい契約はイエス・キリストの十字架の御業によってなしとげられました。イエス様は十字架にかかる前に、弟子たちと最後の食事の時に、「これは罪が赦されるように、多くのひとのために流される私の血、契約の血である」(マタイ26:28)「この杯は、あなたがたのために流される、私の血による新しい契約である」(ルカ22:20)と言われました。神様が私たちの心に、神様の律法を書きつけ、わたしたち個々人がこの神様の愛と赦しの契約に、自発的に応答するかが問われます。古い契約のように民族や血筋で自動的に契約が成立するのではなく、イエス・キリストの贖いを信じる信仰によって、信じるすべての人が新しい契約に入ることができます。これが新約聖書の、新しい契約の意義です。
へブライ人への手紙9:15ではキリストは新しい契約の仲介者であると記しています。
「こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです。それは、最初の契約の下で犯された罪の贖いとして、キリストが死んでくださったので、召された者たちが、すでに約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません。」
私たちは、イエス様の十字架の救いの御業を信じることで、エレミヤが預言していたこの新しい契約、 神様の愛と赦しの契約を神様と結ぶことができるのです。その新しい契約では、わたしたちが良い行いをすること、律法を守ることが要件はなく、一方的に神様の恵みとして与えられます。またさらに神の子供として永遠の財産を受け継がせてくださるとの約束が与えられています。
神様の御心、ご計画はヨハネによる福音書6章39-40節にこう記されています。
「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。 40わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」
わたしたちはこの地上の生活において、与えられた聖霊の助けによって、神様に心を尽くして、神様の御心を祈り求めることができます。この神様の恵みに感謝しつつ、神様の最終的に将来実現される、神様の御心、平和の計画、将来と希望を与える計画を信じ、委ねて歩んで行きましょう。
2024年11月10日益子教会 メッセージ 大下陽子伝道師
聖書箇所 ローマの信徒への手紙8章26-30節 タイトル 「万事が益となるように共に働く」
本日は、ローマの信徒への手紙8章より「万事が益となるように共に働く」と題してメッセージをさせていただきます。このタイトルだけをみますと、すべてのことが自分の益になってくれれば、なんと都合のよい、虫のいい話ではと思うかもしれません。万事とは全てのことですから、私たちは日々生活している中で、世の中の不条理なこと、戦争、犯罪の横行、災害、自分自身や家族の病、家族を失うこと、これらは辛いこと、恐ろしいことであり、起こってほしくないと願い、これらのよくないことも共に働いたとしても益になるとは考えにくいと思います。この聖書の言葉は、信仰を通して理解できることであることを分かち合わせていただきます。
多くの人々は自分の思う通りになるように、様々な神々に祈願します。しかし信頼する・拠り所にする神として真剣に信じられるのでしょうか。ある人は結局自分しか信じられるものはいないと。しかし、どんなに優秀な強い人でも、自分はそんなに強く、万能ではないことを薄々気が付いているでしょう。また神を信じていても「神がいるなら、なぜこんなことが起こるのを許すのか?」といわれる方がおられます。責める相手がいないので、神にその怒りを、悲しみをぶつけたくなるかもしれません。もちろん、聖書の神様はその思いも受け止めて下さる、やさしい方であります。しかしまず認識しなければならないのは犯罪、戦争、環境破壊を起因とする自然災害は神様が起こしたのではなく、人間の自己中心的な利益追求の結果で人間の責任です。それ以外のことで「なぜこのことが起こるのか?」という疑問に対して、私たちは「わからない」としか答えられません。
一つだけわかることは、聖書で記される神様は悪の横行や、人間の病や死を望まれていないこと、愛と平和の神であり、そのような世界を計画されていることは確かであります。
星野富弘さんというクリスチャンの方がおられますが、彼は中学校の体育の教師として赴任したばかりで、事故で頸椎損傷し、首から下はまったく四肢が全く動けなくなり、寝たきりとなりました。絶望の内にいる彼のところへクリスチャンの友人が聖書と、クリスチャン作家の三浦綾子さんの小説「塩狩峠」を持ってきたそうです。その小説を読んでから聖書も読む気になり、そして神様を信じ人生が変わったそうです。彼が口に筆をはさんで絵を書き、詩を詠み、多くの作品を作りました。この4月に78歳で天に召されたそうですが、彼の作品により、どれ程多くの人が励まされ、慰めをうけたことか彼には知る由もありませんが、他者の益となるように神様が彼を用いたことがわかります。私たちの人生は、他の人にとって何の益にもならないだろうと思う方もいるかもしれません。しかし、それは自分だけの狭い視野でみているからで、神様の大きな視野では、本人がわからないところで、神様のご計画の中で総合的に共に働かせてくださっています。また、神様が一人一人にこの世での役割、計画を持っておられるので、人と比較することは意味がないことであります。
タペストリー(絨毯のような、色付きの糸が折り合わされている絵画)をご存じでしょうか。壁に飾ってありますと、見事な美しい絵として見えます。しかし、裏側はどうでしょうか。縫い糸が複雑に絡み合い、とても美しい絵とは見えません。今わたしたちの周りに起こっている出来事は、タペストリーの一部分、それも裏の部分しか見えなくて、完成に向けての過程にいる状態と例えられます。神様はこの人類と世界を創造された時に、完成の絵柄、つまり計画を持っておられます。その計画の過程で人間がその長い歴史の間に、自分たちの意思で様々なことがおこし、自分たちの意思で複雑にしたり、状況を絶望的にしたりしても、神様は最終的にいつか完成される絵柄を知っておられる、つまりタぺストリーの表面と裏面、両側の完成品を見ることが出来る方なのです。
キリスト教でいう、福音(ゴスペル)とは善い知らせの意味です。聖書には、御子イエス・キリストの命を犠牲にするほど、私たち人間一人一人を大切に思っている唯一の、本当の神様のことが記されています。その神様は、人間を愛するために造り、自然も造りましたが、人間が神様から離れて、神を信じず自分中心の生き方を始めました。それを聖書では罪といいます。神様は、その人間の罪を赦し、神様と人間が一緒に、自然と調和して、平和に永遠に暮らせるようにするために、救いの計画を立てられました。それがイエス・キリストが人となって、この世にこられ、十字架で私たちの罪が赦されるために、代わりに罰せられ死なれることです。イエス様は3日後に死からよみがえられ、弟子たちと会い、神の救いの計画を全世界の人々に伝えるようにと命じられて、天に戻られたのです。これがゴスペル、キリストの福音で、神様は全ての人にこの福音が知らされ、それを信じてほしいと願われています。星野さんは、病床にあって、このキリストの福音を聴き、信じたので人生が変えられたのです。この福音は神様の恵みであり、全ての人へ与えられています。その恵を受け取るには、自分を創られた本当の神様を信じず、自分の好みの神々に祈願して神様から離れ、自己中心的に生きてきたことに気づき、「ごめんなさい、神様を信じます、キリストを私の救い主として信じます。」と、キリストを信じることを決めて口に出して言うことで、救われると聖書に示されています。この信仰を持って歩む者は辛い状況にあっても、神様にあって全てが共に働いて益となるという生きる希望が与えられます。キリストを信じる者は、神様をその大きな愛と憐み、恵みに感謝し、何もできなくとも神様を愛そうと、つまり神様の計画に従おうと決めて、新しいあゆみを始めます。そのような人が、28節の「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たち」であり、それらの人びとの為には「万事が益となるように共に働くということ」の聖書の言葉を信じ、またその通りになったことの自分自身の体験より「知る」ことができるのです。
信仰とは希望をもつことでもあります。ヘブライ人への手紙11章1節「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」とあるように、望んでいる事柄を確信するとは、神様の最終的な計画の達成に向かってすべてのことを共に働いて益となるという、希望を確信することです。また見えない事実とは、希望は目には見えないけれども、キリストにある希望を聖書に記される御言葉で、それが事実であることを確認すること、これが信仰です。
この信仰を保ち続けるために、必要な助けがあることが8章26節以下に記されています。つまり祈ることです。ではどのように神様に祈ったらよいのでしょうか。イエス様は、「私の名で、天の父なる神に祈りなさい」と言われましたので、形式はなんでもよいですが、「主イエスキリストの名で祈ります、アーメン」と私たちは祈りの中で言います。祈りは自分の言葉で、子どもが自分の親に信頼してお願いするように、自由に自分の必要、他の人のためにも祈ってよいのです。神様は天のお父さんのような、親しく呼べる方だからです。今はイエス様は天において、私たちの祈りを、神様にとりなしてくださっていると記されています。ですから、イエス様の名で祈るのです。
困難な状況があまりにも続くと、祈ることもできないほど落ち込んでしまう時があります。そんな時、内に住む聖霊が私たちの代わりに、神様の御心にそって神様へ祈って下さると、27節は記します。この聖霊は、キリストを信じると私たちの心の深いところに与えられ、同じ神の霊である聖霊は、私たちの心にすみ、私たちの代わりに、神さまに祈ってくれる方です。私たちの側にたって、私たちの思いを代弁して、うめいて、天の父なる神様にとりなしてくれます。。だから、「私は祈っていないから、神様は私のことを気にかけていない、ほおっておいているに違いない」と思う必要はないのです。聖霊が、私たちが意識していないところで、私の心の内を神様に祈り、とりなしてくれているというのは、なんという励ましでしょうか。
私たちは、本日の聖書の約束、万事を共に働かせて益となるようにして下さる神様に全てを委ね、将来の救いの完成の希望ヨハネの手紙1 3章2節(「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。」とあるように、将来体が贖われる、つまりキリストが復活したように、私たちにもいつか新しい体が与えられること)を持ちつつ、聖霊の助けを得て、互いに励ましあい、祈り合い今週も歩んで参りましょう。
2024年11月3日 益子教会主日礼拝説教要旨 大下正人 牧師
聖書 Ⅱコリントの信徒への手紙 4:16~18
メッセージ「永遠に存続する」
本日は、11月の第1主日です。日本基督教団では召天者のことを覚えて、記念礼拝をしています。益子教会でも、諸先輩たちの信仰を鑑みて、わたしたちの信仰を新たな思いに駆られていきたいと思います。皆さんにとって、自分の指針となったのは誰ですか?誰を思い描くでしょうか?先祖であるおじいさんおばあさん、お父さん、お母さん、兄弟、友人様々な人を思い描くかもしれません。しかし、キリストを信じる者にとっては、歴史的偉人よりも、諸先輩方の信仰から学ぶべきことが多いような気が致します。
その時、その場所で様々なものに出会い、神様を信じるようになった。その思いがなければ今のわたしたちがキリストに出会えなかったかもしれません。そのように考えますと、わたしたちは諸先輩方の様々な信仰に至るまでの葛藤を知れば知るほど、キリストへの関心を膨らますことが出来ます。
さて、本日の所は召天者記念礼拝などでよく読まれる聖書個所であります。わたしたちにとって生きるとは何でありましょうか?わたしたちにとって死とは何でしょうか?そのことを考えていきたいと思いますが、皆さんは、人をどのように判断するでしょうか?多くの方は一番初めに見た印象でその人を判断してしまいます。もちろん話をしていくうちに印象も変わっていくでしょうが、結構見た目で判断しがちであります。しかしその見た目が立派であっても話していくうちにその人となりが明らかにされれば、最初のイメージが払しょくされてしまうかもしれません。逆に、派手な服装や悪いイメージであっても、中身は質素で心優しいかもしれません。内面的、外的なイメージが一致している場合は納得できるかもしれませんが、そのことを考えた時に、見た目で判断することはあまりよくないかもしれません。わたしたちはいろいろな方に良く思われたい、好印象を与えたいと考え、お化粧をします。見栄えのするものや不快を与えない努力を致します。しかし実際にどうでしょうか?どんなに着飾っても、お化粧をしていてもすれ違う人をそこまで明白に覚えていません。余程印象的なものでない限り、忘れてしまうのであります。つまり本日のⅡコリントの信徒への手紙4章16節から書かれています御言葉によれば、「外なる人」は衰えていくとしても「内なる人」は日々新たにされていきます。わたしたちも親しくなければ、相手のことも思い出せない場合もありますし、忘れてしまう可能性もあります。人間は、時間を加えますと、肌がたるみ、顔はシミやしわが増え、体系はおなかが出て、頭皮は薄くなってきますと、そうしますと、どんなに仲が良くても、誰だかわからなくなってしまいます。ですが、その当時の出来事で覚えている人もいますし、やさしくされたなど好印象で覚えている場合もあります。しかしその好印象もあやふやで、実は違っていたという事もしばしばです。しかしそのように姿形は変化してしまいますが、人間は人生を加えることによって成熟していきます。色々な人と関わりを持ち、様々なことを経験し、時には壁にぶつかり、時には社会の生きづらさを感じたかもしれません。しかしその人生によって、今も新たな歩みを続けているのです。創世記に書かれてありますようにわたしたちは神様の息を鼻から吹き入れられることによって生きる者となったと書かれています。塵芥の人形から生けるものとなったことは、神様しかできない業であります。その神様がイエス様をお与えになったのです。わたしたちも実際にイエス様に触れたことはありませんし、話したこともありません。ではなぜ神様を、霊を、そしてイエス様を信じることが出来たのでしょうか?それは聖書に書かれているイエス様の記事が正しいと思えたからではないでしょうか?そのことによってわたしたちが神様の愛を感じたからではないでしょうか?わたしたちは今を生きる上で喜びも悲しみも経験します。しかしそのどれも神様が与えてくださったと感じることが出来るのは幸いです。なぜならば、わたしたちがその問題に直面すれば、関係が深いほど、心が張り裂けそうになるのです。しかし神様の存在を知っていればわたしたちはそのことを乗り越えていく力も神様が与えてくださることを確信しています。諸先輩たちも神様の存在を信じたからこそ、困難な時代を乗り越えることが出来たのではないでしょうか?この不穏な時代だからこそ、わたしたちは神様のことを多くの方に伝えていかなければならないのです。若い世代の人たち、社会的抑圧を受けている人たち、政治家や会社の社長やリーダーたちに神様のことを伝えていかなければならないと思うのです。どうぞ世界の人々が本当の神を知ることが出来ますように、覚えて祈っていこうではありませんか?
お祈りいたします。ご在天の主なる神様、本日は召天者記念礼拝としてⅡコリントの信徒への手紙から学ぶことが出来ました。わたしたちの外なる部分はすたれてもわたしたちのうちなる者は日々新たにしてくださっていることを感謝いたします。今、本当に生活が苦しく罪を犯してしまう人が多くおります。どうぞその様な安易な考えを変えることのできる新しい力を与えてください。また、世界の人々が神様の存在を受け入れ、愛のある生活にシフトチェンジすることが出来ますように導いてください。このお祈りを主イエス・キリストの御名によっておささげいたします。アーメン
2024年10月27日 益子教会主日礼拝説教要旨 大下正人 牧師
聖書 Ⅰコリントの信徒への手紙 12:4~7
メッセージ「すべてをなさるのは」
神様は、わたしたちにすべてのものを与えて下さっています。それはどんなものであれ、すべてのものを与えると同時に働かれているのです。つまり霊というものによって賜物が与えられているのです。しかし当時のコリントの人々は非常に賜物を重要視していたようです。こんなことができる、あんなことができるといった感じだったのかもしれません。しかしその賜物を与えているのは同じ霊なのです。ですからそれぞれにあった霊の賜物を霊が与えるわけでありますからどんな賜物であろうが優越をつける必要は全くないのです。
次に出てきたのは、務めであります。この務めとは、主に従う力であります。その務めを用いるためには主は誰かと考えなければなりません。あなたにとって主とは何ですか?誰ですかと聞かれましたら、皆さんならどう答えるでしょうか?ある人は会社、あるいは家族、またある人は御言葉であり、賛美であり、祈りです。とそれぞれ答えを持っているかもしれません。しかし務めを与えるのは主ですと書かれています。この事を考えた時にやはりわたしたちを支え、導き救ってくださるのはイエス様しか考えられないわけです。その理由は、経済学者マルクスは経済が社会の構造を変えると言いました。確かに世界は変わりました。しかし良くなったでしょうか?その経済が世界を席巻した時にどうなったでしょうか?その経済を豊かにするため奪い合い、自分たちの力を誇示しようとし、犯罪が増えたのも事実であります。その犯罪を減らすためには、やはり人間にはお金よりも愛が大事ということに人間は戻らないといけないかもしれません。ではわたしたちが主に従うということを考えた時、どんな務めをすれば神様は喜ばれるでしょうか?お茶を出したりし、おいしいものを作ってもてなすことも大事だと思います。しかし一番大事なのは神さまの言葉を聞くということが最も喜ばれる神様への務めなのです。マルタ、マリアはイエス様が家に来られた時、マルタはイエス様をもてなすことに力を注いでおりました。しかし妹マリアは姉を手伝わずにイエス様の足もとでイエス様の話を聞いておりました。その態度に姉がイエス様に注意するように促しますが、いえすさまは「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」こう答えられたのです。だからこそ私たちは御言葉に耳を傾けることが最もすべき務めなのです。
そして最後に出てくるのが働きです。働きとは、神様が与えたものであるとパウロが語っています。働きとは、霊によって与えられた賜物と、主に従う務めを用いて、神様のためにこの世の働きをすることを指します。このコリントの信徒の手紙を書かれたパウロも初めはイエス様を主と思えませんでした。噂だけを聞いていると神様を侮辱するとんでもない奴だと決めつけ、イエス様を信じる者を片っ端から捕まえ、抵抗するならば暴力も辞さない強い思いを持った者でありました。しかしイエス様に出会って変わったのです。直接は会いませんでしたがダマスコ途上で突然目が見えなくなり、その暗闇の中でイエス様が声をかけられ、イエス様を信じるようになったのです。そこで本来の目が開け、神様の働きをなす者へと生まれ変わったのです。そこでパウロの神様の価値観が大きく変わったのです。なぜパウロが世界各地を回って神様の福音を宣べ伝えることができたかそれは、神様が与える霊と律法に現わされた神とイエスという従うべき存在であって、神様を理解したからではないかと思います。つまりどんな知恵よりも、どんな物よりも、どんな地位よりも神様を信じることができたのではないでしょうか?だからわたしたちは、神様を信じたい信じ抜きたい。もっと信頼し信じたい、そしてもっと力強く証していきたいと考えるのです。その業一つ一つに霊が与えられているのです。なぜならばその一つ一つの霊はわたしたちに大きな益を生み出すのです。
お祈りいたします。
御在天の主なる神様、本日はコリントの信徒への手紙から共に学ぶことができました。わたしたちに霊を、主をそして神様を与えて下さり感謝します。もっと信じ、もっと愛し、もっと多くの方に神様のことを広めていきたいと思います。もっと私たち語る力と勇気を与えて下さい。このお祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン
2024年10月12日、13日 益子教会 礼拝メッセージ 大下陽子 伝道師
聖書箇所 ペトロの手紙Ⅰ 4章7-11節
タイトル 「賜物を生かし互いに仕える」
本日は、ペトロの手紙Ⅰ 4章7-11節 「賜物を生かし互いに仕える」と題してメッセージをさせていただきます。このペトロの手紙Ⅰは 現在のトルコの地域の異邦人(ユダヤ人以外の人々)キリスト者の諸教会にあてて、弟子のペトロがシルワノという人を通して記した手紙とされます。この時代はすでに、キリスト教徒への激しい迫害が起こっており、このような苦難にあってもキリストの模範に従い、相手に憎しみを抱かず、報復を慎み、善を行い、キリストにある希望に固くたつように(2:13-19)と手紙の前半に記されています。内容的に、これから洗礼を受ける信徒にむけての説教として語られた内容ではないかとされます。
7節「万物の終わりが迫っています」にあるように、世の終わりが近いことを思って、信徒同志の交わりを深めるようにとの勧めが記されています。終わりの時とは、神様の救いが完成するとき、つまり将来のことですが、同時に主イエスの十字架と復活の出来事により終わりの時は「すでに来ている」という意味も含みます。そしてその救いの完成は黙示録22:20にイエス・キリストが「然り、わたしはすぐに来る。」と言われているように、再びキリストが来られる再臨の時です。イエス様が復活されてから2000年以上の間、教会はこの暗い世の中にあって、上からの光を証しする群れとして立てられています。教会は先ほど述べました終わりの日が何かということを知らされていますし、たとえそれがいつ来るかは知らされなくとも、キリストの再臨の時が終わりの日だとしっているのは幸いです。なぜなら私たちは、キリストの十字架と復活のおかげで、キリストが再び来られた時裁かれることはなく、死から命へすでに移されています。もし、キリストを信じていなければ、希望もなく、ただ終わりの日がくるという、しかも自分がどうなるかわからない、裁かれるという恐れだけになるからです。
これからも戦争や、災害、飢饉などが激しくなってくると、マスコミがその不安をあおり、人々は、キリスト者が騒がないで、平安でいられるのを見て、どうして平気でいられるのか?と尋ねられる時、その希望は何かを説明できるように備えておきましょうと、ペトロの手紙Ⅰ 3章15節にも示されています。それが、キリストの福音の証しとなり、その尋ねた人は救いに導かれるかもしれません。
7節後半「よく祈りなさい」、8節「心を込めて愛し合いなさい」と続きます。「心をこめて」とは、気分に左右されない愛で、根気強く、忍耐して相手に接することです。キリストの愛は、人間の状況や感情によって左右されるものではなく、神様から注がれる愛であり、その「愛は多くの罪を覆うからです」とあります。 箴言10:12 「憎しみはいさかいをおこす 愛はすべての罪を覆う」 とあります。相手が何か自分に対してひどいことをしたとき、それを攻撃しかえすのではなく、可能な限り対話により相手の現状を知り、相手の魂のために祈り、神様にお任せすることができます。すると相手に罪が示されれば、神様によって悔い改めに導かれ、神様の赦しを受け取り、救いに導かれます。そのことが起こるよう、相手の祝福を祈り、悪に対して悪で返すことをしないように、上からの力を求めたいと思います。
9節 「不平を言わずにもてなし合いなさい。 」お互い欠けの有る者同士、考え方も異なり、育ってきた環境もことなりますので、仲良し同志がみな教会のメンバーとは限りません。それでも、お互いがキリストにあって神の家族であり、神様に赦された者として互いに赦し合い、寛容な心をもって不平を言わないようにと、かえって互いにもてなしあおうと実践的な薦めです。
そして今回のタイトルにあります、賜物については10節「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。 」についてですが、神様は私たち一人一人に賜物を与えてくださっています。賜物とは何か才能があること、得意なことがあって、それを教会の奉仕としてするという以上の霊的な賜物を示しています。コリントの信徒への手紙1 12:1-11節、28節をお読みします。
賜物はお互いに仕え合うために与えられる様々な恵みであり、一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の、教会の益となるためです。各自がその受けた恵みの賜物を教会の中で働かせるために与えられています。それは、キリストが十字架で命を犠牲にしてまで私たちを愛してくださったことへの感謝の応答であり、奉仕として「しなくてはならない」というような義務感で用いるものではありません。
ペトロの手紙Ⅰ 4章に戻りますと、11節「語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。」とありますが、この語る者とは、説教者、牧師です。説教者は、神様の御言葉を皆さんへ取り次ぐために、その与えられた賜物を用いて、神の言葉を語るにふさわしく語らなければなりません。私たち説教者は、神様から与えられるメッセージを受け取り、それを取り次ぎ、皆さんが受け取るという、つまり管のような役目の賜物として与えられています。ですから、聞く皆さんは、礼拝ごとに語られる神の言葉を毎週受け取り、その神様の御言葉が教会という小さな群れを造り変え、一人一人の信仰が新たにされることで、神様への愛の応答は持続されます。祈り・礼拝に参加し、賜物を用いて互いに仕えることは相互に、必要不可欠です。
5-6節「務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。 働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。 」 教会での奉仕の務めにはいろいろあります、働きにもいろいろありますが、それらは全て、神がお与えになったのは神様です。賜物とは何か目に見える奉仕だけで用いられるのではなく、目に見えない奉仕、たとえば祈りで支えることや、一言、聖書の言葉から励ましや慰めの言葉を相手にかけること、相手の話を聞くこと、これらも大切な賜物であります。
ですから、それぞれの力、賜物に応じて、自発的に、神様への感謝の応答として奉仕できれば、健全な霊的状態といえます。もし、したくないのに、牧師から頼まれたから している、奉仕が重荷だ、礼拝に参加するのに喜びがないという状態であれば、立ち止まり、自分の心を探られたほうがよいでしょう:神様に、感謝しているか、救われていることを喜んでいるか、神様に信頼して祈っているか。これらの一つでもひっかかるのであれば、もしかすると、日常生活の様々な思い煩い、悩みを自分で抱え込んでいたり、誰かを赦せないという思いがあって、神様のこれらの恵みに目を留めることを忘れ、心が暗く、苦い思いが生じてしまっているかもしれません。そしてそれが他者との人間関係の問題へと発展していくものです。そのことに気づきがあたえられたら、まずご自分と神様の間の関係で、信頼と愛と、平安が与えられていることを御言葉をよむことで示され、信仰を再確認し、神様の力で信仰を強めて頂くことをお勧めします。
教会の宣教は牧師だけがするのではなく、教会のメンバー一人一人が神様に愛され、その愛への応答として互いに仕えることで成り立ちます。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです(11節)とあります。教会はキリストの体で、私たち一人一人はその部分、器官だとパウロが例えているように、教会が喜びに満たされることを、ご自分の喜びとして、イエス様も神様も共有されます。だから、すべての素晴らしいこと、ほめるべきことは、人間ではなく、神様がすばらしいと、感謝して礼拝をささげられる、そのことで神様に栄光を返せるからです。
最後にコリントの信徒への手紙1 12章12-27節 をお読みします。
26-27節「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」とあるように、私たちは、キリストの体という、一つの体で互いが必要です。一人では信仰を持続できないし、互いに祈り合い、支え合い、何よりもまず、心を込めて互いのことを考え、配慮し、苦しみを共有し、喜びも分かち合い、みなで主とともに歩んでいきたいと願います。
引用: 新共同訳聖書
2024年10月6日 益子教会主日礼拝説教要旨 大下正人 牧師
聖書 ローマの信徒への手紙 3:27~31
メッセージ「信仰の法則によって」
わたしたちは、様々な体験をし、様々なことを学び、その経験や学びを人生に活かしていると思います。ある程度こうすればこうなるといった法則を見出すかもしれません。しかし世の中には法則では表せない事柄も数多くあることもわたしたちは知らなければなりません。その法則に当てはまらないものは何か。それは、神様という存在です。神様という存在は、こうしたら現れるというものではありませんし、ここまで行けば与えられるといった類のものではありません。かといって見えるものでもなく、においを感じるものでも、聞こえるものでも、手で触れられるものでもありません。たまに見えたり、嗅ぐことが出来たり、聞こえたり、手で触れることができるかもしれませんが、大概の人はそうでないかもしれません。そう考えた時に、神様という存在は実在しないのでは?と疑問を感じる方もいらっしゃるかもしれません。わたしはそうは思えません。確実に神様はいらっしゃることを確信しております。なぜならば、神様は「ある」という存在であるからです。モーセが燃える柴で神様と対話する場面があります。その時にモーセがエジプトの王が神様を疑い、あなたの神の名はと聞かれた時「わたしはある(存在する)」という事を教えてくださったのです。つまり姿形は見えなくとも杖を蛇に変え、その杖を川に海につけると血に代わり、海が裂けたのです。その様に神様の存在を示してくださるのです。しかしそれでも信じない者には災いをもたらし、その災いによって神様の存在を知らしめるのです。
新約聖書の時代には、神様は預言の通り、救い主をお与えになりました。イエス様は、まさしくインマヌエル(神は我々と共におられるという意味)であって、弟子たちと共に歩み、民に神様の福音をのべ伝え、病を治されたのです。そして神様の言葉通り、十字架に架けられ、わたしたちと神様をつなぐ架け橋になられたのです。だからこそわたしたちは今も神様と共に歩むことが出来るのです。
神様との出会いに定義はありません。しかし神様に出会うと劇的にわたしたちの人生は変わっていくのです。見えなかったものが見えるようになり、視界だけでなく、視野が広がってくるのかもしれません。また、耳で聞こえなかったものが心で聞こえるようになるかもしれません。鼻でにおいが感じられなくとも脳が反応するかもしれません。その様に神様は、機能が失われたものについてもほかの方法を用いて、自身を現してくださるのです。そのことを考えた時、その方法は?その法則は?と答えを求められた時、イエス様もパウロもほかの者も声をそろえて言う事でしょう「神を信じなさい」神様を信じることだけで道は既に開かれているのです。わたしたちは、ただ信じるだけでいいのです。何かしなければならないなどの制約は必要ありません。何か献げなければという事でもありません。神様はただただ待っておられるのです。わたしたち自身が扉を開き、神様を招き入れることを今もなおドアの前で待っておられるのです。
お祈りいたします。ご在天の主なる神様、感謝いたします。わたしたちはこうすればと何か理由を考え、難しく事柄を考えてしまう愚かな者であることを懺悔いたします。しかしこうしてあなたに立ち帰ることが出来ました。わたしたちはただただあなたを信じます。あなたがいてくださることも、あなたが先にいて守っていてくださることも、後押ししてくださることも信じます。どうぞ終わりの時まで、あなたを信じ抜く力をお与えください。そして、あなたを知らない人たちにあなたのことを伝えていくものとさせてください。このお祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
2024年9月29日 益子教会 メッセージ 大下陽子 伝道師
聖書箇所 エフェソの信徒への手紙3章14-21節 タイトル 「内に住まわれるキリスト」
本日はエフェソの信徒への手紙3章より、「内に住まわれるキリスト」と題してメッセージをさせていただきます。
今日の箇所はパウロの神様への祈りの内容が記されています。まず16節の「力を持って私たちの内なる人を強めてください」についてですが、パウロは、「内なる人」を私たちの心と同じ意味でもちいています。箴言4章23節に「何を守るよりも、自分の心を守れ、そこには命の源がある。」と記されています。私たちの心はその人の人格の中心であり、意志・感情・知性の源、つまり命の源があるといえますので、心を守らなければならないのです。なぜなら心が壊れると生きていくのが困難になります。心は繊細ですので、様々なことでダメージを受け、立ち直るのに非常に時間がかかることがあります。ですから、聖書は「何よりも心を守れ」といっているのですが、ではどのように守れるのでしょうか?自分の精神力、意志で守り切れるでしょうか。どんなに心が強い人でも、限界があります。ですから、パウロは私たちの内なる人、心を聖霊により、神様の力をもって強めてくださいと祈っているのです。神様が強めて下さることで、私たちの心は守られるからです。どんな不安なことがあっても、苦しく、辛いことがあっても、神様が私たちの心を強めてくださるので、なんと心強いでしょうか。
次の17節「あなたがたの信仰によって、キリストがあなたがたの心の内に住んでくださいますように。」ですが、私たちの心の中に、キリストが住むとはどういうことでしょうか?イエス様を救い主として信じて信仰を告白し、洗礼を受けると、聖霊が心に与えられ、キリストが私たちの心の内に住んでくださいます。キリストが私たちの心に住んでいるかどうかは、目に見えないし、感じることができないかもしれませんが、「あなたがたの信仰によって」とあるように、信仰で受け取る事柄です。また、信仰生活を続けていく中で祈っていると状況や、自分の思いが変えられたりと、「私の内に住むキリストが働いてくださっている」と知ることができるでしょう。ですから イエス様がどのように私たちの心に住んでおられるかは、それぞれの信仰の成長によると思います。
実は私が若い時、洗礼を受けた後ですが、イエス様を心の片隅においやっていた状態がありました。イエス様は心に住んでおられるのだから、してしまった失敗、「してはいけないこと」「神様が悲しむこと」をしてしまった時に隠さずに「ごめんなさい」と言えたのに、イエス様になんでも相談し、助けてもらえたのに、私は自分自身で全て決めて、失敗して落ち込み、気晴らしをしてと自分の心を自分で引き上げることで懸命でした。そんな状態で教会へいっても、自分は良いクリスチャンではないから、教会が居心地が悪く感じました。そんな私を神様は見放しただろうと思い込んでいました。しかし、そうではないということが、ある時、聖書の御言葉によって示されたのです。いい子でなくとも、ありのままの私を受け止めてくれる神様の愛を、こんなダメなわたしのためにキリストは十字架にかかって下さり、その命をかけて、暗闇の中にいた私を光へ引き出してくださったことがはっきりと理解できたのです。
神様の恵みというものは、私のように、受けるにふさわしくなくとも、神様が一方的に与えて下さるプレゼントだと、それが恵みだと理解できた時は、もう自分で頑張らなくともいいのだと、イエス様が共にいていつでも助けて下さるのだと平安な心が与えられました。ようやく、私の心の内に住まわれるイエス様に委ねていく、イエス様からその愛を学んでいくという生き方に変えられていったことは本当に神様の憐みと恵みによるものでした。
イエス様は優しいかたなので、無理に心を支配しようとされないのです。黙示録3:20に「みよ、わたしは戸口に立って、たたいている。」箇所が表現された絵画があります。その絵では、そのドアは内側にドアノブがあって、戸の外にはついていない、つまり私たちからだけ開けるようになっています。イエス様は私たちの心の戸をノックされて「コン、コン 入ってよいかな?一緒に食事をしようよ」と言われています。イエス様は、私たちが自分から開けることを望んでおられます。 キリストが私の心の中に住まわれていることを真剣に考える時、自分の心の内をすべてキリストに明け渡しているかが具体的に問われます。皆さまは、イエス様にむかって「この分野は自分でできますから好きにさせてください」というような分野が心にありますか?仕事、勉強、子育て、日常生活のほぼ全般は、キリストに委ねなくとも、自分でできてしまう。もしくは、何かうしろめたくて、神様に怒られるのではいかと思って、隠しごとをしてしまう。たとえ、私がよいクリスチャンでなくとも、良い父親・母親でなくとも、いい子でなくとも、良い夫・妻でなくとも、聖書に書かれている良い業をおこなえなくとも、神様から背を向けてしまうことがあっても、私たちがどうであれ、私たちにたいする神様の愛は決してかわらないのです。
イエス様のことを救い主としてまだ受け入れていない方がおられれば、心の戸をたたいているイエス・キリストに応答されることをお勧めします。聖書のみ言葉を通して、キリストの愛が語りかけてくれます。また、信じた後の信仰生活においても、キリストの愛をイエス様から学び、信仰を成長させて頂くという希望があることで、励まされます。信じて洗礼を受けることはスタートであって、信仰の成長は生きている間、ずっと続きます。成長させて下さるのは神様であり、イエス様が共に歩んでくださいります。マタイによる福音書11章28-30節 に
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
まずはありのままの自分でイエス様のもとに行くこと。そして休みを得、それからイエス様と共に軛(くびき)を負って、イエス様から学ぶこと。東南アジアへいくと、水牛などにより畑をたがやしています。ベテランの牛と小牛とペアで首に軛という柵みたいなの首にかけて、2頭立てで畑をたがやかします。軛を共に負うとは、共に動き、学ぶことができるスタイルです。イエス様のような愛の心、憐れみの心、親切な心を学び、他者に仕えていくことを学ばせて頂く、そうすれば魂に安らぎを得られると。イエス様が軛をひっぱってくれるので、重くないのです。私たちの重荷は軽いのです。
私たちを愛して下さり、私の罪が赦されるために、イエス様が十字架でご自身を代わりに捧げられたこと、また復活されたことにより、新しく生きる命を与えられていることを信じることで、もはや古い生き方は過ぎ去ります。新しい生き方は、このキリストのして下さったことに感謝して、自分のために生きるのではなく、内に住むキリストのために生きようと自発的に思わされるからです。これは神様への感謝の応答です。
続いてパウロは17後半-19節で「あなたがたが愛に根差し、愛に基づく者となることによって、すべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどのものかを悟り」とあり、パウロは私たちのすべて言動がキリストの愛の基礎の上に築かれ、愛に根ざし、愛に基づくようにと祈っています。神様の愛は自分で作りだす必要がなく、愛であるイエス様に根がつながっていれば、愛は供給されるからです。人間を創られたのは神様であるので、神様の愛の範囲外にいる人は誰もいません。神様の愛の広さ・長さ・高さ・深さは計り知れないのですが、それが全部わからなくとも最大限にその大きさを味わい、悟ってほしいという祈りです。特に、神様の愛の大きさはまさにイエス様の十字架に表れています。
「この愛を知る」という「知る」という言葉は「経験によって知る」ことです。神様の愛は人知を超えており、知的につまり勉強して知る類いのことではありません。自分で経験してわかる事柄、つまり人生で行き詰っていた時、悩み、救いを求めていた時、悲しみでこの先、生きる希望が持てない時、責められる思いで苦しい時、そんなときにキリストに示される神様の愛を知って、救いの恵みを与えられたということを通して知る事柄です。そして、その「愛されている」という経験が、一人一人の異なるストーリーとして、証しとなります。またクリスチャンになってからの新しい歩みの中で、神様がどれほど自分に忍耐して下さったか、どんなに祝福と恵を与え、慰められ、力が与えられてきたかは各々が体験し神様の愛を益々知っていきます。それがパウロの祈りなのです。
19 説後半「そして、神の満ちあふれるものすべてに向かって満たされますように。わたしたちが願い、考えることすべてをはるかに超えてかなえることが出来る方に教会により、また、キリスト・イエスによって えいこうが 世々にわたって とこしえにありますように アーメン」、祈りの主語が「わたしたち」という集合体、つまり教会となり、祈りが締めくくられています。エフェソの手紙の中心的テーマが、教会の一致であります。パウロが教会を「キリストの体」として表現しているように、個々の地域の教会を超えた、もっと大きな全体の教会、キリストを頭とする「一つの教会」の中に、キリストの体の一部として私たちは組み入れられていることが記されています。私たちは礼拝の中で毎回頌栄を歌います。キリスト・イエスにおいて私たちに対する神様の愛と恵みの豊かさが示され、喜びに満たされるとき、私たちは感謝して、神様を讃美するからです。神様へ栄光を返すとは、神様はなんて素晴らしい方なのか!と、誉め称えることです。
このパウロの祈りの通り、ますます、内に住まわれるキリストより愛を学び、愛によって生かされ、これからも様々な人生の、生活の局面において、私たちの想像を超えるキリストの愛の大きさを経験し、ともに神の家族、キリストの体である教会として、神様に感謝の賛美を捧げられますように私たちも、願って互いに祈りあいましょう。
2024年9月22日 益子教会主日礼拝説教要旨 大下正人 牧師
聖書 ローマの信徒への手紙 10:17
メッセージ『キリストの言葉を聞くことによって』
わたしたちは神様から様々な器官を与えられています。それはわたしたちが成長する上で必要なものであります。しかし全ての人が完全に備わっているものではありません。備わっていても機能しないかもしれません。しかし、その器官が機能しなくとも、欠損していても、そのことを補うように神様は様々な器官を与えてくださったことを考えますと、わたしたちは神様の恵みのうちに生きていることを喜ばしく思います。本日は、ローマの信徒への手紙から共に学んでまいりたいと思います。
新共同訳聖書には表題が付いておりますが、本日の聖書箇所には、万人の救いと書いてあります。つまり救いについて述べられているのです。神様の業はすべての人に注がれ、全ての人が同じように救いに与ることが出来るのです。ローマの信徒への手紙10章13節にはこう書かれているのです。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」この言葉を信じるのならば、ユダヤ人であろうがギリシャ人だろうが、ロシア人であろうが、アフリカの人であろうが、日本人であろうが、救いに与ることが出来るのです。しかし、神様を信じたことがなければ、その神様を呼び求めることが出来ません。聞いたことがなければ、どうして信じることが出来るでしょうか?述べ伝える人がいなければ、どうして聞くことが出来るでしょうか?遣わされないでどうして述べ伝えることが出来るでしょうか?つまり信じても神様の言葉を聞かなければなりませんし、神様の言葉に触れることが救いに与ることが出来るのです。このように考えた時に、聞くことの大切さをわたしたちは学ぶことが出来るのです。先ほど触れましたように、人間の聞く器官は耳です。耳が不自由な方は手で触り、感触で御言葉を味わってほしいと願います。わたしたちは、神様からいただいた五感があります。一つのものが尊ばれれば、全体の益となり、部分が痛めば、互いに励まし合うのです。
人間は何か一つのものに頼りすぎるところがあります。聞くという行為に関しても耳だけに頼ってよいのでしょうか?聖書は耳だけで理解できるものではありません。より深く理解するためには目で見たり、口で唱えながら読むのも良いでしょう。また、頭に刻むためには手を使って模写しても良いかもしれません。そして、集約して何度も脳で味わうことが出来れば、御言葉をより深く理解することが出来ると思うのです。つまり聖書は全身全霊で感じ取り、わたしたちの心に刻むことが望ましいのではないでしょうか?
神様がわたしたちに御言葉をくださるのは、特定の場所にしかないのでしょうか?決してそうではありません。御言葉はわたしたちの近くにあります。わたしたちの口にあります。わたしたちの心の中にあるのです。つまりわたしたちが御言葉を望めば神様はすぐに与えてくださるのです。その準備はいつも整えていてくださるのです。「主の名を呼び求める者はだれでも救われるのです」自分ばかりでなく、全ての人に与える神様の救いを伝えたいと考えるならば、どうぞ御言葉を携え、訪ねてください。その御言葉を語りたい、伝えたいと思えば、その足を神様は祝福してくださるのです。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」とわたしたちを愛してくださるでしょう。しかし神様の言葉をすべての人が理解することはできません。しかしその時に信じることがなくとも後に信じるようになるかもしれません。つまりわたしたちは神様の言葉を伝えることに力を注げば良いのです。神様の御言葉は、「その声は全治に響き渡り、その言葉は世界の果てに及ぶのです。」そしてその御言葉を受け入れることが出来なくとも、神様は「わたしは、わたしの民でない者のことであなたがたに妬みを起させ、愚かな民のことであなたがたを怒らせよう」その感情によって「わたしは、わたしを探さなかったものに見いだされ、わたしを尋ねなかった者たちに自分を現した」その怒りの感情をあらわす者に「わたしは不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べ」てくださるのです。その様にしてまで神様はわたしたちに御言葉を与えようとなさるのです。
お祈りいたします。
ご在天の主なる神様、本日はローマの信徒への手紙からあなたの救いについて学びました。どうぞあなたの御言葉をいつも求めていくものとさせてください。そして耳だけにとどまらず、全身全霊をもって御言葉を求めていくことが出来ますように。そして世界中の人があなたの御言葉で励まされ、生きる力を見出すことが出来ますように導いてください。このお祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
2024年9月15日 益子教会主日礼拝説教要旨 大下正人 牧師
聖書 ヨハネによる福音書 11:4
メッセージ 「神の栄光の為である」
わたしたちは様々な時を過ごし、色んな場所に行き、多種多様な方々と出逢います。それはすべて神様が準備して下さっているのです。本日登場するマルタ、マリヤ、ラザロもイエス様に出逢って本当の神様を信じるようになりました。ルカによる福音書の10章38~42節では、ある村で出会ったマルタがイエス様を家に迎え入れた時、イエス様は神様の話をいたしました。その時妹のマリアは主の言葉に耳を傾けるために主イエスの足元に座って聞き入っておりました。一方でマルタはもてなしのための働いておりましたが、そばによって「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、なんともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」その言葉にイエス様は、「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは、良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」とマルタをたしなめる場面があったり、
ベタニアで香油を塗るマリアの記事が載っていたり、数多く登場する兄弟であります。ですからイエス様がいかにこの兄弟を愛しておられ、近しい存在だったかという事を理解することが出来ます。しかし本日の箇所ではマルタとマリアの報告で「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです。」この言葉を聞いて「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるためである。」こう語られた後、同じ場所に更に2日滞在されたのです。この滞在を普通考えるならば、その時にラザロに会いに行っていれば、と誰もが思うかもしれません。しかしイエス様は2日経った後、「もう一度ユダヤに行こう」と弟子たちに語られました。しかし弟子たちは「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で撃ち殺そうとしたのに、またそこに行かれるのですか」その問いにイエス様は「昼間は12時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。しかし、夜歩けばつまずく。その人のうちに光がないからである。」そして更に「わたしの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く」そのイエス様の言葉に、弟子たちはその真意を理解できず、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」こう答えました。つまり弟子たちは、まだラザロは息があると思っていたのかもしれません。しかしその時すでに息絶えていたのです。そしてイエス様は、はっきりとこう答えられたのです。「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとって良かった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼の所へ行こう」その言葉にトマスが、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」そう言ってイエス様と行動を共にするわけであります。この後さらにラザロが復活するまで、マルタ、マリアに声を掛けられ、伝えていたことを思い出させるのです。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者は誰でも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」その言葉にマルタは信じ、妹マリアにそのことを伝えます。妹マリアはすぐにイエス様のもとに来ますが、イエス様はマルタが出迎えた場所におられました。その行動の意味するところはマリアの悲しみをイエス様が理解し、マリアの告白を受け止めようとしたのかもしれません。マリアはイエス様の足元にひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」その告白と一緒についてきた者たちの泣く様を見て、イエスは憤り、感情的に「どこに葬ったのか」その声に「主よ、ご覧ください。」そしてイエス様は涙されるのです。そしてその様子を見てユダヤ人は、「御覧なさい。どんなにラザロを愛しておられたことか」とか「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」とイエス様を非難する者を折りました。そして墓の前で再び憤りを覚え、「その石を取りのけなさい」と声を掛けられ、姉の丸太が「主よ、4日も経っていますからにおいます」というとイエス様は、「もし信じるなら、神の栄光が見られると言っておいたではないか」と言われ、石を取りのけると天を仰ぎ祈って「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださる事を、わたしは知っています。しかし私がこういうのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをおつかわしになったことを、彼らに信じさせるためです。」その後、「ラザロ、出てきなさい」と声を掛けラザロは生き返ったのです。
皆さんはこの物語をどのように受け止めるでしょうか?神様は人間誰しも経験するであろう死さえも乗り越える力を我々にまざまざと見せるのです。それは、神様の栄光を現すためでありました。死という束縛から救う唯一の方法をラザロを生き返らすことによって示したのでした。その業を見て信じる者もいれば、イエス様とラザロを殺そうと考える者もいます。このように神様は死者から復活させ、神様の栄光を見せるのです。それはわたしたちの師でさえ、神様は栄光を現すために私を活用して下さるのです。この死を受け入れた時、わたしたちは喜びで満たされるのです。この世の束縛から解放され、主の命へと変えられていくことをわたしたちはこのラザロの復活から命を考えていきたいものです。
お祈りいたします。ご在天の主なる神様感謝いたします。今日ラザロの復活の話によって私たちの命を神様は活用して下さることを学ぶことが出来ました。わたしの命をあなたがあなたの栄光のために使って下さることを感謝いたします。どうぞこれからもあなたの道を進むことが出来ますように、そしてあなたに活用していただくために励んでいくことが出来ますようにこのお祈りを主イエスキリストの御名によって祈ります。
2024年9月14日 益子教会 メッセージ 大下陽子 伝道師
タイトル 「思い煩わずに、神に委ねる」
聖書箇所 マタイによる福音書6章25-35節
人は何かが不足している、もしくは明日・将来不足するかもしれないと心配し、思い煩います。一方、その何かが満たされても思い煩いはなくなりません。なぜなら人は他者と比較し「もっと、もっと」お金、地位、名誉、健康、能力を欲し、飽くことがないからです。すべてにおいて、上には上がいます。また、地震や水害、温暖化現象による異常気象、予測ができない災害について将来不安になります。災害は現在の科学をもってしても正確な日時を予測することはできません。一方、その両極端にある人々は、どうせ、死んだら終わりだし、先のことがわからないのだから、今を好き勝手に、したい放題しようと。しかし、その人の心の底にも死んだらどうなるか、将来どうなるかわからないという不安があり、それから現実逃避しているだけで思い煩っているのと同じです。
今日のマタイによる福音書の平行箇所が、ルカによる福音書12章22-34節に記されています。ルカでの文脈は、直前に愚かな金持ちの譬えをイエス様が話されていて、その後「だから」「それから」と接続詞がきて、「思い悩むな」と本日の平行箇所へと続きます。愚かな金持ちの譬えは、ある人がイエス様に、遺産分割の仲裁をしてほしいとお願いしたことに対し、「私は裁判官、調停人ではない」と断り、続いて周りの人に話をされています。ある金持ちは、豊作で、今よりもっと大きい倉をたて、穀物や財産をしまい、「自分はこれから先、何年も生きていく蓄えがあるぞと、飲んだり食べたり楽しもう」と言っていたところ、神はその晩、その金持ちの命を取りさった、という話です。イエス様は貪欲に注意するようにと、どんなに財産を持っていても人の命は、財産ではどうすることもできないと話されました。財産を持つことは問題ないのです。問題は、この金持ちが「私の穀物、私の財産」といって、貧しい人に施すこともなく、自分の富のことばかり考えて生き、神様への感謝もないことです。人はどんなにお金を積んで、先進医療を受けたとしても、たいして寿命を延ばすことはできません。どんなに財産があっても、あの世に持っていけないのです。
この金持ちに欠けていたものは、神様への信仰です。本日の箇所は、神様への信仰が唯一私たちの心を満たし、それが思い煩い、恐れ、不安から私たちを解放することをイエス様が教えておられます。信仰があれば、たとえ財産があっても、貧しくとも、優秀で社会で活躍していよとも、特に才能がなくとも、今の状況に満足しています。神様との信頼関係において生きることで満たされ、神様に感謝できるからです。逆に、世の中の価値観は仕事上、スポーツ、様々な分野でもっともっと、貪欲に先を行こうと欲します。しかし、きりがないので、どこで満足するかを自分で決めなければならず、それはとても難しいことでしょう。貪欲と思い煩いはつながりやすいのです。
イエス様は空の鳥が倉をつくらなくとも十分に生きられること、野の花がなにもせずとも美しく装ってくださることの例から、ましてや「あなたがたは鳥より価値がある」ので、心配しなくとも神様が必要なことは与えて下さると説明されました。何を食べようか、飲もうか、着ようかと必要以上に思い悩むのは、信仰が薄いからだと言われました。もし、思い煩ってしまったら「信仰を増し加えてください」とそのまま祈ってよいと思います。
神様への信仰があれば、すべてが神様から与えられたものであるとし、感謝できます。そして、生きる目的、優先順位が、この世の価値観での成功ではなく、主イエス・キリストのために生きることになります。すると、「私が、私の、」と私のことばかり考えるのではなく、神様の御心は?キリストだったらどう思うだろう、どうするだろう?とキリストの思いを祈りつつ、それを模索し、そこへ聖霊が導かれます。すると、自分の心配に囚われている状態から解放され、神様が支えて下さると信じて、転んでも起き上がって再び歩き出す力が与えられます。
そのような全てを委ねられる神様への信頼はどうして持てるのでしょうか?その根拠はローマの信徒への手紙 8:32にもに示されています。「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。 」天の父なる神様は、御子を通して私たちがイエス・キリストを信じる信仰で、罪が赦され、義とされ、神の子供にして下さり、惜しみなく祝福と恵みを与えて下さる方です。御子を与えるほど、私たちを大切に思ってくださっているのだから、ましてや、他の生きる上で必要なものが与えられないわけがないとこの御言葉は示しています。このことを信じることが根拠で、神様との信頼関係が深められます。「すべて」とは、寿命も含めてです。病気になることも含めてです。信仰があれば、全て人生順調にいくとは聖書にかいてありません。聖書で記されているのは、困難にあっても神様がそれらを取り扱ってくださる、全てのことを益に変えて下さり(ローマ8:28)、困難に耐えられるよう、逃れの道も備えて下さる(コリントⅠ 10:13)という約束です。ですから、困難、試練は生きている限り必ずきますが、神様への信頼を持ち続けることで、心配する必要がないのです。
イエス様は33節で「何よりも、神の国と神の義を求めなさい」と導かれます。神の国とは、神様の意思が行われる領域です。神様のみ心は、皆が神様を信じ、神様を礼拝し、神様の愛の関係が与えられることであり、そのために、キリストが十字架にかかって下さり、死なれ、復活されました。神との正しい関係がもてることを、義とされると言い換えられます。神の義を求めるとは、神様との正しい関係が与えられることを自分だけでなく、すべての人に与えられるように求めることでしょう。イエス様がヨハネによる福音書 16:23-24で 「あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」
イエス様の名前を通して天の父なる神様へ祈り求めれば、与えられ、わたしたちは喜びで満たされるとイエス様は約束してくださっています。私たちが神様の豊かさを受け取ることができるように、喜びが満たされるようにしてください!と、遠慮なく、大胆に祈りましょう。
喜びについては、テサロニケの信徒の手紙Ⅰ 5:16-18に「いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。 どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」とあります。
JOY(喜び)に満たされ続けるには この頭文字の優先順位を覚えておくと良いです。
Jesus イエス様 を一番にする。イエス様だったらどうされるか。神の国を求める
Others 他者 に配慮する 寄り添う、親切にする
You あなた あなた自身のことは全て主にゆだねる
イエス様は34節で 明日のことは明日自ら思い悩むと おもしろい表現をしています。 明日のことを心配しても、自分の思う通りに明日を、未来を変えることは人間には不可能です。かえって、思い煩って他の心の病を引き起こす可能性もあります。イエス様はその日の苦労はその日だけで十分だと言われます。今日起こったことに対して、あくせくして対応するのは仕方がないことです。そして「大変な一日にだった」と振り返る労苦だけで、十分であると。ですから、明日という当日になって思い煩わざるを得ないことがおきるので、明日自らがわずらうのです。つまり前日と明日に、2重に思い悩む必要がないということです。逆に、日の終わりに「今日も生かされた」ということを神様に感謝することができ、そして明日からのことは神様に委ねていこうと祈って床に就けば、不安で眠れないという状況にならないはずです。不眠というのは、体は睡眠を欲していても、頭がいろいろ考えてしましいつも動いているから眠れないのです。
世の中は、特に日本では教会に来る人は少ないです。家族も、世の中も人も神様のことに興味はなく、今の生活のことで精一杯であり、娯楽を求めて気晴らしをするのに忙しい状況です。しかし、イエス様のこの言葉(ルカ12:32)
「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国を下さる」という約束を信じましょう。当時、イエス様の弟子たちの群れは小さかったし、不安定な枕するところもない旅をしていましたので、不安になる要素はたくさんあったでしょう。イエス様は、弟子たちに大丈夫だと励まされます。そして今日の私たちの教会のように、小さい群れに対しても、同じ言葉をかけてくださっています。祈り続ければ、必ず御心にそう祈りなのでかなえられるという約束があります。神様が神の国を私たちを通して広げてくださること、それが小さいことかもしれませんが聖霊の導きによって私たちを通して実現に至らしめてくださることを期待し、互いに励ましあいましょう。
(引用 新共同訳聖書)
2024年9月7日 益子教会主日礼拝説教要旨 大下正人 牧師
聖書 Ⅱテモテへの手紙 2:19~27
メッセージ「神が据えられた堅固な基礎」
神様がわたしたちを愛し、救ってくださることの証明はイエス様を与えられたことであります。つまりイエス・キリストこそ神様が据えられた堅固な基礎であります。わたしたちは神様と向き合う時、どのような思いをもって向き合うでしょうか?イエス様は神様と向き合う時、聖書で書かれているように十字架につけられるまで死に至るまで神様に従順でありました。それは神様に絶対的な信頼があったからこそ従順でいられ、福音を語り、神様の愛の実践を行うことが出来たのではないでしょうか?また、イエス様の活動を邪魔しようとする者に対しても柔軟な姿勢をもって、時には厳しく、時には優しく対応することが出来たと思うのです。様々な人がイエス様を訪ね、その姿によって神様を示されたのです。
ではわたしたちはどうでしょうか?わたしたちは、いつも神様を信じ抜いているでしょうか?信仰深い時もあれば、不安定になる時もあります。それはなぜか?わたしたちの心が完全ではないので、揺れ動きの中にいるからです。つまり多くの方がそうではないと言われれば「そうかな」と流されてしまうでしょうし、違うとわかっていてもそのことを押し通すことが出来ません。つまりこの世に生きるという事は、神様から離れてしまうからです。
もしも、わたしたちが神様中心の生活に切り替えていくならば、様々な困難がわたしたちを襲ってくるでしょう。それはこうしなければならないという考えを押し付けられた時、本当にこれは神様が望んだ正しいことなのだろうかと疑問を持つこともあるでしょう。その時、必ずこうしたほうが良いとわたしたちを惑わす声が聞こえてくるでしょう。本当にそのことを神様が望むことであるかを判断しづらい時、神様に祈ることが必要となってきます。つまり神様に委ねることによって、神様を信頼していますという気持ちになった時、双方に信頼関係を結ぶことが出来るのです。つまりどんなことであっても些細なことであっても、まず神様に相談するようにしたらいかがでしょうか?
神様はわたしたちに清いもの、清くないもの、高価なもの、安いもの様々なものをわたしたちに与えてくださいます。ではその価値観は正しいでしょうか?正しくないでしょうか?こう聞かれた時、皆さんはどう答えるでしょうか?金や銀が高価であり土や木が安価と答えるのであれば、神様が与える者にすべてランク付けされたのであれば、人間もランク付けされてしまう事でしょう。あなたはだめだと神様は決して言わないと思います。むしろ神様が言われるのは「極めて良かった。」「あなたを造ってよかった」「素晴らしい」と褒めてくださるのではないでしょうか?神様にとって、金や銀の器であろうが土や木の器だろうが関係がないのです。つまり外の器ではなく、中に何を入れ、何を行うかという事が重要なのです。わたしたちが神様の業を行うことが重要で、その行いは尊く、清い働きに代わってくるのです。神様を信じるという一点のみがわたしたちが堅固な基礎が与えられたことを実感することが出来るのではないでしょうか?
さらに聖書は、わたしたちにしなければならないことを伝えます。清い心で主を呼び求める人々と共に、正義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。愚かで無知な議論を避けなさい。あなたも知っている通り、そのような議論は争いのもとになります。主の僕たるものは争わず、全ての人に柔和で接し、教えることが出来、よく忍び、反抗する者を優しく教え導かなければなりません。主を呼び求める人と一緒になって活動していくことが大事であります。必ず神様が信じる者に変えてくださるのです。ですから私たち自身もイエス・キリストを与えてくださった神様を信じるようにいたしましょう。そして堅固な基礎を打ち立ててくださる神様を賛美していきたいと思います。
お祈りいたします。
ご在天の主なる神様、本日はテモテへの手紙Ⅱから、神様が与えてくださった堅固な基礎について学ぶことが出来、感謝いたします。わたしたちはまだまだあなたを信じ抜くことが出来ない弱い心の持ち主です。どうぞあなたの清い業を行う者へと変えてください。そして自分の器をあなたの聖なる器に加えてください。このお祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
2024年9月1日 益子教会主日礼拝説教要旨 大下正人 牧師
聖書 ローマの信徒への手紙 8:12~17
メッセージ「神の霊に導かれる者は」
わたしたちはこの世で生きている限り、欲が存在することを忘れてはなりません。それはどんな状況や立場、環境であってもわたしたちのすぐそばにいるのです。しかし多種多様な欲は必ず悪の思いから生まれてくるものではないという事をわたしたちが理解する必要があるのです。つまり義とか善という正しさの中には相手を裁く事もあり得ますし、考えを改めさせるために力を振るわなければならないこともあり得るからです。実際には、旧約聖書で与えられた律法も守る者こそ正義であり、守れない者を裁く権利が与えられていると考えるとするならば、義の欲望に支配されているかもしれません。つまりどんなに正しいことであっても、一歩間違えば、道をそらすことが出来る驚異的な力を持っているのだとわたしたちは肉について死について理解しなければならないのです。つまり、どんな状況であってもどんなに信仰深い人であっても、陥りやすいものが肉の欲求なのです。人間には様々な状況が次々と迫ってくるのです。わたしたちは、その迫ってくるものがゆっくりと順番通りに来るのであれば、そつなく問題を乗り越えていくことが出来るかもしれません。しかしそうならないことのほうが多いのです。四方八方から迫ってくるでしょうし、複数で押し寄せてくるかもしれません。解決したと思っていたことが同時に再びやってくるかもしれないのです。わたしたちは、その迫りくるものが多すぎたり、早かったり、対応が遅くなってしまったときは、体や心がそして脳が苦しくなって悲鳴を上げてしまうのです。そのような時こそ、神様の存在に気が付くことが出来るのです。神様はわたしたちの呻き、苦しみを理解してくださる方なのであります。心の叫びをあげた時、その声を拾い上げてくださるのです。
つまり霊こそがわたしたちを助けることが出来る唯一の方法なのです。では、霊とは何でありましょうか?霊とは人間の思いだけで成立は致しません。つまり人間という一人称では霊は生まれてこないのです。その人間に神様が加わって始めて霊が備えられるのです。もしも神様抜きで霊を極めようとするならば、悪はこぞってやってくるでしょう?そのような心が大好物です。つまりどんなに良い方法であっても、神様抜きでは肉に負けてしまうのです。
わたしたちは考えます。神様に救われたのに、なぜ肉に従おうとするのか?それは、目の前のことに気を取られてしまうからではないでしょうか?手で触れるもの、目で見れるもの、においがするもの、味がするもの、音が聞こえるもの、いわゆる感覚的なものに頼りすぎてしまいますと肉に従わなければという不安がそうさせてしまうのかもしれません。神様を信じたのなら、わたしたちは疑いの心を捨てるべきではないでしょうか?肉に従う必要は全くないのです。ただ神様の導きを信じぬくことが出来れば神の子として歩むことが出来るのです。あと一歩勇気を出しましょう。あと一歩神様に近づいてみましょう。きっと人生が変わってくるかもしれません。
本日の箇所でもわたしたちは神様の相続人です。と書いてあります。人間の相続は、お金かもしれません。土地かもしれません。神様がわたしたちに相続してくださるのは、愛であります。この愛こそがすべてにつながり、最後まで残るものであることを神様はパウロを通じて述べておられます。わたしたちがこの神様の愛にどれだけ助けられているでしょうか?そのことを考えた時、わたしたちは嬉しくなるのです。神様を知っていて本当に良かった。愛されていることがどんだけ幸せかを多くの方に延べ伝えていきましょう。
お祈りいたします。ご在天の主なる神様今日は、ローマの手紙でわたしたちはあなたの霊に生かされていることを感謝いたします。しかし信じていても、私たちは目の前にある情報に気を取られてしまう愚かな者であることを懺悔いたします。しかしあなたは今もなおわたしたちに霊を注いでくださり、感謝いたします。どうぞあなたが言われたようにあなたの相続人として、この世で歩んでいくことが出来ますように導いてください。肉によらず霊に仕えていくことが出来ますように。このお祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
8月31日(土)土曜礼拝 説教 大下陽子 伝道師
聖書箇所 マルコによる福音書1章40-45節 タイトル 「憐れみ深い神」
「憐れむ」という言葉は、どんな時に用いられるでしょうか。つらい状況の人から話を見聞きし、「可哀そうだな」と思うことができますが、他人であればあるほど、深くその人に感情移入をすることはそう多くはないと思います。「断腸の思い」というのがあり、これは中国の故事からきています。ある人が親子の猿を見つけ、その子猿を船で連れ去ると、母猿は必至に河岸をずっと走って追いかけ、そしてとうとうその船に飛び乗ってきましたが、その時母猿は息絶えてしまいました。そして、その母猿の腹を裂くとはらわたがちぎれていたということで、つまりはらわたが裂けるほど母猿が子猿のことを思って苦しんだのが「断腸の思い」の由来だそうです。新約聖書での「憐れみ」、「慈愛」を表す単語(原語はギリシャ語)も同じで、「腸がちぎれるような苦しみ」という意味から転じて「憐れみ」という意味になったそうです。また旧約聖書の原語ヘブル語で「憐れむ」は「子宮」という単語からきており、つまり出産の際の母体の子供に対する慈しみの心という意味が「憐れむ」となり、神様が人間を憐れむときの表現に使われている単語です。
列王記Ⅰ3章にソロモン王の知恵を表す裁判の話があります。二人の遊女が同時期に子を産み、一人が赤ん坊を踏んで死なせてしまったところ、その女がもう一人の遊女の子供と死んだ子をすり替えて、生きている方が自分の子だと主張しました。二人がそれをソロモン王の前の裁きに持ってくと、「この子を二つに割いて、半分ずつ二人に与えよ」と言いました。すると、本当の母親である女が、わが子を憐れに思うあまり、「王様、お願いです。この子を生かしたままこの人に上げてください」と言った時の「憐れに」という単語もそうです。
また、ホセア書11章8節で、神様は反逆したイスラエルの民に対して、「どうして見捨てることができようか」と激しいく心を動かされ、憐みに胸を焼かれる」という箇所での「憐れみ」もそうです。神様が私たち人間をかわいそうに思われるその表現は、旧約聖書では、激しい、あたかも母親が母体の子を慈しむ、愛を注ぐ思い、女性的な愛情で示されているのが興味深いです。なぜなら聖書は神様を「父なる神」とし、父親的な表現で示しているからです。だからといって、神様に実際男女の性別があるわけではありません。性別というのは被造物の持つ生物学的なものであるとされます。わたしたち人間が神様を理解できるように、類比的に父の愛、母の愛で神様の愛は表現されています。
聖書に記録されているイエス様は、当時の政治的に虐げられ貧しい民衆、治らない病を持つ人々、悪霊に取りつかれて苦しむ人々、「罪びと」と言われ社会から疎外され、同胞から差別されていた人々と積極的に関わり、「神の国」を宣べ伝え、彼らと食事を共にし、病を癒されました。イエス様の行動の動機は下記の箇所のように「深く憐れんで」と記されています。イエス様の憐みは単に可哀そうと思うだけでなく、その方々に寄り添い、共に苦しみ、そして助けるという慈愛の思いと行動を伴うものでした。本日の聖書箇所も、重い皮膚病にかかっている人が置かれている社会的状況、つまり汚れた存在として隔離されている状況(レビ記13:45-46)に対して深い憐みを示されたところです。イエス様は思い皮膚病にかかっている人を、腸がちぎれる想いにかられ、手を差し伸べて、その人に触れ、「よろしい。清くなれ。」と言われました。
イエス様はあえて隔離されている地域に近い路地を通られたからこそ、重い皮膚病を患っている人が、イエス様に近寄って来られたのでしょう。律法では、一般の人に感染しないように移動するときは、一定の距離を置いて歩き、しかも「汚れている」「汚れている」と叫びながら歩かなければならないという、なんとも悲惨な状況でした。その人は、イエスさまの噂を聞いていたので、本当は近くまで行くことができない、そういう社会の、律法のきまりを犯してまで、イエス様の近くへ行きひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言ったのです。
この人は、膝まずいて、低い姿勢でイエス様に、信仰を持って近づきました。するとイエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。」のです。
イエスが癒したあと、すぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」と言われた理由は、単にイエス様の癒しの奇跡を魔術のように触れ回ってもらうと、イエス様が神の国を宣べ伝えるという主な目的が妨げられるからであり、この人が癒されてなすべきことは、社会復帰するためにまず律法で定められたこと「祭司に見せて、清いと宣言してもらう」ことをしてほしかったのだろうと思われます。残念ながら、この男は大いにこの出来事を人々に告げ言い広め始めてしまいました。嬉しかったのでしょう。イエス様は。もはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられましたが、それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来たと記されています。
私はこの箇所を通して、神様の恵みを自分が受けるばかりで、表面的にしか他者を思いやっていなかった愛のなさを示され、悔い改めます。以前病院で働いていた時は、入院している患者さんたちの生死といつも直面していましたが、全員と接しているわけではなく、関わっていない患者さんの死に対しては無感覚になってしまうことが、働いていて一番つらかったことでした。私が直接かかわるケースは、家族がいなかったり、生活保護を受けていて入院費・アパートの家賃の支払いが困難だったり、何かしら支援が必要な方々でした。今でも忘れないのが、病気が進行し退院ができなくなってきた患者さんと、事務的なことを代理人業者やアパートの家主に取り次がなければならない時がありました。その方とお話するたびに、家に帰りたい、でも自身の体が日に日にしんどくなりと、ご自分の死を覚悟しなければならないけれども、受け入れられないという葛藤を見て取れるとき、私はこの人にどう寄り添えるのかと、なんとかキリストの救いの話しのきっかけを引き出せないかとあれやこれやと考えているうちに、他の仕事もあるので機会がなく、ある朝、その方がすでに亡くなっていたと報告がありました。私は、その人の隣人になりたかった。しかしなれなかったという心残りがあり、そのことを神様に祈りました。キリスト教の病院で、チャプレンとして働く職種でなければ、患者さんに福音を伝えるというのは一般の病院では困難でした。私は、仕事としてキリストの福音を伝えたいという思いが、病院勤務の経験を通してさらに強められ、伝道師になろうと導かれたと思います。
隣人と言えば、イエス様は良いサマリア人のたとえを話されました(ルカ10:25-37)。ある旅人が強盗にあい、瀕死状態で道で倒れていた時、祭司やレビ人という宗教家たちは見て見ぬふりをして通り去った。しかしユダヤ人の敵であるサマリア人が通りかかると、その人を憐れに思い、応急手当をし、宿屋へ連れて行って、宿の代金プラスもっと費用がかかったらそれを支払うとまで言った。そして、「隣人を自分のように愛しなさい」という戒めにおいて、この3人の内誰がこの人の隣人となったか?とイエス様は律法学者に問い、「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われました。隣人になるとは、相手が誰であれ傍によって、相手をかわいそうに思い、共に苦しみ、その人に寄り添うことまで問われます。どうやったらそんな、憐みの心をもてるのでしょうか。
イエス様はルカによる福音書6章35-36節でこう言われました。「しかし、あなたがたは敵を愛しなさい」と話され、「いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」
私たちにとって敵とはだれでしょうか。単に自分に敵対してくる人だけではなく、現代社会的にニュースで犯罪を犯した人を見てひどい奴だ、だめな人だと見下げてしまわないでしょうか。そのような態度も彼らを敵としてみなしているかもしれません。一方、天の父は恩知らずの悪人にも情け深いのです。イエス様のいわれる隣人とは、このルカの箇所の天の父が示す憐れみを基準にして、その人の隣人になりなさいと言われます。非常に難しい、実行不可能のことと、諦めてしまいそうになるかもしれません。
私たちも以前、キリストへの信仰をいただく前、自分でなんとか困難を乗り越えようとし、それが出来なくて辛く、悲しく、惨めな状態があったと思います。神様はそんな私たちをかわいそうに思って、憐れんで下さり、はらわたが裂ける程の痛みをもって、共に苦しんで下さったからこそ、イエス・キリストの命を犠牲にして、私たちを救い出してくださったことを、深い感謝を持って思い起こします。神様は目に見えなくとも、悲しみの真ん中に共におられる、共に苦しまれていることを信仰で受け止められると、大きな慰めが与えられます。このような憐み深く、共に苦しんでくださる神様は、私たちが自分の意思や力で、ご自分と同じような憐みの心を持って行動するように、強いられるかたではありません。わたしたちが出来ないのはわかっておられるのです。ただ、できなくとも、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と、わたしたちが自ら、キリストの心に沿いたい、清められたいという思いを神様に祈り、キリストが内に住んで下さるように願うことで、それが可能になるという希望があります。
エフェソの信徒への手紙3章17節に「信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根差し、愛にしっかり立つ者としてくださるように。」とパウロが祈っているように、キリストの憐みのこころを持つには、私たちの内にキリストが住んでいただくしかないと思います。そうすれば、私たちが、キリストの愛にねざし、愛にしっかり立てるよう内に住む聖霊が導いてくださります。すると差別で苦しむ人、「人と違う」「弱い」からなどでいじめられ、虐げられて辛い思いをしている方、自分の敵に対してさえもっと気にかけるように、心が変えられていく、そして最初は何もできなくとも、その方々のために祈り始める。するといつか、わたしたちにも、各々与えられた場所で、その時その時にある人の隣人になる機会が与えられると思います。そして、イエス様は、わたしたちがその機会を逃して出来なかったとき、また別の機会も与えて下さる、やさしいかたです。
私たちは、インマヌエル「神が共にいて下さる」という名前である、イエス・キリストを、自分の必要や悩みのためだけでなく、他の方々の必要のために自らが関わっていくということを生活の様々な状況で実感したいと願います。
(引用 新共同訳聖書)
2024年8月18日 益子教会主日礼拝説教要旨 大下 正人牧師
聖書 Ⅱペトロの手紙1章3~11節
本日の聖書箇所であるⅡペトロの手紙でわたしたちに語られたことはわたしたちに命のこと、信じることの全てを教えてくださいました。それは神様を認識するという事であります。つまり神様の素晴らしさに気づくことであります。もしも世界中の方が神様に気づくことが出来たのなら、信じることが出来たのならば、世の中から争いという概念は消え去るのではないだろうかと考えます。しかしまだ世の中から戦争はなくならず、いまだに世界のあらゆるところで戦争が行われております。この状況は、わたしたちに不安を与え、戦争に巻き込まれてしまうのではないかという心配も沸々と沸き起こっています。しかしそうならないためにはどうするべきでしょうか?まずは不安を与える材料を取り除かなければなりません。生活面で言えば、物価が上昇し、生活が厳しくなると先行きが不安になります。また、これからの人生を生きるためには2000万円必要です。と言われますとどうしようと悩んでしまいます。備えがあれば憂いなしという言葉がありますが、本当にそうでしょうか?お金がなければ、それぞれ工夫をして2000万円なくとも生きていけるのだと思えば実際になくとも生きていけるのです。つまり、わたしたちはその言葉に踊らされて自分を見失うことが一番の不安材料なのです。ですから自分自身をしっかり保っていくという事が2000万円という問題から解放されていくのです。
また、世界情勢を考えた時に、他の国の挙動を気にしていますと、その開発し、発表したものを迎撃しなければ危ないと言われるとその迎撃できるものを購入し、配置するのです。つまり強い声に耳を傾けがちになってしまうのです。
ですが、その声に聞き従うのであれば、わたしたちはいずれ滅びてしまうかもしれません。本当に耳を傾けるべきものは、マスメディアでもなく、大きな力を持った国の声に従うのではなく、もっと大きな存在である神様の声に耳を傾けなければならないのです。それによって情欲に染まったこの世の退廃から免れ、神の本姓をいただくことが出来るのです。
そして5~7節にはこう書かれています。だから、あなたがたは、力を尽くして信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には信心を、信心には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。つまり聖書が言わんとしていることは、やろうとしていることにプラスワン付け加える生き方によって怠惰な実を結ばずによりイエス様を知ることが出来ると告げています。わたしたちも同じではないでしょうか?どこかのレストランに入ったとしましょう。そのお店でランチが得という話を聞き、行ってみるとさらにデザートがおまけでつけられるとなんだか得した気分になります。つまりプラスワンの考えを持つことが大切です。サービスを受ける側もそうですが、サービス提供する側もそのお客さんが喜ぶ顔を見られてよかったと思っているのではないでしょうか?わたしたちの人生も同じことが言えるのではないでしょうか?神様を知らないで生きていると不安だらけです。誰でも当てはまるとは限りませんが、会社ではノルマをこなさなければならず、社会に出ればレッテルを張られ、家庭に行けば邪魔者扱いされてしまうかもしれません。そのような時、神様を知らなければ、どこに助けを求めていくことが出来るでしょう。その苦しいことをどう乗り越えていくことが出来るでしょうか?自分の人生にプラスワン神様の存在を加えてみてください。きっと生き方が変わるのではないでしょうか?もっと考え方も、生き方も見方が変わるはずです。神様が共に歩んでくださることは、プラスワンではなく、プラス100,1000,10000、∞になるのだと思えた時、わたしたちは、生きることに希望を見出すことが出来ます。そして10節、11節にこう書かれています。だから兄弟たち、召されていること、選ばれていることを確かなものとするために、いっそう努めなさい。これらのことを実践していれば、決して罪に陥りません。こうしてわたしたちの主、救い主イエス・キリストの永遠の御国に確かに入ることが出来るのです。神様と出会い神様を信じたならば、神様を知るために聖書をよく読み、神様との交わりを深めるために祈り、そして神様をたたえる賛美を献げることにわたしたちが努力していけば、必ず神様が救い出してくださるのです。
お祈りいたします。
ご在天の主なる神様、本日はⅡペトロの手紙から私たちの生き方を教えられました。わたしたちの生活は不安で満ちています。しかし神様がわたしたちと共にいてくださることがどれほどのものであるか、あらためて感謝いたします。どうぞこれからもなたが都に歩んでくださるプラスワンの考え方で生きることが出来ますように導いてください。またわたしたちがあなたとの関係を継続することが出来ますように引き続き、聖書を読み、祈り、賛美することが出来ますようにお守りください。このお祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
2024年8月11、12日 益子教会 メッセージ 大下陽子 伝道師
聖書箇所 ガラテヤの信徒への手紙2章16-21節
タイトル 「キリストへの信仰によって生きる」
本日は、ガラテヤ信徒への手紙より、「キリストへの信仰によって生きる」と題してお話しをしたいと思います。ガラテヤ信徒への手紙は、パウロの手紙の中で、最も口調の強い表現と切迫感をもって書かれた手紙です。パウロの宣教によって、ガラテヤ地方にいくつかの教会が生まれ、その信徒たち(今のトルコ地域)がキリストの福音を信じて喜んでいましたが、パウロが去ったあと、ユダヤ人でキリストをメシヤと信ずる者(ユダヤ主義的キリスト者)がやってきて、「キリストを信じるだけではだめだ、異邦人はユダヤ教の律法を守り、割礼をうけなければ救われない」という偽りの福音を教え、キリストの福音からガラテヤ信徒の人々を引き離そうとしていたのです。キリストの福音はイエス・キリストを信じる信仰によって救われる、義とされるのであって、律法を守ることを付け加えてはならないことをパウロがガラテヤの信徒の人たちに説明しています。
16節で「律法の実行によってはだれ一人として義とされない」と、パウロははっきり断言しています。人は生まれながらにして自己中心なので、自分の意思で良い人になろうと努力しても不可能であり、律法のようなすべての法律や道徳的に正しさを完璧に守れる人間は誰ひとりいません。つまり誰も神様の前に、「わたしは自分の行いによって正しい、無罪です」ということができないからです。
私たち日本人にとって「律法を守ることで義と認められる」とは具体的にどういうことかあまりピンとこないかもしれません。たとえていいますと、自分は、社会的、道徳的に何か良いことをしたいと思う。しかし、様々な事情で、今の自分の生活を犠牲にしてまで出来ない。またこれをしてはいけないとわかっていても、うっかりしてしまう、仕方なくしてしまい、罪悪感を持ってしまう。そしてこれらを償うために、何か自分でできる良い行いをして罪の償いにあてるという心理的操作は日本社会にもあると思います。しかしこれでは、根本的な罪の解決にならず、また同じことの繰り返しになります。
わたしにとってはクリスチャンホームで育ったことは大きな恵みでしたが、若い頃キリストの福音を理解していなかったゆえに、聖書の教えが律法となって私を支配し、苦しんだという経験があります。私は洗礼を受けましたが、その後キリストを救い主として生きることの意味がぼんやりしてしまい、良いこと、なすべきことと知っていても自分の意思、弱さでできない、これはしてはいけないと頭では知っていても誘惑に負けてしまう、後悔してもまた繰り返していました。後ろめたさを抱えつつ、教会の奉仕を少しはして、教会に通うことで気休めを自分のなかで作り、一方いつも責められる思いがありと内面が非常に不安定で、律法に支配されているユダヤ人に近い状況でした。私は思っていました「神様は聖書の教えを守れない私を赦さず、見捨てただろう」と。自分の力で頑張らねばならない、自分の為に生きることに疲れてしまいました。憐れみ深い神様はそんな私をかわいそうに思って、30歳の時、キリストがそんな自分のために、十字架にかかって死んでくれたから、私は神様の前に自分がどんなにダメなクリスチャンであっても無罪とされ、キリストのおかげで神様の前に出られると信じる信仰が与えられました。すると、負い目や重荷が取り去られました。これからはキリストのために生きること、神様にすべてゆだねて生きることができるのだという喜びと解放感が与えられました。
パウロは、律法自体は霊的で、聖なるもので良いものだとも言っています。(ローマ7:12、14)しかし、罪はその良い律法を利用して、人を破滅に導きます。つまり律法や聖書のことばを自分の意思や努力によって守ろうとし、それで自分の中で正しいとすることで、神様ではなく、自分で自分を支配できる、自分の行いで自分を義と認めようとするという傲慢な状態に導くからです。自分の意思や力で、正義を獲得できると思い、一方出来ない自分がいるという分裂状態を律法は作り出すので、そのことを律法に支配されていれるとパウロは説明しています。
義とされるとは、神様によって「あなたは無罪」と宣言されるという、法廷用語であります。それは神との関係が正しい関係に移されることを意味します。キリストの十字架と復活のおかげで、罪に問われることもなく、堂々と神様の前に出られること、そして神様との愛の関係、信頼関係の中に生き、祝福と恵に招きいれられること、それがキリストを信じる信仰によって義とされるということです。私たちは正しくなくとも、キリストの義がわたしたちを覆ってくださります。この神様との正しい関係になることはイエス・キリストへの信仰によってのみです。律法を守るという行いによってではないのです。
またパウロは、19節で「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしはキリストと共に十字架につけられています。」と言っています。これは、約2000年前にイエス・キリストの十字架の死が成し遂げてくださったこと、その影響が今も私たちの上に続いている、その死を共有しているといいかえられます。それは、わたしたちがキリストを信じ、洗礼を受けることによって罪に支配された古い自分は死んで、そのお葬式をしたということです。同時に、聖霊が与えられ、洗礼によって新しい命により、キリストに結ばれて神に対して生きることが可能になります。だから20節で「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」と言っています。同じことをコリント信徒への手紙Ⅱ 5:15でもパウロ記しています。「キリストがわたしの内に生きる」ことについて、パウロはエフェソ3:16-17で 「どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、 信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。 」と記しています。
このパウロの祈りは、神様が聖霊により、わたしたちの内なる人を強めて、信仰によってわたしたちの霊の部分にキリストに住んでいただけるようにと、お願いしています。なんでもそうですが、神様にお願いすればかなえられるのです。キリストによって「新しいわたし」になった状態、罪の法則から解放された新しい人として私たちの感情がどうであれであれ、わたしたちは生かされているのです。
現代に生きるわたしたちも、ガラテヤの信徒の人と同じような罠にはまる可能性があります。また、生活の中である罪に悩まされる、落ち込む「わたし」がいると、「本当に救われているのだろうか、新しくなってないではないか」「代わりに何か良いことをしなくては」と疑うことがあるかもしれません。そのような元の不自由な状態の思いに戻そうとする力、肉の思いが働いても、思い起こしましょう。神様の前にすでに私は義と認められているのだと、キリストと結ばれ、新しく創造された者(コリント信徒への手紙Ⅱ3:18 5:17)、として私は生きているのだと、毎回御言葉の約束によって引き上げていただきましょう。この神様の大きな恵みを一度受けて、それを無駄にできるでしょうか。キリストが十字架でしてくださったことで、私たちは何もせずに、神様との愛の関係を与えられ、神様の子どもとしてすべて良いものを与えられる、今も、将来も天においても相続することを約束されている、このたくさんの恵みを信仰で受け取り続けよう、とこの御言葉は現代に生きるわたしたちにも強くメッセージを訴えています。
神様が与えてくださったこの救いの喜びを感謝し、主に従おうとすれば、結果的によい行いに導かれます。パウロはエフェソの信徒への手紙2:8-10で
「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。」 つまり、聖霊が結ぶ実として良い行いさえも神様から与えられるものです。
20節「わたしが今、肉において生きているのは、」は別訳では「今わたしがこの世に生きているのは」とあり、わたしたちはこの世の生活を送りながらも、キリストに目を注ぎ(へブル12:2)キリストにすべてを委ねて歩むことを「わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛しわたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」とパウロは表現しています。
父なる神様が聖霊により、力をもってわたしたちの内なる人を強めてくださるよう、内に住んでくださるキリストに全面的に委ね、主がわたしたちを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように、キリストへの信仰によって日々生きられるよう、互いに祈りあいましょう。
2024年8月4日 益子教会主日礼拝説教要旨 大下正人 牧師
聖書 フィリピの信徒への手紙 4:2~7
メッセージ「人知を超える神の平和」
今日から8月の礼拝が始まりますが、この8月は特に平和や戦争について、考えてまいりたいと思います。8月6日には広島に、9日には長崎に原子爆弾が落とされました。その爆弾に多くの方が犠牲になりました。しかしその原子爆弾を落としたから第2次世界大戦は終結したと間違った教育を受けた方は、それが正義だと考えている人がいまだにいることに悲しみを覚えます。原子爆弾を落とさなくとも戦争を終えることが出来たのではないかと思います。もっともっと平和についての話し合いを持つべきではなかったかと思います。そして今もなお核爆弾を保有し、戦争を抑止していると自負している国もあります。つまり軍事力さえ整えば、相手を支配し、平和を構築できると考えているのです。しかし私たちはそのことに反対していきたいと考えています。軍事力で抑え込む平和は、いつの日かその力を超えるものが開発されます。常に新しい兵器が世に出回り、ボタン一つや簡単な操作で誰でも戦争に参加できる時代なのです。そのことを考えた時に、わたしたちは人を殺すこともゲーム感覚で行ってしまうかもしれません。今平和の祭典と呼ばれるオリンピックが行われています。しかしその平和の祭典も心無い人が誹謗中傷をして、相手を傷つけています。この心を考えた時に、その人はそのつもりでなくとも悪意ある言葉は、人を傷つけるという事を多くの方が実感しなければなりません。言葉は時に武器にもなりうるのです。言葉の暴力は、精神的ダメージが大きく、周りに大きな影響を及ぼすのです。影響力があるものとして考えられるのはインターネットやマスメディアの伝える力です。些細なことかもしれません。しかしその一言がどんなに影響があるかという事に目を向けなければ、知らず知らずのうちに相手を傷つけてしまう可能性もあるのです。
本日与えらえた御言葉はフィリピの信徒への手紙4:2~7節です。パウロは、エボディアとシンティケに勧めます。「主において同じ思いを抱きなさい」このことからもわかるようにこの二人に何らかのことが生じ、相手を批判することも度々あったのではないでしょうか?教会は平和を生み出す場所であります。しかし人間はその平和を作り出す場所であってもいざこざを起し、周りに影響を与えるのです。そこでパウロは真実の協力者にお願いをして、二人の婦人を助けてほしいと願うのです。その真実の協力者とは、神様が命の書に名を連ねたものであることがわかります。その命の書に名を記されるという事は神様がその思いを、その行動を認め、神の国に入ることを許可された方であります。その名を記されたものは、神の愛を語り、神の福音をのべ伝える働きを担って、多くの方がキリストに出会うために尽力を注いでくださった方なのです。
そしてパウロはこのように語るのです。「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」その言葉には、キリスト者として自覚を持ちましょう。その広い心によって、キリストを人々が感じることが出来るのです。と励ましております。更にはどんなことでも思い煩いのはやめ、何事にも感謝と祈りをささげ、求めていることを神に打ち明けなさいと語ります。そうなんです。わたしたちが足りないことは、もっと神様を信じぬくしかないのです。もっと信頼し、何でも神様に打ち明けることです。そうすれば、あらゆる人知を超える神様の平和が、わたしたちの考えと心をイエス・キリストが守られるのです。それはどんな状況であれ、人間がもう駄目だと諦めてしまう状況下にあっても、必ず活路を見出すことが出来るはずです。その神様がわたしたちと一緒にいてくださることは何という恵みでしょうか。
お祈りいたします。ご在天の主なる神様、感謝いたします。本日はフィリピの信徒への手紙から私たちは学ぶことが出来ました。わたしたちは様々ないがみ合いをし、人々を傷つけてしまう者であること改めて懺悔いたします。しかしあなたはわたしたちの考えることをはるかに超える恵みを与えてくださり感謝いたします。どうぞこれからもあなたを信頼してあなたにすべてのことを打ち明け、祈っていくことが出来ますように導いてください。
どうぞ福音のためにあなたが与えてくださるものを喜んで受けいれていくことが出来ますように導いてください。この8月、神様の平和を考えていくことが出来ますように。このお祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
2024年7月28日 益子教会主日礼拝説教要旨 大下正人 牧師
聖書 ローマの信徒への手紙 8:36~37
メッセージ「愛してくださる方によって」
わたしたちにとって人生の歩みとは何でしょうか?ある人は、神様に出会い、神様に希望を抱き、神様に従っていこうと決めて、人生を歩んでいる者もおります。一方で神様以外のものに希望を抱き人生を歩む者もおります。日本の状況化を考えますと長年1%に満たないクリスチャン人口を考えてみますと、大半の方は神様ではなく、他のものに希望を抱いていることがわかります。それはなぜでしょうか?それはいろんなことが考えられますが、まだ神様に出会っていないかもしれません。あるいは出会ってはいるが神様のことを信じ切れないかもしれません。あるいは信じていたけども、なかなか自分の思いを聞いてもらえないなど不信感から神様に希望を見出せないかもしれません。いずれにしても何らかの理由によって神様に希望を抱くことが出来ないのです。では、信じることが出来る人と信じることの出来ない人の大きな違いは、神様を知り、神様という存在を認め、神様の力を信じることが出来るかという事ではないでしょうか?わたしたちは神様を知ることが出来ます。それは聖書を開けば、誰でも神様の言葉を見ることが出来ます。しかし聖書を一瞬で暗記できる人は稀だと思います。大概の方は、読んでも忘れてしまいますから、なかなか身につかないのかもしれません。そして日常の生活に戻れば、忙しく聖書のこと、神様のことを忘れてしまうのです。また開けば、なるほどと神様のことを知ることが出来るのです。その繰り返しです。次に神様の存在を認めることの難しさは、人間はどうしても見える形であったり、結果という数字的なものがすべてだと考えますと、神様を認め、受け入れることが困難になってしまうのです。つまり見えないもの、数字的なものを、不確定のものを信じることが出来れば、神様の存在を認めることが出来るのです。
旧約聖書の物語ヨセフ物語をご存じでしょうか?このヨセフは、イスラエル(ヤコブ)のこどもです。幼き時から夢をよく見ていました。その夢を兄弟たちの前で語ると兄たちは自分が弟ヨセフにひざまずくのかと怒りを覚え、お弁当を届けに来た時、穴を掘って、ヨセフを入れてしまうのです。しかし兄たちではなく、通りかかった者がヨセフを穴から助け出し、エジプトに売られていくのです。このような人生が与えられたヨセフは様々なことが降りかかります。しかし、その先々でもヨセフは神様に守られ、エジプトで2番目の地位を与えられたという物語であります。ヨセフはその先の見えない未来でも動じることがなかったのです。それは神様の存在を知っていて、自分の力ではなく、守られるという事を確信していたからです。この物語の中で牢屋に入れられる場面があります。牢屋の中で夢を解き明かし、そのことを王様に伝えてくださいと侍従長に託します。しかし自分が助かったことでそのことを伝え忘れ、長く牢に居りましたが、神様を信頼していたのです。そしてついに王様が夢で悩んでいる時、侍従長はヨセフのことを思い出し、ヨセフを紹介するのです。つまりヨセフは、忍耐を持って神様の力を信じたのです。
また、イスラエルの王になったダビデもまた、神様を信じる者であります。ダビデは王サウルに嫉妬される位活躍しました。その活躍はやがて本当の殺意を抱かせ、サウルは、ダビデを殺そうと何度も計画をしました。しかしその都度ダビデはその攻撃をかわし、ある時、サウルが用を足そうと洞窟に入った時、サウルの着物の裾を切り取り、いつでもあなたを殺すことが出来ます。しかし私は殺しません。あなたは神様に選ばれた王であることは事実であり、その神様の選びを信じます。どんなにいじめられようが、ダビデは、王の僕であることを伝えました。その結果、王が死んだ後に王様になっていくのです。これも神様を信じた結果なのです。
改めて、本日与えられた箇所であるローマの信徒への手紙を見てみましょう。「わたしたちはあなたのために一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている」のです。つまり神様に従うという事は、決して良いことばかりでなく、死にさらされて、いつ食べられてもおかしくない羊であることに気づかされた時、そんな状況は嫌だと誰もが思うでしょう。しかし、どんな状況下にあっても神様が共にいてくださる事実はわたしたちの励ましであります。神様の愛からは誰もどんなものも引き剝がすことはできないのです。なぜならば、神様との絆である愛はどんなものよりも強固だからです。それは信仰者ばかりでなく、全ての人に神様は愛を注がれているからです。ですから、あなたもわたしもすべての人が神様との愛に結ばれているのです。あなたが、転んでけがをしたとしましょう。そのけがを覆いかぶさってくださるのがかさぶたです。かさぶたはどんな人にもできます。それは傷を治す力を持っています。しかし、そのかさぶたをどうでしょうか?そのまま治るまで放置することが出来るでしょうか?わたしはかゆくなったらボリボリと引っ搔いてしまいます。また、血が出てきます。そして何度もその傷を癒そうと神様はかさぶたをしてふたを閉じさせるのです。何度も何度もわたしたちの傷を保護し、治すまで手放しません。そのような恵みをくださるのが神様です。だから私たちは神様を信じた時、万事が良きものへと変えられていくのです。
お祈りいたします。ご在天の主なる神様、感謝いたします。本日はローマの信徒への手紙から共に学ぶことが出来ました。わたしたちは屠られる羊かもしれません。しかしその羊をあなたは、ほおっておかず、愛を注いでくださることを確信しております。どうぞこれからもあなたの愛を注がれますようにお守りください。そしてすべての方がその愛に気づき、神様を知るきっかけが与えられますように。このお祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
2024年7月21日 「キリストはわたしたちの平和」 大下 正人 牧師
聖書箇所 エフェソの信徒への手紙2章11-18節
本日はエフェソの信徒への手紙2章より、「キリストはわたしたちの平和」と題してメッセージをさせていただきます。エフェソという町は古代ギリシャの商業都市で、使徒パウロが伝道旅行にて開拓した教会の一つです。この手紙は冒頭(1:1)で「エフェソにいる聖なるものたち」へと書かれていますが、続いて「キリスト・イエスを信じる人たちへ」とあるように、エフェソの町の教会だけでなく、その周辺の教会にも宛てて書かれた内容で、手紙は回覧されていたであろうと言われています。ですから、全ての教会に共通する問題に触れながら、キリストを頭とする「一つの教会」であることを述べている手紙です。先ほど使徒信条を読みましたが、その中の「公同の教会」とは時代や国、民族を超えた普遍的な性格を持つ、唯一の一つの教会であるという意味で、それを私たちは信じますと告白しています。
「キリストがわたしたちの平和」という表現は意味深いものです。まず、平和とは何かと考えますと、例えば戦争や争いがない状態と思いつくのではないでしょうか。聖書でいう平和(シャローム、平安があるように、とイスラエルの国では挨拶の言葉)とは、元来何かが欠如したりそこなわれたりしていない充たされた状態を指し、無事、安否、平安、健康、繁栄、安心、和解など、人間の全ての領域にわたっての神様の意志に基づいた、真の望ましい状態を指しているそうです。この意味でのわたしたちの平和がキリストであると、今日の箇所が記しています。
平和とは敵対していた関係が和解にいたる状態であります。ここでは二つの和解、2段階の和解について記されています。一つ目の和解は神様と人間の和解です。神様はそもそも人間を愛するために創造されたのですが、人間が罪ゆえにほんとうの神様の存在を否定し、自分の思うままに生き、神様に敵対し、人間同士でも敵対関係を作りだしてしまい、今の世の中に至っているといえます。神様は人間が争ったり、分断したりすることを望まれていませんし、そのような人の罪に対して怒りと悲しみを持たれます。しかし、神様はご自分の造った人間を愛し、かわいそうに思ってなんとか、人間を救おうとされました。そして神様から離れてしまった人間を救うために、イエス・キリストをこの世に送られました。その働きの目的は、キリストが仲介者となり、十字架によって神様と人々が和解することであります。
使徒パウロはローマ信徒への手紙5:8-10にこのことを記しています。
「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたので、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。」
また コリント信徒への手紙Ⅱ5:17-20にもこう記しています。
「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。 これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。 」
神様が私たちを愛して下さっていることは、わたしたちの罪を赦すためにかわりにキリストが十字架で死なれ、よみがえられたことに示されています。この救いを信じた者は死から新しい命へと移されます。この肉体で生きている限り見た目はかわらないかもしれませんが、内側(魂、心)が新しく創造されているという意味です。イエス・キリストのゆえに、私たちはすべての罪が赦されて救いにあずかっています。そして、この神様からの和解の言葉、キリストの平和の良い知らせを、知らない人々へ伝える奉仕を信じた者たちに委ねておられます。
二つ目の和解は、一つ目の神様と人間との和解を前提とした、人間同士の和解についてです。エフェソの信徒への手紙2:15に、「規則と戒律づくめの律法を廃棄」とあります。ここでの律法は特定的で厳格で外側のことを規定する律法、ユダヤ人と異邦人を区別されるためにあった規則で、例えば外国人との交際禁止の律法(使徒10:28参照)のことであり、神様がモーセに与えた律法ではなく人間が付け加えた様々な規則のことといえます。なぜなら、イエスは律法を廃棄するためにではなく成就するために、完成するために来られた(マタイによる福音書5:17)と言われていますし、使徒パウロはガラテヤ信徒への手紙3:24で「律法はわたしたちをキリストもとに導く養育係だ」と言っています。
どんなに平和を人間が求めても、お互いの利害が一致しないため、伝統や文化が異なるため敵対してしまいます。和平交渉はキリスト抜きでは行き詰まり、希望を失います。しかし、信仰に生きる者はキリストの体に生き、聖霊の助けによって共同体の仲間(つまり神の家族、エフェソ2:19)を愛して生きようと導かれます。キリストによって神の家族となり、一つになることは、イエス様が十字架にかかる直前に、弟子たちの前で父なる神様に祈って、お願いしてくださっています。ヨハネ17:21に
「父よ、あなたがわたしたちの内におられ、わたしがあなたがたの内におられるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。」
このイエス様の祈りは聞かれ、かなえられているからこそ、キリストを信じる者が教会として、キリストの身体の一部として、一つにされています。一般に家族というのはメンバーとして参加する共同体ではなく、その家族に生まれて家族であるように、私たちは神の家族として新しく生まれさせていただいています。
こうしてキリストご自身が私たちの平和であるからこそ、そのキリストに属している者もその平和にあずかれます。ですから私たちが一から平和を作り上げる必要はなく、イエス様がすでに来られて、全ての人に平和の福音を告げ知らせ(17節)、平和を打ち立てて下さったという御業を信じれば、キリスト者はこの世で良い業を行い(エフェソの信徒への手紙2:10)、平和に取り組むよう励まされます。互いにキリストを信じ、神の戒めである、神を愛し、自分を愛するように隣人を愛し、イエス様が弟子たちを愛されたように互いに愛し合おうとすれば、平和的な方向へ進んでいくでしょう。
目の前におかれた敵意、人間関係の修復、長く続く戦争の終戦は簡単ではありません、不可能に見えるかもしれません。しかし、自分でなんとかしようとするから不可能なのであって、主イエスにつながっていること、この大きな恵と神様の力を信じて、平和を祈っていきたいと思います。教会という神の家族の一人一人が、キリストの平和の福音を運ぶものとして世へ派遣されています。聖霊に助けて頂き、まずは自分の周りの人間関係から平和に向けて歩みだしていきましょう。
(引用 新共同訳聖書)
2024年7月13日 「初期キリスト信徒が大切にしていたこと」 大下陽子 伝道師
聖書箇所 使徒言行録2章41-47節
本日の聖書の箇所の直前は、聖霊が降誕した日、つまりペンテコステの様子が記され、続いてどのようにキリストの教会が誕生したかが記されています。使徒ペトロが聖霊の力を受け、エルサレムにいるユダヤ人たちに、十字架にかけられて死なれたイエス様を神様が復活させ、神様の右に上げられたこと、信徒たちに約束された聖霊を御父から受けて注いでくださったこと、神様はイエス様を主とし、メシヤとなさったことを大胆に語りました。すると、その場にいた3000人が悔い改め、キリストの名による洗礼を受け、ペトロたちの仲間に加わり最初のキリストにある共同体、つまり教会(エクレシア)が誕生しました。
現代の教会は宗派の違いは多少あっても、この初期の教会でなされていたこと、つまり使徒の教えを守り、祈り、洗礼と聖餐式を行い、主にある交わりを続けてきています。一方で、現代の教会は宣教のために伝道資金を集めて、教会堂をたて、付属施設を運営し、インターネットで広告宣伝し、オンラインで礼拝を配信し、また米欧諸国ですと政治的後ろ盾を得るために働きかけ、教会の社会的地位を確保することにも努力している教会もあるでしょう。現代の教会は当時の原始キリスト教会と比べると、複雑な社会の中で非常に忙しい状況にあるといえます。では、現代の教会において、初期の教会のように勢いをもって成長している教会はどれだけみられるでしょうか。教会がシンプルに礼拝をおこない、祈祷会をし、交わりをするという基本的なこと以外に、しなければならない活動がたくさんあります。それらの活動は必要でありますし、素晴らしいことです。この忙しい中で、どれだけ本来の教会がなすべきことに時間が注がれているかを常に確認する必要があると思わされます。
何事でも、状況が複雑になっていき問題が起こった時、迷いが生じた時、原点に帰ることが大切だと一般的にも言われます。ですから、教会のことにおいても初期のキリスト信徒たちは、どうだったかを聖書の御言葉から振り返ることは大切だと思います。当時の信徒たちは、教会堂もなく、宣教のための資金も効率的な手段など何一つ持っていませんでした。しかしペンテコステ後使徒たちは聖霊の力を受け、ペトロが説教すると一度に3000人(2:41、以下使徒言行録)、男性だけで5000人(4:4)が信仰に入り、多くの男女が主を信じ(5:14)弟子の数がますます増え、祭司も大勢加わりました(6:7)。信徒数は爆発的に増加していきました。なぜなら初期の教会では聖霊が働かれ、教会は聖霊によって力を得ていたからです。
彼らはまだその当時はエルサレムの神殿に集まりユダヤ教の礼拝も続けていましたが、同時に家々でも集まって、4つのことを熱心にしていたと42節に記されています。使徒たちの教え、相互の交わり、パン裂き、祈りを硬く守って行っていたと初期のキリスト者の活動の要約が記されています。
まず使徒の教えを守りとは、イエス様の教えを守ることであり、私たちはそれらが記される聖書を神の言葉として信じ、守ることであります。次に相互の交わりとは(交わりという言葉はコイノニア)、単に気のあう人同士で集まる関係ではなく、そこで私たちがキリストの体として一つであることを認識し、キリストの教会という共同体で共に聖霊に預かり、主の臨在に預かることに基づく、兄弟姉妹としての交わりです。私たちは皆、お互いの一部であり、キリストの体として調和して協力し始めます。3つ目のパンを裂くとはイエス様が「私を記念してこれを行いなさい」と言われたように、イエス様の十字架の死とその血による「新しい契約(ルカ22:20)」を思い起こし、深く覚えるということです。次第に主の日(日曜日)に家庭集会で集まり、礼拝を行い、共同の食事をし(愛餐)、イエス様による新しい契約を記念してパン裂きをし、のちには聖餐という儀式にかわっていきました。そして4つ目は祈りです。主イエスのみ名を通して天の父に共に祈ることは、祈りを通して父なる神、子なるキリスト、聖霊を私たちは体験することができます。使徒言行録4:24-31には信徒たちは心を一つにして、神に向かって声をあげて祈っていたと記され、12:12ではペトロが投獄されるとペトロのために集まって祈っていたことが記されています。今日の教会において礼拝とは別に、祈祷会が熱心に行われている教会は健全であると言われます。どんなに少ない人数でも、祈りのために時間をとって集まって皆で祈ることは、大切ではないかと思います。そして、教会の課題のためだけでなく、個人の祈りの課題をも共有し、祈りあうことで、お互いを知り、励ましあい、慰めあうことが出来るのが幸いです。
これらの4つを彼らが大事にし、熱心に行っていました。すると、周囲の人々に好意を寄せられ、主は救われる人を日々仲間に加えられ、一つにされたと47節に記されています。さらに2:44-47では信徒たちは、持ち物を共有し、神殿に集まり、一緒にパンを裂いて、食事を共にし、神を賛美していたと記されていますが、この中で、当時のエルサレムの教会でのみ行われていて、他の教会に継承されていないことも含まれています。一つは、持ち物を共有する共同体生活です。これはその時は真心を持ってみなで分け合おうという私欲を捨て、喜んで行われていたことかもしれませんが、使徒言行録には、そのことに起因する教会内の問題がおこったこと(やもめの食事の配分)も記され、また後日エルサレムの教会が貧しくなって、異邦人の教会からの献金がパウロを通してなされたことも記されています。一方で、一つの教会が財政的に困っていたら、他の教会が献金で支援するという助け合いの姿の原型もここで見ることができます。益子教会は、関東教区の教会が捧げてくださるナルドの壺献金と益子伝道を支援する会の献金、その他多くの個人の兄弟姉妹の方により支えられ、教会がこの地で礼拝を続けられることに主にあって感謝をしております。これは、まさに、同じキリストの教会として一つであるから助け合おうという愛の形の現れとして、現代の教会にも引き継がれている、キリストにあって共に生きる姿であると思います。もう一つは神殿に集まっていたということです。後に、キリストの教会が異邦人の信徒にも拡大していき、キリスト教がもはやユダヤ人だけのユダヤ教一派でなくなり、独立していくと、神殿ではなく家に集まるようになっていきます。
各教派によっては何を大切にするかはその歴史的発展段階で多少ことなり、礼拝の仕方も多様であります。その多様性を持つ個々の教会が存在すると同時に、すべての教会がキリストに結ばれて一つとされているのが、キリストの体である公同の教会です。そして、神様の言葉である聖書という共通の正典を通して、私たちも次世代へ信仰を継承し、福音を知らない人々に告げ知らせることができるのは、まさに神様の御業であります。
キリストの教会はキリストの救いと恵みに生きる者となった信徒の集合体であり、この世に福音を宣べ伝えるという使命を受けて、一人一人が呼ばれていることに変わりはありません。そして、救われる人の数だけに目を留める必要もないと思います。もちろん、大勢が救われることは大きな喜びですが、当時も毎日3000人救われたわけではなく、少ない人数の日もあったであろうと思います。しかし人数に関わらず、救いの喜びは同じです。神様の目には一人が救われることが重要であり、ルカによる福音書15章の見失った一匹の羊、失くした銀貨、放蕩息子のたとえにあるように、一人が悔い改めると天では大きな喜びがあるからです。私たちの教会でも、主が教会に送って下さる一人一人に対して、丁寧に、親切に向き合い、祈りつつ聖霊がその方に触れて、主イエスキリストを信じる信仰に導かれるようケアしていきたいと願います。
初期のキリスト信徒たちが日々の普通の生活の歩みが恵みに満たされ、主への愛と感謝を共に共有し、教会として大切な4つことを熱心に行っていたように、私たちの教会もまずこれらを基本とし、聖霊の導きに従って宣教の業に励んでいければと願います。現代においても、初期の頃と同じ聖霊が私たち一人一人の上に、教会の上に注がれ、キリストの福音が多くの人に御言葉を通して届くよう、祈っていきたいと思います。「主が救われる人びとを日々仲間に加え一つにされ」る(2:47)という希望を、御言葉の確証により受け取りたいと思います。
(引用 新共同訳聖書)
2024年7月7日 益子教会主日礼拝説教要旨 大下正人 牧師
聖書 マタイによる福音書 16:24~26
メッセージ「わたしのために命を失う者は」
マタイによる福音書16章は4つの文章によって構成されております。人々は天からのしるしを見せてほしいと懇願する場面、ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に気をつけなさいと語られる場面と、弟子たちに自分を何者だと思っているかと聞く場面と、ペトロをいさめた後に弟子たちにイエス様が生き方を語られている場面で構成されています。
はじめの二つの場面は、しるしを求める人々と律法を大事にする人たちに対して、どのように接し、どのように考えるべきかを弟子たちに教えられました。一方で後半の部分では、弟子たちに問いかけ、弟子たちに教えておられます。それは現在を生きているわたしたちにもイエス様は勧められっているのです。
21節からのイエス様は、自分のこれからの歩みがどのようになされるかを証します。そのような中で、弟子たちはその言葉に耳を疑ったのかもしれません。そしてペトロに対して「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者、神のことを思わず、人間のことを思っている」と言われた後、ペトロだけではなく弟子全体に語り掛けるのです。
「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」こう言われるわけです。皆さんにとって十字架とは何ですか?この問いにまず連想されるのは苦しいことと考えるかもしれません。ですが神様が示すものは苦しいことばかりではないのです。喜びも与えてくださるのです。つまり自分の価値基準でつらいことであり、苦しみと判断するものではないという事です。その人にとっては、神様と繋がる大事なことかもしれないのです。そのことを考えますと十字架は喜びも悲しみも含めた神様からのギフトであるという事に気が付くことが出来るのです。
では皆さんは自分の価値をどのように考えて、感じているでしょうか?もし給料という概念で自分の価値基準を考えてしまうのであれば、自分は毎月10万円しか稼ぐことしかできない月10万円の価値にしかなりません。その人を査定するのは給料ではありません。社会的立場でもありません。容姿でもありません。その判断基準は神様なのです。神様が査定し、神様がその価値を決めます。ですから自分の命を救いたいと思っているものはその命を失うことになるのです。地位や名誉、社会的立場で人を判断するという事がいかに愚かであることに気づかされます。一方で自分自身は無価値なものであったり、価値あるものとその日によって、感じることが違ってくるかもしれません。しかし神様の価値基準は変わらないのです。あなたたちを愛するから大切なイエスを与えてくださるのです。その思いは今も継続しているのではないでしょうか?つまり今も変わらずわたしたちを愛してくださっているのです。イエス様は神様に命を与えていただくために生きるヒントを与えてくださっています。それはどのようにすればよいでしょうか?それは自分を捨て、神様に従うという事であります。自分を捨てることの難しさは誰でも持っているかもしれません。しかし捨てることによって、楽になることがどれだけあるでしょうか。例えば自分ではなく他者から
「こうしたほうが良い」と押し付けられた時、それが自分と同等と思えれば、断ることが出来ますが、社会的立場を持っている人に言われれば、釈然としない思いに駆られます。あまりしっくりこない時、どうすればよいでしょうか?その時こそ、神様に委ねていく必要があると思うのです。そうすれば、必ずその願いは神様によって聞き入れてくださるかもしれません。神様は、その思いを受けて最善な道を与えてくださるはずです。もし神様が与えてくださる思いに納得できなければ、納得するまでトコトン祈るべきであるし、積極的に神様の交わりをすべきではないでしょうか?そうすることによって自分の気持ちに変化が与えられるのではないでしょうか?それが恵みであると考えることが出来るのです。
現在わたしたちはまさに神様との関係を修復していかなければならない時に差し掛かっているのです。そのことをわたしたちが考え始めることがわたしたちに命を与えてくださるのです。そしてわたしたちを愛してくださる神様の一方的な愛に気づいた時、わたしたちは神様に従うことを選択することが出来るのです。もっと神様を信頼し、神様に従うことが出来るように、神様の愛を受け入れ、イエスさまに従う時、わたしたちの救いは与えられるのです。
お祈りします。ご在天の主なる神様、本日はマタイによる福音書から共に学ぶことが出来ました。わたしたちは人間の思い、自分の思いが正しいと考えてしまうことを懺悔いたします。わたしたちは傲慢で自分のことしか考えていませんでした。しかしそのような者にも神様はイエス様を与えてくださり、わたしたちに愛を語り続けてくださることを感謝いたします。どうぞ多くの方があなたと出会い、変えられていくことが出来ますように導いてください。また自身も自分を捨て、あなたの道に従うことが出来ますように導いてください。このお祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
2024年6月29,30日 礼拝説教 大下 陽子 伝道師
聖書箇所 コリント信徒への手紙Ⅱ12:9-10 タイトル 「弱いときに発揮されるキリストの力」
この世の中は強いこと、健康であることに価値があり 弱いこと、病気であることは良くないという思考がまかり通っています。また、病の癒しや困難な状況の除去を祈ってもなかなか聞かれなくて、落胆することもあるでしょう。本日の箇所でパウロは、「弱いときにこそ強い」(10節)となぜ言えたのでしょうか。そして、現代に生きる私たちも同様に、弱いときに強いということをどのように体験し、神様の恵みに感謝できるのかを、聖書から示されたことをわかちあいたいと思います。
まず、このコリントの信徒ヘの手紙2 が書かれた背景についてご説明しますと、パウロは、伝道旅行を通してコリントにキリストの教会が建てあがりました。しかし、パウロが他の町へ移動した後、その教会に、おそらくエルサレムから送られてきた人びとが、パウロが使徒であることを否定し、パウロを誹謗中傷し、代わりに、自分たちはエルサレムからから推薦状を持ってきた、正統な使徒であると誇っているということが記されています。それを真に受けてしまった信徒たちが教会の中にいたので、パウロは彼が使徒であることを説明するだけでなく、コリント教会へのキリストの愛を示すために様々のことをコリントの教会に書き記しています。今日の箇所はパウロが主から示された二つの個人的経験を記しています。
パウロは、第3の天まで引き上げられるという経験をしたことを記しています。自分のことであっても、「わたし」(一人称)で記さず、3人称で書いていますが、よく読めばパウロのことだとわかります。そのような、誇ろうと思えば誇れた霊的なすばらしい体験にも関わらず、彼は14年間黙っていました。「わたしは誇らずにいられません。誇っても無益ですが、主が見せてくださった事と啓示してくださった事について語りましょう。 」(12:1)と誇ること自体が愚かだと承知しながら、パウロは使徒であるということを説明するためにあえて、主が見せて下さったこと、啓示して下さったことを、この機会に話しているのだと思います。
次の体験は、パウロが取り除いてほしい「とげ」のことについてです。そのとげとは具体的に何かと記されていませんが、おそらく身体的な病気や伝道をする上での障害ではないかと言われます。それを「取り除いて下さい」と神様に3度祈りました。しかしその答えは、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(9節)でした。この答えを受けて、パウロはとげがあるままの弱い状態だからこそ、キリストの力が彼のうちに宿って下さる、だから弱さを誇りましょうと、現代に生きる私たちをも励ましています。そのとげは、第三の天までに引き上げられたという経験をしたパウロを思い上がらせないように与えられたものでもあると言っています。
この祈りの答えを通して、神様はパウロに「力は弱さの中でこそ十分に発揮される」という恵みの約束を与えました。パウロはどんな状況においても、キリストの力が発揮されるという経験を幾度となく彼の生涯してきたことでしょう。ですから10節に記されるよう「それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。 」ということが出来たのだと思います。神様の約束は私たちに信仰を生み、信仰は希望を強めます。神様は私たちの「困難を取り除いてください」という祈りに対して、困難を取り除かれない場合があります。代わりに困難に神様の恵みを加えて困難の意味を変えることがあります。
個人的な証しですが、私は42歳の時に胃がんになりました。手術で胃をほとんど摘出、最悪の場合は全部を摘出することもありますと説明を受けました。私は「御心ならば癌を消してください。たとえそうでなくとも手術がうまくいくようお任せします」と祈りました。結果、直前の検査ではがんは消えていませんが、私には平安が与えられ、恐れず開腹手術を受けることができました。その後が、ある意味試練の時でした。術後に後遺症に悩まされ、仕事を休職して一人で家に療養していた時にうつ的にもなり、世の中からも教会からも取り残されたように感じ、せっかく神様に助けて頂いた命を感謝する思いが削られるという、身体的にも信仰的にも試練の時期でした。この辛い、不信仰の状態、弱い私に神様は恵を加えてくださり、困難の意味を変えてくださいました。つまり、この後、仕事を辞めて、療養目的で両親が当時仕えていたアメリカの日本人教会へ行くために、移住する道が開かれたのです。そして、両親の伝道を手伝っているうちに、伝道者への召命が与えられはじめました。私の場合、癌をなくしてくださいという祈りは聴かれませんでしたが、それは神様の恵みがそんな弱い私に注がれ、アメリカで日本人向けに信徒伝道をしていた時、神様の力が発揮されて求道者や友人たちに聖書の学びの家庭集会を開くことができたのは驚きです。もしこの闘病の時期がなかったら、アメリカにも行くこともなく、献身することもなかったかもしれません。
実は、主イエス様ご自身が、弱い時にこそ強いということを、身をもって示された方でした。コリント信徒への手紙Ⅱ 13:4に
「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています。」
イエス様は社会的に疎外されていた人々、弱い人々に寄り添われました。屠り場にひかれる小羊のように、十字架刑に引き渡され、死なれました。しかし、このことは私たちの罪が赦されるため、また神の力により復活されて栄光を受けられ、そのことを信じる私たちも、イエス様とともに神様の力によって生きるようにして頂くためでした。
また、神様はあらゆる恵みの源であり、主イエス・キリストの十字架を通して、私たちを救い、永遠の栄光に招いてくださっているとの御言葉がペトロの手紙1 5:8-10に記されています。恵みの神様が苦しんでいる私たちを完全なものとし、強め、力づけ、揺らぐことないように、神様がして下さるとの約束が私たちにも与えられていることは大きな励ましです。また パウロは使徒20:32にて、エフェソの教会の長老たちに伝えているように、御言葉が神様の恵みであり、そしてこの御言葉が私たちを作り上げ、キリストを信じて聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせると記しています。
この世に生きている限りおこりうる悲しみ、困難を通して、自分の弱さを認め、神様に委ねた時、私たちの力ではなく、内に住まわれるキリストの力が発揮されるとの約束が私たちに与えられています。この神様の恵のみことばをいつも心に蓄え、何度も読んで味わい、日々様々なことがおこっても、弱さのなかに働かれる主の力が発揮されることを信じましょう。神様によって万事が益になるように共に働くという、ローマ8:28にしるされている希望を持ちつつ、キリストによる救いの喜びを忘れず、日々祈って聖霊の導きに従って歩んでいきましょう。
(引用 新共同訳聖書)
2024年6月23日 益子教会主日礼拝説教要旨 大下 正人 牧師
聖書 ガラテヤの信徒への手紙 1:11~12
メッセージ「イエス・キリストの啓示によって」
わたしたちにとって、聖書とは何でしょうか?改めてそのことを考えていきたいと思います。聖書は神様の霊感によって書き綴られたとされていますから、神様の意志が含まれております。しかしイエス様が現れるまでどうだったでしょうか?神様の思いの真意をわからぬまま、わたしたちに伝えられておりました。ですから律法を学んできた人にとっては、律法こそが神様の意志であるとしてきました。それは間違いないと思います。しかし、どうでしょうか?はじめから正しく学んでいなければ、スタートの時点で間違えていたという事にさえ気づくことが出来なかったのです。パウロ自身も告白していますように、自分もユダヤ教の一員であり、律法を有名な律法学者ガマリエルに学んだという思いは強かったと思います。ですからはじめはキリスト者を苦しめる立場にいましたが、ダマスコ途上で神様の業によって目が見えなくなっていくのです。そして本当の神様であるイエス様に出会い、変えられたのです。
しかし皆さんどうでしょうか?当時新約聖書は存在しませんでした。福音書が書かれたのは80年代位とされております。他の福音を語る者が沢山おりました。神様の福音は一つなのですが、善いことばかりではなく、時には悪いことも予言されます。しかし他の福音と呼ばれているものは都合の良いことしか伝えていないのです。その結果善いことばかり語る福音に心を傾けてしまうのです。パウロはこう述べております。ガラテヤの1章6節から8節にこんなことが書かれております。キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、他の福音に乗り換えようとしているのに、わたしはあきれ果てています。他の福音と言っても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです。
ですから、パウロは本日の言葉である1:11~12で福音についてこのように書かれています。兄弟たち、あなたがたにはっきり言います。わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。わたしたちはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。
そして自分自身の立場はイエス・キリストによって大きく変えられていくのです。以前の自身を語るとともに、15節以降で生まれる以前からつまり母の胎内にある時から選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたときその福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき、わたしは、すぐ血肉に相談するようなことはせず、福音宣教者として働き始めるのです。その後のパウロは福音宣教者として、様々な場所に行き神様を語るのです。その宣教の業は行く先々でこう言われるわけです。「かって我々を迫害した者が、あの当時滅ぼそうとしていた信仰を、今は福音として告げ知らせている」と聞いて、わたしたちのことで神をほめたたえておりました。褒め称える者もいれば、パウロのことなんか信じないと苛立ちを覚える者もいたと考えるとパウロの歩みは非常に大変だったと思います。しかしその困難な業を乗り越えられた原動力もパウロが本当の神を知った喜びがあったからです。
わたしたちも神様のことを信じていても、今なお間違った考えのほうが正しいと信じているならば、神様を信じ切ることはできません。神様の素晴らしさは人間では決して選ばない者を選び、神様を伝える者として歩ませたことであります。わたしたちが不可能と感じることも神様ならできると信じることが出来た時、わたしたちに与えられた福音の豊かさを感じることが出来るのです。それは人間の教えではなく、人間の思いではなく、イエス・キリストの啓示によって知らされていくのですから、真の業は神様がイエス様を与えようとする愛こそがわたしにとっての神様の福音であることを聖書から学ぶことが出来るのです。
お祈りいたします。ご在天の主なる神様、本日はガラテヤの信徒への手紙から本当の福音とは神様がイエス・キリストを与えてくださったことを改めて学ぶことが出来ました。感謝いたします。またあなたは、わたしを生まれる前から選ばれ、あなたを信じる者、あなたの言葉を語る者としてくださったことを励みにこれからの歩みをあなたに献げたいと思います。困難な時代ですが、神様の恵みの体現者として歩むことが出来ますようにお守りください。このお祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
2024年6月16日 益子教会礼拝説教要旨 大下 正人 牧師
聖書 ヨハネによる福音書 6:34~40
メッセージ「わたしが命のパンである」
本日与えられた聖書はヨハネによる福音書です。この6章の前半部分ではイエス様のもとに集まった5000人がイエス様と食事を共にする場面から始まります。食事を共にするということは、ただ食べるという行為だけではありません。隣同士で語り合ったり、冗談を言ったり、悩みを打ち明けたり、様々な物がその場から生まれます。もちろん一人で食べる場合であってもおなかを満たす以外にも新しいアイデアが浮かんだり、気分を変える時などに有効かもしれません。また新たな一歩を踏み出すことのできるものかもしれません。誰もが食事をして栄養をいただくのです
その食欲が満たされれば、次の欲を人間は欲していくのではないでしょうか?その様な状況下で、食事によって満たされた人たちがイエス様のもとに集まったのです。そしてイエス様にそのような状況下でこう指摘されるのです「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを探しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満福したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。この後いくつかの応答があり、その導き出した答えが34節の「主よ、そのパンをいつも私たちにください」その言葉でした。しかしどうでしょうか?今までイエス様が何度となく伝えてきた言葉ですが、そのイエス様がわたしたちにかけてくださる言葉を本当に真剣に聞いていたでしょうか?なぜ何度も同じことを懇願するのでしょうか?そのことつまり神様とつながることは大事であるという事はわかっていても、やり方がわからない、説明されても理解できないといった現象が生じるのは、心の底から学ぼうとする意思が働いていないのではないでしょうか?この教えのほかにもっと大事なことがあるのではないだろうか?自分が学んできた答えと違うなど、違和感こそがイエス様を理解することが出来ない大きな要因ではないでしょうか?つまり信じ切ることの難しさを造り上げているのは人間自身かもしれません。
イエス様はさらに答えます。「わたしのもとに来るものは決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。この言葉はどれほどわたしたちを強めてくださるでしょう。このことがどれほど励ますでしょうか?この命の言葉をわたしたちにかけてくださるのに本当にもったいないことです。そのこともイエス様はご存じです。しかし前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。見えていても見えないふりをし、聞こえていても聞こえないふりをします。それは、地位ある人。知恵のある人、財力など力ある人に限ってイエス様の存在を無に変えようとするのです。つまりイエス様をどんなにありがたい存在であっても、最終的には受け入れることが出来ないのかもしれないのです。ですがイエス様は、わたしたちを招いておられるのです。父である神様を求める限り、イエス様を通らなければならないこともイエス様はご存じなのです。イエス様のもとに来るものを追い出さず、呼び寄せてくださるのです。父がわたしにお与えになる人はみな、わたしのところに来るわたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。」なぜならば。神様の御心とは、子を見て信じる者がみな永遠の命を得ることであり、わたしたちがその人を終わりの日に復活させることだからである。
お祈りいたします。
ご在天の主なる神様、本日は、ヨハネによる福音書からあなたの御言葉をいただきました。わたしたちは、興味本位ではなく、純粋にあなたのことを求めていくものとさせてください。あなたは見える印よりも見えない信仰を大切にされる方です。どうぞわたしたちが深くあなたのことを愛し、信じることが出来ますように導いてください。そして世界中の者があなたの愛に触れる喜びに満たされますように。このお祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
2024年6月8,9日 礼拝説教 大下 陽子伝道師
本日はエフェソの信徒への手紙2章より、「キリストはわたしたちの平和」と題してメッセージをさせていただきます。エフェソという町は古代ギリシャの商業都市で、使徒パウロが伝道旅行にて開拓した教会の一つです。この手紙は冒頭(1:1)で「エフェソにいる聖なるものたち」へと書かれていますが、続いて「キリスト・イエスを信じる人たちへ」とあるように、エフェソの町の教会だけでなく、その周辺の教会にも宛てて書かれた内容で、手紙は回覧されていたであろうと言われています。ですから、全ての教会に共通する問題に触れながら、キリストを頭とする「一つの教会」であることを述べている手紙です。先ほど使徒信条を読みましたが、その中の「公同の教会」とは時代や国、民族を超えた普遍的な性格を持つ、唯一の一つの教会であるという意味で、それを私たちは信じますと告白しています。
「キリストがわたしたちの平和」という表現は意味深いものです。まず、平和とは何かと考えますと、例えば戦争や争いがない状態と思いつくのではないでしょうか。聖書でいう平和(シャローム、平安があるように、とイスラエルの国では挨拶の言葉)とは、元来何かが欠如したりそこなわれたりしていない充たされた状態を指し、無事、安否、平安、健康、繁栄、安心、和解など、人間の全ての領域にわたっての神様の意志に基づいた、真の望ましい状態を指しているそうです。この意味でのわたしたちの平和がキリストであると、今日の箇所が記しています。
平和とは敵対していた関係が和解にいたる状態であります。ここでは二つの和解、2段階の和解について記されています。一つ目の和解は神様と人間の和解です。神様はそもそも人間を愛するために創造されたのですが、人間が罪ゆえにほんとうの神様の存在を否定し、自分の思うままに生き、神様に敵対し、人間同士でも敵対関係を作りだしてしまい、今の世の中に至っているといえます。神様は人間が争ったり、分断したりすることを望まれていませんし、そのような人の罪に対して怒りと悲しみを持たれます。しかし、神様はご自分の造った人間を愛し、かわいそうに思ってなんとか、人間を救おうとされました。そして神様から離れてしまった人間を救うために、イエス・キリストをこの世に送られました。その働きの目的は、キリストが仲介者となり、十字架によって神様と人々が和解することであります。
使徒パウロはローマ信徒への手紙5:8-10にこのことを記しています。
「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたので、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。」
また コリント信徒への手紙Ⅱ5:17-20にもこう記しています。
「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。 これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。 」
神様が私たちを愛して下さっていることは、わたしたちの罪を赦すためにかわりにキリストが十字架で死なれ、よみがえられたことに示されています。この救いを信じた者は死から新しい命へと移されます。この肉体で生きている限り見た目はかわらないかもしれませんが、内側(魂、心)が新しく創造されているという意味です。イエス・キリストのゆえに、私たちはすべての罪が赦されて救いにあずかっています。そして、この神様からの和解の言葉、キリストの平和の良い知らせを、知らない人々へ伝える奉仕を信じた者たちに委ねておられます。
二つ目の和解は、一つ目の神様と人間との和解を前提とした、人間同士の和解についてです。エフェソの信徒への手紙2:14-16に、「規則と戒律づくめの律法を廃棄」とあります。ここでの律法は特定的で厳格で外側のことを規定する律法、ユダヤ人と異邦人を区別されるためにあった規則で、例えば外国人との交際禁止の律法(使徒10:28参照)のことであり、神様がモーセに与えた律法ではなく人間が付け加えた様々な規則のことといえます。なぜなら、イエスは律法を廃棄するためにではなく成就するために、完成するために来られた(マタイによる福音書5:17)と言われていますし、使徒パウロはガラテヤ信徒への手紙3:24で「律法はわたしたちをキリストもとに導く養育係だ」と言っています。
先ほど、コリント信徒への手紙Ⅱ5:17で「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。」とお読みましたが、人間同士の和解には、まず双方がキリストを信じて、キリストに結ばれて新しく創造される必要があります。キリストは二つの敵対している双方(ここではユダヤ人と異邦人ですが、異邦人同志の敵対関係も含み)をご自分において一人の新しい人に造り上げることで、平和を実現し、十字架を通して両者を一つの体として神と和解させ、その結果人間同士の間に和解をもたらすゆえに、「実に、キリストはわたしたちの平和であります。」(14節)とつながるのです。
どんなに平和を人間が求めても、お互いの利害が一致しないため、伝統や文化が異なるため敵対してしまいます。和平交渉はキリスト抜きでは行き詰まり、希望を失います。しかし、信仰に生きる者はキリストの体に生き、聖霊の助けによって共同体の仲間(つまり神の家族、エフェソ2:19)を愛して生きようと導かれます。キリストによって神の家族となり、一つになることは、イエス様が十字架にかかる直前に、弟子たちの前で父なる神様に祈って、お願いしてくださっています。ヨハネ17:21に
「父よ、あなたがわたしたちの内におられ、わたしがあなたがたの内におられるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。」
このイエス様の祈りは聞かれ、かなえられているからこそ、キリストを信じる者が教会として、キリストの身体の一部として、一つにされています。一般に家族というのはメンバーとして参加する共同体ではなく、その家族に生まれて家族であるように、私たちは神の家族として新しく生まれさせていただいています。
こうしてキリストご自身が私たちの平和であるからこそ、そのキリストに属している者もその平和にあずかれます。ですから私たちが一から平和を作り上げる必要はなく、イエス様がすでに来られて、全ての人に平和の福音を告げ知らせ(17節)、平和を打ち立てて下さったという御業を信じれば、キリスト者はこの世で良い業を行い(エフェソの信徒への手紙2:10)、平和に取り組むよう励まされます。互いにキリストを信じ、神の戒めである、神を愛し、自分を愛するように隣人を愛し、イエス様が弟子たちを愛されたように互いに愛し合おうとすれば、平和的な方向へ進んでいくでしょう。
目の前におかれた敵意、人間関係の修復、長く続く戦争の終戦は簡単ではありません、不可能に見えるかもしれません。しかし、自分でなんとかしようとするから不可能なのであって、主イエスにつながっていること、この大きな恵と神様の力を信じて、平和を祈っていきたいと思います。教会という神の家族の一人一人が、キリストの平和の福音を運ぶものとして世へ派遣されています。聖霊に助けて頂き、まずは自分の周りの人間関係から平和に向けて歩みだしていきましょう。
2024年6月2日 益子教会主日礼拝説教要旨 大下 正人 牧師
聖書 使徒言行録 2:43~47
メッセージ「救われる人は一つとなる」
先週の水曜日、木曜日埼玉県の大宮で関東教区の総会が行われました。関東教区というのは新潟、埼玉、茨城、群馬、そして栃木と5つの県で構成されています。その教会の牧師と信徒で構成された総会であります。その中で時間を毎年費やしているのが選挙であります。今回の選挙は日本基督教団の総会議員を選ぶ選挙であります。その内容は牧師14名、信徒14名を選ばなければなりません。皆さんどうでしょうか?長年知っている方についてはある程度選ぶことが出来ます。しかし、顔も名前も知らない人も含めてとなると非常に困難さを覚えます。特に信徒は2年で変わっていきますので選ぶのに時間がかかります。総会では毎年議論されるのは、全数連記となっております。ある声では、半数連記のほうが良いという意見も出ます。意見が分かれるわけです。しかし折角様々な場所から集まってくるのですから、もっと議論し、共有する課題が沢山あるのです。今回、課題提起があったのは関東教区の財政的なこと、こどもたちの未来の宣教について、そしてこれからの宣教課題です。まず教区の財政的なことですが、以前から財政が厳しい状況は変わりません。しかしコロナによって拍車はかかったかもしれないのです。つながりという面では、教会に来ることができなかった人がインターネットを通じて、礼拝に参加できるようになりました。しかし、礼拝出席者が減り、献金額が減ったという事も事実として受け止めなければなりません。また教区全体として会議等もzoomなどを用いて会議費が大幅に下がった経緯を考えて、様々な努力を求めていかなければ、財政的に枯渇するとの報告を受けました。
また子供たちの問題も深刻でこれは信仰継承の難しさと共に、こどもの人口の比率の右下がりの状況も含めて課題提供されました。こどもたちが教会と関わりを持つことを充実させていくことの困難さは以前から指摘されております。
そして、これからの宣教課題として、一教会一牧師で支えきれない状況が広がりつつある中でどのように福音の業を伝えていくべきであるかを課題として考えさせられました。このような大事な問題を抱えているわけですから、わたしたちはもっと議論を重ねていかなければならないのではないかと思うのです。
本日与えられました聖書の使徒言行録から考えていきたいと思いますが、本日の2章のはじめで弟子たちに霊が降り、霊によってそれぞれの言葉で神様の言葉を話しました。最後に言われた36節で、だからイスラエル全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。人々はのこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「わたしたちはどうしたらよいのですか」といった。すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたのこどもにも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださるものならだれにでも、与えられているものなのです。」ペトロは、このほかにもいろいろ話をして力強く証をし「弱なこの時代から救われなさい」と勧めました。それによって多くの方が洗礼を受け、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であったと記されています。このように人々の心に神様が入り、神様が送り出されたイエス様を信じるようになったのです。そして弟子たちは様々な場所で不思議な神様のしるしを行ったのです。多分無料でそのこともあって、民衆全体に好意を寄せられたのです。そして主は救われる人を一つにされるのです。わたしたちを取り巻く環境も今邪悪な世界なのかもしれません。様々な災害や戦争、経済主義の中で、様々な情報が錯綜します。わたしたちも一番大事なことに気が付くべきであります。信じた人が使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることを熱心にすれば、神様がわたしたちを招いて一つにしてくださることを信じ歩んでいきましょう。
おいのりいたします。
ご在天の主なる神様、本日は、使徒言行録から御言葉が与えられました。どうぞ神様の歩みをなしていけば、必ず主の下で一つとしてくださることを信じます。どうぞわたしたちが様々な問題に惑わされず、神様の業を行っていくことが出来ますように導いてください。そしてすべての人が主に導かれますように。このお祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
2024年5月26日 益子教会主日礼拝説教要旨 大下 正人 牧師
聖書 ルカによる福音書 13:10~17
メッセージ「安息日であっても」
わたしたちは、どんなに目の前で行われる素晴らしい業であっても、決まり事で出来ること、出来ないことを決めてしまいます。しかし神様はわたしたちにイエス様を通して本当の意味を伝えようとなさるのです。今回わたしたちが考えなければならないのは、安息日についてです。そもそも安息日とは何でしょうか?安息日とは神様が世界を創造された後、休まれた日を記念して制定されたものです。つまり一週間の一日つまり安息を設け、仕事をしないで神様のことを考えなさい。もしくは神様が与えた家族や友人と一緒に神様と過ごしなさいとする日であります。その日は働いてはならないと言っているのは、実は仕事のことで頭が一杯になりがちですが、神様と向き合う日なので仕事に没頭するのではなく、神様のことを考えなさいというのが本来の意味であります。しかし、いつの間にか安息日は仕事をしてはならないという強制的な思いに変えられていくのです。なぜ神様が与えられたものがそのような強い命令的になったかは、律法を神様から与えられた時から時間が過ぎ、変えられたのではないかと考えられます。つまりもともとの意味に付け加え、その意味を間違えて教え継がれた結果かもしれません。その様な状況下の中でイエス様が現れ、安息日に腰の曲がった婦人を癒されたことは大きな意味があるのです。
聖書によれば、安息日にイエス様は会堂で教えられておりました。その場所は、イエス様が毎日訪れる場所ではなかったと考えられます。なぜならば、安息日に会堂で教えられている時、腰の曲がった女性を見て、その婦人を呼び寄せるわけです。たまたま会堂で教えている時に、その女性を見かけたのです。以前からの知り合いではなかったわけです。もし昔から知っていたのであれば、すぐにでも治されたのではないでしょうか?そう考えますと18年間何も出来ない状況が続いたのかもしれません。ですけども安息日に会堂に出かけ、神様の信仰を失わずにいた素晴らしい女性であったのではないでしょうか?その証拠にその女性はイエス様を賛美するのではなく、神様を賛美したのです。きちんと神様がその腰の癒しを施してくださったと理解したのではないでしょうか?
一方で会堂長はどうだったでしょうか?イエス様がなさった行為に腹を立てるわけであります。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない」
この言葉は正論に聞こえますが、実は、神様が与えてくださった律法を、間違って覚えている可能性があるのです。人は誰でも教え学んだ事柄を「間違った。」と素直に受け入れることは難しいです。ましてやそれが正しいことと叩き込まれれば、間違っていても間違っていないと思い込むかもしれません。その会堂長に続いて、もう一つの懸念は、その会堂長に同調する人たちであります。つまり自分の過ちに対しても、「自分は間違っていない」と自負し、「安息日は絶対に働いてはならない」と束縛されている人たちに対してもイエス様は疑問を投げかけるのです。あなたがたも自分の飼っている牛やロバを仕事から解放し、世話をし、命を育んでいるのです。ですから水をやり、餌を与えているではないのですか?だったら、18年間サタンに縛られている女性を安息日であっても束縛を解いてやるべきではなかったか」と言われたのです。その言葉に反対者は恥じ入ったわけでありますが、一方でその言葉によって律法で苦しい思いをした人たちは、そのイエス様のなさった数々の素晴らしい行いを見て喜ぶわけであります。もしも、会堂長も自身が発した言葉を過ちだと認め、イエス様がなされたことを称賛することが出来たのであれば、もっと神様の律法に対しても豊かな思いを抱いたのかもしれません。そう考えますとその機会を与えてくださる神様の計画は、イエス様に出会わせようと考えられたのかもしれません。
わたしたちは改めて、なぜ神様がわたしたちを創造し、神様の約束である律法を授けたのかを考えなければなりません。それは、神様のことを考える安息日であっても命の働きを考える必要があるのです。今苦しんでいる人の苦しみを取り除き、寂しい思いをしている人に寄り添い、声をかける。つまり神様が与えられた人を愛し、大切にすること。それこそ神様が与えられた律法を正しく理解し、神様の思いを大切にすることにつながるのです。
お祈りいたします。
ご在天の主なる神様、感謝いたします。あなたはルカによる福音書から信仰の大切さとあなたが与えてくださった安息日の本当の意味を教えていただき感謝いたします。わたしたちはこれから安息日の本当の意味をとらえ、神様のことを考え、神様が愛しておられる家族を大切にして歩んでいきたいと思います。どうぞ知恵と力と愛を与えてください。そして多くの方があなたの愛に触れずにおります。どうぞその様な人が一人でも減りますように。そしてすべての人があなたのことを考えながら過ごすことが出来ますようにお祈りいたします。このお祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
2024年5月19日 益子教会主日礼拝説教要旨 大下 正人 牧師
聖書 マルコによる福音書 1:9~11
メッセージ「あなたは私の愛する子 わたしの心にかなう者」
本日は、ペンテコステ礼拝です。ペンテコステというのは50という意味であります。十字架の死から復活したイースターから50日たったという記念の日であります。イエス様はルカによる福音書によれば復活してから40日間一緒に弟子たちと過ごしたと書かれております。その際弟子たちに神様のことを伝え、天に昇られました。残された弟子たちはどのように過ごしていたかというと、神様の言葉をあまり積極的には語らなかったのかもしれません。むしろ人々の目を避け、家に閉じこもることが多かったのではないでしょうか?なぜならば、イエス様がいなくなり、自分たちの命を狙う者たちが沢山いたのかもしれません。もう一つの理由は、弟子たち自身、イエス様がいなくなって不安を覚えていたのかもしれません。誰でもそうだと思うのですが、自分がよりどころとしているものがなくなるという事は非常につらいものです。ましてやイエス様が目の前からいなくなって生きる気力もなえてしまったのではないでしょうか?そのような時、霊が注がれるわけです。これはイエス様が天に昇られる前に弟子たちに約束していた霊です。
その霊は弟子たちそれぞれに与えられました。その結果、弟子たちは様々な言葉を話し始め、神様の言葉を語りだしたのです。もちろん神様のことはイエス様から学び、知っておりましたが、霊が注がれた時に大きな音が鳴り響き、様子を見に来た人たちの出身地域の言語を使って語りだすのです。弟子たちは、その言語を学んだのであれば納得が出来ますが、しかしその弟子たちは言語を学んだわけでもありませんし、また専門的な言葉をわかりやすく伝えることの難しさは、同じ言葉あっても難しいのです。それを霊が与えられてすぐに行ったのは、一般的な考えの人にとっては酒にでも酔っているのではないかと思われるぐらい信じられないことでした。この霊を与えられた時、イエス様も宣教活動を始めました。
本日はイエス様が霊を与えられた聖書の記事から共に学んでまいりたいと思います。どの福音書にも書かれておりますが、本日は、一番初めに書かれたとされるマルコによる福音書から共に学んでまいりたいと思います。洗礼者ヨハネがヨルダン川で「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と語り、多くの方がヨハネから洗礼を受けました。イエス様も同様に洗礼者ヨハネから洗礼を受けるためにヨハネにお願いし、洗礼を受け、水から上がった瞬間に天が裂けて霊が鳩のように下って来るのをご覧になった。そして神様からこの言葉をかけられるのです。「あなたはわたしの愛する子 わたしの心にかなう者」この言葉こそイエス様が霊を受けて宣教活動をする始まりとなったのでありました。皆さんはこの出来事をどのように受け取ったでしょうか?イエス様が洗礼を受けたからこそ天が裂けて、霊が降ってきた光景だけをとらえてしまいがちですが、実はその後語られる神様からかけられた言葉こそ重要なのです。洗礼は神様を知り、信じたいという思いから自身の決断によって受けようと決意します。しかし洗礼は、自身の思いがなくとも幼児洗礼という形で受けることが出来ます。しかしそこに神様の言葉がなければ洗礼は完成しないのです。つまりもっとも重要な神様がわたしたちを愛してくださり、神様の心にかなう者と受け入れられて初めてキリスト者として歩み始めることが出来るのです。つまり弟子たちも同じで、どんなに神様を信じ、神様の御言葉を語る知識を得ても霊が与えられなければ、つまり神様が認め受け入れられなければ、虚しいものとなってしまうのです。だからこそ、わたしたちを受け入れ、霊をくださった神様に感謝しなければなりません。それがこのペンテコステの本当の意味なのです。わたしたちは霊のとらえ方は様々です。目で見える者もいれば、耳で聞こえる者もおります。においで感じる者もおります。心で感じることもできるでしょう。そう考えた時神様の豊かさを感じることが出来るのです。
わたしたちも、今年3月に土地を購入することが出来ました。これは霊の業に他ならないと感じています。土地購入に関して何度か挫折を感じることがありました。やはり無理なのではないか?と思う事もありました。しかし神様はその都度解決してくださったのです。金額的なこと、教会規約なこと、行政的、法律的な人員が与えられたことなど、様々なことはみんな神様が与えてくださったからこそ、購入することが出来たと心より思っております。つまり神様の意図は、益子で伝道を続けなさいとわたしたちを愛し、心にかなう者と認めてくださったのではないでしょうか?だからこそ私たちは力を込めて、神様のことを伝えていきたいと思います。霊が語らせるままに神様の福音を宣べ伝えていきたいものです。更に私たちは神様との関係を深め、祈りを充実させ、神様の喜びの調べを賛美していきたいと思うのです。
お祈りいたします。御在天の主なる神様、今日こうしてペンテコステの礼拝を捧げることが出来まして感謝いたします。わたしたちはあなたが霊を与えてくださり、わたしたちを愛し、認めてくださったことを感謝いたします。どうぞあなたの霊にますます燃えてあなたのことを伝えていくことが出来ますように導いてください。わたしたちは、小さな群れですが、あなたの愛と力と霊を信じます。あなたがいつも先頭にいてくださり、わたしたちを導き、また後ろから支えてくださることを感じることが出来ます。わたしたち恐れはありません。どうぞ宣教の業を担わせてください。そしてあなたのお手伝いをすることが出来ますように。このお祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
2024年5月12日 益子教会主日礼拝説教要旨 大下 正人 牧師
聖書 ヨハネによる福音書 21:15~19
メッセージ「わたしを愛しているか」
皆さんは、何か重要な話をしようとする時、どんな時に、話をするでしょうか?食事の時でしょうか?それとも何か忙しい時にでも話をするでしょうか?いずれにしても片手間で聞く話は、頭に残りません。イエス様は、そのことを十分に配慮し、食事を終えたタイミングを見計らって、ペトロにこんな質問を致します。それが本日の聖書箇所ヨハネによる福音書21:15~19です。この箇所は何度も読んだことがある人も多いかもしれませんが、初めて読むような気持になって触れていきたいと思います。「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」この言葉をイエス様はペトロに投げかけました。もちろんペトロ自身も誰よりもイエス様を愛しているという自負があったでしょうから、自信をもって答えるわけです。「はい主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたご自身がご存じです」とこう答えるのです。皆さんはどう感じたでしょうか?たぶんペトロの思いとしては、一生懸命あなたに仕え、共に歩み、共に学び、食事を共にしているのだから、わたしの行動そのものでわかるでしょう。と考えていたのかもしれません。しかしイエス様は、そうは捉えていなかったのかもしれません。むしろイエス様は、表面的な愛を求めて質問したのではなく、むしろ内面的に愛することの大切さを聞き出そうとしたのかもしれません。「ヨハネの子シモン」と冒頭で書かれているように姿勢を正して、改めて質問をしていると考えた時、その質問の内容の重さを受け取ることもできたのかもしれません。しかしペトロはそのようなことはあまり考えなかったかもしれません。そしてイエス様がそのペトロが答えた言葉に対して、「わたしの子羊を飼いなさい」と言われたのです。
そして再びイエス様が「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」と聞くと、ペトロは同じように「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることをあなたがご存じです」つまりイエス様自身がペトロの働きや言動を見ればわかるでしょうとイエス様にペトロ自身がどれだけ尽くしているか評価してくださいとイエス様を愛していることをアピールしているかもしれません。その答えに対して、イエス様は、「わたしの羊の世話をしなさい」と語られるのです。
そしてもう一度ペトロに聞くのです「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」この言葉にペトロはどのように思ったでしょうか?皆さんもどうですか?短い時間に何度も同じ質問を聞かれたら、うんざりします。悲しくなります。自分がアピールしたことも理解してもらえないという気持ちから「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」とその様に語った時、「わたしの羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは、若い時は、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年を取ると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れていかれる」と答えたのち、「わたしに従いなさい」と言われたのです。
この物語を見て、一貫して言えることは、ペトロの言葉に対してイエス様が語った言葉は、
1回目は「わたしの子羊を飼いなさい」2回目は「わたしの羊の世話をしなさい。」そして最後に「わたしの羊を飼いなさい」と語られたのです。つまりイエス様を愛する証明は、まず子羊を飼うこととされたのです。つまり一番手にかかるこどもから愛することを学ばせるのです。見た目はかわいくとも、いろいろなことを知らないために精神的にも肉体的にも大変な取り組みです。その子羊を飼うことによって本当の愛を理解させようと考えられたのかもしれません。そして次に、羊の世話をしなさい。と語っています。つまり子羊ばかりでなく、血気盛んな羊も、年を加えた羊も世話をさせ、愛の思いを育ませようとしたのかもしれません。最後に「羊を飼いなさい」という事はその愛を育んだ羊の命をも守ることに責任を持ち、仕える愛を学ばせようとしたかもしれません。しかしどんなに若い時は、伝道に燃え、愛を全うする働きを行うとしても、年を加えた時、自分自身の力ではどうすることもできなくなり、他の人に帯で手を縛られ、身動きすら自由でできず、自分の望まない場所に行くことになることを示唆します。つまりイエス様を愛するという事はそういったことを覚悟しなければ愛することが認められないのかもしれません。しかしそれでもなおイエス様はペトロに「わたしに従いなさい」と語ってくださるのです。
お祈りいたします。
ご在天の主なる神様、こうしてヨハネの福音書から私たちにイエス様から「わたしを愛しているか」と投げかけられた思いが致します。わたしたちは愛していると自信を持っていてもイエス様が求める愛に達していないかもしれません。そのため「羊を飼いなさい」とミッションをいただきました。どうぞその様な羊が与えられ、わたしたちが羊の世話をし、責任をもって羊を飼うことが出来ますように導いてください。そして私に従いなさいともいわれました。イエス様がわたしたちを愛してくださったようにイエス様に従っていくことが出来ますように導いてください。このお祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
5月11日 土曜礼拝 説教 大下陽子 伝道師
聖書箇所 ヨハネによる福音書16.章4-15節 タイトル 「弁護者:聖霊の働き」
来週は教会歴ではペンテコステ(聖霊降誕日)となります。それに先駆けて、本日はヨハネによる福音書より、聖霊の働きについて皆さまと分かち合わせていただきたいと思います。
イエス様は十字架にかかる直前に、弟子たちに最後の話をされます。その中で「私のいくところに今ついてくることはできない(13:36、以下ヨハネによる福音書)」「わたしは去っていくが、また戻って来る」(14:28)と話され、また弟子たちが今後イエス様のゆえに迫害にあうこと(15:18-27)を話されました。すると弟子たちは「先生はどこへ行ってしまうのか?」と心が騒ぎ、悲しみで満たされていました。
この前の箇所で、イエス様はイエス様が去るからこそ、父が別の弁護者つまり聖霊が送られ、永遠に彼らと一緒にいるようにしてくれることを説明しています(ヨハネ14:26)。ヨハネ14:16で、イエス様がいなくなっても、聖霊が弟子たちとともにおり、内にいるから、「私はあなたがたをみなしごにしておかない」と聖霊を与える約束を弟子たちに話しています。(14:18)
ヨハネによる福音書は聖霊を「弁護者」と紹介しています。他の訳では助け主、ヘルパー、協力者と訳されていますが、原語のギリシャ語の意味は「呼ばれたら傍にきてくれる者」「呼ばれてそこへ来た人」です。人が「助けてください」と呼ぶと、傍にきて助けてくれる人という意味で、弁護人・弁護士の意味を持つようになったそうです。また「慰める者」「励ます者」という意味もあり、「慰め主」と訳す聖書もあります。聖霊はイエス様が天に戻られた後、私たちの内に住み、そばにいて助けてくれる方だからです。聖霊は私たちの傍にいて、助け導き、慰めを与え、励ましてくれる方です。たとえ聖霊が目に見えなくとも、感じられなくとも、何か不思議な体験(例えば幻をみた、声が聞こえた)などがなくとも、聖霊が内に住んでおられ、働かれていることを信じることが大切です。
また聖霊は真理の霊として、私たちを教え、導きます。イエス様はヨハネ14:6「私は道であり、真理であり、命である」とご自身を真理と言われましたので、イエス様が真理であります。ですから聖霊が真理の霊であるかぎり、聖霊は自分からかたるのではなくイエス様から聞いたことを語り(16:13)、イエス様について証しをされます(15:26)。一方で、父がイエス様の「名によっておつかわしになる聖霊が、イエス様が話したことをことごとく思い起こさせる」(14:26)とありますので、父なる神様からも遣わされています。なぜなら父と子は一つだからです(10:30)。つまり父と子と聖霊の示すことには矛盾がありません。真理の霊はわたしたちをみちびき、真理をことごとく悟らせるとイエス様は言われています(16:13)
そして、聖霊の重要な役割は人々を救いに導くことです。聖霊は罪、義、裁きについて、この世の誤った理解・認識を明らかにするとあります(16:8-11)。それは人々に救いをもたらすためであり、これら3つ罪、義、裁きは十字架の御業について示しています。まず罪について、この世は罪というと、刑法上の罪・違反のことと思います。聖霊は罪とはイエスを信じないことであると示します。これが根本的な罪であり、そこからさまざまな罪が派生していきます。イエス様を信じないということは、神様が私たちに与えてくださった救いの方法、イエス様の十字架の御業を拒否するということです。
義については、義とは一般的に「正しいこと」と捉えますが、義の概念は人や国によって異なり、相対的です。だからお互い、自分たちの義が正しいと主張するところに争いが起こります。しかし、聖霊が明らかにする義とは、イエス様が召天されたことであると記しています。つまり「義とは、天の御国には入れるイエス様のような正しさ」という、絶対的な義を示しています。すると誰もイエス様のような正しさはないことになります。しかし、神様は、私たちに信仰によって義と認めて下さる道を私たちに与えてくださいました。イエス様が、私たちの代わりに罰を受けてくださることによって、私たちが正しいとされる、つまり義が私たちに着せられ、神様はキリストにあって私たちを正しいと見てくださり、天に迎えてくださります。
裁きについては、人は裁きというと自分や他人が裁かれることと思います。しかし聖霊は「この世の支配者が」つまり悪魔が十字架のみわざにおいて、裁かれることを明らかにします。ヘブル人への手紙にこう書かれています。「それは死をつかさどる者、つまり悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために生涯、奴隷の状態にあった者達を解放なさるためでした。(2: 14-15)」とあります。聖霊はこのように十字架による救いをこの世の人々に示す役割をし、イエス・キリストを信じる信仰に導きます。
救われた後、聖霊は信徒のこの世で生活と教会において働いてくださいます。その働きはたくさんありますが、こここでは主要な働きをいくつか述べます。まず、父なる神様への祈りを可能にするために働いてくださいます。私たちは祈るとき「天の父なる神様」と呼びかけ、イエス・キリストのみ名によって祈りなさいと、イエス様が言われたように、祈るとき、そこに聖霊が働かれます。パウロはローマ8:16にて「この霊こそはわたしたちが神の子供であることをわたしたちの霊と一緒になって証してくれる」とし、神の子とする霊を受けて神様に「アバ 父よ」と親しく呼ぶことができます。あたかも子供がその信頼しているお父さんに話しかけるようにして父なる神様になんでも祈ることができます。
また聖霊は、わたしたちがどういのったらよいかわからない時も、代わりに父なる神様のみこころに従って、とりなしてくださるとローマ信徒への手紙8:26-27で記されているとおりです。私たちは意識していなくとも、祈りと礼拝、また黙想において、父なる神様、子なるキリスト、聖霊との交わりに自身も含めて頂いていることを実体験しています。
次に、聖霊は御霊の実を結ばせ、互いに愛し合えるようになれるよう信仰を成長させてくれます。パウロはガラテヤ信徒の手紙5章16-26節で、霊の導きに従って歩めば、肉の欲望を満足させるようなことはなく、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制とし、霊の導きに従って歩もうと励ましています。励ましているということは、これが書かれた時代のクリスチャンも御霊の実を結べていなかったから、パウロは彼らを励ましており、そして現代でも神の言葉は、変わらずに私たちを励ましているわけです。
最後に 聖霊はイエス・キリストを証する力を信徒に与えます。私たちは人の反応を恐れてしまうと、何も言えなくなってしまいます。しかし、聖霊の力が上から注がれると、ペトロが大胆に人々に十字架につけられたイエスがキリストであり、復活されたことを大胆に証しし、大勢の人が一度に信じたことは、まさに聖霊の力によります。このように、現代に生きる私たちにもペトロに注がれた同じ聖霊の力が、イエス様を証しようとするときに与えられます。
証しは、聖書の内容を全てしっていなくとも可能です。原始キリスト教会では、普通の人々が聖霊の力を受けて、周りの人々にキリストのことを口コミで伝え、福音が伝えられていきました。神様が私たちを愛して、キリストにおいて何をして下さったか、そして自分がどう変えられたかを、つまりイエス様の十字架によって、罪が赦され、神の子供とされるという大きな恵について、そしてそのキリストを信じることで自分の心に平和が与えられていることを具体的に人々に証しできるでしょう。証の機会は生活の中で様々な形で与えられるかもしれません、人間関係で悩んでいる人からの相談、平和を求めて、どうしたらよいのかと模索している人との会話など、その機会さえも、神様が与えてくださります。証した後は、その人に聖霊が働かれるよう祈り、その人の救いを祈っていくことが私たちのやるべきことです。救われるのは神様のなさる業で、私たちはキリストの福音を証しし、み言葉の種をまくことです。
教会は聖霊の働きによって集められた信徒の群れです。聖霊がイエス・キリストに対する信仰を創り、信じ続けることを可能にし、キリストを証しすることをも可能にしてくださります。聖霊の働きによって、イエス・キリストが今も共にいて下さることを私たちは体験し、聖書を通して神様をもっと知り、私たちの生活を通してキリストに栄光を帰せるよう導いて下さいます。このような聖霊の助けによって、私たちはキリストの身体:教会として一つの霊によって一つに結ばれ、神様と主イエス・キリストを礼拝し、互いにキリストの愛を示し、人々にキリストを証しする機会が与えられるよう祈っていきたいと願います。
2024年5月4日 益子教会主日礼拝説教要旨 大下 正人 牧師
聖書 ルカによる福音書 17:1~4
メッセージ「赦してやりなさい」
わたしたちは、誰もが罪を犯します。それは、創世記の中で、神様がちりとあくたを集めて人間を創造されたと書かれております。そのようなものからでさえ神様はおつくりなられたのですが、わたしたちを造る際、神様の姿に似せて創られるわけであります。その似姿は神様の思いが沢山詰まっています。ですけども、人間は神様に言われたことを守ることが出来ず、エデンの園の中央にある善と悪を知る木の実を食べてしまい、エデンの園を追い出されてしまうのです。その際、神様に言い訳をして、自分ではなく相手に勧められて仕方なく食べてしまった。という自己弁護をアダム、エバどちらも証言しています。この時に人間は罪という意識を持つようになったのです。
それでは罪と赦しの関係を考えてみたいと思います。まず罪とは何でしょうか?罪は神様に対する罪と人間同士の関係の中で起こりうる罪とがあります。神様に対する罪は、神様を無視することであり、神様の声にそぐわない動きをした時に罪という概念が生じるのです。一方で人間に対する罪は自分以外の人を傷つけてしまう事であります。身体的であったり、精神的であったり、大切なものを盗まれたり壊された時、罪が生まれるのです。はじめに語らせていただきましたようにわたしたちは神様であれ、人間であれ、罪を犯してしまうのです。誰でも罪を犯す危険性は常に意識していかなければならないでしょう。
では実際に罪を犯したとき、皆さんはどうするでしょうか?何もしないでしょうか?できれば間違っていれば謝罪することがベストの選択ではないでしょうか?しかもすぐに。わたしたちはなかなか謝ることが出来ません。なぜならプライドを持っているからです。自分は間違っていないと絶対の自信があるからです。だから謝ることが出来ないのです。しかし実際に謝っても心の底から謝っていなければ、その思いは相手に伝わらないのです。形式的な謝罪は帰って印象を悪くするかもしれません。わたしは教誨師として受刑者との接点があります。その際受刑者に言うことがあります。もしも罪を認め謝罪をする思いがあるならば、誠心誠意、謝りなさい。1回で許してもらえなければ、2回3回と謝り続けなさい。自分がこれだけ謝ったから赦してもらえるだろうと自分本位で考えないようにしてください。つまり相手が赦さない限り、謝罪は成立しません。と伝えています。それは人間に対してもそうですが、神様に対しても誠心誠意心を込めて罪を犯した告白と共に赦しを得る祈りを致します。神様はその思いを受け止めてくださるでしょう。しかし人間は罪の度合いによっても相手を赦すことが出来ないものなのかもしれません。それは、お金で買えるものばかりではないからです。つまり命に関するものはお金では解決できません。それどころか、生涯赦す概念を持つことが出来ないかもしれません。そのような時に被害者に寄り添う事が出来るのが神様の存在かもしれません。わたしたちは、人が赦すことが出来なくとも罪人である私たちを神様が赦してくださるという事を知っています。一方で、自分の大切にしている家族や友人を奪われ、戻ってこない状況になってしまった時、その状況を造った者が悠々と家族と仲良く過ごしている様を目撃したらどうでしょうか?もしかしたら殺意さえ芽生えてくるかもしれません。そのような状況下に陥った時、人は呪いの言葉を口にしてしまう事でしょう。ですがそのような時でさえ、呪いの言葉を与えるのではなく、相手の祝福を祈りなさいと言われます。すぐにはできないかもしれません。ですが神様ならできるのです。いや神様しかできないかもしれません。わたしたちは神様が何とかしてくださると思える信仰に立ち帰った時、初めて赦すことが出来るのかもしれません。それは長い道のりかもしれません。短いかもしれません。必ずその悲しみの淵から引き揚げてくださることをわたしたちも信じて生きましょう。そしてイエス様はわたしたちに言われます「赦してやりなさい」その言葉には、他の箇所で書かれているように7の70倍つまり490回赦し続ける勧めも書かれているのです。わたしたちは互いに「ごめんなさい」「いいよ」と言い合える環境を目指してまいりましょう。
お祈りいたします。
ご在天の主なる神様、本日はルカによる福音書の中から罪と赦しの関係を学ぶことが出来ました。わたしたちは神様に対して、相手に対して罪を犯します。どうぞ素直にごめんなさいと言えるように変えさせてください。また、相手を赦すことが出来るように寛大な心を与えてください。また、罪を受けた人が慰められ、新たな歩みをなすことが出来ますようにあなたが寄り添ってあげてください。このお祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
2024年4月28日 益子教会主日礼拝説教要旨 大下正人 牧師
聖書 フィリピの信徒への手紙 2:6~11
メッセージ「イエス・キリストは主である」
わたしたちにとって、神様とはどんな存在でしょうか?想像していただきたいのですが、ぱっと頭に思い描くのは絵画で書かれたイエス様の顔かもしれません。また顔を思い出せなくても、聖書に書かれてあるイエス様の行動や言葉によってイエス様を想像できるかもしれません。旧約聖書のエゼキエル書に神様の姿を描写しているところもありますので、興味のある方は、ぜひエゼキエル書を開いて想像いただきたいですが、人間が想像しえない姿形であります。このように神様というイメージは人によっても文化によっても大きな違いがあるのです。しかし神様という存在は、絶対的なものであり、わたしたちが手に届かない存在であり、完全なものであるという事が言えるのではないでしょうか?つまりイエス様も同様に神様と同じ存在であると言えるのです。
ですがイエス様は、神様と同等であるにもかかわらず、そのことにこだわらず、わたしたちと生活し、共に喜び、共に苦しみ、喜怒哀楽を分かち合ってくださったのです。そして神様とわたしたちを和解させるために十字架にかけられました。その行為は神様の計画でもありましたが、イエス様ご自身もゲッセマネの祈りの中で、できれば取り除いてほしいと願いつつも、最後は神様の御心のままにと神様の意志に従いました。このことは、イエス様がおっしゃっていたように「友のために命を捨てることこれよりも大きな愛はない」と言っておられるように愛の実践をイエス様自ら行ってくださったのでした。わたしたちは、その言葉と行いによってイエス様を信じることが出来たのです。もしも、十字架の死がなければわたしたちはイエス様を多くいる預言者の一人としてみていたのかもしれません。そう考えますとなぜ人は聖書に惹かれるのでしょうか?御言葉を知った時、安心や喜びを得るのでしょうか?聖書に神様を感じたからではないでしょうか?しかし、興味を抱く者もいれば、遠ざかる者もいます。なぜなら、多種多様な世界だからです。様々な神様がいます。様々な環境があります。様々な文化があります。そして様々な人がいろんなことを考えています。お金や経済のこと、世界情勢のこと、災害、生活、家族目まぐるしく問題が行き交う中で自分や家族のことで精一杯で神様のことなんて考えられません。これが現状かもしれません。
しかし私は、そうではないと考えています。つまり目まぐるしく動く中で自分の気持ちを保つことが困難な時ほど、わたしたちは神様を求めていかなければなりません。イエス様のもとに近づいた長血を患った女性は、人混みの中で何とかイエス様の服の房を触りさえすれば何とかしてくださると必死な思いで触りました。また病を治していただこうと懇願する者は過ぎ去ろうとしたイエス様に向かって更に大きな声を上げて、助けを求めました。その求める声に対して、イエス様は耳を傾け、答えてきたのです。ですから声を上げた時、心で祈った時、神様はその声をそして祈りをキャッチしてくださるのです。それはどんな時に苦しむ声を聞いてくださるのです。しかしその行いや言葉を目の当たりにしても信じることが出来ない人がおります。しかしそのような心の持ち主でさえも決してあきらめない神様であります。わたしたちが神様に振り向き、心変えられるまで忍耐の愛をもって愛を送り続けてくださっているのです。
わたしたち人間の思いで始めた戦争もどのような形で終わりを迎えられるか想像がつきません。どうすれば戦争という悪を投げだすことが出来るのでしょうか?もし出来るとすれば神様しかもう止めることが出来ないかもしれません。わたしたちは事あるごとく祈り、神様の救いを求めていくしかないのです。そのようなムーブメントが世界を包み込むとき、神様の介入が始まるのです。その時人は、真の神を知り、大きな声で叫ぶようになるでしょう。「イエス・キリストは主である。」わたしたちはその時が来るのを、希望をもって忍耐の愛をもって共に歩んで参りましょう。
お祈りいたします。ご在天の主なる神様、今日はフィリピの信徒の手紙から「イエス・キリストは主である」ということを共に学ぶことが出来ました。わたしたちはいつの間にか自分のことや家族のことで頭がいっぱいになり、苦しくなった時にあなたから遠ざかり、あなたに願う事さえ忘れてしまいます。しかしその苦しい時にこそ神様を思い出し、神様に祈ることが出来ますように、そしてあなたに委ねていくことが出来ますように導いてください。この世の中はまだ迷いの中にあります。まだ欲に支配されています。どうぞその欲という悪から解放されますようにわたしたちを導いてください。そしてすべての人があなたを知った時「イエス・キリストは主である」と大きな声で叫ぶことが出来ますように導いてください。また明日からの業が神様に守られますようにこのお祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
2024年4月21日 益子教会主日礼拝説教要旨 大下正人 牧師
聖書 エフェソの信徒への手紙 4:9~16
メッセージ「満ちあふれる豊かさになるまで」
わたしたちは、神様によってあらゆる賜物を与えてくださっています。その賜物はどのように与えられるかと申しますと本日の聖書箇所であるエフェソの信徒4章7節にこのように書かれています。わたしたち一人一人に、キリストのはかりに従って、恵みが与えられています。実際に私にどれだけの信仰があるかわかりません。わたしたちは、数値をある程度の目安として図ることを好みます。なぜならわかりやすいからです。しかしどうでしょうか?自分は優れているという数値を得ることが出来たとしても、他人から見ているとまだまだだなと考えられるかもしれません。その様に判断は個々人によって判断が違ってくるのです。しかし神様の目は平等でその人に応じたものを与えてくださるのです。わたしたちはその賜物によって、福音の業に携わり、キリストの体を造り上げていくのです。つまり神様がわたしたちに与えた賜物が神様の一部となっていくのです。
わたしたち一人一人は未熟です。成熟するためには、様々な経験や学びは必要です。では信仰を極めようとするならば、わたしたち自身が神様と語り合い、御言葉と向き合い、神様と共に歩もうと決心しなければ信仰を極めることはできません。聖書を何度も読んで丸暗記できるほど熟読しても信仰を極めることが出来ません。なぜならば、読むだけならば、字さえ読めれば文章を読むことが出来ます。しかしその内容をいかに理解し生活に活かし、自分が嫌なことであっても神様が与えたものとして喜びを持つような思いを持てれば、周囲から信仰深いと思われるかもしれません。しかし自分は納得できないかもしれません。また何年で習得できるというものでもありません。そのように考えた時に信仰を極めることの難しさを痛感するのではないかと思います。しかし神様を信頼していけば、必ずキリストの完成者になりうるのです。なぜならばわたしたちが信仰の完成者になろうとするならば、神様の力であったり、神様の愛であったり、神様の憐れみであったり、神様の霊が絶対的に必要になるのです。そのキリストの霊をわたしたちが身に帯びた時、揺らぐことのない信仰を得る道が開かれるのです。その信仰は、時代によって変わりやすい風のような教えではありません。キリストを知れば知るほど、わたしたちがその満ちあふれた思いで満たされるはずです。なぜならばわたしたちがその御言葉の体現者として神様がはかりにかけてくださったのです。そのような風のような教えはいつの時代にも出てきます。しかしその風のような教えに負けない内容を聖書は持っているのです。神様が預言者を通して書かれたことも、福音書記者が神様を知ってもらいたいと考えて書いた福音書も、イエス様が天に上げられた後、霊を与え、弟子たちが活動した記録も、使徒となったパウロの手紙も、ヨハネの黙示録のような未来的終末論も古く書かれた物でありますが、現在にも大いに生かされているのです。聖書が生きた書物と言われるゆえんです。なぜ今もなお語り続けているのでしょうか?それは愛というものを神様がわたしたちに与えよう、理解させようとしたのかもしれません。学校教育の中でも道徳というものがあります。数学や化学や歴史だけでは人間を形成することが出来ません。わたしたちは自分だけで生きているのではなく、様々な人との交わりによって生活しています。いわゆるHow toものと言われる指南書は完全ではありません。一般論の部分とその個人との接し方は違います。聖書を読めば、そのことをどうすればよいか、どうすれば人と仲良くできるかなど様々な問題に対応できるようになるとわたしは確信しています。神様の知恵に勝る者はないのです。
わたしたちには、様々な種族、言語、環境、考え方があります。しかしわたしたちが神様の愛をその自分と違った人と分かち合うのであれば、キリストの部分である節々が補い合っていけば、わたしたちはキリストによってしっかり組み合わされ、結び合わされ体を成長させるのです。わたしたちは神様の愛によって造り上げていくのです。自分自身がそのような者ではないと思っていたとしても、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長させてくださるのです。その様にしてくださる神様を信じて歩んでいこうではありませんか。
お祈りいたします。ご在天の主なる神様感謝いたします。わたしたちをあなたの豊かな恵みに導いてくださる愛を感じることが出来ました。わたしたちはあなたを信じていけば、完熟した者になりうることが出来る確信を得ることが出来ました。しかしこの世にはあなたの愛を知らない者、受け入れることが出来ない者も沢山おります。そのような中で、何が正しいか、何が自分を高めることが出来るかを正しく見極められるようにしてください。わたしたちが考える判断基準ではなく、神様が考える判断基準をもって、お互いのことを補い合うことが出来ますように導いてください。このお祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
2024年4月14日 益子教会主日礼拝 説教 大下陽子 伝道師
「イエスは良い羊飼い」 聖書箇所 ヨハネによる福音書10章11-16節
主イエス様と私たちキリスト者の関係は良い羊飼いと羊の関係に非常によく描写されます。羊という動物は、人に飼われないと生きていけない、自立できない動物です。羊は群れで行動し、群れからはぐれると自力で帰ってくることができません。羊はその生活すべてにおいて、羊飼いを頼って生きることができる。例えば羊の毛は人にカットしてもらわないと伸びつづけ、毛の重さて皮膚がはがれ、ついには死に至ってしまいます。以前ニュースで、オーストラリアで瀕死の迷い羊が数か月ぶりに発見されたという写真を見たことがあります。その羊は羊毛が伸び放題で巨大化し動けなくなっている状態でした。その憐れな羊は保護された後、毛がカットされ、皮膚の手当を受け、生き延びたという話です。また、羊は自分で水やえさを求めて移動せず、羊飼いが導かないと、草がなくなってもその場にじっとしています。ですから羊飼いが群れを水辺や草が生えているところへ移動させます。けれども、羊の優れているところは、自分を養ってくれる羊飼いの声を認識し、その声に群れでついていくそうです。他の羊飼いの声には反応しないのでしょう。
旧約聖書にて、羊飼いと羊の関係は神様と神様の民イスラエルとの関係に象徴されています。また羊飼いは神様がイスラエルの民を養うため、神様が任命したリーダーとしての比喩で用いられ、実際モーセもダビデ王も羊飼いでした。しかし、エゼキエル書34章では、主なる神が自らご自分の群れを探し出し、彼らの世話をすると預言されています。なぜなら神様が「イスラエルの牧者」として神様の民の世話を任せた指導者たちは、神様の民を養うどころか、自分自身の利益を求め、力づくで過酷に民を支配し、散らしてしまったのです。そのことは、古代イスラエルの歴史を見れば、他国に国を奪われ、捕囚の身になって連れていかれたことからもわかります。そこで、神様はご自分の群れを彼らの手から救い出し、ご自分が群れを世話すると言われています。そしてこの預言は、イスラエルの民だけでなく、すべての人々の良い羊飼いとして神様から遣わされたイエス・キリストによって実現することになります。
イエス様は良い羊飼いです。その対比で、悪い羊飼いもいるということです。悪い羊飼いは雇われているので、自分の羊ではないから、狼やクマがくると羊をおいて逃げさります。しかし、イエス様はご自分の命によって贖い(買戻し)、ご自分の所有である羊を大切にケアし、守ってくださります。良い羊飼いは、個々の羊の性格を良く知っていて、羊も羊飼いを知り、その声を他の羊飼いのものと聞き分けるように、私たちも他の偽の神や教えから聞き分けられるよう、内に住む聖霊が助けてくださいます。羊は羊飼いを信頼し、委ねて安心して生きるように、私たちもイエス様に属するものとして、いつも大切に扱われていること、様々な困難な状況により、神様は自分を見捨たのかと疑うような迷いが生じても、正しい道に軌道修正してくださること、敵から守ってくださることを日々体験することで、安心してすべてを委ね、イエス様の声つまりみ言葉を聞いて従っていこうと、日々励まされることは幸いです。 また、イエス様がいかに人々のことを気にかけていたか、イエス様の地上での生涯において、良い羊飼いとしての愛の業が示されています。マタイによる福音書9:35-36では「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。 また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」と記されています。イエス様は村や町をまわって、現場をまわり、人々の苦しみ悩みに寄り添い、群衆の状態が飼い主のない、つまり世話を受けていない羊のように、どんなに弱く、打ちひしがれているかをかわいそうに思ってくださる方です。
そして、イエス様は私たちが、いのちを得ることができるよう、ご自身の命を十字架で捨てて下さるほど、私たちを愛してくださいます。11節と15節で「良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」と2回イエス様は言われています。さらに16節ではイエス様はユダヤ人以外のすべての人(囲いの外の羊)をも導かれ、ひとつの群れにすると言われます。「この囲い」とはユダヤ人のことで、囲いの外の羊はその他のすべての民族のことですが、イエス様の所有の羊である限り、一人の羊飼いのもとで群れとしては一つにしてくださるのです。現代で、キリスト教に多くの宗派がありますが、使徒の時代から受け継がれてきた同じ信仰を持ち、同じ聖書を神の言葉として信じていれば、イエス様によって一つのキリストの教会にされることは可能です。私たちは、人種や宗派や時代が異なっていても、キリストに結ばれてキリストの教会として一つであり、良い羊飼いであるイエス様の所有の羊として互いに愛し合い、イエス様の再び来られることを待ち望みつつ、困難な状況にあっても互いに励ましあえることは、なんと幸いでしょうか。最終的には、全世界の教会がキリストにあって一つとなることで成就しつつあります。
旧約聖書の詩編23編では、良い羊飼いである主なる神様の愛のご性質が示され、弱く、助けが常に必要な私たちを養い、導いて下さることがダビデによって書かれています。この詩編はまさに、イエス様を通して、主はわたしの良い羊飼いであることが実現しているといえます。私たちが主イエス様の羊である限り、何も欠けることがなく、休ませてもらえ、憩いの水のほとりに導かれ、魂を生き返らせてくださり、主の御名にふさわしく、私たちを正しい道に導かれる。どんな危険な困難な状況にあっても、私たちは主が共にいて下さるのでおそれない、鞭と杖によって 私たちを力づけて下さることが約束されています。主が共にいて下さることは、マタイによる福音書1:23でイエス様の名がインマヌエルと呼ばれ、その意味が「神はわれわれと共におられる」という、お名前の通りです。
ヨハネによる福音書の中心的メッセージは3:16に記されるよう「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」と言えます。「世を愛された」、つまりこの世の人々を愛し、イエス様を信じるように導かれ、そして信じた者が一人も滅びないで永遠の命を得るために、この世にきてくださったと、その目的が記されています。イエス様はヨハネによる福音書10:10で、「わたしが来たのは、羊が命を受ける為、しかも豊かに受けるためである。」と言われるように、私たちが命を豊かに受けるために、ご自身の命を十字架で犠牲にされ、復活されました。そのことが、10:18に記され、リビングバイブルの訳ですと、「だれもわたしの意に反して、わたしを殺すことはできません。わたしが、自分から進んでいのちを捨てるのです。わたしには、いのちを自由に捨て、もう一度それを得る権威と力があるからです。父がこの権威を下さったのです。」となります。イエス様は自分で命を捨てる力、権威があり、それを再び受ける力と権威があると言われ、イエス様の十字架の死は、ローマ兵に殺されたのではなく、ご自分で息を引き取られたことは、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」(ルカ23:46)、「成し遂げられた。(別訳 完了した)」(ヨハネ19:30)と記されているとおりです。 命を再びうけるとはイエス様の復活のことを示しています。そしてそのことは、18節で父なる神からうけた掟を、権威とも訳されますように、イエス様は天の父なる神様と一つであり、その意思にそって、十字架の死と復活という救いの御業を私たちのためになしとげる力をお持ちなのです。
わたしたちは、生活のなかで、イエス様の声を聴いているでしょうか。イエス様が命を捨ててくださったおかげで、私たちの救いが成し遂げられたというその御業を覚え、いつも感謝し、み言葉を心に留めていたいと思います。何か心揺さぶることがおこっても、詩編23編を思い出し、良い羊飼いであるイエス様がわたしと共にいて下さることを思い出し、私たちの魂のケアをしてくださるその大きな愛のなかに安心して憩い、イエス様の声(みことば)に聞き従って日々歩んで行きましょう。
2024年4月7日 益子教会主日礼拝説教要旨 大下正人 牧師
聖書 ルカによる福音書18:9~14
メッセージ「罪人の私を憐れんでください」
今日、与えられましたルカによる福音書から「罪人の私を憐れんでください」と題しましてメッセージをさせていただきたいと思います。イエス様は、自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても御言葉を語りかけるわけであります。皆さんは、自分は正しいと思っているでしょうか?自分の考えこそ常識と考えていないでしょうか?その様なことは、誰でも考えるかもしれませんし、そうなってしまう可能性があります。なぜなら人間は完全ではないからです。完全でないからこそ、わたしたちは失敗もしますし、間違った考えを押し付けてしまうのです。でもそんなわたしたちをもイエス様は御言葉によって気づかせようと今もなお働きかけてくださるのです。
本日の場面で二人の登場人物が出てきます。一人はファリサイ派の人で、二人目は徴税人の人です。二人は神殿に祈りを献げに参りました。ファリサイ派とは分け隔てるという意味があります。つまりファリサイ派の人たちは、自分は神様から与えられた律法を大切にしていて、律法を守らないあなたがたとは違います。と自らアピールしている人たちであります。一方で徴税人はローマの税金を治めるために様々なものに税を課し、お金を徴収する者でありました。社会的に町の人からもあまりよく思われていない者でありました。
二人の祈りは対照的です。ファリサイ派の人はこのように祈りました。「わたしは他の人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者ではなく、また、この徴税人のようなものでもないことを感謝します。わたしは週に2度断食し、全収入の十分の一を献げています。」このお祈りを聞いて皆さんはどう思われるでしょうか?自分は、もしかしたらこのように祈っているかもしれないと感じました。自分では意識していないことは沢山あります。でも相手側に立つと気づかずに傷つけてしまっているかもしれません。いつの間にか差別してしまっているのかもしれないのです。わたしたち人間は偏った考えを持つことがあります。その偏った考えは小さなときに教育を受け、そのように植え付けられることもありますし、様々なメディアによって情報を得て、間違った捉え方をしてしまうかもしれないのです。それは誰にも押し寄せてくる事実です。その事実を正しく認識するには本当に正しい知識を身につけなければなりませんし、何よりも相手を重んずる尊敬の念を持ち、相手の気持ちに寄り添う思いをもって行動すること、そして何よりも神様から愛されていると愛を自覚しなければ、わたしたちはその教育や情報の波に飲み込まれてしまうのです。そしてファリサイ派の人がもう一つ加えたことは正しい行いをしていると自負しています。自覚をもって行うことは素晴らしいのですが、その言葉を深読みしすぎたかもしれませんが、ファリサイ派の特徴である分け隔ての心、つまり差別化し、自分たちは特別な存在であると思いが心の奥底にあったのかもしれません。
一方で徴税人はどうだったでしょうか?遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。「神様、罪人の私を憐れんでください」こう祈ったのです。罪の自覚を持つとわたしたちは謙虚さが生まれます。おごり高ぶりを捨て、悔いる心が芽生えます。そのような心を神様は祝福されるのです。わたしたちもこのように祈りたいと思い、心が震える思いであります。
わたしたちは本日の箇所のように、ファリサイ派の人のように祈る場合もあれば、徴税人のように悔い改めの祈る場合があります。ファリサイ派の人のようなおごり高ぶる思いは誰でも起きます。それはどんな時に起こるでしょうか?それは人生が良い状態の時に起こりうることがあります。自分の人生が豊かになればなるほどそのように陥りやすいのです。また私たちが徴税人のようになる時、それは自分の人生を顧みた時に本当にわたしたちは正しさをもって人生を歩んできたのだろうか?そう顧みた時に私たちは罪人の私を憐れんでくださいと心からの叫びをすることが出来るのではないでしょうか?神様はわたしたちの心がどのような状況であるかを知っておられるのです。
お祈りいたします。
御在天の主なる神様感謝いたします。本日はルカによる福音書から共に学ぶことが出来ました。感謝いたします。わたしたちは時にはファリサイ派の人たちのように自分を特別な人と考え、時には徴税人のように悔い改めの心を持って祈ります。どうぞ私たちが謙虚な思いを持って互いを認め合う関係を築けるように高ぶる思いを取り除けてください。そしてどうかあなたに従い、あなたに悔いる思いを持たせてください。そしてへりくだる気持ちを持って生活していくことが出来ますように。このお祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
2024年3月24日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 ルカによる福音書 23:44~49
聖書の暦によれば、本日は棕櫚の主日(パームサンデー)であります。子ロバに乗ったイエス様がエルサレムを入場なさいました。「ホサナ、ホサナ」と叫び、イエス様を迎え入れましたが5日後には祭司や律法学者、ファリサイ派の人たちに促されたかもしれませんが、「十字架につけろ」と声を荒らげるのです。その様は狂気に満ちたものかもしれません。そして本日の個所は同じく十字架につけられた人たちにパラダイスにいると声をかけた後の出来事であります。
このイエス様の十字架の業は多くの人に影響を与えました。そばで見ていた十字架を見守る百人隊長、見物に来た者たち、イエス様を知る者、そしてガリラヤから従ってきた婦人や弟子たち、そしてわたしたちです。これほど現在過去未来に影響を与えたものはないかもしれません。それほど、この十字架の業は多くの人に語りかけておられるのです。
昼過ぎから午後3時に至る3時間までのイエス様の描写が書かれております。どんなに苦しかったでしょう。どんなに痛かったことでしょう。しかしイエス様は最後に「わたしの霊を御手に委ねます」と言って息を引き取られました。その姿を見て十字架刑を指揮していた百人隊長は、「本当に、この人は正しい人であった」神様を賛美いたします。この百人隊長は軍人でありましたから、厳しい訓練であったり、規律の中で生きておりましたから、神様の存在を認めてはいるものも、心の底から信じていなかったかもしれませんし、興味がなかった、もしくは逆に信仰深い者だったかもしれません。しかしイエス様に関しては罪人としか見ていなかったのかもしれません。しかし考えを変えられたのです。イエス様の十字架を間近で見ているうちに神様を賛美するに至るわけですから、大きな変化があったのかもしれません。
次に注目したいのは、見物に来ていた人たちであります。この見物人の多くはイエス様と直接かかわりがあったわけではありません。しかし声を荒らげた一人かもしれませんし、外国の方がエルサレムのお祭りに来て、何だろうと興味本位にゴルゴダの丘に集まった者かもしれません。しかし、この見物に来ていた人たちも百人隊長同様に変えられていくのです。これらの出来事を見て、胸を打ちかえっていくわけです。この胸を打つ動作は、悔い改めを表します。つまり興味本位の人だったかもしれません。「十字架につけろ」と声を荒らげた人かもしれません。どちらにせよ、十字架につけたことを悔いたのではないでしょうか?わたしたちは考えるのです。自分たちは正しいと。しかしその考えに間違いはないでしょうか?本当に適切な判断だったのでしょうか?わたしたちは自問自答します。そして間違いに気づいた時、わたしたちは悔い改めの心が与えられているのです。その悔い改めの心がイエス様によって与えられました。それはわたしたちがイエス様を十字架につけた罪人であることを重く受け止めずにはいられないほど、ひどい仕打ちを与えたのです。その痛みや苦しさ、恥ずかしさはわたしたちにとって耐えられないものであるにもかかわらず、そのことをイエス様に与えてしまったのです。しかしその業の残虐性もわたしたちの心を映し出してしまったのかもしれません。そのことに気づかされたのです。
そしてイエス様を知る人やガリラヤから従った婦人や弟子たちは、遠く離れ、身の安全を守りながら、その十字架の業を見続けるのです。つまりイエス様が十字架にかけられたことは事実であると後世に伝える役割を神様が担わせてくださったのです。そして、本日の箇所の後に書かれておられるようにどこにイエス様を葬るかを見ておりました。つまり十字架の後も体に油を塗り、腐らないように、アフターケアーもしたいと考えたのかもしれません。つまり死後に至るまで最後まで見届けたのです。
そしてわたしたちはイエス様の言葉をどのように受け止めるでしょうか?「わたしの霊を御手にゆだねます」この言葉のようにイエス様は死に至るまで神様に従順でありました。神様を信頼しておりました。だからこそ最後にこの言葉を言い残して息を引き取られたのです。わたしたちも神様を信じているでしょうか?神様を信頼しているでしょうか?そして神様に完全に従おうと考えているでしょうか?わたしたちは痛感いたします。神様に完全に従うことの難しさを、しかしイエス様はあえてその難しさを生き様によって、わたしたちに伝えたのです。その与えられた霊を、そして神様よりいただいた命をかみさまにゆだねなさい。とわたしたちの魂を揺さぶっておられるのです。今こそわたしたちはその命を懸けて語ったイエス様の御言葉に耳を傾けるべきではないでしょうか?
お祈りいたします。
ご在天の主なる神様感謝いたします。本日はイエス様の十字架での最後の言葉を学びました。わたしたちは本当に神様の御手にすべてをゆだねていけているでしょうか?本当に信じているでしょうか?わたしたちは十字架上で語られた「わたしの霊を御手にゆだねます」その言葉を受けて感銘を受けました。どうぞあなたを信頼し、あなたに委ねていく人生を送ることが出来ますように導いてください。わたしたちは自分自身が弱いことも知っています。どうぞその弱さも克服できますようにあなたが信じる力を与えてください。そして多くの人々に影響を与えたイエス様の御言葉を宣べ伝えていくことが出来ますように。そしてわたしたちの口を、人を蔑む口ではなく、あなたの愛なる言葉を語る口に変えてください。そして明日からの業もあなたによって守られますように。このお祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
2024年3月17日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 マルコによる福音書 14:32~36
イエス様は、ゲッセマネの園にペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて来られました。その場所はいつも祈りをする場所だったのではないでしょうか?その慣れた場所で恐れもだえ始めたのですその様子を弟子たちはどのように感じたでしょうか?その弟子たちの内面は書かれておりませんでこれは想像でしかありませんが、何か特別なものを感じたかもしれませんし、暗くて見えなかったかもしれません。状況としては、睡魔が襲ってくるぐらいの時間だったかもしれません。とにかく弟子たちは非常に疲れていたのです。ですからそのイエス様の言葉や恐れ苦しむ顔まで気づかなかったかもしれません。
そしてイエス様は、弟子たちに「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい」こう言われたのでした。そしてさらに奥に進んで地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るように祈った後、付け加えて「アッバ、父よ。あなたは何でもお出来になります。この杯をわたしから取り除けてください。しかし、わたしが願う事ではなく、御心にかなうことが行われますように」と祈った後、弟子たちの所に戻ってきました。これが本日与えられたマルコによる福音書14章32~36節の状況です。
この与えられた箇所には3つのことが考えられます。まずイエス様が死ぬことばかりに悲しいと告白されました。十字架が近づくにつれ、その十字架を想像してしまうかもしれません。簡単に受け入れることが出来ないくらい過酷なものであることは頭では理解できても、体が拒否をするかもしれません。その逆もあり得ます。弟子の人たちともっと神様の言葉を伝えたいと思ったのかもしれません。その真意はわかりませんが悲しい思いを持っておりました。その弱さを神様に打ち明けるという事はいかに神様を信頼していたかがわかります。イエス様は事あるごとに祈りをし、神様に打ち明け、神様の御心に従おうとする心が与えられました。
神様に祈る際、皆さんはどんな思いをもって祈られているでしょうか?わたしは神様に感謝、祈る課題や現状、願いというものを組み合わせて祈るようにしております。形式は問いませんが、神様に祈る時、わたしたちはその弱さをさらけ出せそうな気が致します。更に「さぁ、いこう」と神様が後押しをしてくださる気がしています。イエス様を十字架に向かわせるために祈り、先ほど挙げた「アッバ、父よ。あなたは何でもお出来になります。この杯をわたしから取り除けてください。しかし、わたしが願う事ではなく、御心にかなうことが行われますように」つまり自分を捨て去り、神様が与えようとしている十字架に従い、神様の計画の完成に向けて、心変えられていくのです。すでに弱いイエス様ではないのです。
しかし弟子たちはどうでしょうか?弟子たちはイエス様に従い、神様の福音を宣べ伝えるために様々な所を歩きました。どんなに迫害を受け、ヤジを飛ばされてもめげずに従ってきたのではないでしょうか?また、いつ捕らわれてしまうかという不安と恐怖の中で、心も体もボロボロの極限状態になりながら従ってきたのです。そのような状態の中で、祈るその一時が安らぎの時だったのかもしれません。だから祈りをするイエス様の後に従う弟子たちもいつ眠ってもおかしくない状況だったのです。つまりわたしたちは心が燃えていても体は疲れを覚えています。しかしイエス様が祈って戻ってこられると弟子たちは眠ってしまったのです。その様子を見てイエス様は、「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましておられなかった。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」そう言った後、弟子たちと離れ、再び同じ言葉で祈られるのです。同じ言葉で祈ることは、それだけ決心をしても、まだ心の不安が残っているかもしれません。そして三たび戻られた際にやはり弟子たちは眠っていて、何も言えなくなってしまった弟子たちにこう言葉掛けます「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た」イエス様はどんなに願っても変えられない状況に対して、神様の御心なのだと状況を理解します。つまり自分が思う善いことも悪いことも全て神様が思い描く計画の中にあることを改めて受け取るのです。つまり自分の思いを捨てた時、初めて神様の御心に適った行いをすることが出来るのです。今私たちに求められているのは、自分が考える素晴らしい人間的な考え方ではなく、苦しい十字架の神様の計画なのではないでしょうか。
お祈りいたします。
ご在天の主なる神様、本日はマルコによる福音書から、イエス様の人間的な弱い部分と神様に従おうとする心意気を教えられました。感謝いたします。わたしたちもどこかで苦しい思いから逃げ出したいと思っています。しかし神様はわたしたちに善いことも悪い事も与えてくださり、わたしたちを神様の御計画に導いてくださります。どうぞわたしたちにその苦しい状況を受け入れ、乗り越える力を与えてください。また今困難の最中にある兄弟姉妹があなたによって救われますように、励ましてあげてください。そしてわたしたちが自分の思いではなく、御心に適った者になっていくことが出来ますように導いてください。このお祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン
2024年3月3日 益子教会主日礼拝説教要旨 大下正人 牧師
聖書 エフェソの信徒への手紙 4:1~7
メッセージ「愛をもって互いに忍耐しなさい」
本日は世界祈祷日として礼拝のメッセージをさせていただきます。毎年様々な国のことを覚えて礼拝をささげております。今年はパレスチナの人々を思い起こしてみたいと思います。パレスチナは聖書にもかかわりが深い地域です。まず、今年度の表紙の絵は「パレスチナの祈る女性たち」という題で、ハリマ・アジズさんというパレスチナ人ビジュアルアーティストとして活躍されている方です。この作品は世界祈祷日を記念して作成されました。
3人の女性が平和な自然の中でともに祈っている姿を表現しています。彼女の作品には、女性たちの出身や結束を現す動機やシンボルが描かれております。この絵に書かれてあるオリーブの木とは永遠で豊かな命を意味します。オリーブは何千年も生き残るからです。今もパレスチナにある木にはイエス様の時代からのものもあるそうです。金色の根はパレスチナ人が常に存在し、自分たちの権利と自由を求めて、抵抗し続ける事実を強調し、金色は貴重なものであり、深く根を張っているために、誰もパレスチナ人から奪うことが出来ないという意味を持っています。またポピーの花はパレスチナの人々にとって意味深いものです。そのポピーの花は、祖国のために命をささげた愛する人たちを思い出すのです。そしてパレスチナの伝統的なタトリーズ(刺繡)のドレスとスカーフは豊かな芸術と歴史を表しています。そしてカギは、パレスチナに変える希望ですパレスチナ人は追い出された故郷の家の鍵を、世界中のどこに行く時にも常に身に着けて、こどもたちにその鍵を渡してゆくことで、希望を失わないように伝えています。このような意味を持つ絵が表紙であります。
さてこのパレスチナは今もなお戦争が続いています。なぜこのように戦争が起きやすいのでしょうか?それは3つの宗教がメッカ(宗教の中心地)として考えているからかもしれません。しかしそれだけに限らず、様々な文化や思想が入り乱れている事実も忘れることが出来ません。いつもそのこんとんのじょうきょうかであることをわたしたちが無知であることを思い知らされるのです。
本日の聖書の御言葉をもう一度読み返してみたいと思います。本日はエフェソの信徒への手紙4章1節から3節です。そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。こう書かれています。皆さんはどうお感じになられるでしょうか?パレスチナの人々は忍耐強くなかったのでしょうか?わたしは決してそうは思いません。もしかしたらその虐げられた歴史の中で神様に従い神様の御心のままに行うことを生きる指針としていたかもしれません。とにかく忍耐をもって歩んでこられたのではないでしょうか?なぜそこまで忍耐することが出来るのか考えてみますと、様々な宗教がその地に昔から存在していてより頼み、信頼できるものを持っていたからではないでしょうか?人間はどんな状況であろうとも確固たるものを持っていますと自然と勇気と力が湧いてきます。この苦しみを乗り越えた時、もっと素晴らしいものが与えられるのです。パレスチナの人々は決して弱くはないのです。むしろ強いかもしれません。その主の恵みを感じ、歩まれているのです。わたしたちもいつ何時何が起こるかもしれません。しかし慌てることはありません。わたしたちがパレスチナの人々の姿から学び、何かを得たならば、きっとその問題も忍耐して乗り越えることが出来るのではないでしょうか?神様からの愛を深く理解したときにわたしたちはその様々な不安から解放されるのです。わたしたちも主に祈り、御言葉に学び、忍耐の心をもって歩んでまいりましょう。
ご在天の主なる神様、感謝いたします。わたしたちは世界祈祷日のプログラムによって、パレスチナの人々のことを学ぶことが出来ました。どれだけパレスチナの人々が忍耐してこられたでしょうか?わたしたちは想像することが出来ません。しかしその苦しみを乗り越えてきた事実を目の当たりにしたときに改めて信じることの素晴らしさを感じることが出来ましたどうぞわたしたちにも信ずる心がさらに強められ、あなたのことを信頼することが出来ますように導いてください。どうぞあなたが一緒にいることを感じ、どんな苦しみにも愛の忍耐を持って従っていくことが出来ますように導いてください。このお祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
2024年2月25日 益子教会主日礼拝説教要旨 大下正人牧師
聖書 ヨハネによる福音書 12:35~36
メッセージ「光の子になるために」
皆さんは、心ざわつく時があるでしょうか?わたしは今年の1月1日高速道路で車を運転している時に、地震速報のアラームが鳴り、心がざわついた思いをいたしました。もちろん今現在能登沖の方たちは、安心して眠ることが出来ず、心がざわつく中で生活されていることと思います。少しの揺れであっても、深く眠ることが出来ないのではないでしょうか?イエス様もこのように心のざわめきを感じたのかもしれません。そのざわめきはイエス様を不安にさせたでしょうか?決してそうではなく、自身を自覚させるような働きを神様が与えたのではないでしょうか?そのざわめきを感じたイエス様は、ヨハネによる福音書12:27こう言われたと書かれております。「今、わたしは心騒ぐ。なんと言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現わしてください。」その祈りに呼応するように天からの声が聞こえ「わたしはすでに栄光を現した。ふたたび栄光を現そう」すでに栄光を現したとはイエス様が生まれた時、神様はこの世のものではない聖霊の力によって生まれました。そしてふたたび栄光を現そうとしているのは、十字架の死からの復活であります。つまりこの世の命が与えられ新たに生まれる時にも、十字架の死によってこの世の命を終える時にも栄光を現そうと神様は約束してくださったのです。
しかしどうでしょうか?その神様の声は人々に届いたでしょうか?ある者は雷として、ある者はこの世の者には見えない天使に語られたとして、その言葉を聞き取ることが出来なかったかもしれません。その様子を見て、その言葉を発せられた神様を代弁し、こう言われるのです。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。今こそ、この世が裁かれるとき、今こそこの世の支配者が追放される」と言われたのです。つまり神様の業を現す時、この世の思想や力などの無力に変えてくださるのです。しかし、そのイエス様がどんなにその周囲の者を納得させようとしてもそのイエス様の話を受け入れる耳と心を持っていなければならないのです。
神様の言葉を伝える預言者の活動はどうだったでしょうか?預言者が語られる言葉は神様からいただいた言葉です。その中には喜びの言葉もあれば、苦しむかもしれない状況がやってくるといった言葉もあります。その言葉は人々の心を疑心暗鬼にさせ、神様から離そうとするサタンの働きなのです。しかし人間は都合の良いことには興味を示し、都合の悪いことには耳を閉じ、向き合おうとは致しません。
旧約聖書にノアという人が出てきます。神様はこのノアに大事なことを告げました。なぜ神様はこのノアを選ばれたのでしょうか?それは純粋無垢な心を持っていたからです。神様が大雨を降らせ、洪水を起こす時にも、ノアにだけ打ち明けそのノアを助けようと山に船を造るように命じました。その様子は周囲の人にどう映ったでしょうか?山に大きな船を造ること自体が滑稽で、無駄な努力と感じたのかもしれません。それでもなおノアは船作りに没頭し、完成させるのです。そのように神様の示す言葉は、時に常識的に逸脱するものなのです。イエス様が示した言葉も同様に死について話をしても、わたしたちは律法によってメシアは永遠にいつもおられると聞いていました。それなのに、人の子は上げられなければならないと、どうして言われるのですか。その「人の子」とは誰のことですかと矢次に質問いたします。その矢次にされる質問に対してイエス様はこう答えられました。「光は今しばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのかわからない。光のあるうちに光を信じなさい。」その言葉を与え、その場を立ち去って身を隠されました。なぜならば、その時ではなかったからです。つまりどんな時にも時があります。どんな時にも神様の計画があるのです。神様がいる間に私たちがすべきことがあります。その光であるイエス様に耳を傾けることです。その光のこどもになるために私たちはイエス様の言葉を信じることが必要なのです。
お祈りします。ご在天の主なる神様感謝いたします。本日はヨハネによる福音書からあなたの子となるために御言葉に耳を傾け、イエス様を信じることが出来ますように導いてください。また私たちの疑う心をあなたが取り除いてください。そして主の復活を信じる心に変えてください。このお祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
2024年2月18日 益子教会主日礼拝説教要旨 大下正人牧師
聖書 マタイによる福音書 16:21~26
メッセージ「自分の十字架を背負って」
わたしたちは、時として、神様の計画を無視して、自分の考えを押し通そうとします。なぜならば、自分の考えが正しいと考えるからであります。しかしその言葉や行動がサタンの誘いなのです。神様はわたしたち人間の心が弱いことも知っておられます。本日のところではイエス様が十字架につけられて殺され、復活すると述べたことに対して、ペトロはイエス様をわきにお連れして「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」といさめはじめるのです。これを聞いて皆さんはどう思われたでしょうか。ペトロは弟子の一人であります。イエス様に従った弟子は沢山おります。なぜこんなことを言ってしまったのでしょうか?それは神様と一緒にいたい、いつまでも神様のことを教えてくださいと願いが込められているような気が致します。わたしたちもそうですが正しく信じることのできるものをなるべく手放したくないと考えるのはごく自然なことかもしれません。しかし、イエス様はその心も含めて「サタン引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者、神のことを思わず、人間のことを思っている」こう語られたのです。つまり人間は自分の都合で物事を考えてしまうのです。しかし人間のその思いを大きく超えられるのが神様の業であり考えなのです。つまりすでに神様はわたしたちと一緒にいる別の計画がありました。しかし、その計画さえ無視して目の前のことしか考えられなくなってしまったのです。わたしたちが本当に神様を信じるのであればどのような言葉であっても信じることが出来たはずです。
さらにイエス様は、ペトロだけでなく、弟子たちにこう語られるのです。
「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」
イエス様はわたしたちにも語られるのです。神様についていきたいと思う者は、まずしなければならないのは自分を捨てることです。自分の考えを相手に押し付けないように気を付けなければなりません。はじめにお話ししたように、人間は自分が良いと思うことを人にも共有し、強要してまるでそのようにしなければならないと決めつけてしまい、がんじがらめにして束縛してしまうかもしれません。しかし神様に従うという事は、人間である自分の信念を捨てるというわけではなく、より良い選択をすることが出来るのです。このことがどれだけ私たちの思い煩いを楽にすることが出来るでしょうか?つまり自分よりももっと素晴らしい計画の中にあるのだと思えば、自分の考えや信念を神様に委ねていく。これこそ信じる心なのではないでしょうか?そして自分の十字架を背負って、わたしに従いなさいと言われます。皆さんにとって十字架とは何でしょうか?わたしにとっての十字架は、神様の御言葉です。十字架は苦しみのように捕らわれてしまいますが、実は喜びであり、主が共にいてくださる証なのです。なぜ、神様はイエス様を与え、そのイエス様が御言葉を語られるのでしょうか?そしてなぜ十字架にかけられるのでしょうか?その十字架こそ私たちが神様と和解するしるしであると共にわたしたちが生きる上で必要なことなのです。その十字架がなければ、わたしたちは愛を知ることが出来ません。なぜなら十字架は愛だからです。
「友のために命を捨てること、これよりも大きな愛はありません。」聖書でこう書かれています。その十字架は人間にとって罪を犯した象徴かもしれません。しかし神様の示される道は人間の心を動かし、人間の知恵をはるかに上回るのです。わたしたちがこの十字架によって死ではなく命を選択しているのです。つまり生きることの苦しさも喜びへ変え、悲しみも良い知らせに変化させる力が御言葉なのです。わたしたちは今まで歩んできた道を立ち止まり、悔い改めをする時が来ました。このレントの時、わたしたちは自分の十字架とは何か、その十字架を考え、その十字架を背負って歩んでまいりたいと思います。
お祈りいたします。
ご在天の主なる神様、こうしてあなたの御言葉を学ぶ機会が与えられて感謝いたします。わたしたちはペトロのようにあなたのことを邪魔してしまうサタンが心に住んでいることを懺悔いたします。あなたはそのために御言葉をもってわたしたちに示してくださいました。わたしたちは自分を捨て、あなたに自分の十字架をもって従ってまいりたいと思います。どうぞこれからの歩みをあなたに従っていくことが出来ますように導いてください。また、明日からの業があなたによって守られますように。このお祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
2024年2月4日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 ヨハネによる福音書 8:10~11
神様はわたしたちのことをよくご存じあられます。正しいことも正しくないことも。表も裏も。本日与えられたヨハネによる福音書8:10~11もわたしたちの心の描写が書かれています。イエス様が神様のことを教えていた時に、律法学者とファリサイ派の人々がイエス様の前に一人の女性を連れてきて、真ん中に立たせ「先生、この女は姦通をしている時に捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」と尋ねてきました。皆さんはこのように問われた時、どのように答えるでしょうか?わたしたちは、そのまま自分が正しいと思うことを伝えるのではないでしょうか?しかしわざわざイエス様の前に連れてくるという事は、イエス様を試そうとしていた心のうちを知っておられたので、その問いに答えることなく地面に何かを書いていました。その態度にしつこく問い続けるので仕方なくイエス様は身を起して、
「あなたたちの中で罪を犯したことのないものが、まず、この女に石を投げなさい。」こう言い終わると再び地面に何かを書き始めたのです。
ここまでのことを少し考えてみたいと思います。まず、状況を考えますと、イエス様が神様のことを語っているのを中断させ、わざわざ真ん中に立たせるわけです。つまりイエス様の話を遮るほど重大なことであるとアピールしたのかもしれません。しかしイエス様の周りに集まってきた神様の話を聞きたいという思いを踏みにじったのではないでしょうか?
そして、連れてこられた女性はどのような思いだったでしょうか?沢山の男性に囲まれ、怯えながら連れてこられたのではないでしょうか?そして律法学者とファリサイ派の人々は何とかイエス様を捕まえようとわざわざ沢山の人の前に連れてきてあなたがたが考えているほどの者ではないですよ。どう考え、どう答えようがわたしたちにはイエス様を捕まえることが出来る正しさを持っていると自負していたのかもしれません。実際に律法学者やファリサイ派の人たちは一生懸命律法について学んで、自身が一番律法を理解しているとでも思っていたのかもしれません。連れてこられた女性は、姦通の罪を犯したとされて連れてこられました。本来ならば、男性も女性も同じように罪に問わなければ平等ではありません。男性もしくは一緒にいた人がいなければ姦通の罪は成立しません。つまり相手があって始めて起きる罪なのです。しかしその場に連れてこられたのは女性一人でした。もしかしたら、殺されてしまうかもしれないという恐怖を感じていたのかもしれません。
そしてイエス様に詰め寄った律法学者とファリサイ派の人々は問うてもなかなか答えないイエス様にイライラしていた時にイエス様が語りました。「あなたたちの中で、罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」その言葉に、年長者からその場を去っていくのです。人生長く歩めば、大きい、小さいに関わらず罪を犯さず過ごせた人はいるでしょうか?刑法に触れるようなことはしていなくとも、嘘や悪口を言ったことはありませんか?相手を偏見な目で見ていませんか?自分が正しいと相手を非難し、傷つけてはいませんか?わたしたちは何らかの罪を犯しているかもしれません。そして、死を覚悟していた女性は、自分が裁かれると罪の自覚はあったかもしれません。そして怖くても目も開けてられない状況だったのかもしれません。しかし石を投げられることはなく周りには誰もいなくなっていたのです。その状況を見て、イエス様が身を起して女性に「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。誰もあなたを罪に定めなかったのか」と問われました。てその女性は「主よ、誰も」と答え、救われたと感じたのかもしれません。そのあと、イエス様はこうお答えになりました。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」こう言い渡し、この物語は終えます。最後のイエス様の言葉をもう一度考えてみましょう。わたしもあなたを罪に定めないこの意味するところは別にイエス様が罪を犯したから罪に問わないと言っているのではなく、石を投げなかった人たちと同じで罪としないことを宣言しています。その宣言と最後の言葉は矛盾に聞こえるかもしれません。イエス様が最後に言った言葉は、これからは、もう罪を犯してはいけないと言っています。文面を考えますと、罪だったけども女性の悔い改める気持ちを感じ、その心に免じて罪を許されたのではないでしょうか?わたしたちは本日の御言葉を聞くとき、どの立場も自分にあり得る状況ではないでしょうか?まず、朝から御言葉を一生懸命求めようとする真剣な思い、その思いを考えることなく、自分たちの考えを押し付けようとする行動、そして自分たちが正しいかの如くふるまう態度や言葉、また強引に連れてこられ、怯える姿、殺されてしまうかもしれないといった恐怖、そして石を投げられず助かったという安堵感そしてイエス様自身が赦してくださる愛と、罪に対する向き合い方をわたしたちに教えてくださっているのです。わたしたちも罪が赦されている喜びと共にこれからの歩みをイエス様は行きなさいと送り出してくださっているのです。
お祈りいたします。ご在天の主なる神様、主の御名を賛美します。あなたはヨハネによる福音書から私たちに罪の許しを与えてくださったことを感謝いたします。わたしたちには偏見の思いがどこかにあり、自分が正しいと考えてしまう愚かな者であることを自覚いたしました。わたしたちが偏見を持たぬよう神様が罪を赦されていることに心からの感謝を献げます。わたしたちもこれから罪を犯さず、相手を裁かず歩んでいきたいと思います。どうぞその様な思いをもって日々歩むことが出来ますように導いてください。このお祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン
2024年1月28日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 ヨハネの黙示録 21:3~4
メッセージ「神は自ら人と共に住み、人は神の民となる」
わたしたちが生きていく上で目指すゴールは何でしょうか?神様がヨハネに示すビジョンは、新しい世界でありました。それは死もなく、悲しみもなく、嘆きも、労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。これは本日の聖書箇所であるヨハネの黙示録21章4節に書かれている言葉です。また1節~2節では新しい世界には海もないとも書かれ、着飾った花嫁に準備を整えて、天から下って来るのを見た。と書いてあるように、素敵な世界が広がるのかもしれません。そのようなことが起こる前にヨハネは様々なものを神様によって、膨大な量と壮大な見たこともないことを与えられました。神様はなぜそのようになさったのでしょうか?神様は後の時代にも伝えるように「書き記せ」と命じられました。
さて本日の個所であるヨハネの黙示録は、聖書の中でも非常に難解な聖書箇所と言えるでしょう。見たことのないものを見せられた時、頭の中でどのように整理することが出来るでしょうか?ヨハネも苦労したのではないでしょうか?本日の個所の前では、サタンの敗北や最後の審判といった記事が載っております。つまり黙示録とは神様のゴールを指し示すものと言って過言ではないかもしれません。
ヨハネは先ほどの準備された花嫁の姿の後、玉座から大きな声を聞きます。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる」つまり神様はイエス様という媒介を用いて我々と共に住んでくださるという事であります。そして人は神の民となり、神様はわたしたちの神として共に歩んでくださるのです。こんなにも嬉しいことはありません。こんなにも安心できることがあるでしょうか?わたしたちが新たな世界が与えらえるという事は期待もあります。不安もあります。様々な感情が交差する中で、一番信頼できるものがそばにいてくださることは何よりの安心感を得ることが出来るのではないでしょうか?
わたしたちはこの世でいる時、新たなものが与えられた時、どのような感情を抱くでしょうか?例えば新しい土地に移り住んだ時や新しい仕事に就いた時、学校などの環境が変わった時、どうでしょうか?周囲が気にならないでしょうか?勿論気にする人もいれば、気にしない人もいるかもしれません。しかしあまり周囲の目を気にしすぎてしまいますと、心が苦しくならないでしょうか。そのような時、神様はわたしたちの涙をことごとくぬぐい取ってくださるのです。神様の与える新しい世界は、死もなく悲しみも嘆きも労苦もないと書かれてあります。つまり思い煩う必要がなくなるというのです。つまり神様が一緒に住まれるという事はそういったことなのかもしれません。そして玉座に座っておられる方がさらに言われました。「見よ、わたしは万物を新しくする」と言われさらに「書き記せ、これらの言葉は信頼でき、また事実である」そして、「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。はじめであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から値なしに飲ませよう。勝利を得るものは、これらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神になり、そのものはわたしの子となる。しかし、臆病な者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、みだらな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝む者、全てうそを言う者、このような者たちに対する報いは、火と硫黄の燃える池である。それが第2の死である」このように語られるのです。つまり神様が新しく世界を与える時には、わたしたちは裁かれ、命の書に刻まれるか、火と硫黄の燃える池に投げ込まれるか神様によって示されるのです。しかしそれだけに終わらないのが神様の業です。神様はその者が悔い改め、神様の言葉を信じるならば、わたしたちに値なしに命の水の泉から命そのものをお与えになるのです。
お祈りいたします。主なる神様本日はヨハネの黙示録からあなたの御言葉を学びました。神様は新しい約束をわたしたちに与えてくださいました。その与えてくださる新しい世界は市もなく悲しみもなく、嘆きも、労苦もない世界であると明言し、さらに私たちを神の子とし、自ら神様となることを宣言くださいました。ありがとうございます。わたしたちはその新しい世界が与えられることを信じます。わたしたちをその新しい世界に導いてください。しかしその新しい世界には不安もありますが、あなたを信じてあなたが与えてくださるものを受け入れていくことが出来ますように導いてください。あなたがいるという事を心にいつも置くことが出来ますように導いてください。このお祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
2024年1月21日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 ローマの信徒への手紙 8:26~28
メッセージ 「万事が益となるように」
わたしたちにとって霊は身近なものでありますが、実際には見ることも聞くことも触ることさえできません。しかしその霊を感じることはできるのではないでしょうか?わたしたちの歩みには必ず霊は存在すると言えます。しかし霊そのものの存在を否定しようとする心も人間の心の中にはあります。「えーそんな馬鹿な」「本当にあるか確認できないので霊は存在しません」と真っ向から否定する者もおります。それはなぜでしょうか?それは見えないものに対して確証を得ることが出来ず、不安な思いを抱きたくない、自分を異常者に見られたくないという心が霊を否定しまうのです。
本日の聖書ローマの信徒への手紙8章全体は霊について書かれてあります。5節6節にこんなことが書いてあります。肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は霊に属することを考えます。肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。このことだけを考えるならば、誰でも霊の道を歩みたいと思っていただければ、必ず平和への道が開かれてくるのです。しかし今現在どうでしょうか?戦争があらゆるところで行われ、人が殺され続けています。つまり霊に従って生きようとしない肉の思いを大切に持っている人が多いのかもしれません。
その様な時代であるからこそ、わたしたちが本当に大切なものを選ばなければならないのです。しかし霊はわたしたちが弱いことも知っておられます。どんなに正しい答えであっても、少数意見になると多数の意見に飲み込まれてしまうこともあります。どんなに正しく生きようとも、誘惑に負けてしまうこともあります。どんなに苦しんでいる人を見ても自分は関わりたくないと無視してしまうかもしれません。26節でこのように書かれております。同様に霊も弱い私たちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。つまりわたしたちが霊と肉のはざまにいる時に霊に任せれば正しい道を選択できるかもしれません。イエス様の弟子たちも同じようにイエス様がそばにいる時には安心して、過ごすことができたでしょう。しかしイエス様が天に上られた後、不安を隠しきれなかったのではないでしょうか?そのため鍵を閉め、一生懸命祈っていたことでありましょう。神様はその思いも理解した上で、天に上げられる際、霊を遣わすことを弟子たちに伝えていたのです。そして10日後のペンテコステの日に霊を受け、霊の導きにより、勇気を持って語り始めるのです。勉強もしていない者が霊の力を浴びると喋ったことのない言語で話し始めるのです。この光景を見て、酒に酔っているという者もおりました。しかし朝の9時ですから酔うはずもありません。そのように霊はピンチをチャンスに変えてくださるのです。わたしたちに与えられている霊も弟子たちと同じような力が秘められ、万事が益となるように共に神様が働いてくださるのです。
もしも世界中の人が神様を知り、霊に導かれて祈るのなら、必ず平和が訪れ、愛が広がるはずです。しかし未だに世界から戦争の火が消えません。万事が益となっているのかと問われたらどんどん悪い方向へと動かされているのではないでしょうか?わたしたちがどんなに祈っても神様は聞いてくださらないのでしょうか?わたしたちの心を御存じな神様はわたしたちの心の悪い部分を取り除いてくださるのです。つまり今もなおわたしたちが悔改め、新たな道を発見することを忍耐の心を持って待っていてくださるということを一人一人が自覚せねばならないのです。そして今あることも善いものへと変えてくださる神さまはすぐそばでわたしたちに霊を与え続けておられるのです。
お祈りします。御在天の主なる神様、本日はローマの信徒への手紙からわたしたちに霊を与えられた事を学びました。わたしたちは自分のことばかり考え、あなたの思いを無視している弱い心を持っております。しかしあなたはその弱き心を持強め、導かれる神様です。どうぞ神様が与えて下さる霊にわたしたちが気付くことができますように。そして万事のものを善いものに変えてください。わたしたちの心も指導者の心も、そして神様を信じていない者の心も。そのことをあなたに委ねます。このお祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン
2023年12月31日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 「Ⅱテサロニケの信徒への手紙 2:16~17」
メッセージ 「善い働きをし、善い言葉を語る」
神様は、わたしたちを善い働きをし、善い言葉を語らせるためにわたしたちを選ばれました。本日与えられた聖書は第Ⅱテサロニケの信徒への手紙2章16~17節でありますが、パラグラフとしては13節からであります。13節を読んでみたいと思います。しかし主に愛されている兄弟たち、あなたがたのことについて、わたしたちはいつも神に感謝せずにはいられません。なぜなら、あなたがたを聖なる者とする霊の力と、真理に対するあなたがたの信仰によって、神はあなたがたを、救われるべき者の初穂としてお選びになったからです。こう書かれてありますように、つまり私たちは神様の霊と神様への信仰によって、初穂になったのです。つまりわたしたちが神様を選んだからではなく、あくまでも神様が主観的にわたしたちを選ばれたのです。その結果わたしたちは善い働きと善い言葉を語るべきでありますが実際はどうでしょうか?
旧約聖書にバベルの塔という物語があります。この物語は、人間が神様と同じ地位を得ようと神様と同じ高さの塔を建設する物語であります。人間にはこう言った神様と同じになりたいという欲求が少なからずあるのではないでしょうか?しかし人間は神様になることはできません。その計画は神様によって違う形で頓挫してしまいます。しかし神様が人間の心を打ち砕いたにもかかわらず人間は悪の心が芽生えてしまうのです。2章の1節から3節にはこのように書かれています。さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストが来られると、その身元に私たちが集められることについてお願いしたい。霊や言葉によって、あるいは、わたしたちから書き送られたという手紙によって、主の日はすでに来てしまったかのようにいうものいても、すぐに動揺して分別をなくしたり、慌てふためいたりしないでほしい。だれがどのような手段を用いても、だまされてはいけません。なぜなら、まず、神に対する反逆が起こり、不法の者、つまり、滅びの子が出現しなければならないからです。
それはいつの時代もそうです。特に現在危惧しなければならないことがあります。それはインターネットの普及によって人間の悪の部分が拡大し続けていることであります。もちろん悪ばかりではなく、善い部分もありますが、必ず人間が起こすことには正義と悪といった概念が付きまとうのです。善いことをしたときに、偽善者などレッテルを張る者もおります。悪を行う者をはやしたて、もっとおおごとにしようと計画する者もおります。その様な環境は、人の心を破壊し、善悪の判別が出来なくさせてしまうのです。つまり人間の心が破壊されつつあるのです。そのような環境が世界に蔓延しているのです。
教会もこの社会的問題にどう取り組むか、その姿勢が問われているのではないでしょうか?教会には様々な方が訪れます。イエス様が様々な人々と交わったようにわたしたちも神様の交わりを率先して行わなければなりません。しかし、社会に受け入れられなかった人が教会で受け入れられた時に、更に横柄な態度に変わる場合も考えられます。一方で心が落ち着き、気持ちが安定する場合もあります。そのことを考える時、わたしたちは、人間の思いではなく、教会を神様と出会う場にしていかなければならないのではないでしょうか?つまりそれは大人こども、性別、環境関係なく、誰もが神様と向き合う場所であることを認識する必要があるのです。つまり神様との出会いを最優先しなければ教会が教会としての役割を果たすことが出来ません。神様に背く者も、神様になろうとする者も、人間の力では、その力を抑え込むことが出来ないかもしれないのです。しかし第Ⅱテサロニケの2章の8節では、その時が来ると、不法の者が現れますが、主イエスは彼を自分の口から吐く息で殺し、来られるときの御姿の輝かしい光で滅ぼしてしまわれます。つまりわたしたちにそのような事態が起きた時に主イエスが現れてくださるのです。今もわたしたちはその御言葉によって救われ、イエス様のなさる業がわたしたちを奮い起こさせるのです。どうぞ新しい2024年も神様の善い働きをし、善い言葉を語る者として共に歩んでいきましょう。
お祈りいたします。ご在天の主なる神様、今日はテサロニケの信徒への手紙から共に学ぶことが出来ました。感謝いたします。わたしたちはあなたが選ばれた初穂です。どうぞ主の業を信じ、わたしたちの働きを善いものと変えてください。そして善い言葉を語る者へと変えさせてください。世の中には、自分が正しいと考える者が多くいます。どうぞ傲慢なその思いを取り除いてください。そしてすべての人が良い心をもってすべての人に接することが出来ますようにあなたが変えてください。そしてその心がわたしたちばかりではなく、国の指導者の心も変えてくださいますようにお願いします。このお祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
2023年12月17日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 ルカによる福音書 1:78~79
メッセージ 「われらの歩みを平和の道に導く」
神様がわたしたちに与えてくださるイエス様は、わたしたちにどのようなものをくださるのでしょうか?それは愛でしょうか?はたまた混乱でしょうか?イエス様がご自身で自分がこの世に来た理由をお話をなされた箇所があります。ルカによる福音書12章49節では、わたしが来たのは、地上に火を投ずるためであると書かれ、また51節ではあなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくがむしろ分裂だこう語られました。また、マタイによる福音書10章34節では、わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだと思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからであるこう述べられています。つまりイエス様ご自身は分裂や敵対させるために来られたと申されているのです。しかし与えられた御言葉は全く逆のことを述べているのです。なぜこのような矛盾が起きるのでしょうか?
それは、イエス様と出会い、向き合う時その人の立場や思想、環境によって変化するのではないでしょうか?
本日の聖書は、ザカリヤとエリサベトの間に聖霊によってヨハネが生まれた時の話です。
親類の中にヨセフという名はありませんでした。昔から引き継がれた名前を付ける事が決められておりました。しかしエリサベトは頑なにヨセフにしなければなりませんと拒み、ザカリヤに相談したところ、ザカリヤも同じくこの子の名はヨセフと書き記しました。すると今までしゃべることが出来なかったザカリヤが途端に口が緩み、舌がほどけ、賛美し始めたのです。それは人間の意志ではなく、神様の霊が語らせるのです。その光景を見た近所の人々はみな恐れを感じました。その様子は異様だったかもしれません。そしてザカリヤの語る言葉は、その親類たちの口を閉ざし、静かにさせる力を持っていたかもしれません。そのことを振り返った時「いったいこの子はどんな人になるのだろうか」と言い、そして起こったことすべてがユダヤの山里中で話題になったほどでした。その言葉はこうです。まず主に感謝をします。そして主が民を訪れ開放し、救いの角をダビデの家から起こされた事を感謝します。そして、先祖の預言者を通して語られた神様の言葉の約束を実現したと報告しました。その内容は自分の生まれた息子は先立ってその道を整え、罪の許しの救いを知らせ、さらにそのこと全ては、神の憐れみの心であり、暗闇と死の影に座しているものを照らし、その歩みを平和の道へと導くとしました。このことからわかるようにザカリヤの語った言葉も神様の意志であります。
わたしたちはこのことを覚えてクリスマスは神様の憐れみの心で与えられたものだと気づくことが出来るのです。わたしたちも神様の憐れみの心に気づいたとき、その心を抱くようになるのです。ある者には神様の憐れみは火のように剣のように思えるかもしれません。しかしどちらも神様を迎える時に起こりうることなのです。わたしたちは剣ではなく神様の愛を感じたいものです。
お祈りいたします。ご在天の主なる神様、感謝いたします。
わたしたちはあなたの憐れみによって救われたのです。この心をいただいてまた明日から歩んでいきたいと思います。あなたが与えてくださる平和の道を歩んでいきたいと思います。どうぞ導いてください。このお祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
2023年12月3日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 ルカによる福音書 1:26~28
メッセージ「主があなたと共におられる」
本日の個所は神様が天使ガブリエルをナザレというガリラヤの町に派遣するところから始まります。その地方にダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめに遣わされ、
おとめマリアに語り始めます。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」そう言葉をかけられるのです。このような言葉をかけられた時、皆さんならどう思われるでしょうか?この予期せぬ言葉にマリアはたじろぎ、とまどうわけであります。そしてこの挨拶はいったい何なのかと考えていると、天使はマリアにこう声をかけられました。「マリア恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を生むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」神様はわたしたちに時折驚きの言葉を投げかけるのです。わたしたちはその言葉に驚きたじろぐのです。しかし神様はその理由も添えてわたしたちに語り掛けるのです。その言葉を聞いたときに皆さんはどう反応するでしょうか?「えー何で」とその理由を聞くでしょうし、なかなかその言葉を受けきれないのではないでしょうか?神様はわたしたちの心をご存じです。わたしたちが納得する言葉を投げかけるのです。「神に出来ないことは何一つない。」この言葉でマリアは「私は主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」と霊が語らせ、そのマリアの心を見抜かれた天使は去っていきました。そして我に帰った時にマリアのした行動は親せきのエリサベトに会いに行ったのです。そうさせたのはそれが事実であることを確かめるためだったのかもしれません。もしくはおなかが大きくなり、人目を避けるように神様が配慮したかもしれません。マリアの行動はその神様の言葉を聞いて、心が動かされたのです。そして行動に移したのです。
この天使とマリアの会話の中に一番初めに語られた言葉こそマリアにとって大事な言葉なのです。それはこれから起こるイエス様の出産、育児、そして人生を振り返った時にマリアに押しかかるプレッシャーは想像できないものかもしれません。誹謗中傷や暴力や脅迫など心と体をむしばむものが襲ってくるかもしれません。そのものを乗り越えられるためには神様の力がなければ、とても乗り切れるものではないかもしれません。そこで神様はガブリエルを遣わし、「主があなたと共におられる」と語られたのです。神様ご自身が表明してくださったのです。何の心配もなくなるくらい安心できる言葉なのです。しかしその言葉を実感できるのは、そのことが起きた時かもしれません。神様の恵みは常に先に与えてくださるのです。しかしそのことを感じることが出来るのは、わたしたちがその時が来なければ実感出来ないかもしれません。しかし神様はこのクリスマスを迎えるこの時期に再びわたしたちに語り掛けるのです。「主が共におられます」その言葉はわたしたちを強めこの世でのものを乗り越えられる力が備わっているのです。
お祈りいたします。ご在天の主なる神様感謝いたします。
今日はアドヴェントの第1主日を迎えました。わたしたちはクリスマスを迎えるにあたり、主が共にいてくださることをひしひしと感じます。この世が闇に覆われる時にもあなたが共にいてくださることを信じます。霊を与えてくださることによってこの世界にはびこる悪を打ち砕くことが出来ます。わたしたちも主に従う者として、この身になりますようにと祈っていくことが出来ますように導いてください。あなたはどんな時にもわたしたちを見捨てず共にいてくださいます。そのことをいつも心に思いえがくことが出来ますように。特にクリスマスを迎えるわたしたちを霊に導いてください。このお祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン
2023年11月26日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 ルカによる福音書 8:4~8
メッセージ「種を蒔く」
種を蒔くという行為は、わたしたちに命を与える行為と言えるでしょう。その種も良い場所に蒔かなければ、成長し、実を結ばないかもしれません。そのようなことは誰もが当たり前と考えるでしょう。しかし重要なのは、イエス様が多くの聴衆に語り掛けたことなのです。イエス様の素晴らしいところは、たとえを用いて神の言葉を語ることなのです。誰もが常識的に知っていることであれば、誰もが理解することが出来ます。しかしその言葉に秘められた神様の思いを見つけることは、神様の存在を受け入れていかなければ見えるものも見えないようにしてしまうのです。つまり聞いて常識としてとらえるのか、神様の言葉として受け止めるかによっても感じ方も違ってくるのではないでしょうか?つまり誰にでも理解できる知識的な働きに伝えるものであると同時に、自身の心に響く何かが秘められています。
本日与えられた譬え話も同じで、種を蒔くためには良い土地に蒔けば良いという単純な話ではありますが、その中に私たちが生きるべき道のヒントが隠されているのではないでしょうか?この譬え話は多くの群衆が集まってきたので、譬えを用いて話されたのです。つまり多くの群衆には様々な人がいます。こども、年を加えられた高齢者、障害を持つ者、持たない者。男性、女性、裕福な者、貧しい者、他の国の人、イエス様をよく思わない者、イエス様に従う者。つまり異なった人が集まるのですから、誰もが理解できる話をされるのです。このたとえ話はこうです。「種を蒔く人が種まきに出ていった。蒔いている間に道端、石地、多くの植物が存在する茨が生えた場所、そして良い土地様々な場所に落ちるのです。」
子の与えられたルカによる福音書8:4~8の後でこの譬えに関する説明が書かれてありますが、イエス様が語られた時、もしかしたらこの説明はされなかったかもしれません。そうすると、イエス様が語られた言葉をどこまで理解することが出来たでしょうか?とにかく栄養や水が豊かな良い土地に種を蒔きましょうという理解で終わったかもしれません。ですがイエス様はこの譬えを話された後に「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われたのです。皆さんどうでしょうか?話を聞いてほしい時には、大きな声で語らないでしょうか?理解できるように理解しやすい言葉で語らないでしょうか?わざわざ大声で話されたと書かれているのはぜひ聞いてほしいという思いがあるからなのではないでしょうか?イエス様は常識的なことでさえも神様の言葉に変換し、是非聞いてほしいと願っているのです。その譬えの説明にはこう書かれています。「種は神の言葉である」神様の言葉はあらゆるところに落ちているのです。わたしたちがどこでその御言葉を受け取ることが出来るでしょうか?折角ですからその御言葉をもっともっと増やしたいと考えるならば良い土地で受け取りたいと思いませんか?その神様の蒔かれる土地とはわたしたちの心であります。神様はわたしたちに生きる種をわたしたちの心に蒔いてくださいます。その心がどのような状態であるかによって、御言葉の受け取り方が違ってくるのです。わたしたちの心が道端であるならば、人が踏みつけ、空の鳥が食べてしまいます。つまり御言葉を信じなければ、その蒔かれた御言葉を信じないように悪魔がその御言葉を奪い取ってしまうのです。そして石地の心とは、御言葉に触れると喜びますが、根が伸びる場所がないので枯れてしまうというのです。しばらくは根が生えていても、何か試練に合うと身を引いてしまう心です。そして、茨の中に落ちた種は、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽などに阻まれ、実が熟するまで至らない心です。そして、良い土地とは立派な心で、御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ心です。ではこの良い土地、つまり善い心を持つためにはどうすべきでしょうか?皆さんは野菜や果物を造る時、悪い土には種を蒔きませんよね。水を多く含み、栄養が行き届いた土地に蒔きます。大きな石を取り除かなければなりません。硬い土を柔らかにしなければなりません。苦労し作り上げると、野菜や果物は答えてくれるのです。
わたしたちもそうです。良い心を作るためには心に栄養を与えなければなりません。適度な休みがあったり、何か楽しむものがあったり、心をリラックスさせなければ心が充実しません。しかし大事なのは神様がいるという安定感かもしれません。畑も同じであるようにどんなに人間が努力をしても良いものは生まれません。そこに神様の介入が必要なのです。ですから私たちの心に神様が介入していただくためにも御言葉を聞く心を持ちましょう。
お祈りいたします。ご在天の主なる神様わたしたちを招いてくださり感謝いたします。わたしたちは自分の心を見た時に改めて石があり、雑草が生えていることに気づかされました。耕さなければ、よい実りを得ることが出来ません。もっと実りを得られるために私たちはあなたが与えてくださる御言葉に耳を傾けていきたいと思います。そしてもっとあなたを信頼し、生活の中に御言葉を取り入れていこうと思います。それと同時に忍耐する心を与えてください。明日からの業もあなたの蒔かれた種で成長することが出来ますよう、加えてわたしたちを強めてください。このお祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
2023年11月19日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 Ⅰペトロの手紙 3章8~11節
メッセージ 「幸せな日々を過ごすために」
わたしたちは、幸せな日々を過ごしたいと誰もが思い描いているかもしれません。しかし幸せという概念もそれぞれ感じ方も違うでしょうし、幸せの定義も違うかもしれません。そのような中にあって幸せな日々を過ごせるように聖書でもおすすめをしています。本日の与えられた聖書を振り返ってみたいと思います。本日はⅠペトロの手紙から3章8節に記されている御言葉は、はじめに同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く謙虚になりなさいと書かれています。わたしたちは神様から与えられた家族があります。隣人がいます。友人がいます。その人たちを愛しているでしょうか?つまり自分以外の他者に対して配慮しているかと聖書に問われているのではないでしょうか?昨今は、自身のことが精いっぱいの人もいるでしょう。自分が話す言葉や行為や態度は、意外と自分では気が付かないかもしれません。それに対して周囲の人はどう思っているでしょうか?心が通じる友人や家族に言われる場合は,気を付けることも時には治せることもあるでしょう。しかし全く知らない人に注意されたりした場合は、どんな感情が芽生えるでしょうか?「なんで見ず知らずの人にそんなことを言われなければならないの」と疑問や苛立ちを覚えていくかもしれません。また注意されなかったとしても露骨に嫌な顔をされてしまうかもしれません。自分の言動や行動がどんな影響を与えているかを常に考えている人もいれば、そうでない人もいるでしょう。また、人間には感情があります。あたりかまわず怒鳴る人もいます。泣く人もいます。周りはどんな目で見ているでしょうか?一方で周囲に気を使いすぎて、精神的に参ってしまう方もいるでしょう。そのような状況を幸せと呼ぶことが出来るでしょうか?わたしたちは誰もが幸せになる権利があります。しかしこの世的にはどちらか一方が幸せでどちらか一方が幸せではないという構造になりつつあります。それはどんなものでもそうですが、弱者強者という概念は人間を縛り付け、幸せな権利を奪い取ってしまう可能性があります。神様はそのような国を造りたい、与えたいと思われているでしょうか?決してそうではないはずです。しかし私たちの現実の世界は、不公平が満ちています。欲が蔓延し、人間を毒していきます。その結果人間は過ちを繰り返してきました。その都度神様はわたしたちに恵みを与えてくださり、愛してくださいました。
わたしたちに欠けているものがあります。それは謙虚さです。神様の与えてくださる恵みを感謝していますか?毎日、トイレに行けることも、お風呂にはいれることも、食べ物が与えられていることも、全て神様が与えてくださっています。そのことは当然で当たり前と思っていては、感謝を感じることもできません。わたしたちはもっと謙虚になるべきだと思うのです。人間の傲慢さを引き出す要因の一つが経済力であったり、知力であったり、権力という力と名のついたものです。つまり力は人々を惑わし、魅了します。それを得ようと様々な努力をします。その結果弱者強者という社会を生み出し、恨み妬みといった感情を生み出すことになるのです。目に目を歯には歯をといったことを行えば、争いは絶えません。
わたしたちは目に目を歯には歯をといった思想を捨て、わたしたちはその人たちをうらやむのではなく、むしろ神様の祝福があるように願うように心がけたいものです。なぜならばわたしたちも神様の祝福を受け継ぐものとして神様が選ばれたからです。
最後にもっと幸せになるためには、まず舌を制し、悪から遠ざかり、平和を願うことだと聖書で示されています。人間の器官で一番コントロールしづらい器官は舌であります。この舌や口には沢山の関わる言葉があります。「口は禍の元」ですとか、「沈黙は金なり」とか、争いになるのもならないのも言葉次第です。言葉をコントロールする方法としては、時間をかけるといった間をとることも方法の一つですし、発言した後は神様に委ねると方法もあります。とにかくしゃべる前に一旦相手の顔を見るなどすると少し緩和するかもしれません。その様に相手はどう思うのか考えるだけでもその口には平和が宿るのではないでしょうか?そしてとにかく祈っていくことです。神様はその正しい祈りを聞いてくださる方です。そしてわたしたちを見ていてくださる方です。悪い思いを持つ者には顔を向けて対応してくださるのです。
お祈りします。ご在天の主なる神様感謝します。わたしたちはペトロの手紙から幸せに生きるためにどのようにすればよいか学びました。ありがとうございます。わたしたちは御言葉に従っていきたいと思います。主に従い、御言葉を実践できるものと変えてください。このお祈りを主イエスキリスト御名によって祈ります。アーメン
2023年11月11日 益子教会 主日礼拝説教要旨
聖書 Ⅰヨハネの手紙 4:7~11
メッセージ 「わたしたちが生きるために」
本日は、ヨハネの手紙から共に学んでまいりたいと思います。本日の聖書はよく見られ、キリスト教の肝とも言える場所かもしれません。ですからいま一度読んでみましょう。愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛するものは皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません、神は愛だからです。神は、独り子を世におつ交わしになりました。その方によってわたしたちは生きるようになるためです。ここに神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのように愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。こう書かれています。わたしたちは、この言葉をどのように感じたでしょうか?つまり愛は神から与えられたものであり、愛を学べば神を知ることになり、神を知れば愛を知るようになります。そのような中で、注目したいのは復活したイエス様とペトロの問答がヨハネによる福音書の21章15節以降に書かれています。その内容は食事を終えた後にイエス様がペトロに三度同じ質問を致します「わたしを愛しているか?」その言葉にペトロは「愛しています」と答えます。しかし三度目に聞かれた時、ペトロは悲しい思いになりました。なぜ同じ質問をするのか?はっきりと愛していますと答えたのにと思ったかもしれません。ですがイエス様の聞かれた真の意味を見出せなかったのかもしれません。だからこそイエス様は同じ質問をしたのではないでしょうか?聖書の注解書では愛の種類が違うのではという見解もありました。しかしそうは思えないのです。イエス様の意図する質問とペトロの考える愛に対する答えに相違があったのです。つまり神様の愛と人間の愛には大きな違いがあります。それは、神様の愛というのは一方的な愛であります。一方人間の愛は双方の思いが重なった時、初めて愛として成立するものなのかもしれません。
例えば私たちがこどもたちにキスをする時どうでしょうか?わたしたちは愛情の表現として考えますが、実際に受ける子どもたちはどう感じるでしょうか?もしかしたらあまり良い感情を持たないかもしれません。そのように人間が愛の業を行う事は非常に難しいのです。一方で神様の愛はわたしたち人間に有無を言わさず与えてくださるのです。なぜ神様はイエス様をわたしたちに与えてくださったのか、わたしたちを愛してくださるからというのも大きな理由の一つですが、もう一つの理由として生きるために与えたと書かれています。つまりわたしたちが生きるためには神様の愛が絶対的に必要であると判断されたのです。それは、わたしたちが幼稚園や学校で習った道徳や倫理と言った科目的な愛の教えではなく、神様の本質的な無条件の愛を理解させるために、イエス様の語られる愛の言葉と行われる業でわたしたちに伝え教えるのです。それは、誰でも例外なく信じれば無条件に与える愛なのです。わたしたちが神様を愛したから愛をくださったわけではないのです。神様の愛がまずわたしたちに注がれたからこそその愛に気づくことができたのです。つまりわたしたちは愛によって生まれ、愛によって命を全うするのです。聖書でも書かれていますように神様はアルファでありオメガであると言われていますように初めであり終わりなのです。つまり最初から最後まで神様の愛の中でわたしたちは存在しているのです。その無条件な愛をいただいているわけですから積極的に愛を行っていきましょうと言いたいところですが、先程人間の愛は双方が喜んで成立すると述べました。行動や言葉では相手にその愛する気持ちが伝わらないかもしれません。しかしある方法をもってすれば積極的に愛を実践することができます。それは相手の事を覚えて祈るのです。その際必ずわたしたちは主イエス・キリストの御名によって祈りますと言っているではありませんか。つまり神様の愛と共に相手を愛することにつながるのです。聖書では、相手を呪うのではなく、祝福が注がれますように祈ります。祈りこそ積極的に愛を行うことができるのです。「あなたのために祈っているよ」と無粋に声をかける必要はありません。その祈りは神様が受け取ってくださり、神様が一方的な愛で満たしてくださるのです。
お祈りいたします。御在天の主なる神様。感謝いたします。本日はヨハネの手紙からあなたが無条件の愛を注いで、わたしたちにイエス様を与えて下ったことを感謝いたします。わたしたちはその愛を得て生きることができます。そしてその受けた愛を積極的に行っていくことができますように導いてください。しかし私たちは一方的な愛では相手が不快を感じてしまうかもしれません。その時は積極的に神様に祈っていくことができますように導いてください。この一週間も神様が守っていてください。このお祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
2023年11月5日 益子教会主日礼拝メッセージ要旨
聖書 マタイによる福音書 6:33
メッセージ「何よりもまず」
わたしたちの周りには様々な問題が起こります。その際わたしたちは沢山の願いをするでしょう。その時、わたしたちはまず祈らなければならないことがあります。それは何かと申しますと本日の聖書マタイによる福音書6章33節に書かれています。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」この言葉をイエス様は与えてくださったのです。人間は様々なものに悩んでいます。食べ物、着物、住む所などどうしようかと悩んでしまいます。その原因として、様々なことが考えられますが、生きるというテーマに向き合えば、わたしたちは、自然とその問題を考えねばなりません。特に災害や戦争というものの最中にいる兄弟姉妹は深刻です。しかし一向に人間の闇の部分は消えることなく、今もなお膨れつつあります。そのため弱い者たちが苦しめられているのが現状です。もしも、この世のものすべてが闇を封じることが出来るのならば、生きていくことの困難さはあっても共に歩むことが出来るのではないでしょうか?そのようなことを望みつつも、今ある状況を変えることが出来ません。
しかし、わたしたちが率先して、神様に向き合うならば、変えてくださるのかもしれません。いや変えてくださるのだと断言できます。なぜならば、神様は種もまかず、刈り入れもせず、倉に納めもしない空の鳥を養ってくださるからです。またどんなに神様から知恵を与えられたソロモンでさえも野の花の美しさにはかなわず、明日には炉に投げ込まれようとしている花をも神様は装ってくださるのです。ましてやあなたがたにはなおさらではないか。その様に語ってくださるのです。この言葉を聞いてもまだ神様を信じることが出来ないかもしれません。なぜならば、人間の心は弱く、疑り深いものだからです。人間は自分の時間を大切にし、基準とします。そのためすぐに答えが得られなければ、信じられないといった思いを抱いてしまいます。その不信感こそ、わたしたちを神様から引き離す悪の仕業かもしれません。その悪に打ち勝つ唯一の方法こそが神の国と神の義を求めることであります。
神の国とは、神様が自ら指揮をとり、わたしたちを導く神様の力が最も働かれるものであります。場所だけではなく実質的なものや言葉、全てを含みます。そのため、自分たちの思いや願いも加えて与えられるのです。つまり神の国を求めていけば、神様の御心に従ったすべてのものが与えられるのです。
また神様の義とは、人間から見た視点ではなく、神様の視点で見た正しさなのです。わたしたちは兎角、法律で物事を考えてしまう傾向にあるようです。しかし私たちがその法律に従っていくことが本当の正しさを実証することは困難の道かもしれないのです。なぜならば、その法律を知らなければ、もしくは正しく理解していなければ、何の効力も発揮しないのです。むしろ正しい判断でさえなくなってしまうかもしれません。そのようなことが生じる時、不公平感を生み出し、正しいことが捻じ曲げられてしまう可能性があります。その不公平感は人の心に欺く心を抱かせ、信じることさえ奪い取ってしまうものかもしれません。そのような時、その心から脱却できるのは神様の義だけなのです。その正しい判断が出来るのは神様だけだからです。
わたしたちは様々な違いを互いに認識しあうことが何よりの近道でありますが、そのお互いが認め愛し合うことを達成できておらず、今もなお自己中心な考え方で戦争をしています。わたしたちはもっと神様の心が理解できるように祈っていかなければなりません。悩み続けなければならないかもしれないのです。しかし神様はわたしたちに語り掛けます。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自ら思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。このように締めくくられています。わたしたちができるのは一切合切を神様に委ねていくことであります。わたしたちの悩みは、必ず神様が解決してくださることに希望を置く時、わたしたちの心の荷が軽くなるのではないでしょうか?そのことを信じて祈る時、必ず神様を感じることが出来るはずです。
お祈りいたします。ご在天の主なる神様、今日もあなたの御言葉を与えられたことを感謝いたします。わたしたちが神様の国と神様の義を求める時、神様はちゃんと答えてくださる方であることを感謝いたします。どうぞあなたの業がなされるのを絶えず待ち続けることが出来ますようにわたしたちの心に忍耐の心を与えてください。日々の歩みの中で様々な悩みが増え続けますが、あなたに委ねていくことが出来ますように導いてください。このお祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
2023年10月15日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 ルカによる福音書 14:7~14
メッセージ「へりくる者は高められ」
わたしたちは人を招くこともあれば、招待されることもあります。その時に悩むのが席順であります。誰がどこの席に座るか、座ってもらうか考えなければなりません。それは聖書に書かれている時代も同じで、上座と末席いった仕分けをしていたのかもしれません。ですがイエス様と食事をする時には円座で上下関係がない座り方をしたのではないかと思うのです。つまり神様の恵みは皆に平等で同じように愛されたのではないでしょうか?本日の個所ではイエス様は招待を受けた客が定石を選ぶ様子を見て、語られるのです。
「婚宴に招待されたら上席に座ってはならない」と呼びかけます。なぜそのようなことを発言されたのでしょうか?それは人間の本質を見抜いていたのかもしれません。どんなに謙遜な思いを持っていても自分の地位や働きによって、人から先生と呼ばれている者はまるで自分が偉くなり、それに見合った扱いを受けなければ、怒る人も世の中には沢山おります。しかし、自分の価値基準で物事を判断するならば、わたしたちは恥をかくことになります。招待した人が来て、「この方に席を譲ってください」と言われた時、どんな思いをするでしょうか?恥ずかしいだけならばまだよいのですが、面目丸つぶれてしまうと人は怒り攻撃しようと考える者もいるかもしれません。なぜならば自分を偉いと思っている者にとっては馬鹿にされるということがどれだけその人のプライドを傷つけてしまうのです。こんなことで怒るのもどうかと思いますが、怒りの感情はふとしたきっかけで芽生えるものなのです。逆に末席に初めから座っておれば、その様な感情を抑えられるばかりではなく、招待された方に自分の評価を認められるのです。つまり初めから自分の地位や存在を受け止めてへりくだる思いを持つならば自分が考える以上の評価を得ることが出来るかもしれません。つまり、自分の評価は自分を客観的に見ることはできません。自分を客観的に見ることが出来る人は、周りの意見に耳を傾けることが出来るのです。しかし今自己中心的な考えを持つ人が増えているかもしれません。特に各国のリーダーは自国の有益性ばかりを求め、強い大きな意見として提案し、そのことを無理にでも通そうとする動きを顕著に感じます。それがどんな理不尽であっても自分の考えが正しいと押し付けるのです。その様な考えが蔓延しますと、非常に危険な状態であることに気が付く事が出来るのです。
またイエス様は、招待する時の注意をも促します。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかもしれないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しが出来ないから、あなたは幸いだ」そのように言われるのです。わたしたちは、対等と思っていてもそう思わない人もいるのです。この時、こんなことをしてあげたから、それと同じようなもの、それに見合ったものを期待する者もいるわけです。でもそのことを期待するならば、文句の一つも出てしまうかもしれないのです。その感情はやはりよくない感情です。つまりその感情に流されてしまうと、わたしたちはその人と決して対等の立場を保つことが出来ません。つまり貸し借りを常識と考えるならば、必ず上下関係が生じるのです。しかしそれは神様が望んでいることではありません。それは正しいことも良いことも素直に言える状況ではなくなるという事です。つまり強い大きな声を出せる者の倫理に従ったものになってしまうのです。そうしますと自分が正しいと感じることもいつの間にか間違った考えが植え付けられてしまうのです。つまり心の底ではこうすべきと思うことも押し殺さなければなりません。そのような状態は、集団の中でも働きます。その言葉に流されないようにしなければ、正しいことも消え失せて、間違った社会になってしまうのです。わたしたちも教会に通い、神様の御言葉に耳を傾けます。その時、わたしたちは少数意見かもしれません。その言葉の中枢にある神様の御言葉は真実なはずなのにそのことを正しいと思えなくなる時が来るかもしれません。国が言われているから、あの人が言ったから、と自分に責任がないような思いになってしまうのです。そのような発言によって無責任社会になってしまう危険性を兼ね備えていることを危惧しなければならないのです。
お祈りいたします。ご在天の主なる神様感謝いたします。今日はルカによる福音書から、招く者と招かれる者の話を伺い、その中に潜む心を見だすことが出来ました。わたしたちは謙遜な思いをもって招かれたいと思います。どうぞその心を持つことが出来ますように導いてください、またわたしたちが人を招く時、見返りを求めるのではなく。その見返りを期待しない生き方をするように導いてください。これからの歩みがあなたが共にいてくださり、主の正しさで判断することが出来ますように、強い意見に正しさを曲げることのないようにお守りください。このお祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
2023年10月8日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 Ⅱコリントの信徒への手紙 9:6~8
メッセージ「あらゆる善い業とあらゆる恵みを」
わたしたちは、神様に様々なものをいただいております。それは、わたしたちだけではなく全てのもの、つまり動物も植物も神様の恵みをいただいているのです.もしも神様その恵みがなければどうでしょうか?それは考えたこともありませんし、考えられないことです。つまり人間が解説できるものではなく、神様の恵みはわたしたち人間の考えを超越したものなのであります。さて本日の聖書であるⅡコリントの信徒への手紙を見てみましょう。
この記事が書かれている時に、エルサレムに大きな地震が起きました。エルサレムのために、献金運動が行われた状況の下、書かれてあります。わたしたちもそうですが大きな地震などの災害のニュースを見た時、聞いた時どうしますか?助けたいという気持ちが沸き上がってこないでしょうか?もしかしたら、自分じゃなくて良かったと思うかもしれません。助けたいという思いを持たれた方は、助けになればと少額であっても献金をします。しかし実際には1回ないし2回出来れば良しとすれば、十分その人のことを考えていると言えるかもしれません。しかし実際にはそれだけでは足りていないのが現状です。ですがわたしたちには出来なくとも、神様に委ねていけば神様が備えてくださるのです。
つまり、こういう事です。惜しんでわずかしか種をまかないものは、刈り入れはわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。各自不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めた通りにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。こう書かれています。皆さんどうでしょうか?献金をいつもしてくださっておりますが、どのような思いをもって献金をしてくださっているでしょうか?聖書の中には献金をする様子を見ておられるイエス様の記事が書かれておりますが、一方の方は金額を沢山献金している方、一方ではやもめの女性がささげた献金のことが書かれております。その時に多く神様に捧げたのは誰か、皆さんはどう思われるでしょうか?金額の多い方でしょうか?そうではありません。金額の少ないやもめの女性のほうが多く献金したとイエス様はわたしたちに教えてくださいます。それはその女性の献金は額ではないのです。つまりどれだけ心を込めて献金をささげているかというイエス様の声なのです。つまりやもめの女性は、明日の食事もどうなるかわからない状況の中で献金をささげたのです。わたしたちももしかしたらこの女性の気持ちをもって献金をささげているかと言われた時に出来ていないかもしれないなと日々反省させられます。この女性のように明日のパンも考えず神様が何とかしてくださるという思いで献金出来ればと思わされます。しかし神様はその思いも受け取ってくださる方であります。わたしたちがささげる思いは金額ではないのです。つまりどれだけ神様に信頼を置き、自分自身をささげる思いがあるかという事ではないでしょうか?先ほど読んだ場所も、各自不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたことを行いなさいとおっしゃられたのです。つまり自分が行いたい気持ちを優先してくださっているのです。ですから私たちが喜んでささげる思いを神様は祝福してくださるのです。そして8節にこう書かれています。神はあなた方がいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ち溢れるように、あらゆる恵みをあなた方に満ち溢れさせることがおできになります。と書かれてあることに注目いたしましょう。神様ならできるのです。すべてのことを誰もが満足させることが出来るのです。それは物質的なものだけではありません。神様の計画は、全てのことにつながるように配慮くださる方なのです。わたしたちは、少し自分が考えることと違うなと思えても、後から理解することも沢山あります。なぜそのようになさるのか、それは神様がわたしたちに神様の恵みとは何かを考えさせようとしているのかもしれません。わたしたちはそのことをお出来になる方を信じたのです。
つまり神様はわたしたちに惜しみなく施してくださるし、その全体像もわたしたちが見えない時から与えてくださっているのです。その神様はイエス様を与えてくださり、より神様の恵みをわたしたちに示してくださっているのではないでしょうか?
お祈りいたします。ご在天の主なる神様。今日は、Ⅱコリントの信徒への手紙から学ぶことが出来ました。神様の業はわたしたちの創造をはるかに超えています。その想像しえない善い業の中で生活するっことが出来感謝いたします。わたしたちも神様に倣って惜しみなく、ささげていきたいと思います。どうぞあなたが何とかしてくださるという思いを持って生活することが出来ますように導いてください。今日ここに集えません兄弟姉妹の上に主の恵みが注がれますように。このお祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン
2023年10月1日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 ヤコブの手紙 3:18
メッセージ 「義の実は、平和のうちに蒔かれる」
神様はわたしたち人間に平和を与えようとしています。しかしどうでしょうか?人間は神様に平和を与えられているにもかかわらず、隣の芝が良く見え、そのものを奪おうとするのです。どこまで欲を持つのでしょうか?どこまで惨劇を繰り返せばよいのでしょうか?戦争をしては、その悲惨さを目の当たりにし、学び、平和とは何か?を考えます。ですが長続きしません。また武力を研究し、開発し、その兵器を使ってみたいと欲求に駆られます。
その様な思いは消えることはなく、ますます自己中心的な思いは激しくなってきているのではないでしょうか?本日の聖書を見てみたいと思います。本日はヤコブの手紙3章18節から学んでみたいと思います。義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです。この言葉からわかるように戦争の時には平和について語ることが出来なくなってしまいます。なぜならば、わたしたちの取り巻く環境は、多くの情報が入り乱れて入ってくるわけであります。そうしますとその情報の正確さを失ってしまい、声の大きい方を信じてしまうのです。つまり、正しいと思ったことが実は間違った情報なのかもしれません。そのように情報に踊らされてしまいますと、正しいことも否定してしまいます。つまりわたしたちは、一方通行の情報に非常に弱いのです。流されてしまうのです。結局人間の思いは一方通行になりがちでありますから、別の方向から見にくくなってくるのではないでしょうか?本当に正しい情報を得るためにどうすればよいでしょうか?聖書では教えています。
本日の個所の前の13~14節にこう書かれております。あなた方の中で、知恵があり、分別があるのは誰か。その人は、知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい。しかし、あなた方は、内心妬み深く利己的であるなら、自慢したり真理に逆らってうそをついたりしてはいけません。そう書かれているのですが、知恵にふさわしい柔和な行い、立派な生き方とは何でしょうか?どんな手本があるというのでしょうか?それは聖書で示されているイエス様の働きこそ私たちの手本と言えるでしょう。誰に対しても優しく神様の言葉に従って生きる歩みをわたしたちの目の前で示されているのです。つまり立派な生き方とは自分自身が正しいのではなく、神様こそ正しいと判断し、神様に従順従う生き方であります。自分が正しいと判断しがちですが、正しい判断とはすべての人が正しいと判断できる事かもしれません。それは人間ではだめです。必ず一方通行になってしまう可能性を含んでいるからです。ですから神様を考え方の中心にすれば正しい道が示されるはずであります。
続きをお読みしたいと思います。15節から16節です。その様な知恵は、上から出たものではなく、地上のもの、この世のもの、悪魔から出たものです。妬みや利己心のある所には、混乱やあらゆる悪い行いがあるからです。つまり人間の考えることには利己的になる場合があるのです。はじめは正義の名の下に行っていたことも長くなればそこに悪が忍び寄り、わたしたちの心をむさぼる可能性があるのです。やがては滅びの道に導かれてしまうのです。その様にならないためにもわたしたちがすべきことがあります。それは神様が言われようとすることに耳を傾けることです。神様の義の実を見つけることであります。その善い実とは、上からつまり天から私たちに降り注がれるものです。17節を見てみましょう。上から出た知恵は、何よりもまず純真で、さらに温和で、やさしく、従順なものです。憐れみと善い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。つまり神様が言わんとすることに耳を傾けるならば、神様の憐れみと善い実に包まれるのです。つまり善い実とは神様の愛であると言えます。神様の愛を心と体に私たちが纏う時、平和の実を蒔くチャンスが訪れるのです。武力や圧政で押し込められた平和でなく、上下関係もない、お互いがフラットな関係性を築くことが出来た時、わたしたちは平和の実を蒔く者になっていきたいと思います。
お祈りいたします。ご在天の主なる神様、感謝いたします。今私たちはヤコブの手紙から教えられました。わたしたちにとって、この世の知恵は誘惑するものであり、わたしたちを滅びの道へと歩ませます。しかしあなたの思いに身を寄せる時、わたしたちは真の平和を見出すことが出来ます。どうぞ人類すべての人が正しい考えを身に着けるためにあなたに目を注ぐことが出来ますように、あなたの視線を持つことが出来ますように導いてください。人間が真の平和を取り戻すことが出来ますように導いてください。そして今戦争で苦しんでいる兄弟姉妹が早く安心することが出来ますようにあなたがお守りください。このお祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
2023年度9月24日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 ルカによる福音書 10:36~37
メッセージ「誰が襲われた者の隣人になったのか」
わたしたちは、何が正しいかを判断するとき、頭でわかっていても正しいことを行えない時もあるのです。その時に、そのことを注意されますと、ついつい怒鳴ってしまうことはないでしょうか?それは若気の至りという言葉で許される場面や関係性はあるかもしれません。しかしそう捉えることが出来ない場面も出てくるでしょう。それはつまり自分自身が絶対正しいと思うのならば、そのような状況が生まれた時に人は感情的になってしまうのではないでしょうか?
そのような中で本日の個所であるルカによる福音書10章のイエス様と律法の専門家との対話の中でわたしたち自身にもイエス様に言われている気が致します。
律法の専門家はイエス様を試そうとしてこう問いかけました。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことが出来るでしょうか。」その言葉にイエス様は「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、律法の専門家は得意面々に答えます。
『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。そう返答するとイエス様は答えられ「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」その言葉に対して、自分を正当化しようとするわけであります。つまりそんなことは理解しているし、実行していますよ。当然のことですよ。そう思っていたのかもしれません。その心を見透かされてサマリア人の話をされました。このことを律法の専門家ばかりではなく、イエス様の弟子にも、信じるようになったわたしたちにもこのサマリア人の話をされたのではないでしょうか?
当時、イスラエル人とサマリア人の関係はあまり良い関係ではありませんでした。サマリア人は違った神様を信じ、祀っていましたので、軽蔑し、関係を持たないようにしておりました。しかしイエス様は、祭司、レビ人、サマリア人が登場する話を用い、人々の心に神様が与えてくださる永遠の命を得るための鍵を授けてくださったのではないでしょうか?
先ほど申しましたように、人は正しいことを理解していると自覚がある時、自分を肯定化しようとします。しかしその理解や思いは正しいが、実際にはどうなんですか?と問われています。つまり祭司やレビ人は、神様の業を行い、神様の与えてくださった律法を守るものであります。つまり人々から一目置かれる存在でありました。その祭司としての役割もレビ人として生まれたのも神様が生を与え、その道を示されたという神様の業によるものであります。しかしいつしか人間は神様が与えたのではなく、自分で努力をして勝ち取ったと勘違いしてしまいます。その思い上がりは、時に人を正当化する働きを与えてしまうのです。それはわたしたちにとってはあまり良いものではありません。この思いこそ人を神様から引き離すきっかけにつながっていくのです。そのことをわたしたちが心に留めていないとわたしたちは正義という名の呪縛に押し込められてしまうのです。わたしたちがその呪縛から逃れる術は、わたしたちが敬虔な心を身に着けることであります。その敬虔な心は自分自身ばかりではなく、他人に対しても、神様に対しても向き合うことが出来るのです。イエス様が話し終えた後、律法の専門家に「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか?」その言葉に専門家は「その人を助けた人です。」とイエス様に告げました。そしてイエス様は、「行って、あなたも同じようにしなさい」と告げました。多分律法の専門家はイエス様が言われた言葉を心に留めたことでしょう。きっとそのような場面に出くわしたときにサマリア人のように行動するかもしれません。あるいは。そのことをせずに遠めに見ながらも、自分自身を正当化しようとしたかもしれません。そのようにならないためには、普段から自分自身を神様に委ねていく心を持つことが必要ではないでしょうか?つまり日常から私たちは神様に委ねていくことを心がけていけば、困ったとき、苦しい時にも神様に委ねていくことが出来るのです。人は突然起こることに対処できないことが沢山あります。その時私たちがあたふたしないためにも普段から神様との関係を築くべきではないでしょうか?その日常の神様との関係性が非常に大事になってくるのです。大事なものは何か、襲われた者の隣人になれるか私たちは考えていかなければならないのではないでしょうか?
お祈りいたします。ご在天の主なる神様、わたしたちは、本日与えられたルカによる福音書において改めて永遠の命を得るためにはどうすべきかと考えさせられました。しかし私たちが追いはぎに襲われた人を見る時、自分のこれからのことばかり考えてしまいます。また自分自身が襲われた時、助けてほしいと願っても、過ぎ去る人をどのように思うかと考えた時、恐ろしくなります。ですが日常から私たちが神様に触れあうならば神様に委ねていくことが出来ます。正しい道を恐れず、歩むことが出来るのです。誰が神様の道を行えるでしょうか?わたしがいますと言えるようにしてください。そしてこれからも神様の道を歩むことが出来ますように導いてください。この一週間も守られますように導いてください。このお祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
2023年9月17日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 ヨハネの黙示録 1:17~18
メッセージ「最初の者にして最後の者」
わたしたちに息を吹きかけ命を与えたのは、神様です。では私たちがこの世の生を終えて迎え入れてくださる方はどなたでしょうか?それは神様です。つまり最初から最後までわたしたちを愛し、導き養ってくださるのは神様です。しかしどうでしょうか?人間の多くは神様の存在を知らず、命を終えるのでしょうか?そうかもしれません。しかし私はこう考えるのです。誰しも神様の祝福を受けて命を得ますが、人は月日を重ねていくと様々なことを覚え、知らず知らずのうちに神様から離れてしまいます。しかし、最後には神様のところに戻る気がします。ですから、神様を知らずに死ぬ者はいないと思っています。皆さんはどのように感じるでしょうか?本日与えられた聖書はヨハネの黙示録です。黙示録は、表現が豊かに描かれておりますので、読み辛く共感しづらい書簡かもしれません。しかし神様が与えてくださることにはすべて意味があるのです。特にその答えを顕著に示された気が致します。
というのは、人間は死に直面するときには走馬灯のように昔のことが駆け巡ると申しますように以前の記憶にとどめたことを思い出す瞬間があるのではないかと思います。実は、教会に通う方の御子息が亡くなったとニュースを聞かされた時、ぱっと頭にイメージされたのが、神様がその息子さんの肩に手を置いて「よく頑張ったね、わたしのところでゆっくり休みなさい」というビジョンでした。その方は、仕事が忙しく、研究熱心だったと伺って、帰る間も惜しんでただお客様の喜ぶ顔を見たい思いだったのかもしれません。ですが、無理をしたのかもしれません。そのことを考えますと、人間の体の弱さを実感するのです。もしもどんなに働いても疲れを知らない無尽蔵の体力であれば、わたしたちはさらに無理をしてしまうかもしれません。また、人を労わる心が欠落してしまうかもしれません。つまり体を気遣わなくなるという事はそれだけのことを更に強いてしまう可能性もあるわけです。
わたしたちにとって健康とは、心と体に程よく栄養が行き渡ることであります。体が病気やけがをせず丈夫であっても、心が弱っていれば、結果体を壊すかもしれません。その逆に心が満たされていれば、何とか乗り越えられる力を神様からいただけるかもしれません。つまり、人間は頭でいろいろ考え、心で生きる者なのかもしれません。そのことを考えると、わたしたちは世の中のものに生きる希望を抱けば、壊れた時、亡くなった時、裏切られた時にどのように思いになるでしょうか?それは非常に落ち込みます。その気持ちに触れた時、何もかも信じられなくなってしまうのです。しかし現実的には裏切られようが時間は刻一刻と流れるのです。つまり時の流れを止めることはできません。わたしたちは1秒ごとに時を重ね、年の層を増やしていくのです。わたしたちはどれだけ努力しようが絶対に過去に戻ることはできません。なぜならばその時間は神様がくださったからです。神様はこの世で唯一生死の鍵を持っているのです。その鍵を使うことが出来るのは神様だけであります。ですから私たちの命も神様が管理してくださっているのです。つまり私たちがどんなに体に気を使い、健康を心がけようが、死はやってきます。どんなに頑張って必死に働こうが命の終わりがあります。どんなに多くのことを学び賢くなろうとも病気や年齢など様々なことで忘れてしまいます。つまりどんな努力をしても消え失せてしまう可能性があるのです。しかし絶対に消え去らないものがあります。それは形のないもの、見えないものです。この見えないという事がどれだけ素晴らしいでしょうか?わたしたちはあらゆる情報で物事を判断します。その情報に満たないとどうでしょうか?判定不能と判断して、分析するのをやめてしまうかもしれません。やはり理解できないものに関してはお手上げです。つまり信憑性がないからダメとレッテルを張ってしまうのです。しかしこの世の中には解明できないことのほうが多いのです。むしろ解明されていることのほうが少ないかもしれません。ですから神様のことをどれぐらいの人が理解しているのでしょうか。わたしたちは知っている程度かもしれません。もしかしたら知ったつもりでいるのかもしれないのです。ですが神様はわたしたちに近づくのです、そして自分が何者であるかをわたしたちに示そうとしておられるのではないでしょうか?わたしたちがこの世のものに希望を抱くことを捨てた時、改めて私たちが神様を信じるように御言葉をもって御自分を示してくださるのです。
お祈りいたします。 ご在天の主なる神様、感謝いたします。本日はヨハネの黙示録からあなたのことを考えることが出来ました。わたしたちにはあなたから与えられた命があります。しかしその命をつかさどる方であることも理解いたしました。わたしたちは考えます。人が生きるという事は、自分たちでどうすることもできない事です。ですがあなたが与えてくださる命をしっかりと生きたいと思います。そしてその命の尊さは長さではなく、心がどれだけ充実したか、満足したかを感じ、最後にはあなたのことを思い出し、再びそばで暮らしたいです。この思いをあなたが受け止めてください。天の御国であなたに出会えますように願います。このお祈りが今家族を失った兄弟姉妹と共に分かち合うことが出来ますように導いてください。このお祈りを主イエスキリストの御名によって祈ります。アーメン
2023年8月27日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 ヨハネによる福音書 1:14~18
メッセージ 「満ち溢れる豊かさ」
わたしたちは、どんな時に豊かさを感じることが出来るでしょうか?それは、おなかがすいている時は、食べ物が目の前にあり沢山食べることが出来ればおなかも満たされますし、心も満たされていくでしょう。しかしその喜びは一時で生きている限り、必ずおなかがすき、また同じような思いに駆られることでしょう。そのように食べ物だけでなく、ほかのものも同様にその時その時のものを欲しがりますが、また飢えてしまいます。つまり人間の欲は尽きることはありません。そのような中でわたしたちの心も体もいつも満たされるために神様はイエス様をお与えになったのです。なぜイエス様によってわたしたちは満たされるのでしょうか?それは、イエス様によって、わたしたちが「神様に愛されている存在です」と分かりやすく語ってくださったからです。イエス様が来られる以前は、神様は律法という約束をわたしたちに与えてくださいました。しかし律法を与えられても、一部の人からその律法を聞き、自分たちの生活に当てはめていました。ですから律法を守ることすなわち神様との約束を守ることによって神様に従うことになりました。しかしどうでしょうか?律法を間違って覚えてしまうとどうなるでしょうか?神様からいただいた律法にもかかわらず、その律法をいたしかたなく守ることが出来ない人を裁き、罪人としてしまうのです。その結果神様からいただいた律法によって人を裁いてしまうのです。そのようなことを神様は望んで律法を与えたでしょうか?いえ決してそうではありません。神様は十の戒めを与えただけであって、その律法を難しくさせてしまったのも人間ですし、神様の豊かな愛を狭めたのも人間です。ですからそれによって神様を誤解してしまったのかもしれません。
しかし神様はイエス様を与えたことによって、その考え方を正しく理解させるのです。つまり誤解している部分を解きほぐすことによって一本の道へとつながるのです。その一本の道筋とは神様につながる道なのです。つまり私たちは神様を理解しようとして難しく考えすぎてしまったのかもしれません。だから神様との道を簡単にしようとしてくださったのです。しかし人間はそのようにイエス様が来られたからすぐに変わるものではありません。では信じるようになるためには、その律法を知らない人たちのところに出向き。神様のことを伝えていかなければなりません。それが御言葉です。イエス様は神様の言葉を伝えるために様々な所に行かれました。それは病気の人ももちろんですが、社会的に抑圧されている者や律法を知らない者や守れない人のところに行き、神様の愛を伝えていくのです。その愛に出会うと人は満たされ、喜びにあふれるのです。この「あなたを愛しています」「あなたが大切です」との一言がどれほどその只中にいる人が救われることでしょうか?千の難しい言葉よりも単純なことが胸を打つでしょうか?つまりイエス様の言葉を単純に考えれば、その言葉の秘められた豊かさを感じることが出来るのです。イエス様の言葉と行動には恵みがあり真実があるのです。わたしたちは、律法という神様からいただいたものを大切にしなければという思いに駆られてしまいますと本当に正しいことを見失ってしまう可能性があるのです。わたしたちは神様ではありません。間違うこともあります。しかし間違ったままにしておけば、いつしか正しい判断を失ってしまうかもしれません。それは、わたしたちは避けなければなりません。なぜならば間違った道は、命の道ではなく滅びの道だからです。神様は今もなおわたしたちに願っています。本当の愛に気づき、本当の正しい道を歩むことを。わたしたちは自分たちの都合によって嘘で固められた難しい言葉よりも神様が「あなたを愛しています」という言葉に豊かさを感じ歩んでいきたいと思います。
お祈りいたします。ご在天の主なる神様、感謝いたします。本日は、ヨハネによる福音書から学ぶことが出来ました。神様はわたしたちを大切にしてくださる思いを与えてくださったにもかかわらず、わたしたちはそのことを理解できませんでした。しかし神様がイエス様を送ってくださったおかげで、わたしたちは神様の愛を深め理解することが出来ました。神様の豊かさを感謝いたします。またこれからあなたの道を歩んで生きたいと思います。あなたの道を示してください。正しく見分ける力が与えられますように。このお祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
2023年8月20日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 エフェソの信徒への手紙 5:9
メッセージ 「光から生じるのです。」
わたしたちの起源は神様にあるのですが、神様がわたしたちをどのように造られたのか思い出してみたいと思います。創世記1章の物語を読んでみますと人間は一番最後に神様に似せて創られたのです。その創世記の一番初めの1章1~5節部分を読んでみたいと思います。初めに、神は天地を想像された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ」こうして光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第1の日である。こう書かれています。神様の創造物語を読みますと改めて感じるのは「光あれ」という言葉で世界が始まるわけでありますが、その前には混沌の世界であったと書かれているように、光がない世界は何も見えないが何かがうごめいていた様子です。光が現れたことによって光と闇を分けられたのです。この光がわたしたちもそうですが、神様へと導くのです。つまり神様は光を作られたことによって闇の中にとどまらないようにしてくださったのです。わたしたちは暗闇の中にいても一筋の光さえあればそこを目指すことが出来ます。だから私たちにとってとても大事なものであります。その光は神様が創り出したものでありますがその光には神様のあらゆる善意と正義と真実が生じるのですと本日の個所では書かれています。本日の話は神様の光について考えてみたいと思います。
本日の聖書箇所の一つ前の8節にはあなた方は、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさいとわたしたちに語り掛けてくださいます。なぜ暗闇の子だったのでしょうか?そしてなぜ光の子なのでしょうか?それは神様の計画によってわたしたちは神様に出会いました。つまり今あるのも神様に出会って自分自身の価値観や考え方が変わったのではないでしょうか。以前は神様よりも大事だと思っていたことを大切にしておりました。しかしどうでしょうか?その大切なことによって起きるのは人間の妬みであったり、恨みかもしれません、そのような中で、本当に大切なのだろうかと疑問を抱き立ち止まった時、わたしたちは初めてその大切にしていたことによって闇を呼び起こす原因になっていることに気が付くわけであります。そのことを捨てることが出来た時に、わたしたちは初めて闇から解放されるのです。その間違った思いを以前つまり闇の時代とするならば、そこから離れた時にもうすでに光へと導かれているという事になるのです。つまり善意も正義もそして真実も神様のもとにあるのです。わたしたちが何を基準に考えていくか、それを神様はご覧になっているのではないでしょうか?
神様が良いと思われるものと人間が良いと思うものは若干違うものかもしれません。多少のずれは生じますが、必ず神様が軌道修正してくださると信じます。だから私たちは大胆に神様に倣って正しい言葉や正しい行動をしていかなければならないのです。暗闇の業は必ず神様の光によって明るみにされるという事を覚えていかなければならないのです。
さらに聖書はこのように語ります。15節以降にこう書かれています。愚かな者としてではなく賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。だから無分別な者にならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。賢い者の特徴の一つは与えられた時間を有効に使うということであります。一方で愚かな行動の特徴が何も考えずに行動してしまうところであります。悪い時代でありますから、わたしたちをだまそうとするものがわたしたちを狙っています。また、わたしたちは完全ではありませんからすべての状況をとらえることはできません。わたしたちが正面の信号が青だからすぐにアクセルを勢いよく踏み出すならば、何らかの事故に見舞われるかもしれないのです。運転の際はいつでもそのような思いで運転する必要があります。つまり神様が与えてくださった時間を有効に使うことが賢い生き方なのかもしれません。また、今の世の中はストレスの時代かもしれません。しかしそのストレスをどのように吐き出していくことはわたしたちの課題です。お酒が好きな方はお酒を吐き口にする人もいます。別に聖書ではお酒を飲むことは禁じておりませんが、適度の量でとどめていく自制できる心がなければ、飲みすぎて体を壊すかもしれませんし、人間関係が壊れてしまうかもしれない、そのようなことが起こりうるのです。ですが、聖書で語られておりますように、霊に満たされ、詩篇と讃歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。だからこそ私たちは神様に触れる礼拝が必要なのです。その日の礼拝で牧師が語ることは正しいとか間違っているという判断はさておいて、神様がなぜこの聖書箇所から私に語り掛けるのか、それはわたしたちに必要だからです。わたしたちの日々の生活で足りていない事なのかもしれません。神様は親切な方でありますから、わたしたちに教えてくださるのです。
お祈りしましょう ご在天の主なる神様感謝いたします。主の光を与えてくださったことによって、わたしたちは新たな気持ちを持つことが出来ます。わたしたちがいかに闇の部分を大切にしていたかと思うと、心から震えます。しかし今その暗闇から解放された思いがいたします。どうぞわたしたちが光の子として1週間歩むことが出来るように賢い者として時間を歩むことが出来ますように導いてください。そして霊的な力に支えられてあなたを語る時が与えられますように。このお祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
2023年8月6日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 マタイによる福音書5章9節
メッセージ「平和を実現する人は幸いである」
日本基督教団では8月第1主日を平和聖日として、献げております。わたしたちも教団教会の一員として平和について考えたいと思います。皆さんが考える平和とは何でありましょうか?本日与えられたマタイによる福音書5章9節にはこのように書かれてあります。「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」こう書かれてあります。皆さんはどう読み取るでしょうか?どう感じたでしょうか?わたしたちの平和のイメージは戦争もない、けんかもないという事が絶対条件のように考える人もいるかもしれません。しかし、こうだ、あーだと口論も対立と考えるならば大きい小さいにかかわらず争いは絶えないわけであります。つまり完全な平和を人間が造り出すことはかなり難しいのではないでしょうか?そのようなことを考えていますと、世界平和どころか家庭平和さえも危うくなってしまうのではないでしょうか?そうならないためにもわたしたちは、普段から気をつけなければならないことが多くあるような気がいたします。まずは自分の心が平和であることです。忙しい毎日を過ごしますとイライラする気持ちが表面化し、言葉や行動が雑になることがあります。せかせかしていますとできることもできなくなる気がいたします。もっとゆっくり行動したいという気持ちを大切に日々心がけてみますと、もしかしたら平和的に時間が流れるかもしれません。
しかしそれだけでは難しいかもしれません。なぜなら私たちは自分一人で生きているのではなく大勢の人と交わりあいながら生活しているからです。たとえ会話がなくとも時間を共有しているのです。同じ電車に乗るとか買い物に行くとか、時には食事をするときに人と接していないでしょうか?必ずどこかの場面では共有していると思います。だからこそ他人との交わりの際には互いのことを思いやるなどの他者への配慮が平和へとつながっていくのです。そしてすべての人と互いに認め合う関係を築くことが出来るのならば、平和にまた一歩近づくことが出来ます。しかしそれでも完全な平和を得られる保証はありません。なぜならば歴史という観点からも人間は心が一定に定まらないのが事実です。つまりその時には理解していても時という存在は人の心を変えさせる力を持っているのです。だからこそ私たちは平和を求めるならば、神様という存在がいかに重要であるかを考えなければなりません。その神様がわたしたちのもとに送り出してくださったのがイエス様です。イエス様は神様を信じる人以外も助けられ、救ってくださったのです。その結果多くの方が神様の愛を感じるようになったのです。それこそが平和の第一歩です。つまり愛されているという事に気が付いた時、人は平和を実感するのかもしれません。
しかし人間はすべてその愛の業を素直に賛同できない者も出てくるのです。つまりイエス様の存在によって自分たちの地位を危ぶまれた者は愛よりも憎悪の力に負けてしまうのです。そしてイエス様を十字架につけて殺してしまうのです。このような身勝手な行動こそ私たち人間の本質かもしれません。そのことを理解してくださってもなお神様はイエス様を送ってくださるのです。そして復活したイエス様は弟子たちに向かって「平和があるように」と言葉をかけられるのです。イエス様こそ平和の先駆者と呼ぶことが出来るかもしれません。わたしたちがイエス様を知れば知るほど平和の道へとつながっていくのです。もしも私たち人間がイエス様から離れてしまえば途端に平和よりも争いが広がってしまうかもしれません。そのようにならないためにもわたしたちは日々聖書に触れる必要があるのではないでしょうか?聖書を読み、神様の御心に触れた時、平和の思いが心を駆け巡ることでしょう。もしも私たちがこの世の考えから離れ、神様の愛を追い求めていけば平和への思いに満ち溢れることでしょう?つまり平和を得るためには神様の愛と言葉とが最高の条件でもあり、最低条件でもあるのです。わたしたちが平和を実現するための力を与えてくださいます。わたしたちはこれからも平和を追い求めていきたいと思います。
お祈りいたします。ご在天の主なる神様、わたしたちは今日、平和について聖書から学ぶことが出来ました。ありがとうございます。わたしたちはいつの間にか、自分の利益だけを追い求めあなたの平和すら求めない愚かな者であることを自覚するとともに懺悔いたします。どうぞ主の恵みの中であなたの平和を求めていくことが出来ますように。いまだ戦火の中にいる兄弟姉妹が平穏な日々を一日も早く取り戻すことが出来ますようにお救いください。このお祈りを主イエス・キリストの御名によっておささげいたします。アーメン
2023年7月30日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 エフェソの信徒への手紙 5:6~14
メッセージ「キリストはあなたを照らされる」
誰もが、光り輝く人生を送りたいと願うかもしれません。では皆さんにとって輝く人生とは何でしょうか?それぞれ価値観は違うと思いますが、「こうしたい、あーしたい」と理想を持っていると思います。しかし自分の計画通りにいかないのが人生かもしれません。死ぬ時に自分の人生は何だったのだろうと走馬灯のように思いめぐらすかもしれません。その時になんだかんだあったが良い人生だったと思えればその人の人生は納得できるかもしれません。しかし、そのように感じることが出来ないで死ぬ者もおります。ですから誰もが生きていてよかった。良い人生だったと思えるようにするためには。生きている間に自分の存在価値を高めていかなければなりません。どうすればその価値観を高めていけるでしょうか?自分は大切にされている、愛されているという事を意識することではないでしょうか?わたしたちは家族や友人に対してそのような感情をもって接しているでしょうか?もしそんなように接していないと思う人もいるかと思います。ですがそれは様々な思いや言葉でそのようになってしまったのかもしれません。しかし神様はわたしたちを愛してくださるのは事実です。現にわたしたちを愛してくださるからこそイエス様をお与えになりました。そのイエス様によって、わたしたちの人生は輝く人生となるのです。誰かに愛されていることがいかに大切かを思いだすことが出来ます。だからこそ、大切な家族を愛することがその人を輝かせるのです。つまり神様の愛によって光の子となったわけです。
だからこそまず私たちはむなしい言葉に惑わされてはなりません。せっかく光の子として歩むことが出来るのになぜ一時の誘惑に負けてしまうのでしょうか?それは、人々の心が弱いからです。どんなに強い心を持っていようともわたしたちを惑わすものは沢山あります。わたしたちの心の隙をついてくるのです。その隙を突けば人はその目先のことに捕らわれてしまい、簡単に崩れ去ってしまうのです。そこで、わたしはお勧めしたいことがあります。あまり自分に過信しないほうが良いという事です。つまり自分は絶対にそんなことはしないし、起こりえないことが起きたとしても十分に対処することが出来ると考えているかもしれません。しかしそういった人ほどそういった隙間に陥り易いかもしれないのです。自信を持つことも大事です。しかしどんな人間であろうともその狭間の中で生きているという事を意識することが大切ではないでしょうか?そのような感情の中で生活していますと、いつの間にか自分はいつ失敗してしまうかもしれない。失敗はできないなどのプレッシャーを自らが課してしまうのではないでしょうか?そのようなことを考えていれば、自分の人生を光り輝かすことは難しくなってしまうのではないでしょうか?でもこう考えて欲しいのです。自分は神様に愛されているのだと。失敗をしてしまうけど、こんな私だけど神様が助けてくださるのだと。そのように思えば、少し気が楽になるのではないでしょうか?少しでも重圧から解放してあげましょう。それが、人生を輝かせるコツかもしれません。理想ばかり追い求めてもその重圧に負けてしまったら、自分の人生を悔いるかもしれません。生まれてこなければ良かったと後悔するかもしれません。そうならないためにもわたしたちには神様の愛が必要です。神様の恵みが必要です。そして神様の癒しと、救いが必要です。その神様の業全てがわたしたちを輝かすものなのです。それは、この世で得ることが出来ません。なぜなら神様の業はこの世に属するものではなく、わたしたちが神様ご自身に目を向けなければ、見ることも聞くことも感じることもできないからです。
お祈りいたします。ご在天の主なる神様、今日はこうしてエフェソの信徒への手紙から学ぶことが出来ました。わたしたちは神様に愛され神様の恵みの中で生きていることを感謝いたします。わたしたちはこの世に身を置いており、わたしたちをだまそうとするむなしいことも繫栄している中で暮らしていることも理解することが出来ました。改めて祈ります。わたしたちをこの世のむなしいものから遠ざけてください。どうぞ自分の人生をあなたによって照らされるものとしてください。そしてすべての人が神様に愛されていることを自覚することが出来ますように導いてください。あなたによってすべての人の人生が光り輝くことが出来ますように導いてください。このお祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
2023年7月23日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 1ヨハネの手紙 5:18~21
メッセージ「イエス・キリストの内に」
「偶像を避けなさい」と本日の与えられた御言葉の最後にこう締めくくられています。偶像とは何でしょうか?皆さんがわかりやすい言い方をすれば、アイドルという言葉になります。皆さんはどんなアイドルが好きですか?そのアイドルにどのような思いを持っているでしょうか?イメージ的には清楚で汚れないものを想像しているかもしれませんし、しかしそれは画面上のものであって、全部ではないと思います。しかしそのことを思い描けばその自分が推しているアイドルに対してこんなことはしないという念に駆られるのではないでしょうか?もし自分の理想と違えば、裏切られたと勝手な思いに先走ってしまうのではないでしょうか?つまりその感情こそ自分の中で偶像を作り上げてしまうことになるのです。ですから、偶像とはそのものだけではなく、思想も一種の偶像に成りえるのだということをぜひ理解していただけたらと思います。
わたしたちはいったい何に属しているでしょうか?皆さんはどうでしょうか?わたしで言うならば、わたしは益子教会の牧師であり、日本基督教団に所属している牧師という職業をしている男性です。ですが、それだけではありません。年齢は?好きなものは?名前は、つまり説明以外のこともいろいろな面を持っているわけです。ですから会う人によっても印象が違うかもしれません。あまり私を知らない人は、牧師という面だけでイメージするかもしれません。皆さんが牧師というイメージをどのように思っているかわかりませんが、神様のことを信じ、神様のことを教えてくれる人、聖書を一生懸命読んでいる人、聖書をマスターしている人、聖書に精通している人、絶対に正しい人など考えるかもしれません。でもそうではないと自信を持って言えます。なぜなら私自身がそう思っていないからです。しかしそう思わない方も大勢いるのが現実です。「牧師だって」ということです。どんなイメージを持とうが構わないのですが、つまり偶像化してしまう恐れがあるという事を忘れてはいけません。しかしある意味で、自分自身がそうなりたいと願望を持っているかもしれません。ですから非常に偶像化するという事が身近な存在で危険であるかを思い知らされます。
もしも自分自身を神様に属する者と自覚するならば、聖書に触れてほしいです。賛美の声を高らかにささげて欲しいです。そして自分を神様に献げて欲しいです。でもある意味でこれもこうなってほしいと偶像を押し付けてしまっているかもしれません。本当に神様が言わんとしていることを理解していないかもしれないのです。神様は条件付きでわたしたちを認め、わたしたちを救われたのではありません。神様の計画によってわたしたちを救われたのです。つまり初めから救う計画を以ってわたしたちを創造されたのです。わたしたちが足りない者にも関わらず神様は愛を示してくださいました。しかしそのことを伝えても人間は、欲深くもっと欲しい、こうして欲しいなど要求が多すぎます。その度に神様が与えてくださったものに満足できず、神様から離れてしまいます。そのような者に対してももっと神様を感じることが出来るようにイエス様をつかわしてくださるのです。しかしどうでしょうか?人間はイエス様を与えられその神様の愛を理解できませんでした。つまりイエス様に神様を感じることが出来ず、感じていたとしてもイエス様を自身の理想にはめ込もうとするのです。そうしますと、自分の思い通りの神様を求めてしまったのです。その結果神様に属する者でありながら神様の気持ちに反してしまうのです。つまり自分が正しいことを証明したいだけかもしれません。そのようにならないために私たちは、神様という存在を忘れてはならないのです。神様はどのように考えているのだろうか?神様ならどうするのか?という事を考えなければならないのです。自分主義ではなく、神様主義に変えて生きましょう。わたしたちならできるはずです。なぜなら私たちは神様の内にいるからです。
お祈りいたします。ご在天の主なる神様、感謝いたします。本日はヨハネの手紙から私たちは改めてキリストに属することを確信できました。わたしたちは自分の考えではなく、神様ならどうするかを考えて歩んでいきたいと思います。しかしながら私たちの心の中には悪魔がいます。こうしなければならないと理想を掲げ、そうでなければならないと決めつけてしまう愚かな者であることも自覚しました。どうぞあなたが与えてくださった隣人を偶像化しないように様々な人を受け入れていくことができますように導いてください。そして主の愛を実践する者へと変えさせてください。このお祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
2023年7月9日 益子教会主日礼拝メッセージ
聖書 フィリピの信徒への手紙 2:1~11
メッセージ「キリストの心があるなら」
本日は「キリストの心があるなら」と題しまして、メッセージを語りたいと思います。
心とは何でしょうか?と言われた時、どのように説明し、どのようにお答えになるでしょうか?わたしだったら中心という言葉を用いて文字どおり人間の中心にあるものが心であるというかもしれません。しかし実際にどこの部分が考えているかは定かではないわけです。つまり物事の判断を決めるのは、その状況や環境によっても捉え方が違うからです。そして瞬時に脳が判断して各部分に連絡しますので、もしかしたら脳が心の働きをしている部分もないとは言えません。しかし実際には、心は脳ではありません。つまり脳が働かなくとも体は動きます。脳死と判断された人も呼吸をしますし、意識が無くとも本能的動くこともありえるからです。つまり脳だけで判断するのではないということです。しかし様々な認識機能は脳に働きかけるのを考えると非常に難しい問題です。しかしその答えを導く一つの捉え方として、知識と感情で考えるならば、納得することが出来るのかもしれません。
聖書でも様々な事を学びます。しかしなぜこんなにもわたしたちは聖書に喜びを感じるのでしょうか?それは、キリストの愛を心で感じたからではないでしょうか?知識として論理的な愛を知っていても、実際の言葉であったり、行動で示されるのでは感じ方の度合いがまるで違うのではないでしょうか?やはり心はあるのです。医学的に解明されていようがいまいが関係ありません。どこで感じようが心があるからこそ喜怒哀楽という言葉があるのではないでしょうか?しかし喜怒哀楽は文字通りその人の心を現わしますが、その感情によって人は流され、判断してしまうことがあります。もしも個人的感情で物事を考えるならば、世の中はどうなってしまうでしょう。この世は一人で暮らしているわけではありませんから、それぞれ感情や感じ方は様々です。それは育ってきた環境もあるでしょうし、生きてきた時代も違います。
そのようなわけで必ず自己主張で対立する関係であったり、社会を生み出すことになります。もうすでにこの世は自己主張によって形成されているかもしれません。わたしたちは、そのような時代に生きていることを自覚しなければなりません。このような自己中心性の社会が続くようであれば、やがて自分自身で崩壊しかねないのです。今はその危険な状態なのです。その事を踏まえてわたしたちは新たな一歩を踏み出さなければならないのです。その新しい歩みこそ神様であり、イエス・キリストであり、霊であります。つまりわたしたち人間中心ではなく、神様中心に物事を考えていく必要があります。
ではそのためにまず神とは何か?という疑問に答えなければなりません。それは旧約聖書の出エジプト記に於いて神様御自身がモーセに語られた「わたしはある。あるというものだ」と答えました。つまり目に見えていなくとも、存在するということです。本日の箇所、フィリピの信徒への手紙を見てみましょう。
「そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、霊による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしのよろこびを満たしてください。」つまりパウロは呼びかけるのです。キリストの心が少しでもあるならば思いを一つにし、キリストと同じ愛と心となれば、わたしたちは平和への道へとつながるのです。更に、聖書で語られるのは利己心や虚栄心でからするのではなくへりくだって、互いに相手を自分よりも優れたものと考え自分のことだけでなく互いに注意するということであります。つまり神様の愛は自分だけでは完成することはできません。つまり相手があって愛が成立するのです。わたしたちはその愛をイエス様から教わり実際にその愛を行ってきました。しかしまだ、足りないのです。わたしたちとイエス様の大きな違いは、イエス様は神様に対して従順であったということです。それも死に至るまで、わたしたちは神様にどれだけ従順でいられるでしょうか?
わたしたちが神様から何か頂いた時、恵みを得た時、苦難が押し寄せた時、わたしたちは素直に感謝しますと言えるでしょうか?どこかでどうしてですか?なぜですか?と文句を言っていないでしょうか?また神様からいただいたものを素直に感謝しているでしょうか?えーこれだけ等と愚痴を言ってはいないでしょうか?わたしたち人間は、強欲です。自分勝手で傲慢です。そして苦しい時、投げ出してしまいます。そのような者であるとわたしたちが自覚した時、わたしたちは悔改め、立ち帰り、神様の道をしっかりと歩むことが出来るのです。失敗を恐れてはなりません。わたしたちが失敗してしまうこと御存じです。わたしたちがすぐ諦めてしまうことも御存じです。そしてすぐ神様から離れてしまうことも御存じです。全て知った上で、わたしたちに問いかけ、わたしたちに御言葉を投げかけるのです。そして今もわたしたちを愛して励まし続けてくださっているのです。ですからキリストの心が少しでも心に残っているのなら、わたしたちはお互いに愛すべきなのです。
お祈りします。御在天の主なる神様感謝します。今日はフィリピの信徒への手紙から、キリストの心が残っているのなら心を一つに互いを愛し、互いの事を考えなさいと言われました。わたしたちはいつの間にかあなたの愛を忘れ、自分勝手になってしまっていることを懺悔いたします。これからは互いの事を考え、愛を実行する者とさせてください。また、あくまでもキリストの僕として、世の働きを与えてください。すべてあなたに従いたいと思います。またあなたから離れそうになった時には、どうぞあなたの正しい道に導いてください。このお祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
2023年7月2日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 ローマの信徒への手紙12:9~18
メッセージ 「善を行うように心がけなさい」
わたしたちにとって聖書とは何でしょうか?聖書とは神の霊感によって与えられた言葉であるとされています。しかし今私たちはそのことに向き合わなければならないのかもしれません。なぜならば、聖書が伝えようとしている言葉は神様がわたしたちに語り掛けるものであるからです。聖書は言葉の表現は時代によって変化は致しますが、その内容はほぼ変わらなく、神様の愛を伝え、救いの道を示しておられます。ですから人によっては人生の指南書であったり、道徳的教科書であったり、神様からのラブレターであると表現される方もおります。ですから時には教科書にもなり、ラブレターにもなり、神様の物語にもなりうるのです。そういった面ではそれぞれのとらえ方ができるのも聖書の自由さ、神様の豊かさを知ることが出来ると思います。ですから本日与えらえた聖書箇所であるローマの信徒への手紙12章も同じように「ただこうしなさい。」と指南しているわけではなく、こうしたら、こういう方法もありますよ、人生にとって大事なもの、わたしたちが忘れていたものや、自分に欠けている部分を思い出させてくださっているのかもしれません。
それでは本日の個所を見てみましょう。ローマの信徒への手紙12:9~12 愛に偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。皆さんはこの文章を見てどのように思われたでしょうか?率直な感想を言うと「出来ていないことばかりかもしれない」と思われた方もいるでしょう。わたしもその一人です。「そうだよな」と思わされながらも、実行できないのが現実かもしれません。その指摘されたことが出来なければ、わたしたちはだめだというわけではありません。むしろ、そのことが与えられたことによってその課題に向き合うことが出来るのです。本日のところでは後半部分に私たちがすべきこと、わたしたちができることも記されています。それは神様に希望を持って喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。それは神様に願い委ねることによって与えられる信じる心を養うのです。
次に13節から15節には、こう書かれてます。聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすように努めなさい。あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。ここでは、苦楽を共感することであります。イエス様の働きは社会の人と向き合い、社会から締め出された人に声をかけ、病によって社会的抑圧されているものを癒しました。喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣かれました。苦楽を共に歩んでくれることがどれほどうれしいかわかりません。孤独から解放することによって、その人を救いの道へと気づかせることが出来るのです。わたしたちも困っている人がいたら、声をかけるなど、自分以外の人と寄り添うことが出来れば、世界も変わってくるのではないでしょうか?
最後に16~18節にはこう書かれています。互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。わたしたちはどうしても「目に目を歯に歯を」といった等価的判断しかできません。50円のもの50円それ以上でもそれ以下でもない。そういう生活をしてきました。つまりその価値観は相手にやられたらそのまま返すのでは神様の愛に生きることにはならないのです。神様の愛は、わたしたちが全部返しますと宣言しても返せるわけではありません。むしろ神様はわたしたちにどんどん与え続けてくださるわけですから、神様から与えられるものは溜まっていく一方です。ですからわたしたちは悪に悪を返さず、悪にも全てのことにも善を持って対処すべきなのです。わたしたちが争いごとを捨て、平和への思いを強める時、神様がわたしたちもわたしたち以外の人つまり神様の愛を知らない人にも神様は恵みを与えてくださるのです。
お祈りします。ご在天の主なる神様こうしてローマの信徒への手紙から生きるヒントが与えられたことを感謝いたします。わたしたちになかなか出来ない事ばかりです。しかしあなたが示してくださったことによって、そのことを考えていきたいと思います。どうぞこれからそのことを行い実現できるように私たちの心を強め、さらに信じる心が与えられますように導いてください。すべての業があなたから与えてくださることを信じます。この1週間もお守りください。このお祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン
2023年6月25日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 1ペトロの手紙4:7~8
メッセージ「愛は多くの罪を覆う」
ペトロは「万物の終わりが迫っています」と語ります。これはどう意味でしょうか?わたしたちは考えます。それは嘘や出まかせを言っているのではなく、神様の計画として、与えられた言葉を伝えていることを考えるならば、起こりうる予想や予言ではなく、そうなるという神様の約束の成就つまり必ず起こるべきことであります。それがどのような形でわたしたちに訪れるのか、わかりません。しかし言えることはわたしたちのタイミングではないということであります。つまり神様の都合で行われるわけであります。ですから私たちにその万物の終わりの日が決まっていたのなら、最後にすべきこととして素晴らしい景色を見たいとかおいしいものを食べたいなど願望が出てくるかもしれません。しかし神様のタイミングであれば、そのような計画さえできないままその時が来るのです。つまり日常的に生活している時のほうが圧倒的に万物の終わりの時に遭遇する確率が高いのです。そのような時が来る前に私たちが準備できることがあります。
万物の終わりにできることは、思慮深くふるまい、身を慎んで祈りなさい。とペトロは書き残しました。つまり私たちは自分一人でその時を迎えるのではありません。もちろん親しい人とその時を過ごしたいと考える方は多いかもしれません。しかしそうではない人、嫌いな人と過ごしている時かもしれませんし、嫌いではないが、自分と性格も何もかも合わない人と時間を共有している時かもしれません。全く知らない人かもしれません。そのようなときに相手のことを考えて行動することが思慮深く行動するということであります。つまり自分だけのことを考えるのではなく、相手のことを考えて行動する、何かを考えるということなのです。そして祈りで神様に委ねていくことを心がけていくことが万物の終わりの時に準備しておくべきことであり、さらにペトロは何よりもまず、心を込めて愛し合いなさいとわたしたちに訴えかけるのです。このペトロの手紙が書かれた時代、ローマの圧政下にあって、非常に苦しめられておりました。ローマの理不尽な理由で不当な扱いを受け、時には物のように扱われ、殺されてしまうような事もあったと思います。そのような時代背景と今の時代は違うかもしれません。もしかしたら、今の状況のほうがもっとひどいかもしれません。聖書に書かれてあるようにこの世の終わりは戦争や天災が頻繁に起きる時、起こるのではありません。わたしたちはその神様の時が実行されるとき、神様が裁かれるのです。その裁きは、人間の判断ではないということです。つまり神様の判断で決断されるのです。つまり決定権は神様のものですし、わたしたちが決めることではありません。ですが、わたしたちは神様の好むものを率先して行うとき、必然的に神様の愛を実行しているのかもしれません。神様が好むのは愛です。人間が望む愛と神様が望む愛は違います。人間の愛はどちらかというと、自分の周囲つまり自分にかかわる人に向けた愛です。しかし神様の愛は違います。社会的にも迫害され、忌み嫌う存在をも愛してくださるのです。神様の愛は分け隔てがありません。人間もそのような愛をもって接していく必要があります。神様がその証として私たちにおくられたのがイエス様です。イエス様の働きはどうだったでしょうか?社会的疎外を受けている人、また病によって社会的に隔離されている者に近づき、「どうしてほしいのか」と声をかけられました。また、神様を理解していただくため、神様の存在を否定し、イエス様を糾弾しようとしている者に対しても、逃げずに正面から向き合いました。つまり神様の愛は誰に対してもすべての人に愛をもって接してこられたのです。そのような大きな愛はわたしたちにとってとても大きな課題です。そのことが出来ればと思いながらも私たちは周囲のことしか頭にありません。もしも私たちが神様の愛を実行しようと考えるならば、非常に重荷になる可能性があります。しかしその重荷を一緒に担ってくださるのが神様です。神様はわたしたちの足りないところもよくご存じです。神様に願えば足りない部分も満ち足りる者へと変えてくださることが出来るのです。愛することが出来ないと願えば愛を与えてくださることでしょう。時間が足りないといえば、その与えた時間を倍にするのではなく、その時間で終える知恵をいただくことでしょう。わたしたちは万物の終わりの時何ができるかではなく、愛をもって思慮深く祈り続けることが神様の愛へとつながるのです。わたしたちは万物の終わりの時まで愛を実践し、その時を迎えることが出来るのではないでしょうか?わたしたちに出来ないことがあっても、神様がわたしたちのことを考え最善の方法をわたしたちに示してくださるのです。その示された愛をわたしたちが実行するとき、神様の祝福が満ち溢れるのです。
お祈りします。 ご在天の主なる神様。わたしたちはペトロの手紙を通して万物の終わりが近づいてきていることを知りました。わたしたちがその万物の終わりまでに準備すべきこと、行うべきことを示されたような気がいたします。しかし私たち一人一人の力には限界があります。どうぞその足りない部分をあなたの霊で満たされますように。そしてわたしたちだけではなく、全ての人が神様の愛を知り、思慮深く神様が与えてくださる隣人を愛することが出来ますように導いてください。この1週間をあなたの愛で満たしてください。このお祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン
2023年6月18日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 コロサイの信徒への手紙 1:16~17
メッセージ「御子によって御子のために」
すべてのものには始まりがあり、終わりがあります。その中でどれだけの人が、自分の生きていることの意味を見つけだし、それに向かって歩んでいるでしょうか?多分多くの人は様々な理由でその道を見つけ出せず、人生を四苦八苦しているかもしれません。ですが、その生きている意味を見出せなくとも人は生きていけます。しかし明確に出来ればその意味や価値を得るために生きていく力が与えられるかもしれません。しかしそのことについて批判的にとらえていく人が出てくるかもしれません。世の中は自分だけで生活しているのではなく、多くの隣人と関わりを持ちながら、生きているのです。もしかしたら他者との関わりの中で、迷惑をかけてしまうかもしれません。出来れば、他者とのトラブルは避けたいと多くの方は考えます。わたしもそうです。しかし時には世の思いではなく、自分の考えを貫き通さなければならないことも沢山あります。
それはわたしたちが生きる意義を見つけた時です。自分はどのように生きたいかと思えた時、譲れないものが出てくるのかもしれません。わたしにとって、譲れないものはイエス・キリストを信じるということであります。しかしその信じる気持ちを押さえつけ、社会に従事させようとする働きが生じる時には、必死になってイエス様を求めて生きたいのです。しかし私も人間ですからいつでも100%信じ抜ける自信はありません。わたしたちの気持ちを揺らぎ揺さぶるものはどこにでも潜んでいます。なぜならばその神様から引き離そうとする悪い霊の働きは世の中に蔓延しているからです。しかもあらゆる手を使い、わたしたちを世の誘惑に陥れようとわたしたちのことを狙っているのです。わたしたち人間にとって社会的誘惑は名声であったり、財力であったり、健康であったり、こうしなければならないといった倫理的正義であったりします。そのことを考えると、すべてのものがその対象であり注意しなければならないかもしれません。そのような時、わたしは心に神様の天秤を置きます。今ある状況を思い浮かべ、今やろうとすることが果たして神様が望まれることかを考えます。もし神様が望んでいることであれば、やろうとしていることが開かれてくるのです。しかし、神様の思いでなければ、それがどんなによい行いであっても別の道を備えてくださるのです。そのような思いになれれば、わたしたちは神様の正しさを感じ、神様の道をしっかり歩むことができるのではないでしょうか?つまり神様という存在を知れば知るほど私たちはその神様の道を信じて生きたいものです。
創世記物語では、人間はどのように造られたでしょうか?大きな特徴は他の創造物と違い、神様の似姿で造られたということであります。さらに息を吹きかけられ生きる者となったのです。この神様の行為は、光も空気も水も花や木々も太陽や月の星々も動物も魚も鳥も昆虫もそして人間もすべてのものが神様によって作られ、今もなお神様に支えられたものなのです。そのことを理解したときに、わたしたちは自分の生きる意義を見出すことができるのではないでしょうか?もしもそれでも自分の生きている意味や価値を見出せなければ、つらくむなしい日々を送るかもしれません。その重圧は、時に自分の命をも奪いかねない状況に陥るかもしれません。その時に私たちは、求めていくと選択肢が与えられるのです。生きる希望を見出しうることができるのです。「どうせ私なんて」と諦めて欲しくありません。神様は、神様を求める人を見捨てるようなことは絶対致しません。人間的に欠ける者であろうとも、社会的にそぐわない者であっても、神様はいつも一緒にいてくださるのです。神様の存在に気が付いていないかもしれません。しかし必ずチャンスはあるのです。人間的には犯罪を犯し、捕まることは失敗ととらえられるかもしれません。しかしその失敗によって神様に出会うことも可能性としてはあり得ることなのです。つまり何によっても神様に出会いたいと願えば、叶えられるのです。
お祈りいたします。ご在天の主なる神様、神様感謝いたします。わたしたちは、改めて神様の創造物であり、全てのものがあなたによって支えられていることを考えることが出来ました。わたしたちは自分が努力をしてきたから今があるのではなく、あなたがいてくださったからこそ今があるのです。どうかわたしたちが自分の生きる意味を見出し、輝く人生を送ることが出来ますように導いてください。またどうぞすべての人が神様に出会うことが出来ますように。この1週間もお守りください。このお祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
2023年6月4日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 フィリピの信徒への手紙 1:3~11
メッセージ「キリストの日に備えて祈る」
わたしたちは、キリストの日がどんなものであるか、またいつ来るか等具体的なことはわかりません。明日来るのか、10年後、100年後来るのか、はたまたもう来ているのかさえ分かりません。しかしパウロはわたしたちに来たるキリストの日に備えていくことを祈ってくれました。それはフィリピの人たちにおくったのかもしれません。しかし、それだけにとどまらず、未来の私たちに目を向けていたのではないでしょうか?御言葉はその時代の背景を反映し、わたしたちの時代にも影響を与えているからです。つまりパウロが語る言葉には時代を超越した力があるのです。なぜならばパウロは神様のことを伝えようとしているからです。つまり求めるべきものには、必ずそれを学びたいという気持ちが生じるからです。初めは、興味本位のようなものかもしれません。しかしそのものを見た時、聞いた時、触れた時、その興味本位からさらにもっと知りたい、もっと深めたいと感じるものがあります。今回パウロがわたしたちのために祈られた知る力ではないでしょうか?つまりわたしたちは本当に大事なことをトコトン追い求めていくことは誰でも持っているものかもしれません。つまり御言葉はその人の琴線に触れ、わたしたちが何を求め、何を探すべきかを投げかけてくださるのです。ですからこの知る力を言い換えるならば私たちが人生を歩む上では欠かせないものであり、求め続けることができる唯一のものかもしれません。しかも私たちが一生涯研究しようとも理解したというゴールにたどり着く人がどれくらいいるでしょうか?誰もがそのゴールにたどりつくことはできないかもしれません。なぜならばそのゴールは近くにあっても遠く、遠くにあっても近くにあるかもしれないからです。ゴールと思っていてもそうではなかったかもしれません。つまり決まったゴールがないのです。それぞれ生活をする中で答えを見出すには、神様をもっともっと知らなければなりません。もっともっと学んでいかなければなりません。もっともっと求めていくことが必要です。神様は必ずその求める心に答えてくださる方です。わたしたちのあらゆる状態であっても必ず寄り添い助けてくださるのです。一方で、わたしたちにもう一つの力を与えてくださるようにと祈ってくださっております。それは見抜く力です。どの時代も私たちを陥れ、だまそうとする者がいます。それは神様から離そうとする力です。つまりこの世的な力とは、神様の業を疑わせ、最終的には、神様を否定し、無神論を打ち立てるのです。つまりこの世は権力であったり、財力であったり、武力であったり、特別な力がなければ、生きていく価値もないといった傲慢な世界となってしまうのです。そこには弱肉強食のような力によってしかバランスを保つことができず、お互いが力を追い求める時、争いが生じるのです。つまり私たちが見抜く力を持っていなければ未来は滅びの道しか見えてこないのです。つまり知る力も見抜く力も神様によってなされているかどうかを判断できる力を身に着ける必要があるからです。そのために、まず神様を知るために聖書を開くこと、神様と話すために祈ること、神様をたたえるために賛美することを継続することによって知る力と見抜く力を養うことができるのです。わたしたちは神様のこどもとしてすべきことがあります。この世の誘惑に打ち勝ち、真実のものを追い求めていきたいと思います。
お祈りいたします。
ご在天の主なる神様感謝いたします。今日はフィリピの信徒の手紙から共に学ぶことができました。パウロが祈ってくれたように、わたしたちには神様の存在が必要です。わたしたちに知る力と見抜く力をお与えください。さらに私たちがそのことを意識して生活していくことができますように導いてください。この1週間もあなたの御言葉に触れ、あなたのことを覚えていく日々を与えてください。そしてすべての人があなたを追い求めていくことができますように。このお祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
2023年5月28日 益子教会 主日礼拝説教要旨
聖書 使徒言行録 2:1~4
メッセージ『聖霊に満たされる』
本日は、ペンテコステです。ペンテコステは50という意味であるとともに教会節でもイエス様が十字架から復活してから50日目になります。使徒言行録を書いたのは医者のルカとされております。このルカはルカによる福音書を書いたものとされておりますので、使徒言行録が第2巻となるわけです。イエス様が復活してからのことが使徒言行録1章3節~5節にこう書かれています。イエスは苦難を受けたのち、ご自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国のことについて話された。そして、彼らと共に食事をした時、こう命じられた「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは聖霊によってバプテスマを授けられるからである」この言葉によって弟子たちはイエス様が天に上がられてからもエルサレムに滞在し続けるのです。しかしイエス様がいる間は安心したかもしれません。しかしイエス様が天に昇られた後の十日間はどうだったでしょうか?その霊が与えられる間にも様々な準備をしていかなければなりません。裏切りの役目を担ったユダの補充であったり、神様の言葉を語ることの重圧であったり、迫害する者たちの恐れであったり、弟子たちも神様の言葉を語ることに対して、躊躇する思いに駆られたかもしれません。しかし弟子たちにイエス様が以前語られたように突然霊が注ぎ込まれるのです。
その日は一同が一つになって集まっていると、激しい風のような音が天から聞こえます。それはどんな音だったでしょうか?わたしたちも様々な音を体験し感じますが、もしかしたら耳の聞こえない方は、聞こえなかったのでしょうか?それは書かれておりませんからあくまでも想像でしかありませんが、わたしは聞こえ、感じることができたと思うのです。なぜなら、それぐらい大きな音ですから衝撃も激しかったのかもしれません。ですからどんな人もその音に反応したかもしれません。そして炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまったのです。すると、一同が聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉を話し出したのです。つまり霊によって神様の言葉をそれも多くの方に神様のことを語る準備を施してくださったのでした。イエス様がおっしゃられたように霊を与えらえたのです。霊の働きは私たちに様々なものを与えます。この言語の業もそうですし、心にも神様は影響を与えることができます。今まで不安を覚えていた人は、神様が共にいることを感じたかもしれません。後で出てきますがペトロも霊に満たされて、神様の言葉を語り始めるのです。言葉など学んだことがなくても神様のことをわかりやすくその人が理解できる言葉で語ったのです。これは霊以外に考えられないのです。神様は旧約聖書の時代にも人間に様々な言語を与える物語があります。人間は神様に近づこうと高い棟を建設し始めます。それを見た神様は危惧し、様々の言葉を霊によって与え人々を世界各地に散らしました。その役割も人間の思いを断ち切る神様の業でしかできないのです。しかしそれによって広い地球を神様は管理させるのです。
つまり、神様は、イエス様を通し、霊を与える約束をしてくださったのです。そのことを考えたときに、わたしたちは神様の圧倒的な思いに圧倒されるのです。今もなお霊の働きは続いています。その霊は見えなくともいつも私たちを守ってくださいます。私たちを勇気づけてくださいます。語る言葉を与えてくださるのです。私たちがその霊に気づいたとき、私たちはこの世の恐れから解放されていくのではないでしょうか?どうぞわたしたち一人一人に与えられる霊に感謝をもって、勇気をもって神様の言葉をのべ伝えていきましょう。
お祈りいたします。ご在天の主なる神様。今日は皆さんと一緒にペンテコステのことを考えることができました。わたしたちは勇気もなく、語る言葉もままならないものでありますが、あなたによって与えられる霊によって満たされていることを感謝いたします。主の導きにより、わたしたちが神様を語ることができますようにお守りください。私たちがあなたを語る時、霊に満たされますように導いてください。そしてすべての業をあなたに委ねていきたいと思います。このお祈りを主イエスキリストの御名によって祈ります。アーメン
2023年 5月21日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 エフェソの信徒への手紙 3:14~19
メッセージ「人の知識をはるかに超える神の愛」
わたしたちは、様々な人と接する中で「この人すごいな」と尊敬の念を抱くことはないでしょうか?しかし実際のところ、どうでしょうか?あってみたらそうでもなかったと思いになるときはないでしょうか?つまり期待値が高ければ高いほど落胆差が激しくなるものです。それには理由があって目に見えるものはどうしてもその視る感覚にとらわれてしまい、その映像で膨らます範囲から切り離して考えることが思った以上に難しいからかもしれません。では、目で測ることが出来ないものについて考えてみましょう。例えばどんなものがあるでしょうか?それは空気や水といった物は、そのものを味わうことが出来ても、絵で表すことが難しいものであり、それは固体であったり、液体であったり、湯気のようなものへと変化をすることが出来ます。更に、場所や環境によっても澄んだ綺麗ものとよどんで汚れているにもなってしまいます。
それと同じように感じることや思うことなども目に見えず自分と相手では違う感覚を持つことさえあります。そのように目に見えないものこそ私たちにとってとても大事なものであります。わたしたちは、どれだけ相手のことを考えて行動することが出来るでしょうか?自分が良かれと思っていても、受け取る相手が嫌がることかもしれませんし、嬉しいかもしれません。それは受け取る側の感覚でありますから、わたしたちが良かれと思ってする言葉がけや行動もその人に寄り添っていないのかもしれません。それは大人やこどもといった年齢的感覚だけではなく、性別や国によっても感じ方が違うでしょう。つまり千差万別多種多様といった感覚を身に着けていければ、うまく友好関係を築き上げることが出来ます。自分の気持ちではなく、相手の心に寄り添うことが大事です。しかしその理想は理解していても現実的には実行できないことも多いのではないでしょうか?時間的制限や生きる上でのルールといった制限に縛られているわたしたちには難しい課題かもしれません。特に親子関係では、親の思い子知らずという言葉があるように自分自身が成ってみなければどうしてそのようにするのかさえ理解できませんでした。本当に親は自分の時間を削り、子どもに仕える姿勢には頭が下がります。しかし人間には限度があり、その限度を超えると途端に大声を張り上げたり、感情的に働く弱さも持っています。その弱さはどうすればよいでしょうか?
その弱さを小さなものに吐き出すのではなく、自分よりももっと大きな力を持つものに吐き出し、委ねていくしか道はないかもしれません。わたしたちはそのような感情を抱いた時、委ねられるものがあります。それは目に見えない神様です。わたしたちは、その見えない神様を信じています。姿なき神様はどんな時にもどんな場所でもどんな人であってもそばにいてくださいます。なぜならば、父の思いよりも母の気持ちよりももっともっと大きなものであり、深く、広く、長いものだからです。つまり人間よりも多くの愛を持っています。ではその愛を求めれば、答えて下さるのでしょうか?答えは、イエスです。しかしそれは神様の御心によってのみ与えられます。先ほどは相手の心に寄り添う働きが必要と申しましたが、その愛の業は神様の主たる思いによってのみ成立します。またその愛は、なくなるようなものではありません。神様は頼られれば頼れられるだけ大きな愛を感じます。委ねれば委ねるだけ強くなります。そして信頼すればするだけその愛は深くなるのです。わたしたちはその大きな愛で包まれることを感じる事ができれば、わたしたちは、この世で生きていく自信になっていくのではないでしょうか?
お祈りします。ご在天の主なる神様感謝いたします。あなたはわたしたちに大きな愛を示してくださいました。その愛は大きく、深く、広く、長いものであると教えられ感謝します。どうぞこれからの歩みもあなたが共にいてお守りください。そして遠慮することなく、あなたに委ねていくことが出来ますように導いてください。このお祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
2023年5月7日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 ルカによる福音書 6:35~36
メッセージ「憐れみ深い者になりなさい」
神様は今もなおわたしたちを憐れんでくださっております。その心を受け、わたしたちも憐れむ心を持っております。しかし実際にはどうでしょうか?自分に対して大声で怒鳴りつける人や暴力を振るう人を愛することが出来るでしょうか?わたしたちは、なるべく関わりたくないという気持ちにならないでしょうか?なかなかその感情を乗り越えて愛の言葉や行動に移すことが難しいのではないでしょうか?それは誰もが抱える心の悩みかもしれません。しかし、神様はわたしたちに憐れみ深い者になりなさいと語られるのです。
ではどんな方法でわたしたちは憐れみ深い者へと変わることが出来るのでしょうか?それはまず自分自身が神様に愛されているのだと自覚することが必要ではないでしょうか?わたしたちは神様に命を与えられながらも、歴史的にも神様に背いてきた歴史があります。しかしそれは現代を生きるわたしたちにも同じような事が言えると思うのです。自分の都合で神様を信じるような思いを持ってはいないでしょうか?状況の良い時には、神様は素晴らしいとほめたたえますが、あまり良くない時にはなぜですか?と疑問を投げかけ、悪い時には、恨みを抱くかもしれません。そのような思いは誰しもが持っています。つまり人間でいる限り、その思いを断ち切ることはできないかもしれません。しかし神様はそのようなわたしたちにもかかわらず愛してくださるのです。その憐みは、わたしたちが考える以上に大きく深く広いものであります。その憐みの心はわたしたちを愛している確証なのです。
わたしたちには限界があります。わたしたちにはできないことも沢山あります。むしろできることの方が圧倒的少ないのではないでしょうか?神様はわたしたちができないことを補ってくださる方であります。そんな時、わたしたちは神様を知っていれば、あることを思いだすことが出来るのではないでしょうか?それは祈りです。祈りは神様との対話です。自ら祈り求めていくことによって関係を構築し、お祈りの回数を増すごとに信頼関係が深まっていくのではないでしょうか?わたしたちの歩みは不確かなものなのかもしれません。どんなに気を付けていても、自分たちの力を超えるものが起きた時、わたしたちはなす術なく、茫然と過ごしてしまうかもしれません。地震などの災害の場合、時が過ぎ去ることしかできません。しかし、その後のことを考える時、経済的にも人道的にも自分一人の力ではなにもできないのです。そのような時にも私たちは祈ります。神様に向かって祈りますが、最後にイエス・キリストの御名によって祈りますと必ず言いますが、これはイエス様が神様に執り成してくださいと願う心なのです。イエス様だからこそ、その願いは神様に届くのです。あとはわたしたちがすべきことは、その祈りが聞かれ神様の業が行われるのを信じて待つのみです。それがどんなことになるかは分かりませんが、神様が一番良い方法を与えて下さるという事を信じ切ることが大切なのではないでしょうか?わたしたちは無力ですが神様の業はいつの時代も有効で最善の力を注いでくださるのです。わたしたちの思いではなく、神様が介入して下さることが重要なのではないでしょうか?
わたしたちが憐み深い者になるために、神様は困っている方、苦しんでおられる方をわたしたちに示してくださっております。わたしたちがその方たちを見た時、どのように感じるでしょうか?どのように接したらよいでしょうか?それはすべて神様が示してくださるでしょう?その与えられたことを行う術も神様は、準備して下さっているのです。神様に従っていけば、おのずと私たちが取るべき言葉や行動に結びつくのです。それがわたしたちに憐み深い者となりなさいと示された神様の意図ではないでしょうか?
お祈りします。
ご在天の主なる神様、今日わたしたちにあなたから命題を受けました。憐み深い者になりなさいという非常に大きな課題でありますが、わたしたちが憐み深い者となれるように道を示してください。わたしたちは弱く、乏しいものですが、あなたはわたしたちを信頼して下さっております。その信頼に応えていくことが出来ますように導いてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
2023年4月30日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 創世記 28:15
メッセージ「決して見捨てない」
本日は、創世記から共に学んでまいりたいと思います。本日登場するヤコブは、後にイスラエルと呼ばれるようになります。ヤコブはなぜこのような場所にいるかと申しますと、父と兄をだまし、長子の権利と父からの祝福を奪い取ってしまったのです。父は兄のエサウを愛し、母は、弟ヤコブを愛しておりました。そして母は、ヤコブをそそのかし、兄が受けるはずの権利を弟がすべて手中に納めさせたのです。エサウは、今一度父に祝福を願いますが、二度は授けられないことを宣告され、ひどく弟ヤコブを恨み、父の喪が過ぎた時、ヤコブを殺そうと計画するのでした。その事を知った母は、ヤコブをここから逃げるように告げ、ヤコブは逃亡したのでした。ヤコブは逃走中どのような事を考えたのでしょうか?初めは殺されると思い必死に逃げたと思います。しかしある程度家から離れた時、どのような思いになったでしょうか?そのヤコブの気持ちは書いてないので、あくまでも想像にすぎませんが、時がたつにつれ、様々な事を考えたかもしれません。「兄に悪い事をしたな」と反省したかもしれませんし、これからどうするかなど考えていたのかもしれません。どのような状況下であっても人は眠たくなります。ヤコブも同様にそこにある石を枕に眠りにつきました。そこで神様はヤコブに夢を見させました。それはどんな夢であったかと申しますと天と地をつなぐ階段を天使が上り下りする様を見させ、神様は語られるのです。「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。あなたは大地の砂粒の様に多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族すべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこに行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」この言葉を伝えました。眠りから覚めたヤコブは「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった」そしてそこに記念碑を打ち立てたのです。そしてさらにヤコブはこう請願を立てました。その請願とは「神がわたし共におられ、わたしが歩むこの旅路を守り、食べ物、着る物を与え、無事に父の家に帰らせてくださり、主がわたしの神となられるなら、わたしが記念碑として立てたこの石を神の家とし、すべて、あなたがわたしに与えられるものの十分の一をささげます。」こう約束するのです。ヤコブは神様が見せた夢を理解するのです。父と兄をだましたにもかかわらず、神様は自分を見捨てないと約束して下さったこと、そしてアブラハムに約束された嗣業の地を与えるという約束を果たすまで、どこに行こうが守り、必ず神様の与える土地に連れ帰る。と宣言し、あなたと共にいることを約束して下さったのです。知らない土地に身を置くとき、どれほど不安を覚えるでしょうか?そのことを考えた時、神様が共にいて下さることがどれだけ勇気づけられたでしょうか?そのこと、つまり神様がいることを忘れないために記念碑を立てました。そこに来れば、神様はわたしたちと共にいて下さることを思い出すことが出来るのではないのでしょうか?
わたしたちの人生は良いことばかりでなく、悪いことも起こりえます。また自分たちが自分たちのことを考えてしまう時、神様から離れてしまう時もあります。しかし、神様は今もなおわたしたちと共におられるのです。どんな状況下であってもわたしたちと共にいてくださるのです。わたしたちはその神様の恵みの座にいます。それがどれだけ恵まれているでしょうか?わたしたちはそのことを感謝していきましょう。ヤコブは請願して神様が与えられるものの十分の一をささげることにしたのです。わたしたちも今と同じ状況が続くかどうかわかりません。極端に言えば0になってしまう可能性だってないとも言えません。ですけども私たちは悲観する必要はありません。負い目を負う必要は全くないのです。むしろ神様は、そのすべてをご存じであられます。どんな状況であるかもご存知です。ですから私たち自身がその状況を受け入れ、神様にもっと信頼を置くこと、神様を忘れないという事、そして神様をただ信じる事を心がけて歩んでいきましょう。
お祈りいたします。ご在天の主なる神様、今日ここにあなたのことを学ぶことが出来、感謝いたします。わたしたちは、どこかでヤコブの様に悪巧みをし、人を騙そうとしているのかもしれません。懺悔いたします。しかしそのような状況にあってもあなたは見捨てず、あなたと共にいると約束して下さいました。その思いを感謝いたします。わたしたちもあなたに献げる気持ちをもって日々過ごしたいと考えます。けれど、状況によってできない場合もあります。そのことを理解くださっていることを感謝いたします。どうぞあなたの僕として歩ませてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
2023年4月23日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 ヘブライ人への手紙 4:12~13
メッセージ「神の言葉は生きている」
御言葉はわたしたちにとって、欠かせないものです。先週教会総会で承認いただき、今年の益子教会の主題と聖句が決まりました。もう一度確認していきたいと思います。主題は、「御言葉によってわたしたちを養う主」であります。そして聖句はローマの信徒への手紙10章8節「御言葉はわたしたちの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある」これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。自分の思いを相手に伝える意味合いでも言葉はわたしたちにとってなくてはならないものであります。言葉を聞いてわたしたちは育ちました。また、わたしたちも幼子に対して言葉で育ててきたといっても過言ではないかもしれません。声で表現できなくとも音で表現することもありますし、手で表現することもあります。また目で訴えることも出来ます。わたしたちだけではなく、動物も鳴き声で感情を表し、表情でも言葉を伝えています。植物も声や音楽を書ければ、成長も変化するかもしれません。そのようにすべてのものが言葉や音で姿形は現わせませんが、しっかりと相手に伝わっています。それが言葉の力なのです。聖書も同じように神様がわたしたちに何かを伝えようとしたからこそ2000年以上前に語られ書き残された御言葉が今もイキイキとわたしたちに力を与えてくださるのです。聖書は時に厳しい言葉をわたしたちに投げかけてきます。わたしたちがその一部分だけを切り取り、読み取ろうとするならば、神様が言わんとすることを誤った答えに導いてしまうかもしれません。しかし謝った答えになったとしても神様は決して見捨てはしないのです。創世記物語で神様は最初の人間アダムとエバにたった一つの約束をしました。それは、「園のすべての木から取って食べなさい。ただし善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」という約束でした。アダムとエバはその事を守っておりました。しかし神様が地上で創られた最も賢い蛇に「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神は御存じなのだ」とそそのかされてしまいます。そしてその木を見ると、いかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるようにそそのかしていた。女は身を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はイチジクの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。と書いています。
このように間違った解釈をして、蛇は、あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で呪われるものとなり、エバには、お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は苦しんで子を産むと言われ、そしてアダムに対しては、「お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して土地は茨とあざみを生えいでさせる。野の草を食べようとするお前に。お前は顔に汗をながしてパンを得る土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。このように厳しくアダムとエバ、そして蛇をエデンの園から追放します。しかし神様はアダムとエバをそのままにしては置かないのです。主の祝福を与え、子どもを与えます。つまり、わたしたちを愛しているからこそ、厳しい罰を与え、決して見捨てたりはしないのです。
御言葉も同じように両刃の剣のようにわたしたちを貫きます。それはわたしたちの肉の思いと霊を分ける力を持っています。わたしたちは自分たちが見てきたことや聞いたことにばかり目を向けてしまいます。またそのことばかりを求めてしまい、本当のことを見いだせなくなってしまうのです。御言葉も自分の都合の良いように切り取ってしまえば、心地よいものしか受け付けなくなってしまうのです。そのように私たちも都合よく神様の御言葉を軽んじてしまうかもしれません。神様が私たちに与えられたのは喜びの言葉ばかりでなく、困難なことも宣べ伝えようとしています。それは最終的に私たちを成長させるとともに、救いの業を信じるようになるためです。主の御前では私たちは隠し通すことは出来ないのです。先ほどお話ししたアダムとエバの話も善悪の木を知る実を食べて、自分が裸であることを恥ずかしがり、怒られると思い、隠れました。しかし神様はご存じなのです。わたしたちがどんなに頑張って隠そうとしていることも全て知っておられるのです。わたしたちがその罪を顧みて主に立ち帰ることを望んでおられるのです。わたしたちが神様の存在を知れば知るほど、神様に戻ることがどれほど有意義な事であるか理解できるのです。だからこそ私たちは御言葉をいつも携えておくべきなのです。しかしわたしたちには時間が限られています。聖書を毎日全部読むのは大変です。全部暗記することも出来ません。しかし少しでも触れて、心の渇きを潤してください。少しずつでも体に流し込んでください。益子教会では御言葉カレンダーを発行しています。旧約聖書、新約聖書2か所示していますから、その二つを読むだけでも随分違うと思います。聖書を通読することはなかなか難しいことであります。しかし御言葉カレンダーを用いれば、どこを読むか記されておりますので、365日×2倍ですから、1年で最低でも730箇所は開くことが出来ます。それを10年続ければ7300箇所です。決して簡単な道のりではありませんが、きっと人生を豊かにしてくれるのではないでしょうか?
お祈りします。
ご在天の主なる神様、今日こうしてヘブライ人への手紙から御言葉の大切さを学ぶことが出来ました。ありがとうございます。わたしたちはこの世の働きが忙しく、あなたの御言葉を読まずに1週間過ごすこともあります。いそがしくて教会に行けない時にこそ、聖書を開く時間が与えられますように導いてください。また、わたしたちは自分に都合の良い言葉だけを選んでしまいます。しかしその与えてくださる御言葉にはあなたの愛が隠されております。その愛を受け取れるようにわたしたちの心を強くしてください。そしてあなたが与えて下さる御言葉から恐れず逃げず、受け止めていくことが出来ますように導いてください。日々の歩みをお守りください。このお祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
2023年4月16日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 ヨハネによる福音書 20:24~29
メッセージ「見ないのに信じる人は幸いである」
わたしたちは、時に疑り深い半面、信じ抜く強さを兼ね備えております。つまりどんなに強い意志を持った人であってももろく崩れやすい時もあるのです。本日出てくるトマスはディディモと呼ばれています。この言葉は双子と言う意味でありますが、トマスが双子だったわけではなく二面性を持つという意味で書かれてあったのではないかと思います。先週はイースター礼拝でありました。イエス様が十字架につけられ、復活し、弟子たちのもとに現れました。その時にトマスはそこにいなかったのです。ちょうど留守の時だったので、会うことが出来ずにおりました。ほかの弟子が「わたしは主に出会った」と言っても信じることが出来ませんでした。そしてこのように言うのです。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れて見なければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」この言葉を聞いて皆さんはどう感じたでしょうか?一緒に活動している人たちのことを信じることが出来ないということは悲しいことです。しかしそのような現実主義者であっても神様は救い出そうとしておられることを改めて感じることが出来るのです。
復活して八日の後、弟子たちは群衆を恐れて鍵を閉めて中にこもっておりました。そこにはイエス様の復活を疑うトマスも一緒に居りました。その弟子たちの真ん中に急にイエス様が現れ、こう言われました。「あなたがたに平和があるように」その言葉に驚きを隠しきれなかったのかもしれません。もちろんトマスも驚いたと思います。そしてトマスにこう語り始めました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。またあなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」トマスは触ったでしょうか?触らなかったでしょうか?その事は問題ではないのです。トマスはすぐに「わたしの主、わたしの神よ」と心改めました。たぶんトマスは、この経験を経て、どんな状況であろうとも「決して信じない」とは言わず、どんなことがあろうとも「絶対信じます」という新たな心を手に入れたのではないでしょうか?
皆さんとってイエス様は、どんな方でありましょうか?優しく、わたしたちを招き入れて下さるイメージが強いと思いますが、そうではない一面も聖書に載っております。例えば神殿の場面ではその場所で商売している者に対して憤りを覚え、机や神様に捧げるものひっくり返すなど、荒々しい姿も書かれております。一方で女性を連れてきて訴えかけてきた人たちに対しては、一言だけ述べて、叱りもせず、地面に何かを書く場面もあります。そのように聖書でも様々なイエス様の姿が書かれております。それは何を意味するか、どれもイエス様だという事です。わたしたちも良い部分と悪い部分を持ち合わせております。どれもが自分であります。しかし自身の悪さはなかなか受け入れられないものです。しかし神様はわたしたちの善い部分も悪い部分もすべて理解し受け入れて下さるのです。わたしたちが疑いの心を持っていれば、その傷を見せ、その指をあてるように促し、わき腹に手を入れてみなさいと疑う心を消し去ってくださるのです。わたしたちがその見えるものだけでなく、見えないものを信じようとする時、わたしたちは新たな歩みをすることが出来るのです。
お祈りいたします。ご在天の主なる神様、わたしたちはトマスの様に疑り深い心を持っていますことを懺悔いたします。しかし神様はわたしたちの悪い部分もご理解くださっていることを感謝いたします。どうぞ見たから信じるのではなく、見ないで信じることの信仰を与えて下さい。わたしたちはこれからもあなたを信じて歩んでいきたいと思います。主の救いに与ることが出来ますようにあなたが導いてください。このお祈りを主イエスキリストの御名によって祈ります。アーメン
2023年4月9日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 ルカによる福音書 24:1~12
メッセージ「復活なさったのだ」
イースターおめでとうございます。イースターの象徴としてたまごを用います。その意味は命をあらわしています。わたしたちに新たな命を与えて下さると同時に人知を超えた神様の計画がイエス様の復活によって救いがもたされる時、わたしたちの心は喜びで満たされるのです。しかし、その本当の意味を知らなければどうでしょうか?なぜ喜ぶのかがわからなければ、その時が過ぎれば忘れてしまうかもしれません。しかしその意味を知っていれば、毎年イースターをお祝いする意味が深まるのではないでしょうか?
わたしたちは、日常何気なく過ごしているのかもしれません。朝5時に起きて朝ご飯を作り、掃除洗濯をする毎日、お昼ご飯を何にしようかなど考えながら、ぼんやりテレビを見る日々、時間になったら夕食、お風呂の準備、やることの多さにしんどさを覚えることがあっても印象に残ることがあまり感じられないかもしれません。また、会社なり外で働く人もあれば、沢山のやらなければならない課題に追われている人、様々な人が時間に縛られながら歩んでいます。しかしどうでしょうか?もしも私たちがそのような実情の中で御言葉に触れていたらどうでしょうか?あまり覚えていないかもしれません。また印象あることを言われたとしても、その言葉自信を受け止めていなければ、何度も話をしようとも、身に付きません。しかしその語る言葉が大事に思えた時、人は手を休め、その言葉に真剣に耳を傾けようとするのではないでしょうか?イースターはもう一度私たちに御言葉を与え、思い出させようとしてくださっているのかもしれません。
イエス様が十字架につけられた次の日は安息日だったので弟子たち、イエス様に従った女性たちは安息の規定に従って過ごしました。その翌日週の始めにイエス様の体が腐らないようににおいがしないように、油と乳香を塗ろうとイエス様の体がある墓に向かいました。しかしその墓に着いた途端、女性たちは唖然としたかもしれません。墓をふさぐ大きな墓石がわきに転がっていたのです。急いで中をのぞいていますと、イエス様の体がなかったのです。多分女性たちは様々な憶測が一瞬で頭をよぎったのかもしれません。しかしどれも想像していたものとは違う形でその女性たちに語り始めます。途方に暮れていた女性たちの前に現れたのは2人の輝く衣を着たものでありました。女性たちは、おそれのあまり、地に顔を伏せました。2人はこう語るのです。「なぜ、生きておられる方を支社の中に探すのか。あの方はここにおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話になったことを思い出しなさい人の子は必ず罪びとの手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっているではないか」その言葉を聞き、女性たちはイエス様の言葉を思い出すのです。イエス様が十字架につけられた時、近くで見ていたのも女性たちでありました。その十字架上のイエス様を見て、悲しみと喪失感の中、過ごしていたのかもしれません。心にぽっかりと穴が出来てしまったかもしれないのです。そのような者たちに神様が与えたのは驚きです。この復活の出来事は悲しみの思いから人々を立ち上がらせようとした神様のサプライズかもしれません。そのことを聞いた女性たちは弟子たちと従ってきた女性たちに一部始終を話しましたがユダを除く11人がたわ言のように思われて、信じることが出来ませんでした。しかし弟子の一人ペトロは走って墓まで言って身を屈めたところ、イエス様の体をまとっていた亜麻布しかなかったので驚きながら帰っていきました。この一連の動きは、人は悲しみの中で気持ちも沈んでしまいます。気持ちがふさぎ込み、神様の言葉を聞くことも話すことも出来ない状態かもしれません。その状況を脱却するためには驚きを与えたのです。気持ちを新たにさせるのです。わたしたちは、このイースターによって生きる力を驚きによって私たちに新たな命を与えることをイエス様の復活を通して学ぶのです。その神様の業は悲しみの状況から驚きの状況を与え、イエス様の復活の御言葉を思い出させ、わたしたちを救われる喜びへと向かわせるのです。
お祈りいたします。
ご在天の主なる神様、このイースターをわたしたちに与えて下さり感謝いたします。悲しみの淵にいたわたしたちを驚かせ、立ち上がらせ、御言葉を思い出せてくださったのです。その大いなる救いはわたしたちに希望を与え、新しい歩みを与えて下さるのです。これからもあなたの歩みの中でわたしたちは喜び感じたいと思います。新しい歩みをお守りください。このお祈りを主イエスキリストの御名によって祈ります。アーメン
2023年4月2日 益子教会 主日礼拝説教要旨
聖書 ルカによる福音書 23:39~43
メッセージ「わたしと楽園にいる」
いよいよ次週イースターを迎えます。イースターは主の復活を祝う日であります。その喜びの日の前にイエス様は苦しみをお受けになりました。鞭打たれ、頭にいばらの冠を載せられ、イエス様ご自身がはりつけられる十字架を背負わされるのです。そのような状況にあってその場に居合わせたキレネ人シモンをローマの兵隊は十字架を担ぐように言われ、否応なしに命令され担ぐのです。この時、シモンはどう感じたでしょうか?もちろんイエス様を見たのも初めてだったでしょう。強制的だったのかもしれません。しかしイエス様に出会って、人生を変えられた一人ではないでしょうか?まさしく、神様の計画によって十字架を担う一人となったのです。
一方で、嘆く女性たちの姿を見て、イエス様はわたしのために嘆くなと言われ、のちに起こりうることを予言しております。その預言とは、喜びであるはずの子どもたちによって、自分たちが苦しむことを表現されており、もちろん育児で自分の時間が持てなくなることもあるかもしれません。しかしそれだけではなく、大事な子どもが戦争や予期せぬ出来事から命を奪われたり、略奪されてしまうような暗黒の時代が訪れることを示唆しています。しかも生の木とかれた木と表現されておりますので、生きている人でさえこんなにもひどい扱いを受けるので、その枯れた木はもっとひどいことになるかもしれないのです。それは人間の歴史から消え去るようなものを迎えることになるのかもしれないのです。
そしていよいよ十字架につけられるとき、イエス様は神様に祈られます。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているか知らないのです。」その祈りの傍らでローマの兵隊は、くじを引いてそのイエス様が着ていた服を分け合っていたのです。
そしてその場にいた人は立ち尽くすものもいれば、イエス様の様子を見てあざ笑い、「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで選ばれた者なら、自分を救うがよい」と述べました。また兵士から酔ぶどう酒を突き付けられ「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と侮辱を受けます。更に同じ十字架につけられる者からもののしられ、「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」そのように批判を浴びます。しかし、もう一人の人がこのような誹謗中傷を否定したうえで、こう願うのです。「イエスよ、あなたが三国においでになる時には、わたしを思い出してください」と願うのです。
その答えをわたしたちにくださいました。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言ってくださったのです。皆さんはどうでしょうか?楽園という言葉のイメージはどうでしょうか?どこか南国でリゾート気分を味わっているそんな景色を思い描く方もいらっしゃるかもしれません。しかし私たちの楽園とは神様がともにいて下さる世界こそ楽園なのです。苦楽を共にし喜びも悲しみも苦しみもすべて一緒にいて下さる事こそ楽園と呼べるのです。わたしたちは、イエス・キリストを知れば知るほど、わたしたちを守り、わたしたちと共にいて下さるのです。わたしたちは一度楽園を失いました。それは旧約聖書のアダムとエバは神様が食べてはいけないとされていた善と悪を知る木から実を食べてしまい、神様の保護から追い出されてしまったのです。しかし神様は、人間を見放さず、イエス様を与え、再び楽園を手に入れることが出来たのです。わたしたちは改めて、神様の大きな愛の中で生かされることを喜びとすることが出来たのです。
お祈りいたします。ご在天の主なる神様感謝いたします。本日はルカによる福音書からあなたが十字架によって私たちを贖ってくださったことを感謝いたします。わたしたちを思い出してくださいといった思いを受け取ってくださり、答えて下さいました。「はっきり言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」この言葉に私たちは励まされます。どうぞあなたと進む道には様々な事が押し寄せますが、あなたが一緒にいて下さる約束をわたしたちは忘れず歩むことが出来ますように導いてください。このお祈りを主イエスキリストの御名によって祈ります。アーメン
2023年3月26日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 ヨハネによる福音書 17:21~23
メッセージ「一つにしてください」
ゲッセマネで祈られた言葉として、3回に分けてメッセージをさせて頂きました。その最後が本日与えられたヨハネによる福音書17章21~23節です。イエス様が祈られた願いは、一つ目は栄光を示してください。二つ目は、悪いものからお守りください。最後に一つにしてくださいというお祈りでした。この最後の祈りである一つにしてくださいとはどのような意味があるでしょうか?一緒に考えてみたいと思います。神様はわたしたちを創られた時、どのような思いで私たちを創造されたでしょうか?旧約聖書においては、「我々に似せて」と書かれてありますように神様の似姿で形作ったようです。創られた後に「極めて良かった」と究極の喜びとして被造物を祝されました。しかし実際にはどうでしょうか?わたしたちは極めて良い存在になっているでしょうか?人間の歴史を振り返ってみますと必ずそう言い切れない現実も隠すことは出来ません。隣の芝がよく見えることは多々あります。もっともっとと要求することもあります。その心は様々な感情を抱き、愛から離れた悪い感情を引き起こしかねません。その誘惑によって神様から離れてしまう愚かな存在なのです。その危機感さえも、神様はわかっておられて、わたしたちに神様はイエス様を与えて下さったのです。その計画によって、本当の神様に出逢う人が増えてきました。しかしそのことを良く思わない人が出てくることも、神様は人間を理解しておられました。しかし神様は全ての人間を救う計画を持っておられ、どんな人間であろうとも、決して諦めはしないのです。
みなさんはルカによる福音書に出てくる放蕩息子の譬えをご存知でしょうか?ある男に二人の子どもがいて、弟の方が財産分与を願い、数日後全てお金に変えて旅に出ます。その弟は放蕩の限りを尽くします。しかしその財産も底をつきその土地に飢饉が迫り、豚の世話をしておりましたが、我に帰り、父のもとで僕として働こうと決意を抱くのです。その思いと裏腹にその父は、いつも弟の帰りを今か今かと待ち望んでおりました。毎日祈り続けたことでしょう?毎日気が気でなかったと思います。その弟の姿が遠くから見えた時、余程嬉しかったのでしょう。抱きしめ、キスをし、良い服を着させ、ご馳走まで用意したのです。熱烈に歓迎したのです。しかし一方の兄の方は一生懸命父の下ではたらいておりました。友人が来ても肉の一つもくれないとひがみ、弟が生きていてくれて良かったと歓迎することが出来たでしょうか?当然すぐには出来ずにおりましたが、そのことに気づき父が慰めるのです。その慰めもどれだけ父のもとにいることが幸せな事かと言われても兄の心情が描かれておりませんので、わかりませんが、すぐには理解できないかもしれないのです。もしかしたら父が亡くなった時、初めて気が付くかもしれませんし、数日後その幸せをかみしめることが出来るかもしれません。このように人間には2種類存在するのです。愛され赦された者と、神様の愛と恵の中で生きている人が存在します。そのどちらも神様の愛を受けているにもかかわらず一致することの難しさを感じるのです。それが人間の弱さなのかもしれません。わたしたちのためにイエス様は祈ってくださるのです。一つにしてください。それは人間による一致ではなく、神様の愛による一致です。しかも完全な一致です。もしそのことが実現し、相手を受け入れ、互いの違いも認め合うようになれば神様の愛が、世界に広がっていくのです。人間が自分の弱さを認め、神様のもとに帰る時、祝福されるのです。人間が妬みや恨みを棄てた時、神様の恵みを感じることが出来るのです。人は誰でも生まれ変わる必要があるのです。わたしたちが新たな思いになった時、神様はわたしたちを迎えて下さるのです。そのことを体験した時、喜びの涙があふれ出てくるのではないでしょうか?
お祈りいたします。ご在天の主なる神様感謝いたします。わたしたちはあなたが造ってくださったのに、相手のことをうらやましがり、ねたむ心を持っております。また、自分たちが神様の恵みの中にいるにもかかわらず、もっと愛してほしいと思ってしまう私たちを許してください。イエス様が祈ってくださったようにわたしたちを完全な一つにしてください。完全な愛をもって私たちを一つにしてください。わたしたちが一つになるためにはあなたの愛が必要です。どうぞその愛で世界を一つにしてください。このお祈りを主イエスキリストの御名によって祈ります。アーメン
2023年3月19日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 ヨハネによる福音書 17:15~19
メッセージ「主の願い」
イエス様は裏切られる直前にゲッセマネでお祈りをしていました。3週間前に同じ聖書箇所であるヨハネによる福音書17章の1節~5節「時が来ました」という説教題で、いよいよ十字架につけられる時が近づき、イエス様の願いの一つ目として、永遠の命につながる神様の栄光を与えてくださいと願うのです。神様の栄光とは何でしょうか?この世の常識をくつがえす大きな力であり、それによってなされる業によって想像しえない新たなことが始まることであります。しかしその神の栄光は天地創造の前から、つまり何もない混沌の時からもともと持っておられる力であります。その力を再び必要であると願いました。
その続きでありますが、今回の願う対象は、この世に残される者たち、神様から与えられた弟子たち、神様を信じる者たちのために祈るのです。イエス様は、未来を見据えて祈られます。イエス様が天に昇られた後、弟子たちは、神様の福音を宣べ伝え、救いを知らせねばなりません。その時、この世で働くということは、必ずしも順風満帆にいかないこともあります。それは、その事によって自分の利益を損なわれるのでは、という不安に押し寄せられた時、人が思い立つ行動は、相手を憎み、妨害を企てるのではないでしょうか?実際にイエス様が現れてから律法学者や祭司、はたまた律法を重んじる者たちにとって、律法こそ人生の命題であり、人間が大切にして守っていかなければならないものであります。ですが、間違った解釈をすれば、どうでしょうか?正しく理解していないために間違ったことを押し付け、間違ったことを正しいと認識してしまうのです。そうしますと、自身が習ってきたことやその教えに則していない言葉や行動に嫌悪感を抱き、最終的には、神様を侮辱したと決めつけ、ルールにのっとって裁こうとするのです。しかし、イエス様は、自分が世に来られたのは、律法を完成させるために来たのであって、律法を破棄するためではないとはっきりとおっしゃっています。ですが、人間は神様がおつかわしになったイエス様をなかなか受け入れ、認めることが出来ないのです。つまり神様に属する人は、神様の言葉を受け入れ、神様に従うのです。しかし世に属する人は、神間の御言葉を受け入れず、自分に都合がいいように理解しています。時には雄弁者を用い、時には社会的地位を所有する者を用い、時には経済的な力によってその正しさを捻じ曲げようとする働きが生まれてくるのです。人間誰しも自分にとって快適な暮らしを求めてしまうのです。世が神様を受け入れないことの一番の根元にあるのはそういった人間の欲がうごめいているからではないでしょうか?
この世にうごめく欲の源は悪です。悪は、様々な形をもって私たちを神様から引き離そうとするのです。どんなに強い人であっても、どんなに正しい人であっても、どんなに神様を求める人であっても、悪の力は強力です。その悪に勝つことが出来るのはその悪の力よりも大きな力でなければ、勝つことは出来ません。その力は武力でしょうか?経済力でしょうか?はたまた様々な事を知りえる知力でしょうか?どれも違います。その悪に立ち向かい、その悪い心を良い心に変えられるのは神様の愛でしかできないのです。イエス様は、わたしたちのために自ら十字架の道を進まれるのです。その思いは、自分の思いよりも神様の計画に従っていかれたのです。神様の思いを受け、神様から与えられた御言葉すなわち、神様の福音を託された弟子たちを、信じる一人一人を、そしてまだ神様に出逢っていない人たちをも救おうとする神様の愛で悪い霊から守られるようにと祈ってくださったのです。だからこそいま私たちはこの世に生かされ、この世の働きをすることが出来るのです。イエス様が祈ってくださったことを神様がしっかり守ってくださっていることに感謝いたしましょう。
お祈りいたします。ご在天の主なる神様、本日はヨハネによる福音書から学ぶことが出来ました。イエス様が私たちを心配して祈ってくださったので、今私たちは生きています。しかし現在の状況は必ずしも平安というわけではありません。むしろ不安を煽る事ばかりを耳にします。その不安は、神様から話そうとする悪の働きです。どうぞ私たちをその悪から解放できるのは神様の愛だけであると確信を持つことが出来ますように導いてください。どうぞ今困難にある兄弟姉妹をあなたの愛で助けてあげて下さい。また間違ったことを推し進めようとしている者が悪の力から離れることが出来ますよう導いてください。このお祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
2023年3月11日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 ルカによる福音書 22:7~13
メッセージ「準備をしなさい」
本日は準備をしなさいとのメッセージをいただきました。わたしたちは、どんなことであってもある程度の計画を立てます。突然の出来事が起こらない限り、訪問する時間さえわかっていれば茶菓を準備し、訪問者を迎える準備をします。また、日常生活においても、洗濯物を干すとき、天気予報で事前の予報を確認してから干します。なぜならば、労苦や物が無駄にならないように合理的に考えて生きているからです。
神様の計画は前もって進められております。しかし人間は突然起こったかのような錯覚を起こします。もし事前に知らされていればアイディアが浮かび、未然に防ぐことができるかもしれません。しかし私たちは、物事を軽く考える傾向があります。そんなことが起こるはずがないと勝手に決めつけてしまうのです。そして、事が起こった時にうろたえてしまいます。神様は預言者を遣わし起こることを事前に伝えております。そのことを考えた時、いかに自分勝手な生き物であるかを痛感させられるのです。
本日の聖書を振り返ってみたいと思います。イエス様は過越の子羊を屠る除酵祭の日が来たので、弟子のペトロとヨハネを使いに出して、「行って過越の食事ができるように準備しなさい」と声をかけられました。その声掛けに二人は「どこに用意いたしましょうか」と聞き、イエス様は教えてくださったのです。「都に入ると、水かめを運んでいる男に出会う。その人が入る家までついて行き、家の主人にはこう言いなさい。『先生が「弟子たちと一緒に過越しの食事をする部屋はどこか」とあなたに言っています』すると、席の整った2階の広間を見せてくれるから、そこに準備しておきなさい。」そのとおりであったので、過越の準備をした。と記されています。わたしたちは、この記事を読むとあまり実感がわきません。本当に見ず知らずの人に部屋を貸すでしょうか?わたしはあまり貸したくありませんし、貸してくれないだろうと常識的に考えてしまいます。しかしイエス様の言葉は、弟子たちに具体的どのような人に出会い、その過越の食事をする場所を提供できる物件を示されました。後は弟子たちがイエス様の言葉どおり人に出会い、場所を確保することができました。ここに人間の常識を破る神様の業が行われたのです。イエス様は、3度十字架の預言をしているにもかかわらず、弟子たちはその言葉の意味を理解いたしませんでした。そしてその言葉を信じたくなかったのです。神様の計画とイエス様が発した言葉を遮ろうとする弟子は神様の計画を邪魔するサタンです。わたしたちは神様がされようとする計画を理解できないために自分の都合のように解釈してしまうのです。
わたしたちが今準備すべきことは何でしょうか?神様がわたしたちに計画をしていることに従う従順さを身につける事ではないでしょうか?神様がイエス様に与えた十字架の意味を理解することではないでしょうか?このレントの時、自分自身をイースターに向けて準備を整えていくべきではないでしょうか?神様はわたしたちに準備を勧めています。わたしたちが今一度自身を悔改め神様を求めていく姿勢を思い出し、素晴らしいイースターの出来事を改めて感謝していきたいものです。
お祈りいたします。御在天の主なる神様。わたしたちを守り導いてくださり、感謝いたします。わたしたちはあなたが準備をしなさいと声をかけて下さいました。神様の計画は、あまりに常識を超えているので疑いの心をもってしまうことを懺悔いたします。わたしたちは改めてあなたを信じます。あなたがなぜ十字架をイエス様に与えてのか、その意味を深く考え、イースター向けて心と体を整え、あなたのなす業を受け入れることの準備をさせてください。わたしたちだけでなく、あなたのことを信じない人にも知らない人にも同じように準備させてください。その良き準備期間となるように導いてください。このお祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
2023年3月5日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 エフェソの信徒への手紙 1:15~19
メッセージ「心の目を開いて」
本日は、世界祈祷日に沿ってメッセージをさせていただきたいと思います。毎年行われております世界祈祷日は、女性の声から始めた祈りの運動です。クリスチャンにとって祈りはとても大事な業の一つです。イエス様もことを始める前に祈り、一日の終わりの時にも祈りを大切にしておられたのです。それはわたしたちも同じように、神様に祈っていますが、どうでしょうか?自分や周りの人を覚えて祈ることはあっても、ほかの国のことを覚えて祈ることがあるでしょうか?ニュースで見た国であれば、状況を知り、祈ることができます。しかし何も情報がなければ祈ることも、ましてや考えも浮かばないのかもしれません。しかし神様はそのようなわたしたちのためにあらゆる世界のことを覚えて祈る機会を与えてくださるのです。今年のテーマは台湾について学び、祈りに加えていただけたらと思っています。
今年の世界祈祷日のプログラムの表紙は、上記の絵です。解説もぜひご覧ください。
さて、本日のメッセージですが、これも世界祈祷日で示されたエフェソの信徒への手紙からわたしたちは学んでまいりたいと思います。先程イエス様の祈りの姿勢を分かち合いました。同じくパウロも手紙の冒頭と最後に祈りで締めております。このことから分かるように祈る行為は、相手のことを覚えるという意味と神様に委ねる二つの大きな意味合いを持っていることが言えると思うのです。わたしたちもどれだけ祈りによって助けられているでしょうか?またどれだけ祈ってきたでしょうか?まだ祈りが足りないと嘆く方もいらっしゃるかもしれません。しかし神様はその祈りを一つずつ聞いてくださるのです。その思いは確かに届いているのですが、神様と人間の祈りのタイムラグがあるためにいら立ちを覚えてしまうのなのかもしれません。まずわたしたちが意識改革をしなければならないのではないでしょうか?それは必ず聞かれるという思いを持つことです。自分が望まないことや予想しえないことも含めて神様は、聞き入れてくださるのです。
その神様にパウロはこう祈ります。知恵と啓示の霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。この一つ目の祈りは現在のわたしたちにも大きくかかわっています。なぜならば、わたしたちは自分の考えのほかに様々な情報によって正しい考え方に到達することは、パウロが活躍した時代よりも難しくさせております。そのため間違った情報によって相手を裁き、本当に大切な事を覆い隠してしまうのです。そのために神様に祈り、心の目を開いて正しく判断できる霊に導かれなければならないのです。
2番目の祈りは神の招きによって、どのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど大きなものであるか悟らせてくださるように。このように願います。つまり神様を信じた心は、絶望の中に希望を見いだすことができるのです。それはどんな状況下であっても、神様は良い道を与えてくださると信じれば、希望を生み出すことがお出来になるのです。それはわたしたちもそうですが、先人たちも神様によってどれだけ助けられたことでしょう。その歴史があるからこそ人間は今存在しているのではないでしょうか?聖書ほど人間の善悪を的確に描写している書物はないのではないでしょうか?イスラエルの英雄ダビデにしてもソロモンにしても神様に背く行為をしてきました。しかし、神様に罪を告白し、悔改めの心をもった時、神様は喜び、受け入れてくださるのです。最後に、パウロは、信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか悟らせてくださるようにこう願います。悟りを開く。このことは、何かを理解すると捉えるのではなく、神様が示してくださるという大きな愛を感じることが大事なのではないでしょうか?人はしてもらうことが当たり前となった時に、相手がどのように考えているか等微塵も考えなくなってしまうのかもしれません。しかし、その思いはその人が快適に、その人が喜んでほしい、その人が満たされるようにと相手を思いやる気持ちを知ることなのです。つまり相手のことを考えることができるのも、他の国の人を覚えて祈ることも、神様がわたしたちにその機会を今、世界祈祷日を通して与えられていることに感謝しましょう。それが神様を悟る意味ではないでしょうか?神様が語られる御言葉に耳を傾けていきましょう。
お祈りいたします。御在天の主なる神様、感謝いたします。今日は台湾のことを通して、またエフェソの信徒への手紙を通して、神様は教えてくださいました。主の恵みに触れ、わたしたちの心の目が開かれますように、そしてあなたを信じる心が与えられますように、信じる者にあなたの大きな力が与えられることを確信することができるように導いてください。台湾の上にも神様の恵みが注がれますように、今苦しんでいる人、困っている人にも主の恵みが注がれます様に。このお祈りを主イエス・キリスト御名によってお祈りいたします。
アーメン
2023年2月26日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 ヨハネによる福音書 17:1~5
メッセージ「時が来ました」
先週の水曜日は、アッシュウェンズデーつまり灰の水曜日という日でした。カトリックでは有名ですがプロテスタントの教会ではあまり知られていないかもしれません。イエス様がエルサレムに入場する際、棕櫚の葉をもって仰ぎ「ホサナ、ホサナ」と声をあげたと聖書で記されています。その棕櫚の葉を毎年配られますが、昨年の葉を燃やし灰にしたものを額に十字架を塗り、「悔い改め、福音を信じなさい」というようなことをしています。灰は悔改めを現わします。つまりイエス様の復活を待つ期間、悔改めの気持ちを持って日々過ごしましょうというのが大筋の意味です。ですからシャツの色も悔改めを表す紫色を着ています。本日の与えれた聖書はヨハネによる福音書17章1~5節です。ここに書かれている記事は、イエス様が祈られた言葉でありますが、聖書に書かれておりませんから推測の域を脱しませんが、多分ゲッセマネで祈られたものではないかと推測いたします。他の福音書では、具体的にその内容が書かれておりませんが、ゲッセマネという場所で、血の汗がにじむほど、力を込めた祈りの内容がこの箇所に凝縮されているのではないでしょうか?
本日は、特に1節から5節を見てみたいと思います。1節には天を仰いで「父よ、時が来ました。」この時とは何か、それは神様が計画した時が来たのです。今までイエス様は神様のことを宣べ伝え、多くの人々を癒し、励ましてきました。しかしいよいよ十字架につけられる時が迫って来たのです。神様の計画通り、イエス様が十字架につけられ、殺される、そして復活すると語られたことが実現する時となったのです。この死に関して人間の終わりを現わしますが、世の生も凌駕する神様の力こそ、神様の栄光なのです。ですからその時が来ましたとの祈りは、神様がこれから与えようとする十字架という苦しみを乗り越える力が今まさに与えられたのです。もしもその栄光が与えられないのであれば、十字架という苦しみから逃げ出したいと思うかもしれません。しかし、神様がその栄光を現すときに、その事も乗り越える力が注がれるのです。そのように今までの思いを新たな決意へと導くときなのです。それがレントの期間であります。また、イエス様はさらにこのようなことを祈られるのです。すべての人を支配する権能によって永遠の命を与えることができます。つまり神様が与えて下さる栄光は世の命を永遠の命へと変えて下さる力を持っておられるのです。では永遠の命とは何でしょうか?永遠の命とは、唯一の神であられる神と、あなたのおつかわしになったイエス・キリストを知ることです。そう書いてあるのです。つまり神様を知り、イエス様を知ろうとするとき、必然的に永遠の命に触れることができるのです。わたしたちはどんなに長生きがしたいと思っていても、コントロールは出来ません。この世での体はこの世でしか使うことができないのです。では永遠の命はどうなのでしょうか?この世の体ではない新しい体を持つことです。聖書で具体的に書かれてあるのは神様と同じような体になるという事だけでしか書かれてありませんので、どのような体になるのかは私も体験しておりませんので、皆さんに正確にお伝え出来ないのが歯がゆい所ではありますが、それが永遠の命に繋がっていくのでしょう。つまりイエス様は常にこの世での生活は神様と共におられ神様の恵みによって、人々を愛し、傷を癒し、迫害されるものを助けて、寄り添ってくださいました。しかしすべての人を救うにはより多くの愛が必要なのです。そしてイエス様は願うのです。「父よ、今御前で私に栄光を与えて下さい。世界が造られる前に、わたしが持っていたあの栄光を」世界が造られる前の栄光とは全てを生み出す言葉によって、新しい神様と人間の関係を構築する働きをイエス様は求められているのです。イエス様の十字架こそ新しい命をつなぐ唯一のものだからです。
お祈りいたしましょう。
主なる神様感謝いたします。あなたは時が来ましたと宣言されたように今レントを迎えました。あなたに罪を告白するとともに、新しい命を与えて下さる準備を整えて下さいます。どうぞわたしたちがあなたの十字架を通して語られる永遠の命を理解することができますように導いてください。またどうぞこの世の人が神様の栄光について考えることができますように導いてください。すべての事を感謝し、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
2023年2月19日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 マタイによる福音書 14:22~33
メッセージ「安心しなさい」
皆さんにとって、大事な事は何ですか?大事な事をする時、どんな環境が必要でしょうか?もちろんその大事な事をするためには集中したいという気持ちにならないでしょうか?イエス様も祈りをささげる時には、一人になりたいと思うこともあったのかもしれません。本日の聖書は5000人の給食を終えた後の記事でありましたから、イエス様が弟子たちを強いて向こう岸に行くように命じました。また群衆も同じように解散させ、イエス様は一人山に登り祈ったのです。
5000人給食も夕方でありましたからそれからずうっと祈り続け明け方までその場所にいたのではないでしょうか?一方弟子たちは、舟でこぎ出したのは良いが、波に悩まされておりました。聖書で書かれてあります様に何スタディオンしか進んでいなかったのです。この距離がどのくらいかと申しますと、1ミリオンは1650mですから、その8分の1が1スタディオンですから1スタディオン大体206mぐらいですかね。夜通し漕いでいてもそうですから、もしかしたら1㎞も進んでいなかったのかもしれません。仮にも弟子たちの中には漁師がいたわけでありますから舟の運転はプロフェッショナルです。そのプロが悪戦苦闘するわけですから、相当の波だったと考えられるのです。このような状況下の中で、イエス様は湖畔を歩いてこられました。荒れ狂う波の湖畔状況下の中で、イエス様を見た弟子たちは、混乱し恐れて「幽霊だ」と騒ぎ出したのです。そしてすぐに弟子たちを落ち着かせるようにイエス様が「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われたときに、弟子の一人ペトロが「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」その言葉にイエス様は「来なさい」と命じます。するとペトロは湖の上を歩いてイエス様の所に歩み始めたのです。しかし風に気付いて我にかえり沈み始めたのです。そのことが起こって、すぐにイエス様は救いの手を差し伸べ、こう言われたのです。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」そして二人が舟に乗り込むと風は静まり、ほかの弟子たちが「本当にあなたは神の子です」と言ってイエス様を拝むのです。本日の聖書でわたしたちに何を訴えかけているのでしょうか?イエス様がしておられたように本当に大切なことは祈ることですが、わたしたちは集中して祈れているでしょうか?色んなことが次々と迫ってくる中で、ひとりになることの難しさもあります。しかしその時間は自身で作ることも必要なのです。イエス様の周りにはいつも人が集まってきます。神様との対話を大切にする姿勢を保つには、時には強いてでもその環境をつくることが必要であります。また、弟子たちもイエス様がいないということはその道のプロであっても困難さを抱くことがあるということ、それによって少しの道しか歩むことが出来ないのです。しかしイエス様がいてくださるとわたしたちは安心することが出来ます。それはなぜでしょうか?それは、どんなことであってもイエス様と乗り越えてきたからです。つまり信頼していたからこそ、その人が一緒にいてくれることが励みとなっていくのです。しかし非常事態には一変します。信じていたものさえはっきりと見えず、心に疑いを抱くのです。そして「あなたでしたら」とまだ信じる心が残っていたのです。そして一歩一歩近づいた時にふと風が吹いていることに気付いた時、しずみかけたのです。これはわたしたちも同じように信じ切れていない現実に気づかされ、自分の信仰の薄さを感じるのです。しかしそのような信仰の薄い者にすぐに手を差し伸べてくださるのです。皆様に是非心に留めて欲しいことがあります。それは、神様はわたしたちにすぐ手を差し伸べてくださるということです。どんなものでもすぐ救ってくださるのです。弟子たちもイエス様が一緒にいて下されば、風は静まります。わたしたちは不安な社会もイエス様が一緒に歩んで下さるのです。おびえたりせず、「安心しなさい。わたしだ。恐れてはならない。」その言葉を胸に秘めてこの世での歩みをいたしましょう。神様との対話も大切に日々過ごしてまいりたいと思います。
お祈りいたします。御在天の主なる神様、感謝いたします。わたしたちは日々の歩みの中、不安を覚える事ばかりです。しかしあなたは言われました。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」その言葉を聞いた時、わたしたちは安心することが出来ました。様々な事が起きますが、神様を知っていれば、不安な事も乗り越えられます。どうぞこれからも神様と信頼関係を築いていけるように祈っていきたいと思います。どうぞ祈る時間とあなたと向き合う心が与えられますように導いてください。このお祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
2023年2月5日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 マタイによる福音書 6:33~34
メッセージ「思い悩むな」
本日は「思い悩むな」と御言葉をいただきました。しかしどうでしょうか?この世にいる限り様々な問題が次々と押し寄せてきます。自分だけの事だけでなく、家族のこともあるでしょうし、将来のことも悩みの種であります。また、わたしたちは様々な所から不安感をあおるような圧力を受けていることも事実です。そのような中で「思い悩むな」と言われてもなと、感じる人も多いのではないでしょうか?しかし、そのような状況下にあっても、その不安を軽減する方法をわたしたちはすでに与えられているのです。それは何かと申しますと、神様という存在です。神様は様々なものをわたしたちに与えてくださいます。わたしが触るものも、耳で聞きとることも、目で見ることも匂いを嗅ぐこともすべて与えてくださっています。つまりわたしたちが生きる術を神様が与え、神様から学んでいるのです。しかしそうであったとしても、不安は消えません。
まずわたしたちがすべきことは神様を知ることです。すべてを知る必要はありませんというか神様をすべて理解することなどたぶん誰もできないことでしょう。ですから、神様がわたしたちをどう思っているかだけでも考えてみてはいかがでしょうか?神様は、わたしたちを非常に愛してくださっております。たとえ、神様にそっぽを向く者であっても大きな愛を注いでくださいます。わたしたちが苦しみの声をあげた時に、神様はどのようにされたでしょうか?その声を聞いて憐れんでくださいました。おなかがすいた時、天からマナを降らせてくださいました。わたしたちが王様を欲しいと願えば、王様を与えてくださるのです。このようにわたしたちに様々なものを与えてくださるのです。一方で、わたしたちが間違った道に歩もうとする時、その歩む道を閉ざし、新たな道を準備してくださるのです。そのようにわたしたちを愛してくださっているのです。つまり神様は信頼すべき存在なのです。
それでも信じることが難しいと思われる方にとっておきの方法を教えたいと思います。それは、ちょっとずつでも構いません。神様と触れ合ってみてください。対話をしてみてください。神様をほめたたえる歌を歌ってください。そしてそのことを継続していきましょう。それが本日の御言葉である、まず神の国と神の義を求めなさい。そうすればそれらのことは加えて与えられる。つまり私たちの衣食住の心配事は神様が必ず与えて下さるのです。その他の悩みも信頼すべき存在があれば、わたしたちはそのことを神様に委ねていき、乗り越える力が与えられるのです。
更に本日の御言葉では、このように語っています。だから明日のことまで思い悩むな。明日の事は明日自ら思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。神様はわたしたちが弱い存在であるという事もご存知です。次から次へと思い悩む存在だという事も知っておられるのです。だからこそ、一日の初めに、終わりに神様と十分な対話をする必要があるのです。祈りをもって始めることによってその一日が神様に守られている気がいたします。しかし朝は忙しく、食事の準備もしなければなりません。そんな方は一言で構いません。神様今日一日をお守りください。そして一日の最後に神様守ってくださってありがとう。この祈りを推奨します。ぜひやってみてください。
お祈りします。ご在天の主なる神様、感謝いたします。あなたはわたしたちに思い悩むなと声をかけていただきました。わたしたちはあなたが言われたとおり、重い悩みもあなたに委ねていきたいと思います。わたしたちをあなたの方に向くように促してください。そしてあなたを信頼できますように。そしてすべての業を委ねていくことができますように導いてください。また社会に出た時にはあなたの守りが必要ですから、わたしたちを守ってください。このお祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
2023年1月29日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 Ⅱコリントの信徒への手紙 4:5~10
わたしたちは、様々な顔や体形、性格も違いますが、共通して言えることは、神様に創られたということです。神様が私たちを創られた時に「極めて良かった」と語られました。その言葉通り、わたしたち一人一人は素晴らしい神様の賜物です。しかしわたしたちは土の器であると書かれています。土の器は作り手によって、いろいろな形に変えることができますが。一方で土の器は脆く壊れやすい一面もあります。ちょっとしたことでひびが入ってしまったり、割れてしまったり、欠けてしまう事もあります。つまりわたしたちも、小さなことであっても傷つき、欠けてしまう事もあるのです。そのような壊れやすい存在ですが、わたしたちには大切な宝があります。それは何か、それはわたしたちの心には神様がおられるという事です。神様はわたしたちのためにイエス様を送ってくださいました。そのイエス様によって、わたしたちはより輝きを増していくのです。その光があるからこそ私たちが価値ある者へと変えられていくのです。
しかしどうでしょうか?いつの時代も神様が一緒にいて下さる喜びを捨て、人間は、目先のものにとらわれ、心を奪われてしまうのです。その結果、人は相手を傷つけ、だまし、奪い取るような行為を行ってきたのではないでしょうか?それとは逆に正しい行いをし、様々なものを開発し、地位を築き上げた時、自分が頑張ってきた結果成功につながる時、どうでしょうか?わたしたちは知らず知らずのうちに神様の存在を忘れてしまっているのではないでしょうか?そのために私たちを土の器として創られたのかもしれません。わたしたちが神様という存在を忘れないようにわざと弱く、壊れやすいものとして歩ませたのかもしれません。
神様はわたしたちが傷ついた時、精神的に追い詰められ、弱められた時、神様は憐れんでくださいます。なぜならば私たちを愛して下さるからです。神様は、わたしたちを愛してくださる証としてイエス様を送ってくださったのです。わたしたちに対してイエス様は、徹底的に寄り添い、その人に何をしてほしいかとリクエストを聞き、行ってきました。その結果多くの人が神様に出逢い、癒され、神様に従ってきました。しかしイエス様の事を受け入れられない人たちがイエス様を裁判にかけ、十字架によって殺してしまうのです。その心はわたしたちに人間にとって隠すことの出来ない事実です。つまり人間は助を求めると同時に妬みを持つものであることも神様は承知しています。だからこそ神様はイエス様をお遣わしになられたのです。わたしたちはその言葉と行いを忘れてはならないのです。友のために命を捨てること、これよりも大きな愛はないとイエス様が語っています。友のため、家族のため、恋人のため、子どものため、隣の国のため、自分を捨て去れるものこそ愛を実践できる器なのです。つまりその大きな愛を持っているのがイエス様なのです。
わたしたちがいつも心にイエス様を抱き、イエス様を身に纏うことができたのならば、世界は一変する気がいたします。自分のために、自分さえよければという考え方が蔓延している中、わたしたちが祈り求めていくべき唯一の願いは、全ての人がイエス・キリストの心を身に着けていくという事であります。どうぞ世界の隣人のために祈ってください。
お祈りいたします。ご在天の主なる神様、感謝いたします。今日はコリントの信徒への手紙から学ぶことができました。わたしたちは土の器であり、弱い存在であることを自覚します。しかしあなたが私たちにイエス様を与えて下さったことによって、わたしたちが輝くことができることを改めて感じることができました。ありがとうございます。どうぞこれからもイエス様の心をもって歩んでいくことができますように。そしてすべての人が愛を行えるように神様に立ち帰らせてください。このお祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
2023年1月29日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 Ⅱコリントの信徒への手紙 4:5~10
わたしたちは、様々な顔や体形、性格も違いますが、共通して言えることは、神様に創られたということです。神様が私たちを創られた時に「極めて良かった」と語られました。その言葉通り、わたしたち一人一人は素晴らしい神様の賜物です。しかしわたしたちは土の器であると書かれています。土の器は作り手によって、いろいろな形に変えることができますが。一方で土の器は脆く壊れやすい一面もあります。ちょっとしたことでひびが入ってしまったり、割れてしまったり、欠けてしまう事もあります。つまりわたしたちも、小さなことであっても傷つき、欠けてしまう事もあるのです。そのような壊れやすい存在ですが、わたしたちには大切な宝があります。それは何か、それはわたしたちの心には神様がおられるという事です。神様はわたしたちのためにイエス様を送ってくださいました。そのイエス様によって、わたしたちはより輝きを増していくのです。その光があるからこそ私たちが価値ある者へと変えられていくのです。
しかしどうでしょうか?いつの時代も神様が一緒にいて下さる喜びを捨て、人間は、目先のものにとらわれ、心を奪われてしまうのです。その結果、人は相手を傷つけ、だまし、奪い取るような行為を行ってきたのではないでしょうか?それとは逆に正しい行いをし、様々なものを開発し、地位を築き上げた時、自分が頑張ってきた結果成功につながる時、どうでしょうか?わたしたちは知らず知らずのうちに神様の存在を忘れてしまっているのではないでしょうか?そのために私たちを土の器として創られたのかもしれません。わたしたちが神様という存在を忘れないようにわざと弱く、壊れやすいものとして歩ませたのかもしれません。
神様はわたしたちが傷ついた時、精神的に追い詰められ、弱められた時、神様は憐れんでくださいます。なぜならば私たちを愛して下さるからです。神様は、わたしたちを愛してくださる証としてイエス様を送ってくださったのです。わたしたちに対してイエス様は、徹底的に寄り添い、その人に何をしてほしいかとリクエストを聞き、行ってきました。その結果多くの人が神様に出逢い、癒され、神様に従ってきました。しかしイエス様の事を受け入れられない人たちがイエス様を裁判にかけ、十字架によって殺してしまうのです。その心はわたしたちに人間にとって隠すことの出来ない事実です。つまり人間は助を求めると同時に妬みを持つものであることも神様は承知しています。だからこそ神様はイエス様をお遣わしになられたのです。わたしたちはその言葉と行いを忘れてはならないのです。友のために命を捨てること、これよりも大きな愛はないとイエス様が語っています。友のため、家族のため、恋人のため、子どものため、隣の国のため、自分を捨て去れるものこそ愛を実践できる器なのです。つまりその大きな愛を持っているのがイエス様なのです。
わたしたちがいつも心にイエス様を抱き、イエス様を身に纏うことができたのならば、世界は一変する気がいたします。自分のために、自分さえよければという考え方が蔓延している中、わたしたちが祈り求めていくべき唯一の願いは、全ての人がイエス・キリストの心を身に着けていくという事であります。どうぞ世界の隣人のために祈ってください。
お祈りいたします。ご在天の主なる神様、感謝いたします。今日はコリントの信徒への手紙から学ぶことができました。わたしたちは土の器であり、弱い存在であることを自覚します。しかしあなたが私たちにイエス様を与えて下さったことによって、わたしたちが輝くことができることを改めて感じることができました。ありがとうございます。どうぞこれからもイエス様の心をもって歩んでいくことができますように。そしてすべての人が愛を行えるように神様に立ち帰らせてください。このお祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
2023年1月22日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 マタイによる福音書 8:5~13
メッセージ「信じたとおりになるように」
本日の聖書は、イエス様がカファルナウムという町に入った時に百人隊長がイエス様に近づいて、自分の部下が中風という病気を患っていることをイエス様に伝えました。そのことを聞いてイエス様は、「わたしが行って、いやしてあげよう」と声を掛けると、百人隊長はこう答えました。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるものではありません。ただ一言おしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます」この言葉を聞いて皆さんはどう感じたでしょうか?百人隊長と言えば、自分に従う人が百人いるわけですから、社会的地位を持った人ではないでしょうか?しかし、自分の屋根の下にお迎えできるものではないと告白しています。つまり社会的地位ではなく、イエス様を認め、素晴らしい方であるという事を感じた時に人は自ら相手を尊敬して、謙遜な思いが生まれるのではないでしょうか?そのような謙遜な思いは、発する言葉だけで力があるという事を百人隊長は理解していたのではないでしょうか?つまり実生活においても百人隊長の周りには、たくさんの人がその隊長の発する言葉に耳を傾け、行動に移す環境にあるからこそイエス様に「一言おしゃってください」という言葉につながったのではないでしょうか?
その思いを受け取ったイエス様は非常に感心して、こう言うのです「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」この言葉を百人隊長は、どのように聞いたか書かれておりませんが、ほめてもらえてうれしい思いになったかもしれませんし、一刻も早く命じて欲しかったのかもしれません。いずれにせよ、その信じることの大切さをわたしたちが知るようになるのです。更に続けてイエス様はこのように語ります。「言っておくが、いつか、東から西から大勢の人が、アブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。だが、御国の子らは、外の暗闇に放り出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」この言葉にわたしたちは愕然と致します。今まで信じてきたのに「なんで」と思う人もいると思います。しかし、わたしたちには思い当たることがあります。それは何か?それは、信じていても、わたしたちは疑いの目を持っているということです。イスラエルの歴史だけでなく、人類そのものが神様と関わる中で、神様を信じますといって従っていても、こっちのほうがいいかなと選択し、本来の道を誤ってしまうことがあります。それはどんな人にも選択する時が訪れます。その時に正しい判断をすることが出来るでしょうか?信じ抜き、貫き通すことが出来るでしょうか?そのことを考えた時に、わたしたちはイエス様の言葉を信じ抜けないかもしれないのです。つまり神様を信じた人たちよりも百人隊長のように別の国や立場に違いがあっても、信じることのすばらしさをイエス様に従う者に伝えようとしているのではないでしょうか?だからこそイエス様の前に百人隊長を来させたのです。それは神様がイエス様をわたしたちに送り出してくださった憐みであり、計画なのです。つまり昔から信じている人も、そうでない人も今一度信仰を確かめる時です。百人隊長が示してくれたように信じ抜く心が与えられるように祈っていきましょう。
お祈りいたします。
御在天の主なる神様。今日はこうしてマタイによる福音書から学ぶことが出来ました。イエス様の前に百人隊長をよこし、信じ抜くことの素晴らしさを学びました。しかし私たちは信じ切れていない心もあることを改めて感じました。どうぞわたしたちが信じることが出来るように命じてください。そして百人隊長のようにあなたのおっしゃる言葉に従って生きたいと思います。どうぞこれからもあなたの御言葉に耳を傾け従うことが出来ますように導いてください。このお祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
2023年1月15日 益子教会主日説教要旨
聖書 1コリントの信徒への手紙 2:1~5
メッセージ「神の力によって」
皆さんは初対面の人と初めて話す時、どんな内容で話し始めるでしょうか?多分天気の話ですとか、景色とか目に見えるものや体感できることを話しませんか?それは、相手が共感できるような話題の方が話し始めやすいのかもしれません。しかし、自分が目的をもって、その場所を訪れる時、天気や景色の話ではなく、そのことを聞きたいのではないでしょうか?皆さんが教会に来るのはどうしてでしょうか?それは聖書に書かれている神様の御言葉を求めているからではないでしょうか?つまり聖書はわたしたちに何を語っているかという事であります。新約聖書の半分はパウロが書きました。パウロは、キリストの福音を宣べ伝えるために、様々なところに赴き、神様を語りました。初めの頃は、神様の言葉を語るのに、何とかわかってもらおうと身近な話題を話して何とかわかってもらおうと努力をしたのかもしれません。ですがどうでしょうか?パウロも初めは偏見という色眼鏡で見られ、時にはやじられ、時には物を投げられ、怒号を受けたかもしれません。ですが、パウロは神様の言葉を語ることをやめようとはしませんでした。むしろ十字架のイエスを中心に話し始めたのです。すると沢山の方が神様を理解し、信じるようになりました。特に異邦人と呼ばれる神様を知らない人たちが神様の救いに与ることが出来たのです。それは、大人であろうとこどもであろうと、男の人であろうと女の人であろうと誰でも受けられると知り、多くの人は喜びました。しかし神様の言葉を受け入れられない人もおります。それは、神様を使い商売をしている人です。そのような人たちにとって、パウロの一言一言が生活を脅かすものになった時、人はパウロを町から追い出そうとしますし、命を奪おうと計画します。そのような中であっても、神様の言葉を語るわけですから、心身ともに疲労感を覚えたのかもしれません。ですがパウロは語り続けるのです。神様の福音を。なぜならばその喜びのお知らせは、全ての人に語り続けなければならないのです。それが神様から受けたパウロの使命ともいえるでしょう。
みなさんは、パウロの決意である十字架のイエス以外、何も知るまいという決意をどのように感じたでしょうか?わたしたちもいつの間にか大事なものを見失っているかもしれません。社会的な目が気になったり、噂を気にしたりしてはいないでしょうか?また世間が言われている根も葉もないことに耳を澄まして信じてはいないでしょうか?もちろんそういった感覚は誰もが持っているでしょうし、これからもそういったものに悩まされなければならないでしょう。そのような時はぜひ、パウロのように十字架のイエス以外、知るまいと決意を持てたら、どんなにか楽に過ごせるかもしれません。しかし実際には、様々な圧力があるでしょう。そんな時、心が挫けてしまうかもしれません。ですが、必ず乗り越える力を神様が与えてくださるとわたしは信じます。ですから、あなたのために祈りたいと思います。十字架のイエス様の力が注がれますようにと。
お祈りいたします。御在天の主なる神様、今日あなたに与えられた御言葉を感謝いたします。わたしたちはいつも何かにおびえ、不安を覚えています。ですが、あなたはわたしたちにパウロの決意を改めて教えてくださいました。わたしたちも十字架につけられたイエス様のことをさらに求めていきたいと思います。そしてこの世のものに惑わされないようにわたしたちを強めてください。このお祈りを主イエスキリストの御名によって祈ります。
アーメン
2023年1月8日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 ルカによる福音書 6章37~38節
メッセージ「与えなさい」
先週は「求めなさい」というメッセージをさせていただきました。今週は「与えなさい」というメッセージです。この二つの言葉に共通して言えることは神様という存在です。わたしたちは神様から様々なものをいただいております。それは、わたしたちが積極的に頂きたいと願うものもあれば、欲しくないといったものもあるかもしれません。しかし、なぜくださったのかと考えた時に、わたしたちはふと疑問を持ちます。「なぜこのようなものを与えてくださったのだろうか?」それは、わたしたちが神様に願ったからです。神様は必要のないものは与えません。必ずどこかで自分が求めてきたものへと繋がるということです。わたしたちは手前の事しか考えておらず神様の視点とは違うのです。神様は後々のこと、つまり未来を見据えているのです。だから「なぜ?」という言葉が頭に浮かぶかもしれないのです。
一方で、本日の与えなさいとは、自分以外の人に対して行う事であります。あまり自分に与えるとは言いませんよね。しかし実際には神様がわたしたちに与えられているわけですから、わたしたち自身も神様に与えられているのです。そこで問われるのが、その与えられたものをどのように使うかが神様から問われているのではないでしょうか?聖書のたとえ話で旅に出る主人が金を僕たちに渡しました。それぞれ金額が違いました。多く預かった者は、積極的に増やす活動をしました。ちょっと多かったものも増やしました。しかし少ない額を預かった者は主人を畏れ土に隠してしまったのです。その報告を受けた王様は、「銀行にでも預けておけば良かったのに」と言った後、その財産を取り上げてしまいます。わたしたちもおなじです。与えてくださったものを大事にしまっておけば、そのままですが、しかし結果を気にするあまり本当のことを見失ってしまうものなのです。わたしたちが気を付けなければならないのは神様が与えてくださったものを自分の価値基準で判断しないことではないでしょうか?わたしたちは自分の持っている色眼鏡でレンズ越しに見ていると、良いものも悪く捉えてしまいますし、逆に悪いものを良く見せることもこの世的にはよくあることです。わたしたちは神様が与えてくださっていることを軽く考えるあまり、神様のことを見くびるところがあります。それは人間の非常に弱い部分であります。人間は自分よりも弱い立場の者に攻撃する習性があります。その弱い部分を持っている者に必要以上に注意したりする攻撃性を持っているのも事実です。しかし、神様はそのような行為に対して、注意を促しています。裁くな、赦しなさい、与えなさい。この3つの行為をわたしたち自分以外の人にしていかなければならないのです。この行いはそのままそっくり自分自身に返ってくるのです。むしろもっと厳しい目で批判されるかもしれません。わたしたちは日々歩む中で、平和に暮らしたい、人間関係を良くしたい、良い生活をしたいと願い求めているのではないでしょうか?それは誰もが持つことです。しかしそれぞれ価値基準が違うのです。もっと欲しいと考える人もいれば、もう充分ですと答える人もいるでしょう。しかしその中身でなく、与えてくださることへの感謝の気持ちを抱けば少量の物でもきっと豊かに感じるはずです。それにも増して神様はわたしたちが想像以上のものをくださる方なのであります。その神様の恵みを感じることが出来るようにどんなことにも感謝して歩んでいきましょう。
お祈りいたします。御在天の主なる神様、今日こうしてあなたの御言葉をいただきました。主はわたしたちに与えなさいと言われました。自分たちに与えられたものは決して小さいものではなく、神様の大きな愛が詰まったものです。どうぞわたしたちが与えてくださる恵みを少ないと思わず、その与えられたことに感謝することが出来ますように、またその分け与えられたものをみなと分かち合う喜びを感じることが出来ますように導いてください。
わたしたちは祈ります。すべての人が神様の愛に触れた時、神様の思いを感じることが出来ますように導いてください。いまだ戦争の火が消えません。どうぞあなたが憎む心などの悪い心を取り去ってくださいますように。そして世界が互いに愛し、お互いに認める世界を作ることが出来ますように。このお祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
2022年1月1日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 マタイによる福音書 7:7~8
メッセージ 「求めなさい。」
新しい年になり、新たな気持ちを持って歩んでまいりたいと思います。昨年は皆さんにとってどんな年だったでしょうか?社会的にはウクライナ侵攻が始まってしまいました。そのほかにも武力で押さえつけようとする国の動きが目立った年でもありました。また自然環境では、「異常な」という言葉が飛び交うような豪雨、寒波、高気温などによって起こる被害が多発し、様々なものに影響を与え、日常の生活が脅かされるほど物価が急上昇しています。また、コロナが与えた影響は、わたしたちに新たな選択をもたらせました。そのような様々な事が起こる中であっても時間は流れますし、わたしたちも課題に向き合わなければならないのです。そのような時、わたしたちは神様に祈り、願い求めます。その願いに対して神様はどんな形にせよ応えてくださいますが、わたしたちがこうして欲しいと理想や結果を追い求めることによって、神様のしてくださる行為を感謝して受け取ることが出来ないことがあります。そのような時わたしたちは、如何に傲慢であるかを思い知らされ,罪の意識に悩まされます。反対に神様の与えて下さる業は、わたしたちの想像を超えることもあります。こんなにも恵みにあふれた愛を注がれるわけですから、もう充分ですと感謝の念にあふれます。しかし、本日与えられた御言葉は、わたしたちに更に求めなさいと投げかけてくださるのです。今起こっていることもこれから起こることもわたしたちは自分の力でどうこう出来る問題ではありません。もちろん様々な事を想定して行動を取ろうと心がけておりますが、突然予期せぬこともありえるのです。そのような時、一番信頼できるものに求めていくことは必然ではないでしょうか?初めに申しましたように神様はわたしたちが求めることを望んでおられるのです。「いや充分ですよ」と遠慮をしても、神様はわたしたちに「求めなさい」と言われるのです。そのように神様はわたしたちが求めることを望んでいるのです。わたしたちは未来予想をたてることが出来ますが、そのプラン通りにいかないことがあります。そのような時にも私たちは神様に委ねていけばよいのではないでしょうか。わたしたちは、どんなに親しい間柄であっても遠慮をしてしまいます。なぜならばそれで人間関係のバランスを保つようにしているからであります。しかし神様には遠慮は無用です。むしろ自分の思いを全部吐き出すぐらいの方が神様は喜ばれるのではないでしょうか?この新しい年、わたしたちは新たな思いを持つことを許されています。過去を振り返ることも大事ですが、今年はとにかく求めていく姿勢を身に付けていきましょう。もっともっと神様を信頼し、もっともっと神様に求めていけばよいのではないでしょうか?わたしたちが祈ってもかなわないのではないか?と勝手に思うのは人間の思い違いかもしれません。実は、人間は思い込みが激しいのかもしれません。こうだろう、あーだろうと考えていて行動を躊躇してしまうかもしれません。しかし実はあまり気にしていないかもしれないのです。つまり私たちが求め続けることも、遠慮することも思い込みによって制限してしまっているのかもしれません。人間に対してはまだまだ気遣いをしなければならないかもしれません。しかし神様に対しては大胆になっても良いのではないでしょうか?新しい年、わたしたちは今までよりも更に求めていきましょう。そして更に祈りを深めていきましょう。そして喜びの気持ちをもって賛美しましょう。更に御言葉を追い求めていこうではありませんか?まず自分が神様とどう向き合うかを考えて歩んでいきたいものです。
お祈りいたします。ご在天の主なる神様、新しい年を皆さんと一緒に礼拝をささげる事が出来感謝いたします。わたしたちはこの与えられた年を大胆に求めていきたいと思います。なぜならあなたは必ずその声に耳を傾けて下さる方であるからです。しかし疑り深い私たちがいることも事実です。どうかわたしたちの心をあなたが強めて下さり、あなたに委ねる思いを強めて下さい。新しい年が始まりました。どうぞ今年もあなたがそばにいて下さることを実感できる年となりますように導いてください。このお祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
2022年12月25日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 ルカによる福音書 2:9~14
メッセージ「民全体に与えられる大きな喜び」
クリスマスおめでとうございます。皆さんにとって夢とは何でしょうか?希望とは何でしょうか?民主運動を行ったキング牧師のメッセージで「わたしには夢がある」と語った説教があります。その夢とは実に些細なものでした。それは一つのテーブルに白人と黒人が一緒に座り、談笑し、食事をするというものでした。しかしその当時、どれだけ難しいことであったでしょうか?それから何年たったでしょう?しかし今もなお差別は続いています。イエス様が生まれた時代はどうだったでしょうか?その当時ローマの兵隊が街ににらみを利かせ抑圧の中でイスラエルの人々を苦しめておりました。いつ自分が捕まえられ命を落とすかもしれないという不安の中で暮らしておりました。その中にあって、唯一の希望は、救い主が与えられるという昔から言われ続けた言葉でありました。しかしなかなか救い主が現れず、言い伝えとして忘れ去られていたのかもしれません。そのようなことを考えますと本日の所は、わたしたちに大きな喜びを与える箇所であります。
羊飼いのもとに天使がやって来てこう告げるのです。「恐れるな、わたしは民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそメシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝かせてある乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」この言葉を聞いた時、羊飼いはどう思い、どう感じたでしょうか?おそらくあまりにも衝撃的過ぎて、訳が分からないと戸惑った人が大半なのではないでしょうか?しかし中にはその天使たちが語る言葉を理解した人もいるでしょう。もしくは全員がその天使の声をはっきりと聞いたのかもしれません。羊飼いたちの行動は、天使が言ったことが本当であるか確かめに行くのでした。その道中どんな会話がなされたのでしょうか?「ワクワクするな」と期待を持つ会話だったでしょうか?それとも「いやだな」という感情だったでしょうか?不思議な気持ちを持ったことは確かです。実際に情報が少なすぎましたが、羊飼いはその場所を探し当てて無事にイエス様と対面するのです。天使が言われたとおり、飼い葉桶に寝かされている赤ちゃんを見て喜び、賛美をしながら帰って行くのです。その喜びは、町中の人たちはどのように感じたのでしょうか?もしかしたらうるさく感じたかもしれません。何を言っているのだろうと耳を澄ました人もいるかもしれないのです。しかし、その言葉を聞いて、イエス様を拝みに行った人はどれぐらいいたでしょうか?0人かもしれませんし、100人いたかもしれません。つまり最初のクリスマスは静かな夜に起きたことでありました。そのことを考えた時に、人間がどんなに期待をしていても、時間を加えるごとに期待感が薄れてくるのです。その薄れは、わたしたちの心の弱さかもしれないのです。
わたしたちには寿命があります。どんなに健康に気をつかっていようが、その命には限りがあります。その中でわたしたちが願うのは生きている間に神様の救いを受けたいと思う気持ちは強いのかもしれません。しかし、人間の思いと神様の計画には誤差があり、救い主が与えられる喜びを分かち合うことが出来るでしょうか?それは、わたしは出来ると思います。なぜならばクリスマスという言葉は合成された言葉であり、訳しますとクリストつまりキリスト油注がれた者という意味と礼拝という意味を持つマスですから、毎週行われている礼拝こそがクリスマスであります。だからこそ私たちは礼拝をささげるのです。その礼拝をささげることによってわたしたちは神様の言葉で励まされ、社会に立つこともできるのです。この大きな喜びはわたしたちの心の支えとなって行くのです。初めに話しましたキング牧師の夢もささやかなものかもしれません。その小さな喜びが重なり合えば、大きな喜びへと変えられていくのです。天使が羊飼いたちに伝えた大きな喜びの報告は、わたしたちの小さな喜びの集合体です。そのことを神様は具現化され、わたしたちにイエス様をくださったのではないでしょうか?ですから、このクリスマスを皆さんと感じることが出来るのはこの上ない幸いであるということを確信するのです。
お祈りいたします。御在天の主なる神様。まことにわたしたちはあなたがイエス様を与えてくださったことを感謝いたします。わたしたちはあなたが約束してくださった事を信じることが出来ず、忘れてしまう愚かな者であることを懺悔します。しかしあなたはそのような者にイエス様を与えてくださるわけですから、あなたの愛の深さに驚いています。新しく与えられたこの年もあなたのことを覚えて礼拝をささげることが出来ますように祈ることが出来ますように、そして喜びの賛美をささげることが出来ますように導いてください。どうぞすべての人が大きな喜びで包まれますように。このお祈りを主イエスキリストの御名によっておささげ致します。アーメン
2022年12月18日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 ルカによる福音書 1:67~79
メッセージ「我らの歩みを平和の道に導く」
本日はアドヴェント最後の礼拝です。いよいよ来週クリスマスを迎えます。本日はルカによる福音書から共に学んでまいりたいと思います。本日の箇所は、洗礼者ヨハネが生まれた後に父ザカリアが霊に満たされ語られた言葉です。以前ザカリアが香をたく作業の際、天使に出会った話を致しました。ザカリアは、天使の言葉を一瞬疑い、声が出なくなってしまいましたが、時が満ちて男の子を授かると口が開き霊の語らせるまま話し始めたのです。そのことを書き記されたのが今日の箇所です。
では、中身に触れていきたいと思います。前半の67~69節では、主が民を訪れ、その民を解放し、救いの角を僕ダビデの家から起こされたとされています。これはイスラエルの祖と呼ばれるアブラハムに神様が約束された祝福の成就であります。なぜ神様はイスラエルを選ばれたのでしょうか?この先祖であるアブラハムは、突然神様に「わたしが示す場所に移れ」と言われ、自分たちが住んでいた土地を離れ、旅立ったのです。皆さんはどうでしょうか?自分が年老いて、何10年と住んでいた土地を手放すことが出来るでしょうか?神様の言われたことを素直に受け入れ、行動に移すことが出来るでしょうか?その従順さ故に神様はアブラハムに夜空に散らばる星のように、海の砂のように子孫を増やす祝福を与えるのです。しかし、人間はその神様の恵みでは満ち足ることが出来ず、その都度欲張り、神様から離れてしまうのです。しかし神様は諦めることなく、そのイスラエルを愛し続けます。そして、ダビデに油を注がれ、王にしました。しかしそのダビデも自分の欲のために罪を犯してしまうのです。その結果、イスラエルを分裂させてしまいました。しかし神様はそのような状況であるイスラエルの民をばらばらにしながらも救いの成就のために子孫を残させ、再構築していくのです。それがイエス様なのです。わたしたちは、毎年クリスマスをお祝いしています。イエス様の誕生をお祝いするだけでなく、神様がなぜイエス様を与えてくださるのかを思い出させるためでもあります。
同様に、自分の息子であるヨハネについても、語ります。ヨハネにはいと高き方の預言者と呼ばれ、役割は、主に先立って行き、その神様の道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを知らせる、そのような者であると預言いたします。つまり霊が語らせるままにヨハネは語るのです。その霊は神様であり、子であるイエス様を与えるのは神様の憐れみの心によるものであると断言します。そしてこの神様の憐れみによって高い所からあけぼの光が訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く」つまりこの一連の預言は神様の約束は守られるということを示しております。しかしイエス様はルカによる福音書12章51節でこのように語っています。あなたがたはわたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか、そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。皆さんはこの言葉をどう受け止めることができるでしょうか?イエス様がこの世に生まれる時代はローマの圧政に苦しみ、その恐怖におびえ、一刻も早く救い出してほしいと願う気持ちが充満していたのではないでしょうか?それは人間の心理として当然のことかもしれません。しかしその問題は根深く、早期解決は難しいものであります。圧倒的な力のもとでは、違うと思いながらもその意見に飲み込まれてしまうことがあったと思います。どんなに声を上げようとも打ち消されてしまうのです。ですから神様の救いに期待を抱いていたのも事実です。
ですが、何かを変えるためには時間が必要です。劇的な変化をもたらすためには、分裂が必要なのかもしれません。その先にある神様の平和へと促す試金石のようなものです。つまり私たちは神様に理想を求めます。こうしてほしい、という思いは、打ち砕かれるかもしれません。神様の思いはわたしたちの考える範囲を軽く超えられる方であります。神様の救いの業は、イエス様の贖いの十字架の業によって成就します。その人間が作り、最も辱められる十字架によって、死を克服するのです。つまり生まれたままの赤ちゃんではなく、時間をかけ、神様を信じるバプテスマを受けたイエスによって試金石を投げ、平和へと導くのです。そのことを覚えるのもクリスマスの大きな意味があるのです。
お祈りいたします。ご在天の主なる神様、感謝いたします。今日は、神様が与えて下さるイエス様の誕生の意味を改めて理解することができました。わたしたちは、神様への期待が高まるあまり、自分が成して欲しいことばかり先行してしまう者であることを自覚するとともに、懺悔いたします。毎年行われるクリスマスは、わたしたちになぜ神様がイエス様をお与えになったのか、思い起こさせる日でもあることを理解しました。神様が私たちに平和への歩みを導こうとしていることを、もっと多くの兄弟姉妹がそのことを理解できますように導いてください。益子教会もクリスマスに礼拝をささげます。どうぞ多くの方が集まることができますように導いてください。このお祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
2022年12月4日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 ルカによる福音書1:30~33
メッセージ「あなたは神から恵みをいただいた」
わたしたちにとって、恵みとは何でしょうか?誰から与えられるものでしょうか?今日はその恵みについて学んでまいりましょう。恵みは、普段与えられているものと突然与えられるものがあります。普段与えられている恵みとは健康であったり、自然といった普段わたしたちが神様からいただいているものかもしれません。ですが突然の恵みというのは、予期せぬことであります。つまり予想外のことを指しています。わたしたちに突然起こることは良い事ばかりでなく、悪い事も当然起こりうることであります。しかしその突然のことをどう受け止めていくかが問題です。例えば事故が起きた場合ではどうでしょう?車を運転する人は自分でも気を付けながら、運転しています。しかしどんなに気を付けても車を運転すれば相手がぶつかってくる場合もありますし、自分の体調が急に変化を引き起こし、事故につながることも考えられます。その起きた事柄を自分は悪くないと100%いえるでしょうか?自分にも非があるかもしれないのです。一言「大丈夫ですか?」と相手を気遣う言葉が掛けられれば、その後の処理も有効に進めていくことが出来るのではないでしょうか?もし感情的になれば、相手を傷つけあう結果になってしまうのではないでしょうか?しかしこれはあくまでも悪い場合です。でもたとえ良いことであってもその状況を理解できないことは結構あるのではないでしょうか?神様の業はわたしたちの理解を越えています。納得できないことが沢山あります。本日の聖書も納得できない場面の一つかもしれません。
マリアのもとに天使ガブリエルが現れました。そこで「おめでとう恵まれた方、主があなたと共におられる。」この言葉に戸惑いを覚えます。それは当然ですよね。「そのおめでとうは何のおめでとうですか。」別におめでとうと言われることは思い当たりませんが。そう思うの至極当たり前の感情であります。そしてガブリエルはこう語り始めました。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」その言葉にマリアは常識的な考えで「どうしてそのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と問い返しました。その応答に神様の恵みに対する思いがどうであるかというよりも、自身の中では「ありえない」という思いが駆け巡ったのではないでしょうか?そこでガブリエルは「聖霊があなたに降り、いと高き方のちからがあなたを包む。だから生まれてくる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう6ヶ月になっている。神にできないことは何一つない。」この神にできないことは何一つないという言葉でマリアはその言葉を受け入れます。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」この言葉も自分の感情や理解度を越えて、その場で聖霊が語らせた言葉です。それによって天使がその場を去り、日常生活に戻ります。この一連の後、マリアはエリサベトのもとを訪ね、時が満ちるまで一緒に過ごしました。このように天使が言われた通りであったので、最終的に天使が言われたことを受け入れていくのです。今回の場合目で見える形を示され、神様の計画を受け入れることが出来ました。もしエリサベトのことを示されなければ信じれなかったのかもしれません。それほど神様の恵みは突然与えられ、理解しがたいものなのかもしれません。わたしたちはマリアのように目に見える形で神様の業を見ることがないかもしれません。素直に信じ切れないかもしれません。しかし神様は必ずわたしたちを従順な思いを持つことも与える方であります。わたしたちが疑い迷う者であっても、神様はそのことを知っておられるのです。わたしたちもイエス様の誕生を迎えるこのクリスマスアドヴェントの時期だからこそ神様の恵みが降り注がれることを信じていきましょう。今まで信じることが出来なかったとしても新たな気持ちをもってイエス様の誕生を迎え入れていこうでは、ありませんか?神様の恵みに感謝していきましょう。
お祈りいたします。御在天の主なる神様、こうして私たちは聖書を通して神様の恵みを知ることが出来ました。わたしたちは疑り深く、常識から離れられないものであることを自覚するとともにあなたのことを信じられない愚かな者であることを懺悔いたします。どうぞ今からわたしたちは心を入れ替え、あなたの恵みを信じていきたいと思います。主の恵みの中を歩める幸せを感じて日々過ごしたいと思います。どうぞ神様の恵みを信じて歩めますように、わたしたちを導いてください。このお祈りを主イエス・キリストの御名を通しておささげ致します。アーメン
2022年11月27日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 ルカによる福音書 1:13~17
メッセージ「ヨハネと名付けなさい。」
本日からアドヴェントに入ります。本日の聖書箇所は、ザカリアが天使に遭う場面であります。わたしたちは日常の生活において、天使に出会うという非日常的なことが起きた時、皆さんはどう思うでしょうか?ザカリアは神殿に香をたく当番がくじによって決められました。このくじというのも神様の業であります。香をたく場所にザカリアが入るとそこに神様の使いがおりました。身の毛がよだつ思いをしたかもしれません。不安を通り越して恐怖感に駆られたのではないでしょうか?
そこで天使はこういいました。「恐れることはない。ザカリアあなたの願いは聞き入れられた。」それはどんな願いかと申しますと。自分の子どもを願っていたのではないでしょうか?もちろんザカリア自身もそうですが、妻のエリサベト自身も年を加えておりましたから、無理かもしれない。それでも神様に一縷の望みをかけて祈り続けてきたのではないでしょうか?その結果神様は、その祈りを聞き入れられ遂にそのことが実現する運びとなったのであります。しかし天使には赤ちゃんの名を「ヨハネと名付けなさい」と限定させられるのです。そもそもザカリアとエリサベトの親類にヨハネと名の付く者はおりません。特にこの時代名前は大事な役割を果たし、まさに名は体を表す大事なものです。そして代々受け継がれ続けた時代です。ですから親族の会議においても様々な意見が飛び交うかもしれません。もしもその名の事で不満を覚えるようなことになれば大変です。それは神様の計画に従うどころか反発を覚えてしまう結果につながることになりかねません。そのようにならないように天使は、時が来て子が生まれる前で口をきけないようにしました。人間は神様から言葉を与えられました。その言葉によってたくさんのことを理解し、考えることができました。しかしその言葉も善いことばかりでなく、人を傷つけてしまうこともあれば、悪い言葉で悪影響を与えかねないものになってしまうのです。イエス様が十字架につけられて、殺されてしまう予言を語られたときも、その言葉を遮り、自分の考えを押し付けようとしました。つまり自分が思い描く理想像を押し付けようとするのです。それ位言葉は使いようによっては、神様の栄光を現すこともあれば、自分の理想を実現するための手段になってしまう恐れがあるのです。そのために天使は口を封じたのです。
では与えられた子どもがどのように成長するかと申しますと、喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶと書かれております。つまり家族だけに限らず多くの人に愛されて成長していくのです。もちろん赤ちゃんが生まれることは多くの方が喜びに満ちあふれます。しかし、素直に喜ぶことの出来ない事情がある場合もあります。けれども神様が与えてくださった命は人を笑顔にさせる力を誰もが供えているのです。そして、主の御前に偉大な人になり、強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。とも書いてあります。つまりお酒は人を混乱に招く原因の一つであります。その酒を飲まないという事は、正常な考えを保つことが出来るのです。つまり真実を語り、主に帰するように促す存在になっていくのです。
更に預言者エリヤの霊と力によって父である神様に心を向けさせ、神様に逆らうものに正しいことと間違ったことを理解させ、準備の出来た人を主のために用意する。そんな活動をする赤子を与えると宣言されました。その際、ザカリアは天使に尋ねました。「何によって、わたしはそれを知ることができるでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年を取っています」その言葉に「わたしはガブリエル、神の前に立つもの。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。あなたは口がきけなくなり、このことの起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現する私の言葉を信じなかったからである。」聖所を出てきたザカリアの様子を見て、同じ祭司職の集まった人たちは、ザカリアが霊に出会ったことを悟るのです。この物語を皆さんはどうとらえたでしょうか?わたしは改めて神様の前で沈黙が必要であることを覚えました。とかく私たちは、余計なことを言いがちです。ついつい言ってしまうと争いになってしまうことがあります。わたしたちは、神様の計画の中では沈黙をすべきではないでしょうか?それがどんなに驚くべきことであっても沈黙し、わかりましたと従順な思いを持つこと、それがこのイエス様誕生を迎える私たちの第1の歩みではないでしょうか?イエス様を与えて下さる神様の計画にに余計な言葉はいらないのです。神様の御前に沈黙しましょう。
お祈りいたします。本日アドヴェント第1主日を迎えました。あなたの示す御言葉を感謝いたします。わたしたちは余計なことを考え口に出してしまいます。どうぞあなたの御言葉の前で沈黙をすることができますように導いてください。あなたを信じます。疑う心ではなく神様に従順に生きる道を選択させてください。この1週間も守られますように。このお祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
2022年11月20日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 エレミヤ書 3章14~18節
メッセージ「立ち帰れ」
本日はエレミヤ書から共に学んでまいりたいと思います。エレミヤは預言者であります。預言者の主な働きは神様の言葉を伝える役割を持っております。それがたとえ悪い状況になろうとも神様の言葉を正確に伝えていかなければなりません。そのため、預言者は尊ばれる場合もありますが、たいていは、非難されることが多いかもしれません。そのような中で、わたしたちに示されたのは、「立ち帰れ」という言葉です。次週からアドヴェントが始まりますが、わたしたちも同じように今立ち帰るべきではないでしょうか?わたしたちの教会では、ローズンゲンと言いまして日々の聖句を使っています。本日のエレミヤ書もローズンゲンの日々の聖句から与えられたものです。この旧約聖書のほかに新約聖書も与えられておりますが、それはルカによる福音書15章の放蕩息子のたとえです。皆さんはこの有名なたとえ話を御存じでしょうか?大まかに言いますと、弟とが生前分与を希望し、それを与えられ、お金を使い果たし、飢饉によって立ち止まり父のもとに息子としてではなく、使用人の一人として働こうとする思いを父はそれ以上の対応をもって息子を迎える話です。この放蕩息子の話では飢饉という命に直結する問題が生じました。そこで立ち止まることが出来たわけであります。さてエレミヤ書ではどうでしょうか?人間の歴史を顧みなければなりません。わたしたち人間は神様とかかわりを持ちたいと常に考えておりますが、しかし、人間の心は移ろいやすく、様々な事に目移りしてしまうのが現状です。そのため神様と繋がりたいと思いながらも便利なものや利益を生み出すものに心奪われてしまうことが多くあるのです。そのため、人間は同じような思いを繰り返し行ってきました。神様が様々なものを与え、わたしたちを恵みに満たしてくださるのにもかかわらず、わたしたちは、自分の思い通りにいかないと反発し、拒否をしてしまうのです。そのため自分に都合の悪いことには耳を塞いでしまい、心地良いものばかりを求めてしまうのです。その結果、神様から離れてしまうのです。しかし神様は、出エジプト記でモーセに自分を示す時に熱情の神であると言われたのです。この熱情の神様の愛はわたしたちがそのことに気付くまで、何度も語り続けてくださるのです。
本日の聖書では何度も「立ち帰れ」と語ります。わたしたちは神様を信じますと告白しながらも、現実的にはどうでしょう?今までの歩みはどうでしょうか?本当に神様の道を歩んで来たでしょうか?本当にどんなことでも神様に言われたことを受け止め、歩んで来たのでしょうか?わたしたちはイエス様の誕生を心から受け入れる準備は整っているでしょうか?洗礼者ヨハネは、「主の道をまっすぐにせよ」と悔改めを求めました。今こそ、わたしたちは立ち止まり、自分の歩みを検証する必要性があります。もし神様に従っていないのであれば、すぐに立ち帰る道を探すべきです。もしも主の道を歩んでいる自覚があるならばどんなことがあろうとも信じぬく心を養っていくことが必要です。本日出てくるイスラエルとユダヤはもともと同じ国でありました。しかしどちらも神様から離れてしまい、本来目指すべき道を見失ってしまったのです。わたしたちには正しく歩むためには道標が必要であります。神様の道を歩みたいと思うのであれば、近道はありません。この世に属する者は神様から私たちを遠ざけようと働きます。そのためあらゆる方法を見いだし、そして悪の道へと引きずり込もうとします。その悪に対抗する唯一の方法は神様しかないのです。その神様が私たちに与えられた希望こそ主イエス・キリストであります。しかしイエス様が活動をしているとき、一番邪険にしたのは誰でしょうか?神様の与えられた律法を重んじる律法学者や礼拝を重んじる祭司ではなかったでしょうか?つまり神様に従事する人たちがイエス様を認めず、十字架につけてしまいました。また、神様がイエス様に与えられた十字架の道を妨げようとしたのは誰でしょうか?それは近くにいた弟子たちです。つまり神様の事を考え、何よりも大事にしていた人ほど、一旦立ち止まり、自分の歩みを見つめなおす必要があるのです。そして神様に立ち帰ることを意識していかなければならないのです。わたしたちは神様が御言葉を与え続ける意味を大切にしなければならないのです。なぜなのかそれは大事なことに気が付いてほしいと願う神様の愛なのかもしれません。わたしたちはその愛に触れた時、悔い改めの思いに満たされるのです。
お祈りいたします。
ご在天の主なる神様、こうして本日の礼拝に参加することが出来感謝いたします。「立ち帰れ」と何度も声をかけて下さったことは、わたしたちがいかに傲慢であったか、神様の道からそれていたことを懺悔いたします。今から私たちは自分の歩みを見つめなおし、新たな思いをもってあなたの道を歩んでいきたいと思います。どうぞ私たちをあなたの正しい道に向かうことが出来るように道標となってください。わたしたちはあなたを目指していきたいと思います。どうぞあなたから離れず謙遜な思いをもってこの一週間を過ごすことが出来ますようにお守りください。このお祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン
2022年11月13日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 Ⅰヨハネの手紙 5章18~20節
メッセージ「イエス・キリストの内にいるのです」
最近のニュースを見ていますと、統一教会問題とウクライナとロシア、それに時折弾道ミサイル等きな臭い状況の只中でわたしたちが出来る事はただただ祈るのみです。しかし最近ある方とメールをしていてこんなことが書かれておりました。
「わたしは教会に来て、わたしたちの家族をお守りくださいと祈っているにもかかわらず、一向に神様が守ってくれない。神様は本当にいるのでしょうか?」そのような思いを持つ人は多いと思います。逆に神様に祈ったらその思いは叶いましたという方もおられました。わたしたちはその祈りについて考えていきたいと思います。本日の御言葉である少し前の5章14~15節にこのように書かれてあります。何事でも神様の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。こう記されています。
では改めて先ほどの質問を思い出して欲しいのですが、家族をお守りくださいと祈ることは神様の御心に適っていないのでしょうか?いえ決してそうでないと思います。ですがその人は神様なんていないと見切りをつける結論に至ってしまいました。しかしそうではないのです。人間は何かといつまでにとか、すぐにといった期限を設け、自分中心に考えてしまいがちです。神様が行う時間と人間の思いは相いれない所があります。なぜなら人間は今を見ているからです。神様は最も効率的で最も有効な恵みをお与えになる方でありますから、今がそのタイミングではないと計画してくださっているのだと思うのです。必ず行ってくださるという思いこそ神様を信じる心そのものなのではないでしょうか?神様に委ねる思いを持つことが必要だと思うのです。つまりこのことはわたしたちの肉体は衰え、滅びようとも永遠の命を与えようとする神様の思いを理解する第一歩につながるのです。
では、次に本日与えられた箇所を見てみたいと思いますが、3つのことを知っていると書かれています。知っているということですから理解していると取ることが出来ます。しかしすべてを理解しているかどうかはわかりませんが。一つ目は、すべて神から生まれた者は罪を犯しません。神からお生まれになった方が、その人を守ってくださり、悪い者は手を触れることが出来ません。この言葉を信じたいが人間は罪を犯してしまいます。人を裁き、殺めてしまいます。しかしそのような者であっても、神様は救おうと思われ、イエス様をわたしたちのもとにお送りくださったのです。2つ目は、わたしたちは神に属する者ですが、この世全体が悪い者の支配下にあるということです。ですからどんなにわたしたちが神に属する者であっても誘惑は止みませんし、わたしたちを陥れようとする働きも終わりません。ですが神様が守ってくださるという意識があれば、道を誤ったとしても再び主の道へと引き上げてくださるのです。そして最後は、神の子が来て、真実な方を知る力を与えてくださいました。わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神、永遠の命です。わたしたちはこの3つの事からこの世での生活が守られ、わたしたちの心の中には神様が住んでおられ、わたしたち自身も主の内にいることを心にとどめていけば、祈りの力を信じることが出来るのではないでしょうか?わたしたちはすでに主の内にいることを自覚してこの1週間を過ごしてまいりましょう。
お祈りいたします。
主よ、感謝します。あなたはわたしたちの内にすでに住んでくださっていることを今日の御言葉を聞いて確信することが出来ました。どうぞ私たちから神様の救いを発信することが出来ますように導いてください。そして多くの方がこの世の誘惑や悪に押しつぶされようとしています。どうぞすべての人を救ってください。そして悪い思いを断ち切ってください。この1週間も守られますようにお祈りいたします。このお祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
2022年11月6日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 フィリピの信徒への手紙 3:20~21
メッセージ「神様と同じ形に変えてくださる」
わたしたちの体は未来永劫この体で生き続けることはできません。肉体は衰え、体のあらゆるところが痛みを覚え、疲れやすくなるかもしれません。しかし人間は肉体的な面と精神的な面があります。心がいつまでも若く燃え続ける人もいます。精力的に動かれる人が実年齢よりも若く見えるということはよくあります。もちろん様々な努力をして肉体的にも若く保とうとすることもあります。しかしどんな人も必ずこの世での命を終えます。仏教では輪廻転生という教えがありますが、キリスト教はそのような考え方はしていないのです。聖書によれば、神様と同じ姿にしてくださると記されているのです。つまりわたしたちのままに違う形にするのです。では具体的にどのようになるのか、それは実際に経験したことがないので断言できませんが、今の肉体を持っていますと、わたしたちは神様の国には入ることが出来ないのです。わたしたちが神の国にはいるためには、神様と同じ姿となる必要があるのです。それはどんなに体を鍛えても精神的に高めようとしても人間には限界があり、出来ません。
しかし神様は約束してくださっています。この世での命を全うする時、その肉の命は尽きますが、魂の命は永遠へと続いて行くこととなるのです。つまり先に召された兄弟姉妹も今もなお生きているのです。わたしたちは見ることも触ることできませんが、神様を信じたのであれば、永遠の命を得たことになるのです。ですからキリスト教にとって死とは神様の所で生きる喜びの始まりの時なのです。
死という概念は、残された遺族にとっては悲しいことかもしれません。もちろん悲しいだけではない様々な感情が飛び交うかもしれません。そのような中にあって日本基督教団では、11月の第1主日の礼拝では、召天者記念礼拝をささげている教会が多いのです。わたしたちも実際にそのような思いを持って、本日の礼拝をささげていきたいと思います。
わたしは4代目のクリスチャンとして、また牧師としてこの場に立たされております。もしも先祖がキリスト教に出会わなければ、キリスト教になっていなかったかもしれません。曽祖父である海老名弾正は武士の子どもとして生まれました。しかし時代の流れでその志が折れかかった時に熊本洋学校でキリスト教に出会い、従っていこうと決意をするのです。そして牧者として歩んでいきました。その血が脈々と流れています。しかしわたし自身は、中学生、高校生時代、あまり教会に積極的に関心が持てず、どちらかというと友達と遊ぶことに力を注いでいました。特に高校生の時は、親元を離れ北海道の高校に進学しておりましたので、長い休みに帰って来ては、夜中に帰って、明け方眠るような生活をしておりました。そのため、日曜日の朝は起きることが出来ず、礼拝時間に間に合わず、礼拝が終わってから、母が2階に上がって来て怒らたような思い出があります。そのような時代を過ごしておりました。しかしつくづく思い起こせば、そういった背景もわたしが牧会者として立たされた一つの理由かもしれません。
しかし最も重要なのは、その一つ一つのことは神様の計画であることに気付かされるのです。それは先ほど申しましたように、神様の計画により先祖が出会い、わたしに至るまで神様が共におられたということであります。それは紛れもない事実です。牧師家庭に生まれたから必ず牧師になるわけではありません。現にわたしも幼稚園教諭や介護の現場に携わっておりまし。ストレートに牧師になったわけではなく、紆余曲折しながらも主の道を歩んできました。神様が一緒に歩んでくださったからこそ今があります。しかし人によっては、牧師を世襲制としてとらえる人がおります。しかし改めてわたしが断固として言えるのは、様々な要因の一つでしかないのです。どんなに素晴らしい血を引き継いでいようが、その能力を受け継いでいるわけではありません。むしろわたしはどちらかというと牧師として立つことも出来ない者であると自覚しています。にもかかわらず、神様はわたしに御言葉を語りなさいと告げています。その人のために祈りなさい。と求めてきます。そして多くの人が救われるように様々な手法を用いなさいと知恵をくださっています。そのような思いをわたし自身感じています。
わたしたちには神様の国に入るという目標があります。なぜそこを目指すのか、そこに平和があるからです。そこに愛があるからです。そして何よりも神様の招きによって同じ体になり、そばで過ごすことが出来るからです。わたしたちには、安息の地が必要です。この世のせわしさや競争、歪みなど様々な環境が、わたしたちの心や肉体に負荷を与えていることは事実です。しかし神様の招きは、わたしたちに与えられた希望です。わたしたちの本来の故郷は天にあります。神様の栄光の命を感じるための恵みを受ける権利を約束して下さったのです。恵深い神様に感謝すると共に先祖がいたからこそ神様に出逢えた喜びを感じて過ごしてまいりましょう。
お祈りいたします。
ご在天の主なる神様感謝いたします。今日改めて神様の計画を知ることが出来ました。先祖があなたに出逢い、変えられたようにわたしたちもあなたに出逢えた喜びを感謝いたします。そして神様の計画に驚きを覚え、喜び感謝しつつ歩むことが出来ますように。わたしたちはとるに足らない者です。そのような者にもかかわらずあなたが愛を注いでくださるその恵みに感謝することが出来ますように。日々の歩みの中であなたの愛を見つけることが出来ますようにわたしたちを導いてください。この1週間あなたがお守りください。
このお祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン
2022年10月30日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 マルコによる福音書 4:35~41
メッセージ「なぜ怖がるのか、なぜ信じないのか」
神さまは日々わたしたちと共に歩んでいてくださいます。それがどれほどすごいことなのか、どれほど豊かなのかを考えさせられます。しかし人間は窮地に追い込まれた時、どのような思いになってしまうでしょうか?命の危険にさらされた時、どんな行動を起こすでしょうか?本日与えられた御言葉により、その事を学んでまいりたいと思います。
本日の聖書であるマルコによる福音書4:35~41を見てみましょう。その日の夕方になってイエス様が「向こう岸に渡ろう」と言い、弟子たちもイエス様の言葉に耳を傾け、舟を何舟かに分けてこぎ出したのです。しかし現代と違い、夕方に出かけるということはこれから暗くなるということであります。ましてや灯りをともすにしてもそんなに見通しは効かなかったのかもしれません。しかし弟子たちの中には漁師をしていた者もおりますので、いわば湖に関してプロフェッショナルもいたのではないでしょうか?そのような背景があれば、夕方に湖に入るリスクも承知の上でイエス様の言葉に従ったのです。ここまでは、弟子たちのイエス様に対する従順さを知ることが出来ます。しかし、神様の業は時にプロフェッショナルの勘や経験、技術でさえ凌駕させるものなのであります。まさにそのことが急に起きたのです。激しい突風と共に舟は波の影響によって水浸しになる非常事態です。これでは命を落としかねない一大事でした。そんな状況下であってもイエス様は艫(とも)を枕にして眠っておられたのです。
ここで皆さんにお尋ねしたいと思います。この非常時に眠っておられるイエス様をどう思われるでしょうか?実際に命を落としそうになる状況下になった場合、皆さんは、どう行動するでしょうか?
多分必死になって生きようと何かしなければと行動をするのではないでしょうか?逆に非常時に眠っているイエス様に苛立ちさえ覚えないでしょうか?人間とはそういうものです。たとえ普段は「あなたのことを信じます」と信仰深い者であってもいざ自分の命が危ぶまれる事態に遭遇すると人は、自分や家族を救おうと必死にもがくのではないでしょうか?もちろん命を守るということは大事な事です。しかし自分の力では叶わない事態が起こった時、信仰者であれば取るべき行動は一つしかありません。主を信頼することです。イエス様は、なぜ艫を枕にして眠っていたのでしょうか?弟子たちが元漁師で船の操縦のプロフェッショナルだったからでしょうか?天候が悪くなることを予想できなかったからでしょうか?そうではありません。漁師ということも天候が悪くなることも承知の上で弟子たちに声をかけたのです。つまりイエス様が眠っていたのは、信頼です。もちろん日々の伝道で疲れていたという肉体的疲労もあるでしょう。イエス様は神様に全幅の信頼を寄せていたからこそ、休んでおられたと思うのです。その非常事態になった時、弟子たちの取るべき行動を教えようとされていたのではないでしょうか?そのような状況で起こされたイエス様の行動は、風を叱り、湖に向かって「黙れ、静まれ」と言われたのです。その言葉によって風は凪へ変わり、波も静まったのです。その後、イエス様はこのように声をかけられたのです。
「なぜ怖がるのか、まだ信じないのか」この言葉は、わたしたちの心に突き刺さります。わたしたちは、神様を信じます。イエス様を信じますと言いながらも信頼しきれていない自分がいるのです。どこかで自分自身の力で何とか乗り切ることが出来ると思っているのかもしれません。しかし私たちが自身の力で何とかできると思っている限りは、本当の信仰に達することは難しいのではないでしょうか?わたしたちが自分の力ではどうすることもできない状況になった時に、「もうだめだ」と諦めてしまう前に、神様に「助けてください」と言える信仰を身につけなければなりません。そのためには、日々の生活からわたしたちは神様によって生かされているという事を心に描き、自身の持っている力を過信せず、神様に委ねていく思いを強く持つ必要があるのです。しかし近くにいる弟子たちもイエス様の言われたことの後に非常に恐れてこのように語っています。「いったいこの方はどなたなのだろう。風や湖でさえ従うではないか」イエス様の業も行動も言葉も間近で感じている弟子たちはイエス様を信じますと言いながらも、改めてイエス様がなさった業に驚嘆いたします。つまり心の奥底では信じ切れていなかったのかもしれません。人間はすぐに教えられてきたことや経験して学んだことを変えることは難しいのです。また、習得したことに自信を持つことは大事ですが過信することがあります。そのことを踏まえてわたしたちはもっと神様を知る機会が必要です。もっと神様を求めることが必要です。そして、もっと信頼を深めていきましょう。そのような生き方に変えた時、わたしたちは窮地に追い込まれ、自分の力のなさを覚えても神様に委ねていくことが出来るのです。わたしたちには神様がおられるのだと思えるような生き方が出来れば、世の不安を取り除くことが出来るのではないでしょうか?
お祈りいたします。
ご在天の主なる神様、主の導きを感謝いたします。本日はマルコによる福音書の中から、湖畔でイエス様にかけられた言葉を受け取ることが出来ました。感謝いたします。わたしたちは神様を信じると言いながらも窮地に追い込まれた時に、あたふたしてしまう愚かな者です。しかしそんな私たちにも神様は救いを差し伸べて下さり、そしてわたしたちに再び信仰に立ち帰らせるように「なぜ怖がるのか、まだ信じないのか」と言葉をかけて下さいます。どうぞ私たちの全ての心をあなたに委ねていくことが出来ますように導いてください。わたしたちの心は弱いです。力に魅せられ、過信し、神様を神様と思わない傲慢な思いを断ち切らせてください。謙遜な思いをもって、日々神様に心から感謝することが出来ますようにしてください。この一週間も守られますように、このお祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
2022年10月23日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 ヤコブの手紙 1:19~21
メッセージ「御言葉を受け入れなさい。」
わたしたちは、自分自身の人生を顧みた時にどう感じるでしょうか?どのような人生を送って来たでしょうか?そしてこれからどのように生きたいでしょうか?一人一人環境も違う中で、それぞれが人として生きています。この壮大なテーマをどのように考えて生きていくか、非常に悩ましい問題です。誰もがこんな風に生きたいと理想を持つことは自由です。しかし人生において予想通りいくどころか全く予想しなかった人生を歩んでいるそのような人の方が圧倒的に多いのではないでしょうか?しかしどんな生き方にせよ、わたしたちには御言葉が与えられているのです。それはどんな年齢にも、どんな環境にも、どんな人にも今も注がれています。しかし気付く人とそうでない人では、大きな違いがあるのではないでしょうか?もしその御言葉に触れた時、人は新たな歩みを成すことが出来ると思います。
つまり御言葉は、人を変える大きな力を持っていると言えるでしょう。しかし、人間すべてが同じように受け取るわけではありません。ひとつの聖書箇所で癒されたと思う人もいれば、逆に傷ついたと感じる人もいるかもしれません。それは千差万別です。その時には、つらい、ひどいと感じていても、年齢を加えることによって「あーなるほど」と思えるかもしれません。本当に聖書は不思議な書物です。それと同時にその御言葉に触れるということは神様に出会うのです。しかしわたしたちは、姿形実績など目に見える形のものばかりを追い求めていくならば、結果を得るのは難しいかもしれません。しかし私たちが自分には難しくできませんと匙を投げるときも神様はいつまでも与え続けてくださるのです。つまり神様はわたしをとても大切にしてくださっている証拠なのです。
本日のメッセージの題に「御言葉を受け入れなさい」とつけさせていただきました。先ほど述べましたように御言葉は神様の言葉です。つまり神様そのものです。ですから御言葉を受け入れる者は、神様を受け入れるのです。神様を信じたからその御言葉を信じるのです。しかし神様が与えられた御言葉は沢山あるためにどれも大切だから全部守りたいと思っても、なかなか守れないものではないでしょうか?ですから自分では無理です。と決めてしまうと非常にもったいない気がいたします。つまり自分でもそのような思いがどこかであるかもしれません。人は、完全に行いたいと願望するも結局何もできていないのが現状です。しかし全部を求めてしまう者にとって、不完全なものほどだめだと決めつけてしまう事はありませんか?でも、そうじゃないんです。百あるうちの一つでも出来れば、良しとする考えにシフトチェンジすると、気持ちが楽にならないでしょうか。もしかしたらゼロの時もあるかもしれません。そんな時でさえ神様はわたしたちのために御言葉を送り続けてくださっているのです。だからこそ、わたしたちは御言葉を信頼し続けることが出来るのです。もしも、わたしたちが自分の力に落胆する時、励まし、力を与えてくださるのは御言葉であり、神様なのです。逆の事も考えることが出来ます。自分の力を過信してしまう時、御言葉は注意を促します。なぜならば、そのように有頂天になっているときほど、注意をしなければならないことを知っているからです。その注意喚起に気付くことが出来れば、わたしたちは大事にならずに済むかもしれません。しかし気付かなければ、更にひどいことになるかもしれないのです。そのように神様が守ってくださっているのです。
今日出てきた聖書にも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。と書かれています。わたしたちはついつい自分のペースで物事を考えてしまいます。しかし自分中心的な考え方は、神様が示す御言葉にそぐわない形なのです。つまり怒りという感情をそのまま言葉にするとどうでしょうか?あまり良い言葉は生まれてこないのではないでしょうか?だからと言って怒る感情を捨て去ることは難しいのではないでしょうか?しかし、会話も行動もそうですが、間を置くという事は非常に大事な気がいたします。せっかちな人は、相手が何を言って、何を伝えようとしているか、理解しているようでしていないことがあります。つまり自分でそうだと思い込んでしまい、間違うもとになるのです。ですけども、この人は何を言っているのだろうと聞き返すことも時には大事です。つまり言葉では伝わらないことも相手を知れば、なにをどのように伝えようとしているか、理解することが出来るのです。しかし、勘違いしてしまう時もあります。そんな時は素直にごめんなさいと言える心を持ち続けたいと思います。そのように素直になれた時、人間関係は緩和されていくのではないでしょうか?不平不満ばかり言っていても仕方ありません。その与えられた環境の中で与えられる御言葉を受け止め、受け入れられたのならば、わたしたちは幸せなのかもしれないのです。
お祈りします。
ご在天の主なる神様、感謝します。今日はヤコブの手紙からあなたの御言葉を受け取ることが出来ました。しかしその御言葉を素直に受け取ることのできない自分がいることも感じます。どうかあなたの御言葉を受け入れていくことが出来ますように導いてください。わたしたちは何も守れないし、何も出来ない者であります。しかしあなたはわたしたちをあきらめずにいて下さいます。どうぞ私たちがその愛に気づくことが出来ますように導いてください。そしてすべての事をあなたに委ねていくとともにあなたが与えられた御言葉を受け止めて1週間過ごしていきたいと思います。その思いを実現できるようにさせてください。
このお祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
2022年10月16日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 ヨハネによる福音書5:41~47
メッセージ「神からの誉れを求めよう」
わたしたちは、生きている限り人と接しなければなりません。人と接する時、良く思われたいという心情は誰でも持っています。誰もがほめられたいですし、けなされたくないと思っていることも事実です。しかしすべての人から賞賛をもらえないのも事実です。どんなに頑張っても評価を得られないとどうでしょうか?その行っている良いことをやめてしまうかもしれません。また、どんなに良いことをしていても、規定内で行う事であれば、認められるでしょう。規定外になるとやりすぎと非難されることもあります。ではどうしたらよいのでしょうか?わたしたちは、あまりにも人の目を気にしすぎて本来の目的を見失ってしまうのです。しかし本日の聖書はそのような思いを新たにしてくださるのです。
本日は、ヨハネによる福音書から学んでまいりたいと思います。5章はエルサレムの羊門にあるベトサダと呼ばれる池が舞台です。イエス様は祭りのためにエルサレムに来られ、そのベトサダ周辺を歩いていると38年もの間病に苦しむ人がいました。その人にイエス様自身が声をかけられ「良くなりたいか」との声に「主よ、水が動く時、わたしを池に入れてくれる者はいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです」現状を話した後にイエス様の「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」とのかけられた声でその人は良くなって床を担ぎ出して歩き始めました。その後、ユダヤ人たちに声をかけられ、「安息日なので床を担いで歩いてはならない」その一言に「わたしを癒してくださった方が『床を担いで歩きなさい』と言われた」そこで問題視されるのが規定です。つまり安息日は、仕事をしてはいけないというルールがありました。しかしそこに落とし穴があるのです。安息日は仕事をやめ、神様との時間を大切にしましょう。という根本的な部分を見失い、仕事をしてはいけないということに重点を置いてしまった結果このような解釈になってしまったのです。つまり人間は自分の都合のいい様に物事を捉え、相手を裁いてしまうのです。
一方で病を治された人もイエス様に再び出会って自分を癒したのはイエスであった事実を知り、ユダヤ人に伝えました。その結果、ユダヤ人たちはイエス様を迫害し始めたのです。更にイエス様はこうもお答えになったのです「わたしの父は今もなお働いておられる。だから私も働くのだ」自分は神様と同様であるといったように聞こえ殺そうと考えるようになるのです。その思いは、自分の学んできたことが正しいとする自己顕示欲が強くなり、間違った方向に向かっているのに気づかないのです。また、もう一つユダヤ人たちが、思い違いをしていることは、イエス様が自分の力で行ったと解釈しているところです。イエス様自身は、自分は何もできないと告白していますし、自分の意思ではなくお遣わしになった方の御心を行おうとする思いがあったのです。つまりイエス様は人間の誉れを求めず、神様の思いを行おうとしておられたのです。そこにわたしたち人間との大きな差があります。わたしたちはいつの間にか人の誉れを求めてきたのではないでしょうか?権力ある人に認めてもらいたい、自分を見てほしい等を中心に生きてきたのではないでしょうか?今の時代、自分を見てほしい、自分の考え方を褒めて欲しいといった感情が満ち溢れています。そのために自分と意見の違う人を排除し、根絶させようと企てるのです。これは、神様の望むところではないのかもしれません。神様が望むのは、愛のみです。つまり自分や自分に賛同してくれる者のみを愛するのではなく、さらにその先の一歩を求められているのです。
つまり自分に敵対する者をも愛しなさいと言われているのです。つまり神様の誉とは、いかに愛に生きるかという事です。どんなに勉強をしようが、どんなにそらんじて言えるぐらい暗記しようが間違った答えを見いだすのであれば間違った答えのままです。わたしたちは、何が正解を見つけ出すことが出来るのです。それは正しい答えが書かれてあるものを探し出すことです。この世の中には様々な情報が錯綜し、何が正しい答えなのか迷います。しかし正解に導くことが出来るのは数少ないかもしれません。更にそれぞれの人生の正解を見いだすのは至難の業です。それぞれに生活する場所も違えば、時代背景も違うのです。こうだったと経験や知識を用いて語ることが出来ても、本人が納得する答えを導き出せるわけでもなく、失敗すれば、非難されてしまうかもしれないのです。「あなたが言ったから」「こんなことを助言されて行った結果こんなことになってしまった」など相手に非があり、自分は悪くないと自分を肯定し、相手を拒否するのです。ここから愛が生まれるのでしょうか。もちろん生まれるかもしれません。しかし生まれないかもしれません。ですが人生には愛が必要です。その愛について書かれてあるのが聖書であります。つまり愛の教えをたくさん書かれている愛の取扱説明書は、聖書なのです。その聖書こそが神様の誉なのです。わたしたちは神様の誉であるイエス様に従うと共に神様が与えられた律法を今一度本来の意味に捉えなおすというアップデートしていかなければならないのです。そうしなければその律法の真の意味を知る者に裁かれてしまうのです。
お祈りいたします。ご在天の主なる神様感謝いたします。本日はヨハネによる福音書から神様の誉を求めていこうと教わりました。人の誉を求めるのではなく、神様の誉を求めていく人生を選択したいと思います。しかし現実的にはその誉を求めるために聖書に聞く必要があります。どうぞ私たちに聖書に向き合う時間と学びたいという気持ちが沸き起こることが出来ますように導いてください。また、世の動きに惑わされることなく、ただ愛の神様を見ていくことが出来ますようにぶれない心が与えて下さい。わたしたちが神様の誉を求める時、この世の波に飲み込まれないようにあなたが支えて下さいますように私たちの生活をお守りください。このお祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
2022年10月8日 益子教会礼拝説教要旨
聖書: Ⅰテサロニケの信徒への手紙 2:1~12
「あなたがたを招いておられます」
わたしたちは時折自分自身の存在意義を考えます。何のためにこの世に生まれてきたのか、何のために働いているのか、何を目指して生きようとしているのか?そのような問いにぶつかる時、人は立ち止まり、考えます。しかしその答えは見つからない事の方が多いのかもしれません。しかし解決せずとも人は、飲み食いし、お風呂に入り、眠るのです。その日常を繰り返しています。つまり時間は流れるのです。そのような流れがある中で、なぜ教会が建てられたのでしょうか?なぜ私たちは聖書を開くのでしょうか?そこに生きるヒントが隠されているからではないでしょうか?
生きる者には24時間365日平等に与えられています。しかし日時を概念化し生活に取り入れているのは人間だけかもしれません。動物や植物はその与えられた季節を有効に懸命に生きています。わたしたちも与えられた御言葉を懸命に求め、有効活用する時、神様がわたしたちを招いてくださることに気が付くのでしょう。
2022年10月2日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 ルカによる福音書 12:13~21
メッセージ「自分の貪欲さに注意しなさい。」
わたしたちは人をどのように見て、どのように評価しているでしょうか?本日の聖書では、ある人がイエス様にこんなことを頼みました。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」この言葉にイエス様が「だれがわたしをあなたがたの裁判官や調停人に任命したのか」それは当然です。能力的には裁くことや調整することが出来ても、イエス様はそのような役割ではなく、神様の救いと御言葉を伝えるのがメインでその他の業も大事でありますが、その事が目的ではありません。しかし、イエス様の言葉や行動を見て、遺産を分けられる力があると思ったのかもしれません。ここで更にイエス様はこんなことを言いました。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」この御言葉は、わたしたちにも言われているのではないかとハッと致します。それだけ私たちは欲をかきすぎているのではないでしょうか?
本来私たちは何事にも感謝しなさいと聖書で教えられています。しかしどうでしょうか?神様が与えてくださったものに不平不満を漏らしてはいないでしょうか?神様がくださったものにもっと欲しいと要求をしてはいないでしょうか?わたしたちには様々なものが神様から与えられています。しかし貪欲さは時に変な感情を抱かせるのです。つまりもっと欲しい、相手が持っているものを羨ましいといった妬みにつながるのです。それだけではなく、その事を手に入れるために犠牲を払わなくてはならないかもしれないのです。そのようなことは自分だけではなく、家族や友人に影響を及ぼすかもしれないのです。そこで、イエス様はたとえ話をもってわたしたちに神様の種をまいてくださるのでした。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らし、結果こう判断するのです。『倉を壊しもっと大きなものを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、自分にこういってやるのだ「これから何年も生きていくだけの蓄えができたぞ。一休みをして食べたり飲んだりして楽しめ」こう語るのです。しかし神は「愚かな者よ、お前の命は今夜取り上げられる。お前の用意した物は、いったいだれのものになるのか」その言葉を皆さんはどう思うでしょうか?どんなにこの世で富を積もうとも天の国ではその財産は意味を持たないのです。むしろその神様が与えられた恵みをどのように使うかをわたしたちは問われているのではないでしょうか?常に神様に感謝し、その与えられたものを分け与えることが出来たのなら、その財産は膨らみ、もっと大きなものを神様から与えられるのではないでしょうか?まさに天に富を積むこととなるのです。わたしたちは自分だけよければよいのでしょうか?その考え方も変えていかなければなりません。なぜならば、人は苦しい時に助けられた思いは忘れることがないからです。その苦しみに寄り添ってくれた人が苦しい時に何とか助けたいという気持ちになるのではないでしょうか?つまり自分のために富を積んでも、神様の前では豊かになることはできないのです。わたしたちがすべきことはただ一つ神様からもらったものは神様に返すしかないのです。ですが神様がくださるのはわたしたちが返すことの出来ない大きな愛です。神様も同様のものを望んでいるわけでもないのです。神様はわたしたちがどれだけちっぽけな存在か理解されています。にもかかわらず私たちに愛を示し、わたしたちを救おうとしてくださっているのです。わたしたちはその愛にどれだけ応えることが出来るでしょうか?どれだけその愛を隣の人に分け与えることが出来るでしょうか?旧約聖書のヨセフ物語では、7年の豊作のあと7年の飢饉に見舞われた際、ヨセフの政策によって多くの人を助け、多くの人の信頼を得るようになりました。そしてエジプトの王から多くの財産を管理するものになったのです。そのようになったのもヨセフが主を信頼していたからこそなのです。わたしたちがヨセフになれるわけではありませんが、神様に富を積むことはできるのではないでしょうか?
お祈りいたします。御在天の主なる神様感謝します。あなたはわたしたちの心を知り尽くす方であることをあらためて思わされました。わたしたちは強欲で貪欲なものでございます。自分だけという考え方を持っている愚かな者であることを懺悔します。そのようなわたしたちにあなたは、主の道を教えてくださったのです。主が示してくださったようにあなたがくださった恵みを多くの人と分かち合うことが出来ますように、またわたしたちは世に富を積むのではなく、天に宝を積みあげることが出来ますように導いてください。明日から始まる新しい日を主の愛の道を歩んでいきたいと思います。どうぞ支えてください。このお祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
2022年9月25日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 Ⅰコリントの信徒への手紙 1:4~9
メッセージ「主は最後まで支えてくださる」
わたしたちはこの世で生きる時、様々なものと向き合わなければなりません。それは、個人的な場合もあるし、集団の場合でも起こりうるのです。そして何かが生じた場合そのことに対応できるようにしていかなければなりません。その際大事な事はある程度の対応力を準備していかなければなりません。その対応力の最たるものは保険や保証と言ったものではないでしょうか?つまりお金があれば、良い保険に加入し、有事の際お金である程度カバーはできるかもしれません。しかしその保険を払うお金がなければ、保証はされないのです。また、お金を払っていても、保険を提供しているところが破産してしまえば、その保険は、無駄になってしまうかもしれません。つまり保障と言っても完全なものはないのです。これはどんなに大きな社会や会社であろうともなくならないという保証はどこにもできないからです。つまり人間には完全に保証できる術がないのが事実かもしれないのです。一方でわたしたちは被害者にも加害者にもなりうることを自覚しなければならないのです。加害者の場合は、本意に限らず、起きてしまったことに対して、謝り誠意をもって相手に寄り添うことが求められています。一方で被害者は、起こった事実を受け、どのような対応をするのでしょうか?感情的なのか事務的なのか?その対応を問われているのではないでしょうか?当然その対応も自分が納得するものと納得しないものもあるのも事実です。双方が納得する、受け入れる形が望ましいですが、そうならない状況もありえるのです。それは親子関係であっても、兄弟であっても、友達であっても、全く知らない人であってもいざこざは付きまとうのです。
そんな時、わたしたちは本日の御言葉に触れた時、怖れや不安を緩和し、歩むことが出来るのではないでしょうか?Ⅰコリントの信徒への手紙5節にこのように書かれています。あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています。それは決して物事を有利に運ぶための言葉や知識ではなく、共に歩むための豊かさであります。その観点を勘違いしてしまうと、とんでもない方向になりかねないのです。何のために神様がわたしたちのために準備してくださったかをわたしたちはしっかりと考えていく必要があるのではないでしょうか?そのあらゆる点で豊かになったわたしたちには更に賜物を神様が与えてくださるのです。それはどんな賜物でしょうか?それは神様の愛を行うための賜物です。愛の実践を行うための賜物は一人一人違う賜物を与えられているのです。同じような賜物であっても個性を活かす賜物です。しかし必ずしも、誰もが理解出来るものと出来ないものがあるかもしれません。なぜ私にこんなものを賜物として与えられたのか、もっと良いもの使えるものをくださいとねだる日が来るかもしれません。しかしその神様から与えられたものは必ず「与えて下さって感謝します」と言える日が来ると思います。なぜならばそのものをわたしたちに託して下さったのですから、神様が私たちを信頼して下さった証です。
最後にわたしたちはどんな保険よりも、保証よりも確かな支えを与えられていることを確信してほしいと思います。それはどんなことがっても神様の業の中に適うものはないのです。どんな巨大な力であろうとも、どんなに私たちの心を打ち砕く噂や嫌がらせであろうとも恐れず歩んでほしいのです。わたしたち正面には、背中には、右や左、上や下にも神様の愛が注がれているのです。
お祈りいたします。
ご在天の主なる神様、感謝します。わたしたちはこの世で生きているとどんどん苦しくなります。もう駄目だと思うとき、神様が手を伸ばして助けて下さることを改めて気が付くことが出来ました。どうぞ私たちのこの世の生活を守り下さい。わたしたちを陥れようとする力が迫ってきます。どうぞ私たち自身が心をしっかり保ち、神様がいるという安心感をもって生活する事が出来ますように日々の生活をお守りください。本日の御言葉を感謝します。このお祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
2022年9月18日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 ローマの信徒への手紙 8:12~17
メッセージ 「神様によって導かれる者は」
わたしたちの歩むべき道はどのようなものでしょうか?それは霊に生きるのか、肉に生きるのかです。つまり、神様と共に歩むか、神様に敵対するかということであります。皆さんはどちらを選ぶでしょうか?選ぶべきでしょうか?人間は色々な考えを持ちますが、その時、その場所、その環境で選択していないでしょうか?状況判断は時として見誤る時があります。そう考えるならば、本当にその行動が正しかったのだろうか?と不安に陥るかもしれません。しかし、わたしたちは神様の子どもであるならば、霊に聞くことが大事であります。しかし緊急に決断しなければならない時、わたしたちは咄嗟に「神様、助けてください」その言葉が口から、心から、溢れ出るのではないでしょうか?それこそが神様を信じ、委ねている証拠です。その人の奥底に眠る思いは緊急の時に現れるのです。だからこそ、わたしたちは、不安を拭い去る意味でも神様の霊的な働きが必要とされるのです。 ですから、わたしたちは必然的に霊に生きようとするのかもしれません。
一方で肉の働きは、自分の欲を満たす働きがあります。その欲を満たすために時には相手を批判します。相手を侮辱します、そして相手を傷つけてしまうのです。そのように自分だけという思いが先行し、周囲の人たちを傷つけてしまうことに気付かなくなってしまうのです。つまり現代社会の諸問題も肉に生きた結果かもしれません。ではどうすれば、そのように自己中心性を打破することが出来るでしょうか?それは自分自身を良く知ることです。わたしたちは神様によって造られました。神様は創られた全てのものを「極めて良かった」とされ、祝福してくださったのです。ですからすべての息するものに命という素晴らしいものを与えてくださったのです。つまり神様の思いは、みな平等に素晴らしい命を与えられた存在なのです。しかし、人間は神様のその思いを踏みにじり、優劣を造り上げてしまったのです。そのため、批判し、差別し、戦争が始まってしまうのです。そのようにならないためにパウロはこう告げるのです。わたしたちには一つの義務があります。それは肉に従って生きる義務ではなく、霊によって体の仕業を絶つことです。つまり心と体の欲求を断ち切る覚悟が必要なのです。そのような覚悟で生きる決意をすべきであります。しかし今すぐに出来ないのが人間です。これをしてからとか、様々な理由で断ってしまうのです。しかし、今が神様に委ねる時なのかもしれません。その神様のタイミングを逃すとチャンスはなかなか巡って来ないかもしれません。もしかしたら「この一回だけですよ」と、事前に分かっていたなら、行動するかもしれません。しかし、それはまだ自分を捨てきれていない証拠です。つまり自分主義に気持ちがある場合、どんなに言っても響いてこないのです。しかし、神様は熱情の神様でありますから、一回や二回で諦めることを致しません。何度でも何度でもわたしたちに語り掛け、わたしたちに霊に生きるように促すのです。すべての人がそのことに気付いた時、また実行しようと思った時、神様はわたしたちに近づいてくださるのです。つまり私たち自身が心を開くのを待っておられるのです。最後にこのようなことが書かれています。ローマの8章の15~17節です。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子どもであることを、わたしたちの霊と一緒になって証してくださいます。もし子どもであれば、相続人であります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光を受けるからです。わたしたちは神様に親しみを込めて父よと叫ぶことが出来るのです。信頼し、何でも相談することが出来るのです。この与えられた特権は神様を信じる者にしか与えられません。また、イエス様の苦しみを理解する人にしか与えられないのです。つまり私たちが神様に従い、イエス様と共に歩もうとするならば、神様はわたしたちを導いてくださるのです。
お祈りいたします。御在天の主なる神様、感謝いたします。今日は、ローマの信徒への手紙から、霊に生きるようにと導かれました。わたしたちは神様を信じるといいながらも、どこかで自分の肉による欲求を求めていたことを改めて気づくことが出来ました。感謝いたします。どうぞこれからは神様の霊に導かれ、あなたと親しくしていきたいと思います。どうぞ肉の思いを断ち切ることの出来る強い心が与えられますようにわたしたちを導いてください。また、世界中の人々が神様の愛と恵みに触れ、心が変えられていくことが出来ますように、特にそれぞれの国のリーダーのために続けて祈ります。今戦争という波に飲み込まれている人々をその波から解放してあげてください。このお祈りを主イエス・キリストの御名によっておささげ致します。 アーメン
2022年9月10日 益子教会礼拝説教要旨
聖書: ローマの信徒への手紙 12:9~18
「悪を返さず、善を行うように」
目には目を、歯に歯をという言葉がありますが、わたしたちは、そうであってはなりません。わたしたちは悪をうけたからと言って同じようなことをしてはならないことを本日の聖書で書かれています。なぜならば、報復はわたしたちが行うべきではありません。報復は神様がする事と書かれています。わたしたちは誰かを呪うのではなく、祝福を祈り、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。互いに思いを一つにし、高ぶらず、交わりなさい。そして自分を賢い者とうぬぼれてはならないとこう書かれています。わたしたちは、クリスチャンとしてこの世でこうあるべき姿を求めていく必要があります。しかし理想であることも事実であります。どれだけの人がこのように出来ないと諦めてしまうかもしれません。しかし、なぜ聖書に書かれているのでしょう。それはわたしたちに神様の道を進むように神様御自身がお示しになられたのではないでしょうか?つまり私たちなら出来ると信じて託されているのです。その信頼に応えられるように励みたいものです。
2022年9月4日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 Ⅰヨハネの手紙 5:13~15
メッセージ「御心に適う事を願うなら」
わたしたちは幾度となく祈ってきました。それは仕事の事であったり、恋愛の事であったり、はたまた人生の事であったり、それは多岐にわたる祈りであります。また祈りは、個人で祈るのか、公の場で祈るのかによっても行いますし、長く祈る場合もあれば、短い祈りの時もあります。どのお祈りにも共通して言えることは、誰に祈っているのかという事が重要になるわけです。つまりどんな人間が祈ろうとも、その願いを聞き、どんな形にせよその願いに答えられるものでなければなりません。その願いと全く違う結果であっても、誰もが納得できる形を示さなければ、なりません。つまり人間は千差万別で誰もが納得する答えを導き出すことなどできません。人間には無理だという事です。となれば、神様しかいないわけでありますが、どの神様に祈ったらよいのでしょうか?日本には八百万の神がいるといわれております。世界を合わせると数えきれないほどの神様が崇拝されております。しかし、
どの神様も先ほど申し上げた様にどの願いに対しても答えを明確にできる神様でなければなりません。つまりとても人間が作り上げた神様に出来るはずがないのです。しかし人間は、不安になると愚かにも神様を作ってしまうのです。その結果、真の神様の怒りを買ってしまうのです。そのような歴史を何度も人間は繰り返してきました。だからこそ本当の神様に祈っていく必要があるのです。
では、祈る課題についてはどうでしょうか?私たち人間は先ほど言いましたように様々な悩みを抱えております。それこそ具体的に言えば、わたしたちは、生活する上でお金が必要です。何か契約する時も何か買うときにも、どこかに行く時にも、病気を治す時にもお金が必要です。お金が余ってしょうがない人はそんな悩みはないかもしれませんが、様々なものが値上がりをし、生活をひっ迫しているのも事実です。お金を与えて下さい。と祈ることもあるかもしれません。また人間関係に悩む人は、自分に被害を及ぼす相手を恨み呪う事もあるかもしれません。そういった祈りも聞かれるでしょうか?答えはイエスです。神様はあらゆる祈りを御心に適う形に変えて下さるのです。つまり、イエス・キリストの御名によって祈るのであれば、イエス様がその願いを媒介して神様の御心に適う祈りへと変えて下さるのです。しかし作り物の神様に頼んでも効果はありません。それはその神様に力がないからです。
また、益子教会では主の祈りを礼拝の中でお祈りしています。皆さんは主の祈りをどのように思っているでしょうか?多分ほとんどの方がそらんじて言えると思いますが、どうでしょうか?毎回主の祈りを味わって祈っているでしょうか?もしもそんなことを考えたこともないという方は、主の祈りを誰がわたしたちに教えてくださったのでしょうか?イエス様です。イエス様は弟子たちが「わたしたちに祈りを教えてください」と切にお願いして、与えてくださったものですから、今一度じっくりかみしめて祈ってみてください。決してそらんじているからと言って駆け足で祈るものではないのです。駆け足の主に祈りは心がこもっていないのです。
そして最後に祈りは続けて祈ることが重要です。一回の祈りで終わりでなく、日々祈り続け、神様との距離を自ら縮めてみませんか?
その思いが祈る力を強めていくのです。すべての祈りが御心に適う時、すべての業が、神様によって成されていくのです。
お祈りいたします。御在天の主なる神様、あなたは何でもお出来になるお方です。わたしたちはそのことを理解してあなたに祈りをささげます。わたしたちの欲深い祈りを神様の御心に適った祈りに変えさせてください。また、わたしたちは正しい主の御名によって祈りたいと願っております。どうぞの人間の造った神ではなく、真の神を祈っていくことが出来ますように。また一回の祈りではなく、継続して神様との距離を縮めていくことが出来ますように。そしてすべてのことを感謝し、この一週間を過ごせますようにお祈りいたします。
このお祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
2022年8月28日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 コロサイの信徒への手紙 4:2~6
メッセージ「御言葉のために門を開かれる」
わたしたちが今こうしていることが出来るは神様のお陰です。そして多くの方の祈りによって支えられてきました。これからも皆様の祈りが必要です。本日の与えられた聖書を今一度振り返ってみたいと思います。本日の聖書の中には祈りという言葉が何回も出てきています。わたしたちにとって、祈りは神様からいただいた大切なものであります。その祈りによって何ができるでしょうか?祈りは神様と繋がることが出来ます。神様との信頼関係を築くことが出来ます、このように神様に意識を向けるということは大事なことです。パウロもコロサイの人だけでなく、多くの人のことを覚えて祈ったことでしょう。新約聖書の半分はパウロを含め弟子たちの活動が書き記されております。その中でパウロは、多くの場所を訪ね、手紙を送り続けたのです。コロサイの人たちにも祈りを続けていたのです。コロサイの人のために祈っていたのは、コロサイの人たちが、祈りの力がどれだけ素晴らしいかを感じてほしいのと同時にコロサイの人たちの祈りによってパウロ自身も助けられ、勇気づけられたという事を理解してほしかったのです。もう一つの祈りの意味は、御言葉のために、開かれる天の門を開け、神様の秘められた計画をパウロが語ることが出来るようにと願うのです。では神様の秘められた計画とは何か、コロサイの信徒への手紙1章の9節以降を読んでみましょう。こういうわけで、そのことを聞いたときから、わたしたちは、絶えずあなたがたのために祈り、願っています。どうか、霊によるあらゆる知恵と理解によって、神の御心を十分悟り、すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩み、あらゆる良い業を行って実を結び、神をますます深く知るように。そして神の栄光の力に従い、あらゆる力によって強められ、どんなことにも根気強く耐え忍ぶように。喜びをもって光の中にある聖なる者たちの相続分に、あなたがたがあずかれるようにしてくださった御父に感謝するように。
これが神様の秘められた計画であり、パウロが祈りの課題としているのです。更に、その祈りをするにあたって、パウロは次のようなことを書き送ったのです。わたしがしかるべく語って、この計画を明らかにできるように祈ってください。時をよく用い、外部の人に対して賢くふるまいなさい。いつも塩で味付けされた快い言葉で祈りなさい。つまりパウロ自身だけではなく、コロサイの人にもそうなってほしいと願っているのです。わたしたちが相手に配慮をする心構えは大事であります。しかし、わたしたちが陥りやすいことが近くにあることも事実です。つまりわたしたちが祈る時、あまりよくない言葉を普段使っていればどうでしょうか?その祈りに反映はしないでしょうか?人間は感化されやすい存在かもしれません。どんなに正しい生き方をしていこうと考えても知らず知らずのうちに影響を受けているのです。今は、マスメディアのほかにインターネットが普及し、どれが本物であるか、何を信じたらよいかと、模索していても次から次へと新しい情報が流れ込んできます。その情報の早さこそが、わたしたちを迷わせるものに他なりません。しかしその世に流されないものを私たちが追い求めて行き着くのは聖書であることにきづくのです。つまり語ることも聞くことも聖書の言葉で人々に癒しを、慰めを、そして神様の平和を与えてくださるのです。わたしたちが良いものに繋がりたいという思いは、誰もが持っていることであります。その良いものの集大成こそが神の御言葉を集めた聖書なのです。その聖書をわたしたちが開くことの出来る幸いを噛みしめていきましょう。その幸いこそ、わたしたちが生きる上で必要なことであり、神様が与えられた最上級な恵みであることに感謝していきたいものです。
お祈りいたします。ご在天の主なる神様、感謝いたします。わたしたちに祈りという素晴らしいものを与えて下さいました。わたしたちはこの祈りを使って、神様の恵みを伝えていきたいと思っています。そのためには、わたしたち自身があなたの御言葉によって救われたことをあなたに向き合っていきたいと思います。どうぞ益子教会を覚えて祈って下さる兄弟姉妹の事を感謝するとともに祈って下さる教会の為にも祈り併せていくことが出来ますように導いてください。またこの世にはあなたの事を知らない兄弟姉妹がおります。その兄弟の為にも祈り併せることが出来ますように導いてください。これからの過ごす一週間があなたによって守られますように。このお祈りを主イエスキリストの御名によって祈ります。アーメン
2022年8月21日 益子教会 主日礼拝説教要旨
聖書 マルコによる福音書 12:28~34
「あなたは、神の国から遠くはない」
「わたしたちは生きる上で必要なことは何ですか?」と突然問いかけられたら皆さんはどのように答えるでしょうか?お金でしょうか?もちろんお金はこの世で生きていく上では必要なことです。でも一番ではないでしょう。では何が必要ですかと言われたときにしっかりと答えることの出来る準備は必要かもしれません。なぜならばその必要なことを教えられた人間はそのことに共感を覚えた時、自分もそのことを欲するようになるからです。本日の聖書は、人間にとって大事なことを再確認して教えてくれる箇所であります。
イエス様と律法を学んできた人が対話をしている場面を見た人が、イエス様の態度や言葉や行動が正しいことをしているように思えたのです。そこでイエス様に尋ねました。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」この質問の真意は、「きっとこの方なら正しい答えを知っておられる。」という期待を胸に秘めていたと思います。普通の律法学者は自分たちが学んできたことが正しく、イエスが唱えることに異を唱える人だったのではないでしょうか?そのためその心は「何か失敗をしないだろうか?」といつも猜疑心の塊のようであったように思われます。しかしその質問をした律法学者は、周囲の律法学者が言っているようなイエス様の噂をものともしませんでした。つまり、その価値基準をしっかりと自分で見て、判断した結果、質問したのです。
その質問にイエス様はこう答えたのです。「イスラレルよ、聞け、わたしたちの神である主は唯一である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい』この二つにまさる掟はほかにない。この答えに律法学者は、心の中で「うん、うん」とうなずいていたのではないでしょうか?自分の考えている答えと同じだ。間違っていなかったと思ったに違いありません。多分、律法学者の中でもその自分の思いをこうだという決めつける概念に心を痛めていたのではないでしょうか?人間の社会には常識、非常識という概念に縛られることが沢山あります。年長者の守ってきた伝統的な考え方もあります。また、その地域によってルールが違う場合もあります。その一つ一つは、人間が考え出したものです。その中では自分の意見をもみ消さなくてはならない状況もあることでしょう。しかしそのイエス様に質問をした律法学者は気付くのです。本当に一番大事なことを守らなければならなかったことに、思っていてもなかなか口に出せずにいた事も、口に出したのです。それは自分が思ってきたことが正しかったと慰められたのです。今までこうだという圧力を受けた力から解放された瞬間だったのかもしれません。
その律法学者が適切な答えを導き出したその様子を見てイエス様は、「あなたは神の国から遠くはない」と言いました。つまり適切な判断が出来る知恵と、良いものを見分ける霊の力を神様から贈られたのです。わたしたちは、自分の学んできたことや、様々な経験という自分を作り上げてきた歴史をどのように思っているでしょうか?
もちろん絶対ではありません。完全でもありません。むしろ穴が多くこぼれやすいものなのかもしれません。つまり、どんなに勉強をして知識を得ようとも、鍛錬し体を鍛え、コンテストに優勝できるような体を得たとしても、沢山働いてお金や地位を得ようとも正しい答えを知らなければ、悪い方向へと人間は向かっていくのです。逆に知識がなくとも、病気がちであっても、貧しく、社会的地位はなくとも神様の存在を知り、正しい教えを理解しているならば、わたしたちは神様の救いに与ることが出来るのです。つまりまず神様の言葉に耳を傾け、神様は唯一でそして、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして神様を愛する事を大切にする。それと同じように自分を愛するように神様が与えられた隣人を愛する事、このことを守れれば、わたしたちは神様の救いに与ることが出来るのです。
お祈りいたします。主よ感謝いたします。今日はマルコによる福音書から私たちは改めて人生の大事なものを思い起こすことが出来ました。様々なものが必要な世の中ですが、一番大切なものがなんであるか、今一度熟慮していかなければならないと思わされました。どうぞ私たちが本当に大事なことを守ろうとする心が与えられますように導いてください。そしてわたしたちだけではなく、世界が最も大事なことを思い出す機会にさせて下さい。まだまだあなたの事を知らない人が多すぎます。もっともっとあなたを知る機会が増えますように、そして多くの人があなたに出逢い変えられていくことが出来ますように。すべての業はあなたから始まりあなたに戻ります。どうぞ私たちをあなたの歩みに加えて下さり、そして共に歩んでください。
このお祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
8月14日 主日礼拝 説教要旨 大下 秀三 牧師
タイトル 善と悪の行き交う巷 聖書箇所 マルコによる福音書6:14~29
新聞やテレヴィジョンのニュースには犯罪に関する記事が実に多い。日常生活の延長から安易に犯す犯罪が多いようにおもえる。洗濯竿から女性の下着が盗まれたとの訴えがあり、容疑者なる者をとらえてみると、容疑者は,警察所に勤務する巡査であって、生活安全課に所属していた。株の保持者が自分の株の額について疑念がわき、調査を依頼することとなった。捕らえられた者は、大手証券会社の会社役員であった。
聖書の創世記には、人類最初の人たちしてアダムとエバが登場する。この二人は神さまの考えによる計画によって形づくられ、神の息を吹き入れられることによって創造されたとある。聖書の表現は神話めいているが、神さまはふたりに、とても大切なお仕事をおあたえになった。神さまの創造されたすべての物に名前をつけさせ、平和とその維持を守るようにと記述されている。アダムとエバは初めは、忠実に神さまの言葉を忠実に実行しようしているかぎり、人は神さまの仕事をして、充実感に満たされ、お互いに感謝し、そうして神さまにたいしても、神さまへの感謝の気持ちを持っていた。しかし、その謙遜な心はながつづきをしなかった。人は神さまによって創造されたという使命観をないがしろにした。狡猾な蛇の言葉に乗せられ、神から隠れるようになった。アダムとエバの最初の子ども達、カインとアベルは、神さまへの捧げものをめぐって、兄のカインは弟のアベルを殺してしまった。聖書の最初の部分を神話として片付けるのでなく、人類の生まれてきたことへの示唆があることを知らなければならない。
今日の聖書の箇所には、面白い歴史の一端を記述しています。マルコによる福音書6章14節以下、歴史的には事実であろう。ヘロデは、もてる地位と権力によって、自分の兄弟フィリポの妻 ヘロディアと結婚生活をしていた。ヘロディアを妻として迎えるにあたり、非人道的な行動をとった。律義な洗礼者ヨハネはヘロデを公やけに非難した。そのため、ヘロデはヨハネを捕らえ、牢にとじこめた。王の誕生日のための大宴会の部分を味わってよんでいただきたい。酒と男女の関係、男の面子、最高の地位を持つ男をベロベロにさせたプロの踊り子等、小説のネタとなる材料が一杯にあるかと思います。
2022年8月7日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 エレミヤ書 29:11~14
メッセージ 「祈り求めるなら」
8月わたしたちは、平和について考えなければなりません。1945年8月15日の終戦宣言から77年日本は戦争をしていません。その終戦宣言をする前は、日本も戦争を行っていました。その戦争によって、アメリカは、8月6日に広島に、8月9日には長崎に原子爆弾が落としました。その原子爆弾によって作り出した悲惨な状況は、体験者にとっては語ることを拒絶したくなるような状況でありました。しかしその当時を語る人が生きておられ、勇気を持って語ってくださったからこそわたしたちはその悲惨な状況を想像することができます。2度と同じような過ちを犯さないという強い意識を持つことができるわけです。しかし近年その思いと逆行する動きが目立っているような気がいたします。それは大国と呼ばれる国が核爆弾を製造し、保有しているという事であります。そのような時代わたしたちは平和について改めて考えていかなければならないのではないでしょうか?
世間一般で言えば、もっと防衛力を高めなければ、守ることは出来ないという考えもあるでしょう。しかしその武器を持てば、人間は破滅の道に進むほかありません。しかし時代を重ね、わたしたちは様々な事を学んだはずです。どうすれば武器を使わずに済むか、どうすれば協議をして解決する事が出来るかを模索していかなければなりません。もしそのことをせず、武力に頼るだけなら核保有こそ正しい選択と人間は同じ過ちを踏むこととになるのです。そのような同じ過ちを犯さない為にも私たちは聖書から沢山の事を学ばなければならないのです。今日はエレミヤ書から共に学んでまいりたいと思います。
エレミヤはアナトトの祭司ヒルキヤの息子でありました。神殿祭司として王に仕える身でありました。そのエレミヤが書いた手紙が本日の箇所であります。その手紙には平和について書かれておりました。つまり神の計画とは何かという事です。預言者は、良いことも悪いことも神様の言葉として語らなければなりません。たとえ自分の命に危険が差し迫ろうとしてもです。バビロンによって、イスラエルは様々な地に散らされ、様々な抑圧を受けておりました。その散らした理由はイスラエルの民の純潔を打破し、イスラエルそのもの存在を消し去ってしまうような行いです。しかしその状況であっても決して希望を捨てるなと励まし続け、そこに住み、果樹を植え、妻をめとり、息子、娘を増やし、人口を増やし捕囚として送った町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい。と書きました。そして70年の時が満ちたのなら、神様はわたしたちを顧み、恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻すと約束をして下さったと記しました。この地とはこの世の支配、つまり武力の支配ではなく、神様の支配する地なのです。つまり力に勝る唯一の手段は愛なのです。その愛を立証する方法は、この世を誰が創造し、誰が全ての業を統治されているかという事です。人間中心に考えれば、神様なんて存在しないと主張する人にとっては、非科学的で理解しがたいものであります。一方で神様を信じる者にとっては越えようのない恵みであります。
その神様の計画は、平和の計画であって災いの計画ではなく、将来と希望を与えるものです。そのようなことを私たちが望むとき、どうすればよいか、それは私たちが神様を呼び、神様のところに出向き、祈り求めるならば、わたしは聞くと記されています。そしてさらに尋ね求め、心を尽くして求めるならば、わたしに出会うだろう。つまり祈りをしていくことが神様に出逢う道なのです。しかし現状を考えた時、果たして神様の計画である平和が与えられるのだろうか?そのような心配をされている方も多いのではないでしょうか?わたしたちは一回だけの長い祈りではなく、継続して行う短い祈りを継続していくことが必要です。なぜならば神様は心から求めている者の声を聞いてくださるのです。わたしたちが継続的に祈るのであれば、わたしたち自身も必死になって祈っていくのではないでしょうか?その心からの祈りが大切なのです。これからもわたしたちが日々生活する中で継続的に祈り続けましょう。必ずその祈りは成長し、神様の愛の実を結ぶでしょう。その実が世界中に広がっていけば、神様の計画である平和はおとずれるはずです。
お祈りいたします。御在天の主なる神様、感謝いたします。本日はエレミヤ書から神様の計画がなんであるか教わりました。感謝いたします。わたしたちはこれからもその計画が遂行されるように継続的に祈っていきます。その思いが世界上に広がりますようにその愛が世界中の指導者に届きますように、今武力の圧力にある兄弟姉妹をお守りください。そしてすべての人が神様の平和を信じることができますように。このお祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
2022年7月31日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 Ⅰコリントの信徒への手紙 10:13
メッセージ「逃れる道をも備える神」
「神は真実な方である」この言葉に嘘偽りはありません。しかし私たちはどうでしょうか?わたしたちの生活は嘘と虚像に取り囲まれた生活をしています。そのような生活環境の中でわたしたち自身も嘘をつくことや大げさに言葉を並べることに慣れてしまいます。しかしその嘘によって自分自身苦しくなるという経験はないでしょうか?嘘は相手に対してもそうですが、自分に対して跳ね返って来るものなのです。では逆に正直に生きようとすれば、大きな苦難が襲ってくるのも事実です。しかしその苦難はわたしたちの成長を促す神様の恵みと思えれば、素晴らしいと思うのです。しかしそう思えない人はこの世にたくさんいます。もちろん神様を信じる人も例外ではありません。「なぜなんですか?」「どうして私だけ」それは本質的に人間の心の弱さを現し、わたしたちを造られた神様の計画でもあったと言えるでしょう。そんな弱いわたしたちにも愛情を注いでくださるのが神様の大きさであり、広さであり、深さなのです。本日はわたしたちに様々な事を与えてくださる神様の業を聖書によって学んでまいりたいと思います。
人間は、色々な環境で生活をしております。そのような状況下で人間は色々と生きる術を学び、生活を楽に生きよう、効率的に過ごそうと考えます。それは神様から与えれた知恵を使うという点で素晴らしいと思います。しかし大切なものまで時間的短縮をするとどういうことになるでしょうか?それは一つ目の過ちを犯すことになるのです。その過ちとは、モーセが神様とシナイ山で会う時に起こりました。モーセの帰りが遅く心配になったイスラエルの民は、簡単に祈れる神様が欲しいと願うのです。そしてエジプトから持ってきた金を集めて神様を作ってしまったのです。その行為の意味するところはとても大きな意味を持っております。つまり人間は自分の都合によって神様を偶像化してしまうのです。その結果人々は歌い、踊り、叫び、淫らな行為に走りました。そして神様の怒りに触れ、2万3千ものの命が奪われることとなったのです。そこで人間が悔改めていけばよいのですが、人間は新たな罪を犯してしまうのです。その罪とは、人間は歴史を重ね、知恵を身に着けてきました。その知恵を正しい方向に使えばよいのですが、私利私欲のため、神様が預言者に委託した言葉を都合の良い部分だけを取り入れ、悪い部分を聞き入れませんでした。そのため、神様から離れてしまう結果につながるのです。そして人間は知恵で豊かになろうとして知恵によって崩壊していくのでした。三番目に私たちに起こったことは、神様が与えて下さった律法を利用し、相手を批判して、裁くという行為に陥るのです。自分たちだけが特別で正しいと考えるものは神様の愛を実践しているようには思えないのです。その結果正義によって自分自身が裁かれるのです。そこで最後に神様は大きな恵みを与えて下さり、それがイエス様でありわたしたちの生活を変えて下さるのです。
実にイエス様はユニークで様々なチャレンジをなさる方であります。しかしそのイエス様は常識と思われることをことごとく破ります。その思いは神様を冒とくしていると思われる人もいれば、その愛によって救われた人もいるのです。本当の愛はいのちを大事にすることであります。命を大事にする考え方は人を大きく育てて下さるのです。わたしたちが神様の愛を知るために様々な試練を与えます。その試練は時と場合によって、命を奪ってしまうものかもしれません。人間は自分の正しさを押し付けますが、神様はそこから逃れる道も準備して下さる方なのです。現代において学校に行くことが正しいと決めつけていますと、そのことを強調し、無理やり登校させようとするのです。しかし学校行かなくても人生について学ぶフィールドは選択肢があるのです。そのことに気づくとき、わたしたちはその人を生かす行為にシフトチェンジすることが出来るのです。
お祈りいたします。
ご在天の主なる神様感謝します。本日はコリントの信徒への手紙から共に学ぶことが出来ました。わたしたちが常識にとらわれていると命を削っていることを気づくことが出来ました。しかしイエス様をおつかわしになった神様の意図はそのことに気づかせてくださったのです。わたしたちは感謝します。これからあなたの道をまっすぐに見つめて誠の愛を実践できるように歩んでいきたいと思います。どうぞ私たちをあなたの愛に導いてください。この一週間も守られますように、すべての事を感謝し、主のみ名によって祈ります。
アーメン
2022年7月24日 益子教会主日礼拝
聖書 ヨハネの黙示録 21:6~7
メッセージ「命の水の泉から価なしに飲ませてあげよう」
わたしたちには寿命があります。ある人には0歳の寿命があり、またある者には100歳以上の寿命が与えられています。だれもが同じように生きるわけではありません。しかし、肉体の寿命はあっても、聖書に書かれていますように神様を信じれば永遠の命を得られると言われていますように、ただ神様を信じれば永遠に生き続けることができるのです。本日の与えられたヨハネの黙示録では神様は新しい宣言をされます。「わたしは万物を新しくする」と宣言しておられます。今までの概念を超えた世界を与えてくださるのです。ではどんな世界なのでしょうか?それは、最初の天と地はなくなり、海も無くなったと記されているように新しい世界が始まるわけであります。更に涙を拭ってくださると書いてありますようにその世界には死はなく、悲しみも嘆きも労苦もないのです。一番大きな違いは、神様が一緒に住まわれるということであります。今でも、わたしたちは神様が心の中にいてくださるということを信じておりますが、しかし、触ることも出来なければ、匂いを嗅ぐことも出来ません。共に住んでくださるということは、それが叶う世界なのかもしれません。実際にわたしたちは死を体験しているわけではありません。しかし聖書で書かれていることが真実であるということを信じています。その思いがあれば、余計な説明は要らないと思います。
そして本日の聖書であるヨハネの黙示録21章6~7節にはこのように書かれています。
「わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう」これは有名な箇所でありますが、聖書はまさにこのことが書かれている書物であると断言しても誰も疑うことはできないのではないでしょうか。つまり最初に世界を造られたのも神様であり、最後の裁きをなさり、その後新たな世界をくださるのも神様です、そして私たちに生きる希望を与えてくださるのが命の水です。わたしたちの肉体だけでなく、わたしたちの心にも命の水は必要です。しかしどれぐらいの方がその命の水の価値を知っているでしょうか?その価値は自分の財産を売り払っても得られない価値あるものです。今はやりの霊感商法はお金を払えば、祝福を受けることが出来ると信じられています。ですからそのカルト宗教と大きな違いは、神様は価なしにわたしたちに命の水を欲しいままに与えてくださることにあります。つまり世の価値基準を全く必要としないのが新しい神様が与えてくださる国の大きな特徴です。もしも私たちが次のような思いを抱くのであれば、わたしたちも同じように恵みから外れてしまうのです。臆病な者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、みだらな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝む者、すべてうそを言う者には、神様は報いを与えます。どんな報いかと申します火と硫黄の燃える池です。これは火山口のように今にも噴火しそうなものかもしれません。このことを罰と考えるのか、神様の恵みなのかと考えますと、これは新たな命を得るために世の体を焼き払う神様の手法なのです。神様の目標は、全ての民を救うためにと聖書に明確化されております。つまり人間は神様に対して臆病になってしまうことがあります。なぜならば、その神様の存在自体が完全に解析されていないため、臆病な思いに駆られるのです。しかし、神様もそのことをよくご存じであるからこそ、その者たちに燃える池の報いを与えるのです。また、不信仰な者は、神様そのものを信じることのできない人です。つまり目に見える形あるものしか信じることが出来ない人たちです。神様はあらゆる可能性を持っておられる方であり、成し遂げて下さる方であります。わたしたちにからしだね程の信じる心で構わないと言っているのです。小さな一粒さえあれば神様は信じる心を大きくしてくださるのです。忌まわしい心、人を殺そうとする心、みだらな行いをする者、つまり神様に対してどのような心を持つことが問われているのです。神様の思いに従う行為と明らかに違う行為は、人間の欲望に他ならないのです。その欲望は神様から離れる大きな一因です。その一因をなかなか取り去ることが出来ないのが人間です。そのことも神様は忍耐強く待っていて下さるのです。最後に魔術を使う者、偶像を拝む者、すべて嘘を言う者、これは他者に対しての行為であり、自分を愛するように隣人を愛せよと記されている聖書の大事な神様との約束に反する行為であり、愛する行為を否定した形になるのです。つまり神様とつながることにこそ、わたしたちは新しい万物が神様から与えられると確信することが出来るのです。主を信じましょう。そのことを神様は私たちに求められているのです。
お祈りいたします。
ご在天の主なる神様、本日はヨハネの黙示録より学ぶことが出来ました。神様は新しい万物を与えると宣言され、自分自身をはじめであり、終わりであると正体を明かしてくださいました。わたしたちが新しい万物に入るために何が必要かを教えてくださり感謝いたします。これからは、あなたをもっと深く、広く、大きく感じて信じてまいりたいと思います。どうぞ私たちに命の水を飲ませて下さい。その命の水を値なしに与えて下さる神様に感謝いたします。その恵みに感謝することが出来ますように私たちを導いてください。このお祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン
2022年7月17日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 エフェソの信徒への手紙 4:25~32
メッセージ「恵みが与えられるように」
わたしたちは神様によって様々な方と出逢い、自分というものを一つ一つ作り上げていきます。そのような中でわたしたちを形作るものは何でしょうか?それは食べものであったり、水であったりするわけでありますが、それだけではありません。もっと大事なものがあります。それは、わたしたちの内なるものを造り上げるものであります。そしてそのもの自体は目に見えるものではありませんし、においをかげるものでもありません。ましてや掴むことも触ることもできません。その正体は声です。わたしたちを成長させるのは、声であります。しかし私たちの周りには様々な声が溢れかえっているのです。その沢山ある中でわたしたちを正しく導いてくださるのが神様の声です。実際には神様の声を聞くことができれば問題ないのかもしれません。しかし実際には神様の声を直に聞くことが出来るのは一握りです。しかし私たちは幸いなことに聖書を見ることが出来ます。その聖書を通して神様の言葉に触れることが出来るのです。これは何にも変えられない貴重な主の恵みです。それでは本日の聖書に触れていきたいと思います。本日は、エフェソの信徒への手紙から私たちは学んでいきましょう。新共同訳聖書には、一つ一つのパラグラフには題名がつけられております。本日の与えられた聖書の題は、新しい生き方と書かれ、その前のところは古い生き方を捨てると書かれています。では古い生き方とはどんな生き方であったでしょう。聖書では異邦人と書かれている言葉をよく見ます。これは本当の神様の事を知らない人の事を指しますが、その異邦人と呼ばれている人たちは全ての人が悪いわけではなく、一生懸命真面目に生きている人たちもいるわけであります。しかし残念なことは、神様という存在を知らないために目に見えるものばかりを信頼していたという事であります。つまり当時一生懸命働いても、ローマからの圧政によって生活は苦しめられておりました。そのため、その現実から逃れるためにあまり感心されない生活を送っていたようであります。しかしあまり感心されない生活を送っている割には、新しい考え方を持つことが拒否し、古い約束を大切にしておりました。しかしパウロは新たな命を生きるように勧めるのです。では、新しい生き方とは、どんな生きかたでしょうか?それは嘘偽りで固めた虚像の世界から現実の生活と向き合って生きるということです。つまり悲しいことも、嬉しいことも共に歩む生きかたなのです。更にパウロは語ります。怒ることがあっても罪を犯してはならないと告げます。すなわち日が暮れるまで怒るのであれば、ねたみ、恨みの念に代わり、殺意を抱く可能性もありえるからです。そして悪い言葉を一切口にしないようにと促し、ただ聞く人に恵みが与えられるよう、その人を造り上げる役立つ言葉を必要に応じて語りなさい。とも言われたのです。その人を造り上げる役立つ言葉とは神様の言葉です。神様の言葉は、わたしたちに愛を思い出させ、どんな苦しみをも乗り越える力を与えてくださるのです。神様はパウロを通して私たちの心を見抜き表面だけの信仰ではなく、心の内に至るまでの信仰を持つことを望まれたのです。それが神様を悲しませない生きかたであり、聖霊に導かれたわたしたちの歩みなのです。わたしたちの心にある無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなど一切の悪を捨てる時が来たのです。わたしたちの最大の難関は赦す心です。小さなことは許せても、大きなことはなかなか許すことができないのです。その事をできるようにわたしたちの心を変えてくださるのは神様だけしかできないのです。わたしたちが神様に委ねる心に動かされたとき、わたしたちは神様の子として歩むことができるのです。主に従う人生がどれだけ恵まれているかをわたしたちは新たな命を選択することによって受け取るのです。
お祈りいたします。
御在天の主なる神様、わたしたちはあなたに新しい命を示されました。わたしたちが今までのものを脱ぎ捨てることができますように導いてください。また、すべての悪意を捨て去り、あなたに従う心を与えてください。そして私たちが無理だと感じることもあなたに委ねていきますのでわたしたちを導いてください。この一週間もあなたによって守られますように。すべてのことに感謝して主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
2022年7月9日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書: フィリピの信徒への手紙 2:12~18
「行わせられる神」
わたしたちの行いは、神様によって与えられています。そのことをわたしたちはどのように考えて行動すべきでしょうか?一つのキーワードは従順です。もちろん誰に対して従順であるかということです。フィリピの人たちはパウロによってもしくはテモテによって神様と出会い、神様を信じるようになりました。その信仰を大切にするために、大事なのは、神様の救いに達するように心がけるということです。わたしたちは神様の救いにあずかるためには、何が必要なのでしょうか?それは謙遜になることです。わたしたちは自分たちにとって、不利益なことが与えられると不平不満を漏らしてしまうことがあります。しかしその心の思いには、神様が嫌う傲慢な心に駆られる時、わたしたちの心は、神様からの救いから離れてしまうのです。素直に受け取り、それに従えば、喜びの心に変えられていくのではないでしょうか?パウロは言います。喜びなさいと。神様は困難時にこそ力を貸してくださるのです。
2022年7月3日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 ガラテヤの信徒への手紙 2:15~21
メッセージ「キリストがわたしの内に」
わたしたちがこの世で生きる基準や価値は何でしょうか?たとえば、日本に住んでいれば日本国憲法が土台になっています。また、自分が所属するグループによっては、ルールがあり縛りがあるのです。つまりその縛りを守ることによって、ある程度保護されています。
聖書の中にも律法というルールがあります。律法が与えられた時には10個の約束でありました。その神様からいただいたものを細分化していくと守れる者と守れない者が出てきます。守っている者は、守っていない者を非難します。しかし律法の一つのことは守れても全部を守れないとなるとやはり非難の対象になって罪人と呼ばれるのです。このような差別が生まれる環境の中では、どんなに神様の民として歩みたいと願っていても、罪人に陥ってしまうのです。かといってそれぞれが罪人になりたくないと考えています。そのため、律法を必死で守ろうとするのです。その結果、神様が何のために律法を与えたのかを見失ってしまうのです。そこで神様はイエス様を与えました。イエス様の言葉や行動に神様の愛が垣間見えるのです。それは律法を知らなかった人にも神様の愛が注がれたのです。それによって多くの方が神様を信じるようになったのです。その信じる心こそが人間に足りなかったことなのです。しかし祭司や律法学者は自分が今まで必死になって覚え身に着けた間違った律法を盾にイエス様に殺意を抱くのです。パウロも同じでありました。自分の学んできた律法を守らない者を取り締まっていました。しかしその作業も志を持って取り組んでおりましたが、ダマスコの途上でイエス様に出会い、変えられていくのです。律法では救えない者もいる中で、愛によって救われる人を多く目撃するのです。このような経験があるからこそ、パウロは今までの道から180度変えられていくのです。
しかし人間というのはすぐに変えられていくものではありません。今まで学び、覚え、実践してきたわけでありますから、中々離れることが出来ないのです。わたしたちもそうではないでしょうか?その新しく与えられ、どんなに正しいものであっても、切り返すことの難しさを皆さんも経験しているのではないかと思います。つまりパウロが本当の神様に出会い、神様を伝えようとも、昔の流れを行ってしまう人がいるのではないでしょうか?パウロがかかわる問題の中の一つに割礼という問題があります。神様を信じますと目に見える形で包皮の一部を切り取ることを行ってきました。この包皮を切り取ることを全く知らない人は救われる可能性はないのかと言いますと、そうではなかったのです。ただただ神様を信じるということがその救いの条件であることに気付くのです。ですから忍耐強くパウロは語り続けたのです。しかしパウロ自身も昔に戻りそうになる思いと戦い続けたのではないでしょうか?ですから律法が本当の神様の律法に戻るためには今までの自分を捨て去る必要があったのです。パウロは、自分の心情をガラテヤの信徒への手紙2章19節から20節にこう書かれています。わたしは神に対して生きるために、律法に対して律法によって死んだのです。わたしはキリスト共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストが私のうちに生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身をささげられた神の子に対する信仰によるものです。つまり何が良くて何がダメなのかその判断基準は定められた律法や憲法ではないと断言しています。つまり目に見える形の儀式的な包皮を切り取る割礼でもないのです。本当に大事なのは、目に見えない信じる心こそが大切なことであると聖書は語っているのです。わたしたちも表面的なものやうわべだけの信仰ではなく、心から神様を信じていきましょう。わたしたちはそれが出来ます。なぜ断言できるか、それは私たちの内に主であるイエス様が宿っているからなのです。
お祈りします。
ご在天の主なる神様、今日こうしてあなたの御言葉を聞けたことを改めて感謝します。わたしたちはいつの間にか昔に戻ってしまい、律法や憲法で相手を判断してしまっていることを懺悔いたします。今、再び信じることの大切さを学びました。様々な問題が起きますが、あなたを信頼し、ただただ信じることが出来ますように導いてください。あなたは私たちの心の弱さもご存知です。わたしたちが昔に戻りそうな時には、一旦立ち止まり、あなたを見上げることが出来ますように立ち止まる勇気をください。この一週間もそれぞれをお守りください。このお祈りを主イエスキリストの御名によって祈ります。 アーメン
2022年6月25日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 ヨハネによる福音書 14:25~28 申命記 30:19~20
メッセージ「わたしの平和を与える」
皆さんは平和という言葉のイメージは、どう考えるでしょうか?人間の理想であれば、争いごとがない、自由な暮らしを思い浮かぶかもしれません。しかし今私たちがいる世界はどうでしょうか?連日のニュースの報道にあるようにウクライナとロシアが戦争状態にある所もあれば、内戦を繰り返している場所もあります。人間の歴史を振り返った時にいつの時代もどこかで争いごとが絶えないのです。つまりいつまでたっても人間が考える平和には至っていないのです。それどころか人間の強欲さはどんどん増しているのではないでしょうか?イエス様は、復活して弟子たちの前に現れた時に、「あなたがたに平和があるように」と言われました。挨拶的なことかもしれません。しかしイエス様の言葉は、神様の思いも含まれているのです。そのことを考えつつ、本日の御言葉に聞いていきたいと思います。
イエス様は、常に未来を見ておられ、まだ十字架刑が実際に行われていないのにもかかわらず、その事を預言します。そしてその際残された弟子たちに弁護者である聖霊を遣わすことを約束してくださいました。わたしたちは目に見えるイエス様に固執してしまいますと、神様の大きさ、深さ、広さを狭めてしまう恐れがあります。しかし神様はその人間の概念を吹き飛ばし、新たな命をわたしたちに与えてくださるのです。
そして神様は平和を残し、わたしの平和を与えるとの宣言してくださったのです。では人間の求める平和と神様の平和はどう違うのでしょうか?まず、人間の平和は物質的な平和なのかもしれません。具体的に言いますとどちらも資源が潤沢であれば、戦争が起きる確率は大きく減っていくのではないでしょうか?これは極論かもしれませんが、自分の求めることに対して、足りなければ補わなければなりません。つまり潤沢のところから略奪するといった単純な自己中心的考え方によって戦争を引き起こしていくのです。つまり今回のウクライナとロシアの戦争も様々な理由をつけますが、結局は世界的なパンデミックによって引き起こす不安が自己主張によって起こった可能性もあるのではないでしょうか。そして力ある者が武力によってのみ平和を維持できるという間違った考え方が戦争を産み出すのです。つまり大きな国であればあるほど、その武力に頼り、防衛費を膨らまし続けているのが現状です。ですから人間の求める平和は、人間が生き続ける限り完全に消し去ることは、困難なことなのです。一方で神様の平和はどうでしょうか?神様が求める平和は力よりも愛を重要視しています。つまり愛を示すことによって相手との友好関係を構築しているのです。つまり神様はまずイエス様をこの世に遣わし、神様の愛を示されました。そのイエス様の語られる言葉や行動は、この世的な考えを破棄し、自分を愛するように隣の人を愛せよと命じ実践してきました。重い皮膚病の人をはじめ、様々な病に苦しむ者と向き合い、社会的に隔離されていた悪霊に取りつかれた人の霊を取り除き、社会的に嫌われていた人と交わりを持ち、寄り添いました。そしてイエス様に敵意を抱く者に対しても愛をもって答えました。つまり神様がイエス様を遣わし、イエス様が神様に願って弁護者である霊を授けてくださるのは力を超えた言葉であります。そこに愛が溢れているのです。そして平和については世が与えるように与えるのではないと語ります。つまり私たち人間が思っている形でなく、もっと驚くべき方法によって平和を与えてくださるのです。更にイエス様が神様のもとに行くことを弟子たちが不安になることを見越して弟子たちに「わたしは去っていくが、また、あなたがたのもとに戻って来る」と事前に声をかけられ、そして神様のところに行くことを喜んでほしいと願います。なぜならば、神様はイエス様よりも偉大であることを証言しているのです。そして本日もう一つ与えられた御言葉を紹介して終わりたいと思います。申命記30章19~20節このように書かれています。わたしは今日、天と地をあなたたちの証人として呼び出し、生と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。あなたは命を選び、あなたも子孫も命を得るようにし、あなたの神、主を愛し、御声を聞き、主につき従いなさい。それが、まさしくあなたの命である。と書かれています。どうかこの言葉を聞いて世界の人々と指導者が愛に生きる選択をすることを願い、祈っていきましょう。
お祈りいたします。
御在天の主よ、感謝いたします。今日改めて、あなたの考えに触れることが出来感謝いたします。わたしたちは自分勝手な思いで平和を願っていたことを懺悔いたします。しかしあなたは改めてわたしの思う平和を与えると告げられました。人間の力での平和ではなく愛の平和を望まれて、計画していることが明らかになりました。どうぞ多くの者が愛による平和を求めていくことが出来ますように導いてください。今、戦火の中にある人々の涙をあなたが拭ってください。その悲しみが喜びに変えられるための平和が注がれますようにあなたに委ねます。どうぞあなたの業を示してください。この一週間も守られますように祈ります。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
2022年6月19日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 使徒言行録 20:25~35
メッセージ「受けるより与える幸い」
人はだれでも死を迎えます。その死は病的に徐々に体を蝕むものもあれば、突然の災害や事故でこの世の命を失うこともあります。わたしたちはどれぐらい自分の思いを残すことが出来るでしょうか?病気で亡くなる場合は、ある程度時間を計算して残せることを言葉を考えることも急変しなければ、可能かもしれません。しかし災害や事故の場合は、自分は死ぬなど考えていませんから、残せないことの方が多いかもしれません。そのような中で本日の聖書を紐解いてまいりたいと思います。パウロは、様々な場所に出向き、神様のこと、神様の計画を宣べ伝えてきました。その中で、パウロは霊に導かれてエルサレムに行くことを促されました。そこでどのようなことがあるかわかりませんが、しかしどの町に行っても投獄と苦難が待ち受けていることだけは聖霊に告げられていたのです。ですからエフェソの人たちにはもう会うことが出来ないこともわかっていました。ですからエフェソの教会の長老たちを呼び寄せました。わたしたちが何かを伝えたい、何かを残したいと考える時に身内の者を集めます。自分に近しい人に話すように、パウロの近しい人というのは教会の長老たちです。パウロはこの地方に3年間滞在し、神様の話を聞き、神様のことを信じる心が与えられた仲間です。その仲間を集めて話すわけですから涙なしには語れなかったことでしょう。しかしパウロはたとえ今生の別れになると思っていても神様の恵みの福音を力強く証しすることが出来れば命を惜しいとは思いません。ただ会えなくなる悲しさはあったのではないでしょうか?
パウロはまず、御国を宣べ伝えたからこそ、だれの血についても責任はないと断言します。つまりパウロが教えた神様を理解し、神様を信じようとしたわけですから、パウロの口からすでに離れて、聞く人の心に移ったわけであります。つまりパウロが語った神様を信じるようになったのです。もちろんパウロもその責任を感じて3ヵ月の間滞在し、昼夜問わず神様の言葉を語り尽くしたのです。ですから語り尽くした今は、その責任を果たし、神様に委ね離れる決意を持つことが出来たのです。しかし、パウロは注意喚起をします。パウロが離れた後残忍な狼が入り込み、信じる群れを荒らし、また仲間の中からも間違った考えを押し付け、分裂を呼び起こすことを予告しました。つまり神様を信じるということは、様々な事が起こりうるのです。
それでもパウロは、励まし語るのです。神とその恵みの御言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人と共に恵みに受け継がせることが出来るのです。つまりパウロが与え続けた御言葉を頼りにしていきなさい。そうすれば神様の恵みを受け継ぐ者へと導かれると伝え、またその上で更にイエス様の生き方から学ぶべきことがあると述べて、イエス様の生き方は「受けるより与える事への幸い」を感じるべきですと勧めています。人は自分の幸せを願うあまり受け取ることばかり考えてしまいます。しかし物質的な考え方は、見えるものだけに焦点を絞ってしまい、全体を見失う恐れはあります。一時は失うかもしれません。今持っているものも減ってしまうかもしれません。しかし、その与えようとする心には、大きな喜びへと変わる可能性を含んでいるのです。つまりその与える心には自分ではなく他者への思いやりがあるのです。つまり隣人に対する愛の心がそこに含まれています。その愛を受けた者はどうでしょうか?その愛を他の人に伝えることが出来ます。またその愛を受けた者がさらに愛が大きく、深く、広がっていくのです。つまりイエス様がなさった行為や考え方は結果的に神様の愛につながることをパウロは大切な仲間に伝えたのです。わたしたちも受けるよりも与える生活に変えていきたいものです。
お祈りいたします。
御在天の主なる神様、感謝いたします。パウロを通してわたしたちが改めて生き方を考える時が与えられたことを感謝いたします。わたしたちは今まで自分のことしか考えられず、受け取ることばかり考えていました。しかしパウロがイエス様の生き方を見習い、受けるよりは与える幸いを選びなさいとおしえてくださいました。これからわたしたちがどのように生きるか神様が見ておられます。自分たちの思いではなく、神様の思いに従って歩むことが出来ますように導いてください。わたしたちの周りには内にも外にも惑わすものがおります。しかし正しい神様の思いに従うように心を強めてください。見極める能力が与えられますよう導いてください。この1週間も守られますように、このお祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
2022年6月11日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書: エフェソの信徒への手紙 4:9~16
「キリストに向かって」
どんなものにもスタートがあり、ゴールがあります。必ず目指すべきものが備えられています。そのことを招いてくださるのは、神様です。その神様の招きにふさわしい歩みをしていかなければならないのです。しかし実際には、様々な事に振り回され、神様のことを守りたい、行いたいと思っていても出来ない現状があります。しかし嘆くことはありません。わたしたちはすでに神様にとらえられているからです。神様は、一人一人を大切にしてくださる方でありますから、適した恵みを分け与えられるのです。
更にわたしたちはキリストに向かって、満ちあふれた豊かさに成長させてくださるのです。その豊かさはこの世の悪賢い知恵とは明らかに違います。その人間の欲から成る知恵は、必ず滅びてなくなるからです。わたしたちがどんなに学び知識を得ようとも神様にはかなわないのです。それどころか、その知識さえも最終的にはゴールである神様の方に向くように導かれているのです。それが神様の愛なのです。
2022年6月5日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 使徒言行録 2:1~4
メッセージ「聖霊が語るままに」
本日は復活のイースターから50日が過ぎました。その際、弟子たちはどんな思いだったでしょうか?イエス様がいなくなって悲しみの中に過ごした人もいれば、これからどうしたらよいのかと悩む者いたことでしょう。またイエス様が天に上げられる前に言われたことを信じていた者もいたことでしょう。しかし大半は、イエス様がいないので不安を覚えていたかもしれません。そのイエス様がいなくなってイエス様を信じていた一同が集まっていたと考えられます。ただただ集まっていたのか、お祈りをしていたか、もしくはイエス様が天に上げられた後だったので不安を覚えて集まったかどうかは書かれておりませんのでわかりませんが、そのイエス様に従う者たちに不思議な出来事が起こったのです。
それはイエス様が弟子たちに以前から伝えてあった聖霊が今まさに与えられ記事が今日与えられた御言葉です。突然激しい風が吹いて来るような音が家中に響きわたるのです。最近の地震をわたしはこのように感じることがあります。最初にドンと衝撃を感じた後にグラグラとするような感覚を感じることが多い気がいたします。その最初のドンという衝撃は不安な気持ちでザワザワします。もしかしたら弟子たちもそのように感じたのかもしれません。その後さらに衝撃的なことが弟子たちに降り注ぐのです。炎のような舌が分かれ分かれに現れ一人一人の上にとどまったのです。その炎のようなものこそが神様の霊です。その霊によってそこに集まっている人々に不思議な現象が起こるのです。それは一人一人が霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し始めるのです。つまり神様から与えられた霊が導き出すのは神様の言葉です。つまり神様の言葉を自分の理解できる言語で語られれば、どの人にとってももっと神様を身近に感じることが出来るはずです。その霊が言語などを学んだこともない無学の者に与えられるところに神様の業を感じます。普通は、多少なり言語を学んできた者がその役割を担うのですが、神様は霊によって、そのもの自体を大きく変化させたのです。
つまり私たちに新しい命を備えてくださる方なのです。わたしたちは、信じること、従うことを一生懸命行ってまいりました。しかしその思いを完成させる最後のパーツこそ霊であります。この神様からいただく霊がなければ、わたしたちの話すことは空しいものでしかありません。しかし霊が備わっていれば、その言葉は、力を得るでしょう。どんなに素朴な言葉であっても、足りない言葉であっても、霊に満たされた言葉には力があると信じています。わたしたち牧師は、説教のために準備をします。聖書を読み、注解書を読み、何度もこの言葉でいいかなど吟味します。しかしどんなに準備していてもうまくいかない時があります。それは自身の思いが強い時起こりうるのです。こんだけ勉強しましたよ。と慢心な思いがどこかにあるのです。しかし最終的に霊に身をゆだねていけば、そこに神様の霊が注がれるのです。つまり神の言葉として説教を語るのであれば、霊の存在が不可欠です。ですから私たちは説教の前に霊で満たされて語ることが出来るように祈るのです。聞く人にも同じように祈ります。霊の導くままに受け入れていくことが出来ますようにと。つまり双方が神様の霊に満たされなければ、御言葉が成立しないのです。
わたしたち一人一人は限界があり、制限があります。しかし霊には限界がありません。なぜならば霊は神様だからです。霊は見えませんが確実にわたしたちの傍におられます。わたしたちが悪い道に行きそうな時にも、その道から救い出してくださります。今の世界的状況もわたしたち人間がどんなに画策しようとも変えることは難しいでしょう。ましてや国の指導者レベルであっても言うことを聞かない状況になりつつあります。しかし早くその状況が終わってほしいと願う者も大勢いると思います。そのことを行えるのは神様しかいないと思っています。わたしたちが出来る事はとにかくひたすら祈っていくしかありません。その祈りは必ず神様に届くはずです。その神様が働かれる時、人類は大きな一歩を踏み出すことになるのです。どうぞ祈ってください。霊にまかせて祈り続けてください。
お祈りいたします。御在天の主なる神様感謝します。今日はあなたが霊を与えてくださったペンテコステです。その新たな霊はわたしたちに新たな一歩を踏み出させてくださることを感謝いたします。わたしたちは祈ります。あなたが与えてくださる霊によってすべての人が変えられることを願っています。今ある現状を変えて下さる力を持っていることも信じます。どうぞ霊の働きを信じることが出来ますように。この一週間を導いてください。全てのことを感謝し、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
2022年5月29日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 Ⅰヨハネの手紙 4:7~12
メッセージ「神の愛が全うされる」
本日のテーマはずばり「愛」です。皆さんは愛について考えたことがあるでしょうか?まずはじめに愛がどこから出てくるのか、聖書に聞いてみたいと思います。本日の聖書箇所Ⅰヨハネの手紙4章7~8節にはこう書かれています。愛は、神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。つまり私たちは生まれながらにして愛を知っていることとなります。しかしその愛も様々な形があります。夫婦の愛、家族愛、兄弟愛、隣人の愛、動物や植物に対する愛もあります。更にはものに対する愛もあるかもしれません。この愛する気持ちこそ神様がわたしたちに与えた最大のものではないでしょうか?わたしたちはその愛を大切に生きたいと考えております。
マタイによる福音書22章37~39節にこのように書かれています。イエスは言われた。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同様である。隣人を自分のように愛しなさい』この箇所はイエス様がサドカイ派の人々が言いこめられたと聞いて、ファリサイ派の人とサドカイ派の人が一緒にイエス様のところに集まった時のお話です。サドカイ派は、祭司や上流階級が代表をしており、霊や天使、復活も否定的でありました。一方でファリサイ派は、律法学者などが属し、神様から与えられた律法を尊守することを大切にしており、自分たちが律法を尊守するグループであって、律法を守れない者と分け隔てをしていたのがファリサイ派の特徴です。つまり自分たちのグループこそ最も偉大な神様に仕えるグループであると自負しておりました。しかしイエス様に律法で一番大切なことは何かと尋ねた時、この言葉が返って来たのです。まず神様を全身全霊で愛しなさい。次に自分を愛するように隣人を愛しなさい。つまり神様を愛することも隣人を愛することも同じように愛することだと書かれてあります。更に言うならば、自分を愛する気持ちがなければ、愛することが出来ません。つまり私たちは神様に愛されているのだと自覚しなければならないのです。神様はわたしたちにイエス様を与えて下さいました。なぜ与えて下さったのかと申しますと、まず私たちに好意を示してくださったのです。好きだから、愛しているから自分の最大のものを与えられるわけです。つまりイエス様がこの世で活動された時代、多くの方が本当の神様を知りませんでした。だからこそ自分たちは特別であり、救いは私たちの中にあると思い込んだのかもしれません。しかしイエス様の働きにより、愛を体感することが出来た人がたくさん現れたのではないでしょうか?そのことによって本当の神様に出逢う事となるのです。本当の愛に気づくことが出来るのは幸せなことではないでしょうか?
その愛を受けたら人間は愛の心で満たされます。ですが、自分だけを愛していても、愛の完成にはなりません。つまり他者との関係によって、その愛は完成しうるのではないでしょうか?「我と汝」という言葉がありますように、まず私たちは神様との関係をどう持つか、どう保つかという事なのです。信頼関係を築くのに最も大事なのは何度でも関わりを持つことです。何度も話すことです。何度も聞くことです。その一挙一足を学ぶことです。そして感動することです。感謝の念が抱けたのなら、愛を行うことが出来るのです。その愛にこそ、神様の恵みが注がれているのです。愛を全うするには大きな覚悟が必要です。自分の時間を削らなければなりませんし、相手が自分の思うように動いてくれないのかもしれません。その時に、わたしたちは忍耐が必要です。つまり愛とはその言葉と行動と共に忍耐が必要だという事です。神様は私たちに忍耐をもって接して下さっております。わたしたちが相手に対して我慢をすることも愛の一つです。しかし人間には限界があります。その気持ちを上手にコントロールしなければ愛を実現できないのです。こうやったら相手が喜ぶか、いやな気持になるかを見極める力が必要かもしれません。わたしたちならその愛を実践することが出来るはずです。なぜならばわたしたちは神様の手によって作られ、神様の息を吹き込まれた存在だからです。その愛を実践することは、わたしたちの心に神様が満ち足りていく証拠なのです。だから、わたしたちは互いに愛し合っていきたいと思います。
お祈りいたします。
主なる神様、こうして1ヨハネの手紙から愛を学びました。あなたが愛して下さったこと、その証拠にイエス様を与えられたことを感謝いたします。どうぞ私たちが愛の業を行うことが出来ますように、相手が喜ぶ愛を示すことが出来ますようにお守りください。またこの一週間をお守りください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
2022年5月22日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 Ⅰペトロの手紙1:3~9
メッセージ「金よりも尊い」
神さまがわたしたちを創造された後、「極めて良かった」と言われました。しかし人間は、必ずしも神様に従って歴史を積み重ねてきたわけではありません。従っては背き、従っては背くことを繰り返し行ってきました。その都度、熱情の神様は様々なものを通して裁きと恵みとを伝えてきました。しかし人間はその神様の思いとは裏腹に目の前の欲に駆られ、神様に背を向けてしまうのです。そこで神様は地上にイエス様を送り、人間と同じ視線に立って神様の業を宣べ伝えていきました。それは神様の事を知らなかった者にも癒しを与え、救いの対象であることを告げしらされたのです。そのことによって神様の愛に出会い、自身が愛されている存在だと教えられると喜びに溢れるのでした。一方で、神様が与えられた律法を曲解して理解していた者にとっては、イエス様の言葉や行動は自身が教えていたものと違い、今まで信じてきた者を迷わせました。その結果多くの者がイエス様を支持するようになったのです。そのことによって、イエス様を恨み、隙あらば、殺そうと殺意を抱くのでした。しかし神様はその殺意をも御存じであられ、十字架の計画を立てられておられたのです。
十字架刑は人間の刑の中で最も苦しい刑であります。しかも、イエス様は十字架につけられる前にむち打ちを受けております。なんと40回も打たれたのであります。普通であれば痛みに耐えられず、途中でショック死をしてしまうかもしれません。また鞭打ちの後には、唾を吹きかけられ、侮辱され、十字架を背負わされます。そしてゴルゴダの丘の上で手首と足の甲にくぎを打たれ、死に様を多くの方に見られるわけであります。その苦しみこそ極限の中にある最も尊いものなのです。それは自分の思いだけでは乗り越えることはできません。神様の計画を信じ、神様の約束の成就することを願う祈りこそ尊いものはありません。
わたしたちに与えられるものは喜びばかりではありません。苦しみも同様に神様から与えられております。しかもその苦しみは一過性のものもあれば、長期的に続くものもあるのです。わたしたちはなるべく苦しみを受けたくないと考えるかもしれません。しかし神様は与えるのです。なぜでしょうか?それはわたしたちの心を鍛錬させてくださるのです。
その苦しみだけをとらえるならば、わたしたちは絶えることは難しいでしょう。しかしその苦しみには主が共におられ、神様の栄光がしるされているのだとしたら、わたしたちはその苦しみをも受け入れることが出来るのではないでしょうか?その苦しみはあなたならその苦難を乗り越えられるという神様の信頼がその苦しみの中に含まれているのです。もし与えられた苦難が苦しい時には神様に願うのです。神様は逃れる術も与えてくださるのです。わたしたちが神様を信頼する時、わたしたちには一つの光が与えられるでしょう。それは、希望です。今がつらくとも必ず神さまが願いを叶えてくださるという希望を持つことが明日につながるのです。今もなお苦しみの中にいる兄弟姉妹がおります。戦争によってさまざまな苦しみを受けている者もいれば、社会の様々な抑圧を受け、苦しんでいる者もいます。どんなに願ってもなかなか実現しないこともあります。しかしあきらめてしまえば、更に苦しみの中でもがき続けていくことでしょう。ですが、神様は違います。決してあきらめないのです。わたしたち自身が神様に向き合うことを望んだ時、神様はその思いを大切にして下さるのです。希望を持ち続けることは最終的に本人の意思です。本人が望む限り、神様はその意思を誉とし、神様の恵みに与らせようと道を与えて下さるのです。確かに金は、わたしたちの生活には必要です。しかし金は使えば無くなるし、どんなに火で精錬しようとも崩れ、壊れてしまいます。ですが、わたしたちが神様を信じる心はどうでしょうか?完全に消え去ることはありません。くすぶり、消えかけようとも、神様の霊に触れると再び燃え上がっていくのです。その神様と向き合い、信じてその苦難を乗り越える心こそ金よりも尊いものであることを覚えて、主の道をしっかりと歩んでいきましょう。
お祈りいたします。
御在天の主なる神様感謝いたします。今日はペトロの手紙からあなたを信じる心こそが金より尊いものと教えていただき感謝いたします。わたしたちはこの世で生きておりますと、喜びばかりではなく、つらい悲しいことも起きてきます。そのような時、そのことを乗り越えられるようにあなたの事をもっと信頼することが出来ますように、そして今苦しみの中にある兄弟姉妹が希望を持ち続けることが出来ますように導いてください。わたしたちは信じ続けます。あなたに希望を持ちます。どうぞあなたの愛がすべての人にいきわたりますように。この一週間もお守りください。この祈りを主イエス・キリストの名によって祈ります。アーメン
2022年5月14、15日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 使徒言行録 4:10~12
メッセージ「主イエス・キリストの御名によって」
わたしたちは祈りを終える時、「主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン」と祈ると思います。本日与えられた聖書箇所である使徒言行録をお読みしたいと思います。4章10~12節です。あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です。ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」イエス様が復活し、天に上げられたのち、弟子たちにイエス様が約束してくださったように霊を与えられました。その霊によって、御言葉を語って、神様の救いを宣べ伝えておりました。ペトロとヨハネが午後3時の祈りをしようと神殿に上っていた時に一人の足の不自由な男に出会います。そこで物乞いをしておりました。その男にペトロとヨハネが近づき「わたしを見なさい」と声を掛けました。その男は施しがもらえると思い、その声に従います。そこで「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人、イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」その命令を受けて、足の不自由な男は足やくるぶしがしっかりして立ち上がり、踊り、神を賛美して、二人について行くのです。このように踊る男が美しの門で物乞いをしていた者と気付くと民衆は我を忘れるほど驚いたのです。そして二人を見つめた時、ペトロはこう語りました。「イスラエルの方なぜこのことに驚くのですか。また、わたしたちがまるで自分の力や信心によって、この人を歩かせたかのように、なぜ私たちを見つめるのですか」そして語るのです。神様の力を与えられたイエス様のことを、そして十字架でそのイエス様を殺してしまったこと、そのイエス様を神様は復活させたこと、それは、イエス様を通して悪から離れさせ、その祝福にあずからせるためでした。その話を聞いて神様のことを信じた数が男の人が5千人と書いてありますので、それ以上の人が信じたことになるのです。そこに祭司、神殿守衛長、サドカイ派の人が近づき、その話す内容がイエスに起こった死者の中からの復活を宣べ伝えているので、二人を捕らえ、翌日まで牢にとらえました。その翌日議員、長老、律法学者がエルサレムに集まり、そして大祭司アンナスとカイアファ、ヨハネとアレクサンドロと大祭司一族が二人を取り囲んで尋問した時の答えが本日の聖書箇所であります。
その尋問の最中ペトロは霊に満たされておりましたので、臆することなく、足の不自由な男を治すという良い行為と何によって癒されたかということについて言及するならば、イエス・キリスト以外にないと断言しています。その堂々たる態度を見て、無学な者であることにますます驚きを覚えるとともに、その足を癒された者がすぐそばにあり、尋問した場所の外には5千人もの人がペトロとヨハネの話を信じていたこともあり、2度にわたる厳重注意を致しました。しかしその厳重注意であっても、ペトロとヨハネは神様の救いを語り続けるのです。なぜならばそのことが事実であったからです。イエス様もこの世で救いを語られた時、イエス様の御名によって治療する者が現れたとき、その名を使って治療する者を咎めたりせず、その意味を理解して使っている者として受け入れています。その背後にはイエス様のことを信じる心をかんじたのでしょう。つまり神様の力につながる唯一の方法はイエス様の名を通してでしかないのです。クリスマスの時を振り替えてみれば思い出すのです。イエス様の名前はインマヌエルその意味は、神は我々と共におられるという意味であります。その言葉を聞いた時、イエス様こそが神様の真意であることに気づかされるのです。その名の意味を知らなければ、イエス様を神の子として受け止めることも出来ませんし、この世の常識でしか、物事をとらえることはできないのです。しかし神様の業は私たちの考えをはるかに超えるものなのです。つまりあり得ないことが生じる時、神様以外に考えられないのです。そのことを覚えた時、人はイエス様の名を自然に口ずさむのではないでしょうか?この「主イエス・キリストの名によって」という祈りの言葉は、今もイエス様は私たちのために働かれている証拠であるのです。
お祈りいたします。
主なる神様、こうして使徒言行録を通して、イエス様は神様の子であり、神様にとりなしてくださっていることを感謝いたします。わたしたちは今もあなたの名によって祈っています。どうぞ私たちが世の術で判断するのではなく、わたしたちを驚かす神様の力を信じることが出来ますように、そして皆によって祈ることが出来ますように導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン
2022年5月7日 益子教会 礼拝説教要旨
「御心を行うために」
聖書: ヘブライ人への手紙 13:20~21
わたしたちは何事にも祈りを重ねてまいりました。その祈りは、イエス様を死者の中から引き上げてくださった主に献げる祈りであります。それはわたしたちが御心を行うためにすべての良いものを神様が備えてくださるように願う祈りであります。この祈りがあるからこそ私たちは新たに歩むことが出来るのです。それはどんな状況であっても、有効に働くことをわたしたちは知っているのです。つまりすべてのものを創造された神は、どんなことも創造してくださる方であります。だからこそ私たちは必死に祈り続けるのです。人間には出来ないことも神様なら何とかしてくださるのです。神様の御心が何なのか、わたしたちも模索しますが、本当のことはわからずにいます。その答えを知っているのは神様だけです。わからない時には与えてくださる神に願うのが一番です。わたしたちがどんなにこれが神様の御心だと思っても、違うことも多々あります。どんなに祈っても答えが与えられない場合もあるのです。それでも祈り続けていくしかないのです。
2022年5月1日 益子教会 主日礼拝説教要旨
聖書 イザヤ書 55:8~11
メッセージ「自分の思いを超える神の思い」
わたしたちは、取るに足りない者であります。しかし、そのような者であっても神様は私たちに愛を注いでくださるのです。しかし私たち人間はどうでしょうか?本当に神様が与えて下さった隣人を愛せているでしょうか?ある程度自分の考え方に似ている人とは、共感し、相手の事を愛することが出来るでしょう。しかし、自分と異なった考えを持っている人に対して、愛するどころか、嫌悪感さえ抱くものなのかもしれません。愛の感じ方はそれぞれです。新約聖書のルカによる福音書の15:11に放蕩息子の譬え話があります。このお話は、お父さんとお兄さんと弟さんの物語です。ある時、弟がお父さんに「自分に与えられる財産をください。」と申し出ました。そのことを受けてお父さんは弟にその財産を与えました。そして弟はその財産をお金に換金し、旅に出かけるのです。そのお金を使い、豪遊しておりました。しかしそのお金は、どんなに沢山持っていても湯水のように使えば無くなってしまうのです。お金が尽き始めると徐々に人が遠ざかっていきました。底をついた時、その地域にひどい飢饉が起こりました。食べ物を求め、やっと豚の世話をする仕事が与えられた時に、我に返ってどれだけお父さんに愛されたことを気付くのです。そしてある決意を持って家に帰りました。息子としてではなく、使用人の一人としてお父さんに仕えようと。
一方でお父さんは、どうだったでしょうか?聖書に書かれておりませんので、本当のことはわかりませんが、息子が出ていった時からずうっと同じ時間に出て息子を待っていたのではないでしょうか?父親の心配する心が伝わりそうです。そのような時がどのぐらい続いたでしょうか?ある日、遠くの方からこちらに歩いてくる男の人の姿を見た途端お父さんは喜びの感情があふれ出て、息子に走り寄りキスをしました。そして一番良い服を着せ、帰宅祝いをいたします。弟は自分が思っていた様子と違い、お父さんの愛ある行動に感激したのではないでしょうか?しかしその愛は、弟が遊んでいた時期に一生懸命父に従っていた兄の気持ちを傷つけたのです。しかしその思いを受け止める父親は兄の気持ちも察してくださるのです。つまりその思いはその相手にどのように伝わるかわからないのです。そのようにわたしたちの思いはバラバラです。しかし一人一人を大切にしてくださる神様の思いは、聖書で記されているのです。
神様はわたしたちを招く報酬を求めておらず、何もない者も招いてくださる方なのであります。せっかく招いてくださるのに、わたしたちはその思いと違う思いを持てばどうでしょうか?自分が正しいと思っていれば、相手の思いを受け入れることができるでしょうか?わたしたちは自分が正しいと思っていれば、ほかの意見を聞くことができません。しかしへりくだり謙遜な思いになった時、正しい思いに触れることができるのです。神様の思いはわたしたちよりも先を見ております。しかし私たちは目の見える範囲のことしか見えていないのです。神様が語られる言葉には未来があります。神様の言葉に耳を傾けてみましょう。そこに神様の希望が与えられているのです。
お祈りします。主なる神様、あなたの思いはわたしたちが想像する以上のことを思っていることを改めて知ることができました。感謝します。わたしたちが自分の思いに固執してしまうと神様の考えが何も見えなくなることがあります。どうぞ私たちに謙遜な思いを抱かせてください。あなたの思いを知るチャンスが与えられますように。そしてわたしたちが謙遜な思いと聞く心を身に着けた時、あなたの思いに触れることができます。どうぞ私たちの傲慢な心を取り去ってください。主の思いに従うことができますように導いてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
022年4月23,24日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 ヤコブの手紙 5:13~16
メッセージ 「祈りの力を信じよう」
益子教会の2022年度の主題は、「祈りの力を信じよう」です。わたしたちクリスチャンにとって大事なことが3つあります。それは、御言葉、祈り、賛美です。どんな教会であっても、どんな礼拝であっても、欠かさず行っていることであります。この3つはわたしたちがどのような状況下の中であっても行うことができます。しかし、わたしたちの生活や環境が安定しているわけではなく、突然ガラリと変わることがあるのです。そのようなことが起きた時、人は不安を覚えます。不安は焦りを見出すのです。早く何とかしなければとの焦りからとんでもないことに走ってしまうのが人間の弱さであります。その弱さは、誰もが持っていることであります。それは旧約聖書時代にもある不安がよぎるのです。
モーセがシナイ山で神様から約束を授与する際、あまりにも時間がかかるあまり、民は兄アロンのところにある注文を申し出ました。それは、出エジプト記32章に書かれております。1節から5節にこのように書かれております。モーセがなかなか山から下りて来ないのを見て、民がアロンのもとに集まって来て、「さあ我々に先立って進む神々を造ってください。エジプトのくにから導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのかわからないからです。」と言うと、アロンは彼らに言った。「あなたの妻、息子、娘らがつけている金の耳輪をはずし、わたしのところに持って来なさい。」民は全員、着けていた金の耳輪をはずし、アロンのところに持ってきた。彼はそれを受け取ると、のみで型を作り、若い雄牛の鋳造を造った。すると彼らは、「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトから導き上ったあなたの神々だ」と言った。アロンはこれを見て、その前に祭壇を築き、「明日、主の祭りを行う」と宣言した。このようなことが起きました。しかしその結果人間は大きな過ちの道を歩んでしまうのです。人間の造った物に祈っても何も起きませんし、何も得ることができないのです。何も与えることの出来ない神に祈っても虚しさがこみあげてくるばかりです。しかし裏を返せば、不安のあまり積極的に神を求めた結果であります。もしもモーセをいつまでも忍耐強く待つことができれば、神様の約束に背く結果にはならなかったのかもしれないのです。祈る時大切な事は、何に対して祈るかなのです。更にどうしても限られた時間の中で実現して欲しいと願いますが、焦らずいつか必ずしてくださると信じることが大切なのではないでしょうか?
本日の聖書箇所を改めて見てまいりましょう。苦しんでいる人は祈りなさい。喜んでいる人は賛美しなさいと書かれてあります。しかし喜びの時にも苦しみのときにも私たちは祈ることも賛美することも必要です。なぜならば、神様との関係を深める大きな要因として、主に交わることを生活の中で取り入れていかなければならないのです。更にその次の節においては、病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブオイルを塗り、祈ってもらいなさい。とされています。それは主の名によって治療を施すことなのです。その長老が特別な力を持っているかどうかは関係ありません。大事なのは誰の名によって治療し、祈るかと言う事であります。現代の医学もそうかもしれません。聖書が書かれた時代よりも何十倍も技術が進歩しております。しかし最後は神様に委ねていくしかないのです。つまりどんな時代であっても神様に求めていくことが必要となるのです。もう一つ付け加えるのであれば、神様を信じる心が備わった祈りでなければ、意味をなさないのです。信仰に基づく祈りは病人を救い、起き上がらせ、罪人の罪をお許しになるのです。だから主に癒していただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり効果をもたらします。わたしたちは特別な力があるわけではありません。むしろ何もない者であるからこそ、祈りの力を信じることができるのです。正しさは神様なら何とかしてくださるという信頼感を持つことが正しさへとつながるのです。わたしたちは、これからも祈っていきましょう。信頼する神様に。約束を果たしてくださる神様に。そして私たちを愛してくださる神様に大きな思いを持って祈っていきたいものです。
お祈りいたします。主よ、感謝します。わたしたちに祈る大切さを教えてくださったことを。わたしたちはこれからも祈り続けます。信頼する神に。わたしたちを愛してくださる神に。そして平和を実現する神に。わたしたちがこの世で生きている限り様々な不安がよぎります。しかし焦らず、あなたを信頼したいと思います。あなたは必ず実行に移す方であることを信じます。だからあなたのすべき時を待つ心を与えてください。主イエスキリストの御名によって祈ります。アーメン
2022年4月16,17日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 ヨハネによる福音書 20:11~18
メッセージ「なぜ泣いているのか、だれを探しているのか」
イエス様の弟子たちにとって、一番悲しいことは何でしょうか?それは自分たちの前からいなくなってしまうことであります。金曜日に十字架につけられたイエス様を間近に見た人たちは、どのような感情になったでしょうか?特にマグダラのマリアと呼ばれるイエス様に従う女性は、自分を7つの諸霊から救い出してくれた恩人として、また神の子としてのイエス様に従ってきた人であります。ですからその十字架上の出来事は悲しさの感情で一杯になったのです。多分泣き泣き過ごしたのではないかと思います。そのあふれる感情のままに日曜の朝を迎えました。ほかの福音書では、イエス様に従う女性の団体が墓に向かう様子が書かれております。その中にもマグダラのマリアも同行していたのでしょう。一行が墓についた時、驚きの光景が目に飛び込んでくるのです。大きな墓石が取り除かれていたのです。その状況を見て、シモン・ペトロを呼び、中の状況を見てもらうとイエス様の体がなかったのです。そのことに動揺したマリアは再び泣くのです。泣いて、立ち尽くすのです。しかしそこから新たな一歩を踏み出し始めました。泣きながら、身を屈めて中を覗き込みますと、イエス様の体が合った場所に二人の天使が座っていました。その天使に「婦人よ、なぜ泣いているのか?」その問いに「わたしの主が取り去られました。どこに置いているのか、わたしにはわかりません」そう答えるのが精いっぱいでした。その思いは、悲しみとイエス様の体がないということで混乱していたのかもしれません。その後、後ろを振り返ると一人の男の人が立っておりました。入口に立っている人物こそイエス様でありましたが、そのことに気付かないほど、落胆していたのです。そのイエス様に「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」と話しかけられました。その問いに、マリアはその墓を管理する者と思い「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります」そのように答えました。そこでイエス様は「マリア」と声をかけたのです。その名前を呼ぶ声に聞き覚えがあり、初めて声をかけた人の顔を見たのかもしれません。そこではっきりとイエス様に気づき、「ラボニ」「わたしの師」「先生」と声を上げ、イエス様に抱きついたのです。この悲しみから喜びに変わる瞬間わたしたちは神様の驚くべき業を実感するのです。このマリアも神様に従う者でしたから、必ずイエス様が十字架につけられ、三日目に復活すると聞いていたはずです。しかしそのことを理解していながらも、その言われたことさえ忘れてしまうほどイエス様の十字架の死は衝撃的だったのです。しかしそのマリアのもとにイエス様が来てくださったのです。その喜びの表現として抱きつきました。
しかし抱きついてきたマリアにイエス様はこのように告げるのです。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへ私は上る』と」なぜすがりついてはいけないのでしょうか。この意味するところは、イエス様が天に上られることに関係しています。つまりイエス様の宣教の業が次に移行するためであったと思われます。イエス様が神様のもとに上られるとき、愛し方に変化が起きるのではないでしょうか?もっと豊かな霊的な交わりへと変わっていくのです。そのことを聞き、マリアは新たな一歩を踏み出し、弟子たちに告げるのです。「わたしは主を見ました」更にイエスに言われたことを伝えたのでした。この記事を見て、わたしたちは思うのです。イースターは悲しみを喜びに変え、神様の言葉によってイエス様の存在に気づき、見えるようになりました。また、愛の新たな考え方を示され、新たな一歩を踏み出すことができるのです。その新しい生きかたとは積極的に主を見ましたと語り、主が伝えよと言われたことに従うことなのです。教会歴ではイースターがスタートです。新たな気持ちをもってこの一年間を過ごしてまいりましょう。新たな愛をもって、神様が与えてくださった隣人を愛しましょう。そして神様の僕として従順に歩みましょう。
2022年4月8日 益子教会礼拝説教要旨
聖書: ルカによる福音書 19:39~44
「平和への道をわきまえていたなら」
棕櫚の葉によって迎え入れられ、エルサレムにイエス様は入場されました。その光景は、ロバに乗ってくる姿に笑いがあったのではないでしょうか?「わたしたちを救ってください」と叫ぶ声は、その笑い声と共に人々の心に希望が芽生えたのではないでしょうか?その当時ローマに苦しい思いをさせられた人々にとって、イエス様が現れたことは、本当の救いを感じることができた者も多かったはずです。しかしその入場を終えたイエス様はそのエルサレムにこれから起きることに涙を流されたのです。「もしこの日にお前も平和への道をわきまえていたのなら」その言葉にわたしたちも考えさせられるのではないでしょうか?イエス様はこのエルサレムの入場を歓喜の時と考えていなかったのかもしれません。むしろ神様の計画である十字架がいよいよ近づき、人々の心に悪が働くことを悲しまれたのではないかと思うのです。まさにこの一週間はイエス様にとって十字架につながる道なのです。
2022年4月2,3日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 マタイによる福音書 20:20~28
メッセージ「自分の命を献げるために」
わたしたちには様々な希望があります。しかし、全部が叶うわけではありません。むしろ叶わないことの方が多いかもしれません。ですが、その願いを叶えてくれるものがあれば、皆さんは願わずにはいられないのではないでしょうか?もちろん本人もそうですが、母親は子どもの願いを叶えたいと思うのは当然ではないでしょうか?本日の聖書では、ゼベダイの子ヤコブとヨハネが母親と一緒にイエス様のもとにやってくるところから始まります。しかし3人の態度がいつもと違うことをイエス様が感じたのでしょう。イエス様が「何がお望みか?」と声をかけると、母親が大胆にもイエス様にこんなことを相談しました。
「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃって下さい」これを聞いて皆さんは、どう思ったでしょうか?母親はなんとか自分の子どもをイエス様の側近になってほしいと願っていたのです。この意味することとは、イエス様が神の子であると理解していると同時に自分の子どももイエス様のようにみんなから尊敬され、愛されたいと単純に思ったのかもしれません。もしくは、ほかの弟子たちよりも自分の子どもの方が優れているといったような人を見下す思いもあったかもしれません。しかしイエス様の両隣に座るということは、想像を絶することなのであります。つまりこれから神様が計画している十字架を理解していないことになります。また、イエス様の宣教の業は、いつ殺されてしまうかわからない命の覚悟のいる事であります。確かに弟子たちはイエス様と寝食を共にし、神様のことを伝えてまいりました。またさまざまな誹謗中傷を受けながら活動していたことでしょう。そのことを乗り越えられたのもイエス様が共に歩まれたからであります。言っていることの意味を理解していない弟子二人に「このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」と投げ返しますと、即答で「できます」と返事をいたします。確かに結果的にその杯を飲まざるを終えない状況が神様によって与えられるのです。しかしイエス様はそのことを踏まえて、それでもイエス様の両隣に座ることはわたしが決める事だけではなく、神様によって定められた人々であることを告げました。実はイエス様に話したことは他の弟子たちも願っていたことなのです。いつまでもイエス様の近くで過ごしたい。出来るならば独占したいとも思っていたのかもしれません。ですからその事を願った母親とヤコブとヨハネに対して、怒りを覚えるのでした。そのことを感じたイエス様は皆を呼び寄せて言われたのです。
「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。」この言葉は非常に重いのではないでしょうか?わたしたちが過ごす社会はどうでしょうか?まさに支配者と支配される人で分けられております。つまり私たちは異邦人だと言われているのです。聖書において異邦人とは、神様を知らない、神様との関係を持たない人のことを指しております。支配者に従い、偉い人の権力に振り回されているのです。その異邦人の社会に馴れてしまうと私たちはそれが間違っているという意識も無くなってしまうのです。しかしイエス様は、その当たり前と思っていることに疑問を投げかけ、本当にそれでよいのだろうか。そうではありませんと提言してくださるのです。
「しかしあなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、一番上になりたい者は、皆の僕になりなさい。」あなたがたの間とは、イエス様と出会い、本当の神様を知った仲間です。弟子となってイエス様に従っていくわけですから、イエス様が話す言葉や行動に倣って人生を歩んでいくのです。偉くなりたい者は、皆に仕える者になりなさいと言われました。昔、正教師になるための按手礼式に出たことがあります。その際の先輩の一言が今でも心に残っています。「わたしはこれから牧師になります。しかし人に仕えなくなったら、牧師をやめる時です」と語られました。その言葉はまさに人に仕える牧師であることの決意を感じました。一方で、わたしはどのように呼ばれても気にしませんが、呼び名にこだわる方もおり、牧師ではなく先生と呼ばなければ怒る方もいました。この違いは何でしょうか?同じ職業であってもこんなにも人によって思いが違うのです。そして一番になりたい者は、皆の僕になりなさいとイエス様は教えてくださったのです。わたしたちは教会に来るメンバーだけでなく、すべての人の僕になって仕えることを行うように導かれたのです。イエス様は、自分に来る様々な人を迎えました。病気を治せと言われれば、その病を治し、社会的に遠ざけられたもののそばに来て悪霊を追い出し、社会的地位を回復させ、罪を犯したと連れて来られた女性を正しい道に導かれました。何よりも真の神様をお示しになり、迷いのある多くの者を神様の道へと救われたのです。しかし御自分は神様の計画に従順でありました。つまり十字架によりご自身の命を献げる人生を歩まれたのです。その思いをわたしたちは簡単にできますとは言えません。しかしイエス様は、同じようになさいとわたしたちに勧めております。どんな人生を歩むか、わたしたちには選択肢は沢山あるように思われますが、有るのは二つだけのような気がします。神様に従うのか、神様を捨てるのか、その選択は、難しいものではありません。わたしたちは神様が共にいる喜びを思い出しさえすれば、自ずと答えに導かれるのではないでしょうか?
お祈りいたします。主はわたしたちの思いを受け止め、様々な事を与えてくださっていることを感謝いたします。しかしすべて自分の思い通りにいかないことを改めて教えていただき感謝いたします。わたしたちは様々な思いが交差しますが、あなたに従いたいという気持ちを持っているのも事実です。どうぞその心を大切にし、皆に仕え、皆の僕となりますように気持ちを変えさせてください。あなたのように働くことができますように力を与えてください。この一週間も守られますように。主イエスキリストの御名によって祈ります。
アーメン
2022年3月27日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 ヨハネによる福音書12:20~26
「一粒の麦」
イエス様がエルサレムに入場した後、多くの方がエルサレムの祭りの礼拝に参加するために様々な地域から集まりました。その中にはギリシャ人もおりました。イエス様に会いたいと願い出たギリシャ人は、どんな思いで弟子たちの前に現れたのでしょうか?もしかしたらイエス様のエルサレム入場を見たのかもしれませんし、噂を聞き付けたのかもしれません。どちらにしても信仰の対象ではなかったように思えます。その為、頼まれた弟子のフィリポは、怪しいと感じたのかもしれません。イエス様の前にアンデレに話をし、そしてアンデレとフィリポでイエス様に伝えに行くとイエス様はこうおしゃったのです。「人の子が栄光を受ける時が来た。」その言葉の意味は、神様の計画が始まったことを告げます。つまり、エルサレム入場によって、良くも悪くもイエス様が多くの者に注目を浴びることとなったのです。今まではガリラヤ湖周辺の町や村を巡り神様の言葉を伝えておりましたが、エルサレムは昔から大きな祭りがあり、観光としても栄えていたのでしょう。その祭りの参加者は信仰者もいれば、そうでない者もおります。そのためにエルサレムで騒がれていたイエスを遠目で見て、一目見てみたいと興味が沸き起ったのかもしれません。しかしここでイエス様と会ったという記述は書かれておりませんの出実際に会ったかどうかわかりません。しかしわざわざエルサレムの祭りに訪れるのですから、もしかしたら祭りの期間中に行われた十字架刑のイエスを見たかもしれません。つまりここで会えなくとも、出会う可能性は十分あります。エルサレム入場まではイエス様はほめたたえられ歓迎されますが、このギリシャ人の来訪をきっかけに人の子が栄光を受ける時となったのでした。
更にイエス様はこのように話されます。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが死ねば、多くの実を結ぶ」とはっきりと言われたのです。これは動かしようのない事実であります。袋の中、もしくは手の中に持っていてもその麦は永久に増える事はありません。むしろ麦を一粒だけ食べても腹の満たしにはなりませんし、もっと食べたいと欲求し、相手のものを奪いあうかもしれません。その麦が唯一増える方法は、地に蒔くしかないのです。つまり、地に蒔くとは豊かな神様の恵みを受けることによって芽を出し、花を咲かせ、実をつけるのです。つまりイエス様という一粒の麦に詰められた媒介を神様の栄養を多く含む大地に献げなければならないのです。
そしてイエス様はさらに説明を加えてわたしたちがその十字架の意味を理解できるようにこのように言われました。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世での自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。つまりこの世での命は限られており、どのように生きるべきか問われているのです。つまり自分の命を愛するとは、自分の命のために何かを得ようとする心です。誰しも快適に暮らしたいと願う時、様々な物が必要となるのです。それはお金であったり、社会的地位であったり、人間関係であったり、知恵であったり、その事ばかり考えているとどうでしょうか?欲望という名の悪魔が隠れているのです。つまりそのことを得るために相手をだまし、奪い、そして最後には殺してしまうことにつながっていくのです。もちろん人間には神様からいただいた理性があります。しかしその理性を壊してしまうのが悪魔ですから、どんなことも欲する限りは、自分の命を失う可能性はゼロではありません。しかし、イエス様はどうだったでしょうか?常に神様に従い、愛を実行してきました。ある時には、祭司や律法学者、自分の都合の良いように律法を解釈し、わかったような顔をする者が押し迫って来た時にも、自分の命を顧みず、その求める相手のために愛の業を成されました。そしてイエス様が示された最大の愛こそが十字架です。罪が何も見いだせないイエス様に対して、わたしたちはどうでしょうか?自分のことばかり考え、神様に逆らってばかりです。そのため人間は神様に罪をどんどん重ねていくのです。今もなお私たちは自分のために罪を重ね続けています。そのようなわたしをイエス様は顧みておられ、神様の計画に従い、わたしたちの罪のために十字架にかけられたのです。その愛に気付きが与えられたのですから、今こそ神様に従い、今こそイエス様の愛に耳を傾けていきましょう。そのことを神様は望んでおられ、神様が従う者を大切にしてくださるのです。わたしたちは、小さな一粒の麦にすぎません。しかしその中には神様の恵みがたくさん詰まっているということ、無限に広がる可能性を秘めているということを自覚し、共に神様に学び、共に歩んでまいりたいと願うのです。
お祈りいたします。主よ、感謝いたします。あなたはわたしたちにイエス様がなさる十字架について記されました。わたしたちは自分の命のことばかり考え、本当の神様の愛を見失っています。しかしあなたが示してくださった愛は違いました。わたしたちは神様に倣って本当の愛を行えるようにしてください。そして一人一人が神様の愛を自ら進んで行うことができますように導いてください。主イエス・キリストの皆によって祈ります。アーメン
2022年3月20日 益子教会主日礼拝説教
聖書 マタイによる福音書 5:1~12 メッセージ 「あなた方は幸いである」
皆さんにとって幸いとは何でしょうか?お金でしょうか?社会的地位でしょうか、それとも知識でしょうか?様々な考え方があると思うのですが、皆さんならどう考えるでしょうか?今日も聖書から学んでまいりたいと思います。イエス様はじっくり話を聞いてもらうために自ら腰を下ろして、弟子たちに語り掛け始めました。
「心の貧しい人は幸いである。」この貧しいとは何でありましょうか?この貧しいとは経済的にということではありません。むしろ重要なのは自分の心がどうなのかということです。つまり貧しい心というのは、自分の心がどんな状態であるかということを理解しているということであります。人間は必ずしも心が安定しているわけではありません。
良い方に考える時もあれば、悪い方になってしまう時もあります。その時々の心の状態を理解している人ということです。つまり悪く考えてしまう時は、とてもつらいです。苦しいのです。その苦しさを知っている者が貧しい心の時なのです。そのような時に神様の存在(天)を求める人は、幸いであると聖書は語っています。
また、悲しむ人も幸いだと聖書は語っています。それは、悲しみの時ほど私たちは慰めてほしいと願うのではないでしょうか?大切な何かを失った時、悪い病気を宣告された時、絶望を感じた時、その悲しみや苦しみは人によって違います。ですからどんなにやさしい言葉をかけられても、おいしいものを食べても、大きな声で歌おうとも悲しみを拭い去ることが出来ないことがあります。
人間はその人の悲しみに寄り添うことはできても完全に一体化して悲しむことはできません。しかし神様はどんな悲しみであってもいつまでも寄り添って下さり、私たちを慰めることが出来るのです。
次に幸いなのは、柔和な人であると書かれてあります。柔和な人とは、あらゆる違いにも対応できる人です。私たちは個性があります。いろいろな環境がありますので、怒りぽい人もいれば、やさしい人もいます。気が短い人もいれば、呑気な人もいます。多種多様の世の中です。すべてに合わすことは難しいかもしれませんが、自分の心をその人に合わせようとする気持ちを大切にし、認め合う心こそ柔和な心なのです。その者は、地を受け継ぐと書かれています。つまりイエス様のように誰に対しても愛情を注ぐ行いができるようになるのです。つまり愛の実践者が地を受け継ぐことが出来るのです。
次の幸いは清い心を持つ者です。この者は神を見ることが出来るのです。なぜなら汚れのある悪い心は、悪いものは見ることが出来ますが、神様は見えてきません。なぜなら神様の心はその真逆に位置するからです。私たちは立ち止まり自分の心を見てみましょう。神様のことをしたい、良いことをしたいと思っていても、自分の利益や名声のために行動していなかったでしょうか?行動を起こさなくても心に思えば、神様からかけ離れてしまう悪い心になってしまうものなのです。
次の幸いは、義に飢え渇く人です。義とは正しいことです。正しいとは、神様であります。どんなときにも神様を求めていく姿勢は、とても大切です。神様を知っているということがどれだけ私たちを支えてくれているでしょうか?どれだけ満たされるのでしょうか?もちろん世の中のすべての人が神様を知っているとは言えません。
でもどうでしょうか?神様を知らなくても時間は過ぎていきます。しかし、人間の欲は尽きることがないとされているように、欲望で人は満たすことはできません。しかし神様の存在を知ることが出来れば、どんな些細なことでも感謝し、心を満たすことが出来ます。つまり神様を知れば、心を満たすことが出来るのです。
次の幸いは、憐み深い人です。この憐み深い人はさらに神様が憐れんでくださるのです。憐みの心を持つと人は優しくなれます。その優しさはその憐みを受けた人をやさしい心で包み、さらにその憐みの輪を広げていくことでしょう。つまりその愛を示すことによって多くの者が憐みの心を持つということになります。その憐みの心を与えてくださるのがその源である神様なのです。
今、私たちは神様に問われているのではないでしょうか?ロシアとウクライナだけではありません。世界のいたるところで圧倒的な力によって解決しようとする動きがあります。しかしそのような力関係で保たれている平和は本当の平和ではありません。
次の幸いは、平和を実現する人と書かれております。本当の平和とは隔たりが無いこと、上下関係が無いこと、互いに違いを認め合うこと、つまりフラットの関係こそが本当の平和なのです。そのことを何度も人間は挑戦してきました。しかしなかなかできていないのが現状です。然し私たち人間は完全な平和を望んでいます。
どんなに時間をかけて、何度も失敗に終わっても平和をあきらめずに追い求めていく姿勢が大事なのです。しかし、人間プラス神様が働いてくださることが絶対条件です。私たちが神様に平和を願う時、私たちは神の子としての幸いを得ることが出来るのです
最後の幸いは、義のために迫害を受ける者であります。これは聖書で書かれているように、イエス様も約束してくださった言葉でありますから、100%大丈夫です。イエス様の十字架を思い出してください。イエス様は、たくさんの人にののしられ、とげの冠をかぶせられ、鞭うたれ、唾をかけられ十字架にかけられました。しかし、イエス様はその十字架を最後まで貫き通したのです。なぜならばそこに神様の完全な計画があるのです。この十字架にこそ真の幸いがあるのです。
苦しさの中にこそ神様の愛が注がれているのです。その愛が私たちに注がれているのですから、私たちも神様の幸いに喜びましょう。それは神様が選んだ預言者たちも同じ苦しみに預かったのですから、私たちも神様に選ばれたのです。神様は、その選んだ者をうれしい時も、苦しみの時も共にいてくださることに大いに喜びましょう。
2022年3月12日 益子教会土曜礼拝説教要旨
聖書 ローマの信徒への手紙 5:8~11
メッセージ「神は愛を示されました。」
神様は、わたしたちを愛してくださっております。しかし、その神様の愛を一身に受けているはずなのに、わたしたちはどうでしょうか?自分の都合の良い様に神様の愛を理解しているのではないでしょうか?助けて欲しい時には必死で叫び、助けを求めます。ですが、神様が恵みを与えてくださっても自分がこのようにして欲しいと願ったことと違えば、文句を言い、神様を批判します。つまり自己中心の考え方は、やがて人間を傲慢に変え、人間は神様から離れ、次第に忘れてしまうものであります。しかし、神様は、忍耐をもってわたしたちを愛し続けてくださるのです。わたしたちも今日与えられた御言葉によって、神様の愛がどれだけ大きなものであるかを学んでいきたいと思います。
わたしたちは、普段生活する中で、何が正しいか正しくないかを自分自身の立場と照らし合わせて、判断します。その際、神様を信じているのであれば神様の考えに従いたいと思っております。ですが肉の欲に負けてしまう時もあれば、従おうと思っても心が苦しくなって出来なくなる場合もあります。つまりわたしたちは、強い存在ではなく、弱い存在であるということを自身が認めなければならないのです。なぜならば、わたしたちは、この世で生活をしていますと様々な問題がわたしを惑わし、流されやすい環境にあります。そのためどんなに正しいと思っていても正しくない行動をしてしまう時があります。
しかし神様はそうではありません。神様は命を賭してわたしたちを救ってくださるのです。友のために命を捨てること。これよりも大きな愛はないと聖書で書かれています。そのことを実践してくださるのが神様です。神様の愛は、わたしたち弱い者だけに限らず、神様に背く者に対しても愛を示してくださったのです。それがイエス様です。しかし人間はそのイエス様に対して、どのような感情を表わしたでしょうか?ある者は、病を癒していただき、喜びあふれ、神様に従おうと思った人もいれば、その行いを見て、神様を侮辱したと怒りを露わにした者もいました。その結果人間は、イエス様を十字架につけて殺してしまうのです。しかしその行いは神様が計画されました。その犠牲がなければ、わたしたちの罪を贖うことはできませんでした。つまり神様の計画によってわたしたちは大きな愛を得たのです。命を賭して、わたしたちの罪を拭ってくださったのです。
わたしたちはその大いなる愛を誇ります。その愛がなければ、わたしたちはどんな生活をしていたでしょうか?愛のない生活は心を枯渇させ、略奪を繰り返し、疑心暗鬼の心で生活しなければなりません。このレントの時、神様がどんなにわたしたちのことを愛しておられているかを思い起こす時です。この世では、自己中心的な考え方が蔓延しております。しかしその考え方が破滅へと進んでいるのだということを改めて感じなければならないのです。主の愛がすべての人に与えられるようにわたしたちは祈っていかなければならないのです。神様が、イエス様がしてくださったように、愛に生き、愛によって互いを理解し、助け合って神様のことを知らない人に愛を示そうではありませんか。
2022年3月12日 益子教会礼拝説教要旨
聖書: ローマの信徒への手紙 5:8~11
「神は愛を示されました」
神様は、わたしたちを造り上げた時からわたしたちを愛してくださったのです。しかし、わたしたちはどうでしょうか?自分たちの都合の良い様にとらえてはいないでしょうか?
自分が神様を必要である時には、必死に叫び、助けを求めます。しかし、いざ与えられた恵みが自分の想像した事と違う時、どうでしょうか?神様に背きの心を抱くのではないでしょうか?それは、個人差があるかもしれません。わたしは正直最後まで神様を信じぬく自信がありません。なぜなら自分は弱いと自覚しています。そのような時でも神様はわたしたちのために命を捨てることをいといません。むしろそのような状態になるのも、理解して創られたのです。ですから、神様を信じることができるのです。その無償の愛によってわたしたちを救われたのです。信じることこそが神様の希望につながっていくのです。それは愛というものが忍耐によって生まれることをわたしたちは知っているからです。つまり、希望を与え続ける神様は忍耐の礎と呼べるでしょう。
2022年3月6日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 エレミヤ書 29:10~14
メッセージ 「心を尽くし、わたしを求めるなら」
本日は、エレミヤ書から与えられた御言葉を共に分かち合いたいと思います。このエレミヤが活躍したのは捕囚前の時代です。預言者は神様の言葉を忠実に伝えねばなりません。たとえ、その言葉によって、相手に恨まれようとも馬鹿にされても語り続けなければなりません。しかしその思いとは裏腹に自分に都合の良いこと、褒められることを人間は好み、大切にしてしまう傾向はないでしょうか?私は時折悩みます。どんな言葉をかけるべきか、しかし聖書はわたしに語るのです。時が良くても悪くても、御言葉を語りない。その言葉に動かされ、今もメッセージを語り続けています。
先週の水曜日から教会歴は、レントに入りました。レントというのは、日曜日を除くイースター前日の聖土曜日までの40日前のことであります。つまり十字架に至る道に集中する期間であります。神様はなぜ、イエス様を十字架につける計画をしたのでしょうか?人間でいえば、十字架は極刑にあたります。その苦しみは表現しきれないものであります。しかしイエス様は世に来られる前から十字架につけられることを前提に生まれたのです。つまり逃れることの出来ないものなのであります。わたしたちはそのことをどのくらい理解できるでしょうか?「出来るならば回避していつまでもわたしたちと一緒にいてほしい」そのように当時イエス様に従った弟子たちも思ったことでしょう。しかしその思いは、神様の計画を邪魔するものにほかなりません。わたしたちにとってすべきことは、その御言葉にどのように向き合うかなのです。
また本日は3月第1主日です。世界で同じテーマを学び、祈る世界祈祷日なのです。今年のテーマは、イングランド、北アイルランド、ウェルズのことを学んでいきます。この3つの地域はイギリスのブリテン諸島にあります。気候や地形など共有する部分も多いですが、異なる文化や言語、政府があります。歴史的にも関連しあい、平和な時代も衝突の時も、弾圧や暴力の時代もありました。直近の動きとして2020年イギリスがヨーロッパ連合EUから離脱し、動き始めています。そしていまでもイギリスは偉大で国際的な影響を及ぼすふさわしい存在だと考える人もおります。核兵器を保有し、余裕が無いのに空母を製造しています。現実は、約1400万人が貧困レベルであると2018年の国連リポートで報告されております。宗教に関して言えば、礼拝出席が減少していますが、社会的貢献(フードバンク、ホームレスシェルター、難民の奉仕)等、先頭に立って行っています。教会も移民者によって活気を取り戻してきているのです。教会も社会も謙虚な姿勢を身に着け、かって支配していた国から学べば、自由と、需要、寛容を身につけることが出来るのです。わたしたちは、この3つの地域から何を学ぶことが出来るでしょうか?環境や文化が違う国から得ることは、その背後には、宗教という神様を信じる心にあると思うのです。わたしたちも、同じように神様を信じていますし、これからも信じていきたいと思うのです。神様が建てられた計画には必ずそのことを心に留められている神様の存在が大きいのです。わたしたちは表面的なものでしか物事はとらえることが出来ないのです。しかし神様は災いの計画をするのではなく、平和の計画を建てられる方だということを信じていきましょう。わたしたちが神様に祈り求める時、神様の計画が成されていくのです。
2022年2月27日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 Ⅱコリントの信徒への手紙 1:3~7
「苦しみも慰めも共に」
わたしたちはこの世で命あるかぎりは、喜びや苦しみを体験いたします。ですが、それはあくまでも個人的にどう感じるかであって、自分以外となると共有しづらいものなのかもしれません。人がどのように感じるかは、その人しか知りえないからです。しかし私たちは一人で生きているのではなく、多くの中の一人であります。つまり自分中心の考え方や捉え方を感じたところで相手も同じ思いになるとは思えないのです。しかし私たちは、自分だけよければという思いを捨て去らなければならないのです。イエス様は、律法の中で何が一番大切な事は何であるかと問われた時に「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くしてあなたの神である主を愛しなさい。これが最も重要な第一の掟である第二も、これと同じように重要である。隣人を自分のように愛しなさい。律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」これは、マタイによる福音書22章37~38節に書かれている言葉であります。神の福音を宣べ伝えたパウロも同じであります。パウロが一生懸命神様の言葉を語ろうともその言葉を理解する人もいれば、そうでない人もいます。「逆にこんなこと言われた」とまるで自分が責められているように思い、パウロをののしり、恨む者もおりました。しかしパウロはどうしたでしょうか?1回訪問したコリントの教会の人々に手紙を書きました。自分が次の地から帰りに寄ろうと思っておりましたが、都合で行けなくなりました。そのため、コリントの多くの兄弟姉妹がパウロに失望したのです。しかしパウロは、コリントの人を大切にする思いを諦めきれなかったのです。なぜならば、パウロは神様の愛を体験しているからです。パウロは、キリスト者を捕まえることが自分の信じる神様への奉仕と考えており、信念をもってそのことに取り組んできました。しかし、イエス様に出会ってパウロは180度変えられていくのです。神様の愛はどんな人にも注がれるのです。キリストの考え方の中で大事なものがあります。愛を貫き通す。これは罪人の人にも良い人にも、子どもにも年を加えられた年配の方であっても、ポジティブな人にも、ネガティブの人であっても、どんな人であっても愛してくださるのです。パウロは嫌われようが、罵詈雑言を浴びせられようが神様の愛を貫き通しました。わたしたちもパウロのように出来たらどれだけ素晴らしいでしょうか?しかし、わたしは、牧師でありますが、完全ではありません。失敗も沢山あります。失言もあります。色々なことをしでかします。また、相手がどんな言葉で傷つくかさえわからず、知らないうちに発して相手を傷つけてしまうこともあったと思います。しかしそれでもなお牧師としてこの場に立っているのは神様が慰めて下さるからです。こんな失態ばかりのわたしであるにもかかわらず、共に歩んでくださっていると感じることができるからです。もし神様の臨在が無ければ、わたしはここに立って御言葉を語る資格はない程の人間と自覚しております。しかしそれでも神様は、折が良くても悪くても御言葉を語り続けなさいと言われております。
御言葉の力は、人間ではできないことを可能にする力があります。それは人間の思いをはるかに超えた力です。人間の考えで死は終わりです。しかし神様はその死を通して、人間を超える力を証明なさったのです。イエス様の十字架は、鞭打たれ、唾を吹きかけられ、侮辱を受け、くぎを打たれ、息引き取るまで見続けられる残忍な処刑です。その苦しみたるや、想像も出来ないほどの痛み、苦しみ、辱めであったと思います。しかしその光景を見て、イエス様と親しい人は、苦しんだと思います。そしてその十字架の最中であってもイエス様は、自分を十字架につけた人たちを赦してやってほしいと神様に願い、同じように十字架につけられた人々を慰められたのです。どんな場面であってもどんな環境であっても、神様の愛は変わることなく、わたしたちに与え続けてくださるのです。わたしたちも誤解を与えてしまうかもしれません。相手が嫌がることをしてしまうかもしれません。それでもわたしたちは愛していきたいと思います。その人が神様に愛されていると気付く時まで、苦しみも慰めも共に歩んでいけたらと思っています。その業は、長い道のりかもしれませんが、神様の愛を目指して私は歩んでいきましょう。
2022年2月20日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 ヘブライ人への手紙 4:12~13
「神の言葉は生きている」
わたしたちにとって、聖書とは何でしょうか?神の言葉であり、わたしたちに注がれた神様の愛であります。しかし中には神様の言葉を聞いた人が書いた人間が造った物と捉える人もいるかもしれません。つまり聖書の言葉をどのように自身が受け止めていくかということになるのです。自分に都合の良いことについては信じる、しかし悪い事や正しく指摘されることにおいては批判する。そのような聖書の読み方をするのであれば、神様の言葉ではなくなってしまうのではないでしょうか?また、その時代に書かれた物であるから私には関係ないというのであれば、わたしたち人間の歩みの中には神様の臨在が無いことになってしまうのです。本日の聖書は、そのような人間の心に響く御言葉が与えられているのです。
まず本日の聖書であるヘブライ人への手紙4章12節から読んでみたいと思います。
というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄を切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることが出来るのです。このように書かれております。つまり神様の言葉は今も私たちのもとにあり、今もなお働きかけて下さるのです。そのような神様の言葉でありますから、まず私たちがかたくな心を捨て去り、素直な気持ちを持たなければ、神様の言葉として聞くことも出来なくなってしまうのです。わたしたちは生きる上で必要な栄養を頂きます。それは体の細胞を作り出す要素の一つであります。しかしどうでしょう。体だけの栄養でよいのでしょうか?心の栄養はどうでしょうか?わたしたちは心と身体の健康が整った時、初めて健康といえるのではないでしょうか?しかしどれぐらいの人が「わたしは心身ともに充実し、健康である」とどれぐらいの人が言い切れるでしょうか?体が痛めば、心も病んでくるかもしれません。逆に心が苦しければ、体に影響を及ぼすことになるのです。つまり体と心は一体であるという事が言えます。しかし神様の言葉は、精神的な部分と肉体的な部分を切り離してくださるのです。つまり素直な心をもって神様の言葉に耳を傾ければ、不安に思えたことも克服できるかもしれません。しかし頑な心をもって神様の言葉に向き合うのならば、自分の思いで神様とのギャップに落胆してしまうのではないでしょうか?それ位神様と人間の考え方には違いがあるのです。そして次の13節で聖書ではこのように書かれています。神の御前では、隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目に裸であり、さらけ出されているのです。この言葉にも私たちは注目していきたいと思います。わたしたちがどんなに富を得ようとも、どんなに強靭な肉体を手に入れようとも、どんなに化学が発展しようとも、わたしたちは神様の前では、裸同然であるという事に気が付くのです。そのような神様に見られているのですから、わたしたちはなにも神様の前では格好をつける必要はありません。むしろかっこうをつけるだけむだなことなのです。ですからわたしたちがまずすべきことは、自分たちを覆っている物を脱ぎ捨てる作業をしていかなければならないのです。今がその時です。神様が御言葉を注いでくださるこのチャンスを逃してはならないのです。神様の言葉で私たちは変えられていく喜びを味わうべきではないでしょうか?
2022年2月12日 益子教会礼拝説教要旨
聖書 ヨハネの黙示録 3:20~22
メッセージ 「戸口に立って、たたいている」
わたしたちは、どのような思いを持って日々歩んでいるでしょうか?ただ漠然と生きているかもしれません。もしくは志をもって、目標を目指して歩もうと思っていてもそうできずにいる日々を過ごしてはいないでしょうか?本日私たちに与えられた御言葉はヨハネの黙示録です。初めの部分では7つの教会にあてた手紙が記されております。様々な教会はそれぞれ良い所、悪い所があり、その事をどのようにすべきかということを問われております。この教会を心と言い換えるとわたしたち自身に神様が伝えようとしているのです。わたしたちは信仰を持っているから正しいのではありません。わたしたちは神様に罪をゆるされているのであれば、何でもしてもよいのではありません。むしろ、わたしたちは神様が赦してくださったと同時にわたしたち自身も正しく励むように言われているのです。本日の箇所は、ヨハネの黙示録3章の14節から成るラオディキアにあてた手紙を主に見てみたいと思います。15節では、「わたしはあなたの行いを知っている」と言われました。つまり神様はわたしたちの行いを全て知っておられ、熱いか冷たいかどちらでもなく生ぬるいと言われたのです。その生ぬるさは、吐き出すほどであったと言われました。確かにわたしたちは危機迫る思いを持って信仰生活を続けているでしょうか?なんとなく、信仰を考えているのではないでしょうか?そして、自分は金持ちですでに満たされているとの判断に至る場合どうでしょうか?自分自身ではどう思っていても実際には、惨めな者であり、憐れな者であり、まずしい者であり、目の見えない者、裸の者であるにすぎないのです。そこでお勧めの生き方は、火で精錬された金を神様から買い、裸の恥をさらさないように白い衣を買い、見えるようになるために目薬を買うがよいと言われました。それは実際に金を買いに行ったり、白い衣を買ったり、目薬をつけるのではなく金よりも尊い神様の恵みの金を求めていくこと、神様のみことばを純粋な思いを持って聞くこと、そして自分の周りをよく見渡すことなのです。そして私たちを愛するが故に叱ったり、鍛えたりもすると書かれております。だからこそ熱心になって、神様に従えと言われております。そして私たちの心のドアの前に立ち、たたき、わたしたちからそのドアをたたいて玄関先で待っておられるのです。そして、なかからあけたとき、わたしたちとしょくじをいっしょにしてくださるとかいてあります。食事をするということは、わたしたちと喋り、一緒に過ごすことを意味します。それこそが世に打ち勝つ力が与えられるのです。そしてわたしたちが神様の声を聞こうとする時、主の恵みが注がれるのです。そして神様がわたしたちの心のドアをたたく時、神様に「どうぞお入りください」と率先して神様を迎えに行きましょう。
2022年2月6日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 マタイによる福音書 9:36~38
メッセージ「深く憐れまれた」
イエス様は多岐にわたり、わたしたちを神様の道へと導いてくださったのです。時には、神様の福音を宣べ伝え、またある時には病を癒してくださったのです。それは、人間として生活し、共に歩んでくださったからこそ、イエス様の目に映る人々の姿が飼い主のない弱い羊に見えたのかもしれません。そのことを深く憐れまれたのです。歴史の中でも神様はわたしたちを憐れんでこられました。イスラエルの民がエジプトの国で苦しみの声をあげた時に、神様はその声を憐れまれたのです。そのように様々な叫びに耳を傾け、憐れんでくださったのです。この神様の憐みは私たちに生きる力を授けて下さるのです。
わたしたちの周りにも様々な事が起こります。地震や火山噴火、大雨や洪水、雪、気温、自然災害だけではなく、社会に生きていますと、いじめや恫喝、政策、家族間の妬みや恨み、周囲との関係、国同士の争い、国内でのいがみ合いなど苦しんでいる兄弟姉妹は数知れません。しかし、その一つ一つの問題を全部見聞きした時、皆さんはどう感じるでしょうか?関心のあることだけを拾い上げ、何かしらの感情を抱くのではないでしょうか?悲しんだり、怒りがこみあげてくるかもしれません。しかし何日かしたら忘れてしまうものであります。しかし、神様は決して忘れずほおってはおられないのです。だからこそイエス様をおつかわしになったのです。そのイエス様の活動によって、どれぐらいの人が慰めを受け、癒されたでしょうか?それは数えられない人々がイエス様と出逢い、神様の憐みを受けたのでした。それは今も継続して行われ、わたしたちは神様の憐みを受けています。
しかし、どうでしょうか?その神様の憐みは次から次へ与えられています。収穫は多いのですが、その収穫する担い手が少ないのが現状です。わたしたちに出来ることも限られているのです。だからこそ神様の憐みを受けた者を収穫する者が必要なのです。野菜でも果物でもおいしい時期に摘み取らなければ、熟し、次第に味は衰え最後には腐ってしまいます。それは人間にも言えることではないでしょうか?イエス様も魚の漁師、徴税人など、様々な人を弟子にし、共に神様の任を担う者と共に歩まれました。その目的のために人間をとる漁師にさせたのです。つまり神様の恵みを受け、神様を信じたいと思う者を大切にしてくださったのです。わたしたちも教会に来てくださった方が神様に繋がって欲しいという気持ちを持っています。しかしなかなか続かないこともあります。その人がどのようにすれば教会に繋がっていくのか、その人の悩みに対して、寄り添うことが出来ればと思いつつも、神様に委ねていかなければ、正しい答えは見いだせないかもしれません。
しかし、恐れてばかりはいられないのです。わたしたちもこの世で生きている時間は限られております。長く生きるかもしれませんし、明日には死んでしまうかもしれません。そのような中にあっても、相手を大切にし、ただ憐れむのではなく、深く相手の事憐れんでいければと思うのです。どのような方法が正しいのか、どのようにすれば相手を憐れむことが出来るのか、わたしたちは熟慮しなければならないのです。つまりイエス様が示されたように相手の痛いところ、患っているところに触れ、その傷を癒し、神様の福音を延べ伝えていくことしかないのです。もしかしたら、イエス様のようにはいかず、相手を傷つけてしまうかもしれません。イエス様の様に正しく神様の福音を宣べ伝える事が出来ないかもしれません。しかし最後は神様に委ねていけば、必ず道が開けることを信じ歩んでいきたいものです。
2022年1月30日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 マルコによる福音書 8:34~36
メッセージ「わたしに従いたい者は」
イエス様は、わたしたちと弟子たちに向かって「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われました。本日は従うということを皆さんと考えてみたいと思います。弟子たちもイエス様に声をかけられ、癒され、自分の過ちに気付き自分たちの思いを超える神様の力を目の当たりにして信じたという経緯があります。
イエス様は従う条件として、二つのことをわたしたちに示されたのです。まず一つ目は、自分を捨てるということです。弟子たちも自分の地位や立場を捨ててイエス様に従ってまいりました。わたしたちも同じように今あることを全て捨てきることが出来るでしょうか?出来ますよという人もいるかもしれません。でも私はできません。何一つ捨てたくはありません。でも神様に従いたいですという気持ちもわからなくはありません。しかしどうでしょうか?どんな方であっても年を重ねていけば、少しずつ何かが欠けていくものです。それは経済的なものであれ、肉体的なものであれ、昔持っていたものが昔のようにはいかないということであります。それは老いという概念で考えるならば、若いときには、走ることも飛ぶことも自由にできたことが出来なくなるということもそうですし、昔は勉強ができて、頭が良かったという人もたった一つのことでさえ忘れてしまうことはないでしょうか?その肉体的要素は誰にでも感じることが出来ます。どんなに健康食品を食べ、医者に通い、運動をしている人も老いてきます。どんなに化学が発展しようとも、わたしたちは過去に戻ることも出来ない現状です。もしかしたら運動や脳の働きはやる気があれば、回復もしくは向上するかもしれませんが、年だけは減らすことはできないのです。つまりどんな人も年を重ねるしかないのです。しかしそのことを悔やむのではなく、そのことさえ神様の恵みと感じることが出来たら幸いなのではないでしょうか?私たちはこの世での生活を終えれば全て無になります。それは、肉体だけではありません。地位もお金も服も家も全ていらなくなるのです。全てを捨て去ることが出来るのです。持っているものはすべて神様から与えられたものであります。その与えられたものが無くなっていくという事は自分を少しずつ捨てていく過程であると考えれば、捨てることや無くなることの恐れは消えるのではないでしょうか?わたしたちはいっぺんに捨てることは難しいでしょう。でも一個ずつ捨てることは可能ではないでしょうか?神様は忍耐をもって私たちを愛して下さっております。わたしたちがどんなに頑なな心であっても、神様は変えて下さることでしょう。人間の歴史を振り返ってみましても、昔と今ではかなり違うことも事実です。それは、大切に守ってきたことと同時に捨ててきた事実もあるのです。つまり捨てることによって新たな一歩を踏み出してきたのです。無くなることが悲しみから喜びへと私たちを神様は導いてくださるのです。
従うための条件のもう一つは、自分の十字架を背負ってと言われました。しかしこの十字架は自分が思っていることの十字架のほかに神様から与えられる十字架もあるということです。その十字架は時間によって変化します。初めのうちは苦しみであったはずが、いつの間にか喜びになることがあります。十字架を重荷と考えているうちは苦しくて仕方がありません。早く取り除いてほしいと誰もが考えることでしょう。しかし神様は十字架を背負わせるとともに、休ませる場も設けてくださるのです。そして共に歩んでくださるのです。
更にイエス様は、命について語られました。どんなに自分のために運動をし、サプリメントを飲み、食事を制限しようとも自分のために命を得ようと考えるとその命を失ってしまう可能性もあります。そのことを得ようとするためにはお金がなくてはなりませんし、自分が手に入れたいと思えば、相手から奪うこともありえるでしょう。逆の事もいえるのです。自分が持っていても、相手から奪い取られ、命をなくしてしまうかもしれません。そのように人間の世界は恨み、ねたみが存在するのです。つまり自分のために得ようとすればそのものがなくなってしまうでしょう。一方で神様のこと、福音のために命を注ぐ時、命を得ることが出来るのです。わたしのためにと聖書に記されています。これは神様のためにということであります。つまり神様のことを覚えて行動に移すとき、その行いそのものに神様の思いを行動に影響を与える事が出来るのです。そして福音はわたしたちにとって良い知らせであり、その善い知らせはわたしたちを救ってくださる計画です。神様は、命を得させるためにわたしたちに律法を与えました。しかし自分の都合の良いように理解した時、その人を批判し、律法を守れない人の命を奪う結果が生まれるのです。神様は律法の中で一番大事なのは、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、主なるあなたの神を愛せよ、第二も同様である。自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ、その言葉に律法は凝縮されております。神様のために、人のために尽くす事これこそが命を大切することにつながっていくのです。そのようにわたしたちは神様に従って生きたいものです。
2022年1月23日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 ヤコブの手紙 5:13~16
メッセージ「信仰に基づく祈り」
皆さんはお祈りについてどのように考え、どのように生活に取り入れているでしょうか?「もちろんお祈りをしています。」と答える人もいれば、「いやあまり祈らないですね」と答える人もいるかもしれません。また、家では食事前などにお祈りしても、外に出るとその食前の祈りですら祈らない人もいます。それはなぜでしょうか?それは、周囲の目が気になると感じているのかもしれません。しかし、どんな時でも祈ることを聖書で教えていただいています。ですから、声を出さずとも祈ることはできると思うのです。神様を信じる者であれば、ぜひお祈りを日常の生活に取り入れてほしいです。そして本日は皆さまに更にお願いしたいのは信仰に基づいた祈りをささげてほしいのです。
信仰に基づく祈りというのは、霊に満たされて祈ることであります。お祈りは、神様との対話でありますから、心に思うことを何でもお話しくださっても構わないと思うのです。それこそ、あれが嫌だ、こうしたいと自分の心に浮かぶこと、喜びも悲しみも素直に話して欲しいのです。今日読んだ詩編もそうですが、聖書で書いてよいのだろうかと思うような表現の言葉で書かれてある場所もあります。しかし最後には神様の御名を祝福して終わるのです。つまり呪いの言葉よりも祝福し、相手のことを神様に願うのです。つまり聖書の言葉でわたしたちの心は変えられていくのです。わたしたちは信仰に基づく祈りを習得したいのであれば、祈る前に聖書を読み、賛美をすることをお勧めします。しかし祈る度にそのような準備はできませんし、祈りの手軽さを損なう可能性があります。そこでお勧めしたい方法があります。それは、自分が好きな暗唱聖句を一つか二つあると、聖句を唱えてから祈るのとそうでない祈りは雲泥の差があります。まずどんな方法であれ、世俗的な考えから離れる効果的なものは、やはり神様に繋がることです。世俗的な考え方は、神への思いを曇らせます。ねたみや恨みばかり頭に浮かび、神様が与えて下さった隣人を素直に愛することが出来ないからです。もちろんすべての事を愛で考え、愛で支えられることが理想でありますが、できない現実も神様はご存じなのです。それぞれの心の働きに耳を傾けてくださる神様です。何よりも誰よりも私たちを愛して下さる方でありますから、その心も十分承知の上で苦しい時に祈りなさい、喜びの時には賛美しなさいと聖書で言われていますが、逆の場合もあり得ます。つまり喜びの時に祈り、苦しい時に賛美するのです。常に自身が神様に向き合う姿勢を保つように心がける事こそが必要なのです。もしもそれでも自分は信仰に基づく祈りは出来ませんと言われるのであれば、お祈りの前に一言付け加えてほしい言葉があります。「神様、わたしをお救い下さい。」その言葉をぜひお祈りの前に付け加えて下さい。その言葉は、本当に信頼しないと出てこない言葉です。イエス様に癒して頂いた人たちは、大きな声を張り上げ、イエス様を呼び止め、何とかしてほしい現状を訴えます。その叫びをイエス様が聞き取ってくださり、「どうしてほしいのか?」と声をかけて下さるのです。わたしたちにも必ず耳を傾けて下さるのです。その思いに必ず答えて下さる方なのです。しかし世俗的な悪い心で祈る時、本当に助けて下さるのか、本当に救ってくださるのか、疑問を抱きます。その心は霊的ではありません。神様を信頼するならば、必然的に愛ある言葉で祈ることが出来るのです。それはどんな年齢であろうがどんな状況であろうが、神様を信用していれば、霊的祈りに変えられていくのです。それこそ信仰に基づく祈りなのです。
2022年1月15日 益子教会土曜礼拝説教要旨
聖書 ルカによる福音書 11:9~13
メッセージ「求めなさい」
神さまは、すべてのものを用意してくださる方です。しかしいつ与えられるか、わかりませんが必ず与えてくださる方であります。ですが神様の気持ちにそぐわない形の場合はいつまでもその願い事はかないません。なぜなら恵みは神様から与えられるからです。恵みをくださる神様はわたしたちが求める事よりもより確かなより良い方法を知っておられる方であります。もしも自分が求めることと全く違うことが起きた場合、どうでしょうか?もしかしたら「なんで?」と思われるかもしれません。しかし神様を信じる者であれば、こう感じてほしいのです。「なるほどそうきたか!」と神様が出してきた提案に向き合ってほしいのです。しかし今の世の中の状況や災害をどのように考えたらよいでしょうか?なぜ神様はこのようなことをなさるのでしょうか?先ほど述べたようにわたしたちよりも確かな良い方法をわたしたちに与えられると申しました。わたしたちもどうしてなのか、それが最善の良い方法だとは、思いません。しかし神様はわたしたちに与えられるのです。人間はどうしてもその直近のことしか考えられず、その先が見えていないのも確かです。その地震などの災害やコロナのようなウイルス蔓延のような状態、もしくは戦争も起こるが世の終末が近づいているのではないかと、思う方もいらっしゃるかもしれません。しかしそのことが起きても世の終わりではないと書かれています。つまり人間がこの世で生きている限りはそのようなことは起こるのです。しかしどうでしょうか?その災害やウイルスの蔓延状態は、お互いが相手のことを考えるようになったのではないでしょうか?こんなに苦しんでいる人がいるんだ、こんなに困っている人がいるんだと互いのことを気遣うようになったのではないでしょうか?そのように今ある状況も神様はわたしたちにお互いに愛することを思い出させてくださったのかもしれません。
また、なぜ世界に平和が広がらないのでしょうか?なぜ今もまだ武力に頼る行いが世界中にあるのでしょうか?人間は今まで、何年も「平和を与えてください」と祈ってきました。しかし未だにそのことはなくならないばかりか様々な兵器を開発し、兵力を増強しています。平和は神様の御心ではないのでしょうか?そんなことはありません。神様はイエス様を遣わし、平和があるようにと挨拶をされます。また、イエス様の教えでは呪いの言葉よりも相手を祝福しなさいと言われ、目には目を歯に歯をと言われていたことを、そのようにではなく、自分を愛するように自分の隣人を愛しなさいと神様が与えてくださった律法の一番大切なことを教えてくださったのです。
ではなぜ、戦争は起こるのでしょうか?なぜ平和が訪れないのでしょうか?それは、人間の視点で物事を考えているからです。人間には寿命があり、時間が限られているからです。つまり私たちが生きているうちにと考えてみたくなるのは当然です。しかしその求めるものはすぐに与えられないのです。それは神様のタイミングでのみ与えられるものなのです。でも少しずつではありますが、世の中が変わりつつある現実も見え隠れしていないでしょうか?戦争をしていた時代に比べて、平和のことを考えようとしているのではないでしょうか?まだまだ時間がかかるかもしれません。つまり求めることは、忍耐が必要であるということです。どんなに時間がかかっても神様は平和を与えられることでしょう。なぜならばそのことを望んでいるからです。そして与えられると宣言しているわけでありますから、わたしたちは信じて待つことも求めることであり、与えてくださる神様を信頼する事だと思うのです。ですから私たちはとにかく神様を信頼し、神様に求めていきましょう。それがわたしたちにとって、一番大事な方法であり、神様に求める本当の姿なのです。
2022年1月9日 益子教会 主日礼拝説教要旨
聖書 ヘブライ人への手紙2:1~4
メッセージ「聞いたことに注意を払う」
信仰を持つ者にとって大事なことは神様の御言葉であります。この御言葉はときにわたしたちを励まし、またある時には「こうしなさい」と道を示してくださいます。しかしどうでしょうか?その言葉を皆さんはどのように受け止めているのでしょうか?1回では、御言葉が語ってくる神様の思いをどこまで理解できるのか定かではありません。むしろ理解するために神様の言葉を何度でも聞きなおすことの方が誠実かもしれません。しかし時間がないと気にする方もいらっしゃるのではないでしょうか?確かに1時間、2時間聖書と向き合う時間をなかなか取れる方はおりません。しかし、1,2分ならどうでしょうか?まあそれ位ならと考えた方、ぜひ今日からでも聖書と向き合ってみてください。
さて、わたしたちは神様からこの御言葉を与えられました。今では便利になって聖書を手にして、好きなところを読むことができますし、いつでも触れるチャンスがあるのです。反面すべての人に触れることが出来るということは、聖書を悪用するという人も出てきます。イエス様も洗礼を受けてから悪霊と戦うために荒野に出かけました。そこで40日間食事を取らずにおりました。その精神的にも体力的にも弱っている時、悪魔が近づいてくるのです。
その悪魔は、御言葉を利用してイエス様を陥れようとするのです。しかしイエス様はその誘惑に打ち勝ち、宣教の業を始めていくわけであります。今の世の中もそういった状況があるかもしれません。わたしたちは注意深く御言葉に触れる必要があるのです。本日の聖書によれば、このように記されております。ヘブライ人への手紙2章1節です。だから、わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わなければなりません。そうでないと、押し流されてしまいます。この言葉は、今この世で生きている私たちに神様は警告しているように思えます。つまり、神様から与えられた言葉を表面的になぞり、こうしてはならない。こうしなければならないと狭い視野の中に閉じ込めてはいないでしょうか?神様から与えられた律法、つまり神様と人間との契約で「こうしなければならない。」との文章が綴られております。ごもっともと納得する内容です。しかしその与えられた内容をもとにわたしたちがその相手を裁くことが正しい判断ではないのです。あくまでも裁かれるのは神様です。神様に仕える天使でもありません。どんなに律法を学び、教えられる知識があっても裁く権利はありません。ましてやその神様との約束を守れないとレッテルを張り、差別すること自体が間違っています。神様の教えを守るのであれば、わたしたちがすべきことは裁くことではなく、愛するべきであると聖書は何度も繰り返し、伝えています。それでもなお正義という名のもとに相手を裁くというならば、神様の救いをどう理解するのでしょうか?神様の救いは全ての民を救うという目標を掲げています。わたしたちは、聖書にあるように互いに愛し合うことが出来るでしょうか?出来ると断言できる方はどれぐらいいるでしょうか?また神様が造られた一人一人を愛する事には限界がある気がします。其々個人個人が様々な思想をもって生きています。どうしても相いれらない関係もあることでしょう。しかし、わたしたちがそのことをできるように神様はわたしたちにイエス様をお与えくださったのです。イエス様とならわたしたちは愛を聞くことが出来ます。。愛ある行動を選択できます。イエス様がわたしたちに与えられたしるしであり、わたしたちを救う道であり、イエス様こそが真理なのです。つまり私たちは今一度聖書に振り返ってみてはいかがでしょうか?そして何度も何度も読むのです。聖書に触れることによって、御言葉をかみしめ、味わうことが出来るのです。わたしたちは、この新しい年、御言葉に注意を払い、神様が何を言わんとしているのか何度も味わっていきたいと心から願うものであります。主の御言葉に耳を傾ける時、心も体も御言葉に委ねていきたいものです。
2022年1月2日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 ローマの信徒への手紙 14:6~8
「主のために」
わたしたちは何のために生きているのでしょうか?わたしたちは、何のために死んでいくのでしょうか?むしろそんなことを考えたことないといわれる人もおります。ですが神様を信じる者にとっては、どう生きていくという事は大変重要なことであります。今の時代、いろいろな可能性がある半面、様々なことに生きにくさを覚えるのではないでしょうか?コロナの影響だけでなく、以前からコミュニティー能力が低下している傾向はありました。人付き合いが苦手な人が増え、相手と顔を合わせて話をするよりもネットでの会話をする状況が増え、相手の気持ちを全く考えずに自分の思いだけを伝えるような人も増えているのが現状ではないかと思います。その逆に人前では何もしゃべらないという人も増えています。一方的な思いは、誤解を生みだしかねないのであります。その誤解という摩擦を軽減するために対話は必要でありますが、言葉は誤解を生むことがあります。非常にデリケートで「じゃあ、どうすればといいの?」いう考えに陥ってしまうのではないでしょうか?
もちろんどう生きようが最終的には自己責任であります。親も初めは親身になって話を聞くでしょう。ですが最後まで面倒を見きれないのが現実かもしれません。事実人間は年を加え、老いてくれば自分の事で精一杯です。したくても限界があるのです。では一人でやるしかないのかと落胆する必要は全くありません。むしろ私たちはそこに気が付くべきではないでしょうか?自分の為ではなく、何をするにも神様のために力を注いでいく生き方を見出せれば、どんなに楽な生き方ができるのではないかと思えるのです。なぜなら神様には限界がないのです。人間が考えた保証は絶対ではありません。人間が考え出した保険はどうでしょうか?お金があれば保証されますが、お金が無くなったらどうでしょうか?契約が破棄されてしまいます。保険会社も万能ではありませんから、すべてのものに対応できないかもしれないのです。人間で言いますと、先ほど言いましたように年齢もそうですが、距離や国によって制度が違いますから、すべての人が対象ではないのです。しかし神様は違うのです。信じるものすべてが対象であるとともに無期限でお金もかからないのです。また、一定の距離感を保持し、時と場合によっては、わたしたちの意思よりももっと深く、広く、大きな視点をもって私たちに恵みを注いでくださっているのです。
ですから何をするにしても神様のために行ってみてはいかがでしょうか?神様のために生きてみたらいかがでしょうか?神様は律法を与える際にこう約束されています。旧約聖書の出エジプト記20章6節「わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える」と記されています。しかし、前の節の終わりにはこう書かれております。「わたしは主、あなたの神、わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に3代、4代までも問う」のです。
2021年12月26日 益子教会説教要旨
聖書 ヘブライ人への手紙1:1~4
メッセージ「御子によって語られる」
教会におきまして、クリスマスから新たな年が始まります。わたしたちはイエス様の誕生を祝うと共に新たに与えられる時間をどのように生きるかどのように有効に使うかを考えてみたいと思います。そもそも時間は誰によって造られたのでしょうか。そして誰が司っているのかと申しますと、神様であります。神様は天地創造の時に太陽と月、そして様々な星を造られました。朝があり夕べがあったと創世記で書かれてありますように書いてありますようにその時から時間という概念が生まれました。その星の動きは時を知るだけでなく、変わりゆく様々な状況を人々に現わしてきました。その一つがイエス様の誕生を予告し、羊飼い、占星術の学者たちをイエス様へと導くのです。このイエス様の誕生により、新たな時代への幕開けとなるのです。今までは、預言者という神様の言葉を受け取る者によって、神様の言葉が語られ、またその言葉を聞いて書き留め、人々に伝わってきました。しかし、その事もずれが生じてしまいます。わたしたちはパーフェクトではありませんので、間違ってしまうこともあるのです。そのことを神様は理解しておられ、わたしたちにイエス様をお与えになったのです。イエス様の働きによって、今まで教育されて、覚えてきたことや神様から与えられた律法という名の神様との契約の約束の見直しがされたのです。人間による視点から神様の視点につまり大きく変えられていくのです。
本日与えられた御言葉にこのように語られております。ヘブライ人1章の2節をお読みいたします。この終わりの時代には、御子によって私たちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。とこのことばであります。皆さんは、どう受け止めるでしょうか?今までの様に律法の言葉や人間の思いでつづられた圧迫の中で生活するか、それとも神様の大きな愛の中で愛に満たされて過ごすかという事であります。イエス様が神様の栄光を現すためにお話しになった言葉や癒しを求める声に耳を傾ける姿勢は、今までないものでありました。思い皮膚病を患う者は隔離され、疎外されてきました。また、心に病を伴う者は、墓に鎖で縛るなどの話が新約聖書でも出てきます。そのためその者自体を汚れた存在として扱ってきました。しかしイエス様はどうでしょうか?その人に近づき「何をしてほしいのか?」とダイレクトに語りかけて下さるのです。又求める者に対しても無視をしません。どの病人に対しても寄り添う姿勢を貫かれたのです。最終的には、十字架上で放たれた言葉がよりイエス様のこの世で存在を引き立たせるのです。その言葉は、ルカによる福音書23章34節にこう書かれているのです。その時イエスは言われた。「父よ彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです。」その言葉は自分を十字架につけようとする者に対して神様に赦しを請うのです。その行為や言葉は万物を相続する者に定め、新たな世界の創造主とならしめるのでした。
そして神様の栄光を反映され、力ある言葉で支え、わたしたちを救ってくださったのです。わたしたちを救った後、神様の右の座に就かれたのです。このように考えますと、神様が与えてくださったイエスによって新しい時間をどのように過ごしたらよいかを見出すことができるのではないでしょうか?イエス様はインマヌエルです。神は我々と共におられるその名に私たちは神様の恵みを大いに感じ、天使をはるかに超えた存在であることに気付かされます。どうぞ新しい年をイエス様が語られる言葉に耳だけでなく心も神様に傾けていきたいと心から思うのです。
2021年12月19日 益子教会説教要旨
聖書 ルカによる福音書 2:8~14
メッセージ 「あなたがたのために救い主が生まれた」
クリスマスおめでとうございます。ろうそくの火が4本灯り、クリスマスの讃美歌を共に賛美しますと心が喜びで満たされるのを感じます。今日は羊飼いのもとに天使が告げられた大きな喜びについて語らせていただきたいと思います。
当時羊は、需要が高く毛や肉など重宝しておりました。その羊と共に日昼夜時間を過ごしますので、大変な仕事の一つでありました。なぜならば朝から晩まで時間が羊に縛られておりましたから、様々なことも疎遠にならざるおえません。そうしますとどんなに信仰深い人であっても礼拝を司る祭司や律法学者等からは、礼拝が守れない者として、誹謗中傷を受けたかもしれないのです。その声は、人々に流されていたかもしれないのです。ですから社会的には、蔑まれた存在でありました。しかし羊飼いたちはそのような声があっても、その与えられた仕事も誇りをもって行っていたことでありましょう。なぜならばイスラエルの先祖は皆羊飼いをして暮らしていたからです。それともう一つ大きなことがあります。こんな社会的な立場であっても、救い主の存在を語り告げられていたことでありました。預言者が神様に教えられた言葉が民に伝わり、その言葉が歌になり、そしてその歌が、もしも羊飼いが歌いつないでいたとすれば、どうでしょうか?いつ来るかわからない救い主の存在を信じていたわけであります。しかし時が過ぎゆけば、人間は年を取り、やがてはこの世を去ります。その歌の意味も分からず歌い続けていたのかもしれません。そのようなことを考えますと、神様の計画に何一つ無駄がないことがわかります。つまりその言葉を歌に変えたのも神様の霊が働かれ、そして歌い続けたのも神様のことを忘れない心を持たせる配慮だったのかもしれません。そのような背景を考えますと、社会的に染まることなく、純粋な思いをもって羊と接してきた羊飼いのもとに天使が来るのも頷けます。
羊飼いのもとに来た天使は開口一番こう伝えたのです。「恐れるな。わたしは民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたの為に救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたのしるしである。」その声を聞きました。更に天使の大軍が加わり神様を賛美しながら「いと高きところには栄光。神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ」まぶしく恐れて目を伏せていた羊飼いでしたが、その声は十分に聞き取ることができました。そして、「さあ」、ベツレヘムに行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合い、神様に導かれてイエス様を尋ねに出かけたのです。その中には怖くていかない者もいたかもしれません。ですが、羊飼いはベツレヘムに向かうのです。そして、天使が告げたことが本当だったので、夜中ではありますが、その事を大声で町の人に伝えました。普段は静かだったと思いますが、その当時人口調査のために人が溢れかえっていたのではないかと推測されます。その中で救い主がお生まれになったという言葉にどのぐらいの人が耳を傾けたでしょうか。その喜びをどのぐらいの人が理解したがどうかわかりません。もしかしたらただ「うるさい」とだけしか思わなかったかもしれません。しかし羊飼いは大声で叫び続けたのです。「わたしたちに救い主がお生まれになったのだ」わたしたちもそうです。このクリスマスの礼拝はろうそくが4本、おなじみのクリスマスキャロルを歌えば、心が喜びに満たされるのではないでしょうか?しかしここにいない人はどうすればよいでしょうか?わたしたちにはたくさんの知り合いや家族がいます。その方にできることは、何でしょうか?その中には神様なんていない、教会なんて行きたくないと思っている方もいるかもしれません。その人をどうこうしようと考えているわけでもないのです。ただただ願いは、平和で、健康で、恵みに満たされ過ごしてほしいという思いです。その思いを神様に委ねていくことはクリスチャンにとっては、ごく自然なことであります。だからこそ私たちはこのよろこびの時だからこそ、神様に祈っていきましょう。一人一人の平安を願って、一人一人が希望をもって歩めるように、そして喜びに満たされますように祈っていきましょう。それがこの喜びの時に私たちがすべきことなのです。
2021年12月12日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 ルカによる福音書 1:39~45
メッセージ 「胎内の子は喜んで踊る」
日々の生活に追われていますと、あれやこれや考えているうちにその日が終わってしまうことはないでしょうか?また、仕事をこなすことに精いっぱいで色々な感動や喜びの心を忘れてしまってはいないでしょうか?当たり前に生活できるということがどれだけ素晴らしい事なのでしょう。どれだけ感謝の念をもって過ごすかによって日々の感じ方が違ってくるのです。今日は、その事も踏まえてアドヴェント第3のテーマである喜ぶ心を考えていきたいと思います。
わたしたちは喜ぶとき、どんな感情表現をするでしょうか?大声で叫ぶものもいれば、ガッツポーズをとるものもおります。また歌ったり、踊ったりします。感情を豊かに現わす者とは対照的に表現をするのが苦手な人もおります。本日与えられた聖書では、胎内にいる赤ちゃんの喜びが躍るという表現で表されております。普通妊娠中の女性がおなかの赤ちゃんが動いた、蹴ったという言葉を使いますが、踊るという表現は動きが激しかったのかもしれません。それほどマリアの声にエリサベトの胎内にいる赤ちゃんは反応したのかもしれません。このエリサべトも神様に喜びを与えられた一人であります。先週、天使ガブリエルがマリアの所に来て神様の霊に満たされて男の子を産むお話をいたしました。天使ガブリエルが最後に言い放った言葉は親類のエリサべトが身ごもっている話を聞き、自分の目で確かめようと急いでゼカリアの所に向かったのです。そこでエリサベトと対面し、神様の言われたことを確信するに至ったのです。そこでマリアは3ヶ月の間エリサベトと一緒に寝食を共に暮らし、徐々に気持ちが整ってきたのではないかと推察します。不安な思いはいつしか喜びへと変えられていくのです。
私たちもいつの間にか喜びであるはずが苦しみに変えられていくという事はありませんか?不安を数えたら、恵みでさえもこんなはずではなかったと落胆の思いに駆られはしないでしょうか。わたしたち神様を信じる者には生活の指針は聖書にあります。たくさんある中で、皆さんと分かち合いたいのが、Ⅰテサロニケの信徒への手紙5章16~18節の言葉です。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、イエス・キリストにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」いつも喜ぶこと、絶えず祈ること、どんなことにも感謝する。このようなことは今までもやってこられたという思いもあると思います。しかし私がこの言葉にさらにつけ加えたいのが、もっと、今まで以上に喜び、祈り、感謝したいのです。神様はイエス様をくださり、わたしたちを苦しみから解放して下さるのです。寂しい気持ちがうれしい気持ちへと変えられていくのです。神様は私たちが苦しんでいるのを知っておられ憐れんでくださるのです。その一つ一つの業をほめたたえ、祝福に変えて下さるのです。どうぞ私たちは神様の恵みの中におりますので、喜び踊り、主の御名をたたえていきましょう。
2021年12月5日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 ルカによる福音書 1:26~38
アドヴェントの第2週を迎えました。2週のテーマは、神の宣言です。わたしたちには神様の計画が与えられております。しかしその計画は、預言者に語られることが多く、わたしたちのもとにはその預言者を介して、語られた言葉しかありました。ですからその計画は、具体的にどのように行われるものかということも不確かでありました。また、その計画は人間にとって、考えられないことをお与えになるのです。その計画は神様には先が見えていることなので善いものでありますが、人間にとってはそのことを伝えられるということは少なからず動揺を感じるかもしれません。そのようにわたしたちは先のことが見えていないことが多いのです。しかし神様の計画は突然予期しない時に与えられるものです。
ある時、神様がガリラヤ地方のナザレという村に住む少女マリアのところに天使ガブリエルを遣わしました。そこで、ガブリエルがマリアに初めに伝えた言葉は「おめでとう恵まれた方、主があなたと共におられる」であったのです。皆さんもどうでしょうか?突然目の前に見たこともない人が現れ、この言葉をいきなり投げかけられてきたら驚きもするでしょうし、どうしたらよいのかわからなく立ち尽くしてしまうかもしれないのです。マリアも同様に戸惑い、この言葉の意味を理解しようと考えこんでしまうのです。何か特別なことをしたのではなく、むしろ日常生活をしていた時に現れる神様なのです。つまり神様は私たちの日常の生活の時にこそ現れるのかもしれません。
その様子を察した天使ガブリエルは次のように語ります。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人となり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」
マリアは、その言葉を現実に受け止め、「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と伝えますと天使は更にこう説明します。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年を取っているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう6ヵ月になっている。神にできないことは何一つない」その言葉に、マリアの口から出たのは「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」こう宣言をしたのです。それを聞いて天使は去っていったのです。
この一連の話は、神様の宣言と天使の宣言と共にマリアの宣言でもあるのです。神様の宣言は「主があなたと共におられる」です。そして神様の使いである天使の宣言は「神にできないことは何一つない」そしてマリアの宣言は「わたしは主のはしためです。お言葉通り、この身に成りますように」と宣言をします。つまり今日のテーマは宣言です。神様が共におられると宣言してくださったことはこれからの歩みを神様が一緒に歩いてくださるということです。つまり赤ちゃんを初めて産むということは、様々な不安に駆られるでしょう。胎内に命が宿るということは喜びであるはずが、素直に喜ぶことが出来ず、周囲の目に晒され良からぬ噂も飛び交うかもしれないのです。つまりマリアにとっては、難しい局面になっていくことでしょう。しかし神様がいてくだされば、その不安を乗り越えられるのです。そして、天使の宣言はより一層神様を信じることが出来る強い言葉です。そしてマリアの宣言は主に従います。という証でもあるのです。この3つが重なり合えば、神様の業がつまり奇跡が起こりうるのです。わたしたちもそうです。神様から与えられても、わたしたちが神様の業はできないことはないと確信し、良いことも悪いことも従いますと宣言する心でいれば、どんなことも主の恵みと受け取ることが出来るのです。神様を信じますと告白すれば、全て神様の喜びへと変えられていくのです。わたしたちは、このアドヴェントを神様の喜びで満たされますように主を信じますと宣言していきましょう。
2021年11月28日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 イザヤ書 7:10~15
メッセージ「主がしるしを与えられる」
本日からアドヴェントに入ります。皆さんはアドヴェントをご存じでしょうか?アドヴェントとはクリスマスが近づいているのでイエス様を迎える準備をしていきましょうということであります。わたしたちは本当に神様を迎えることが出来るでしょうか。自分の胸に手を当てて考えてみましょう。どうでしょうか?迎えられると堂々と宣言出来る人と出来ない人、どちらともいえないと思う人もいるかもしれません。わたしたちは聖書からすれば罪人であると記されています。その罪に気づき悔改めをしなければなりません。それがイエス様を迎える第一歩であります。今週を悔改めの一週間にしていきたいものです。
さて本日の聖書箇所でありますがイザヤ書であります。このイザヤ書は、預言者イザヤが書いたとされております。しかし時代背景にずれが生じ、つじつまが合わないことがあります。そのため第1イザヤ、第2イザヤ、第3イザヤと分ける考えもあります。しかし大事なのはこの預言書が神様の導きによって書かれた書であるということです。
このイザヤ書全体はある一つの大きなテーマがあります。そのテーマとは救い主の預言です。つまりこれから起こりうることを察知し、その困難な状況に陥ろうとも、わたしたちがまことの神様に立ち帰れば、必ず救いの道はあることを示そうとします。しかし、権力を持っている者にとっては、愚かで不確かなものだったかもしれません。そのため人間はあらゆる手段を用いて、神様から離れようとするのです。南ユダ王国の預言者イザヤは、宮殿の預言者でありました。もしかしたら王族の親戚筋だったのかもしれません。そのイザヤはアハズ王に神様の言葉を告げるのです。その言葉は神様がアハズ王の考えや今現実に起こりうる事柄に対しての助言でありました。しかしアハズ王は「わたしは求めない。主を試すようなことはしない。」と語り、預言者の言葉に耳を貸そうとはしませんでした。この言葉の意味は、文句も言わず、神様に従うという事ではありません。むしろ神様なんて求めません。また、試す必要もない。つまり自分が王だからと言わんばかりでありました。しかし人間の消極的な考えも神様は知っておられ、もどかしい思いを人間ばかりでなく、神様にも押し付けようとする思いを超えて、神様ご自身がしるしを与える約束をするのです。
「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。
その言葉の意味は、「神は我々とともにおられる。」この言葉はイエス様を現す言葉です。この時代よりもずっと後に現れるイエス様をすでに神様の約束として王に語られたのです。この言葉がどれほど重要であるかとその当時はわからなかったかもしれません。そして今もなお多くの方が神様の事を知りませんし、知ろうともしないのです。なぜならば、自分の生活が精一杯で本当に大切なことを求めることをやめてしまったのです。つまり素晴らしい神様との交流も求めなくなってしまったのです。しかしだからこそ私たちは、より神様を求めていくためにも準備をしなければなりません。わたしたちも誰かを招く時には、掃除をしませんか。買い物をして、招く準備をしませんか。様々事を考えどうしたら神様に喜んでもらえるだろうかと考えないでしょうか。神様がわたしたちに望むことはきれいな部屋や飾りではありません。ごちそうや甘いお菓子でもありません。神様がわたしたちに望むのは、悔改めです。神様に背く心が神様に向き合うように、自分の思いではなく、神様の思いに変えられていくことが出来るように祈っていかなければなりません。わたしたちにはそれができるのです。今こそ世の欲求に対して、背を向け、神様と共に歩む道を選択しなければなりません。その困難に思える道は、一時のものです。神様を選べば、その苦しい道も神様が助けてくださることでしょう。立ち止まり、周りを見渡した時、改めて神様の恵みに感謝することでしょう。そのしるしがイエス様であることをわたしたちに記されているのです。
2021年11月21日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 ローマの信徒への手紙16:17~20
メッセージ 「善にさとく、悪に疎く」
わたしたちの世界には、善と悪があります。しかしどうでしょうか?皆さんも小さな頃から色々なところで学んできたと思います。わたしたちが正しいことと悪い事の判断は親や大人、学校などに教えられたことが判断の基準になっているのではないでしょうか?しかし国によっても信じる神様によっても違うのではないでしょうか?ある所ではOKのことがほかの場所ではだめかもしれません。そのように細かく見ていけば正しい事と悪い事で分けることの難しさを改めて感じています。しかしその判断基準さえしっかりしていれば、わたしたちは正しい判断が出来るのではないでしょうか?
では正しい判断ができるのは誰かということであります。そもそもわたしたちは自分自身で最終的に決断し行動しなければなりません。しかし自分の判断が正しい場合とそうでない場合があるのです。わたしたちは完全ではありませんから、間違いもします。その間違いを素直に認めることが出来るかということが大切なのではないでしょうか?そしてその間違いを極力なくすために完全な正しさを備えているものを捜さなければならないのです。それが神様です。神様はわたしたちに生きる道を与え、わたしたちを正しく導かれる方であります。しかし世の中には神様の言葉を巧みに利用し、わたしたちを惑わそうとするものが存在していることも忘れてはなりません。その惑わすものの目的は、人間の心と脳に欲を染み込ませ、その事によって、利益を得ることが出来ると錯覚を起こさせるのであります。しかし、現実的には、わたしたちが持っているものを奪い、利益を得ようとしているのです。そのように現状にさらされた時、初めて騙されたことに気が付くのです。
本日の箇所でパウロは、その事を指摘し、ローマの兄弟姉妹に訴えかけるのです。ローマの兄弟姉妹がパウロから学んだものそれは、神の国と主イエスについて丸2年教え続けたと使徒言行録の最後に記されています。つまりローマの人々に伝えたことは神様の教えそのものだったのです。その教えを学んできた人々は素直でしたから、教えられたことを実践してこられたのではないかと推測できます。しかしそのことを利用しだまそうとする人はいつの時代もいるのです。そのような不和を巻き起こす者を、警戒していかなければならないのです。そのようなものが近づいた時に取るべき行動は遠ざかることです。巻き込まれないように距離をとることであります。たとい距離をとっていても相手がもっと近づこうとするかもしれません。そのような時、わたしたちが教えられていることは、愛の行動をとることであります。その人の行っている行動自体は警戒しなければなりませんし、遠ざかることをお勧めしますが、しかしその人をどう考え受け止めるかという事は神様に問われているのではないでしょうか?神様に最も従順であったのが、神様がおつかわしになったイエス様です。イエス様の行動は常に神様との時間、つまり祈りを大事にされました。神様と対話し、自分の気持ちを伝えたうえで、自分の思いとかけ離れているとしても神様の御心を第一に考えてこられました。わたしたちもそのようにありたいものです。
今の世の中、何が正しく、何が間違っているのか、わからなくなってきました。人は自分を守るために平気で嘘をつくし、利益をあげようと人をだまそうとします。また、インターネットの普及により、誹謗中傷が増え、もっと悪質になってきました。情報が多く乱雑に私たちの耳に入ってきます。どれが正しく、どれが間違っているか判断できないほど、次々とわたしたちに迫ってくるのです。そのような時、わたしたちはまず神様に委ねていく思いを持ちましょう。何事も神様に尋ね、そして何事も神様に従いましょう。そしてすべての事をゆだねていくことです。神様は私たちの事を私たち以上に知っておられるからです。わたしたちを惑わす悪い霊は、神様が私たちの足元で砕いてくださるのです。その悪におびえる必要はありません。わたしたちが神様を信じていくならば、その思いを神様は受け止めて下さるのです。主と交わり、主に頼ることを神様ご自身が望んでおられるのです。
2021年11月13日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 ガラテヤの信徒への手紙 4:8~20
メッセージ「キリストが形作られるまで」
わたしたちはどんな時にも、神様に従い、神様の道を歩みたいと考えております。パウロが初めてガラテヤの人々に神様のことを語り、自身が救いの対象であることに気が付くことが出来ました。はじめてそのことを教えられた時、喜びに溢れたのではないでしょうか?
しかし人間は信じる心を深めていくにつれ、大切なことを忘れてしまうものなのです。つまり神様を信じることによって、まるで自身が偉いと勘違いをし、賢くなったのではないかと錯覚に陥るのです。そのような感情が出てきますと、なんでも批判的にとらえ、人を見下してしまうのかもしれません。つまりそれはすでに神様の愛とかけ離れてしまうことになるのです。つまりクリスチャンとはこういうものだ、こうしなければならないと決めつけて人と接するのであれば、人間の思いで接することにならないでしょうか?そのような自分本位な考え方であればどんなに神様を信じますと言われても信じることが出来ません。ガラテヤの人々もいつの間にかそうなっていたのかもしれません。パウロは、自分が尋ねて神様の福音を伝えました。その結果ガリラヤの多くの人々がまことの神に出会い変えられていくのです。しかしいつの間にか神様を知る前に戻ってしまうのです。そのことは、誰しもなりうることであります。ですから、パウロはそのことを聞かされた時、本当に心が苦しくなったのかもしれません。そのために手紙を書きました。
パウロ自身も長く滞在し、神様の福音を語り続けたいと思っていたのではないかと推測いたします。しかし長くとどまることはせず、様々な所で御言葉を語り続ける道を選んだのです。神様に出会って信じるようになった直後は、様々なものが近づいてきます。特に気を付けなければならないのが、間違っていることをまるで正しいかのごとく語る者が現れるということであります。その者の目的は信仰を深めていくのではなく、自身の名声のために神様を語るのです。嘘偽りの言葉を巧みに使い、神様によって救われたことを忘れさせるようにするのです。しかし神様はあらゆる手段を使ってわたしたちを神様に再び向けさせようとするのです。その働きは人間の思いをはるかに超える力によって、先導する者を打ち砕くのです。神様のその思いは今もなお私たちに与えてくださるのです。御言葉で語り、愛をもってわたしたちを慰め、そして光によってわたしたちを導かれるのです。ではそれはいつまででしょうか?いつ期限が切れるのでしょうか?それはキリストによって心も体も聖霊に満ち足りた時無くなるのでしょうか?そうではありません。その霊はいつまでもわたしたちのそばにいてくださるのです。わたしたちもそのことに感謝して、神様の道をしっかりと歩んでいきましょう。
2021年11月7日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 ローマの信徒への手紙 15:1~6
メッセージ『聖書から忍耐と慰めを学んで』
日本基督教団では、11月第1主日礼拝は、永眠者記念礼拝として行っている教会も沢山あります。わたしたちも神様が導いて下さったという点と家族が神様に繋げたということも考えなければなりません。そのように考えれば、先に神様のところに行かれている先輩方を思い巡らしてみるのもよいかもしれません。暫しそのことを思い巡らしてみましょう。
その先輩方も聖書に出会って変えられたのではないでしょうか?もちろん聖書に触れなかった、出会わなかった人もいることは事実です。しかし聖書を読まなくとも神様の心には少なからず触れていたのではないでしょうか?
そもそも聖書とは何でしょうか?そして私たちに何を伝えようとしているのでしょうか?皆さんと一緒に考えてまいりましょう。聖書とは神様って何ですか?という問いについて書かれてあることではないでしょうか?Ⅰヨハネの手紙4章16節に「神は愛です。」とはっきりと書かれております。つまり神様とは愛であるということが明確になりました。その神様が愛してくださったのが人間です。その証拠にわたしたちを創造された時に塵芥を集めて、自分の姿に似せて創造されたのです。また、神様は人間に神の息を吹き入れられ、人間を生きるものにされたと聖書に記されているのです。しかし人間の歴史を振り返ってみますと、こんなに愛されていながらも、神様との約束を守り通せず、簡単に破棄してしまうのです。そのためアダムとエバは、神様に与えられたエデンの園から追い出されてしまいます。しかしアダムとエバに苦しみを与えられましたが、その苦しみだけではなく、慈しみもくださる方なのであります。その後の歴史を振り返ると人間は、神様の信仰を持ち続けたかと申しますと、そうでもないのです。つまり信じては破り、近づいては離れてしまうのです。そのような関係であっても神様はわたしたちを愛しつづけてくださったのです。その証拠に与えられたのがイエス様です。そのイエス様を通して、神様の救いは全人類が対象であることを示してくださいました。病気の者、社会的抑圧者、こどもや女性、高齢者やさまざまな悩みや苦しみを持つ者に寄り添い、神様の愛を示されました。また真の神様を理解してもらうために祭司や律法学者にも愛をもって接してこられたのです。ここで愛の定義を記されている聖書も見てみましょう。1コリントの信徒への手紙13章4節から7節にこのように書かれております。愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。まさにイエス様は自分を信じる人にも、疑いをもって近づく人にも、愛を持って対応されたのです。つまり聖書は神様の大きな愛でつづられたものであります。だからこそ神様は聖書を通して私たちに忍耐と慰めを教えて下さるのです。つまり愛を私たちに教えて下さると同時に私たちを愛に経ち帰らせようとしておられるのです。わたしたちも次世代の人に神様を伝えていくことの意義を大切にして、愛をもって忍耐し、すべての人に仕える存在へと導かれていくのです。これが今日わたしたちに神様が伝えようとしていることではないでしょうか?諸先輩たちも忍耐しておられました。戦争があった頃、どのような思いで神様を信じぬいたのでしょうか?空腹の時、どのような思いで過ごしたのでしょうか?祈る時、どのような目で見られたでしょうか?そのような人の心と対峙しながら信仰を守り続けてくれたからこそ、今があるのです。しかし今を生きる私たちは更に忍耐をしなければならないかもしれません。自分勝手な思いを持つ人が大勢おります。神様を信じない者もおります。昔じゃありえないことも平然と行われているのです。すべて忍耐する事にも限界があります。そのような時こそ、わたしたちはイエス様の働きを思い出しましょう。その時こそ、神様の愛に依り頼んでいきましょう。それこそが神様が私たちに与えて下さった希望であります。希望を持ち続けることによって、神様の国と義が与えられることを信じ続けたいものです。
2021年10月31日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 Ⅰコリントの信徒への手紙 4:14~20
メッセージ「神の国は言葉より力にあり」
パウロは、コリントの人と出会って、御言葉を語ります。そのかいあって、多くの方が神様を信じるようになりました。しかしパウロがコリントを離れてしまうとその御言葉を都合良く理解し、神様の言葉として語る者、またパウロが伝えた御言葉を湾曲し、新たな考えを植え付け、新しいグループ(教会を形成しようとするグループ)を生み出してしまいました。それによって、教会内でパウロを批判する者が出てきました。人間はそういった気質を持っているのかもしれません。当然その動きを一部始終パウロに伝えた者がいたのだと推測されます。そこでパウロはコリントの人にどうすべきか対策を考えました。そのパウロが出した決断は自分の言葉に触れ変えられたテモテを派遣することにいたしました。テモテはパウロよりも若いというだけで、侮る人もいたのかもしれません。テモテは、その事もパウロに報告をしましたから、パウロはコリントの教会に手紙を送ったのです。
パウロはまずコリントの人に恥をかかせるために書いたのではなく、愛する子供に諭すためであると書かれています。つまりパウロはその状態を許さないという怒りから書いたのではないということであります。つまりどれだけコリントの人たちを愛し、大切にしているかということなのです。まず初めにキリストへと導く者は数多くいますが、わたしたちを愛し、わたしたちを成長させ、迎えて下さる方は一人でしかないという事であります。本当はパウロが直接コリントに行きたいと思っていたでしょう。がしかし自分の思いでは動きませんでした。なぜなら神様は、神様の御心で人々を動かす方であることを今までの人生経験で学び、コリントの事を覚えて祈っておりました。しかしパウロがコリントを再び尋ねることはできなかったのです。それが神様の意思であることをパウロ自身が理解していたからこそ愛するテモテを派遣することにしたのです。このテモテはパウロの言葉を聞き、神様に従っていきました。つまりパウロが神様を信じたように、パウロに従うという事ではなく、パウロの信仰、神様に対する姿勢を習いなさいという事なのです。そのことに最も適したのがテモテでありました。ですからテモテの外的若さを見るのではなく、内面的信仰の手本にするために派遣した経緯をコリントの人に説明しています。しかし牢屋に幽閉されていたパウロはコリントに来ることはできないだろうと考えていた人には、パウロは福音の神髄に触れて、人間の言葉の2面性を指摘し、神様の御言葉と分けて人間の言葉の弱さを指摘します。どんなに良い言葉を投げかけても、その行動と言葉が違っているかもしれません。しかし神様の言葉にはブレはありません。どんな苦しい時であっても予告していたことを実行される方であります。わたしたちも自分の人生を振り返った時どうでしょうか?有言実行の人生を送ってこられたでしょうか?変更を余儀なくすることもあるのではないでしょうか?嘘をついてしまうこともあるでしょう。つまり人間の言葉には絶対的な力はないのです。その言葉を補って下さるのが真の導き手である神であり、わたしを愛して下さる父なる紙でしかないのです。わたしたちは人間の甘い言葉よりも力ある神様の業を信じて歩んでいきたいものです。それがパウロの言わんとしていることではないでしょうか?神様を信じぬく心を身に着けていきましょう。
2021年10月23日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 ローマの信徒への手紙 15:12~13
メッセージ「希望に満ちあふれる」
皆さんにとって生きる希望とは何でしょうか?裕福に暮らすことでしょうか?おいしいものを食べ続けることでしょうか?はたまた好きなように生きることでしょうか?それとも何もなく、平和で健康でいられることを望んでいるでしょうか?いずれにしても希望は尽きないでしょう。どんな希望を望んでいても、それが叶うこともあれば、叶わないこともあります。そのような様々な希望を神様は知っていてくださるのです。それぞれの思いを理解した上で神様はわたしたちに生きる希望を与えてくださっています。本日与えられた御言葉、ローマの信徒への手紙15章7節にはこのようなことが書かれています。だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れなさい。わたしたちが生きる時、誰かに認めてもらえるということは何よりも生きる希望へとつながっていくのではないでしょうか?皆さんはLGBTQという言葉をご存じでしょうか?まさに多様性を表す言葉だと思うのです。しかしその多様性をなかなか認めてもらえず、生きづらさを覚えている人も沢山いると思います。わたしの知り合いにもLGBTQのかたがいらっしゃいます。ある時、その友人に食事に招かれて、「自分はそうである」と告白を受けました。うすうすは気づいておりましたが、でも言い出せなかったようです。しかしその友人は語ってくれたのです。わたしはその時、告白してくれてありがとうという気持ちで満たされました。その友人にとっては、新たな一歩を踏み出せた日でもありました。まさに生きる希望を実感したでしょう。
わたしたちも神様が受け入れて下さって生きる希望を持つことが許されています。神様はイエス様をわたしたちに与えてくださいました。そのイエス様の働きは時として、権威ある者を神様のことを本当に理解させるために、その行動や言葉に疑問を投げかけ、その生き方を考えさせます。本当の神様を知ることによって改めて生きる希望を知ることが出来るのです。また神様を知らない人にとって神様に出会うということは自分自身も神様の救いの対象であると自覚することが出来、生きる希望をいただいたのではないでしょうか?そのように神様は生きる希望を与えて続けておられるのです。
その神様の愛を知れば知るほど私たちは神様を信じることが出来るのです。その救いはイエス様がわたしたちのもとに来られる前から神様によって定められていたのです。神様が定められた民は神様に選ばれながらも、神様から離れてしまう歴史を繰り返してきました。そのため神様は、様々な方法を用いてもう一度神様の方に向き変えるように計画をされました。その計画を完成させる最後のピースがイエス様です。イエス様の言葉と行動は、信仰そのものです。どうしていけばよいのかを示す光なのです。だからこそ、イエス様を信じぬく心が生きる希望へとつながるのです。信仰によってわたしたちは喜びと平和が与えられ、更に聖霊の力によって希望に満ちあふれて歩むことが出来るのです。わたしたちの人生は神様の愛で満たされていることを忘れず、希望を持って歩んでいきましょう。
2021年10月16日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 Ⅰペトロの手紙 2:23~25
神様は、喜びも、苦しみもわたしたちに与えてくださります。しかし人間はそのことをどう受け取っているのでしょうか?自分の都合の良いことについては、感謝しますという気持ちを表すことでしょう。しかし困ったことや苦しいこと、悲しいことが起きた時、人間はどのように感じるでしょうか?ある人は、「なんで」「どうして」と疑問の声を嘆く人もいるでしょう。またある人は、怒りを表す人もいるでしょう。又ある人は、神様の与えて下さることに対して感謝の気持ちを抱ける人もいるかもしれません。いずれにせよ、わたしたちは神様から与えられたものをどのように受け取ることが出来るかを神様が見ておられるのではないでしょうか?今日与えられた聖書を見てみたいと思います。今日は、ペトロの手紙から学びたいと思いますが、この2章は3つにわけることが出来ると思います。一つは御子イエスの働きは、大事な石であるにもかかわらず、そのことをわかっていない者(イエス様によって自分の立場が窮地に追い込まれてしまう、祭司や律法学者。)たちにとっては捨てる親石となってしまったことが記され、二つ目は、神様の僕としてどう生きるか。そして3つ目は従うためにどうすべきか?大雑把に言えば、こんな感じであります。今日は3番目の従うという事に絞って本日は、学んでいきたいと思います。では私たちは誰に従うべきでしょうか?本来であれば、神様に従いたいと思うのは当然です。しかし神様の姿形が見えなければ、神様がわたしたちに送ってくださった指導者を信頼し、従うしかないのです。
本日の御言葉の前の箇所であるⅠペトロの手紙2章18~19節によれば、こう書かれています。心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人だけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい。不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。このように書かれています。しかしこのことを考えてみますと、現在そのようなことでは乗り切ることが出来ない問題が起きているのも事実です。特に弱い立場の者は、命を奪われてしまう可能性もあるのです。では、どうすればよいでしょうか?神様が何よりも大事にしているのは命であります。その命が危険に及ぶのであれば、必ずその命を助ける方であります。必ず逃げ道を与えてくださる方なのです。だからこそ、不当な扱いを受けた時、どうすればよいでしょうか?誰かに相談することも一つの方法です。しかし人間の判断は間違っている可能性もあります。その間違った行動や言動によって、相手を刺激してしまうかもしれないのです。ですからまずわたしたちがすべきことは、その相手に対して、アクションを起こすのではなく、むしろ神様にどうすべきか相談するべきではないでしょうか。その祈りの後、もしかしたら新しい道が与えられるかもしれません。与えられないかもしれません。しかし私たちは本当の主人を探し出せた時、心の平安を得ることが出来るのではないでしょうか?心の平安が与えられれば、その苦しみにも堪え得る力が与えられるのかもしれないのです。わたしたちの手本であるイエス様は十字架につけられる前に神様に祈りました。それだけでなく、どんな時にもまず神様に祈りました。それはなぜか?イエス様が神様に従順であったからです。祈る度に神様を信頼してどんなに難しい状況下であっても必ず神様なら何とかしてくださるという絶対的な信頼関係へと変化していったわけです。完全なる関係を築き上げたのです。その信頼関係こそ神様が求めている御心ではないでしょうか?
2021年10月10日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 ローマの信徒への手紙 12:1~8
メッセージ「神様が喜ぶために」
わたしたちが生きる上で礼拝はなくてはならないものであります。しかし信仰を持たない者にとっては、有っても無くてもあまり関係がないものなのかもしれません。しかし様々な所に教会が建てられている現実を考えますと、神様が建ててくださったわけですから、何らかの形で神様と出会う場を与えてくださっているのかもしれません。そのように考えますと、教会は「日曜日だから教会に行く」という慣習的なものから脱却しなければならないと思うのです。つまり教会が礼拝をささげるということは、わたしたちの霊的飢えや渇きを満たすものだけではなく、その場所に神様の介入があるということであります。つまり私たちの心を満たすと同時に神様が招いて下さっているという事実であります。この招きがあるからこそ私たちはこの世での生活を続けることが出来るのです。だからこそ、パウロはさらにそこから踏み込んで私たちに本日の聖書箇所より語るのです。
本日はローマの信徒への手紙12章から学んでまいりたいと思います。まず1節にはこのように書かれています。「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」この言葉はわたしたちの心を突き刺すのです。わたしたちはどのような思いで礼拝を献げていたのでしょうか?目が覚める思いをいたしました。神様がわたしたちを愛して、わたしたちは神様に招かれて教会に足を運び、礼拝をささげてまいりました。そして御言葉を聞きます。賛美をします。祈りをします。しかしその状態は、神様からの一方的な恵みであって、わたしたちがその与えてくださったものに対して、わたしたちは答えていかなければならないのです。御言葉は、神様からわたしたちへのなげかけです。その一つ一つには、わたしたちが今どのような思いであるかを神様は御存じで、どのような答えが必要かも理解されています。また、わたしたちが心の底に思っていることを神様に託することが出来るのも信仰者の特権ではないでしょうか?そしてその神様の恵みを受けたからこそ神様に対する感謝の思いを賛美します。そして私たちは自分のすべてを献げていくことによって、礼拝が完成するのです。ただ闇雲に自分を献げるのではなく、それぞれが神様から与えられた恵みの賜物を霊に従って献げていかねばなりません。例えば、その賜物を持っていたとしても、同じような賜物を持っていた人がいればどうでしょうか?それぞれが献げたいとおもえば、どちらかが行うという選択もあれば、複数で行うという事もできるわけです。お互いが協力していかなければなりません。また、自分は持っていないと思っていても霊の導きにそのことを行わなければならない時も与えられることでしょう。そのような時には神様をお助け下さいと祈っていくしかありません。それは、体と心を同時に神様に献げる思いを持って行動を起こせば、そこに神様の介入がされるはずです。神様は先行的な愛をもって私たちを愛してくださいます。ですから、神様を信じていけば、必ず私たちを神様の道に導かれるのです。
2021年10月3日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 ヤコブの手紙 5:7~11
メッセージ「辛抱と忍耐の模範」
皆さんは、不自由なく暮らしているでしょうか?息苦しさを覚えながら生活しているのではないでしょうか?たいていの人は、不自由なく暮らせる時もあれば、しんどい時もあるのではないのでしょうか?そのようにわたしたちがストレスフリーの状態というのは稀な時かもしれません。そのようなストレス社会で生きておりますから、忍耐することも多いのではないでしょうか?ではどうして忍耐するのでしょうか?どうして忍耐しなければならないのでしょうか?今日はその忍耐について聖書から学んでいきたいと思います。
神さまはすべてのものを極めて良かったとされ、創造されました。その造られたものは、人間に限らず、動物、星、植物、陸、海と空、暗闇と光以外にも様々なものをわたしたちに与えてくださったのです。つまりすべてのものを造り、与えられたのです。それは嬉しいことも悲しいことも与えられたのです。神様は生きるものには喜怒哀楽という感情を与えられています。動物だっておなかが満たされなければ、どう猛になります。植物だって、声をかけたり、音楽を聴くと発育に影響があるかもしれません。厳しい環境も時には必要で、植物は生きなきゃというエネルギーの放出を促した方が甘くなったりします。ある程度のストレスも神様の恵みかもしれません。しかし人間はそのストレスによっては心や体に影響を与え、不調をきたします。つらい事や苦しいことは、なるべく起きないで欲しいという思いや願いは誰しも感じているかもしれません。しかし神様は敢えて私たちにその試練を与えられるのです。聖書にはその試練についてこう書かれています。Ⅰコリントの信徒への手紙10:13節に、あなたがたの襲った試練で、人間として絶えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることをなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。こう書かれているのです。試練はわたしたちを成長させてくださる神様のギフトであるという風に考えれば、その困難な時を乗り越えられるのではないでしょうか?
旧約聖書にヨブ記という物語があります。そのヨブは、正しい人で神様が大切にしている一人です。神様がそのヨブのことを自慢していると、悪魔が近づいてきて、様々な不幸が降りかかると神様の信仰がなくなるのではないかということを考え、神様にその災いをヨブに注いでもよいかと聞きました。神様は許可をしますが、ただ一点だけ奪い取らないように命じます。それは「命」です。そしてその許可を得た悪魔は様々な試練を次々に与え続けました。家族、家畜、財産をうばい、腫物を与え、全身をかゆみと痛さで被いました。そして友人からの誹謗中傷。しかしヨブの心はいつも神様に向けられていました。その神様を信じる心こそ大切なのです。正しい人とされるヨブでさえ、試練は及ぶのです。また、聖書に出てくる預言者も神様の言葉をその思いそのままに語ります。その言葉が良いことであろうと、良くないことであろうとそのままに語ります。それは、神様の言葉が正しいと信じたからです。その言葉によって、沢山の苦しみが与えられました。人々からののしられたことでしょう。命を奪われそうにもなったことでしょう。それでも語り続けたのです。主の恵みはそのように従順な予言者に与えられるのです。そしてイエス様には、人間には耐えられない苦しみを与えました。その十字架こそ私たちの信仰の模範となられたのです。わたしたちはイエス様の働きこそがこの世での生きる道であると確信したからこそこの場所に集められているのです。わたしたちも神様に従う者として、様々なことに忍耐して歩んでいきたいと思います。この一週間が忍耐をして生きることが出来るように互いに祈っていきましょう。
2021年9月26日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 エフェソの信徒への手紙 1:15~23
メッセージ「絶大な働きをなさる神」
神さまはわたしたちを愛してくださっています。それはどんな状況にあっても変わりません。その神様の愛を受けているわたしたちですが、どれほどの人が「神様に助けられた」と思うでしょうか?偶然、それとも奇跡、人間はこの助けられた現実をどのように受け止めるでしょうか?ある人は、科学的に考える人もいるかもしれません。またある者は、過去のデーターをもとに推測する人もいます。また人間の潜在能力、本能といった人間が兼ね備えているものが危機的状況の際に働くと考える者もおります。しかし、科学もデーターも、人間の本能もその時に働くかどうかわからないのです。つまり、人間は経験に基づいてあらゆるものを瞬時に判断するわけです。しかし予測不能の状況が目の前に起こったらどうでしょうか?それは自然的な現象であれ、人間関係であれ、社会的状況であれ、その問題に直面した時でなければ、どうすることが出来ません。その時こそ、かみさまの絶大な力を目の当たりにすることでしょう。
神様は、わたしたちが予想しえないことも全てご存じであられますから、神様に委ねていけば、必ず正しい考え方や方法を見いだすことは可能になるでしょう。しかし人間は傲慢で忘れっぽい存在です。その危機的状況の時は「神様」と言っていたのも束の間、日本語で「喉元過ぎればなんとやら」という言葉があります。痛い時、苦しい時、熱い時には、依り頼みますが、その感じる事もその時だけでありますから、その過ぎ去った後は、忘れてしまうのです。もしくは、自分の力で乗り越えた時、「神様なんていない」と自分の力を誇示します。
パウロが本日の聖書で語ったのは、わたしたちに心の目を開けと願いました。それは、わたしたちが神様の存在を認め、神様の愛を受け入れるという事であります。つまり神様の絶対的な力は、信じることによってより大きく感じることが出来ますが、信じなければどうでしょうか?信じなければ神様そのものの存在を認められず、この世の見えるものに心を奪われてしまうのです。人間が作ったものは必ず壊れるのです。しかし神様が造るものは常に新しい命が宿るのです。そして人間が考える事よりもはるかに超えた神様の知恵によって大きな変化をもたらすのです。人間は、この体でいられるのも時間が限られています。様々な体の器官は、時間を加えると老朽化します。このように初めに創られた器官を維持する事さえ出来ないのです。しかし神様を知れば、わたしたちはこの体の器官が弱まるにつれ、神様がいかに助けてくださっているかを理解することが出来るのです。これも神様の恵みなのです。わたしたちは自分の体をすべて理解しているわけではありません。しかし、全部を知らずとも、今こうして生きていることも事実です。またすべての人がその事実を受け入れながらも神様の存在を認めていないのも事実です。しかし必ずこの世界に神様がいらっしゃるのは真実です。神様がいらっしゃらなければ、わたしたちがこうして息することもできないでしょう。様々な自然の移り変わりを目の当たりにはできないでしょう。神様の恵みを頂いて食べ物がおいしいと感じとれないでしょう。つまり知らず知らずのうちに私たちは神様の恵みを受けているのです。その恵みを発信できるのは教会であり、クリスチャンでしかないのです。わたしたちは色んなものを神様からいただいております。その頂いたものをこの世の人と分かち合うのです。それが私たち神様を信じるようになった使命であります。その神様からいただいた使命によって、わたしたちは神様の絶大的な働きに希望を抱いて生きていきたいと心の底から願うのであります。
2021年9月19日 主日礼拝メッセージ要旨 (大下 陽子) 聖書: ヤコブの手紙 3:9~12
メッセージ:「賛美をする口を」
私たちは、自分の心にあることを表現する口という器官があります。その同じ口から神さまを讃美する言葉と、呪う言葉を発するのであれば、二心になります。単に、道徳的・人道的観点で口を制御しようとするのではありません。神のかたちに似せ、創られた人間を批判せず、イエス様が十字架で命を犠牲にしてくださる程に愛して下さった人間であるということを覚え、相手の徳を高める言葉を発したいと思います。神様への讃美を心に満たし、御言葉に基づいた言葉を選択し、神様の言葉として、意識して話をしていきたいと思います。そうすれば、心の内側が神様によって変えられていきます。神様の励ましは、どんな状況であっても私たちから神様への賛美を奪い去ることは出来ないのです。なぜなら賛美は信仰の表明であり、どんなものも神様の愛から私たちを引き離すことはできないのです。
2021年9月18日 土曜礼拝説教要旨
聖書 ヤコブの手紙3:9~12
メッセージ「呪いよりも祝福を」
わたしたちは神様から多くの働く器官が与えられています。何かを見る目、何かを聞く耳、何かを嗅ぐ鼻、様々な臓器、手足、様々なことを考える脳、そして口。これらによって、わたしたちは体を形成しておりますが、本日は口にスポットを当てて、御言葉を分かち合いたいと思います。それぞれの器官には先ほど申しましたように様々役割を担っております。第Ⅰコリントの信徒への手紙12章12節以降に体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。と書かれております。しかし本日の聖書であるヤコブの手紙3:6を見てみますと舌は火ですと書かれております。もちろん体の一部にすぎませんが、しかし一番難しい一部分ではないかと思います。わたしたち牧師の大きな仕事の一つは、神様の言葉を語ることであります。説教を語る時、わかりやすいということも大事でありますが、言葉を吟味して、相手を傷つけないような言葉を模索しています。しかし最終的に気を付けているのは、自分を語るのではなく、神様が何をわたしたちに伝えようとしているのかを語るのです。そのことからかけ離れてはいけないと思っております。このように神様を語る一方で舌は、毒の一面をもっております。どんなに良い言葉を語ろうとも、感情的に物事を語れば、途端に罵詈雑言のように、相手を傷つけてしまう可能性も秘めているのです。口は神様を語ることも出来れば、呪う言葉を話すことも出来るのです。一旦悪い言葉を口にした途端、その言葉は勢いをもって焼き尽くしてしまうのです。
ここで皆さんに質問したいと思いますが、聖書の中で一番長いとされる場所はどこでしょうか?答えは詩編119編です。この箇所は全体で176節あり、神様の賛美と共に、裁きを求める呪いの言葉が交互に書かれております。その詩篇も神様に祈っているのです。人はその話す言葉に呪いの声が含まれているとしたらどうでしょうか?わたしたちは互いに憎み合い、争いが生じるのです。初めは些細なことが大きくなることはよくあります。わたしたちが生きている社会は、ストレス社会と言われています。特に制限がかかると人はストレスを感じ、毒づくようになってしまいます。人間同士ではいざこざが起きてしまいます。しかしどこかで吐き出さなければ、いつかパンクしてしまうでしょう。そうならないためにも、
この119編のように正直な思いを神様にぶつけてみてはいかがでしょうか?神様は人間のように限界はありません。その呪いの言葉を受け止めてくださる方であります。つまり弱いわたしたちを神様はすでにご存じだからです。そして人間に対しては、呪う言葉ではなく、神様の祝福の言葉を語りましょう。そうすることによって、神様の愛によって、人は結び付くのです。その方がより平和で、神様に従うことが出来るのです。
2021年9月12日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 マルコによる福音書 9:14~29
メッセージ 「信じる者には何でもできる」
今、わたしたちはこの世で生きていますが、信じることは沢山あるかもしれません。しかし最後まで信じ切ることの難しさは誰もが体験しているのではないでしょうか?今日はそのようなことを踏まえてメッセージを聞いていただけたらと思っています。
イエス様は、様々なところに出かけ、神様の言葉を語り、病を癒し、そして多くの人が神様の愛に気が付くことが出来ました。そのおかげでイエス様を信じ、従う者が増えました。そして、イエス様はその従う弟子たちを様々なところに出向かせ、神様の言葉を語るように、また神様の業を行うように派遣しましたが、ある所で問題が生じました。それはある男の人が病を抱えているこどもを治してもらおうとイエス様の弟子のもとに連れてきました。しかしその弟子は病気を治せなかったのです。治せないばかりでなく、そこに居合わせた祭司や律法学者たちに詰め寄られていました。その困り果てている中にイエス様たちが現れたのです。その弟子は驚いてイエス様に挨拶をいたします。もしかしたら、助けてほしいと考えたかもしれないのです。その時、イエス様は歩み寄ってくださったのです。その弟子は安堵の思いに駆られたかもしれません。そしてこう尋ねられました。「何を議論しているのか」その問いに答えたのは弟子ではなく、そのこどもを連れてきた親でした。その親はこう説明するのです。「先生、息子をおそばに連れてまいりました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるように弟子たちに申しましたが、出来ませんでした」その現状の報告を受けてイエス様はどう思われたのでしょうか。「なんと信仰のない時代なのか。いつまで私はあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのもとに連れてきなさい」
この言葉に、信じると言いながらも人間の心の弱さを嘆き、落胆する気持ち、そしていつまで一緒に活動できることが出来るであろうかという焦り、そしていつまで忍耐しなければならない苛立ちがにじみ出ています。そして自分のもとに連れてきなさいと救いの手を差し伸べて下さるのです。そして、子供を連れてきた親と話をして状況を把握します。そして、その親が言葉にした「出来れば」という言葉にイエス様は、こどもを癒すヒントが与えられたのです。つまり弟子たちが治療することが出来なかった一つの理由は親の心にあったのです。人間の心の中には、様々なところに助けを求めたが結局誰も直すことが出来なかった。という事実もあったことでしょう。その経験から、「どうせ治らないのでしょう」という一種の諦めの心があったのではないかと思います。その心を見抜かれたイエス様は、「『出来れば』というか。信じる者には何でもできる」こう言われました。その直後その親に気持ちの変化が現れ、すぐに「信じます。信仰のない私をお助け下さい。」と心の奥から叫びました。その言葉によって信じる心を受け取ったイエス様は、霊に命じて、「この子から出て行け、2度とこの子の中に入るな」その後、叫び声をあげ、ひどくひきつけさせ、霊は出ていきました。死んだようになったこどもの手をイエス様の手で起き上がらせ、こどもは立ち上がることが出来たのです。そしてそのこどもも大人もその神様の業をまざまざと見せられ、変えられていったのではないかと思われます。
その治療を終えて家に入る際、弟子たちは不思議に思い、密かにイエス様に尋ねました。「なぜわたしたちはあの霊を追い出すことが出来なかったのでしょうか」イエス様は。「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」とアドバイスをくださったのです。つまり、わたしたちもどこかで神様の力を信じ切れない弱い心があるのです。自分の力を過信してしまうこともあります。逆に自信がないこともあります。つまり神様を信じ切れていなかったのです。わたしたちは、窮地に追い込まれなければ、あの癒された親子の様に「信じます」と叫べないのかもしれません。また弟子たちのように、信じているにもかかわらず、神様に委ねていくことを忘れ、自分の力で何とかできるという慢心な思いを持つと途端に神様の力は遠ざかるのです。人間はどのような力でも神様によって与えられたと信じた時、はじめて神様のことを心の底から信頼することが出来るのです。わたしたちがまずすべきことは自分を鍛錬して力を加えていくのではなく、まず神様に対して謙遜な思いを持ち、従う気持ちを養っていくことを目指していこうではありませんか?わたしたちには出来ます。それは神様の業をそばで感じているからです。
2021年9月5日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 ルカによる福音書 18:1~8
メッセージ「絶えず祈らなければ」
「この人と仲良しになりたい」と思う時、皆さんはどのような行動をするでしょうか?
人と接することが苦手の人であっても、得意な人であっても、形式は違えど、メールや会話など直接ないし間接的に対話をする事から始めます。その会話の中には自分の経歴であったり、相手のことなど様々事を話します。そして趣味や嗜好が合えば、もっと仲良くなるためにもう一度会いたいという気持ちになるのではないでしょうか?そのようなプロセスは大事です。では神様と仲良くするためにはどうしたらよいでしょうか?それは御言葉に聞くこと、神様を賛美すること、そして祈ることです。これが神様と仲良くなる一番大事な3つのことです。ですが神様の計画によってイエス様は、十字架につけられ、陰府にくだり、3日目に復活し、天に昇られる際、弟子たちに与えられる悲しみと不安の思いに駆られるのを知っておられ、気を落とさず、絶えず祈らなければならないことを教えるために弟子たちに譬え話をしてくださったのです。
ある町に神を畏れず、人を人とも思わない裁判官がおりました。この裁判官の働きは、ある意味で正しい裁判官だったかもしれません。この世の約束事に従った常識的な裁判官だったのかもしれません。一切の情に流されず、宗教的な規則よりも世の約束事で判断できる裁判官だったのかもしれません。ですから裁判をする上で良くも悪くも冷静さに長けていた裁判官だったのです。もう一人の登場人物は女性です。この女性は、結婚履歴があり、離婚か死別か分かりませんが、独り身であります。そのため、頼るものがなく、「相手を裁いて、わたしを守ってください」と訴えてきました。はじめのうちは無視をしておりましたが、もしかしたら毎日のように四六時中、声を張り上げて「相手を裁いて、わたしを守ってください」と訴えていたのかもしれませんし、2日、3日続けたかもしれませんし、年間通して行ったかもしれません。いずれにせよ、裁判官は考えました。「自分は神など畏れないし、人を人とは思わない。しかし、あのやもめはうるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。
そうイエス様が語り終えた後、さらに付け加えて「この不正な裁判官の言い草を聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでも放っていかれるだろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」この言葉によって分かるように私たちの未来のことも心配してくださるのです。
今、様々な局面がわたしたちに迫ってきます。目に見えないウイルス、予想をはるかに超えた雨や地震。武装し、力で押さえつけようとする国家。利益ばかりを優先させようとする政治。そのような状況かの中にあって、わたしたちはどのように生きていけばよいでしょうか?どのようにすれば平安が与えられるでしょうか?やはり神様の恵みが不可欠です。この恵みをいただくためには、礼拝に参加し、賛美し、祈り、御言葉に触れる生活が必要です。しかしその礼拝さえもコロナによって行えない教会も出てきました。こんなことは今まで経験したことがありません。その礎である礼拝が出来ない時、皆さんならどうするでしょうか?インターネット礼拝も増えてきました。しかし画面というフィルター越しの礼拝は、なんだか味気ない礼拝に感じるかもしれません。そのような時だからこそ、わたしたちは、祈っていかねばならないのです。気落ちせず、まっすぐ神様と交わるためにもどんなときにも神様に祈っていきましょう。その祈りを通じて心に神様の愛が注がれるのです。
2021年8月29日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 ヨハネによる福音書 14:15~24
メッセージ「愛しているなら言葉を守る」
皆さんはリスペクトという言葉を使ったことがありますか?尊敬するとか尊重するといった意味です。ただ単純に表現するならば「スゲー」です。オリンピックやパラリンピックでも選手の活躍はすごいと思います。皆さんはリスペクトしている人はいらっしゃいますか?このコロナ禍の中においては、医療従事者は、本当にすごいです。自分がかかってしまうかもしれない不安やリスクを知りながら、何とか命を助けたいという思いにいつも「すごい」と驚かされます。しかし中には、その献身的な働きを誹謗中傷にする者もおります。確かに普通に生活している人よりもコロナに感染しやすい環境にあるかもしれません。しかし現場にいる方は感染予防を徹底しており、わたしたちよりもコロナにかからないように注意をしています。にもかかわらず、感染してしまうのがコロナであります。それなのに人は自分の掛ける色眼鏡によってその人を白にも、黒にも判断してしまうものなのであります。つまり人は、自分の行う善い事は認めてもらいたいが、どんなに善意で行う事であっても認めたくないという思いをどこかで持っているのではないでしょうか?多分イエス様もそのような人間の思いがうごめく中で働かれたのではないでしょうか?
本日の聖書に記されておりますように、イエス様は十字架につけられる前にわたしたちにある約束をしてくださったのです。それは、真理の霊を与えてくださる約束です。この真理の霊は、十字架につけられ、復活し、天に昇られた後に弟子たちに与えられるのでありますが、弟子たちがどれくらいその言葉を信じたでしょうか?イエス様が十字架にかけられる前は、イエス様が語る言葉に耳を傾けながらもどこかでその言葉を否定し、自分たちが理想とする救い主を勝手にイエス様に押し付けていたように思えます。ですからその約束を与える際にある条件を付けました。それは、「わたしを愛するならば」です。もちろん弟子たちはそのことに対して絶対の自信を持っておりました。しかし人間には絶対、完璧、という言葉は当てはまらないのではないかと思います。誰もが自分に与えられた仕事をミスなく完璧にしたいと思っているかもしれません。中には多少の失敗は仕方ないと思っている人もいるでしょう。それこそが個人差であり、基準という枠組みで判断してしまうかもしれないのです。しかし、そこに愛があるならば、助け合うことが出来るのです。そのミスをもカバーできる関係を築く事が出来るのではないでしょうか?一方で愛が無ければ、そのミスを責め、相手を傷つけ、信頼関係を失うのです。皆さんはどちらがいいですか?どちらが、神様が一緒にいてくださる社会でしょうか?つまりそこに愛があるかないかによってわたしたちの居心地は違うものに変わってくるのではないでしょうか?もちろんすべての社会、環境がそうなってくれば素晴らしい世界が広がることでしょう。
そこで弟子の一人であるイスカリオテのユダではないユダがイエス様に聞きました。「主よ、わたしたちにはそのことを現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」その言葉にイエス様はこう答えました。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父と私とはその人の所に行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである」この世は、様々なことを検証し、証明されないと信じることが出来ない社会であります。イエス様は今まで沢山の善い行いやしるしを見せてきたにもかかわらず、科学的根拠や確証を持てない事柄を信じることが出来ないばかりか、自分よりも支持を受けるイエス様に嫉妬する人間は、神様がわたしたちのために送り出してくださったイエス様を認めていません。そのイエス様を愛さない限り、神様の計画を信じることが出来ないのです。わたしたちはイエス様をそして神様に対してリスペクトしていくことが必要です。
そのリスペクトする心が与えられた時、人は初めて神様を愛することが出来るのです。その愛する心が神様の言葉に従うことが出来るのです。わたしたちに生きる力である真理の霊を与えてくださる神様に感謝をささげ、わたしたちと共に歩んでくださる神様に期待して、この1週間を過ごしてまいりましょう。
2021年8月22日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 Ⅰヨハネの手紙1:1~4
メッセージ「神様との交流」
神様はわたしたちに様々な人と接する機会を与えて下さっております。この世に様々な人がいるように考えなければならない問題も山のようにあります。この山のようにある問題を考えるためにそれぞれのグループが存在します。それは地区の問題であったり、生活のことであったり、環境のことであったり、はたまた家族の問題であったり、教会のことであったりします。やはり同じ問題を解決するためには同じ悩みを抱えている人同士が集まって交流を深めていくことが大事ではないでしょうか?しかしすべてにつながる大きな問題があるのも事実です。まさに私たちが取り組もうとしている問題も大きな問題の一つです。
特に宗教という問題は生活、環境、教育、文化に大いに繁栄しており、宗教はまさに生きるというテーマが問題であります。ですから様々な人と考えていかなければならないのです。しかしカルト宗教と呼ばれるものと積極的にかかわる必要はないのです。なぜならば宗教は本当の神を知らなければ、そこから抜け出せなくなってしまう危険性があるからです。つまりマインドコントロールされてしまうとおかしいとさえ思えなくなってしまうからです。カルト宗教の求めるゴールはお金です。どんなに親身になって話を聞いてくれるとしても行きつく先は、お金です。どんなに良い話をしようが行き着く先は、お金です。そのように目的が明確なのです。しかし一方で正しい宗教はいかがでしょうか?何をもって正しいとするかは個人的解釈もあるでしょうが、わたしは、神様が与えてくださる隣人を大事にし、またその人のために神様に委ねていく気持ちと神様なら何とかしてくださるという信頼こそが正しい宗教につながることが出来ると思うのです。
本日の聖書箇所であるⅠヨハネの手紙1:1~4を見てみますとこのようなことが書かれております。初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち命の言葉について。わたしたちは、残念ながら実際にイエス様面と向かってしゃべったことはありません。しかし神様の言葉を知っております。実際には見ておりませんが病人を癒すイエス様の事信じています。そしてイエス様が祈りによって数多くの奇跡を行われていることを見ていませんが、今もなお祈って下さるイエス様の事を知っています。なぜそのことを知り、かつ信じることが出来るか、それは聖書という書物が長い歴史を経て、わたしたちの手元にあるという事です。つまり弟子たちが後世に残すように、本当に大切なことが書いてある神様の言葉だからです。ですから、この聖書によってさまざまなことが理解され実行してきたのでしょう。
しかし一方でこの聖書である神様をどれだけの人が理解し、信じるに至っているか、それはまだまだ神様の希望には届いておりません。神様の希望は全ての人を救うことにあります。頑な心をどう解きほぐすことが出来るでしょうか?どうすれば、すべての人が神様に目を注ぎ、心を向けることが出来るでしょうか?わたしたち自身にできることは、わたしたち自身がもっと神様を信頼することであります。もっと私たちが神様を知らなければなりません。もっと神様に委ねていかねばなりません。そのために神様との交流を深めていく必要があるのです。そのためにも聖書を読み、祈り、賛美していく機会を増やしていきましょう。わたしたち自身が神様と深い交流を続けることによって、より多くの人が神様を知るようになるのです。わたしは口下手だから、わたしは愛ある行動はできないから、そして祈ることすら出来ないと思われている方、実はそんなことはありません。その言葉、行動、思いには神様の恵みが備えられているのです。わたしたちが神様との交流を深めることにより、自然と醸し出しているのかもしれないのです。ですから、わたしたちがまず神様との絆を深めていこうではありませんか。
2021年8月15日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 Ⅰコリントの信徒への手紙15:9~10
メッセージ 「神の恵みによって今がある」
8月15日は、終戦記念日であります。その日、ラジオで天皇が終戦宣言をした日であります。その言葉に様々な感情が飛び交ったのではないかと推測します。連日のように戦争について軍の指示により捻じ曲げられていたニュースを新聞やラジオで見聞きしていた者にとっては、「嘘だろう」と耳を疑ったのかもしれません。しかしその反面「終わった」との安堵の思いに駆られた者もいるかもしれません。人間はその時の感情によって物事の捉え方が変化します。しかし戦争はその考えそのものの判断を鈍らせます。軍は力づくで従わせようとし、その軍の考え方に賛同する者を称賛し、軍に非協力的な者を捕らえ、非国民と呼び蔑んできました。その言葉によってどれほどの人が傷ついたでしょうか?また、赤紙という強制的に軍に呼ばれるものを「御国のために」という大義名分で戦地に赴かせるのです。そして子供達にはそれが正しいと教えていました。しかし戦争が終わった途端に学校側はこどもたちに今まで教えていたことが間違っていたとして、こどもたちに墨を持ってこさせ、教科書に墨塗りをさせました。戦争を体験した人に話を聞く機会があって、わたしが「そのつらい時代に何に希望を持っていましたか?」との質問に対し、「その当時は希望も何もありません。ただ生きていくだけで必死でした。」その言葉を聞きなんてつまらないことを聞いてしまったのかと今でも悔やんでいます。
わたしは人間が作り出したもの中で一番大きな罪は戦争ではないかと思います。しかしその罪深さを自覚せず、戦争だから仕方がないと間違った事を認めない国や国の指導者は、考えを改めていくべきと思って声に出しても、届かないのが現状です。そのことを変えてくださるのは神様しかいないのです。わたしたちにできることはただ一つ神様に祈ることだけです。神様なら何とかしてくれると信じるしかありません。
本日の聖書で記されていますように、パウロは神様に出会い、多くの国に神様のことや言葉を伝えていきました。その功績は素晴らしいものがあります。しかしパウロはその行った伝道の業の背後にあるものが素晴らしいと理解していたから神様の業を遂行できたのではないでしょうか?人間は自分がどのようなことであっても人から認めてもらいたいと思うことがあります。自分のしてきたことを自慢したいこともあります。しかしわたしたちは間違いないと思っていても失敗することもありますし、時間や回数を重ねていくと壊れてしまったり、ありえないことも起こりうる現象もあります。その一回の失敗で信頼を失うことがあります。しかし、その責任は重く一人では負いきれないことも多々あるのではないでしょうか?つまり私たち人間は神様の恵みが無ければ、今ここにいることがかなわなかったかもしれません。神様が私たちの罪を担って下さなければ、自分の罪の重さに耐えきれなかったのかもしれません。いずれにせよ私たちは今この世で生きています。この世に自分の足でしっかりと立っています。それは神様が私たちを支えて下さっているからではないでしょうか?私たちも罪多き者とされていながら、神様の恵みを受けています。神様は一人一人を愛され、わたしたちに恵みを与えられております。その恵みを感謝するとともに、わたしたちが神様の言葉を知らない人たちに伝えていかなければなりません。平和が与えられるようにと祈っていかなければなりません。どうぞ今いる各国のリーダーのために祈りましょう。武力を捨て、神様の愛に生きるように。そして神の平和が与えられるように。その小さな祈りの背後には神様がいることを信じて、世界のすべての民のために祈りましょう。
2021年8月8日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 ルカによる福音書 24:36~49
メッセージ「平和があるように」
イエス様が十字架につけられ、復活された後に弟子たちのもとに現れて、弟子たちの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と声をかけられました。わたしたちは、先週に引き続き平和について考えたいと思います。日本には平和を考える3つの日付があります。8月6日,8月9日,8月15日です。まず6日は、広島に原爆が落とされた日です。それから3日後の9日に長崎にも落とされ、そして8月15日終戦になりました。このたった10日間の間にどれほどの方が犠牲になり、尊い命を奪われたでしょうか?そして原爆の後遺症は今もなお、人を悩ませています。8月6日の深夜(正確には、8月7日夜2時から3時半)NHKで特集が放送されておりました。題名は忘れましたが、内容は原爆の開発とその威力をアメリカの資料と広島の被爆された人たちの証言によって構成されておりました。
原子爆弾は非常に危険なものであるということが認識されていたにも関わらず、投下されました。アメリカの主張は、日本が降伏しなかったから原爆を落とすしかなかったと主張しました。しかし長崎に2発目を落とす必要があったのでしょうか?さらに3発目も落とそうとする計画があったとの報告を聞いた時、愕然としました。その当時すぐにアメリカは広島に原爆の調査に向かわせました。そのすさまじい光景を目にしたはずです。カメラに収め、映像もありました。その光景を見たら、これはいけないと普通は思うかもしれません。しかしその結果をどう報告したのでしょうか?それは放映されませんでしたから、あくまでも私の主観ですが、「実験は成功です。これならどんな国も降伏するでしょう。」と報告したかもしれませんし、逆に「こんな危険なものを開発するべきではなかった」と落胆な報告をしたかもしれません。しかし国のリーダーが下した決断は、爆弾を投下するということでした。いずれにせよ2発目を長崎に落としたのです。わたしはそこに神様の配慮が隠されていたように思います。その爆弾の中心地にカトリック教会の浦上天主堂がありました。被爆した直後もカトリック教会は祈り続けました。その祈りがあったからこそその状況を乗り越えることが出来たのではないでしょうか?その中心に「平和があるように」と声をかけられるイエス様がおられたからこそ今があるのだと思います。時に人間は、傲慢になります。人間は努力し、様々な問題を解決してきました。しかしその努力は誰も望んでいない方向に向く時があります。そのようになった時、修正できれば良いのですが、傲慢になってしまうと正しいことが見えなくなってしまうのです。つまり戦争を終わらせる最も有効な方法は、絶大な力でねじ伏せるという結論でした。そのような愚かな判断の結果、この世のものとは思えない光景を生み出したのです。そのような考えしかできない私たちに神様は最大のものをわたしたちに与えたのです。それがイエス様です。イエス様は復活なさって弟子たちに現れ「平和があるように」と声をかけられました。わたしたちが人間の思いだけでいるならば真実の平和は与えられません。その中心にイエス様がおられて初めて平和が完成するのです。さらに驚き惑う弟子たちの心を察して、「ここに食べ物があるか」と声をかけ魚を一切れ食べた後に聖書の真実性を語り、更に聖書を悟らせるために弟子たちの心の目を開かせて、
「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また罪の赦しを得させる悔改めが、その名によってあらゆる国に宣べ伝えられる』と語られました。わたしたちは人間の思いを捨てる時が来ました。人間の思いだけでは生きることが出来ない事を悟る必要に駆られています。その思いこそが神様が必要ですと確信することが出来るのです。神様中心の生活にわたしたちはシフトチェンジをする時が来たのです。
2021年8月1日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 ルカによる福音書 10:25~37
メッセージ「そうすれば命を得られる」
この8月わたしたちが今一度考えなければならないことがあります。それは平和についてであります。特に日本では8月6日と9日は忘れることが出来ません。6日には広島に9日に長崎に原子爆弾を落とし、そして15日に終戦いたしました。人間が造りだしたもので最悪のものこそが戦争です。その戦争は、人々を混乱させ、何が正しいかもわからなくさせてしまうものであります。もしも過去に戻れるのならば、戦争をしようとしている者に聖書を読んであげたいと思います。特に私たちは本日与えられた御言葉により、平和のメッセージを伝えることが出来るのではないでしょうか?
イエス様のところに律法の専門家が来て、イエス様を試そうとしてこんなことを問いかけたのです。「先生、何をしたら永遠の命を受け継ぐことが出来るでしょうか?」その問いにイエス様は質問を質問で返し、「律法にはどう書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるのか?」と言われました。律法の専門家は、待ってましたと言わんばかりに「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして,あなたの神である主を愛しなさい。また隣人を自分のように愛しなさい」確かにその答えは正しく、良く律法を学んでいると評価がもらえるかもしれません。イエス様も「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」とお褒めの言葉をかけます。しかしその言葉を素直に受け取れない律法の専門家は、「では、わたしの隣人とはだれですか」その言葉を受けてイエス様は、ある話をされました。
ある人がエルサレムからエリコに下っていく途中、追いはぎに襲われ、身ぐるみはがされ半殺しにされてしまいました。半殺しということは血まみれになっていたと思います。その当時、血は汚れたものとして扱われておりました。そこに祭司が通りかかりましたが、道の反対側を通り抜けてしまいました。またレビ人も通りましたが、同じ行動をいたしました。最後にその道を通ったのはサマリヤ人です。追いはぎに遭われた人を憐れに思い、油とぶどう酒、そして包帯をして、自分のロバに乗せて、宿屋に運び、介抱するのです。その翌日、宿を出る際に2デナリを宿屋に渡し、「この人を介抱してあげてください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います」こう言い残して宿屋を去るのです。この話を解説しますと、祭司は礼拝を司る役割を担う人でありますから、人々からあがめられた存在だったのではないかと思います。またレビ人もその礼拝を手伝い役割を担う人たちでありましたから、一目置かれる存在だったのではないでしょうか?つまりそういった社会的に認められた人たちは追いはぎに襲われた人を触ることなく、過ぎ去ってしまうのでした。一方のサマリア人は、昔違う神を拝み、そのためイスラエルとの関係はあまり良い状態ではありませんでした。そのような中でのこの行動はあり得なかったのかもしれません。このようなことを行えたのも、サマリア人だからとは関係はありません。むしろ注目すべきは、困っている人や弱っている人に寄り添ったということであります。そしてイエス様は、律法の専門家にこう言われるのです。「さて、あなたはこの3人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」その問いに律法学者は「その人を助けた人です。」と答えます。
最後にイエス様は、「行って、あなたも同じようにしなさい。」その言葉は今も私たちの背中を押してくださるのです。お互いを助け、お互いのことを覚えて祈る。そのような愛の業を行うことによって、わたしたちは命を得ることが出来るのです。
2021年7月25日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 Ⅰヨハネの手紙3:11~18
「誠実に愛し合おう」
神様にとって、わたしたちはどんな存在なのでしょうか?逆にわたしたちにとって神様ってどんな存在でしょうか?そのことに触れながら、誠実に愛し合うことについて学んでいきたいと思います。旧約聖書にはカインとアベルの兄弟の話が出てきます。この物語は兄のカインが農作物を、弟のアベルが羊を飼っています。そしてどちらも最上の物を神様に献げました。しかし神様は、アベルのものを受け取ったのです。その結果兄は弟をねたみ、ついには弟を殺してしまうのです。この妬みの心は人間が持っている本能のようなものです。つまり自分を認めてもらいたいという思いがそのような行動に走らせるのです。もしも、神様が二つのものを選んでいれば、このようなことにならなかったのかもしれません。しかしそこにも神様の計画があるのです。どんなに謙遜な思いを持つ者であっても、どんなにまじめであっても、一つのことで心みだれ、人を殺めるという行為に至らせるのです。そしてカインをさまよう者とされますが、カインを決して見捨てませんでした。神様は、カインを殺そうとする者には、その7倍の復讐を受けるであろうとしました。このように神様は、罪ある者に対しても誠実な愛を持って対応してくださったのです。
つまりいつの時代であっても神様は、わたしたちと誠実に向き合ってくださる方なのであります。神様がイエス様を与えてくださったのも、神様の誠実さを示しています。わたしたちは、この世に生きている限り、体の栄養ばかりではなく、心の栄養も必要です。そのようなわたしたちにもイエス様は御言葉ばかりでなく、食べ物を与えてくださいます。また、病によって社会から隔離された者にも歩み寄ってくださる方であります。つまり一人一人の悩みに親身になってくださる方なのです。その一番大きな愛を示してくださったのが、わたしたちのかわりに十字架につけられたのです。聖書に記されておりますように、友のために命を捨てること、これよりも大きな愛はないと示されています。まさに誠実さをもって愛をお示しになったのです。しかし現実的には、友のために命をささげることが出来ないのが現状です。例えば、災害を見てどう思うでしょうか。現地に行って、助けたいと思うかもしれません。現地には行けないけどお金を献金したい。しかし現実的にはどうでしょうか?わたしたちが現地に入っても、出来ない事が多いかもしれません。むしろ行くことによって邪魔になってさえいるのではなかろうか?献金しても実際にかかる費用の足しにもならないかもしれないと、余計なことを考えてしまうのです。そのように考えてしまうと、本当にわたしたちはイエス様に従って、友のために命を捨て去ることはできないのではとさえ感じてしまいます。しかしその余計な考えを神様に委ねることが出来れば、状況は変わってくるのです。つまり互いに愛し合うことの次のステップに進めるのです。その苦しみの中にいる人を忘れないということは今の自分のできる誠実な愛のなせる業なのです。神様はわたしたちに力も知恵も財も無いことをご存じです。だからこそ神様に委ねていけば、神様はその思いを誠実な愛へと変えさせてくださるのです。わたしたちは神様に委ねることこそが誠実に愛し合う証なのです。
2021年7月17日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 ヨハネの黙示録1:17~18
メッセージ 「最初の者にして最後の者」
聖書は、創世記から始まり、このヨハネの黙示録に至るまで66巻からなります。覚え方としては、かけ算の3×9=27です。旧約聖書39巻、新約聖書27巻です。つまり最後にあたる部分がこのヨハネの黙示録です。では黙示録とは何であるかと申しますと、聖書にこのように書かれております。ヨハネの黙示録1:1~2節です。イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐに起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストにお与えになり、そして、キリストがその天使を送って僕ヨハネにお伝えになったものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分の見たすべてのことを証した。つまりヨハネに示された神様の計画を見たこと、今あることを、今後起ころうとしていることを記録したものであります。その記録がなければ、わたしたちは神様のこれからのことを聞くチャンスがなかったわけですから、嬉しい限りです。しかし、読み始めるとなかなか難しく竜が出てきたり、表現が豊かでついていけない部分があるのも事実です。しかしそのことも踏まえて神様はちゃんとわたしたちのことをご存じであられます。
それでは、皆さんの中に神様がどんな人であるか想像できる方はおられるでしょうか?神様を直接見ると命を奪われてしまうと聖書で書かれております。ですから直接見た者はおりません。神様と戦ったとされるヤコブでさえ、明け方暗い中で行われましたので顔は見ていません。しかしヨハネはわたしたちに伝えるために神様の姿を見ました。見て、倒れ、死にそうになったのです。その時神様は右手をヨハネの上においてこのように言われました。「恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている。」
こう語られるのです。この右手を置く仕草は、自分の持っている力を分け与えることを表しています。今でもこの風習は残されていて、牧師が正式に牧師として歩もうとする時、先輩の牧師がその人に触れ、力を分け与えてくださるのです。ですから神様がヨハネに力を分け与えたのです。ヨハネがその伝えられたことを書き残す力を与えられたのです。
更に、神様は最初にして、最後の者であることを証されたのです。つまり神様はわたしたちを創造した時から、神様のもとに行くときに至るまでいつもわたしたちと共におられるということであります。これほど勇気づけられることはありません。これほど希望に満ちた答えはないのです。わたしたちはこの希望を胸に歩んでいこうではありませんか?これから起こるであろう神様の計画は、わたしたちの想像をはるかに超えたものが待ち構えているかもしれません。しかしたじろぐことはないのです。不安に覚えることはないのです。だって神様は、いつでもわたしたちと共におられると約束してくださったではありませんか?その希望を胸にこれから歩んでまいりたいと思います。
2021年7月11日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 コロサイの信徒への手紙 3:1~11
「キリストがすべて」
わたしたちは、今までは、この世のものを大事にしてきました。なぜならば、そのことを守ることによって、わたしたちは社会的地位が得られるものと考えておりました。しかし実際はどうでしょうか?どんなにルールを守っていても現実的にはなかなか報われない日々のいかに多いことか、しかし生きていく上では、ルールを守ることよりも優先すべき問題が数多いのも現実です。では、わたしたちは、生きることも許されないのでしょうか?そんなことはありません。生きる権利は、だれにでもあります。ですが、ルールに縛られていては、わたしたちは生きることが出来ません。そんな私たちに神様は新しい生きる道を示されたのです。それがイエス様です。神様はイエス様を与えてくださり、イエス様によって、愛を知り、人とのかかわり方や、神様の御言葉が生きる上でいかに重要であるかを教えてくださいました。そのおかげでわたしたちは、社会のルールではなく、神様への生き方へと変えさせてくださったのでした。つまり復活し、新しい命を得たのです。ですから、古いこの世的な考え方をわたしたちは捨てなければなりません。ですが、中々捨てられないのも現実です。
人間が古い考えを捨てられないことも神様は知っておられました。だからこそ神様は、人間の常識を打ち破る方法によって神様の力をお見せになられたのです。それが十字架です。
人間の常識では、死というのは乗り越えられないものでした。どんなお金持ちも、どんな知恵あるものも、どんな環境にある者も、死という現実は起こるのです。それはどんなに化学、医療、様々なものが発達しようとも人間では乗り越えることが出来ないのです。しかし神様はたった三日でそのことを成し遂げたのです。つまり復活というのは人間の理解をはるかに超えるものだったのです。わたしたちは神様を信じています。にもかかわらず、わたしたちは古きものに固執しようとします。つまり新しいものに対して、古いものを注入しても外側は新しくとも、中身は古いものと変わりありません。つまり古いままなのです。わたしたちは内側から新しくならなければ真実の命にたどり着くことは出来ないのです。実際に、パウロも有名な先生のもとで神様を学びました。ですから、「神様はこうである。こうなんだ」と自分に言い聞かせ、その教えに従わない者を捕らえ、時には力によって押さえつけていたのです。それは、パウロがこの世のものに固執していたからでありました。しかし神様はそんなパウロのもとにイエス様を向かわせるのです。それによって本当に神様に従うように変えくださったのです。この出会いがあったからこそがパウロがこの世の考え方から決別することが出来たのです。わたしたちも例外ではありません。わたしたちも神様に出会ったからこそ今ここに集められたのです。救われたと感じたからこそ生きているのです。
わたしたちの人生は、神様によって造られ、イエス様に出会い、救われ、そして今、イエス様に倣って神様の道を歩んでいるのです。良い手本があるというのは幸せです。それは、人間の教えに従えば、必ず躓きを覚えます。しかし神様の教えに従えば、わたしたちは平和の道、つまり神様と共に生きる道を選択することが出来るからです。皆さんはどちらの道がお好みですか?神様が共に歩んでくださり、どんな困難も祈りによって乗り越えることが出来る道なのか?それともこの世に縛られ、欲深さに悩む道なのか?答えは、もうすでに出ているのではないでしょうか?正しい道を選択しましょう。もしわたしたちが悪い方を選択しても必ず神様は正しい方に変えてくださるのです。全ては神様の方に向きなおすのです。つまりどの道も必ず神様の道につながる業を持っておられるのです。全ては神様のものだからです。
2021年7月4日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 エフェソの信徒への手紙2:1~10
「神様の恵みによって」
神様は、どんな人間にも恵みを与えてくださいます。しかしすべての人が神様を信じているわけではありません。神様の存在は知っていても人間が造った神を拝んでいる人もいます。また神様の存在を全面的に否定する者もおります。信じると言いながらも疑う心を持っている者もいます。全てを信じる者もいます。しかし多くの人はそうではないかもしれません。むしろ神様の存在を知らない方が圧倒的なのではないでしょうか?
神様はどんな思いでこの世界を創造されたのでしょうか?そのヒントは、創世記の天地創造の際、神様はこう言われたのです。「極めて良かった」この思いなのです。つまり造ってよかったな。素晴らしいとさえ思われたのでした。そして極めて良かった存在として私たちを愛し抜かれたのでした。しかし人間はどうだったでしょうか?人間は、その神様の愛を当たり前のように受け取り、更に要求し、神様の思いとは逆の方を目指してしまう者なのです。それは人間が歩んできた歴史を振り返ってみても明らかです。つまり神様がどんなに手を差し伸べようとも人間はその手を払いのけ、自分が正しいと信じる道を歩んできました。その結果人間は神様と真逆の道を歩むことになったのです。その道こそ人間の心の赴くままに進む欲望の道でした。その道には神様はいません。むしろ神様の姿形に似せた誘惑する霊に満ちていました。つまり死に至る道です。それでも諦めないのが神様の深き愛情です。
神様は罪深い私たちのためにイエス様をお遣わしになったのです。そのイエス様によって神様を身近に感じることが出来るようになりました。そしていつまでも自分たちと一緒に歩んでもらいたいと願うのです。その心は、イエス様が神様の計画である十字架の話を話した時、それをも利用する悪い霊がいるのです。その悪い霊は、弟子たちを神様から引き離そうとします。つまり正しいことさえも利用しようとするのです。わたしたちもそうですが、自分が正しいと思っている人は相手が義にそぐわない言葉や行動を行うと、「駄目だよ」「ちゃんとやって」「なぜそんなことをするんだ」と相手を批判します。ですが、神様はそんなことを望んでおりません。むしろ私たちにその人を愛しなさいと言われているのではないでしょうか?そんなことはわかっていますという人もどこかで神様の御言葉に聞き従わえないのです。そんなわたしたちだからこそ神様を必要としているのです。
神様は正しいからその人を救いの対象にはなさらない方であります。むしろ正しくない者であるからこそ、神様は目を注いでくださったのではないでしょうか?
神様には究極の計画があるのです。それは、何かと申しますと、人種、性別、年齢、全ての人を分け隔てすることなく、神様の国に迎え入れようとしています。それは罪を犯した人も犯さない正しい人にも恵みの雨を降らせてくださるのです。自分の名声と利益ばかりを求める国の指導者、自分さえよければ良いと思う心、自分が正しいと思っている自己中心の考え方、このような時代、神様の究極的な計画は、わたしたち人間だけでは完成させることは出来ません。人間の心に神様が新しい命を与えて死から命へとつなげて下さっております。わたしたちは神様の御心がなんであるかを互いに話し合い、教え合って、共に神様の計画に従っていきたいともいます。それによって神様の計画へとスムーズに展開していくのではないでしょうか?神様に全幅の信頼を置き、善い業を共に担っていきたいと思います。そのことをエフェソの信徒への手紙を通して、わたしたちに語られたのです。
2021年6月27日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 マルコによる福音書 10:23~27
メッセージ「人には出来ないが神様には出来る」
イエス様のところに一人の人が尋ねてきました。その人はイエス様に向かってこう叫ぶのです。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」その問いにイエス様は「なぜ私を善いというのか神おひとりのほかに、善い者は誰もいない」ときっぱり否定した後、律法に書かれてあることを声に出し、殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え」という掟を知っているはずだ。と話しました。しかしそのひとは、「そういうことはこどものころから守ってきた」と告白するのです。この一連のことを皆さんはどう考えるでしょうか?自分は神様から教えていただいていた約束をしっかり守ってきたと自負する人であったこと、お金持ちであったことこの二つがこの人の特徴ではないでしょうか?この二つの特徴は、誰もが心当たりがあるのではないでしょうか?
人間は時として、自分が努力した結果を大事にする傾向にあります。自分が必死に勉強してきた、たくさんトレーニングをしてきた。沢山のお金を稼いだ。もちろんどれも素晴らし努力の賜物でしょう。そのことによって今の生活があることも事実でしょう。しかし力を持つということは、力を持っていない人に対して、偏見を持つということであります。「どうしてやらないの?」「なんで?」「こうすればいいんじゃない。」「もっと頑張ろう」等挙げたらきりがありません。つまり力を持つことによって、自分の優位性を捜し、人よりもえらく見られたいという心の欲望に駆られてしまうのではないでしょうか?それは、つまり力を持つということは、絶対的力を持つ神様への憧れにほかなりません。旧約聖書にバベルの塔の話があります。人間は神様に近づこうと一つの計画を立てました。その思いは、初めは、レンガを焼くという発想力、そして、石の代わりにレンガを、漆喰の代わりにアスファルトを使用し、強度を高め、上に積むという技術力、そして、天まで届く塔のある町を建てて有名になろうとする権力を誇示しようとする心の働き、最後に神様によって散らされないようにしようと神様の計画に反抗する力、つまり力を持つということは悪の誘いでもあるということなのです。
そして、イエス様は経済力を持つ彼を見つめ、慈しんで一言告げました。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」その言葉に落胆し帰っていくのです。しかしイエス様は、今度は弟子たちに向かって語り掛けました。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」この発言に弟子たちは驚いて、耳を傾けると更に「子たちよ、神の国に入ることはなんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい
その言葉にますます驚き、互いに不安を募らせ、「それでは、だれが救われるのだろうか」と口にするわけです。そしてイエス様は語るのです。「人間にはできることではないが、神にはできる。神は何でできるからだ。」その言葉を受けて、弟子の一人ペトロが「この通り、わたしたちは何もかも捨てて従ってまいりました」
弟子たちの思いの詰まった言葉であります。そして、イエス様は、「はっきり言っておく。わたしのため、また福音のために捨てた者は、この世で迫害を受けるが、後の世つまり神の国では永遠の命を受ける」つまり今ある苦しみは神様の国で変化するということであります。つまりこの世的に考えれば、何も得ることが出来ず、非難を浴びるかもしれません。しかし神様のいます所には、神様の祝福を得ることが出来るのです。その言葉を信じた時、わたしたちはこの世のものに対して、捨て去ることが出来るのです。神様の恵みは今ある生活を凌駕なさるのですから。しかし宗教も信じる力です。わたしたちは、先に神様を知る者として歩んでおりますが、裁きをするのも、恵みをくださるのも神様です。ですから私たちがすべきことはただ一つ神様が言われた愛を実践し、耐え忍ぶことこそが神様の愛に生きることなのではないでしょうか?わたしたちは愛されています。その愛を行ってくださる神様を信頼することがこの世を生きる力へと変えてくださるのです。人間にはできませんが神様なら出来る。なんでも出来ると信じて、神様と共に歩んでまいりましょう。
2021年6月20日 益子教会 主日礼拝説教要旨
聖書 コロサイの信徒への手紙 2:6~10
メッセージ「満たされている」
わたしたちは、日々生活していますと、ストレスに押しつぶされそうになります。それほど今過ごしている状況は厳しい状況ではないでしょうか?そのストレスをなくす方法は人それぞれですが、私の場合は好きなものを食べたり、人と話したり、自分の好きなことを楽しんだりすれば解消します。しかしそれは一時のことであり、ストレスが完全に消えうせることはありません。日がたてば、またストレスが溜まってしまうのです。つまりどんな世代、社会、環境、性別であっても、この世にいる限りはストレスと向き合わなければなりません。
では私たちは、このストレス社会で何があれば心を満たされることが出来るでしょうかお金でしょうか?知恵でしょうか?力でしょうか?いずれも間違いです。どれも必要なものかもしれません。しかしその3つには恨み、ねたみ、人間のあらゆる感情を芽生えさせる悪の力が働くのです。つまりこの世に属する悪に支配されてしまうのです。もし先ほど挙げたものを手に入れたとしましょう。人は変わってしまうのではないでしょうか?傲慢になり、人を区別し、相手を非難し、自分が正しいと自己中心的な考えを持ってしまうのではないでしょうか?そのような社会は、あまり良い社会とは言えないでしょう。もちろん全てを兼ね備えていても謙遜な思いをもって生きている人も大勢います。しかしそう思わない人がいるのも事実です。その背景に言えることは、自分を褒めてほしい、認めてほしい、自分を見てほしい、そして自分を愛してほしいという欲求があると思うのです。しかし人によって、価値観も違えば、評価の仕方も違います。ですから自分の価値基準で物事を判断してしまいますと、他の人とズレが生じてくるのです。
ここで皆さんと共有したいのは、神様は人間と違うということです。人間は社会的思いで人を判断し、その人を評価し、その人を愛します。つまり条件付き愛は行っています。しかし神様は無条件な愛をわたしたちに示してくださっているのです。それは性別も年齢も社会的地位も、知識も、全く関係はないのです。ただ愛してくださるのです。それこそがわたしたちを満たしてくれる唯一の事ではないでしょうか?その愛こそがわたしたちの心を満たしてくれる最後のピースかもしれません。そのピースはとてつもなく大きな部分です。そのことに気づいたとき、わたしたちは心も体も満たされているのです。しかしその満たされた思いにはっと気が付いた時は、嬉しい気持ちで一杯です。しかし私たちは忘れやすい者であることを自覚しなければならないのです。だからこそ神様に繋がっていく必要があるのです。だからこそ神様の言葉に耳を傾ける必要があるのです。この世のものに心奪われないように注意して歩みましょう。なぜなら悪い霊はわたしたちを神様から離そうと力を注ぎこみます。そのことに集中するのです。つまりあの手この手を使って、あらゆる手段を用いるのです。ですから私たちは、神様に願いましょう。本当に神様の愛を見極められる目を、そしてどんなことにも揺るがない心を、そしてすべての愛を実行できる体を追い求めていきましょう。そのことが与えられた時、人は満たされるのです。
2021年6月13日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 ヤコブの手紙 5:13~16
メッセージ『祈りは大きな力』
本日与えられたヤコブの手紙5章16節に正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。と書かれております。皆さんは祈りについてどうかんがえておられるでしょうか?本日は祈りについて共に学び考えていきたいと思います。
私たち人間にとって切り離せない一つが祈りです。それは宗教者であれ、無神論者であれ、必ず祈る時が与えられています。それは苦しい時の神頼みという言葉があるように必ず神様に祈りをささげる時がくるのです。そこでその苦しみから守られるように祈った際、すぐに効果があらわれれば、信じることが出来ます。しかし何度祈っても願いが叶えられない時には、どう思われるでしょうか?もしかしたら挫折を感じるかもしれません。あきらめてしまうかもしれません。しかし大事なのは継続して祈っていくことであります。信頼して委ねていくことであります。イエス様がどんなに忙しくても欠かさず行っていたことがあります。それが祈りです。時には一人で、時には弟子たちをその祈る場に同行させる時、そして病を癒す時、5000人もの人と食事を分かち合う時、十字架につけられる時、復活した後もイエス様の生活には祈りがありました。どんなことがあろうとも神様の言葉を信じ、神様に委ねていきました。その結果大きな力を発揮し、効果を得ることが出来たのです。イエス様のほかにも聖書に出てくる人は、ある意味で祈りの人であったと言えるでしょう。つまり正しい神に祈った結果であります。完全な人、間違わない人はこの世にはいません。しかし、自分は完全であり、自分の考え方が正しいと思っている人は、ごまんといるかもしれません。その考え方によって、絶対的な力を持つ神様を否定することにつながるのです。
人間がどんなに力をつけ、知恵や財産を得ようとも、神様にはなれません。そのことを理解している人は、正しい者になれる可能性を持つことが出来ます。つまり正しさ、清さはどこにあるかということなのであります。世界には様々な神様があります。しかし人間は自分の都合の良い神を選択してしまいます。正しい神であれば、問題なく大きな力が注がれ、効果を得ることが出来るでしょう。しかし、自分の都合の良い神様を選択しても何も得ることが出来ないのかもしれません。つまりそのような神様には力がないのです。
また正しい神様に祈っていても、自分が勝手に思い描いている結果を求めるのであれば、いつまでたっても叶えられないかもしれないのです。神様はその祈りは必ず聞いてくださる神様であります。そのことがなかなか与えられなくても信じて祈り続けていくことが大事なのです。つまり祈りの力を信じぬくのです。苦しい時には祈れ、喜びの時には賛美せよと書かれています。しかし祈りは苦しいだけのものではありません。苦しいからこそ賛美をします。喜びの時も祈ります。それはいかなる場合にも神様に繋がっていなさいということであります。神様に繋がっていれば、自分の願いとかけ離れたことが与えられたとしても受け入れていくことが出来るのです。満ち足りていれば、感謝の思いが溢れることでしょう。足りなければ不服な思いを持つこととなるでしょう。足りないことも満ち足りることもそこに神様の愛が注がれているのです。ですから祈った後の起こった出来事一つ一つには神様の愛の配慮がなされていくのです。そのことを覚えたときに神様の大きな力に包まれる事となるのです。
2021年6月6日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書:Ⅰヨハネの手紙 4:16~22
「神から受けた掟」
神様はわたしたちに掟を与えられました。掟とは約束よりも強く、守らなければならないものです。神様の掟は、出エジプト記20章に記されていますように十の戒めの言葉が書かれております。前半部分は神様との関係について、後半部分は人間との関係で構成されておりますが、全部を覚えていても、その教えが実践されていなければ意味をなさないのです。わたしたちは何度も声を出して覚えます。聖書も同じように繰り返される言葉が大事な言葉なのです。本日の聖書であるⅠヨハネの手紙4章は何度も神様は愛ですと書かれております。ですからこの言葉こそがキリストの本質であると言えるのではないでしょうか?
先週、わたしたちの親が千葉と東京からきて礼拝を共にしてくれました。土曜日の礼拝から日曜夜の夕礼拝に至るまで全部の礼拝に出席してくれました。その際ゴスペル賛美礼拝に出席してくれた時に、少し難しかったと率直な感想を言われました。もちろん3人ともアメリカでの生活がありますからゴスペルが初めてというわけではありませんが、体や頭がついていけないと思ったかもしれません。テンポが速かったのかもしれません。年を重ねてきたということもあるかもしれません。いろいろな要素もありますが、でも楽しかったと言われ、ホッとしています。3人とも長く教会に携わってきましたので、こういった方法もあるのかと感じたのかもしれません。御言葉でつづられたゴスペルソングの良いところは、歌詞を何度も繰り返すことにあります。これによってわたしたちの心を御言葉で満たしてくださるのです。つまり知らず知らずのうちに神様を学んでいるのです。
先ほど申しましたがキリスト教の本質は、「神様は愛」ということであります。みなさんは神様との約束でどれが大切であると思いますか?また十戒は10ですが、律法は数多くあります。皆さんは全部覚えているでしょうか?こどもの時から暗記していれば、もしかしたらそらんじて言えるかもしれません。しかしあらゆる部分に通じている律法であっても完全に実行できないものです。ですが一つだけ覚えなさい、そして実行しなさいと言われたらどうでしょうか?なんとなくできる気がしませんか?ですけどもその一番大切なことを忘れてしまうかもしれないのです。人間忙しくなると本当に大切なことを忘れてしまいます。そんな時こそ、神様が与えてくださったことを思い出す必要があるのです。それが「神は愛です」その掟に従えば、愛を行うことができます。神様に従うことができるのです。それこそが神様がわたしたちに望んでいることなのです。神様がわたしたちを愛してくれたおかげで、私たち自身が愛されている存在であると実感しております。ですから神様を受け入れている証拠となるのです。わたしたちも神様を受け入れたのですから、わたしたちも同じように自分の隣人を愛していきましょう。見えない神様を愛することができるのですから、見える者をも愛せる心をもって歩んでいきたいものです。
2021年5月29日 (土)益子教会説教要旨
聖書 エフェソの信徒への手紙 2:16~22
メッセージ 「神の住まいとなる」
皆さんは、どのような家を好み、どのようなところに住みたいでしょうか?様々なことが考えられますが、一番の理想はどんな家であれ、どんな場所であれ、とにかく住みやすいというのが、条件ではないでしょうか?反対に住みたくない家はどうでしょうか?本日の聖書で語られているように私たちは「神の住まいとなる」とされております。その神様の住まいとなるために心がけていくことがあります。心がけの一つ目の条件は、その住まいは霊の働きによって建てられなければならないということであります。つまり自分主義の考え方であれば神様の住処とはならないのです。わたしたちは神様を迎えるわけですから、神様が居心地よく居座れる場所を提供しなければならないと思うのです。ここで皆さんにお尋ねしたいと思いますが、どんな家が神様に喜ばれる家になるでしょうか?豪華なデラックスな家でしょうか?それとも便利な家でしょうか?はたまた頑丈な家でしょうか?どれもちがいます。神様は、別に豪華さを求めていません。便利さもいりません。ましてや頑丈な家もいらないのです。ただ神様が求められている住まいは、愛が満ちている家を好まれます。御言葉が、賛美が、そして祈りが溢れるところを好まれるのです。
それでは神様の住む場所の2つ目の条件とはなんでしょうか?2つ目は、謙遜な気持ちを持つことです。神様は謙遜な思いを大切にされる方でありますから、高慢な思いを持っていますとどうでしょうか?神様がこうしてくれと注文があった時に、いやこの方がいいですよと神様の意見に耳を貸そうとはしません。そんな思いであるならば、神様がどんなに語ってくださり、恵みを与えようとしても神様の恵みを受け取ることは難しいでしょう。だからこそわたしたちは謙遜な気持ちを持つことが重要です。
最後に3つ目の条件でありますが、分け隔てがないことです。神様はイエス様をわたしたちにお与えになりました。その大きな愛はイエス様が神様の愛の実践者として、わたしたちの中に現れました。その行いは、社会で蔑まれていた人たちの心に寄り添い、病を治し、人として接してこられたのです。そして十字架につけられた時でさえ、自分を十字架につけた者たちを神様に許してやってほしいと願うのでした。この愛こそがイエス様の真骨頂と言えるでしょう。例えば自分に友人がいたとしましょう。一人目は何かにつけて自慢する人、自分にはミスがなく、完璧であると自負する人です。これをA君としましょう。二人目は、何も自慢することがない普通の人をB君としましょう。そして、3人目は、何をやってもダメな人をC君としましょう。さてみなさんはだれと仲良くしますか?気の合う人でしょうか?面白い人でしょうか?なんでもくれる人でしょうか?しかし先ほどのA君、B君、C君の説明だけではどんな人かわかりません。ではイエス様は誰と仲良くすると思いますか?正解はA君、B君、C君みんなと仲良くするのです。
では、最後に自分の胸に手を置いてよく考えてみてください。どうでしょうか?皆さんの心に神様は住んでくれるでしょうか?自分は神様の住処としてふさわしいでしょうか?
わたしたちはいつも神様の思いで満たされているでしょうか?聖書を開くとき、賛美するとき、祈りをするとき、神様の思いにあふれるでしょう。しかし私たちは完全でありませんからいつも神様だけを考えるわけにはいかないのです。掃除をしなきゃ、ご飯は何しよう、様々な思いをもって生きています。ですから、生きていく課題も沢山です。神様はそんなことは百も承知です。そのようなことでわたしたちから神様は離れませんし、あきらめません。また、イエス様を通してというよりもわたしたちと共に歩んでくださる神様ですから、わたしたちと一体になってくださっているのです。その結果神様はわたしたちが神様から離れようとしてもしっかりと修正し、再び神様の道へと歩まれるのです。
神様が決断したことは、決して離れないということであります。そのために神様の一番大切にされているイエス様をわたしたちに遣わされたのです。しかも、わたしたちのためにイエス様を十字架につけ、その業によってわたしたちを贖ってくださったのです。わたしたちはその思いがどれほど大きい事なのかを改めて考えさせられます。神様の愛を受け取った時に、わたしたちに敵はおりません。イエス様が示してくださった十字架によってその隔たりを取り除いてくださったのです。その愛によって自分たちが勝手に造った壁をものの見事に壊されたのです。その愛をわたしたちはどう受け取りますか?これからどうしたら良いでしょうか?神様は今もなお私たちがどうするか見ております。神様の視線を感じたならば、今一度神様の住まいとしての自分を見直してみてはいかがでしょうか?誰が神様の愛を奪い去ろうとしているのでしょうか?それは今の世の中かもしれません。この世の思想こそ、わたしたちを神様から引き離そうとする働きかもしれません。わたしたちは神様につながっていたい、神様の住まいとして歩みたいと望むならば、世の働き、流れから遠ざかり、近づいてきたら警戒し、逃げるのです。一度立ち止まり、自分にとって何が大事で、何が基盤となり歩むことができるかを真剣に考えるのです。そこに神様への住処としての道がつながることでしょう。
2021年5月23日 益子教会 説教要旨
聖書 使徒言行録 2:36~42
メッセージ「聖霊を受けます。」
皆さんは、今の自分に満足しているでしょうか?毎日充実していますという人もいるかもしれません。しかし、満たされていないという方もいると思います。そして今の現状に納得していない人もいるかもしれません。その状況を打ち破り、新たな一歩を踏み出すことが出来るとすれば何が考えられるでしょうか?スポーツ選手であれば、体幹を鍛えなおし、よりハードなトレーニング、徹底的な栄養管理によって少しは向上するかもしれませんが、永遠ではありません。年も取ってくるでしょうし、様々な器官が衰えてくるでしょう。
また、サラリーマンであれば、営業利益を上げるために、サービスを増やしたり、おまけを付け加えるなど創意工夫が必要です。そのために最初はそのことによって業績が上がるかもしれません。しかし、そのサービスのためにさらに消費者は更に要求もしてくることでしょう。そのため会社員に負担が強いられてしまい、ひっ迫してしまう恐れもあります。では、生活の点であれば、どうでしょうか?お金があれば生活することが出来ると考えるのであれば、お金儲けに執着し、本当に大事なことを見逃してしまうかもしれないのです。よりよく儲けようとするならば、悪事に手を染めてしまい、結果的に悪い方向に流されてしまうかもしれません。つまり神様から離れた行為は破滅へのカウントダウンにつながる可能性があるのです。わたしたちがその破滅の道から離れることが出来る唯一の方法は、人間の力をはるかに超えた神様の力でしかないと思うのです。その神様の力は、わたしたちをどのように導いてくださるのでしょうか?またどのようにその力によって生活が変えられていくのでしょうか?今日は考えてみたいと思います。
今日は、ペンテコステであります。ペンテコステというのは50という意味であります。何から50番目なのかと申しますとイエス様が復活した日から50日目ということです。この時に何が起きたのでしょう。イエス様が天に戻られ、弟子たちは再び不安を覚えておりました。どんなに神様を信じていますと告白しながらもイエス様がそばにおられない現状は悲しいですし、不安が残ります。その不安を解消するのが祈りであります。祈りは神様と繋がる最高の手段でありますが、どことなく満たされなかったのではないかと思います。むしろすればするほどイエス様のことを思い出してしまうのかもしれません。そのよう状態では神様のことを伝えることもままならなかったのではないでしょうか?しかし神様は天に昇られる際に、またそれ以前から霊が与えられると語ってくださっていたのです。その霊は突然やってくるのです。弟子たちが祈っておりますと舌のようなものがそれぞれに注がれ、それによって今までしゃべったこともない言語によって神様の言葉を語りだしたのです。これこそ紛れもない霊の力です。弟子たちの近くにいた人は、大きな音を聞いてその場に集まってきました。その場にいた人たちは、弟子たちが自分たちの知っている言葉で語るのを聞いて、初めは酒に酔っているのではなかろうか?と疑いました。しかしペトロはその思いを退け、改めて神様の言葉をその場にいる人たちが知っている言語で伝えました。その言葉はそこに集まった人たちに伝わったのです。そしてその言葉に心を打たれ、自分たちはどうしたらよいかとペトロに相談しました。そこでペトロは、答えるのです。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべてのものにも、つまりわたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも与えられているものなのです。」と語りました。そのかいあって、3000人もの人がバプテスマを受け、神様を信じるようになったのです。それは人間の業ではなく、神様の霊によらなければあり得ないことなのかもしれません。それはどんなに素晴らしい言葉を語ろうとも、善い業を行っても、成果は得られません。そのことをなしてくださるのは神様だけだからです。その神様がイエス様をお遣わし、イエス様が去られたのちに与えられるのが霊です。その霊を信じる者こそが、永遠の命につながるのです。わたしたちにはその霊が与えられるのです。なぜなら神様がイエス様をお遣わし、そのイエス様が霊を与えると宣言してくださっているので間違いないのです。わたしたちはその聖霊を必ず受けるのです。
021年5月16日 益子教会説教要旨
聖書 Ⅱテサロニケの信徒への手紙 2:13~17
メッセージ「救われるべき者の初穂」
パウロは、確信をもって答えます。「神様がわたしたちを救いの初穂として選ばれています。」なぜそのように確信をもって答えることができるのでしょうか?それは、神様の選択基準は、人間の判断基準と明らかに違うからです。人間はどうしても、価値観として選ぶ傾向があります。例えば、事務職であれば、パソコンスキルの高い人を選びます。営業職であれば、コミュニケーション能力、モノづくりの仕事であれば、クリエイターとしてのアイディアや技術、デザイン力など数多くの能力が求められます。しかし神様の選びはそうではありません。神様の選びはただ一つ信じるか信じないかです。つまり信じる者は誰であれ神様の救いの初穂となることが出来るのです。では、その神様を信じて救いの初穂となったのであれば何をしてもよいということには結び付きません。むしろ、わたしたちはより一層励み神様が何をわたしたちに求めているかを探求していかなければならないとさえ思うのです。
わたしたちはどんなに頑張っても神様にはなれません。しかし神様を手本として歩むことは可能です。神様を信じるというならば、神様が送ってくださったイエス様を信じ、どのように歩んできたかを学ぶことが出来るのです。使徒と呼ばれている者たちは、どのようにイエス様を語っていったでしょうか?それは神様の福音をその地に延べ伝えるために、その町に行き、人々が集まる所で神様を語り、伝えていきました。そして、その場所に行けない時には、手紙を送り、その地の教会に集う人たちを覚えて祈りました。更に一人では、全部を行うが出来ませんから、その地域を担う担当者を任命しました。しかしその神様の福音を伝える業が順風満帆にきたわけではなく、紆余曲折していくのです。時には神様の御言葉を自分の都合の良いように理解し、「使徒パウロが語る御言葉は間違っていると否定し、混乱させる者、昔のように律法を守るように、割礼を受けなければならないと条件をつける者が現れたり、大変です。しかしどんな問題があろうとも、パウロはひるみません。むしろもっともっと神様に感謝し、委ねていくのです、なぜなら自分には出来ずとも神様なら何とかしてくれると全幅の信頼を寄せているからです。その思いは、神様の霊の働きによって聖なる者へと変えられていく心と姿が見え、その神様の真理を求めようとする真っ直ぐな思いによって救いの初穂として、神様は選んでくださったのでした。そのことを一番体験し、理解しているのがパウロ自身であることも事実です。つまり自分も神様によって変えられたその行為は、神様に帰するためであったことを理解していたのです。しかしその考え方に到達するまでどのぐらいの時間を費やしたでしょうか?
使徒パウロがそうであるなら、わたしたちは、どうでしょうか?科学が進み、様々なことが便利になる中で、神様の言葉を素直に受け取ることが出来るでしょうか?答えは出来ます。どんなに進化し、社会が発展しても、神様という存在は、絶対変わらないのです。変わる必要がないのです。すでに完成しているからです。今もなお私たちのそばに神様は生きておられ、御言葉を与え続けてくださっているのです。本日のⅡテサロニケの信徒への手紙 2:16~17にこう書かれてあります。
「わたしたちの主イエス・キリスト御自身、ならびに、わたしたちを愛して、永遠の慰めと確かな希望とを恵みによって与えてくださる、わたしたちの父である神が、どうか、あなたがたの心を励まし、また強め、いつも善い働きをし、善い言葉を語る者としてくださるように」
とパウロは書き残しました。そのパウロの祈りは、実は初めから神様が私たちに望んでいることであり、初めから私たちを救いの初穂として選ばれていることでもあるのです。その事実を受け止め、共に歩んでいきましょう。
2021年5月9日 益子教会 主日礼拝説教要旨
聖書 ルカによる福音書 11:1~4
メッセージ「祈るときには」
人間にとって必要なものを3つ挙げなさいと質問されますと皆さんならどう答えるでしょうか?生活という面で考えてみますと、衣食住でしょうかね。着る物、食事、住む場所など考えられます。それに加えて、経済的な面、社会的立場、個人の権利というものが付加されていきます。では最も必要なことはそれらのものすべてを与えてくださる神様です。その神様とつながるためにはどうしたらよいでしょう?
神様とつながることが出来る3つの方法があります。一つ目は、御言葉に聞くということであります。神様の言葉は、時代や人種、個人的な考えを超越したものであります。つまり今もなお神様はわたしたちに働きかけてくださっている証拠が神様の御言葉です。益子教会の2021年度の目標は「御言葉に生きる」とさせていただいています。そのことについては4月の礼拝の中で陽子さんが語ってくださいました。本日は、神様とつながる二つ目の祈ることについて皆さんと考えたいと思います。
皆さんは、お祈りを毎日しているでしょうか?今日会ったこと、これからの予定、また神様へのお願いと様々なことをお祈りしています。そのお祈りをしているとき相手のことを思い浮かべながらしているのではないでしょうか?本日は母の日です。教会でもカーネーションをご用意いたしました。このカーネーションも普段の感謝の気持ちであったり、これからのことの願いが込められているのです。つまり私たちは知らず知らずのうちに母のことを覚えて祈っていたのであります。
祈る行為は世界中あらゆるところで様々な宗教で行われておりますが、皆さんは、どのようにお祈りしているでしょうか?わたしは洗礼を受ける方と勉強会をする際、必ずお祈りについて学びをします。まず、感謝をささげましょう。罪を告白し、懺悔しましょう。そして神様に願うことです。と教え、更に祈りたい事柄をメモ書きしておくと便利ですよと助言をいたします。しかしなかなか公衆の面前で祈る行為をしたことがない方の方が多いと思うのです。緊張してメモしたことさえ忘れてしまうかもしれないのです。そんな時には、本日の聖書箇所である主の祈りをささげてもよいですよと促します。この主の祈りはイエス様が教えてくださったお祈りです。イエス様がお祈りをしているとき、弟子がイエス様に近づき、イエス様が祈り終わるのを待って、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください。」と言ってきました。この時代は、祈るという行為は、預言者や祭司だけが行っていたものであります。しかし祈るという行為はだれでも行うことが出来るのです。この主の祈りは世界中の言語に訳されておりますから、自分の言葉でお祈りすることが出来るのです。小さいころから読んでいますと、暗記します。そらんじて読むこともできるのですが、それは非常にもったいないと思うのです。せっかくイエス様が教えてくださった主の祈りですから、その一つ一つの言葉を吟味しながら味わって呼ぶ習慣を身につけておきましょう。早く言えることが素晴らしいのではありません。競争ではないのですから。むしろ、ゆっくり読めば、高齢の方であっても小さなこどもであってもより深く主の御心を分かち合うことが出来るのではないでしょうか?
祈りという行為は、わたしたちが祈る前から、神様は何を祈るかを御存じなのです。では祈らなくともよいのではと考える人も出てくるかもしれません。しかし神様と仲良くなりたいのであれば、祈りをたくさんしていきましょう。そして自分の望んでいた結果じゃなくとも、神様に委ねていく気持ちを持つことが大事です。わたしたちもそうですが、説教もこう伝えたいと思っていても、伝わらないこともあります。それはこうしてほしいと願いが強いために神様の与えてくださることが信じられなくなってしまうのです。口にし、祈った時には神様お願いします。と付け加えていけば、問題ないと思います。どうぞ主に委ねる思いを持って祈っていきましょう。
2020年5月2日益子教会 主日礼拝 説教要旨
聖書 ヨハネによる福音書6章63節
メッセージ「言葉は、霊であり、命である」
わたしたちは、この世に生きておりますとあらゆる面でしるしが必要であります。特にこの世の手続きをする際には、「これをだしてください。」「ハンコが必要です。」はたまた、「住んでいる場所が記載している書類を出してください」等とにかくそのことが正しいかどうかを証明しなくてはなりません。しかし神様の救いに関しては神様の一方的判断ですから、特に印はありません。ですが、人々はその救いのしるしを求めるのです。なぜでしょうか?
それは、世で認めてもらうことであり、自分がこの世で生きるための安心感だったのかもしれません。しかし私たちが究極的に求めていくことは、神様の国に行くことであります。神様の愛に包まれて歩みたい。つまり神様とのつながりを求めています。その神様とのつながりさえあればと誰もが願うことでありますが、神様とつながる上で重要な事は何でしょうか?それは、自分の心や耳を神様に傾けることであります。どんな素晴らしい神様の言葉であっても高慢な思いで受け取ればどうでしょうか?そこには疑念の心が生じてきます。本当にそうだろうか?なぜでしょうか?私たちは神様の約束をしっかり守っている。だから偉いのだ。と自分を特別な存在であると分け隔てる心が生まれてくるのです。そのような心を神様は喜ばれるでしょうか?その高慢な心は、やがてもっともっとという欲求に侵され、神様の与えてくださることに満足できなくなってしまうのです。反対に謙遜な思いで御言葉を受け取るとき、神様に対する感謝の念が生まれます。その素直な思いは、神様を信頼することにつながるのです。その信頼することこそが信仰の道へとつながっていくのです。
本日与えられましたヨハネによる福音書を見てみますと、「命を与えるのは、霊である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。そのように書かれていました。この6章の初めには5,000人の給食の記事が載っております。イエス様の話を聞きに来た人たちがおなかをすかせていることを憐れんで、食事をあたえました。それによって多くの方が満腹いたしました。一旦イエス様と弟子たちと別れてから再び群衆はイエス様の後を追って集まってきました。そこでイエス様がこういうのです。「はっきり言っておく。あなたがたが私を探しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。
その言葉を聞いて人々は「神の業を行うためには何をしたらよいでしょうか」尋ね、イエス様が「神がお遣わしになったものを信じること、それが神の業である」そしてまた人々は先祖のモーセのことを取り上げ、「見て、信じることができるようにどんなしるしを行ってくださいますか」とイエス様に問います。そしてイエス様の答えが「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、私の父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」その言葉を聞いて「そのパンをわたしたちください」と頼むとイエス様は「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して乾くことがない」そのように発言すると、今まで必死に求めていた者たちが、「実にひどい話だ。誰がこんなひどい話を聞いていられようか」と興醒めしてしまいます。しかしこの言葉を聞いて、信じる者こそ神様の霊を受け取り、生きる力を得る者なのです。わたしたちは形あるものばかり求めてしまいますが、この形無き、神様の言葉こそが私たちとって必要不可欠なのです。人間誰にでもよくはあります。おいしいものが食べたい。立派な家を持ちたい。お金が欲しい等一時の欲求に心動かされるのではなく、神様が語りかけてくださる愛の言葉に耳を傾けてみてはいかがでしょうか?その言葉によってわたしたちが生き生きと生きることができるはずです。もっと、私たちが豊かな愛に包まれるのです。そして素晴らしい歩みをすることができると思うのです。わたしたちを素晴らしいものに造り替えてくださる主の恵みに感謝いたしましょう。
2021年4月25日 益子教会 主日礼拝 説教要旨
聖書 フィリピの信徒への手紙 1:3~11
メッセージ『共に恵みに与かる』
神様の恵みは、神様を信じる者だけでなく、神様を知らない者にも注がれるのです。しかし、どれぐらいの人がその恵みを感じることができたでしょうか?素直に受け取ることができれば素晴らしいと思います。ですが人は時として、「こうしてほしい」と思うあまり、神様の恵みを感じられない時があります。沢山の恵みが注がれているにもかかわらず、自分の心が満たされなければ。不満を感じ、文句を言ってしまうものなのです。しかしその文句さえも誰にも言えずにいれば、さらに自分に負荷がかかり、よりストレスを感じるようになってしまうのではないでしょうか?
その事で神様はわたしたちに祈る機会を与えてくださったのです。自分の心を洗いざらいさらけ出せるようにしてくださったのも神様です。それは、イエスもそうです。パウロもそうです。主の家族を覚えて祈っておりました。パウロがフィリピの地を訪ねた時、紫布の商人のリディアに出会い、パウロの神様の話を聞いて主の家族を得ました。そして、リディアにこう言われました。「私が主を信じる者だと思いでしたら、どうぞ私の家に来てお泊り下さい。」その言葉を受け、パウロはそのおもてなしを受け入れていくのです。そして、ある日女の預言者の霊を取り除けると、それによって利益を得ていた者たちがパウロのところに来て、パウロを牢獄に入れてしまうのです。しかし神様がその牢獄の中にあっても、パウロを守られるのです。それは、牢の外にいる主の家族の祈りがパウロを守られたのです。
現代でもそうです。主の家族のことを覚えて祈る場所は沢山ありますが、なかなか公の場でプライベートのことを祈れる場所はありません。本当に親しくならないと同じ悩みを共有することができませんが、益子教会では礼拝終了後、とりなしの祈りをしています。その場に居るのは霊による家族であります。たとえ血はつながっていなくとも、霊による交わりは強い絆があるような気がするのです。そして今その方が何を苦しんでいるのか、何に悩んでいるのか、理解して歩みよることができるのです。わたしたちは、このとりなしの祈りをとても大切にしています。ですからパウロも同じように自分が尋ねた土地の人たちを心配し、またその土地の人がパウロを心配する。この祈りの交わりは相手を信頼していないとできません。つまりパウロも信頼し、フィリピの人たちもパウロを愛しているのです。
更にパウロは具体的にフィリピの人たちを覚えてこう祈っていくのです。パウロが過ごした時代、教会にも混乱がありました。それは律法を尊守してきたユダヤ人との対立や、パウロ個人に恨みを抱くもの、様々な理由がありますが、自由に伝道をすることが大変でありました。パウロ自身もいろいろな問題を抱えておりました。ですが、この共に祈り合うことによって、どれだけ助けられたか、どれだけ癒されたかわかりません。その主の家族のためにパウロも具体的に祈るのです。真の神様を知る力と神様のことを語る偽預言を見抜く力と神様の愛が豊かにみちることを祈るわけです。なぜならば、神様の時に備える必要が人間にはあるのです。悔い改め、主の愛を共に実践し、神様の愛に応えていく。それこそが今の私たちに必要な事であります。霊によって、わたしたちはつながり、共に恵みに与かる家族として歩んで行きましょう。
2021年 4月17日 益子教会 説教要旨
聖書 申命記 30:14
メッセージ「御言葉に生きる」
先週、益子教会の総会を開くことができました。その際、2021年度の益子教会のビジョンを提案し、承認されましたので、皆様と分かち合いたいと思います。今年度のビジョンは「御言葉に生きる」これは申命記の30章14節に書かれています。この言葉はモーセがイスラエルの民に告げた言葉であります。この章の1節から3節を見てみますと、このように書かれています。わたしたちがあなたの前に置いた祝福と呪い、これらのことがすべてに臨み、あなたが、あなたの神、主によって追いやられたすべての国々で、それを思い起こし、あなたの神、主のもとに立ち帰り、わたしが今日命じるとおり、あなたの子らと共に、心を尽くし、魂を尽くして御声に従うならば、あなたの神、主はあなたの運命を回復し、あなたを憐れみ、あなたの神、主が追い散らされたすべての民の中から再び集めてくださると書かれております。つまり神様は祝福か呪いを準備しました。皆さんはどちらを選ぶでしょうか?
迷わず、祝福を選ぶのではないでしょうか?では神様の祝福を受けるのにはどうすればよいでしょうか?先ほど書き記したようにわたしが命じるとおり、あなたの子らと共に、心を尽くし、魂を尽くして御声に従うならば祝福が与えられます。この私とは神様のことです。つまり神様が命じることにこどもと一緒に心、魂を尽くして御声に従うということであります。つまり神様の声が書かれている聖書に耳を傾けるということであります。
さて本日の御言葉を見てみましょう。このように書かれています。御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。わたしたちの周囲には御言葉が溢れております。それはただ単純に聖書を開けば神様の言葉を聞くということだけではありません。神様は様々な方法を使ってわたしたちに御言葉を与えられます。それは主に3つの働きによって神様はわたしたちに語り掛けるのです。一つは様々な自然によって与えられる神様の恵みによって御言葉を知ることができるのです。2つ目は、神様がイエス様をお送りくださり、その行動や言葉によってわたしたちは救われ、神様の存在を信じることができるのです。そして最後に、わたしたち自身の生活の中で罪から救いを体験すること、つまり神様の霊による贖いによって御言葉を知るのです。
しかし、最後に皆様と分かち合いたいことがあります。神様の言葉を聞いただけで終わるのではなく、神様の言葉を実践していかなければならないのです。その御言葉の実践こそが私たちが御言葉に生きるということなのです。どうぞ今年も御言葉に心を留め、神様が私たちに何を語られているのかを耳と心を傾け、その言葉を理解し、御言葉に従った生活をしていきましょう。この困難な時代を乗り越えていくには神様の言葉でしかないのです。こんな時代だからこそ神の愛を率先して行うべきではないでしょうか?何をするか、何を目指すかは自由です。しかし敢えてわたしはお勧めします。キリストの御言葉に生きるべきです。それこそ神様が私たちにのぞんでいることなのではないでしょうか?もう一度自分の心に問いただしてみてください。本当に神様に従おうとしているかどうか。
2021年4月11日 益子教会主日礼拝 説教要旨
聖書 マタイによる福音書 6:19~21
メッセージ「富は天に積みなさい」
神様の御言葉は、わたしたちにいつも希望を与えてくださると共に、わたしたちの心の動きも把握されております。どんなに神様のことを信じていると明言しようとも目の前の問題に心を奪われがちになってしまうのが人間です。それはどんなに科学が発展しようとも、文明が便利になろうが、わたしたちを惑わすものは沢山あります。それは、歴史を重ねている時代だからこそ様々なものがその欲望へと導いているからです。誰でも陥りそうなのがお金であります。それはこどもから年齢を加えられた方も含め、多い、少ないにかかわらず誰でも手に触れることが出来るのです。また、それによって起こりうる人間の欲深さを引き出すこととなってしまうのです。つまり金銀財宝に心が向けば、その事が気になってしょうがないのです。それは、イエス様の近くにいた弟子たちにも影響を与えるものでありました。
弟子の一人ユダは、銀貨30枚でイエス様を売ってしまいました。また、イエス様に油を塗ろうとした女性に対して、「どうしてそんなもったいないことをするのだ。それを売れば、貧しい人が助けられたのに」とその認識が正しく、行いが間違いであるかのごとく怒りました。しかしその事は正しいのでしょうか?イエス様は、その行為は後世まで記念として語り告げられると話されました。それはこの女性がこの世の富に惑わされず、本当に大切な人に対しての思い、つまり神様に対する最大限の愛情表現であることがわかります。
わたしたちの生活にはお金が必要でありますが、必要以上に所有した場合どうなるでしょうか?これは予想ですが、周りの目が気になってしょうがないかもしれません。また疑いの目を持ってしまうかもしれないのです。もしかしたら、誰かに狙われる思いを抱き、毎日様々な思い患いを持ってしまうかもしれません。つまり心が休まることが出来なくなってしまうのです。ではどうしたら良いでしょうか?どうしたら平安が与えられるでしょう?それはまさに神様に委ねることではないでしょうか?神様を信頼する事ではないでしょうか?その希望通りいかないかもしれません。しかし神様の業はわたしたち人間の思いをはるかに超えたものであります。より良いものを与えてくださる神様は、わたしたちに御言葉によって示してくださるのです。だから私たちの尊い富は神様の言葉なのです。その宝は、朽ちることも、しぼむことも、壊れることがないのです。お金の様に減ることもありませんし、奪われることもありません。むしろ、それによって人々が恵みを感じ、更に神様のことを知る者が増えていくのです。その恵みこそが金銀財宝よりも価値の高いものなのです。わたしたちが天に積むべきものです。では何を積んで行けばよいでしょうか?神さまから与えられた律法で一番大事なのは、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、主なるあなたの神を愛せよ、第2も同様である。自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ。この律法の核である愛を実践することこそが天に富を積むことです。わたしたちが率先して愛を行い、その愛を知らない人たちが愛を理解することが出来れば、その愛は確実に増えていくのです。主の富が私たちに注がれますように主に祈って参りましょう。
2021年4月4日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 ヨハネによる福音書 21:11~18
メッセージ「なぜ泣いているのか」
わたしたちは様々なもので春を感じます。草花が芽吹き花咲くのを見ると春を感じることが出来ます。特に日本人は桜の花が大好きで、咲き始めも満開の頃も、散り際もよくニュースで取り上げられます。しかし、青々としている時はあまり興味を持ちません。わたしたちもそうです。毎年のイースターに春を感じるとともに、新たな気持ちが芽生えてくるのではないでしょうか?その事は思いがけないことから始まるのです。
マグダラのマリアは、薄暗い朝早くからイエス様のお墓に行きました。それは十字架につけられ、召されたイエス様の体が腐らないように油を塗るためでした。しかし、墓に行ってみると、墓をふさぐ重い石が取り除かれていたのです。これを見てマリアは、弟子二人に告げました。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしはわかりません」その言葉を聞いて弟子たちはいそいで墓の方に走っていき、マリアもすぐに追いかけました。二人の足は速く先につき、墓の中を確かめ、遺体がないことを改めて確認したのです。
その後、家に帰っていきました。一方ではマリアはその場に残されていたのです。そしてイエス様の遺体がないので、どうしていいのかわからず、途方に暮れ涙を流しておりました。
そこに二人の天使が現れ、「なぜ泣いているのか」とマリアに問いかけた時に、「わたしの主が取り去られました。どこに置いてあるのか、わたしには分かりません。」そして後ろを振り向くとイエス様がおられました。「婦人よ、なぜ泣いているのか、誰を探しているのか」と声をかけられました。しかしマリアは暗かったためか、目が霊によって見えなくなったのかは分かりませんが、はイエス様と認識せず、園丁と勘違いしてこんなことを言うのです。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。
これはマリアの決意でした。つまりこの時代死体は汚れたものとされておりました。引き取るということは自分も汚れたものになってしまうかもしれない。そう思われる可能性もあったわけですが、マリアは毅然とした態度で受け答えいたしました。その心や態度を見たイエス様は「マリア」と名前で呼ぶのです。それはいつもイエス様が声掛けをする名前だったのです。その名前を呼ばれた時マリアは、はっとしてイエス様である事に気づくことが出来たのです。そしてマリアは、足にしがみつきました。
そこでイエス様が弟子たちに伝言をゆだねます。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとに上ってないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい」
「わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへ私は上ると」、」その言葉を託されたマリアは弟子たちのところに行き「わたしはイエスに出会いました。と述べ、イエス様が語られた言葉を弟子たちにつなぐのです。つまりマリアが流した涙は悲しみから喜びの涙に代わり、新たな希望の一歩を踏み出すことが出来たのです。わたしたちもこのイースターが新たな一歩へとイエス様が導いてくださっているのです。悲しみから喜びの一歩を自身も踏み出していきましょう。
2021年3月28日 益子教会 説教要旨
聖書 マタイによる福音書 21:1~5
メッセージ「子ろばに乗って」
本日は、棕櫚の主日です。イエス様がエルサレムに近づいたとき、弟子を遣わし、子ろばがいるからその子ろばを連れてきなさいと言われました。その言葉どおり弟子たちはろばの親子をみつけるのです。そしてイエス様の言葉に従い、子ろばにくくりつけられているひもをはずそうとしたとき、その持ち主でしょうか?声をかけるのです。そして弟子たちはイエス様の言葉に従い「主がお入り用なのです。」と答えたのです。そうするとその子ろばを借りることが出来ました。そして、イエス様はその子ろばに乗ってエルサレムに入城してくるのです。そこで、多くの方がイエス様の入城を喜び自分の服と棕櫚の葉っぱを道に敷き詰め、こう叫ぶのです。「ダビデの子にホサナ」その喜びはひとしおです。イエス様を迎え入れた人々は、非常に気持ちが高ぶっていたのかもしれません。しかし全員がすべて歓迎ムードではないのです。中にはその場に居れないほどうるさく感じた人もいたかもしれないのです。しかしなぜ馬ではなくろばなのでしょうか?そしてなぜ子ろばなのでしょうか?
それは聖書に記されている神さまの言葉が偽りなく、成就される約束事だからです。もちろんそのほかに様々な推測をすることが出来ます。馬のようにエルサレムを颯爽と走り去る必要はないのです。ゆっくりと柔和な心をもってエルサレムに入城されるのです。また、大人のろばと違い、視線も低いのです。神様はわたしたちと同じ様な目線を持っておられ、わたしたちが苦しい時、喜んでいる時、全ての時を一緒に歩んでくださるイエス様を与え、その苦しみを共感してくださるのです。
一方で人間の選びと神様の選びは違うのです。人間が選ぶ場合はどうでしょうか?人間はその条件に見合ったものをなるべく近い条件のものを選ぶのです。好条件のものを。しかし神様の選びはどうでしょうか?たとえその条件に見合っていなくとも、「主がお入り用なのです。」と言われるのです。つまりすべての人が、主が必要と言ってくださるのです。そのように言ってくださるのです。つまり大人であろうが、こどもであろうが関係ないのです。神様が声をかけてくださるのです。つまり人間が思うような条件は何一つないということではないでしょうか?
では選ばれた方はどうでしょうか?なぜ自分なのかなど様々な思いが駆け巡ります。初めて人を乗せて多くの人の前を走るということ、なぜ小さなわたしがと戸惑いを覚えたかもしれません。しかしイエス様を乗せて走り出しますと、多くの方が「ホサナホサナ」と叫びました。その歓声にもしかしたら、誇らしげに歩いたかもしれません。それは弟子たちも同じような気持ちを持ったかもしれません。その神様の役目は、子ろばに自信をつけさせたのです。しかし神様の業は誇らしげな業ばかりではないのです。弟子のユダも神様の役割を与えられました。それは神様を裏切る行為です。誰もがその役割を断るでしょう。誰もが避けて通りたいと思います。しかし神様はその役割を与えるのです。その業をしなければイエス様の十字架が始まらないのです。神様の栄光が示されないのです。ですから、ユダの働きも神様が与えられたのです。わたしたちも神様に必要とされているのです。「主がお入り用なのです」と示されています。ですからこの棕櫚の時、神様が私たちに語り掛ける言葉は、「主がお入り用なのです。」この言葉こそが復活のイエス様を迎えようとしているわたしたちに必要な言葉ではないでしょうか?
2021年3月21日 益子教会 主日礼拝説教要旨
聖書 ヨハネによる福音書 1:1~5 「言葉は神と共に」
わたしたちの生活の中で、見えないけど大切なものがあります。におわないけど、心に響いてきます。食べられませんが、満たされます。さてそれは何でしょう?それは、言葉です。しかもただの言葉ではありません。神様の御言葉つまりわたしたちに生きる活力としての言葉であります。その神様の御言葉はわたしたちと共に歩んできました。しかし人間の歴史を振り返ってみますと、神様の御言葉を謙遜に受けとめることもあれば、そうでない時もあるのです。つまり何時も神様の御言葉を素直に従う心が24時間365日備えられれば、問題ないのかもしれません。しかし人間は、神様を拒み、求めることを繰り返し行ってきました。その結果、神様を自分の都合のいいように思いこんでしまったのです。ご利益主義に走り、自分の欲求を満たすためだけに神様を求めるようになったのです。そのため、神様がどんなに言葉をかけてくれようとも、その過ちに気づくことが出来なくなってしまったのです。
しかし神様は、絶対あきらめない熱情の神様ですから、わたしたちにイエス様をお遣わしになったのです。そのイエス様によって、神様の愛を多くの人たちが理解していったのです。それは今まで蔑まれてきた人々、社会的抑圧を受けていた者、病気の者、小さな子ども、弱い立場の者が次々と神様の祝福を感じることが出来ました。
いつの時代でも相手がうまくいっている時、自分たちの生き方を否定されると面白く思わない人が出てくるものです。妬み、恨み、そういった感情は誰にでもあるものであります。その感情をいかにコントロールすることが出来るかが人間の社会には求められていることではないでしょうか?イエス様が神様の言葉を行動に移す時もそうでした。イエス様は神様から与えられた律法を正しく理解して実践してきました。しかし、律法学者やファリサイ派の人々、祭司等社会的な地位を持っている者にとっては、イエス様の働きは自分たちの生活を脅かす存在になっておりました。つまり自分たちが唱えてきた律法こそが正しいと信じ、人々に強要していきました。しかし神様がそんな狭い思いをもって、わたしたちに律法をくださったのではありません。わたしたちが生きる上で必要な物を見いだし、この世で互いに神様と共に生きるために、神様がイエス様をお遣わしになったのです。それにもかかわらず、わたしたち人間はイエス様を十字架につけて殺してしまうのです。そのイエス様に妬みを持つ、社会的立場の者の言葉の扇動によって。つまり人間の心の中にある闇が支配し、光を憎んでしまうのです。わたしたちはその圧力にいつも負けてしまうのです。しかし神様は、今もなお私たちの弱き心も理解し、わたしたちに光の言葉をかけ続けてくださっているのです。わたしたちも神様の御心がなんであるかを考える時にその光を目当てにその闇から今こそ抜け出しましょう。わたしたちが神様とこれからも歩もうと考えるなら、なおさらです。今からでも遅くはないのです。言葉は神であり、わたしたちの心の只中にいつも神様がおられるからです。
2021年3月14日 益子教会 主日礼拝説教要旨
聖書 ルカによる福音書 11:27~28
メッセージ「幸いなのは」
わたしたちはこの世に暮らしていると盲目になりがちです。便利な物が溢れています。しかしその便利なものを使おうと思うと様々なものを準備しなければならないのです。そのものを作るのに、土地も知識もお金も必要になるからです。しかし人間の一番のいざこざはお金です。お金はあれば助かりますが、その事に執着しすぎると逆に苦しい思いになってしまうのではないでしょうか?わたしたちにとって幸いとは何でしょうか?好きな人と一緒の時を過ごすこと、これも幸いの一つかもしれません。旅行が好きで年に一回旅行に行ける。これも幸いかもしれません。何一つ病気をしない健康が与えられている。これも幸いかもしれません。好きなものを食べられる。これも幸いかもしれません。しかしどれも一時のものであります。例えば「大好物のものをいくらでも食べてもいいよ」と言われて与えられたらどうでしょう。もちろん大歓迎ですが、食べ続けると飽きてくるでしょうし、おなかが満たされますと、『もう結構』といらなくなるでしょう。そのまま放置してしまえば、腐らしてしまうのではないでしょうか?先ほど挙げた幸いはどれもが一時は満たされても、また欲しくなってしまうものなのです。では何がわたしたちを幸いにしてくれるのでしょうか?
自分が幸いになりたいのであれば、まずすべきことは腐らないもの、壊れないもの、昔からあるものを探すことです。それは食べ物でしょうか?健康でしょうか?立派な家でしょうか?どれも条件に一致しません。出エジプト記では、神様はイスラエルの民がお腹を満たすようにとマナを与えます。それも必要な分だけ与えてくださるのです。しかし、備蓄のために多く集めるとどうなったでしょうか?いずれも腐ってしまうのです。
では、建物はどうでしょうか?神殿も手間と費用をかけて大きなものを作ろうとします。それは並大抵のことではありません。しかし、年月を重ねれば、地震や大嵐、戦争が起こった場合崩れて破壊されてしまうのです。では、健康はどうでしょうか?一生懸命努力をして体調を維持管理していても病気やけがをするかもしれません。つまり自分自身が努力をしてもその頑張りがむなしく思えることもあるかもしれません。では何がわたしたちを幸いにしてくださるでしょうか?それは神様の御言葉しかないのです。どんなに時を重ねようとも人間の本質は変わりません。つまり、相手のことをうらやましく思えたり、卑屈になり、妬んだり、それは人間の本質かもしれません。本日の聖書であるルカによる福音書11:27~28に登場している女性は、「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は」このように叫びました。そしてその事を聞いたイエス様は、むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、その事を守る人である。」と答えられました。わたしたちもそうです。様々なものがあっても幸いにはなりません。しかし神様の言葉があれば、わたしたちはどんな状況であろうとも喜びを得ます。その幸いに与かることができるのです。そしてその御言葉を大切に行動するならば、わたしたちは周囲の人に幸いを与える存在となっていくのです。皆様のそばには神様の言葉が溢れているのです。その恵みに感謝しましょう。
2021年3月7日 益子教会 主日礼拝 説教要旨
聖書 マタイによる福音書 7:24~27
メッセージ「強固な土台の上に」
神さまはわたしたちに生きる上で必要な物で満たして下さいます。もちろん自分自身で欲していても与えられないものもあります。しかし、全てにおいてわたしたちが欲している以上のものをくださるのが神様ですから、その与えられる神様の真意というのはすぐにわかるものもあれば、しばらくしないとわからないもの、全く理解できないものとなります。しかし、神様の御言葉に耳を、心を、そして自分を向けていく時に神様の心に触れることが出来るのではないでしょうか?つまり何もしないでも与えられる者を理解をしようとすれば、必然的にその言葉について学ばなければなりませんし、学ばなくとも神様は全く予期せぬ方向からその与えたものを理解させようと働くのです。なぜそのようなことがあり得るのでしょうか?それは神様がいつもわたしたちを見ておられ、わたしたちに必要なものは何かを知っておられるからです。本日の御言葉は、わたしたちに聞くことを促し、目先のものに対してではなく、その先にある神様の栄光を着地場所にすべき準備なのです。
わたしたちには、今しなければならないことがあります。それは何か。つまり再び神様が来られるまでの間に、神様とは何ですか?神様の愛って何ですか?わたしたちは何ですか?等様々な疑問に対して、わたしたちは理解して、神様を迎える準備をしなければならないのです。わたしは神様を知っています。わたしは神様が何を教えようとしているか、知っていますよ。わたしたちは何者ですよ。と答えられる人はあまりいないのかもしれないのです。むしろ神様を全部知っている人がいたらぜひ会って話をしてみたい。質問してみたいと思うほどです。世界にはまだまだ私たちが知らないことが沢山あります。動物も昆虫も微生物も、人間も、海も、山も、空も知らないことだらけです。今日はその一環として世界の全く知らない世界を紹介するとともにキリストの交わりをしていきたいと思います。
本日は、世界祈祷日であります。世界祈禱日とは、多様なキリスト教の伝統を共有するキリスト者女性より1887年にアメリカの女性たちが移住者や抑圧されている人たちを覚えて始まりました。二度の世界大戦の経験から、地球規模の視野をもって和解と平和を求める祈りによる世界的な運動に発展しました。毎年3月第1金曜日を中心に行われております。今年度の祈るべき国は、バヌアツという国であります。バヌアツは、フィリピンにある島の一つであります。魚業、農業、林業など盛んで、人口の83%がクリスチャンであります。しかし大きな問題があります。それは性犯罪率が多いということであります。多くの女性が性的暴力を受け、それによってこどもを授かります。そうして増えたこどもたちに対して一人一人に十分な教育を受けさせることが困難になってくるのです。その教育を受けていないこどもたちが大人になり、性犯罪に手を染めるという負のスパイラルが起こっているのです。わたしたちは、どのくらいの情報をもって過ごしているでしょうか?今は求めれば自分で探すことが出来ますが、自分から探さなければ、テレビやインターネットで流れる情報しかありません。ですから知ろうとしなければ、一生知らないかもしれないのです。この世界祈祷日の狙いには知るということがあげられています。知れば祈ることが出来ます。その祈りに導かれて何か自分で探すことが出来るのです。わたしたちも聖書を開けば、神様を知ることが出来ます。しかし一長一短にはいきません。神様の言葉を理解するには、長い年月が必要です。時には難しくて挫けてしまうかもしれません。時には忙しくて聖書を開くことが出来ないかもしれません。時には、忘れてしまうかもしれないのです。そのような時、本日の御言葉を思い出してください。本日の御言葉はマタイによる福音書7章24~25節に「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものは皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いても、倒れなかった。岩を土台にしていたからである。」こう書かれております。つまり御言葉を知ろうとする者は決して楽な道ではないということであります。誰にでも救いはあります。しかし人生で気がつける人、そうでない人さまざまです。しかしその素晴らしいことに気づけても実践出来ずにいる人も多いのではないでしょうか。でも私たちは知っております。2000年前に創られたこの聖書が今もわたしたちに語り続けてくださっていることを。その強固な土台は崩れないのです。人間が作ったのであれば、今まで存在しなかったのかもしれません。しかし神様が創られたものだから現存しているのです。その強固なものに守られているわたしたちは神様の恵みに与かっているのです。ですから、わたしたちは神様の思いを受け止め、生涯主の御言葉を追い求めていこうではありませんか。
2021年2月28日 益子教会主日礼拝 説教要旨
聖書 Ⅱコリントの信徒への手紙 4:7~14
メッセージ「並外れた偉大な力」
わたしたちは、病気もすれば、けがもします。成功もすれば、過ちを犯す者でもあります。つまり完璧な人間なんていません。誰もが欠けたる者なのです。それは本日の聖書であきらかにされているように、わたしたちは土の器だからです。土の器は些細な事でもかけてしまうのです。一方で完璧なものがあります。それは何かと申しますと神様であります。神様はどんなものでも創造し、どんなものでも愛され、神様の計画を遂行する方でおられます。
悲しいことに今の社会は、完全を求める傾向にあるのではないでしょうか?失敗したらたたかれ、また自分の失敗を人に押し付けてしまうような社会です。また自分の理想を求め、こうでなければならないと言った偏見を押し付けてしまうのではないでしょうか?そのため、多くの人が生きぬくさを覚えています。知らず知らずのうちに自分も人を傷つけてしまうかもしれないのです。何があっても自身を完全ではないと理解しなければなりません。
神さまはわたしたちを創造してくださいました。わたしたちを欠けた存在としてお造りになったのです。そのことをわたしたちは認めていきたいものです。ではこの欠けたる存在である私たちがどのようにすればこの世を生きていくことができるのでしょうか?それはまず、自分の視線を人に向けるのではなく、神様に向き変えるということであります。そうすれば、自分はこんなにも欠けている存在であるにもかかわらず、神様は愛してくださるのです。その神様の愛を感じることができるのです。自分が愛されていると気づけば、たとえ人の評価はどうであれ、この世で生き抜いていく力がみなぎってくるのです。
神様はわたしを認めてくださるのです。完全を求める人間の思いとは違って、その神様の大きな愛は失敗してもわたしたちに降り注ぎます。その要求に達していなくとも頷いてくださるのです。その神様の認識こそわたしたちが完全な者になっていくことが出来るキーワードなのではないでしょうか?欠けた者だからこそ神様の力が必要なのです、神様を知り、神様を認め、神様を愛することです。愛によって形成される世界こそが神様が求められておられることなのではないでしょうか?ハイテクノロジーの便利な社会を神様は求めていないということです。つまり人間にとっては必要であっても、神様には不必要な物です。
わたしたちも本当に必要なものは何であるかを知っております。しかしその事を行う勇気がなかなかありません。それは人の目を気にしていたり、心のどこかで神様のことを信じ切ることが出来ないのです。しかし神様を信じてみましょう。人の目を気にしないように生きてみませんか?そうすればもっと自由になれるはずです。もっと神様の愛を感じられるのです。わたしたちが完全な者になるには神様の並外れた偉大な力によってのみその事が実現できるのです。人は決して神様にはなれないのです。どんなに神様に似せて造られても完全にはなれません。むしろ欠けた部分を神様が補ってより良いものへと輝かせてくださるのです。常識を打ち破る神様の力は、どんなものにも注がれているのです。
2021年2月21日 益子教会 主日礼拝 説教要旨
聖書 Ⅰコリントの信徒への手紙 1:4~9
「主も最後までしっかり支え」
わたしたちはこの世で生活をしていますと様々なことが起きます。病気やけが、事故、火災、地震など予想できるものもあり、できないものもあります。そのためにこの世では様々な保険があるわけですが、皆さんは何を基準にするでしょうか?例えば、自動車保険の場合、値段やサービスつまりどれだけの利用価値があるかを吟味し、加えたり、選択し、自分の保険をカスタマイズできます。しかしその保険は毎年の契約でしかもお金が発生してくるわけであります。そうしますとお金が無くなれば保険に入ることができなくなってしまうのです。金の切れ目が縁の切れ目と申しますが、その保険がなくなれば、事故を起こした時、ちょっとの事故であっても、多額な費用がかかってしまうのです。だからほとんどの人が高い保険料を払っているのです。なぜそんな話をしているかと申しますと、このような人間が入る保険には制限があったり、限界があるのです。しかし、制限もなく、限界のない保険があれば、ぜひ入りたいと誰しもが思うのではないでしょうか?
そんな素晴らしい保険がどこに売っているのでしょうか?お店でしょうか?インターネットでしょうか?そもそもお金で買えない保険です。それも一生涯続くのです。しかもその保険はなくなることもないとしたら、お得ですよね。それが神様であります。神様の恵みは無くなることはありませんし、増え続け、そして自分以外の人にも恵みが注がれるわけですから、こんな素晴らしい喜びはありません。わたしたちが神様を知りえたことは、人生最大の喜びであります。こんな者でも神様は愛してくださるのです。そして神様の豊かな恵みをいただいているのです。しかもそれはすべてのものに通じているのです。これほど優れたものはないのですが、どうして広がっていかないのでしょうか?どうして求めていかないのでしょうか?それは人間という生き物は自分の力を過信しているところに帰するのではないでしょうか?あまりにも科学が発展していくと便利さばかりがもてはやされ、神様の恵みが霞んで見えてしまうのかもしれません。原因を証明できないものに対して、警戒心を抱くのです。そうすると見えるものも見えなくさせてしまうのです。
だから神様がいると信じている人は幸せなのかもしれないのです。この現状を理解した上でわたしたちは神様に願うのです。すべての人が神様と向き合うことができるようにと、しかし人間の力では限界があるのです。つまり自分の信仰を守ることで精いっぱいなのかもしれない。だからこそ私たちは神様に委ねていくのです。信頼しているからこそ委ねることを思いつくのです。自分の弱さを自身が認めること、受け止めることができれば、神様の恵みの中に入ることができるのです。神様の計画は、全ての人を救うことなのです。ですから私たちはその神様を信頼すべきではないでしょうか?神様を信頼すればわたしたちは安心を見いだすことができるのです。これからの歩みが守られますように主に願っていきましょう。その恵みによってわたしたちは満ち足りてあらゆる悪魔の誘惑から逃れることができるのです。その保証は、一生涯最後まで支えてくださる礎となるのです。
2021年2月14日 益子教会説教要旨
聖書 エフェソの信徒への手紙 2:14~22
メッセージ「キリストは平和である」
人間の歴史は、常に争いがある歴史を繰り返してきました。その争うことがどんなにおろかな事であるかを知っていても繰り返して行ってしまうのです。それはなぜでしょうか?人間は多種多様な人と出会い、自分を構築していきます。その人間関係の中で、自分が居心地よい環境にいたいという願望は誰しもが持っていることではないでしょうか?自分と違う考え方のものを排除し、自分に近い考え方をする者により共感を抱くのではないでしょうか?仲間意識という言葉は、良いイメージにもなれば、悪いイメージになってしまう恐れがあるのです。つまり人間の考える仲間としての意識は、狭い範囲にとどまってしまう可能性があるのです。しかし神様の視点は違います。神様はまず、人間をお造りになった際、自分に似せて創造されたわけであります。つまり多少の違いがあるにせよ、わたしたちは神様と同じ体を持っているということであります。そこに神様は息を吹いて生ける者となさいました。しかしそうした事実にも関わらず、人間は神様に背を向けてしまうのです。平和を求めるために戦争をし、愛のために戦います。しかしそれは神様の意図する事と相違があります。神様の思いは、お互いに相手を認め、相手を尊重し、相手のことを考え、思いやる関係をわたしたち人間に求めているのではないでしょうか?つまり愛の実践であります。その事を行えば神様の心を全部理解できなくとも、根っこの部分を見ることができるのではないでしょうか?その思いが形になって表れたのが、イエス様です。
わたしたちは神様からいただいた律法を大切にしてきました。しかしその律法を神様からいただいたにもかかわらず、その律法を盾に相手を裁く行為を行ってしまったのです。つまり人間が人間を裁く道具に神様を用いてしまったのです。裁くことは愛あるものではありません。むしろ愛を見失い、神様の名をかたる道具へと代わってしまったのです。しかしその過ちを正しく理解するために神様はイエス様をお遣わしになりました。イエス様は律法についてこう語っています。「一点、一角無駄なものはない。わたしがきたのは律法を破棄するのではなく、完成させるためである。」とおっしゃられています。つまり神様はわたしたちに足りないものを補ってくださったのです。そのイエス様の愛あるその行動は律法を知らない人たちを魅了し、律法によって裁かれていた人を立ち直らせ、権力者を黙らせる力があるのです。しかし権力者はそのイエス様の立ち振る舞いに苛立ちを覚え、十字架につけました。しかしその十字架は神様の計画によるものです。神様はイエス様を通して愛の大きさを示されました。人間はその愛の大きさのゆえに神様を信じるようになるのです。
どんな時にも、どんな場所でも、どんな人であっても神様は愛してくださるのです。それは今も変わることなく、平和を求めるのであれば神様を求め、神様を求める者は平和を求めるのです。求める形は違えど、最終ゴールは同じなのです。神様は愛であり、その愛こそが平和なのです。
2021年2月7日 益子教会 主日礼拝説教要旨
聖書 ルカによる福音書14:15=24
メッセージ 「いっぱいにしてくれ」
神様は、誰であれわたしたちを招いてくださります。しかし全ての人が従順ではないのです。神様の招きにどれだけ答えていくことができるか、わたしたちは神様から問われているのではないでしょうか?自分を冷静に分析してみましょう。わたしは牧師として歩んでおります。しかし神様の言葉に触れていても、まだまだどこに何が書いてあるかということも乏しいかもしれません。仮にどこに書いてあると熟知していても、新たな発見と共に慰めを受けています。また、人生の指針として示されていることに感謝しています。よく「あの聖句はどこに書いてありますか?」という質問を受けることがありますが、覚えた聖書によって訳が違っていたりしますと、正確に答えられない場合も生じてきます。そのように、わたしは読み込んでいないなといつも反省しています。
本日の聖書では、ある主人が宴会を計画して、多くの者を招待いたします。つまりあらかじめ知らされている人々であります。その者たちは主人の知り合いかもしれませんし、認められた存在かもしれません。とにかくその催し物は、誰が主催者かを理解している上で出席を予定している者たちでありました。その宴会の準備ができたので主人は僕を遣わし、声をかけていた者に声をかけるのです。ところがその声をかけた者はことごとく断るのです。ある者は、畑を買ったから見に行かねばと断り、ある者は牛をつがい5組買ったのでそれを調べに行くところですと断り、そしてある者は、妻を迎えたばかりなので行けませんと断りました。結局招待した人は、誰も来ませんでした。それを聞いた主人は怒って、今度は「急いで町の広場や路地に出ていき、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れてきなさい
と命じます。僕はその事を聞き、町の広場や路地にいる貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人たちに声をかけ集めるのです。そして主人にこう告げました。『御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります。』すると、主人は『通りや小道に出ていき、無理にでも人々を連れてきて、この家をいっぱいにしてくれ。言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は誰もいない。』それでは本日の聖書からわたしたちは学んで参りたいと思います。はじめに宴会に招待されていた人は神様という存在を知っている人であり、礼拝を毎週のように行っていた人かもしれません。つまり神様という存在を認めている人たちであります。その前提の下、当然宴会を催す主催者が神様であることも知っている方であります。ところがいざ神様の準備してくださった宴会の時になってみると、自分のことを優先し誘いを断りました。非常に残念なことです。しかしそのようなことは、わたしたちも実は心当たりがあるのではないでしょうか?これをしなければならない、あれをしなければならないと迷うことがあります。わたしたちは体が一つしかありませんから、優先順位をつけ、行うようにしています。しかしその順番を間違えてしまうと、「まぁいっか」とか「いずれまた」と解釈することが多いのではないでしょうか?しかし神様のタイミングはいつ来るかいつ起こるのかは神様次第であってわたしたちの時間ではないのです。つまりその呼ばれたときこそがチャンスなのです。そのチャンスをわたしたちはみすみす逃してしまうものなのです。また、2番目に招待を受けたのは、社会的に貧しい者であり、病を持っている人たちでありました。その食事の席についているにもかかわらず、わたしの食事を味わうことが出来ないと言われたのは、その食事にありつけるという思いが先行して、本来招いた人が誰であるとか、どんな目的で招待されたか等理解をしていないということであります。つまり空腹が満たされれば、満足してしまう者かもしれないのです。神様の恵みは自分が苦しい時にだけ働いて助けてくれれば良いというご利益主義的な思いは人間のわがままな思いかもしれません。わたしたちは何のために呼ばれ招かれているのか、どんなことを神様が望んでいるかを考え行動しなければならないということであります。更に僕が現状を報告すると主人は、『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れてきて、この家をいっぱいにしてくれ』と命じられるのでした。その思いは、貧しい人や体の不自由な人ばかりでなく、もっと多くの者に神様の招きを伝えていかねばならないのです。勿論無理やり連れ込むと犯罪になるかもしれません。ですが沢山の方に神様の招きを伝えていくことが大事なのです。その声かけによって来る人、来ない人様々かもしれませんが、神様の招きがあることは知っている者にしか伝えることが出来ないのであります。わたしたちは、神様の招きを受け取り、その主の招かれている日がいつ来ても良いように心の準備、体の準備をしていきましょう。そして神様が招いてくださる理由を正しく理解し、多くの方々に主の招きがある事を伝えて、招き入れましょう。その行いによって神様の思いとわたしたちの心は満たされていくのです。
2021年1月31日 益子教会説教要旨
聖書 Ⅱコリントの信徒への手紙 9:6~12
メッセージ「喜んで与える人を」
わたしたちは神様に様々なものをいただいております。その時神様はどのような思いで恵みをくださっているでしょうか?わたしたちは神様ではありませんから、その真意というのは見えません。しかしわたしたちが訴えることに対して耳を傾けてくださるということは事実ではないでしょうか?それが思い通りになるかどうかはわかりませんが、その祈ること、求めることに対して誠実に取り組んでくださっているのは神様です。
良い指導者の条件は、相手の話す言葉に耳を傾けることなのではないでしょうか?つまり聞くという行為は相手のことを知り、理解することの出来る方法であります。神様との関係もそうです。神様はわたしたちに「聞きなさい」とよく言われます。わたしたちも自分たちの祈りを聞いてくださいと神様に訴えるのです。双方が聞くことを求めているのです。必ずしもその聞く行為によって100%理解することはできませんが、知る事は出来ると思うのです。同時に神さまはわかったとしても、人間は神様の心の真意が分からず、神様を困らせてしまうのです。
人間の罪の一つに傲慢があります。神様からある事を聞いたとします。その事に対して答えが求められた時、人はその聞かされたことについて検討します。その結果助けたいという気持ちが生じるかもしれません。そこまでは素晴らしいと思います。だがしかし、そのことが長く続くと人間はどうなっていくことでしょうか?そこに傲慢さが生まれるのです。「これだけ助けてあげている」「これだけ献金していますよ」とその行為自体を誇るようになってしまうのです。そこに神様の心はありません。神様がそのことを教えたのは、そういった困っている人がいるという現実があるという事実だけなのです。その事実に対して神様が私たちを信頼してくださるからこそその大切なことをわたしたちに「聞きなさい」と言われているのではないでしょうか?その聞いた事実を神様が教えてくださった愛を持って喜んで取り組むことを望んでおられているのではないでしょうか?
神様はわたしたちにイエス様を与えてくださりました。それは神様が私たちを愛してくださる証拠です。では神様はイエス様を与えてくださった時に何かをわたしたちに請求したでしょうか?もちろん神様に帰することを望み、主が来られるときに「道を整えよ」とヨハネを遣わして、わたしたちに示されました。神さまはイエス様を与えたから終わりではありません。更に喜んで愛を与え続けました。その結果わたしたちは愛を知りました、しかしそこにわたしたちは更に愛を求め続けてしまうのです。自分の思い通りにならないとわかると途端に手のひらを返し、十字架につけてしまうのです。しかしそれでも神様の愛は、終えることはありませんでした。今もわたしたちに愛を喜んで与え続けてくださっているのです。わたしたちも神様が良いと信じたのならば、とことん喜んで献げてみてはいかがでしょうか?それは献金もそうですし、心もそうです。とことん喜びをもって愛に仕える業をしていこうではありませんか?神様はわたしたちに善い手本を与えてくださったのです。物事が上手になるためには良い手本が必要です。わたしたちが良い信仰者となるためには手本が必要なのです。愛ある主こそわたしたちの一番の手本であるということをわたしたちが理解した時、その愛に基づく奉仕の業を神様は喜ばれるのです。
神さまはいつもわたしたちを愛してくださると同時にわたしたちが神様の道をそれないように絶えず御言葉でわたしたちを守ってくださっておられるのです。まず私たちが神様に心を開き、神様の言葉に耳を傾けましょう。そうすれば愛の道が開かれます。わたしたちがその愛を率先して自分の人生に降り注げば、神様を知らない人に神様の愛を伝えることができるのです。まだまだ神様を知らない人が大勢おります。本当の愛を知らない人が多くおります。その中でわたしたちの与えられた課題は大事となっていくのです。その神様の愛の遂行者であられるイエス様を手本として、わたしたちは今の時代を歩み続けて行きたいと願うのです。
2021年1月24日 益子教会 主日礼拝 説教要旨 聖書 ローマの信徒への手紙 3:21~26
メッセージタイトル 『贖いの業を通して』
わたしたちはこの世で生きていきますと、夢中になれるものがあります。しかしその大半は意味をなさないものが多いような気がします。例えば私は小さな頃から物を集める事が趣味でした。集めている本人はそれを並べてニコニコしておりましたが、他の者にとっては、ただのごみのような思いをさせたのかもしれません。そのときは、夢中になって小遣いを全部つぎ込んでしまうようなことをしておりました。今思えば、その時使ったお金を使わなければよかったとさえ後悔するほどであります。なぜこのような話をしたかと申しますと、この世には人間を夢中にさせてしまう誘惑が多いということであります。つまりどんな事であっても夢中になってしまえば周りが見えなくなってしまうということです。本当に大切なことを見失ってしまうのです。わたしたちの歴史を振り返ってみましょう。
わたしたちの歴史つまり人間の歴史は、神様に造られたことによってはじまりました。そして神様との約束を破り、自分の楽しみや興味に目を向けてしまいました。そのため度々神様から離れてしまう訳であります。これが聖書に書かれている神さまと人間の歴史です。その歴史を人間は繰り返して積み重ねてまいりました。つまり様々なものを発明し、便利に発展した現代においても同じことが言えるのです。その結果、今の人間の生活はどうでしょうか?資本主義者マルクスに賛同し、ダーウィンの進化論を小さな頃から教え込まれるのです。そうしますと、それが当たり前という現代になってしまうのです。つまり神様が創造したことを拒否したのです。そのために今も本当に大切なものを見失いがちになってしまうのです。本当に人間が大切なものは、神様が下さった愛であり、命です。真実のことを知らないものは、この世のことばかり考えこの世で生きていく必要な物だけを選択してしまうのです。そんな世の中を見ながら神様はどう思ったでしょうか?神様はわたしたちを滅ぼしたでしょうか?いいえ滅ぼしません。それでは見放したでしょうか?いいえ見放しません。ではどうしてくださったのでしょうか?それはわたしたちの生活にイエス様を与えてくださったのです。つまり最上級の愛をもって、わたしたちを愛してくださったのです。
しかし人間はそのイエス様さえも神様が与えられた律法によって裁こうとするのです。つまり拒否をいたしました。その結果十字架にかけてしまうのですが、神様は、人間がイエス様を最も残酷な十字架につけて殺してしまうことも御存じでありました。それでも神様はわたしたちを愛しつづけることを止めませんでした。その贖いの業こそが主の愛であり、全ての人が本当に大切な大事にすべき宝なのです。
その贖いの業を受ける資格は何でしょうか?お金でしょうか?土地でしょうか?人格でしょうか?役職でしょうか?どれも正しくはありません。誰でも受けることができます。唯一あるとすれば、信じるということであります。それも口先で信じるのではなく、心から信じなければ、神様の贖いの業を受ける事は出来ません。今も神様はわたしたちが神様の真剣な愛に気づくことを忍耐して待っておられるのです。
2021年1月17日 益子教会主日礼拝 説教要旨
聖書 Ⅱコリントの信徒への手紙 6:1~10
「今や恵みの時、今こそ救いの時」
わたしたちは、困難な状況にある時、悲しい時どんな感情を抱くでしょうか?そのことに多少にかかわらず、心に影響を及ぼすのではないでしょうか?自分の家族や親しい人が亡くなればショックです。悲しい事件や事故や災害などあったとき、心が痛みます。戦争で苦しむ姿を目の当たりにした時あまりの描写に目を背けることがあります。このような悲しみや苦しみは誰もがどんな形であれ、経験することでしょう。また、いつの時代も順風に過ごせてきたわけではありません。生きていく上で自分自身に様々な試練が襲います。その時どのような思いを抱くでしょうか?いじめられていたらどうでしょう?毎日生きるのもつらくなります。その状況は誰に言えるものでもないのです。親には心配かけたくない。かといって誰にでも相談はできないなど色々な条件が重なって自分の心をふさぎ込んでしまうのです。その結果どうなるでしょう。平気でうそをつくようになり、人を信じられなくなることでしょう。もしもいじめられた人を助けようとすれば、自分が今度は標的になってしまわないだろうか?そういった思いを抱かせる悪循環が現在の状況ではないでしょうか?
しかしその苦しみは自分一人で抱え込んでしまう人がどれだけいるでしょう。こどもに限らず、大人もその人間関係で苦しんでいるのです。もしもその苦しみの中にいる人が神様に出会うことができ、神様を信じることができるのならば、考え方が一変するかもしれません。そこに恵みがあり、救いがあるのです。つまり誰一人手を貸してくれない状況であっても神様は決して見放さず、手を離さないのです。どんな環境の中に遭っても良い方向へと導いてくださるのです。今、世界中がコロナで苦しんでいます。この試練は人の力の限界を感じることの出来る試練です。今まで歩んできた道を見直す機会となりました。今の状況こそが本日の御言葉につながっていくのです。医学も発展してきました。化学も進歩してきました。どんなに努力しても、頑張っても、人間では乗り越えられないことが沢山あります。しかし人間には乗り越えられなくとも、神様なら乗り越える術を知っておられるのです。人間が神様を認めた時、信頼した時にその神様の愛の御業を大きく感じることができるのではないでしょうか?今苦しみの中にいる時、早くその苦しみから解放されたいと願うのは誰でもそう思うのは当然であります。しかし私たち人間の時間と神様の時間には、ずれが生じるのです。わたしたち人間にはこの世でいる時間つまり肉体で居られる時間は限られているのです。そのため人間は焦り、神様に出会うことができても、「まだかまだか」と神様に問いただすのです。しかし神様は今この時も働かれ、わたしたちを憐れみ、恵みを与え、救いの日を実現されようとしているのです。計画は着実に進行中なのです。このような時だからこそ私たちにはすべきことがあります。それは、自分の襟を正し、神様が与えられた命を正しい方向に心を向ける事、正しい言葉を語ること、正しい行いを心掛けていく必要があるのです。つまり折角神様に出会えたのに、神様の恵みを無駄にしてはならないのです。つまり人間の欲とされているものから距離を取ることが大事です。世の事よりも神様に依り頼むことを我々は心がけていきたいものです。わたしたちが現実に思う事は実はそうではないのです。神様がいてくだされば、この現状を逆境に変えてくださる方であることをわたしは確信しています。なぜならば神様の言葉は歴史を重ねても無くなることはなく、今もなお様々なところに影響を及ぼしているからです。神様の言葉を喜び、感謝し、その御言葉によってわたしたちが生きる術を神様と対話する必要があるのです。「今こそ恵みの時、今こそ救いの日」に感謝いたしましょう。
2021年1月9日 (土)益子教会主日礼拝 説教要旨
聖書 コロサイの信徒への手紙 2:6~10
メッセージ「キリストに結ばれて」
本日のコロサイの信徒への手紙の冒頭であなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。と書かれています。しかし実際にはどうでしょうか?わたしたちが認めたから、わたしたちが受け入れたからキリストと結ばれているのでしょうか?決してそうではありません。神様が私たちをまず愛したことから始まっているのです。その証拠に神様はわたしたちにイエス様をくださったのです。しかしわたしたちの歴史を振り返ってみますと、いかに自分勝手に歩んできたことがよくわかります。神様に造られたときに神様は一つだけエデンの園に住む条件を付けます。それは園の中央にある善悪の知識の木からは、決して食べてはいけない。その条件だけでありました。しばらく、エデンの園で暮らしておりましたが、蛇の誘いに乗せられ、アダムとエバは神様の約束に背いてしまうのです。その結果エデンの園を追い出されてしまうのです。そのように人間の歴史は神様に背くことを繰り返してきました。その罪深いわたしたちでありますが、神様は忍耐強く私たちを愛しつづけたのであります。罪深い者にもかかわらずです。この「にも変わらない愛」こそが神様が与えてくださっている愛です。ですからわたしは、この愛に結ばれて歩んで行くことを望むわけであります。
樹は、どこに根をおろせば、成長するでしょうか?先日の土曜日の礼拝後オリーブの木と桃の木を教会の玄関前に植え替えました。まず掘り起こしてみますと大きな石がゴロゴロあったり、食器やらいろいろな物が出てきました。まるで発掘現場です。しかし、そこに植樹するわけですから、良い土、良い肥料を加えてみました。どうなるかわかりませんが成長してほしいと思っております。そのように成長をさせるために必要な土、栄養があるようにわたしたちにも立派に成長するように心の栄養、環境など様々なものが必要です。その中で最も大事なものはキリストの愛の中で生きるということであります。その愛に根をおろすということなのです。そのキリストに根をおろせば私たちは愛によって成長できるのです。愛によって考えることが出来るのです。愛によって教えることが出来るのです。このように、愛を学ぶには神様が最も良い方法なのです。もしも、他のものに根をおろしてしまえばどうなるでしょうか?お金を肥やしに育てば、お金が一番となってしまうでしょうし、力を肥やしに育てば、権力を欲するように成長するのです。つまり肥やしとしたものが栄養となって全身を作り上げてしまうのです。
わたしたちは聖書からもっと学ばなければなりません。愛とは何でしょうか?神様とは何でしょうか?そして生きる上で必要な物はなんであるか?このことを様々な情報から良いものだけを取り出そうと考えてインターネットから知識を得ようとしたとき、落とし穴が待っているのです。わたしたちはその真偽を見抜く力が備わっていても、見抜ききれないのが現状であります。本当に信頼できるものは、今もなお私たちに語り続けるのです。この神様の言葉で創られた聖書は、今もわたしたちに語り続けてくださるのです。
2021年1月3日 益子教会 主日礼拝説教要旨
聖書 ルカによる福音書6:27~36
メッセージ「憐れみ深いように」
わたしたちは年頭に至って今年はどのような年にしたいかを考えます。昨年はこんなことがうまくいったから今年もしようとか、こんな事で失敗したからやらないようにしようと心がけます。しかし、3日たてば、1か月、1年と日々過ごしていけば、忘れてしまうこともたくさんあります。しかしそんな忘れっぽいわたしたちが忘れずにいられるためのコツはやはり反復、繰り返しではないでしょうか?どんなに才能に恵まれた人であっても、練習と反復を繰り返すのではないでしょうか。何事もすぐにできる人もいるかもしれませんが、しかしすべての人がそうではありません。一歩ずつ、1個ずつ積み重ねていかなければなりません。わたしたちの歩みもそうではないでしょうか?
ある人が「まだ神様を全部理解していませんから」と答えられる方がおりました。それは、洗礼の勧めをしたときのことでありました。洗礼というのは神様を理解しなければ出来ないというのであれば、人間は生涯かけても洗礼を受けることなんて出来ません。しかし全ての人には洗礼を受ける権利があるのです。理解する必要はありませんけど神様を信じる心は必要です。しかし本日の個所は、信仰の心はなくとも理解することが出来るのではないでしょうか?皆さんに質問です。神様はどんな方でしょうか?神様は憐れみ深い方であります。それは、良い者にも罪深い者にも憐れみの心を注いでくださるのです。わたしたちも自分の周りにいる人たちには優しくすることが出来るでしょう。しかし、自分に敵対する人に対してはいかがでしょうか?悪口は言わなくとも、あまり深くかかわろうとはしないのではないでしょうか?しかしそのような態度はその行為に及ばずとも心で思ってしまえば、同じことなのです。つまり相手に対して敵意を抱くこととなるのです。それは罪ある人にもコミュニティーがあり、仲間がいます。その仲間に対しては優しく接するでしょう。しかし敵対する者に対しては憎み、争うのです。そのようにわたしたちは、罪人と同じになってはならないのです。神様を信じたのであれば、神様に倣うべきです。神様は、わたしたちに憐れみ深く私たちを愛してくださいました。この憐れみ深くとは、わたしたちの苦しみや悲しみばかりであり、喜びさえも神様は御存じでありました。それはなぜか?それは神様がわたしたちに興味があるということです。興味がなければ、わたしたちに恵みをお与え、憐れまれないでしょう。興味があるからこそわたしたちを憐れんでくださるのです。
昨年は皆さんにとってどのような年だったでしょうか?withコロナの時代は、わたしたちが考えもしなかった苦しみに見舞われています。しかし全てを憐れむことはできませんが、一つ一つを知ることができるのではないでしょうか。その苦しんでいる人に憐れみの心をもつことが出来ます。その苦しみを乗り越え、支えることが出来るかもしれません。わたしたちが無関心になってしまえば、そのことで苦しんでいることさえも気づかず過ぎ去ってしまうかもしれないのです。このような時代だからこそお互いが憐れみの心をもって憐れみ深く歩みたいものです。この新たな年、憐れみの心が与えられます様、祈りましょう。
12月27日 益子教会 主日礼拝説教要旨
聖書 Ⅱペトロの手紙1:16~21
メッセージ 「聖霊に導かれた神の言葉」
今年は、朝から晩までコロナ関連の事を聞かされたような気がいたします。その情報によって多い少ないに限らず影響を受けたのではないでしょうか?実際には、そのことで誹謗中傷を受けた人もおります。勿論傷つけるつもりはないと思っていても、そのことで傷つくのも事実なのです。だからこそこんな時代だからこそ言葉に対して、意識していかなければならないのです。聖書も同じで人間的な主観があると、わたしたちはその事を巧みに利用してしまうということになりかねません。しかし今日の聖書箇所であるⅡペトロの手紙の1章21節にはこう書かれています。「なぜなら、預言は、決して人間の意思に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです」とわたしたちに教えてくださったのです。わたしたち牧師の仕事は神様の言葉を語らなければなりません。その言葉を分かっていても、なかなか神様の言葉や思いを忠実に再現して説教を
作り、語っているかと言われると、このように伝えたいという思いと、聞く人の環境や、性格、様々な視点からそぐわない言葉を語っているのかもしれません。しかしその御言葉を語り終えたときに、思うことがあります。それはどのように伝わったかわかりませんが必ず主御自身が霊の働きを与えてくださるのです。その霊がなければ、聖書講義になりかねないのです。つまり神様がその説教を完成へと導いてくださるのです。
皆様は、日の出を見たことがあるでしょうか?わたしたちの実家は千葉県の大網にあり、海岸まで5キロのところにあります。毎年実家に帰ったら海に行って日の出を見ます。新しい年は、帰省しませんので今年は見れませんが、ぜひ皆様も日の出を味わってみてほしいです。始めは真っ暗で風も寒く厳しいですが、その日の出が始めると、とても心が暖かな思いに満たされるのです。あっという間にあたりを明るくしていくのです。その様は、今の世の暗い世の中です。辛いことや苦しいことがたくさんあります。しかし生きなえればなりません。しかしこの暗い世であっても神様はわたしたちに希望の光を与えてくださるのです。その光はいつまでも輝き続け、わたしたちを希望への道へと示されるからです。ですから私たちは神様に希望をもって歩んで行くのです。
東日本大震災から来年の3月で10年目を迎えます。その当時私は、南相馬市におりました。その地震が金曜日だったので、2日後の日曜日は礼拝が出来ず、隣町の教会に出席することが出来ました。その礼拝に出席できたことの喜びは今でも覚えています。どんなに希望を持つことが出来たかを思い出します。今コロナの影響で礼拝できない教会も増えてきました。しかし益子教会はいつまでも礼拝を行っていければと思っています。こんな状況化だからこそ、神様の希望の光を消してはいけないと考えております。医学や化学で解決できないことに陥ったときに人間の心を支えることが出来るのは神様の言葉なのです。すべての人が希望を持つことが出来るように益子教会から主の光を発信していきたいと思います。神様の業は、困難な時にこそ主の御言葉によって、わたしたちを光へと導くのです。
2020年12月20日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 ルカによる福音書 2:10~14
説教「あなたがたへのしるしである」
わたしたちは、色々な問題に対して、「本当かな?」と疑問を持つことがあると思います。そんなことはないと思っていても何か確かなものがない限りは、信用することが出来ないかもしれません。もしもその状況が信じられなくとも目で見たり、手で触ったり、味わうことが出来たり、聞こえたり、自分で感じ取れる感覚があれば、信じることが出来るでしょう。しかし、今の世の中本物のように作ることが出来ます。また、うその情報を本当のようにすることさえできる世の中となってしまいました。それは技術が格段に進歩を遂げたという成果かもしれませんが、もしかしたら、それによって人の信じる心が失われつつあるのではないでしょうか?情報が多ければ多いほどどれが正しい情報であるかを疑ってしまいます。
昔は、情報もそんなに飛び交う時代ではありませんでした。少ない情報をいかに伝えていくか、それは文字なのでしょうか?文字が読める人は多くありませんでした。でも大事なことは後世に伝えていかなければならないと考えた人は、その文字を歌にのせて聞かせていたのです。本日の聖書に出てくる羊飼いも状況は同じです。救い主が与えられるということは先祖が教えられ、歌われ続けていたように思えるのです。ここにロマンを感じるわけでありますが、その歌の実現はいつ来るのだろうか?疑問に思うことであります。何百年歌い続けられようが、その言葉を知っていても意味を知らないという状況に陥るかもしれないのです。
しかし、その状況を打破する出来事が起きました。それは突然羊飼いのもとを訪れた天使の声でありました。その光景は人を圧倒する力がありました。そして羊飼いは恐れたのです。聖書には非常に恐れたとしか記されておりませんので、どんな状態であったかは知りえませんが、直視できないその思いに天使はこう言いました。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町であなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」この言葉を羊飼いに告げるのです。そして更に大勢の天使に囲まれて天使の賛美の声を聞きます。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」その言葉を残し天使たちは立ち去るのです。そこで羊飼いたちは天使たちが残した言葉が本当かどうか確かめに行くのです。そして飼い葉桶に寝かしてある赤ちゃんを見たとき、きっと羊飼いは、歓声にあげたことでしょう。そしてそのことを町中に知らせ歩いたのです。その結果多くの方が神様のプレゼントであるイエス様が生まれたことを知ることになりました。その声を聞いても信じない人もいたでしょうし、その声がはっきり聞こえなくとも信じた人もいることでしょう。しかしその確かなしるしを見た羊飼いは神様に変えられていくのです。このクリスマスは神様の誕生をお祝いするとともにわたしたちに神様の確かなしるしである救い主を約束するものなのです。神様はわたしたちに確かなしるしを与えてくださるのです。主の恵みに感謝いたしましょう。
2020年12月13日 益子教会主日礼拝説教要旨
聖書 マタイによる福音書1:18~25
説教「その名はインマヌエル」
自分の判断が正しいと思っている人は世の中にはたくさんいます。道徳的にも法律的にもすべてにおいて順守して生きてきたという人は多いかもしれませんが、だからと言って完全ではありません。むしろ完璧に行ってきたと自覚している人というのは、どこか誇らしげで、高慢になりがちになるかもしれません。そして自分の判断に対して誤りないと感じる人は人を批判してしまうかもしれないのです。一部個人的見解かもしれませんがそういった傾向は、どんなに正しい判断であっても共感できないものがあります。
そこで本日の聖書を振り返ってみたいと思いますが、本日登場するのが石大工のヨセフです。今回、神様の導きで結婚することになっておりました。その相手はマリアさんです。このヨセフさんは、正しい方であったと書かれておりますから、正しい人なのでしょう。ではどんなことに正しいとされていたのでしょうか?人間的に、社会的に正しい方だったのでしょうか?そうかもしれません。嘘はつかず、勤勉で何よりも真面目である。そして何よりもまず神様に従う者だったのではないかと推測いたします。この時代の神様に従うということは、イエス様は、当然生まれてはおりません。人間は神様という存在を、律法を通してでしか理解されていないのであります。その律法も神様からいただきましたが、長い年月をかけて。手を加え、継ぎ足してきたのかもしれません。そうすると正しいものも正しくないものに変わってしまうのです。つまり律法的正しくともあまりにも自分本位なのかもしれません。婚約者マリア自身から聞いたのか聞いてないのか書かれてありませんので何とも言えませんが、聖霊によってこどもを身ごもったことを知るのです。そこでヨセフの正しさが露点します。悩んだと思います。色々な状況が頭に浮かんでは消え、浮かんでは消えその繰り返しだったのかもしれないのです。しかし最終的には神様に従いました。正確に言うと律法に従い、マリアとの結婚を破棄しようと決心をするわけです。その安心感から睡魔に襲われたのかもしれませんし、寝る時間だったのかもしれませんが、とにかく夢に天使が遣わされ、ヨセフに次の言葉を述べました。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。
その言葉をヨセフが耳にしたときに、今まで律法的な考え方でしか判断できなかったことも神様が遣わした天使の声を聞き、変えられていくのでした。人間のかたくなな心を人間では変えることが出来ませんでした。特に正しい人と書いてありますから、自分に信念を持っていたのではないでしょうか?人間に指摘されれば、その言葉によってかえって意固地になってしまう可能性もありました。神様の計画でしか人間を変えることが出来ません。まさにヨセフは律法よりも大切なことに気づくことが出来たのです。つまり神様という存在を信じ、神様の預言を小さき時から聞かされていたのです。
そして更に天使はイエス様の別の意味を教えてくださったのです。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は、神は我々と共におられるという意味である。
その言葉によって納得するのです。神様がわたしたちと共におられる。その言葉をどれほど待ちのぞんだことでしょうか?この時代は特にローマの圧政に苦しめられておりました。神様の救いがあると聞かされ、そのことについて祈ったとしても、一向に止まない支配は人々の心を神様から離れさせるのです。しかし神様が共にいてくださることがなんと心強い響きでしょう。それによって希望をもって励まされたことでしょう。神様の真の言葉は、人々の思いに負けない強い力があるのです。わたしたちもどんなに正しくとも間違ってしまうこともあります。反対に間違ってしまうこともあります。社会は批判し、正しくあろうとします。しかし本当の意味を見いだし、マリアと結婚をするその姿勢を応援してくださるのも神さまです。わたしたちには神様が共にいてくださるその喜ばしい約束をしてくださるのもクリスマスを迎えようとしているわたしたちに神様が与えてくださった約束なのです。
2020年12月6日 益子教会 主日礼拝説教要旨
聖書 ルカによる福音書 1:13~17
「主のもとに立ち帰らせる」
わたしたちの生活において大事なことは、何でしょうか?生きていくことで大事なことは何でしょうか?そういった問いを投げかけられた時に、皆さんはどのようにお答えになるでしょうか?お金です。愛です。食べ物です。家族です。友人です。服です。住む所です。それこそ千差万別ではないでしょうか?いろいろな考え方があっていいと思います。しかし本当に大事なことはなかなか出てこないものであります。そのことを思い出させてくれるのが今日の個所に出てくるヨハネであります。
ヨハネの父親はザカリアというアビヤ組に所属する神様とのとりなしをする祭司の仕事をしておりました。祭司は一人ではなく、大勢あるうちの一人でありましたから、その神様との式を行える人は何年間に1回当たるか、もしくは祭司であってもその式に携えない祭司もおりました。たまたまそのザカリアがその祭儀を行う当番になっておりました。ここでも人間の考えでは偶然ということかもしれません。しかし神様にとっては必然なことでありました。神様の計画は着々と準備されており、しかもそのものがそのことを知ることが出来るように、神様は天使を送ってくださったのです。そんなことは露知らず香をたくのです。その時天使ガブリエルがザカリアの前に現れました。非常驚いたのではないでしょうか?
本日の聖書にこのように書かれています。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を生む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。彼は主の前で偉大な人となり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいる時から聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する、と。
ザカリアは、天使にこう聞き返したのです。「何によって、わたしはそれを知ることが出来るでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年を取っています。ここでザカリアは、素直に「はい信じます」とは言わないのです。つまり天使ガブリエルが伝えたことを神様の言葉として受け止めることが出来ず、疑ってしまったのです。その疑う心は人間誰でも持っていますがついつい口を通して出てしまうのです。つまり悪い思いをしまっておければ良いですが、ついつい人間は言葉に出してしまうことがあるのです。その口が悪い言葉を発すると心も悪くなってしまうのです。そのことを抑えようとしてもとても難しいです。しかしそこで天使はどのようにしたかというとザカリアの口をきけなくさせるのでした。悪い言葉を話せないようその時が起こるまで話すことが出来ないようにしたのです。この不思議な出来事をきっとザカリアは外で待っている仲間にも伝えるでしょう。そうしますと誇張し、有る事ない事まるで真実のように語るかもしれません。「ペンは剣より強し」という言葉がありますが、口が使えなくすれば、余計な言葉を発せずに済むのです。その口を使えなくすることが出来るのも神様のしるしであります。つまりザカリアは、天使から聞いた出来事を「何によって知るでしょうか」という自分が発した言葉をしるしとして体現するのです。つまり神様は余計な言葉は不要であると取り除かれたのです。わたしたちも余計な心配をしてしまいます。これはああだ、それはそれだと決めつけてしまうと神様の恵みを小さいものにしてしまうかもしれないのです。人間の思いではなく、神様の思いでなければならないのです。神様の言葉を伝えていくこと、神様を賛美することは大切なことであります。しかし余計なことを思わないためにも口を紡ぐこともこのクリスマスでは大切なことかもしれません。わたしたちはこのアドヴェントの時、神様を迎えるために心を良き言葉と神様の賛美の声で満たしていきましょう。悪い言葉や悪い思いから離れ、遠ざかりましょう。そのひとつひとつ実行していけば、神様をお迎えする心が養われてくるのではないでしょうか?余計なものを捨て去ることも大切なクリスマスにすべきことであります。
2020年11月29日 益子教会主日礼拝 説教要旨
聖書 ルカによる福音書1:46~55
メッセージ「主を畏れる者に及びます。」
今日からアドヴェントに入ります。アドヴェントは、クリスマスに向けて心や体を準備していくことであります。ではどのように準備が必要でしょうか?まずすべきことは自分がどんな存在であるかということであります。あなたはどんな存在ですか?まず自分のことを考えてみましょう。わたしは、牧師という肩書を持っています。教誨師という働きもしています。大下家に生まれた次男です。益子に住んでいます。誕生日は11月3日です。と言ったように自分のことを何者であるかを説明することができます。しかし心や性格に目を向けてみますとどうでしょうか?自分はまじめで正しい人であるということを自分で思ったとします。しかし社会の評価はどうでしょうか?真逆の事を思っているのかもしれないのです。一番わかりやすいのは、車の運転をしているときかもしれません。どんなにやさしい言葉遣いで話し、温厚の人であっても、ハンドルを握れば途端に豹変してしまう人もいます。つまり人間は誰しも表裏があると言えるのです。ですから人の目というのは怖いですね。一回失敗してしまうとレッテルを張ってしまうのです。そのため多くの人が社会に対して生きづらさを覚えているのではないでしょうか?しかし神様は、違うのです。地位あるものではなく、地位なく名もない存在に目をとどめてくださるお方なのです。
本日の聖書を見てみますと「マリアの賛歌」と題がつけられております。カトリック教会では、母マリアを聖母と呼び大切にされております。しかしプロテスタントでは、イエスの母としては理解しております。つまり大事なのは母マリアではなく、イエス様が中心だからです。しかし。本日の説教題では「主を畏れる者に及ぶ」とつけさせていただきました。どんな存在であれ、神様が目をとどめてくださるというのは幸いなことであります。自分が社会的に評価を受ける立場であっても、財産を持っていても、運動能力に長けている人であっても何か失敗してしまうとどうでしょうか?社会の評価はガラリと変わってしまうのです。そして見放すことを平気で行うのです。しかし神様は違います。どんな失敗をしても、どんな高慢な思いになろうが、その度にわたしたちを発見してわたしたちを愛してくださったのです。なぜそのような小さき者に目を注いでくださるのでしょうか?それは、マリア自身が主を畏れる者であったからにほかなりません。当時マリアは13~14歳と言われております。自分自身に起こった出来事をどのように感じたでしょうか?突然天使がマリアの前に現れて「恵まれた人よ、おめでとう」と告げられました。普通だったならば、訳もわからないパニック状態だったかもしれません。どうしたら良いのだろうか?霊に導かれて咄嗟に「わたしは主のはしためです。お言葉通り、この身になりますように」と告げたのかもしれません。
そのあと急いで叔母が住んでいるユダの地に行ってエリサベトに会い、天使が言ったことが本当であったことを理解し、マリアは神様を賛美します。一つ一つを理解することは難しいかもしれません。しかしまりあは、そのことを受け止めることが出来たのです。その素直さがあったからこそ神様は、マリアを選ばれたのです。そしてもう一つの要因は神様を畏れる者であるということです。神様の業は素直で高慢にならず主を畏れる者に注がれるのです。わたしたちはいつも謙遜的に生活し、主を畏れる者であれば良いのですが、時に傲慢になってしまう恐れもあるのです。わたしたちの心には良い心と悪い心があります。それぞれに仕えることはできません。しかし、その良い心で居続けたいという気持ちもあるのもウソではありません。まず私たちが高慢な心を捨てる努力をしてみてはいかがでしょうか?どんなに人も高慢な思いがある限り、神様を心底信じることが出来ませんし、神様の恵みを受けることが出来ないでしょう。素直な気持ちをもって神様に従い、神様を感じましょう。そうすればわたしたちも主の恵みを受ける者となります。神さまはあらゆる力を破棄し、貧しい者には祝福を、富んでいる者には試練をお与えになる方であります。それはわたしたちを創造し、わたしたちを存続させる約束を、わたしたちを造られたときに約束してくださったのです。主の約束は今もなお継続しておられます。どうぞ敬虔な心と主を畏れる気持ちをもってクリスマスの時に備えてまいりたいと思います。
2020年11月22日 益子教会主日礼拝 説教要旨
聖書 エフェソの信徒への手紙 4:1~6
説教題「すべてのものの内に」
わたしたちは、神様に招かれた一人として、自覚を持つことが必要です。もちろん神様に招かれたからと言って、好き勝手に行動することが赦されているわけではないのです。もしその自覚があるならば、むしろ人の手本になるように心掛けなければならないのです。しかし人は、素直に従っていければよいのですが、この世に生きている限り様々な経験や学びをします。その学びや体験からついつい余計なことを考えてしまったりするものなのです。もしもすべての人が素直という心を手に入れたのであれば、もう少しこの世も変わっていたのかもしれません。しかしこの世はいかにひねくれた心を持っているか、自分があまのじゃく的な性格を持っていることかを自覚しています。そのため神さまの言葉を無視してしまうのです。神様の言葉を素直に聞くという一面と背く歴史を人間は繰り返してきました。それゆえ、神様から離れ、俗物に惹かれてしまうものなのです。もしも私たちがこの世的なものから離れることができたならば、わたしたちは神様の言葉を聞くことになるのです。聖書に書かれているように人間は二つのものに従うことはできません。命をとるか、お金をとるか人間の本質的な部分を今、神様から突き付けられている気がいたします。
わたしたち人間は様々な人がいます。男性もいれば、女性もおります。幼子もおれば年を加えられた方もおります。同じ国の人もいれば、違う国の人もおります。病気だってそうです。同じ病気であっても違う対応が望まれるのです。神様は、様々な人を招かれています。素直な人もいれば、ひねくれた人もいます。しかし同じ様に愛してくださるのです。ですから、わたしたちも神様に倣って様々な人を愛していかなければなりません。それは自分とは考え方が違う人も愛していかなければならないのです。つまり人を愛するということは、忍耐が必要なのです。それは長年連れ添っている夫婦もそうです。友人もそうです、兄弟もそうです。自分とは違うという目線をはじめから持っていれば、その個性を愛することも可能かもしれません。しかし、人は同じ様に育てようとします。あたかもそのことが正しいかのように、それはなぜでしょうか?それは、同じように育てた方が楽だからです。しかしその考え方は時として危険な方向に歩みかねないのです。もしも教える人が戦争に賛成するような考えを持っていればどうでしょうか?その教育を受けた者にとって、戦争は正しい判断と信じて疑わないかもしれません。つまり世に従う、人に従うことは危険な思想につながりかねないのです。では、何をわたしたちは目標にすべきでしょうか?それは神様ではないでしょうか。神様とは何ですか?と質問を受けたとき、どのよう答えますか?聖書はこうでこうなっていると解説をしますと余計意味をとらえることができません。しかしもっと単純に「神は愛です」と言えば、納得できるのではないでしょうか?
わたしたちの生活には、お金は必要でありますが、お金を優先させると、命に影響を及ぼすことでしょう。命を優先させると経済に影響を及ぼすことになるでしょう。どっちもよくなってほしいと願いますがうまくはいきません。しかし人間にはできなくとも神様にはできるのです。神様に願えば、その通りになるとは限りません。しかしもっと良いものをくださることでしょう。また、すぐにでも与えられるとも限りません。しかし必ず与えられるのです。それは神様の計画をもって、その祈りを聞いてくださるのです。そのことを深く信じることができるためにもまず私たちが神様に招かれた大切な一人であることを自覚し、忍耐して互いに愛し合いながら、平和を求めていきましょう。わたしたちの心の中には神様がいらっしゃるのです。すべてのものには神様の息吹があるのです。わたしたちが心を素直にして神様に従うとき、神様の愛がわたしたちの心に広がっていくのです。
2020年11月15日 益子教会主日礼拝 説教
聖書 Ⅱテモテへの手紙 2:19~26
説教「貴いことに用いられる器」
旧約聖書の創世記に神様がすべてのものを造られたときに極めて良かったと言ってくださいました。しかし人間は歴史を重ねるごとに悪い事を重ね、良いことも悪いことも知るようになりました。しかし一方で清くありたい、貴いことに用いられたいという思う気持ちは誰もが持っております。そのため、良いことをしようと心掛けて行動しています。ですが、その良い行いも自分がこのように見られたい私利私欲のために行えば、その行動はあざといものとなってしまうかもしれません。では、どうすればよいのでしょうか?勿論出発点は、その対象者を助けたいという気持ちからかもしれませんが、そのことを集団で行おうとすると、賃金などお金の問題が発生してしまうのです。お金なんかいらないと最初は拒んだとしても、それが重なることにより、高額を受け取りたいという気持ちになってしまうのではないでしょうか?つまり良いことも、貴いことも人間社会で行えば悪い方向に流れてしまうことだって十分あり得ることなのです。本当に良いことに貴いことにつながるためには、神様をベースに考えていけば良いのです。神様はどのように考えるか、判断なさるか、神様と相談していけば良いのです。それも時間を置くのではなく、すぐに神様に報告し、アドバイスを受けるのです。そして感謝の気持ちで心満たされれば、必ず良いこと、貴いことに用いてくださるのです。教会的言葉に変換すると報告は、お祈りです。そしてアドバイスは御言葉です。そして感謝の気持ちは賛美や献金です。つまり、礼拝をささげ、家庭では、御言葉と向き合い、耳ではゴスペルや讃美歌など神様を賛美する気持ちで満たすこういった行為を日々繰り返すだけで違うものになるはずです。つまり自分をどっぷりと神様に投げ出すのです。そうすると私たちの体に神様のエキスがしみ込んでくるのです。それはどんな薬よりも、おいしい食事よりも、睡眠よりも良い効果がある成分が入っているのです。それはどんな人間にも効果が期待できるものなのです。自分は金や銀の器ではなく、土や木の器かもしれません。しかしどのような者も神様にとっては大切な存在です。
自分から「自分の手足を貴いことに用いてください」と神様に伝えましょう。その祈りは必ず聞き入れてくださるのです。皆さんは自分がどんなもので創られた器だと思っていますか?金や銀のような高価なもので作られた器ですか?それともどこにでも手に入るような土や木の器ですか、それは自分で感じることと他人が考えることは違うということを認識しなければならないのです。しかし、神様の評価は、一定であり、その評価は最高のものなのです。それはどの人も極めて良かったと神様が言われているとおりです。ですからその素質は誰もが神様に与えられているのです。むしろ金や銀であっても、土や木であっても使い方によって、使われ方によってその評価は変わるのです。つまりこの世に仕えるか、神様に仕えるかなのです。勿論私たちはこの世に住んでいますから、良い評価の方が過ごしやすいかもしれません。しかし、人間的評価を気にしていますと、必ずしも人間は良い心を持っていないのです。様々なことで変化をしますし、離れてしまうものなのです。そうしますとその人に気に入られようと一生懸命努力をしますが、空回りしてしまうおそれが生じてくるのです。世の人に理解してしてもらうのではなく、神様に理解してもらう。神様の思いに寄り添った方が確実なのです。その事を覚えてわたしたちは特別な時も、普段のときも神様に喜ばれる神様に用いられる器として日々歩んで参りましょう。
2020年11月8日 益子教会説教要旨
聖書 Ⅱペトロの手紙2章1~7節
説教題 「恵みによって」
わたしたちは、何によって守られたり、強くなっていくでしょうか?それは一生懸命勉強をして知識を高めることでしょうか?いっぱい財産をためて込むことでしょうか?はたまた相手の事を易しくし人望を深めることでしょうか?どのこともその時には力を発揮するかもしれません。しかし忘れてしまったり、けがをしてしまったり、なくしてしまったり、裏切る者が現れたとき、弱くなってしまうのではないでしょうか。どれも永続性はないのです。もしもそうであれば、わたしたちには希望が無くなってしまうのです。しかし私たちはそのようなものがなくなろうが関係ないのです。それはもっと素晴らしいものが与えられているのです。それは恵みという名の神様の愛であります。その愛を受けるためにもパウロは弟子のテモテに語るのです。
本日の聖書個所では3つの職業を例に挙げてこのように歩んだらどうかと語りかけます。
その職業は、兵士、競技者、そして農夫です。パウロは別に兵士になりなさいと言っているのではないのです。兵士から学ぶことは、どんな時にも忠実であるということです。しかし誰に忠実であるべきかということであります。つまり兵士は主人に仕え、国に仕える者であります。わたしたちの主人は誰かということであります。わたしたちの主人は神様でありますから神様に忠実に従うべきと伝えているのです。その神様に従う意味でわたしたちは愛を全うする必要があるのです。イエス様に律法で「一番何が大事か」と質問された時にその時に答えた言葉があります。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして主なる神を愛せよ。第2にも同じである。自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい。と言われました。つまり神様に忠実に生きるということは、愛に生きるということなのです。
次の職業者は競技者です。この例は、資格を持つことであります。競技者は忠実にルールを守らなければ失格になってしまうということであります。それに加えてある程度の記録であったり、実力を身につけなければならないということです。つまりその大会に出るためには資格が必要なのです。それでは神様の道に進むためには、どんな資格が必要でしょうか?聖書を熟読し、聖書に触れることでしょうか?それとも毎週礼拝を守ることでしょうか?どちらも必要でありますが、それが一番ではありません。一番大事なのは信じることであります。神様を信じなければ、どんなに聖書を読もうが、教会に通おうが長続きはしないのではないでしょうか?つまり信じることがわたしたちに与えられた資格なのであります。
最後に農家が挙げられています。農業には忍耐が必要です。自分ではどうしようもないことが起きます。台風が来ます、あらしが来ます。地震も来るのです。そのどうしようもないことも忍耐しなければならないのです。つまり信仰には忍耐力も必要です。神様の計画はすぐに与えられるものもあれば、なかなか与えられないものもあります。しかし忍耐強くならなければ、信仰がなくなってしまうかもしれないのです。もう耐えられないと思うこともあるかもしれません。しかし神様はそんな私たちにそのことを乗り越えられるものを必ず与えられているのです。神様は恵みをもってわたしたちを強くしてくださるのです。それはどんなものにも打ち勝つ力を持っています。この世のどんなものよりも力強く、わたしたちの心や体を支えてくださるのです。その思いを心に抱くことが大切なのです。勿論パウロはこの手紙をテモテに送ったものでありますが、しかしその言葉は時を越えて、今私たちに伝えられています。わたしたちも兵士のように忠実で、競技者のように資格を持ち、農家のように忍耐を持ちましょう。すべてのものに神様の恵みが注がれているのです。わたしたちは神様の恵みを一身に受けている主のこどもなのですから。
2020年11月1日 益子教会主日礼拝 説教要旨
聖書 詩編18編 26~31
説教題 「主はわが盾」
日本基督教団では、11月第1日曜日は永眠者記念礼拝をしております。益子教会でも大切な方を覚えて歩んで行きたいと思います。わたしも4代目の牧師であります。つまり自分の祖先がキリストを信じ、歩んできたからこそこうして牧師として遣わされています。しかしその先祖のように実際に行うことが出来るかといえば難しいと思うのです。しかし神様を信じるということでは受け継いだように思います。それはなぜでしょうか?それは、本日の聖書箇所である詩編が語っているのです。この18編の最初にはこう書かれております。主よ、わたしの力よ、わたしはあなたを慕う。主はわたしの岩、砦、逃れ場、わたしの神、大岩、避けどころ、わたしの盾、救いの角、砦の塔。ほむべき方、主をわたしは呼び求め、敵から救われる。このように書かれています。それはどんな人にも同じように神様は接してくださるのです。しかしこのように約束されていてもそのことを知らない人が多いのではないでしょうか?しかし私たちは、信仰の先達たちがおられます。先に神様に出会った人が神様を信じたからこそ、そして信じた神様を伝えようとしてくれたからこそわたしたちは神様を知ることが出来たと思うのです。そして信仰の先輩たちがその時、何をしていたのでしょうか?先のことはわからないから何もしないというのではありません。むしろ熱心にしたことがあります。それは神様に祈ることです。神様に委ねることなのです。イエス様の弟子たちもヨハネの弟子たちが祈っているのを見て、自分たちにも祈りを教えてくださいと願う場面があります。その時の弟子たちは先のことなど考えなかったのかもしれません。ただヨハネの弟子たちをうらやましく思ったのかもしれません。それは書かれておりませんから詳しくはわかりませんが、結果イエス様に教えてもらった祈りは現在も主の祈りとして、礼拝で祈っています。つまりその時願った「祈りを教えてください」という願いは、今も変わることなく継続されているのです。つまり祈りは、人間よりも神様につながっている証拠であります。
自分を良くする方法があります。環境であったり、人間関係であったり、経済力であったり、様々な方法が考えられますが、どれもこれだということを決め手には行き着きません。なぜならば、人間がどんなに努力してもつかめないことが多いからです。むしろ努力すればするほど泥沼にはまってしまうことがあります。車が泥にはまった時、雪で動かない時、アクセルを踏めば踏むほど動かない状況を体験したことはないでしょうか?そんな時いくら力を上げても進みません。むしろゆっくり踏めば進む場合もあるのです。教会も同じことが言えます。どんなに環境を整備してきれいにしても人は集まってきません。どんなに楽しい催しものを考えようが、地域の方が集まれるイベントを計画しようが、その時は来るかもしれません。しかし一過性のものになってしまうかもしれません。しかし、教会が力を持続して行えるものがあります。それが祈りです。祈りが盛んな教会は、人数がいなくとも満たされます。それは常に神様とつながっているからです。人間関係でもそうですよね。その人とのつながりも相手を理解するためには、会話は必要です。神様との関係も自分の事を話すことが大切なことです。感謝すること、誤り反省すること、相談すること、願うことを神様と対話するのです。自分の本心を伝えていけばそのようになるのです。つまり自分が口にすることによって、神様がその心を受け止めてくださるのです。自分が求めるのと違うかもしれません。しかしその言葉にする祈りは、必ず聞き入れられているのです。わたしたち人間は聞くには聞きますが、その願い通りにはかなえられません。しかし神様はその祈りを聞いた時、最善の道を示してくださるのです。その最善の道が与えられてもそのように進めない時があります。それはなぜか?まだ神様を信じきれない心があるのかもしれません。誰でもそうです。神様に委ねきることが出来るためには、まず信頼関係を形成することが必要です。そのためにはまず祈って神様と会話を重ねていくほかはないのです。だからこそ教会こそ祈りを大切にする場でなければなりません。あなたと神様との関係で何か自慢できるものはありますか?という質問をされたときに是非「お祈りです」と胸を張れたら素晴らしいと思います。どうぞそういう風に言えるように神様との祈りを深めてください。
2020年10月25日 益子教会説教要旨
聖書 マルコによる福音書 1:16~20
説教「わたしについてきなさい」
本日は、選択ということを考えたいと思います。わたしたちは、自分が生きている環境の中でいろいろな問題が生じます。しかしその都度自分で判断しなければならないことがあります。たとえば今日のお昼ご飯を何しようかな?という些細なことから人生の岐路に立たされた時の選択ですとか、様々な選択があります。その際に、考えますのが、こうやったらどうなる、あーしたらそうなるということを頭で想像しませんか?ほとんどの人が、ある程度のシミュレーションをするかもしれません。しかしそのシミュレーションも少し先のことは予想できるかもしれません。しかし1年後、5年後、10年後どうなるかは誰もがわからないのではないでしょうか?もしかしたら、夢など神様から教えてもらえる人もいるかもしれません。ですが、それは一部の人なのです。しかし神様は全ての事をご自分の計画で行われておりますから、こうなる、あーなるということを知っておられるのです。それもすべてのものを管理されているのです。
本日の聖書は、マルコによる福音書1章16~20節です。この箇所はイエス様が漁師に「わたしについてきなさい。」と声を掛けます。その言われた言葉に反応し、船を捨て、家族を捨てイエス様に従うのです。この話は、共観福音書と言われるマタイによる福音書、ルカによる福音書にも並行箇所で記されております。しかし同じ内容であってもマルコの場合、あまり詳しくは書かれてはおりません。ルカのように詳しく詳細が記されていれば、その人がどうしてイエス様を知るようになり、従うようになったかを知ることが出来ます。しかしこのマルコではまるでイエス様に出会ってすぐに従った様に感じるかもしれませんし、そうではないかもしれません。その理由としては、このマルコによる福音書が他の共観福音書の中で初期に作られたというのも理由の一つではありますが、マルコ福音書を書いた人の思いもその理由の一つではないかと思います。つまり神様の選びは、人間の思いをはるかに超えたものであることを表現しております。人間は先ほど申しました様にある程度のシュミレーションをして判断します。人間はある程度の範囲の中だけでしか判断できません。しかし神様の選びは、卓越しているのです。神様の選びは羊飼いだった者、農家の者、漁師だった者を神様に仕える者、神様の言葉を語る者に変えていくださるのです。そしてこのように語りかけてくださるのです。「わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしよう」と声をかけてくださるのです。その言葉にシモンとアンデレ、ヤコブ、ヨハネは心動かされ、そしてすぐに仕事も家族も捨てて従うのです。人間側から考えるとなんでと思うかもしれません。仕事や家族を捨てる必要があるのだろうか?なぜ捨てなければならないのか?と考えるかもしれません。しかし神様の業を行うためにはそのことも必要な事のです。もちろん私たちは、すぐに行動出来ることも出来ないこともあります。行動を起こせればすばらしいと思います。しかし神様はすぐに決断できるものもできないものもわたしたちに選択権を与えてくださったのです。そして待ってくださるのです。どんな選択をしようとも必ずわたしたちの人生に関与してくださるのです。それは神様の愛であり、神様の懐の深さなのです。その恵みに感謝して、わたしたちは歩んで行きたいと思います。
2020年10月19日 益子教会 説教要旨
聖書 ローマの信徒への手紙 16:17~20
説教題「善にさとく、悪に疎く」
わたしたちを取り巻く環境は、常に動いています。どんな事であっても必ず中心になるものがあるのです。たとえば、料理をする時どんなことを考えますか?思い浮かべてください。何を食べるのか?誰と食べるのか?何時に食べるのか?等考えるべきことは沢山あります。よく言われるのは、料理は頭を使うと言いますが、生きていくということも色んな事を考えなくてはならないのです。生活も同じです。つまり生活力も知恵を絞らなければならないのです。なんでも便利な時代になりましたから、お金さえあればいろいろ便利なものを購入していけば、料理など誰でもレシピ通りに行えば料理人に負けない物も作れてしまいます。しかし、お金さえあれば生きていけるでしょうか?決してそうではありません。お金も稼がなくてはいけませんし、無尽蔵にあるわけではありませんので、わたしたちは神様からいただいたものを工夫して生きなければならないのです。つまり生きていくためには働くこともしていかなければならないのです。しかし、仕事ばかりでは、息が詰まってしまいます。わたしたちは体の健康も必要ですが、心の健康も大事です。つまり仕事以外の充実も必要になってくるわけです。旅行好きの方もいれば、それこそ食事が楽しみという方もいるでしょう。体を動かすのが好きという方もいるかもしれません。しかし、そのことを継続するためには、様々なことが必要になってくるのです。時間、お金、健康など余裕があればできるかもしれませんが、全員が満足できるものは少ないかもしれません。それでは、何によって心が満たされていくのでしょうか?スポーツでもなければ、旅行でもない食べ物でもないとすれば一体何でしょうか?それは自分が愛されているという感情を持つことが出来ることではないでしょうか?自分が愛されている、必要とされていると感じることが出来る時心の充実感を得ることが出来るのではないでしょうか?仕事では、ミスばかりしてしまっている。勉強もできない、運動神経もない、自分勝手だし、性格もよくないこんな私を誰が愛してくれるのでしょうか?それはかみさまがあいしてくださるのです。キリスト教において、わたしたちは神様に愛されている存在なのです。その事がこの聖書に多く書かれているのが事実です。神様は現在生きているわたしたちに愛を示してくださっているのです。だからこそこの聖書はわたしたちに対する愛を表現したラブレターのようなものなのです。わたしたちがどれだけ愛されているかを実感し、心の充実を得ることが出来るのです。
さて本日の聖書個所はローマの信徒への手紙です。使徒パウロがローマの教会にあてた手紙でありますが、最初のところでは、たくさんの兄弟姉妹に挨拶を書いています。そのあとに本日のところで、あなたがたが学んだ教えに反して、不和やつまずきを与える者に警戒しなさい。彼らから遠ざかりなさいと記されています。わたしたちは先ほど神様に愛されている存在ですということを学びました。このことに何かを条件を加えるとおかしなものになってしまうのです。例えばですが、神様に愛されるように1,000万円を献金しましょう。もしくは、1,000万円払わなければ救われませんよ。ということを平気で言ってくるところであれば警戒した方がよいかもしれません。また愛されるために、こんなことをしましょう。あんなことをしましょうと言ってくる場合もわたしたちは警戒しなければなりません。神様の愛はそのような形で与えられるものではないのです。むしろ何も見返りなしで愛を与えてくださるのが神様なのです。様々な間違いをし、神様の事を無視してしまうわたしたちですが、こんな私にもかかわらず、愛してくださるのです。こんな私だからこそ神様は愛してくださるのです。もしも人間ならばあの人はこんなことをしたといったレッテルを張ってしまうかもしれません。しかし、神様は良いものにも悪いものにも同じように雨を降らせ、太陽の恵みを与えてくださるのです。昼を与え、夜も与えてくださるお方なのです。ですからその愛はわたしたちがこの世で生きている限り、また死んでからも常に降り注ぎかけてくださるのです。いつもわたしたちを愛で満たしてくださるのです。
しかしそのことに気づくことが出来れば幸いかもしれません。多くの人がそのことを知らないのです。だから人は無くなってしまうものに執着し、そのことをより多く求めてしまうものなのです。わたしたちは神様から様々なものをいただいておりますが、どれが良いものか、どれが悪いものか判別するのが難しいです。それはこの世に様々な人が住み、色々な情報が錯綜する中でどのことも正しく思えてしまうのです。もちろん正しいこともたくさんありますが、それによって、人を傷つけたり、人をだますようなものが良いもの正しいものとは思えないのです。正しく言っている様に見せかけているだけかもしれません。それは、これは正しいことだから守ってくださいと言い、そのことを守れないことを批判するのであれば、そこに愛は無くなってしまうのです。そのことがたとえ間違っていたとしても、攻める必要は全くありません。受け入れていくという努力も必要になってくるのではないでしょうか?その人を受け入れていくというのも一つの選択肢なのです。つまり愛に生きるかそうでないかです。利益や欲に走るのであれば、わたしたちも神様からの愛を感じることが出来なくなってしまうのです。愛の実践つまり良いことを積極的に求めていきましょう。それこそ、本日の説教題である「善にさとく、悪には疎く」ということではないでしょうか?
2020年10月11日 益子教会主日礼拝 メッセージ要約
聖書 マタイによる福音書 13:10~17
メッセージ「あなたがたは幸いだ」
今、しあわせですか?という質問を投げかけられた時、人はどのように答えるでしょうか?ある人は幸せだと言える人かもしれません。しかし全体的に見ても自分が今幸せだと言える人がまだ少ないのではないかと思います。その幸せの基準は何ですか?それは、人の価値観によって違うものなのかもしれません。ある人は食べ物、ある人はお金、ある人は有名になる、など幸せの基準はそれぞれ違うものです。しかしどれも無くなってしまうものであります。食べ物は食べてしまえばなくなってしまいます。お金は使えばなくなってしまいます。権力は何か問題が生じたときには失います。そのことを無くならないように維持しようと考えるのであれば努力をしなければなりません。しかしどんなに使っても、無くならないものがあります。それは、どんな時代になろうとも、廃れることもなく、腐ることもなく、無くなることもないのです。むしろ新鮮でわたしたちの飢えや渇きをなくしてくださるのです。それは神様の御言葉です。神様の愛は無くなるどころか、どんどん増えて広がり、大きくなって成長していくのです。しかし御言葉は全ての人が理解する事は出来ないのです。
本日与えられた個所を見てみたいと思います。本日はマタイによる福音書13:10~17です。この箇所では、イエス様がなぜ譬えを用いて話をするか弟子たちに聞かれ、その理由を教えられております。まず、神様を理解する上で何が一番重要なのでしょうか?一番重要なのは幼子のように素直になるということが条件です。つまり猜疑心を捨て去らなければ、御言葉を受け取ることが難しいからです。律法を守る人にとって何が大事なのでしょうか?大事なのは律法を神の言葉として受け止め、絶対守るということであります。もちろん神様から与えられたものを守るというのは一見正しいことを言っていますし、大事なことであります。しかしその時代に示されていた律法が神様の与えてくださった律法であれば問題はありませんが、もし人の介入がされて、継ぎ足しを繰り返せば、どうでしょうか?その言葉は濁り、本来の神様の言葉ではなくなってしまうのではないでしょうか?そこで現れたのがイエス様です。イエス様の言葉や行動は、今まで律法をかたくなに守ってきた人々によっては、一抹の不安を覚えさせるものでした。衝撃的ではありますが、その本当の意味を教えられた時に、自分たちが本当の神様を知る者であるという自負を否定された気分になったのではないでしょうか?人は自分の立場が危うくなると、相手を批判し、罵倒し、自分たちの生活圏から追い出そうとしてしまいます。自分たちに賛成する者には優しくし、自分たちを追求しようとするものを迫害するのです。そうなってきますと、イエス様の話される言葉を邪魔しようとします。その行いがありますとイエス様が神様の事を伝えようとしても、聞いている聴衆の妨げとなってしまうのです。つまり神様の救いにあずかろうとする者にとっては、その場所や時が大事なのです。中にはわざわざ時間を作ってきた人もいることでしょう。そのことも実は神様の恵みなのですが、神様によって集められた人は、神様の言葉を聞きに来たのです。その中には神様の癒しを求めに来た人もいたのかもしれません。
人には様々な理由があります。つまり御言葉を聞くことは、神様と出会うチャンスを妨げてはならないのです。その気持ちを踏まえるとイエス様が譬えを話される理由がわかるのではないでしょうか?11節にこのように書かれています。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。」これはどのような意味があるかというと、二つのグループが存在するということであります。一つは神様の秘密を知る権利が与えられたグループとゆるされていないグループです。どちらかにわたしたちは所属していくのですが、神様の救いはすべての人に注がれているのです。ですからどんな形であれ、神様の救いを知る権利があるのです。それは神様を知っている人も、神様を知らない人も、本当の神様を知らない人にも平等に与えられているのです。そのために神様は預言者を遣わし、イエス様を遣わしたのです。その神様から遣わされた人は神様の言葉を預かって語るわけでありますから、良いことも悪い事も正しく伝えなければならないのです。しかしその言葉を聞いて信じる人には恵みが注がれ、神様の秘密を知ることの出来るグループに入ることが神様に赦されるのです。しかし疑いの心を持つのであれば、神様はその御言葉を理解出来ない様にさせることもたやすいのではないでしょうか?皆さんは一生理解できないのが良いですか?それとも理解できるようになりたいですか?その選択権は実はあるようでありません。つまりその疑いの心はやがて神様によって取り除かれるのです。
今この時、この瞬間神様の事を無条件で受け入れてください。もし今そのことが出来ませんという方も必ず神様は救いの道を用意しております。どんなに神様のために働いてきた預言者も神様の業を見えませんでした。どんなに神様の事を愛していてもイエス様の言葉を聞くことがありませんでした。ですから今の時代わたしたちが聖書に親しむことが出来るのも幸せです。歌うことが出来るのも神様の恵みです。祈りをもって神様と仲良くできるのも神様の愛です。この幸いを確かめながら、わたしたちは神様と共に歩む喜びを噛み締めたいものです。
2020年10月4日 益子教会主日礼拝 説教要旨
聖書 Ⅰペトロの手紙 2:1~10
メッセージ「力ある業を広く伝えるために」
わたしたちは、今まで生きてきた年代があります。歩んできた人生があります。誰もが、今の年齢に突然なったわけではありません。自分の赤ちゃんだった時の記憶がある人はすごいです。もしも自分の赤ちゃんの頃の思い出が語れる方がいましたら是非聞いてみたいと思います。もちろん人づてには自分の赤ちゃんの頃の話を聞いた人はいるかもしれませんが。その赤ちゃんの時、自分が大きくなるため何をしていたでしょうか?まず、栄養の確保をしていたのではないでしょうか?特に生まれた時、自分が成長をする上で母乳を求めたのかもしれません。たとえ母乳が出なくとも、スキンシップという意味では、赤ちゃんは肌に触れることを求めたのかもしれません。わたしたちも霊の乳を求めていかなければなりません。体の栄養だけあっても、人間は成長しないのです。その成長は心が伴って初めて健康であると言えるのです。心を作り上げる大事なことは人間関係の充実、様々なことがチャレンジできる環境、そして自分が神様から愛されているという自覚。人間関係の充実は、人とのコミュニケーションを養う上で必要です。今の時代人と対話をしなくとも生きていくことができますが、コミュニケーション能力の高い人は、どんな環境であれ、社会でうまく活かされていくことでしょう。様々なことがチャレンジできる環境があれば、自分に合った生きがいを発見できるのです。最後の神様に愛されているということが理解できるためには、道徳ではだめなのです。ダメというよりも足りないと言い換えた方が良いのかもしれません。道徳観は、これは良いこと、悪いことと区別することはできます。しかしそのことによってどのようなことが起きて来るでしょうか?それは、倫理観という名の差別が起きるのです。これをしていないからダメ、あの人はこれが出来ないからダメだとレッテルをはってしまうのです。今の時代もマスクをしていなければ、店で買い物をしても白い目で見られてしまうのです。飛行機に乗っても乗車拒否されてしまうのです。そのようにマスクなしでは、買い物も公共交通機関も利用しづらくなってしまいました。このように道徳観では、十分に愛を伝えていくことができません。しかし、その愛を伝えられる、自分が愛されていると感じることができる読み物があります。それはこの聖書であります。
本日の聖書箇所であるⅠペトロの手紙2:1を見ますと「だから」と書かれております。この前の1章を見ても「だから」と書かれております。これはなぜでしょうか?その意味はこうだからこうですという風につながっているのです。聖書も一部分だけを見ると理解しがたい部分も多くあります。しかし全体を見れば、こんなにも答えが明確になっている書物は他にはないかもしれません。それはなぜか、それは神様の意思だからです。本日のだからは、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、生まれた乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさいと書かれております。この霊の乳とは神様の御言葉のことです。イエス様が現れたとき、イエス様の言葉と行動は神様を現しましたが、その行動や言葉によって、当時社会的に認められた祭司や律法学者、神様が与えてくださった律法を人間の解釈で理解し、人々を裁く人たちにとっては、邪魔な存在で疎ましく思っておりました。しかしそれは大きな間違いでありました。その邪魔な存在ほど本当に大切であったのにもかかわらず、敵意で満たされてしまいました。しかし、その事も神様の計画においては必要な事でありました。イエス様を信じることが出来ず反対にする心があるからこそ、神様は暗い闇の中からわたしたちを救い、大いなる光の気づきを与えてくださるのです。その言葉が本日のⅠペトロの手紙10節に書かれた言葉です。あなたがたは「かっては神の民ではなかったが、今は神の民であり、憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けている」のです。わたしたちを大いなる光に招いてくださる方は、わたしたちが神様を広く伝えることを望んでおります。多くの方が知ることが出来るように神様を賛美して、神様に祈り、神様の御言葉に耳を傾けましょう。それによってわたしたちは神様に導かれていくのです。この喜びを様々な形をもって、自分の周りの人に伝えていきたいと思います。
2020年9月27日 益子教会 主日礼拝 メッセージ
聖書 使徒言行録 14:21~28
メッセージ「信仰に踏みとどまりなさい」
初代教会においては、二人で宣教の旅をしていました。それは神様が、与えられたものでありました。どんなことがあったでしょうか?それは喜びも多くあったことでしょう。神様の事を伝える旅行でしたから、神様を知らない人が神様を知るようになる機会が与えられるということは、本当に喜びです。しかしその伝道旅行は良いことばかりではないのです。皆さんも経験があるのではないでしょうか。その行く先々で思わぬハプニングがあるかもしれません。世界にはさまざまな国があります。思考や環境は違うことが多々あるのではないでしょうか?人間社会には文化というものがあります。ルールというものがあります。それは日本ではよいことであっても、他の国では認められないこともあります。マナーもそうですが、相手を気遣う心がなければ、その人とは仲良くなれません。しかし相手のところに入るわけですから、郷に従えというのは大事なことであります。しかし出来ることと出来ないことがあるのです。それは何か?それは自分の大事にしているものです。信念とでもいうのですかね。つまり信じているものを大切にするという心が大切です。
わたしはクリスチャンですから神様を信じるということは変えられないわけであります。しかし日本ではあまりないかもしれませんが、キリスト教ということだけで迫害する国もあります。一度インドのキリスト教を迫害するビデオを見せていただいたことがあります。教会の牧師が大勢の人に暴行を受けて殺されてしまうものを見ました。その光景を見せられた時に本当に身の危険を感じました。ある意味で宗教を全うするということは自分の信じた神様に命をかけて信じぬくということでありますから、その真剣な思いをどのように育むことができるのでしょうか?それは、ただただ信じるということでしかないのです。ただただ祈っていくしかないのです。3年前に遠藤周作原作の沈黙という映画を見ました。その内容は二人の宣教師が日本にキリストを伝えるミッションが与えられました。日本はキリスト教の未開の地でありましたから、様々な不安があったことでしょう?言葉が通じるのだろうか?食べ物は何を食べているのか?治安は大丈夫なのか?キリスト教を理解できるだろうか?そのように考えたかもしれません。しかしその与えられたミッション遂行のためにはるばる日本にやってきました。そこでたくさんの方と出会い、キリスト教を伝えていくのです。その結果多くの方が信じるようになりました。しかしその当時の幕府は、キリスト教を認めませんでした。その為宣教師自身も迫害を受けることになるのです。その迫害も日に日に激しさを増しますが、絶対にキリスト教を捨てませんでした。しかしその宣教師が教えてキリスト教を信じた人たちの拷問を見せられ、ついにはキリストを辞めると宣言したのです。その結果、表向きはキリスト教を取り締まる役人になってしまう訳であります。その当時キリスト教を辞めた人を転び人と呼んでおりました。その転び人となるわけです。その映画のラストシーンの中で最後その宣教師が死んで棺に入れられるシーンがあります。その棺に妻がそっと忍び込ませたのは小さな木彫りキリスト像でした。それは、死の時まで隠し通していたキリストの信仰の象徴でした。そこで映画は終わるのですが、この信仰を皆さんはどのように考えるでしょうか?わたしは信仰に踏みとどまることがどれほど大変なことなのかを考えさせられました。様々な違いがある中で、そのものを貫く精神的強さは、何か考えました。それは信頼でしかないのです。神様は必ず乗り越える力を与えてくださる、必ずわたしたちを助けてくださる、そして私たちを愛してくださるのです。それはどんな時もどんな場所でも、どんな人であっても神様を信頼していくのです。信仰を捨てなければ、必ず神様はその苦しみから解放してくださるのです。苦しみは、一時のものであります。いつまでも雨が続くのではありません。必ず晴れた日をくださるのです。主が与えてくださることを信じて、信仰に踏みとどまっていきたいと思います。
2020年9月20日 益子教会主日礼拝
聖書 ローマの信徒への手紙 15:7~13
メッセージ「神の真実を現す」
聖書では、神様の事を知らない人のこと、まことの神を知らない人を異邦人と呼びました。このローマの信徒への手紙が書かれた頃もそのように呼ばれていました。しかし実際には現在においても本当の神様を知っている人はどれくらいいるのでしょうか?知っていたとしても完全に神様のことを理解している人は、どれぐらいいるでしょうか?答えは0です。つまり誰も神様の事を知りません。しかしそのことを知る鍵は、この聖書にあります。様々な宗教がある中で本当に正しいものは、受け継がれて語られてきました。人間の力によって、「その神様は偽物だ」という者がいたとしても、どんな政治的な圧力をかけられようが必ず歴史に残ってきた事実は変えようがないのです。
神様が初めに目を付けたのはイスラエルの民でした。そのイスラエルの民には神様に選ばれた選民意識が少なからずあったのではないかと思われます。その思いは強く、「イスラエルの中から救い主が現れ、わたしたちの希望とする」その救い主の思いは、自分の思いが強くなってしまうと、大きな間違いを引き起こす原因となるわけです。
そのためにわたしたちのところに現れてくださったのがイエス様です。神様が唯一わたしたちに神様を理解させるために送り出してくださった方であります。このイエス様によって、救い主というイメージを神様によって壊されたのです。そのことが現れている記事は聖書にいくつも書かれております。イエス様が弟子たちに十字架の話をした時に弟子の一人ペトロがイエス様を叱るのです。「そんなことを言わないでください。」その態度に、その言葉がけにイエス様は憤りを覚え、ペトロを「サタン」と呼びました。その思いは人間の悪い心であり、神様の計画を無視する悪魔の考え方なのです。
わたしたちは、自分中心に物事を考えてしまいますと、大切な何かを忘れてしまうものなのであります。わたしたちは、同じ構造の人間ですが、住む場所、環境、話す言葉や社会、周囲にいる人々によって感じ方や考えは違うものであります。それこそ同じように衣食住を共にしてきた仲間が同じ考えかと申しますと、どんなに一緒に過ごそうが一致することもあれば、違うこともあるのです。どんなに同じ方向を見ていても見る視点によってもそうですし、関心事によっても見ているものが違ってくるのです。わたしたちは、神様によって創造されました。不思議なのは、誰一つ同じ様に造られていないということであります。顔がそっくりであっても育った環境が違えば、考え方や価値観はまるで違う訳であります。
本日の聖書ローマの信徒への手紙 15:7で、このように書かれています。「だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。」自分のために受け入れるのではないのです。神様の栄光のためにと書かれておりますので、互いに認め合うのは神様のためなのです。もちろん全てを受け入れることは一筋縄ではいかないでしょう。しかしお互いを受け入れることは、イエス様自身が示されたことでもあります。はじめに申しましたように、イエス様自身が拒むことはありませんでした。むしろ積極的に社会的抑圧を受けている人、病気をして社会から疎外されている人たちを受け入れてきました。わたしたちも同じように互いに認め合い、愛していく道を実践することができれば、神様の栄光を現す存在へと変わっていくのです。わたしたちは神様に委託されているのです。神様はわたしたちに出来ないことを与えません。わたしたちが行うことが出来るからこそその命題を与えているのです。神様が私たちを信頼してくださっている証なのです。形ないかもしれません。決まったことなどありません。自由に表現することが出来るのです。つまり、愛は自由に行うことが出来るのです。ですから私たちは神様の愛を実践して、相手を認めていこうではありませんか?それこそが今私たちがすべきことなのです。
2020年9月第2週 益子教会主日礼拝 説教要旨
聖書 Ⅱコリントの信徒への手紙4:1~6
メッセージ「主の方に向き直れば」
わたしたちは、何を基準に物事を考えていけば良いのでしょうか?選択する事は多くとも、選べるのは一つであります。しかしその選択も必ず正解かというとそうではない場合の方が多いのではないでしょうか?むしろあの時こうすればよかったと嘆いても過去には戻れません。今起こっていることをどう受け止められるかが生きるポイントになっていくのではないでしょうか?その次に起こるのはそのものに対してどのように対処していくかが問われてくるのです。誰でも失敗をいたします。失敗しない人などいません。しかしその失敗を追求する人はいます。その追及する人が正しい時もあれば、そうでない時もあります。人間は感情的な部分を持っております。何でもコンピューターみたいに忠実に仕事をこなせることを求めている人を求めるところもあります。またそういったところでは、良い人間関係を築くことが難しくなってしまいます。もしもそのようなところで良い人間関係を形成できるとすれば、その仕事以上のものがプラスアルファされないとうまくいかないでしょう。つまり、人間性が問われることになります。しかし本来リーダー自身がそのように失敗をしたときには、素直に謝る心も必要となってくるのです。つまりどんなことでもそうですが、素直さ、謙虚な心、感謝する気持ちを持ち合わせていなければ、信頼を得ることが難しいものです。しかしそのことさえ心に持って入れさえすれば、人間関係もうまくいくかもしれません。しかしその心を持っていてもうまくいかないのが人間の難しさがあります。自分は素直な心で接していても相手がそのことをどう受け止めるかによっても変わってきます。好意的に受け取る人もいれば、皮肉な思いを持つ者もいるということであります。つまり色んな人が色んな感情を持って暮らしているわけですから、統一することは難しいのです。十人十色と申しますように、それぞれの気持ちを大事にしていかなければなりません。つまりそれは社会であれ、教会であれ、その根本的なものがずれなければ、良いのではないでしょうか?相手を受け止め、認めていく。という意識を持つことが大切です。
神様が私たちにイエス様を与えてくださったのは、わたしたちを愛し、わたしたちの罪を取り除くためです。しかしその神様の計画は人間にとって善いこともあれば、悪いこともあります。しかし人間はどうしても良いことばかりを望み、悪い事は過ぎ去ってほしい、できれば来ないでほしいと願うのであります。しかし神様は与えるのです。その与えてくださるものがわたしたちに有益になると考えておられるのです。わたしたちは十年後の2030年9月13日は、何をしているでしょうか?それはわかりません。しかし今日のスケジュールはこうしようと予定をたてることはできます。しかしその先に何を見据えるでしょうか?そこに本日の言葉の本質が隠れているのではないでしょうか。パウロもその前の預言者たちも一環としていえることがあります。それはすべて神様の方を向いているということです。神様のために予言をし、神様のために自分の生涯をささげたのです。つまり神様の方を向き続けているのです。わたしたちも神様に目を向け、心を向け歩んで参りたいと思います。最後に聖書にこう書かれております。「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス。キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。と書かれております。わたしたちの内にイエス様がおられるのです。主のために自分の目をささげてください。手をささげてください、そして心を神様に向けていきましょう。そのことを覚えてこの1週間過ごしましょう。そうすれば、わたしたちは神様の心に近づくことができるのです。出来ないと思わないでください。もうすでにその願いは聞き入れられているのです。この1週間も神様の導きに従うことができますようにお祈りしていきましょう。
2020年9月6日 益子教会 主日礼拝メッセージ
メッセージ 「神様が望むこと」
聖書 Ⅰテサロニケの信徒への手紙 5:12~28
わたしたちには必要なことは、たくさんありますが、全部を同時に行うことができません。しかしすべてある事柄から神様はわたしたちに大切なこと、重要なことを示されるのです。本当にすべきことが示されたとき、わたしたちは行動しやすくなるのではないでしょうか?いろいろな物を購入すると、その商品についての取扱説明書が付属されています。その説明書を一生懸命読んでからその商品を使うのと、全然読まないのとでは使い勝手が違うわけです。商品だけでなく、アルバイトにだってマニュアルがあるわけですから、当然主を必要とする人にもマニュアルがあるわけです。それが本日与えられた聖書箇所であります。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんな事にも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて神があなたがたに望んでおられることです。」これがクリスチャンマニュアルといってもよい大事な思想だと思うのです。しかしどんなにこの御言葉が大事であると思っていても実際にはどうでしょうか?その言葉をわたしたちは忘れてしまうこともあるのではないでしょうか?しかし神様はわたしたちが忘れても「これ大事だから」と言って何度も何度もわたしたちに語り掛けてくださるのです。私もこの聖書箇所で何度も説教いたしました。説教する度にわたしたちの心に沁みこんでくるのです。この前後の御言葉もわたしたちがどのように生きるべきかを示してくださるのです。前の御言葉はこうです。
「主に結ばれて導き戒めている人々を重んじ、また、そのように働いてくださるのですから、愛をもって心から尊敬しあいなさい。互いに平和に過ごしなさい。」まず相手に対しての指針が書かれています。イエス様が復活して弟子たちの真ん中に立たれたときに言われた御言葉は、「あなたがたに平和があるように」です。その平和は何でしょうか。その平和とは神様の愛です。その基となる神様自身が愛なのです。
わたしたちが他者に愛の心を持つということは、わたしたち自身が神様を受けいれ、行動しているということであります。つまり今いるこの世は様々な人がいる世界です。決して一人ではありません。この共存の社会であっては当然のことです。様々な社会と個人の世界においては相手とどのように接するかが問われるのではないでしょうか。社会的な距離を取ることを求められているこの時代であっても、相手との心の距離を埋めていかなければなりません。その距離を縮めることができるのが愛です。神様の愛をもって導き戒めなければならないのです。その愛を欠如すればどうなるでしょうか?相手を批判し、侮辱してしまうことにつながりはしないでしょうか?愛を持っていれば、言葉も相手を傷つけないように心掛けることができます。愛を持っていれば、相手をいたわる行動をとることができます。
最後にパウロは祈ります。全き聖なる者としてくださいと。それはわたしたちだけでは完全なものにはならないことを知っています。どんなに努力して知識を得ようが、どんなに頑張ってお金持ちになろうが、この地で様々な権力を得ようが完全にはなれないのです。そこに神様が加わってくださらなければ、誰も完全な者にはなれないからです。
2020年8月第5週 説教要旨
聖書「ローマの信徒への手紙 14:13~23」
メッセージ 「キリストは、その兄弟のために」
わたしたちは様々な基準を持っています。どれが正しいとか悪いとか皆さんはどのように判断されるでしょうか?今までどのようなことで判断していたことでしょう。学んできた、つまり教えられたことに忠実になることも必要です。反対に日本の文化で良いとされてきたものと外国でダメなものも違います。ですから、最終的には自分で判断します。神様という存在を否定するならば、自分の価値観で判断しなければならないのです。しかし、イスラエルの人々は神様が与えてくださった律法によって判断をしておりました。つまり律法に書かれているもの以外は認めないということであります。しかし、神様の律法を守れない人はその存在を知っているからこそ神様との約束を破るということを知ることができるのです。しかしその律法そのものを知らなければどうでしょうか?知らないわけですから、律法を守る、律法を破るといった概念がないのです。ですから、それで批判されてもどうしようもないのです。本日の聖書では、食べ物という事柄から考えようとしています。食べ物は神様が与えてくださったものですからすべて清い物であります。しかし、そこに神様以外の考え方が入り込んでくるとどうでしょうか?途端に分け隔ててしまうのです。これは良いもの、食べていいもの、これは神様にささげたもの、区別するのです。これは当然住む場所や環境でも違う訳であります。何が正しいかと考えるのではなく、そのものは、誰からのものなのかと考えることが必要なのではないでしょうか?
神様は、わたしたちを愛してくださっております。故に様々なものをわたしたちにくださっております。それこそ分け隔てなどいたしません。それこそどんな人間をも神様は受け入れているわけですから、神様を信じる私たちはなおさらではないでしょうか。つまりどんなものも、どんな人間も神様の創造物でありますから、すべて清いのです。その清い尊いものが自分の思いだけで活動するならば、神様の意思を無駄にしてしまうのです。まず私たちは手本から学ばなければならないのです。その手本とは誰でしょうか?それがイエス・キリストです。イエスさまがこの世の姿で宣教の業を担っていた時、どうだったでしょう?神様は分け隔てなく人々と神様の話をしました。重い皮膚病の人とも避けることなく、傷に触れてくださいました。そして何よりもわたしたちのために十字架につけられたのです。その思いは、わたしたちが想像する以上に大きな愛を注いでくださったのです。そのような大きな愛を実際に行うのは難しいかもしれません。しかし、神様は、わたしたちにできることを示されます。互いに裁き合わないようにしようと。些細なことを気にしてもしょうがないのです。自分の思いを捨て、相手を認めること、相手を受け入れていくことが求められています。もっと大きな視点、神様の視点を持つことが大切です。重要なことはただ一つ、神様の国は飲み食いが重要ではないのです。神様が与えてくださる聖霊の義と平和と喜びなのです。ですから、わたしたちも神様の平和を求め、神様の義を持って生活していくことを心の底から望んでいきたいものです。わたしたちにはそれができます。主が共におられるのですから。
2020年8月第4週 説教要旨
メッセージ 「神は聞き入れて下さる」
聖書 Ⅰヨハネの手紙 5:13~21
生きているということは、息をします。水を飲みます。そして様々な形で栄養を取ります。それはどんなものもそうです。しかし生活をすると言えばどうでしょうか?生活をするためには、まずお金が必要になってきます。自給自足の生活をしていれば、もしかしたらそんなに必要ではないかもしれません。しかしアパートに住んでいれば家賃だけではなく、光熱費があります。その他にも様々なものがお金に絡んできます。その事実からは目を背けられません。しかし多くあればいいというわけではありません。あればそのお金を狙ってくるものもいるでしょう。もしかしたらそのせいで人を信じられなくなったり、疑心暗鬼になってしまうこともあるかもしれないのです。そんな状況には滅多になりませんが、どちらかというと逆でいつもお金がない状況なら誰もが経験しているのではないでしょうか?そんな時どうしましょうか?どこかに相談に行きますか?もしかしたら誰も話を聞いてくれないかもしれないのです。では、どうするでしょうか?聖書で書かれているように神様に願えば、なんでもかなえてくださるでしょうか?自分の私利私欲のためであるならば、その願いは聞かれないのです。しかし神様の御心に適うのであれば、その願いは聞き入れられるのです。自分の思いをはるかに超えたものを与えてくださるのです。時には何でと思えるようなものかもしれません。もしかしたらこれぽっちと嘆くかもしれないのです。しかし神様の判断によって与えられるのです。つまりたとえ善い行いのためにと思い願うことであっても人間の判断基準ではないということなのです。反対に神様と真逆の考えや願いであったとしてもその計画によって悪から善へとシフトチェンジさせる力が神様によって働くのも事実です。だって神様は人間の考えをはるかに超越されているからです。もしかしたら、神様の選ばれたパウロも同じだったかもしれません。彼はキリスト教に出会う前は、神様を冒涜している者としてキリスト者をとらえ、迫害してきました。その行いは、まるで神様のごとくふるまっていたに違いありません。自分は正しいのだと言わんばかりに間違っている言葉や行動に対して、力を振るっておりました。時には言葉だけでなく、暴力を使い、強引に活動していたのかもしれません。ですから、人々は彼を恐れていたのかもしれないのです。その際に誰かが神様にそのことを求めて祈ったかもしれないのです。色々な思いを持って神様に祈ったかもしれません。時には「殺してください。」「消してください」というような呪いの言葉で祈る者もいたかもしれません。逆に「信仰が深められますように」とか「心が変えられるように」と願った人もいたかもしれません。神様は正しい判断をなさる方です。悪しき心を良い心へと造り替えてくださる方なのであります。ですから、どんなこともまず神様に相談すべきです。わたしたちが出来ないことも神様は最善の方法をわたしたちに示してくださるのです。人間が「エー」と驚くことを計画し、実行なさる方なのです。そのことをわたしたちは幾度となく経験しているのではないでしょうか?そのことを気づかないで生活しているかもしれません。しかし神様は何度も示してくださいます。わたしたちが神様を信じるようになるまで、自然と受け入れるため、神様は日々働かれているのです。
2020年8月第3週 説教要旨
聖書: ヘブライ人への手紙 13:1~6
説教: 「主は助け手」
8月15日は、終戦記念日です。わたしたち人間が犯した最大の罪が戦争です。その戦争は、人々の心を惑わし、猜疑心を植え付けるものなのです。守るという言葉は一見、大切な見方かもしれません。しかし私はそう思わないのです。例えば、今の問題を取り上げてみましょう。わたしたちはいろいろな情報を得ることができますが、どれだけ正しい情報を得ることができるでしょう。どれだけうその情報に惑わされてしまうのでしょうか?その比率は、予想以上に正しい情報を理解していないかもしれません。予想以上にうその情報を信じてしまっているのかもしれません。もちろんそのことを見抜く能力にたけている人は、正しい行動を起こすことができるでしょう。しかし、完璧な人はこの世に存在しないのです。誰でも間違ったことに突き進んでしまう可能性もあります。悪い事と分かっていても正しい行動をとれないことだってあります。つまり私たち人間は非常に迷いやすい者であるということを自覚しなければならないのです。
戦争も同じなのです。自分の考えによって、相手を非難します。個人的な些細なことかもしれません。しかしそれが国レベルになったらどうでしょうか?相手の国のことを考えずに自分のしたいようにすればどうでしょうか?ひずみが生じます。その苦しさによって、守る、つまり防衛本能が生まれるのです。自分の生活を守ろう、守りたいという気持ちはやがてもっと良くしたいという気持ちになるのです。そして責任転換をし始めますとさらに状況は悪くなるのです。つまり破滅へのカウントが始まってしまうのです。では、どのようにすることが正しいことなのでしょうか?どのようにすればそのことを回避できるのでしょうか?そこでわたしたちには聖書が与えられているのです。本日の聖書箇所であるヘブライ人への手紙13章の1節には兄弟としていつも愛し合いなさいと書かれています。兄弟として書かれています。骨肉の争い程つらいものはありません。しかし人間はしてしまうのです。様々な理由はあるでしょう。ですが、次の節では、旅人をもてなすことを忘れてはいけません。その意味は、大事にする、一生懸命力を尽くすということであります。旧約聖書に出てくるアブラハムは、旅人を一生懸命もてなしました。もてなし方も最上級のもてなしをしたのでした。その最上級の感じ方はそれぞれによっても違うかもしれませんが、一生懸命力を注ぐ姿は人々に感動を与えます。自分の誠意も伝わると思うのです。もう一つ加えるならば、相手のことを考えることであります。相手の状況も含めて自分以外の人を受け入れ認めるということをする事が大切なことなのです。自分の事ばかり考えていても自分の視点でしか相手を考えることができません。もっと相手を知れば、もっと良い方法が見いだせるのかもしれません。しかし人間には限界がありますから、神様にお願いしてみましょう。神様に自分の心の内を打ち明け、神様の思いが与えられるように祈りましょう。そして神様の心をもって、最上級の愛を行うことこそが神様に求められていることなのです。
2020年8月第2週 説教要旨
メッセージ 「愛と忍耐」
聖書 Ⅱテサロニケの信徒への手紙 3:1~5
わたしたちを取り巻く環境は、様々な関係で形成されています。社会的な関係、友人関係、家族関係、大人と子供の関係、地域の方たちとの関係、異なる年代との関係、本当にその関係性を探ると、多種多様な関係を生み出しています。しかしどの関係も共通の何かがあるから結ばれているのです。例えば、仕事関係であればどうでしょうか?年齢を問いません。その仕事に携わるといった点での関係性です。もちろんプライベートでも仲良くなるケースはあります。それは、仕事を通じて仲良くなるわけですから仕事がファーストコンタクトになるわけです。しかし人間関係は難しいです。誰もが同じ考えではありません。同じ様な方向性であっても若干違ってくるものかもしれません。そういったずれは連絡をしっかりしていれば多少のことで大丈夫かもしれないのです。しかしそのずれが修正できなければ、相手と衝突してしまうかもしれないのです。
では神様との関係はどうでしょうか?私たち人間同士であれば器が小さいですから些細なことで衝突し、いさかいを起こしてしまいます。しかし神様は、器が大きく懐は深いのです。それは人間が歩んできた歴史を見ても明らかですが、わたしたちが歩んできた道は、神様に信頼するも、神様の言葉に背くなど神様に素直に従えないものです。疑心暗鬼の心は常に私たちの心を支配してしまうのです。もしも私たちが素直さをもって神様に従うのであれば、神様は受け入れてくださるのです。その逆に疑い深ければ、全ての事を否定し、しまいには神様なんていないのでは?とさえ思ってしまうかもしれません。しかし神様はそんな疑り深いわたしたちを全力で愛してくださるのです。そしていつでも神様のもとに心を向け、体を向けることを忍耐して待っておられるのです。つまり神様と人間の関係は、圧倒的な神様の愛とすべてに耐える忍耐を神様が示してくださっているのです。
それでは、神様はわたしたちに何を求められているでしょうか?何を身につければよいのでしょうか?それは、愛であり、忍耐深さかもしれません。わたしたちの生活を顧みますと、自分では気づかないことも多々あるのです。例えば普段温厚な人もしくは自分でそう思っていても、周りから見たらあの人なんでいつも怒っているのと思われているかもしれません。自分は勇気があると思っていても、何て臆病なのと思われているかもしれません。自分は優しくて思いやりがあると思っていても、周りからすると全然相手のことを考えてないわと思われているかもしれないのです。このように自分が思っていることと周りが感じていることには違いがあります。その差を埋めるためにもまず私たちが愛の心を持つことです。その愛によって相手のことを考えて、行動することができるでしょう。また忍耐の心を持つことです。つまり自分ではこう思っていても、すぐに言葉に出さない、態度に表さないなど忍耐の心を身に着けるべきではないでしょうか?その心を、つまり愛と忍耐を身に着けることが平和の道を歩むことができるのです。神様の道へとつながっていくことであります。その心が身につくように神様に願ってまいりたいと思います。
2020年8月第1週 説教要旨
メッセージ:「あなたを照らすキリスト」
聖書: エフェソの信徒への手紙 5:6~14
わたしたちは、神様の恵みをいただいています。その恵みは、光となってわたしたちを輝かしてくださるのです。本日の聖書を見てみますと、むなしい言葉に惑わされてはなりませんとこのように書かれております。このむなしい言葉とは、この世での噂事や消えてしまうようなことなのかもしれません。人間は様々な情報を得ますが、どれが正しいことなのか、どれが間違ったことなのかは、正しく判断できる基準を見つけ出さなければならないのです。しかし神様はわたしたちを救い出してくれたのです。そのむなしい言葉を断ち切ることができるようにしてくださったのです。つまり神様からそのいただいた光は、すべての暗闇を開放してくださるのです。その恵みをわたしたちは頂いたわけですから、まず私たちは神様に感謝をささげるのです。何か頂いたら、こどももどうもありがとうと言います。どんな思いよりもまず神様に感謝することが神様との関係を形作ることができるのです。
そして光の道を歩めば、その道にはあらゆる善意と正義と真実が生じてくるのです。しかし正しい道であっても人間的判断で動きますと、初めは正しいことを行っていても、少しずつ道がずれてしまうことがあります。人を裁いたり、人に強要したり、人をだましたり、挙句の果てには、自分の都合で物事を考えてしまうのです。つまり自分の都合に合わなければ、いらないと判断してしまう可能性もないとは言えません。そうならないためにもまず自分の考えではなく、神様の視点で物事を考え、計画する事が重要となるのです。そうすればわたしたちはさらに輝くことができるでしょう。なぜならばわたしたちを輝かすのには神様の力が必要だからです。最も輝きを帯びることができるのは神様が力を示してくださる時なのです。そこで神様は聖書を通して提案されます。実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ神様の前に打ち明けなさい。そうすることによってその暗闇の行為や心を神様が明らかにしてくださるのです。神様の意に反するものは打ち砕かれ、そのもの自体を消滅させる力を神様は持っておられるのです。
だから神様に感謝の念を抱いてください。その感謝の気持ちを抱いたならば神様は次のステップを用意されております。それが本日読んだ後の部分に書かれております。エフェソの信徒への手紙5章15節以降です。愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。だから無分別なものにならず、主の御心がなんであるかを悟りなさい。酒に酔いしれてはいけません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさいと書かれております。つまり感謝の心をもって賢いものとして歩み、酒におぼれず、霊的な歌を歌い語り合い、そして神様の考えか否かを判断し、あくまでも神様の業に努めていくそのことがクリスチャンとしての歩みであり、わたしたち人間が行っていくことなのかもしれません。この世の思いよりも主の御業はわたしたちに平安を与え、愛の心で満たしてくださるものなのです。
2020年7月第4週 説教要旨
聖書 マタイによる福音書 25:31~40
メッセージ「天地創造の時から」
わたしたちは今、この地上で生活しています。しかし神様の審判が下される時は確実に来ます。しかし、いつ来るのでしょうか?どのようなことが起こりうるのでしょうか?そのためにどのようにしたらよいのでしょうか?そのことを考えますと、不安で眠れないと思うかもしれません。しかしそのことをあまり考えない人にとっては、「そんなの来るはずがないよ」と思ってしまうかもしれません。しかしその時は来ます。本日の聖書箇所マタイによる福音書にはこのように書かれています。「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そしてすべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く」。皆さんはどう思われたでしょうか?羊も山羊も神様の創造ではあります。しかし人間の価値で言えば羊のほうがより良いものとされておりました。つまり私たちは、羊か山羊であり、神様に遣わされた羊飼いによってより分けられるのです。
関心事として、自分はどっちなのか?あの人は、ということかもしれません。人によっては、自分は何も悪いことはしていませんし、どんな人たちにも優しくしているから、わたしは確実に羊となり、山羊になる要素は全くないという人がいるかもしれません。しかしその最終的判断を下されるのが神様であるということです。更にこのように書かれております。「さぁ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちに用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えている時に食べさせ、のどが渇いていた時に飲ませ、旅をしていた時に宿を貸し、裸の時に着せ、病気の時に見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」しかし羊に選ばれた人は、自分がいつそのようにしたのかわからなかったのです。そこで王はこのように話しました。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」神様がわかりやすく神様らしい態度や言葉や格好をしているかと思えばそうではないのです。神様だからそうするのではなく、すべての人に神様の愛をもって接することができれば、神様は喜んで羊のグループにわたしたちを入れてくださるのです。一方で人によって態度を変える者は、どんなに良い業を重ねていてもたった一つのことで山羊のグループに入れられてしまうのです。つまり羊飼いがこの人は羊であの人は山羊と分けても最終判断をなさるのは神様ですから、直前まで羊か山羊かわからないわけであります。つまりどちらかになるかは私たちの心次第なのです。今世の中を席巻していますコロナウイルスも考え方次第ではないでしょうか?ある詩がありますのでご紹介いたします。作成者は、Vivienne.R.Reichという方です。
「汚染された地球の空気、わたしはあなたに呼吸の問題を与えました。地球が毎日弱っていくので、わたしはあなたに弱さを与えました。わたしはあなたの安らぎを奪いました。あなたが忘れている地球とその痛みそして私は世界を止めさせましたそして今…汚染物質を大気に出していないため、空はきれいになりました。あなたには自分の人生で、大切なものは何かを考える時間ができました。繰り返しますが、わたしはあなたを罰するためにここにいるわけではありません…私はあなたを、目覚めさせるためにここにいるのです。これが全て終わったら私は去ります。どうか、これらの瞬間を覚えておいてください。地球の声を聞いてください。中略 最後にコロナ・ウイルスよりという文章であります。この詩は、ある教会の牧師に教えていただいたものです。わたしたちの生活を脅かすものとして考えるのであればそれは恐怖と不安でしかありません。しかしそのことを神様が造られ、わたしたちに与えたとすれば、必ず意味があるのではないでしょうか?ですから神様の審判は最後まで分からないのです。最初から私たちに与えられた恵みをもう一度思い出してみてください。神様はどんなときにもわたしたちを愛してくださるのです。そしてどんなときにも私たちが神様の道に立ち帰るように待っておられるのを神様が期待してくださっているのです。ですから今時のある間に神様の愛を信じてまいりましょう。そうすれば、わたしたちは羊の群れに加わることができると思うのです。
2020年7月第3週 説教要旨
メッセージ 「キリストと共に生きる」
聖書箇所 ローマの信徒への手紙 6:1~11
人間の罪とは、何でしょうか?神様の恵みとは何でしょうか?この二つの問いに皆さんならどうこたえるでしょうか?そもそも罪とは何でしょうか?何か盗んだり、人をだましたり、暴力や権力によって相手を傷つける行為等刑法に該当する件だけが罪という概念ではありません。むしろ、そんなことはやったこともありません。という方のほうが圧倒的に多いのではないでしょうか?「普通ですよ。と大抵の人は思うでしょう。しかし聖書での罪の言及はそうではないということを皆さんにお伝えしておきます。
そもそも聖書が書かれてある罪とは、この世的な考えを持っていれば、それは罪になるのです。その意味は、この世で生活している限り、お金を稼がなければなりません。またいろいろな職業に就くためには、資格が必要です。また家族サービスもしなければなりません。日々の家事もあります。そのような状況下では自分の生活で精一杯と思われる方も多いのではないでしょうか?それが一般的な考え方ではないでしょうか?わたしも決して普通に生活すること、働くことや家事を否定しているわけではありません。むしろそのことを一生懸命行うことは素晴らしいとさえ感じています。しかしメインになってはいけないということであります。仕事をするにも家事をするにしても、お金を稼ぐにしても、とにかく何をするにしても絶対なければならない必要なものは存在するわけです。例えば、病院があっても医者や看護婦、医療事務が不足していれば、成り立ちません。教師がいても教える生徒がいなければ先生にはなれません。では、わたしたちの生活はどうでしょうか?買い物をするには店が必要ですし、お金も必要です。トイレも水だけでなく、ポンプを動かす電気がなければ機能はしません。食べるに至っては、もちろん全ての食材を収穫したり猟師のように動物を捕獲し、ワイルドに生で食べる人は必要ないかもしれませんが、おいしく食べようとすれば、調味料や調理器具は勿論のことその食材や調味料を使い器具を使う人がいなければ出来ません。ですが、そのことを考えたとき、わたしたちは本当に大切なものがなんであるかに気づくのです。それはすべて必要なものは、神様が与えてくださることに気づくのです。
そのことに気づけば、神様を信頼し、必ず神様は与えてくださると信じることができるのですが、いかんせん人間は時間が限られておりますから、内心『まだなの。まだなの』とハラハラしてしまいます。そうしますとそれが不安になり、やがては、神様から離れてしまう訳であります。そのような歴史を人間は繰り返してきました。どんなに神様を信じますよと言っていても神様と逆の方向を見てしまうのです。つまり目先の利益を求めて。しかし、本日の聖書ではこのようなことが書かれています。では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。つまり神様に出会って、良いものを知ったのに、なぜ悪いものに目を向けていくのでしょうか?そこが人間の弱さなのかもしれません。しかし、神様はイエス様に十字架を示されました。その十字架によってわたしたちに愛を示されたのです。つまり私たちはすでにその十字架によって、自分の肉体からなる欲望を一緒に十字架につけたのです。わたしたちは神様に生きる者となりました。しかしこの世で生きる限りは、様々な誘惑があります。様々な試練があります。しかし恐れることはないのです。神様が共におられます。イエス様が導いてくださるのです。
2020年7月第2週 説教要旨
メッセージ 「準備された善い業」
聖書箇所 エフェソの信徒への手紙2:1~10
わたしたちは、人との関係を保つとき、ある程度の距離を取ることができます。今言われています3密を防ぐという意味においては大事なことかもしれません。ソーシャル・ディスタンスという形で距離を保つことによって相手との感覚をあけるということは非常にストレスを大幅に軽減できるかもしれません。車社会でも同じです。ある程度車間距離を取らないと不用意なことが起きた時、車は急に止まれないものです。もちろん日々の手入れは重要ですが、時速50キロで走っていても、すぐには止まりません。ですから、人間関係も、社会も、自動車もある程度の距離は必要です。しかし、神様との関係はどうでしょうか?昔神様と交流できたのは限られた一部の人でした。それは預言者であり、司祭など神様に仕える者であります。普通の人は、その予言者や祭司の発する言葉(もちろん間にもっと入ったかもしれませんが。)ダイレクトにはわたしたちに届きませんでした。ですから、言葉の取り違いもあったのかもしれません。もしも祭司や預言者が「神様がこう言った」と言えば、そのことを信じるしかないのです。そのことを確かめる術もありません。ですから、神様の言葉は大切に扱わなければならないのです。ですから、知らず知らずのうちに神様から離されてしまうということが起きてしまうのです。
一方で現代ではどうでしょうか?わたしたちには神様の言葉が書かれた聖書を誰でも持つことができます。誰でもいつでも開くことができます。目で見れますし、耳で感じることもできるのです。つまり礼拝で神様のメッセージを聞くことができるのは、幸せです。しかし、「牧師がこう話してくれたから絶対こうなんだ」とあまり考えないでほしいのです。牧師も人間であり、神様ではありませんので、間違うことだってあります。昔はそれこそ、それしかなかったわけですから、判断もあまりできなかったのです。今はより高度に神様の言葉を聞けるようになったのも事実です。しかし一人々が良き判断をしていかなければ、サタンに飲み込まれてしまいます。昔は、神様と人間の間には悪い霊がいるとされておりました。ですから、神様との仲介者は大変です。良い方向にも悪い方向にも導く可能性があるのです。
でも神様はちゃんとわたしたちが悪の道に陥りそうなのはわかっておりました。ですから、神様は私たちのもとにイエス様を送ってくださったのです。なぜなら神様は私たちを宝物としてくださっているのです。なぜこんなにも大事にしてくださっているかというと私たちを心から愛してくださっているからなのです。大好きだから神様と同じ似姿に創造してくださいました。好きだからこそ、イエス様を遣わしてくださいました。愛してくださったからこそ、一番大事なイエス様をわたしたちに与えてくださったのです。そして私たち人間が必要だからこそイエス様を十字架につけられたのです。このように愛をもってわたしたちを養ってくださっているのです。ですからそのためにわたしたちは今命をいただいていることに感謝いたしましょう。
わたしたちは神様の愛によって、生かされているのです。わたしたちがその愛を感じたとき良い業を行って生きましょう。しかしただ良い業を行えばいいという訳ではありません。神様に準備された善い業を行っていく必要があるのです。その事前に準備された善い業とは、先ほどから何度も言わせていただいておりますが、神様が用意されたものは唯一、愛です。その神様の愛を行わなければ、良いことも自分の名声のために行うのであれば、その思いは泡となって消えていくことでしょう。わたしたち一人一人は神様に愛されている存在です。一人一人ができるはずです。神様の愛を実践し、聞き従うことを、それが神様に示された善い業なのです。
2020年7月 第1週 主日礼拝 説教要旨
メッセージタイトル 「同じ約束にあずかる者」
聖書箇所 エフェソの信徒への手紙3:1~13
使徒パウロは、自分のことを何て表現しているでしょうか?本日の聖書にはこのように記されています。こういうわけで、あなたがた異邦人のために、キリスト・イエスの囚人となっているわたしパウロは…。この手紙が書かれた状況はローマの牢に入っていました。ですから正確に言い換えるならば、ローマの支配下の牢に入れられているというのが体の事実です。しかしそれはあくまでも体と現実です。しかしパウロの心の思いは、聖書に書いてある通りだと思うのです。もしパウロが神様に出会わなければ、牢には入らなかったかもしれません。しかし神様に出会ったので牢に入りました。それはこの世的には、捕まったという事実です。しかしパウロはこの世的には考えず、その捕まったことも神様の計画であるという考えなのです。ですから、その牢にいる中では、自分の命が守られ、牢に面会に来る者に神様の御言葉を伝え、その言葉を聞いた人たちがその言葉を伝えていきました。そのように、パウロがその場所に行かずとも神様の言葉が広がっていくわけであります。
その言葉は、神様を知らない人たちの耳に入るわけであります。神様が与えてくださるその言葉に多くの愛が含まれているのです。つまりその神様の愛に触れることが出来たのなら、神様を知らない人たちが聞いたら、どうでしょうか?きっと気持ちがうれしい気持ちで溢れるでしょう?わたしたちもそうです。「神様に愛されている」という自覚が与えられるということがどれだけわたしたちを救ってくださるでしょうか?社会的に地位も力もお金もなく乏しいわたしたちを神様は愛しておられるのです。わたしたちを救ってくださるのです。そのためにパウロを神様は遣わされたのでした。また、わたしたちもパウロと同様に神様に選ばれた最たる者なのです。小さき者の中で最も小さなものなのです。しかし、その最も小さなわたしたちが神様の愛を語り、実践していけば、その声は大きくなっていくのです。そして神様の愛は広がっていくのです。恐れず神様を信じていきましょう。わたしたちが世に生きる時に必ずわたしたちを導いてくださるのです。わたしたちが困っている時には手を差し伸べ、わたしたちが傲慢な思いを持つときには、そのことを悔い改めるきっかけを必ず与えてくださるのです。その力はいつまでも継続し、わたしたちが世での生活を終えた後も未来の子供たちへと受け継がれていくものであると信じて歩んで行きましょう。
2020年6月 第4週 主日礼拝 説教要旨
メッセージ:「後ろを顧みる者は」
聖書: ルカによる福音書9:57~62
皆さんは、自分の人生を顧みた時にどのように今の歩みをなされてきたでしょうか。試行錯誤しながら、色んなことを経験し、今を生きているのではないでしょうか? そのように歩まれてきた人生でありますが、何を持って決断したでしょうか?何が決め手になったのでしょうか?自分の人生を思い起こしてみてください。
わたしは今牧師をしておりますが、特に神様から召命感を受けたという特別な思いはありませんでした。むしろ興味があるといったことのほうがしっくりくるかもしれません。そんな思いで入学試験を受けましたので、まさか受かるとは思いませんでした。その時の面接の事をよく覚えています。面接の際、「あなたは神様にどんな召しを示されましたか?と教授に聞かれて私が答えたのが「今は、わかりません。しかし入学したら与えられるかもしれませんし、与えられないかもしれません。」と素直に答えました。その答えに顔をしかめる方もうなずく方もおられました。合格した際、「えっ、なんで受かったの?」しかしそこにも神様の計画が働かれるのです。今まで牧師にはならないと思っていたのにその道を開かれたのでした。しかし神学校に行ったからと言って、授業をまじめに受け、ノートをしっかりと整理していたわけではありません。むしろ、反対に学校にあまり行かない、レポートもぎりぎりまで出さないという生活をしておりました。つまり牧師になるという召命感も得られないままに2年、3年と過ごしてまいりました。その時に示されましたのは、奉仕教会である人に出会ったことによって自分の心に変化が起きたのです。神様がその人を遣わしてくださったのかもしれません。その人の出会いによって自分のできることを神様が望んでいる。神様に従って生きましょう。そのように思えたのです。しかしそのように思うことはできても、人間すぐには変われないので、すぐに怠け癖が出てしまうのです。
それでも何とか卒業し、牧師として活動している時に、任地先で大きな地震が起こりました。その時「あーだめだ。終わった」と悲観的な思いを捨て、何とか希望をもってやりましょうと思っておりましたが、なかなか自分を奮い立たすことができませんでした。そこで、私が思ったのは、神様が私を呼んでくださったのだから、それに応えてみよう。もし違っていたなら、神様がそのことを示してくださるだろう。そのように思うと、力んでいた肩の力がすっと抜けたような気がいたしました。
本日の聖書で私たちにこのように書かれています。イエス様と弟子たちが歩いていると、ある人が「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従ってまいります。」そのように話すと「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」とイエス様が申されました。その意味とは狐にも鳥も体を休める場が与えられるが、神の業を行う人の子には体が休める場所もなければ、時間もないのです。そのように言われますと途端に人間は様々な理由をもって断ろうとするのです。父を葬らせてください、家族にいとまごいをさせてくださいなど理由を考えるのです。しかしイエス様はその理由よりも「まず私に従いなさい。」とおっしゃたのです。そして最後にこうも言われました。『鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない』と。その言葉でわたしたちも示されているのではないでしょうか?私たちは優柔不断です。しかしとことん信じてみることこそがイエス様が私たちに伝えようとしていることなのではないかと。まず私たちは神様を信じ従ってまいりましょう。どんなことも神様がいれば乗り越えられ、力を得ることができるのです。
2020年6月 第3週 主日礼拝 説教要旨
メッセージ:「自分の満足を求めず」
聖書: ローマの信徒への手紙 15:1~6
自分はこの社会でどんな存在でしょうか?強い、弱いという基準は何でしょうか?例えば、お金をたくさん持っていることが強いのでしょうか?力が強ければよいというものでもありません。たくさん勉強して賢くなることが強いということでしょうか?この世的な基準ではそれで通用するかもしれませんが、しかし、パウロが語っている強さはそうではないのです。人間はいかに脆く、弱い存在であるかをパウロは自覚しておりました。パウロが常に言っていることは、「自分は弱い存在であるということです。
ではなぜここでは強い存在と言っているのでしょうか?それは、自分は弱いがその弱さ故に委ねるものがあるというのです。それが神様という存在であります。誰も神様に匹敵する存在はいません。しかし神様という存在を知っていれば、どんな時もどんな事にも恐れることはないのです。ですが、もし神様という存在を知らなければ、どうでしょう?様々なことが不安でしょうがないのではないのでしょうか?どんなに勉強をしても、わたしたちが知らないことは多くあります。どんなにお金を稼いでも、自分をだます者もいれば、盗む者も出てくるでしょう。ハードなトレーニングをして、強靭な肉体を作ろうとも、わたしたちは弱くて小さな目に見えないウイルスに負けてしまう者なのです。だからこそ、神様という存在を知っているものは強いということになるのです。
さて、本日の聖書を読みますと、「キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした。『あなたを知る者のそしりが、わたしにふりかかった』」と書かれています。その真意は自分のための満足ではなく、他人のために神様の満足のために働くということであります。なぜ神様のために働かなくてはならないかというと、神様は私たちを救うために耐え忍んでおられるのです。しかし人間は、その都度神様を悲しませてしまう生き物なのかもしれません。創世記の物語に「ノアの洪水」という話があります。人間を創造してくださった神様は人間の様子を見ておりました。その有様は悪い心が入ってきて、悪い心の人間で溢れておりました。唯一ノアの家族だけは、神様を信頼し、祈りをして友好関係を築いていました。ある時、神様はノアに語り掛け「船を造りなさい」と命じました。ノアは純粋無垢に神様のことを聞き、馬鹿にされようが大きな船を造り続けました。そして出来上がり、ノアの家族、あらゆる動物を乗せ終えると神様は40日間雨を降らせて全てを水で覆い、新たな時代の始まりを示したのです。そしてその時、神様は「2度と人間を大水によって滅ぼさない」と約束をされました。その約束のしるしとして虹をわたしたちに示されたのです。
この約束によってもわかるように神様は人間のことを待っておられるのです。今も忍耐しておられるのです。いつか心を入れ替えてくれるだろう、いつかお金よりも愛が大事であることに気づいてくれるだろう。いつか神様の愛を信頼し、武器という武装を解除してくれるであろうと思っておられるのです。わたしたちも自分のことばかり考えず、相手のことを考えてみましょう。そこにきっと神様の愛が生まれます。姿を現すことでしょうその愛は忍耐が必要です。自分の考えで判断しないようにしましょう。相手のことを考えて、自分のペースで行わないように気をつけましょう。相手の考え方から学ぶ謙虚な姿勢を身につけましょう。わたしたちが愛の実践をすることは大事なことです。愛を知っているわたしたちから忍耐と慰めの心をもって、神様と隣人に仕えたいものです。
2020年6月 第2週 主日礼拝 説教要旨
聖書: エフェソの信徒への手紙 5章1~5節
タイトル:「何によって歩むのか」
わたしたちは神様に愛されている、ということをどれだけの人が知っているでしょうか?そしてどれだけの人が理解しているでしょうか?神様を知る人も少ないのではないでしょうか。神様という存在を否定する人も中に入るでしょう。この地球上にはさまざまな人種、様々な生き物によって構成されております。最近、テレビやインターネットでは、動物の動画を流す番組が多いように思えます。わたしも大好きですからついついチャンネルを合わせて見てしまいます。本当にその番組を見ているだけで癒されます。しかし興味のない人にとってはあまり意味のないものになってしまうのです。それはどんなことでも共通しているのではないでしょうか?人間誰にでも好みはあります。好き嫌いで物事を判断するわけではありませんが、興味のあるものについてはもっと知りたい、もっと見たいと興味が抱くのではないでしょうか?反対に興味のない人は、どうでもいいと思うことも多いのではないでしょうか?全ての人が同じものに興味を示し、同じ様なものに執着いたしません。
なぜこのようなことをお話したかと申しますと、動物のかわいい画像を見たいと思う背景には、様々な不安を抱え、そのことにストレスを感じていて、癒されたいということも一つ上げられるでしょう。もう一つは、かわいいという感情は愛の表現ではないかと思うのです。自分も愛されたいという気持ちがあるのではないでしょうか?人間好きなものに触れている時、リラックスすることができるかもしれません。逆に嫌いなものを触っている時はどうでしょう。「いやだ」という感情が溢れてくるのではないでしょうか?嫌いという感情ほどストレスをためる原因はないと思います。神様との関係もそうです。宗教という概念で聖書を読めば、自分には関係がないと聖書を閉じてしまうのです。しかし聖書は神様の言葉つまり私たちに対する愛の表現であるととらえることができれば、神様がどれほどわたしたちを愛してくださるかを知ることができるのです。
しかし愛というものは、自分が良かれと思ってやっている事が必ずしも相手が良いと感じることが出来ないものです。どんなに素晴らしい行いであっても、同じ時間に同じ様に行っていることでさえ、ストレスを感じてしまうかもしれないのです。ですから、その都度相手がどのように感じるかを考えていかなければならないと思うのです。自分ではなく、相手がどのように考えるのも愛の一つではないでしょうか?もしもそのことでストレスを感じるのであれば、あらかじめ相手に伝えておくことも必要です。それも愛の表現の一つです。しかし自分の考えだけでうまくいきません。それは他人とのずれも考えていかなければならないということです。自分だけという考え方は、私たちは捨てなければならないと思います。
しかし神様の前では、私たちはすべてをさらけ出すことを赦されているのです。なぜでしょう。それは私たちを愛してくださっているからです。神様の恵みは良い人にも悪い人にも同じように恵みの雨を降らせてくださる方なのです。わたしたちは社会的には一部でしかありません。ですから周囲に合わせていかなければならないこともあるでしょう。しかし神様の前では一つ一つ一人一人なのです。どれもが大切であり、誰もが神様に愛されている存在なのです。ですから、私たちは互いに競い合い、憎み合うのではなく、愛によって歩んでいきましょう。愛を実践するためには、まずどんなことにも感謝することから始まるのです。そこから私たちは始めてみたいと思います。まずありがとうの気持ちをもって日々過ごしていきましょう。
2020年6月 第1週 主日礼拝 説教要旨
聖書: マタイによる福音書 24:3~15
メッセージ: 「耐え忍ぶ者は」
本日与えられた聖書の箇所には、イエス様が神殿の崩壊を告げた後に、弟子たちがイエス様に近づいてひそかに「そのことはいつ起こるのか」と尋ねました。イエス様はお話になったのです。「人に惑わされないように気をつけなさい。」私たちは兎角人に左右されやすいものです。地震が多くなったり、生活が厳しくなったり、色々な噂を聞く度に怯え、不安を募らせやすいものだと思います。自分もあらゆることで不安を覚えることがあります。
しかし最終的にどうするかを判断する基準を持っているのと持っていないのでは、大きな違いがあります。わたしは、どんなに悩んでも最終的には祈って行うようにしています。つまりどうすべきかを神様の判断に任せていきましょうということなのです。わたしは神様ではありませんから、万能ではありません。間違いも起こすし、失敗もします。なるべく失敗しないようにミスがないように気を付けますが、どんなに気を付けていてもミスがあります。ですから人に「あーしたら」「こうしたら」「そうじゃない」と色々言われますと失敗する原因となります。「ほら、あなたに従ったから失敗してしまったじゃないか」と責任を擦り付ける原因にもなりかねません。その時の心は、どうでしょうか?人に罪を擦り付けてしまう時、心が冷たくなっていないでしょうか?自分中心の考え方は、惨事を招くのです。
イエス様は、戦争というのは起こるに決まっている。つまり人間の愚かさはわかっていらっしゃるのでした。人の心が冷え切るときこそ、世の終わりが近づいているということであります。そのようなときこそ、私たちは忍耐しなければならないのです。耐え忍ばなければならないのです。どんなに愛しても理解してもらえない時もあります。どんなに頑張っても報われないこともあります。しかし神様は私たちに御言葉を与え続けてくださっているのです。つまり希望の言葉が全世界、全ての人に伝わるまでは終わりの時はきません。しかしその時は、もう近づいているのです。人々が御言葉に耳を傾ける時が迫っているのです。わたしたちも忍耐をもって、神様の愛を全うしていきたいと思います。全ての人に御言葉がいきわたり、全ての人が神様の愛に満たされるまで耐え忍んで主の道を歩んでいきたいと思います。
ゴスペル賛美礼拝
説教要旨
聖書 「ヨハネによる福音書3:5~8」
本日は、生まれ変わるということについて、皆さんと考えていきたいと思います。
イエス様のもとにファリサイ派のニコデモという人が夜訪問します。なぜ夜訪ねたかと申しますと、色々なことが考えられます。一つは誰にも知られたくなかったかもしれません。もしくは、昼に聞いたことをもっと詳しく聞きたいなど、考えられますが、イエス様と話をしてみたい、聞いてみたいと単純なものだったかもしれません。いずれにせよイエス様に会いたかったのです。会って話したかったのです。わたしたちもそうですよね。神様に会いたい、自分の話を聞いてほしいという気持ちになると思います。
意を決してイエス様に会いに来ました。そしてイエス様と話をしていていく内にこんな話を聞いたのです。「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることができない」その言葉にニコデモは「もう一度体内に入って生まれることができるでしょうか?」そのように答えました。イエス様の言葉はそのようなことを言っているのではありませんでした。肉のままではなく、霊の体に生まれ変わる必要を伝えているのでした。このままの肉体に執着しても、やがて肉なる体は朽ち果てていくのです。神様の国に入るための条件が今の体を捨て去る必要があるのです。わたしたちが今の肉体に決別する時、神様の新しい体を受け取ることができるのです。わたしたちは日々新しくされております。もう1分前の自分に戻ることはできないのです。今も日々更新しているわたしたちです。ですから何も臆する必要はないのです。神様の業は、私たちを愛してくださるのです。ですから私たちが神様を求めていく姿はもとからある神様に立ち帰り、戻るだけなのです。わたしたちの体はすでにこの世のものではなく、すべに神様の体をそして心が与えられているのです。神様はどんな人にも新しい愛と恵みを与えてくださるのです。
2020年5月 第5週 主日礼拝 説教要旨
聖書: 使徒言行録 2:1~13
タイトル: 「霊に満たされて」
私たちの周りは神様の愛で満ちています。それはどんな時にも与えられております。しかし本日のところにおきまして、改めて霊が私たちに注がれておりますことを使徒言行録2章1~4節にこう書かれております。5旬祭の日が来て、一同が一つになっていますと、突然、激しい風が吹いて来るような音が聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして火のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。そのことを皆さんは信じることができるでしょうか?そんなのは嘘だよと思うかもしれません。もちろん私も炎のような舌が別れ別れに一人一人のとどまったなんて見たことがありませんから、漫画のようにオーラが見えれば、それはすごいなとも思います。でも、そのことが見えなくとも神様の聖霊は私たちにも注がれているのです。その霊に導かれて弟子たちは神様のことをいろんな言葉で語らせるのです。それはしゃべったこともないような言語を使うようになるのです。その言葉は不思議であらゆる国の人が、神様のことを自分の母国語で聞くこととなるのです。誰でも自分が慣れ親しんだ言葉で神様のことを聞くことは、より深く理解することができます。
しかしどんなに自分たちの母国語で聞いたからと言って、今まで本当の神様のことを聞いたことのなかった人が心から理解することはできません。つまりその語られる言葉はきっかけとして、まず聞くことから始まるのです。私たちもわかったふりをするのは、得意ですが、実際に受け入れることがどれほど難しいことか理解しています。ガラテヤの信徒への手紙5章22~23節にこのように書かれています。これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、寛容、親切、善意、誠実、柔和ですと書かれています。つまり私たちも神様に愛されているのです。これこそが霊であります。霊と愛は、神様から私たちに与えられたプレゼントです。
2020年5月31日 ゴスペル賛美礼拝メッセージ
聖書:マタイによる福音書11:28~30
タイトル:「益子教会においで」
今の世の中、どの人も少なからず、ストレスを感じているのではないかと思います。日々そのストレスをためていけば、やがて爆発するかもしれません。そのストレスの矛先は、必ず弱い者に向けられていくのかもしれません。しかしそのストレスをその弱い人に向けていくとさらに自分よりも弱い人間へ弱い人間へと力が働くものです。つまり一番弱い者に被害を及ぼすのです。しかしそんなことでいいのでしょうか?
社会の息苦しさは今に始まったことではありませんが、今その苦しみを受けている方はどうすればよいでしょうか?そのことを皆さんと考えたいと思います。ストレスはどこから出てくるのでしょうか?自分でしょうか?環境でしょうか?社会でしょうか?どれも思い当たるし、思い当たらないような気がいたします。しかしそのストレスの源を探ってみますと、窮屈という言葉がしっくりくるのではないでしょうか?どうですか?皆さん足を延ばせているでしょうか?手を伸ばせているでしょうか?新鮮な空気の入れ替えはできていますか?自分の苦しみを吐き出せるところはありますか?
もしなければ、教会に来てください。教会は、神様の愛に満ちております。神様の愛を実践しようとしている場所であります。しかし時には、人を裁くことをしてしまうかもしれません。あなたを傷つけてしまうかもしれません。教会では、なるべく人を見ないようにしてください。ただ神様を見つめ、自分を癒すことに専念してください。歌いに来るもよし、何もしないでボーとするもよし、牧師を捕まえて、自分のしんどいことや家庭や社会の愚痴をこぼすのもよし、教会はそんなところです。わたしたちはストレスをすべて吸い取り、0にすることはできません。しかしそのストレスが1%でも軽減されたら、御の字です。この世で生きるためには、ストレスとともに歩んでいかなければならないのです。そのストレスは人間ではどうしようもないかもしれませんが、神様なら解決してくださるのです。こんな私でも神様は愛してくださるのです。それは今日の御言葉で記されているように、疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのところにきなさい。休ませてあげよう。そのように書かれております。どうぞ益子教会をお尋ねください。
2020年5月 第4主日礼拝 説教要旨
聖書:コロサイの信徒への手紙 3:12~17
タイトル:「愛はすべてを完成させるきずなです」
本日の箇所コロサイの信徒への手紙3章12節にあなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐みの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさないと書かれています。今の世の中で、足りないものがあります。それは、わたしたちが自分中心の考え方を持って歩んでいるかもしれないのです。自分さえ良ければという考え方では、時に大きな事につながるかもしれないのです。そこで本日の御言葉に耳を傾けてみたいのです。神様はまずわたしたちを愛してくださったのです。その愛は、ヨハネによる福音書によれば、御子イエスをくださったほどに世を愛されたと書かれています。その大きな愛は、イエス様の十字架の死によって、わたしたちの罪を担ってくださったのです。そして神様との和解によってわたしたちを聖なる者とし、選ばれたのです。だからこそ私たちは神様の道を歩んで行かなければならないのです。神様と同じように人々に対して愛をもって接する気持ちが必要となるのです。つまり私たちの言葉や行動に愛を付け加えていくことによって、全ての業が完成するのです。
また、神様はわたしたちに神様の平和を与えようとしているのです。人間の平和ではなく、神様の平和です。人間のように武力による、圧力による平和ではなく、そのすべてから解放される平和であるのです。その平和に与るためにも私たちは日々神様に感謝していきましょう。神様の恵みを受けて神様の言葉を語り、いつも神様が心に宿るようにいたしましょう。それこそ神様が望んでおられることなのです。
5月24日(日)3:00PM ゴスペル賛美礼拝 メッセージ
聖書: エフェソの信徒への手紙 5章1~2節
タイトル:「神様に倣う者となりなさい」
わたしたちは、神様に愛されている子供ですから神様に倣う者になりなさい。と聖書では書かれています。皆さんは誰かに愛されていますか?その愛を感じていますか?自分は誰にも愛されていないのではないかと感じたことはありませんか?愛は見えないので時折不安になることでしょう。しかし結論から言えば神様はその一人一人を愛されています。誰もが神様に愛されているのです。なぜならイエス様をわたしたちにお与えになったのですから。ですから、手本にすることができるのです。もしも愛を知らない人がいたら、皆さんはどういった行動に移すことができるでしょうか?急に近づいて抱きしめると警察を呼ばれてしまいますので気を付けてください。じゃあどうしましょうか?まずは、憐みに思うことです。その人に自分に何ができることを模索する必要があります。しかし何もできないのが現実であります。そのような時に、一言「神様、困っている人がいます。助けてください。」と祈る時、何をすべきか、神様が示してくださることでしょう。わたしたちがそう言っている間に祈りをしている時に神様は良い方向を示してくださるのです。イエス様なら何をするのでしょうか?何を神様に示されるか分かりません。しかしそこには神様の愛に働こうとする香りに包まれることでしょう。その香りをかぎ分けて、良い業を行っていきましょう。
2020年5月 第3主日礼拝 説教要旨
タイトル: 「キリストにおいて満たされている」
聖書: コロサイの信徒への手紙 2:6~15
わたしたちは日々の生活の中で何によって満たされていくでしょうか?仕事でしょうか?恋愛でしょうか?お金でしょうか?社会的地位でしょうか?すべて兼ね備えている人は、どれぐらいいるのでしょうか?でも実際にすべてのものが与えられているとしても、人間は欲深い生き物でありますから、もっともっとという欲求を持っています。しかし、どれも壊されたり、失ったり妬まれたり、するものばかりです。ですから、持っていても、永続的に満たされるわけではありません。どこかに不安を覚えてしまいます。今、いろいろな不安がある中で、わたしたちがなにをすれば、わたしたちはその不安を解消されるでしょうか?またその不安はどこから来るのでしょうか?不安な思いは、いろいろな要素があります。一つは、周りからの圧力です。様々なことに指摘を受け、そうでなければならないという観念を押し付けられる時、人は、息苦しさを覚えます。その言葉や行動を力に変換できる人もいれば、そうできない人もおります。大抵の人は、ストレスを感じてしまうのではないでしょうか?そういった圧力は、現代の大きな問題です。
しかしそのことを解消できる方法があるのです。それは、認めてもらうということなのです。愛してもらうことなのです。ストレスフリーにはなかなか出来ないかもしれません。それはこの世に生きている限り、ストレスは次から次へと襲ってきます。しかし神様はわたしたちを認めてくださるのです。そしてわたしたちを愛してくださっているのです。そのことを理解して受け入れた時に人は満たされていくのではないでしょうか?その神様の愛は、変わることなくいつも注がれているのです。その愛に気付くことができる私たちは幸せです。しかし愛されているといわれても実感がない方もいるでしょう。しかしやがて気づくのです。自分は神様に愛されているのだと、そのことに気付いた時、キリストによって、心は満たされてくるのです。
2020年5月 第2主日礼拝 説教要旨
タイトル:『イエスを思い起こしなさい』
聖書: Ⅱテモテへの手紙 2:1~13
パウロは同業者であるテモテへ手紙を送り、3つの例を用いてキリスト者としての歩むべき道を伝えています。一つは兵士、一つは競技者、そして農夫という形で表しています。パウロは度々兵士という言葉を用いますが、その当時兵士は、王に忠実に従う者として、どんな苦難に対しても忠実に乗り越えていく象徴としてとらえておりました。また、競技者は自分を鍛錬して鍛えていくことにあります。そして農夫は、苦難の成果として、収穫の恵みに一番に触れることであります。つまりキリスト者の生活は、忠実にキリストに従い、日々の御言葉によって自分自身を鍛えていき、様々な苦難が与えられているがその先には、神様の恵みが与えられるということであります。その恵みの御業は神様をより知るためであるし、神様をより近くに感じるためなのです。もしもわたしたちが自分の人生に神様という存在がなければどうなってしまうでしょうか?傲慢になり、自分が正しいと驕り高ぶってしまうのではないでしょうか?逆の考え方もあります。様々な不安が襲い、心の安定を得ることが難しくなってしまうかもしれません。しかし、神様の存在は、わたしたちを正しい道に導くのです。そして不安な気持ちを取り除くのです。わたしたちがこの世で歩む上で不可欠なのがこの主なる神様です。もちろんその存在に気付くことができれば、幸いなことでしょう。しかし全ての人がそうではないのです。むしろ知らない人も大勢いるのです。わたしたちが使徒パウロに教えられたのは、兵士のように忠実で、競技者のように御言葉に鍛錬し、苦難の中にあっても希望を失わないで進むことなのです。わたしたちがどれだけできるか、その度合いを神様が望んでいるのではありません。自分の心を少しでも神様に向けることさえすれば、神様は答えてくださるのです。なぜなら神様は誠実であり、神様は自分をとがめることがないからです。
2020年5月3日 第一主日礼拝 説教要旨
タイトル:「神との和解」
聖書: Ⅱコリントの信徒への手紙 5章16~21節
人間同士が和解しようとする時、いろいろな方法を用います。しかしうまくいく場合と失敗してしまう場合があるのです。それはなぜでしょうか?それはすべての人に当てはまる訳ではありませんが、こうしてほしいという願望があるのかもしれません。その条件に満たないと失敗してしまうかもしれないのです。もしも相手側にうまく伝わらなかったらどうでしょうか?相手は、和解する気持ちにはなれないでしょう。もっと条件を厳しくするかもしれません。しかしどんなに話し合いの場に立ったとしても、自分が優位に立ちたいと思うのであれば、うまくいくものもうまくいかなくなってしまう恐れがあるのです。つまり相手の出す条件に見合った形、つまり誠意を見せなければならないのです。
しかし神様との和解には、何の条件もないのです。ただただ神様がわたしたちのためにイエス様を送ってくださいました。そのイエス様がわたしたちの代わりに、十字架につけられ、神様との和解を得ることが出来たのです。このイエス様が神様との和解の唯一の鍵となるのです。わたしたちがどんなに努力して、神様との距離を縮めようとも和解することはできません。なぜなら人間は、自分の思うように生き、言うことを聞かないからです。しかし神様は忍耐してわたしたちが神様を信じ、神様に罪を告白するのを待っておられました。そして和解の対象とさせていただいたのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じたと聖書で書かれております。わたしたちは神様に日々新たにされています。もう5分前、30秒前に戻ることはできないのです。わたしたちは神様との和解をさせていただいたのですから、神様の恵みを知らない人にも私たちは神様との和解を得たことを伝えていきましょう。そして私たちは和解を得ているという自覚を持って共に歩んで行きたいと思います。
2020年4月26日 説教要旨
タイトル: 「羊が命を受けるために」
聖書箇所: ヨハネによる福音書10章7~18節
イエス様がわたしたちのところに来られたのは。羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためと聖書で書かれております。わたしたちは神様から多くの恵みを受けております。その中でどれほどの人がその恵みに気付いているでしょうか?わたしたちの中には、わたしたちを神様から切り離し、悪の歩みに誘う者もおります。しかし、わたしたちは、主の門を通らなければ牧草地に行くことができないのです。神様の恵みはそこにあるのです。しかし多くの方が惑わされてしまうのです。そのためには良い羊飼いが必要です。
良い羊飼いとは、イエス様です。なぜ良い羊飼いなのでしょうか?それはわたしたちを正しい道つまり神様への道に導かれるからです。次に、わたしたちを慰めてくださる方なのです。そして最後にわたしたちのために命を捨ててくださるからです。悪い羊飼いもしくは雇われている羊飼いはどうでしょうか?危険が迫ると自分の命を大切にするのではないでしょうか?今の社会構造もそうです。お金を儲けることができる状態の時は、やさしく親身になってくれます。しかし、困難な状況になった時には、切り離してしまわないでしょうか?もしも命が大切ならば、そのようなことはしないでしょう。
しかしわたしたちも同じかもしれないのです。どんなにやさしい人であっても困難な状況がきます。人間には限界があります。もしかしたら助けることも、優しくすることも出来ないかもしれないのです。そのような状況になった時に、わたしたちは神様に願うのです「神様助けてください。」神様に出来ない事はないと信じるのです。その思いを受け取ってくださるのです。ですから私たちは、まず神様がイエス様を与えてくださったその思いを考えて歩んで行きたいと思います。
2020年4月19日 説教要旨 大下 正人牧師
聖書箇所:ヨハネによる福音書20章19~29節
メッセージタイトル:「聖霊を受けなさい」
弟子たちの前に復活したイエス様が現れました。それは時間を超越した神様の恵みなのです。そして自身の体の状況を弟子たちの前でお示しになり、こう言われるのです。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」そして息を吹きかけさらに言われました。「聖霊を受けなさい。あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦されなければ、赦されないまま残る」その言葉は、イエス様がこの世で行ってきたことを弟子たちにお与えになった瞬間でもありました。きっと大きな喜びに包まれたと思います。しかし弟子の一人トマスはその場にいませんでした。そのため弟子達が「イエス様に出会った」と言っても信じませんでしたがその1週間後再びイエス様は弟子たちのいるところに現れてくださりました。そこでこう言われたのです。「あなたがたに平和があるように」そしてトマスに「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。またあなたの手を伸ばしてわたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」この言葉は、ディディモ「双子」と言われるトマスの心に響くのです。信じないと言っていたトマスは、改めて「わたしの主、わたしの神よ」と告白します。そして最後にイエス様はこう話されるのです。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである。」この言葉はわたしたちにもイエス様は言われているのです。見ないで信じる人になっていきましょう。
2020年4月12日(日)説教要旨 大下 正人牧師
聖書箇所:ヨハネによる福音書20章1~18節
メッセージタイトル:「なぜ泣いているのか」
イースターの朝早く、マリアは墓を尋ねました。それはイエス様の体に油を塗るためです。墓に着いてみると入り口に置いてある大きな石が取りのけてあるのです。そのことを弟子二人にその状況を告げました。その様子を聞き、弟子たちが墓をのぞき込むと確かにイエス様の体がなかったのです。体をまとっていた布も脱ぎ捨てて、頭を巻いてあった布も別のところに脱ぎ捨てられたのです。その光景を見て、弟子たち二人は、マリアの言ったことが本当であったことを確認し、帰って行きました。しかし聖書のみことばである『イエスは必ず死者の中から復活されることになっている』という言葉を理解するまでには至りません。
一方でマリアはどうしていいかわからずにいると、二人の天使に「なぜ泣いているのか」と声をかけられます。そして2度目にはイエス様が同じように声をかけられ、『なぜ泣いているのか、誰を探しているのか』との問いに園丁だと勘違いし、イエス様と気づきませんでした。そして「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしがあの人を引き取ります」その返事に「マリア」とイエス様に声をかけられ、初めて気づくのです。そしてイエス様の体にすがりつきます。マリアのすがりつきたい思いを振り払うように「すがりつくのはよしなさい」とイエス様は言われた後に言葉を託されたのです。
「わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへ私は上る」つまりイエス様の復活の完結は、天に上り神様のもとに行かれることであるのです。わたしたちは一時の喜びに浸るのではなく、神様の業の素晴らしさとともに神様の業がなんであるかを理解しなければならないのです。復活は、死に打ち勝つ第一歩なのです。この喜びとともにわたしたちも新たな一歩を歩み始めましょう。
2020年4月5日(日)説教要旨 大下 正人牧師
聖書箇所:ルカによる福音書23章39~43節
メッセージタイトル:「私を思い出してください」
ルカによる福音書23章39~43節の十字架上で話された罪人との対話から、イエス様と一緒にいることがわたしたちの人生においてどれほど影響があるかを考えたいと思います。イエス様と同じように十字架にかかった人が二人おりました。その内の一人が「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」とののしります。それを聞いたもう一人の人がたしなめて「お前は神を恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかしこの方は何も悪いことをしていない。と言った後で自分の願いを告げます。「あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。
その言葉にイエス様は、宣言いたします。「はっきり言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」その言葉は、どれだけ一緒に十字架にかけられた人が慰められ、勇気づけられたことでしょう。神様は喜びの時も、苦しみの時もわたしたちの事を愛していてくださり、共におられるのです。その宣言を受けた時、十字架での痛みや苦しみも和らいだのかもしれません。しかしどんな人生の場面においても神様が共におられるということは、楽園にいるということなのです。それは私たちの人生も神様が共に歩むのなら楽園に変わっていくのです。