旧約聖書の学び(木曜聖書に親しむ会)

益子教会では木曜日の午前に、「聖書に親しむ会」を開催し、旧約聖書を創世記から順に学んでいます。その学びの概要を分かち合わせて頂きます。  伝道師 大下 陽子

〇1月16日(木) 創世記12章 すべての諸族に対する祝福の媒介者:アブラハム

 「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。」ヘブライ人への手紙11章8節

 アブラハムはイスラエル民族の父祖です。本日の箇所は神様がアブラハムとサラという一組の夫婦を選ばれて、一つの民族を起こされ、その子孫から救い主イエス・キリストを人として生まれさせ、神様の人類を救う計画を始められた箇所であると言えます。1-3節に、神様のアブラハムへの命令と約束が示されています。「あなたのうまれ故郷を出よ 父の家を離れて わたしが示す地へ行きなさい」という命令に従った当時75歳のアブラハムにとって、どんなに過酷な決断を迫られたのか聖書は記していません。高齢になって、血縁のつながりを捨て、ただ神様の示す場所へ導かれて行くこと、その示す場所もすでに先住民族がいて自分たちの生活の地とすることは容易ではなく、寄留の生活を続けなければならないことは、常識的・保身的思考ではとても実行に移すことは難しいでしょう。これは、ただ神様に全てを委ねて生きようと信じ、実行に移した信仰によって、アブラハムはその歩みを一歩踏み出したのでしょう。

そして神様の約束が続きます。2-3節「わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を高める 祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて あなたによって祝福に入る。」とアブラハムに言われました。祝福という言葉が5回もでてきます。「あなたによって祝福に入る」は「あなたによって祝福し合う」とも訳せるそうです* 。アブラハムはキリストを信じる者にとって信仰の父祖であることをパウロが説明しています。ローマの信徒への手紙 4章16節で「従って、信仰によってこそ世界を受け継ぐ者となるのです。恵みによって、アブラハムのすべての子孫、つまり、単に律法に頼る者だけでなく、彼の信仰に従う者も、確実に約束にあずかれるのです。彼はわたしたちすべての父です。」そして、ガラテヤ信徒への手紙3章7-9節で「だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。 聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」という福音をアブラハムに予告しました。それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています。」とあるとおりです。

そして、彼は移動するごとに祭壇を築き(礼拝し)、主の御名を呼んだ(祈る)と7-8節に記されています。一歩旅を進めて留まったところで、神様を礼拝し、祈って指示を仰いでいた、この姿勢にアブラハムの信仰の現れを見ることができます。しかし、そんな偉大な信仰の父とされるアブラハムは最初から強い信仰の人だったわけでないことが、この後に続くエジプト滞在の話に示されます。カナンの地に入り、さらに南へ旅を続けネゲブ地方に移るとそこで飢饉に見舞われます。古代パレスチナで人々は飢饉の際、肥沃なエジプトへ難を逃れていたことがBC1350年ごろのリリーフ壁画に残されていますが、アブラハム一行も同様の理由でエジプトに滞在しました。そして、美しい妻サラがファラオの目にとまると、夫である自分が殺されてしまうという恐れより、サラを妹と偽ります。実際、サラはファラオに召し入れられてしまい、このままでは二人を通して子孫が増えて祝福されるという神様の計画が頓挫してしまうところでした。しかし、神様が介入され、ファラオの宮廷の人々が恐ろしい病気にかかり、それがアブラハムの嘘のせいだと判明したのか、アブラハムは宮廷から与えられたたくさんの家畜とともに、すぐに退去するよう命じられます。なお、創世記20:12ではサラは腹違いの妹だとアブラハムは主張していますが、妻であることを隠したことには変わりありません。

神様の選びというのは、最初から信仰深く、立派な人格だから、アブラハムを選んだわけでないことがここから知ることができます。これから続く忍耐の期間、そして試練を通してアブラハムは信仰が練られていったのでしょう。同様に、現代にいる私たちが各々に置かれた場所で神様から遣わされ、託されていることがありますが、神様の選びは私たちが、優秀だから、人格が立派だから、信仰深いからによるのではなく、欠けがあっても、能力が何か秀でていなくとも、神様はすべての人にこの世で生きる上で役割を与えておられ、そして私たちが信仰で踏み出すと、共に歩んでくださる方だと励まされます。

*大野惠三著、「旧約聖書入門2 現代語りかける父祖たちの物語」、新教出版社、2015年、P22-23引用

〇1月9日(木) 創世記11章 バベルの塔

 洪水後のノアの子孫たちは当初同じ言葉を使って話していましたが(1節).それがどのようにして、これ程多様に異なる言語を世界の人々が話すようになっていったかが、11章に記されています。東の方から移動してきた人々は、シンアルの地(バビロニア)に平野を見つけて住み始めました。人間は昔から変わらず権力を誇示するため、高い建物を造る傾向があったのでしょうか。この当時の人々も、4節「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と塔のある町を建て始めました。そう動機は「有名になろう」つまり名をあげたいという欲求です。大概、町の名前はそれを建てた人もしくは、建造物にさえも何か功績があった人を記念してその人の名前が付けられます。人に栄光を返すためです。その塔の使用目的は聖書に記されていませんが、宗教的施設ではないかという説があります。実際、イラクには「ジグラッド」と呼ばれる螺旋階段をつけた全八層からなる巨大建造物の遺跡があり、宗教的建物として立てられていたことが聖書以外の歴史書、考古学的書類からも分かり、そこは「天と地の会う所」と記されていますので、バベルの塔の伝承と関連がありそうです。人間の高慢は危険であり、歴史的にも自分が偉くなると自分を神であるかのように錯覚し、権力をふるう権力者たちが過去大勢いましたし、そこには民衆の搾取、しいたげ、戦争と暴虐と不条理の世界が拡大していきます。そこで神は、6-7節「…これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ(原語:バ-ラル)、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」とされ、彼らの計画を阻止されました。この建設中止になったものがバベルの塔です。結果彼らは「散らされることのないように」と町を建てようと試みたのに、全地へ散らされ、様々な言語が発生していったのです。

 人は一人で生きられない存在であり、神様は人を他者と共に社会を作り、人間関係の中で生きるように創造されました。ですから、町を作って一つになろうということ自体は人間の自然な社会的欲求として問題ないのですが、問題は神様を抜き抜きにして追求することです。神様ぬきだと、結局自己中心的な「有名になろう」の方向、つまり高慢と虚栄心が暴走していく危険があります。悲しいことに、バベルの塔以降も、有名になろう、権力を誇示しようという思いを持つ権力者と戦争は続けられています。

 10-26節の系図は、12章のアブラハムにつながるセムの系図です。創世記の1-11章は原初史と呼ばれ、神の天地創造から、最初の人間たちの堕落と罪の拡大、カインの殺人、洪水前の暴虐、塔の建設と人間が絶えず神から遠ざかってきた道のりを示してきました。同時に、それらに対する神の処罰、エデンの園からの追放、カインの呪い、洪水、そして離散(諸民族、諸言語の発生)と、神はその裁きの中でその都度人間たちを保護し、赦そうとされてきた、神の憐み深さ、人間に対する愛が記されています。原初史はバラバラに散らされた人類で終わるのではなく、諸民族に分かれた反抗的な人間に対する神の救いの計画がいよいよ、アブラハムという一個人への約束をもって始められることを、アブラハムへの系図でもって予告されているのです。つまり、アブラハムを通してなされた神の約束により、神から離れてしまった全人類を再びキリストにおいて一つにし、神の祝福が及ぶという救いの計画が展開されていくことになります。そういう意味で、パウロが「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。」(ローマ5:20)と言ったように、原初史は繰り返される人間の罪に対する神の処罰と同時に、神の恵み深さの歴史も示しているのではないでしょうか。

〇12月26日(木) 創世記10章 民族表

 この章では、大洪水でひとたび人類が滅び、箱舟にのって生き残ったノアとその家族たち(ノアの子ども達セム、ハム、ヤフェトとその妻達)から、どのように人が増え広がっていったかを、3人の息子から分かれた民族、氏族を列挙しています。

 この民族表は、9章1節で神様が「産めよ、増えよ、地に満ちよ」とノアと3人の子たちに祝福して言われたことが、実現したことを表している内容と言えます。ノアの子孫である諸氏族を、民族ごとの系図にまとめたものだと記しています(32節)。古代オリエントの地図を見ますと、この民族表に記されている名と同じ地名がいくつか記されているのも、その氏族がその地域に住み、そして町の名や土地の名になって言った形跡が見られます。考古学的に聖書以外の文献と照合すると、その系図と民族が住んでいたとされる地域が一致しないこともありますが、この聖書の記された時代の政治的局面(例えば、エジプトがパレスチナ地方を従属国としていた時代)を反映しているからであろうと言われます。 

 使徒パウロはアテネで人々に宣教した時にこう言っています。「神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。これは、人に神を求めさせるためであり、また彼らが探し求めさえすれば、神を見出すことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。」(使徒言行録17章26-27節)イスラエル民族の祖先(セム系)だけではなく、全ての民族の始まりを記しているこの民族表から、人類は唯一の創造者である神様より造られ、全ての民族が将来神様を求め、救いに与れるようになるとの神様の救いのご計画を読み取れます。パウロはアテネの人々に、キリストの福音を人類の原初史に遡って説明していたのかもしれません。

〇12月19日(木) 創世記9章 虹の契約

 洪水後、神様はノアだけでなく、ノアの子供たち(セム、ハム、ヤフェト)にも新しい時代における神様の祝福を語られました。神様は新たに、ノアの家族と一緒に箱舟に載った生き物に、産み、増え、地上に広がるようにと言われました。しかし、創造の時の人間と動物、生き物との関係が以前のようではなくなってしまいました。人間は他の生物を支配せよ(管理せよ)というのは同じですが、生き物は人間の前におののく、つまり人間を恐れるように変わります。そして、以前は人間も生き物も草食だったのですが、肉食が許されます。なぜ、神様がこの時点で人に、3節「動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい」として与えたのかはわかりません。しかし、神様はひとつだけ条件をつけました。血を含んだ肉を食べないこと。血は命だからと。これは、神様が後に与えた律法で、動物の犠牲を捧げる時も、動物の血は水のように注ぎださねばならないと規定されています(申命記12:16,24 15:23)。神様はたんにイスラエルの民へ律法での祭儀的な規定として血抜きをするように言われたのでなく、これは全ての人への神様の命令であります。なぜ血を食べてはいけないのでしょうか。血が、神様が創られた命を表すからとされます。つまり、自分の食糧のために生き物の命を犠牲にするとき、その動物は神様のものであり、その命を犠牲としていることを忘れてはならないのです。そのしるしとして、命を表す血は食べてはならないのです。

なぜ人の命が大切なのか。あるTVのドラマで、高校生が検事に「なぜ人を殺してはいけないのか?」と質問し、答えにつまった検事は「一緒に考えましょう」と高校生に言ったシーンがありました。おそらく検事は刑法に殺人の規定があることは説明できても、例えば「人を殺してはいけないというが、戦争では人を殺してよいのか?」に対しての時代や国、究極的には人によって多様な考えがあるので、「一緒に考えよう」と言ったのでしょう。しかし、「命を奪ってはならないこと」の理由は人が考えて決めることではないと、聖書は明確に記しています。5-6節「あなたたちの命である血が流された場合、わたしは賠償を要求する。…人は神様にかたどって造られたからだ。」とあるように、すべての命は神様が創造して作ったもので、神様のものであり、特に人は神様にかたどって造られているからそれを損なってはならないのです。神様の所有の人の命を奪うことは、神様に対する犯罪、神様に対して賠償責任を問われるのです。イエス様は「互いに愛しあいなさい」という命令を弟子たちに言われました。それは、神様が造られた人間であるから、造られたもの同士相手を尊重し、相手から奪わず、相手を傷つけず、平和に互いに生きること、それが神様の求めている人間関係であると言えます。神様抜きで考えた人権、尊厳は国連憲章でいくら定めても、異なった命に対する考え方、慣習、歴史を持つ人々にとってはそれに同意できない部分もあるでしょうし、自分たちが良いと思うことを続けるのではないでしょうか。

12節からは、ノアと神様は契約を結ばれることが記されています。その契約とは、8章21節にも記されていることをさらに詳しく、「2度と洪水で肉なるものを滅ぼすことはしない」という内容で、雲の中の虹(「弓」の意味)をそのしるしとされました。神様は虹を見て契約を思い起こすと言われました。このノアとの契約は神様の一方的な恵みの保証として置かれていて、契約における人間側の義務が記されていません。人間がどうであれ、神様はこの契約を守って下さる方です。

そして、18節からはその後のノアと子どもたちの話が記されています。ノアは農夫(土の人という意味)でぶどう作りを初めて始めたようです。ぶどう、ぶどう酒、ブドウ園、ぶどうの木は、聖書では非常によく出てくる表現で、祝福を意味している箇所が多く(ミカ書4:4 ホセア書ア2:17)、イエス様は譬えで「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」(ヨハネによる福音書15章5節)と言われました。ノアがぶどうの栽培を始め、ぶどうの実が発酵してぶどう酒となり、ノアはそれを初めて飲んだと思われます。ノアがぶどう酒を飲んで酔ってしまい裸で倒れてしまった事と、子どもたちのとった態度を聞いて、父親であるノアが祝福と呪いのことばを3人に言ったことが記されています。信仰の人ノアの発言が記されているのがこの箇所だけであるのも興味深く、子が親を尊敬すべきであること、十戒の「父と母を敬え」が思い出されます。人類は3人の息子たちからさまざまな人種が分かれていくことが10-11章の系図に記されていますが、その中で注目されるところはセムの子孫がアブラハムへつながることです。このセムからダビデ王、そしてイエス・キリストというメシアの系図につながります。

〇12月12日(木) 創世記8章 心に覚えて働かれる主なる神

 大洪水の水が引き、箱舟はアララト山(アララトという地方のどこかの山と考えられる)の上に止まりました。1節の「神はノアと…に御心に留め」られたと記されています。御心に留めるということは 神様が心に覚えておられる者に向かって働いておられることを意味し、同じ表現が出エジプト記2章24-25節にあり、神様がエジプトで奴隷として苦しむイスラエルの民の叫びを聞き、族長たちと交わした契約を思い起こされ、エジプトから救出されようと働かれる時にも記されています。

ノアは雨がやみ、水が引いてきたのを分かっても、神様の時と言葉を忍耐強く待ち、箱舟にとどまっています。神様ご自身が16節「さあ、箱舟から出なさい。」と、神様の意思に基づいて、地球規模の破滅から生き延びたノアたちに指示されました。ノアとその家族と動物たち、爬虫類等を箱舟から出させ、創造の時のように増えていくように命じられ、新しい時代の始まりが記されています。ノアは箱舟で待っている間、鳥たちを使って、水の引き具合をチェックしていたことが記されています。古代に鳥を使った方角の確認(羅針盤代わり)の航海術があったことの記録はあるそうで、ノアがそのような知恵を用いたのかもしれません。まずカラスを放ち、次に鳩を放ちました。ノアが手を伸べて鳩をつかみ、箱舟の中に戻すという描写がノアの鳩に込めた思いを感じ取れます。長期間、箱舟の中に閉じ込められたノア達がようやく箱舟から出られると、期待と希望を持って鳩を飛ばした事でしょう。3回目に鳩が戻ってこないことから 地上から水が引いて鳩が地上で生きられるようになったことを知ります。新約聖書で、イエス様が洗礼を受けられたとき、「天が裂けて、“霊“がハトのようにご自分に降って来る」(マルコ1:10)と記されていますが、鳩は聖霊を示し、ノア達にとって新しい創造の先触れであり、聖霊が現代にいきるキリスト者にとって、神の国を待ち望みつつこの世を歩む人々を導いてくださる方であることを、この箇所からも想起されます。

地上に出て、最初にノアがしたことは祭壇を造り神様に犠牲の捧げものをしたことです。旧約聖書では人間が動物の犠牲を捧げることを通して、神様との関係の修復をする道を神様は示して下さりました。そして、ノアの時もその犠牲は神様に受け入れられ、主はなだめの香りをかいで「再び大地を呪うことをしない」と言われました。そして、人の心は幼い時から悪いとしながらも、この度したように生き物をことごとく滅ぼすことは2度としないと言われました(21節)。そして自然の秩序:夕が来て朝が来る、夏が来て冬が来る(パレスチナ地方の気候は四季が日本のようにない)という自然界の秩序は、人間がどんなに悪くとも維持されるという神様の恵みを約束してくださっています(22節)。

神様は人の悪に対しては怒られ、裁かれる方でありますが、同時に人に対して忍耐され、憐れみ深く、情け深く、ご自分の民を愛される熱情の神であられることは旧約聖書を読んで知ることができます。本当は、人間が毎日洪水で滅ぼされるべく存在であるにもかかわらず、神様はご自分の創造された人間を救おうとして諦めないお方であります。この洪水の物語が指し示すことは、あらゆる動物犠牲は神をなだめることはできても、それによって人間の罪を取り去ることはできないし、何度も繰り返される必要があるという限界と、真に神をなだめることが出来、一度ですべての人の罪を取り去ることができる御子イエス・キリストの十字架の犠牲と復活による神の救いの御業を指し示しているといえるでしょう。(ローマ3:25-26参照)

〇11月28日(木) 創世記7章1-24節 洪水とノアの信仰の試練

 ノアは500歳の時に、3人の息子セム・ハム・ヤフェトを産み(5章32節)、その後神様に箱舟を造るように命じられました。神様の設計図によると箱舟のサイズは巨大で(6章16節、1アンマという表記の単位はおよそ45cm)、現代の潜水艦と同じような比率と大きさだそうです。そしていよいよ箱舟が完成し、神様はノアとその家族とつがいの動物たちに箱舟に入るように言われたのが、ノアが600歳の時ですから(7章6節)、約100年近くかけて箱舟を造っていたことになります。この100年間について聖書は何も記していませんが、ノアとその家族は周りの「悪いことばかり心に思い計っている」人々(6章5節)の中にあって、「何のためにこんな巨大な船を造るのか?」と何かしら馬鹿にされたり、妨害もあったのではないかと想像します。それでも、ノアはひたすら100年間、家族4人で、現代のような重機や材料もない時代に箱舟を建設していたのかと思うと気が遠くなるような忍耐の時だったと察します。ノアは神様への信仰を持って、この試練に耐えたのではないかと思います。また箱舟に入ってからも、40日40夜、地上の高い山はすべておおわれるまで雨が降り続き、その後も150日間、水で地上がおおわれていたことが記されています。つまりその間、ノアたちは箱舟の中で動物たちの世話をしながら、狭い空間の光もささないところで、じっと生き延びていたことを思うと精神的にもよく耐え抜いたと、この箇所から読み取れます。

 現代に生きる私たちは、ノアの信仰の試練と忍耐を模範とし、神様に委ねて信仰生活を歩んでいきたいと励まされます。特に、日本にように神道・仏教が多数派である国において、聖書の神様のことを伝えることは容易ではありません。実際、統計的にみても、キリスト教信徒の数は戦後から現代にいたるまで人口の1%を超えたことはなく、近年は宗教全般に対するアレルギーのようなものが日本には出来上がっているようです。特定の宗教を真剣に信じることが危ないかのような風潮。世界の宗教観とその歴史的見地からすると日本のこの風潮は理解しがたい話ですが、結局、日本人だけでなく人は皆自分が中心で、自分以外の大きな存在、自分を支配する存在は受け入れたくないのです。「神」呼ばわりされて高慢になり、自分の好き勝手に生き、いいところだけ宗教を利用し、今のことしか考えないように生きることを、メディアも加担していると言えます。そこに、ノアのように神に従うという発想はないのです。

 神様は洪水で世界を一度滅ぼされ、再び「水」では滅ぼすことはないとノアと約束をしました。しかし、現代の様子はノアの洪水前の時代と同じか、もっと悪が増していると思います。地球規模の自然破壊が進み、ネットを通しての犯罪がグローバル化し、人がAIによってさまざまなことを始め、そのうちにAIが愚かな人間を支配するようになる時代が来ると危惧される程に至ります。AIは神を信じる信仰は持てませんから、物事が神なしの人間の知恵で考えられることをデータ化され、分析され、実行に移されます。

 ノアの洪水の物語とノアの信仰は、神を信じて忍耐し命を得ることと、自分が神のようになり続け滅びることのどちらかの選択を、私たちに問うているように思わされます。神様は人が滅びることを望んでおられないし、同時に悪がはびこってほしくないため、御子イエス・キリストを私たちの罪からの救い主として、この世に送って下さりました。全ての人がキリストによって救われるように「あなたは命を選び」*なさいと神様は招いています。そのためにキリストの命という大きな代償が十字架上で払われていること、その大きな神様の恵みを感謝して、神様を信じて従っていきたいと願います。

*申命記30章19-20節参照

〇11月21日(木) 創世記6章1-22節 ノアは神と共に歩んだ

 「地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。」(6節)神様は、ご自分が造られた人と生き物を洪水で滅ぼすことを決めた断腸の思い、それにいたる経緯が6章に記されています。「神の子らは、人の娘たちが美しいのを見て、おのおの選んだ者を妻にした。」とあり、神の子らとは天使(神に仕える天的存在)のことを指すと解釈されますが、なんと天使が人間の女性とこどもをつくり、それがネフィリム(「巨人」70人訳)であり、大昔の名高い英雄たちであったと記されます。そして5章で記される900年前後生きてきた人類を、神様は「こうして、人の寿命を百二十年」にしたと記されます。天使というのは被造物であっても、突然現れたり、消えたり、天に神さまと一緒にいる様子などが旧約聖書には記されていますので、人間とは次元の違う被造物のようです。神の使いとして人間に現れ、メッセージを伝えていることが記されていますが、神様に逆らう天使もいたのでしょうか。

 5節「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって」とありますが、人間の悪が増すだけでなく、1~4節で示される天使と人のハイブリッドのような存在も共に悪を拡大させるとなると、想像を絶する混乱と悪のまん延であります。11-12節「地は神の前に破滅していた。地は暴虐に満ちていた。神が地を見ると、果たして、それは破滅に瀕していた。すべて肉なる者が地上でその道を破滅させたからである。」(「旧約聖書Ⅰ(机上版)」岩波書店)とあり、このように全てが破滅してしまったら、一度全てリセットせざるをえなかったのでしょう。それでも、神様は自分が造られたものを滅ぼすことをどれ程悲しみ、苦しんだかが、6節で簡潔な表現ですが記されています。

 慈愛の神様は全て滅ぼすのではなく、ノアの家族と生き物のつがいをその再生のために残されました。エノクは神と共に歩み天に移されましたが、ノアは神と共に歩み(9節)、神様の計画を打ち明けられるまでに信頼されていました。ここでは「ノアは~と言った」と書かれていないので、つまりノアは何も言わずに神様の命令に従い、巨大な箱舟を家族と造りました。これもヘブライ人への手紙11章7節に「信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神のお告げを受けたとき、恐れかしこみながら、自分の家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世界を罪に定め、また信仰に基づく義を受け継ぐ者となりました。」と信仰の人として記されています。ちなみに箱舟(テーバー)については、旧約聖書で唯一の同じ単語として、モーセの「葦の籠」がでてきます。モーセも籠の中でナイル川の水を通り、拾われて命を得、出エジプトという神の救いのためのリーダーとなりましたが、ノアとその家族は「この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。」 (ペトロの手紙1 3章20節)。さらに、3章21節で「この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。」と記されています。洗礼は一度古い自分が水に入って死に、そして水から上げられ新しく生まれることを表します。洪水と箱舟を通してノアたちが生き残って新しい時代を始めた出来事も、キリストによる完全な救いを指し示していると言えます。なお、聖書で初めて「契約」という言葉がでてくるのが18節です。聖書全体を通して、神様の契約の出発点にあるのは救いと言えましょう。

〇11月14日(木) 創世記5章1-32節   系図:一人一人の名前が神に記憶されている  

 この章は、アダムの系図として記されています。その系図の定式「~は○〇歳になったとき、だれだれをもうけた。 ~は、だれだれが生まれた後◎◎年生きて、息子や娘をもうけた。~はXXX年生き、そして死んだ。」により、セツの家系がどのようにノアに繋がったかの記録が記されています。聖書には、系図がいくつか記されていますが、一人一人の名前が神に記憶されていることを表しています。4章でもカインの系図が記されていますが、5章は4章とは別の資料(祭司資料)だといわれます。これらの人たちは寿命が900歳前後です。聖書以外の古代の記録、例えばシュメール人の記録では大洪水があったこと、また洪水以前の王として8人もしくは10人が揚げられていて、それぞれが平均して数万年統治していたそうです。古代ではが各人種とも先祖が長寿だったという伝説をもつようです。数え方の違いとの説もあり。いくら長生きしたとしても、必ず「死んだ」と記され、死が必ず人生にあることを強調しているかのようです。

 ところが、一人だけ、「死んだ」と記されていない人がこの系図の中にいます。エノクという人です。エノクは「神がエノクを取られたのでいなくなったと」記されています。旧約聖書及び初期ユダヤ教では人間の不死という思想があまりなく、「神が人を取り去る、いなくなる」は死の湾曲語法だそうです(詩39:14 イザヤ53:8参照)。一つだけ、預言者エリヤは火の戦車にのせられ昇天したという記録が列王記2 2章11節にあります。エノクには他の人には記されていない特徴「神とともに歩んだ」とあり、へブライ人への手紙11章5節に「信仰によってエノクは死をみないように天に移された。神がお移しになったので、彼は見えなくなった。」と死を味わうことなくエノクは天に移されたとされます。

 ノアも「神と共に歩んだ」人として6章9節に記されています。ノアは「慰め、休息」という意味で、彼の父が「主の呪いを受けた大地で働く我々の苦労を、この子は慰めてくれるであろう」と名付けました。それ程、土地を耕しても収穫を得るのに労苦が大きかったので、土地の呪いが解け、人間がを耕すことの労苦から解放されることを願ってノアと名付けたのでしょう。続く章に示されるように、この名に託された切なる願いが、ノアによる新しい時代の始まりの予告となるのでしょう。

〇創世記4章1-26節   人類最初の子供と最初の殺人  2024年10月31日

 人が自分で善悪を決めることにした結果の恐ろしさが、この章にさらに記されています。最初の人間アダムとエバの間に子供が生まれました。最初の男の子はカイン(ヘブル語:カーナー、「得る」という意味)、二人目の男の子はアベル(息、虚しさという意味)と名付けられました。なお、カインはアラビア語で、鍛冶屋、槍という意味があるそうです。

 事の発端は、二人がそれぞれ神様に捧げものを持ってきたことでした。カインは土の実りを持って来て、アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来ました。神様はアベルとその献げ物に目を留められたが、 カインとその献げ物には目を留められなかったと記されます。それでカインは激しく怒って顔を伏せました。なぜ、神様はアベルの捧げものだけ目を留め、カインのには目を留めなかったのか?これも諸説あり。新約聖書のヘブライ人への手紙11章4節では信仰によってアベルはカインより優れたいけにえを捧げたとされたと記されています。確かに「アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。」(4節)とありますから、一番良い初子を捧げたのを、主なる神様は「アベルとその献げ物に目を留められた」のでしょう。それに対して、カインは怒って顔をふせたのです。

 神様はカインの心の内をご存じだったので、「もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない」(7節)と忠告をなされました。カインは、「自分だって一生懸命働いて、収穫できたものを捧げたのに、なぜ神は自分の捧げものには目を留められないか!なぜ、弟だけ認められるのか?」と不公平に思ったかもしれません。理由を神様に聞けばよかったのに、聞きづらいのか、それでその怒りの矛先を弟のアベルに向けられました。兄弟・姉妹というものは、とかく、家族のなかで、子どもという同じ立場で互いにを比較しがちです。比較することが悪いとは思いませんが、比較により、自分が高ぶつて他者を見下げたり、自己卑下して自己憐憫におちいり、他者を妬むという心の思いは、やがて行動に反映され、取り返しのつかないことになります。現代でも、殺人の動機は相手を妬む思い、もしくは見下されて悔しい思いで恨みを持つということだったり、妬みというのは何も良いものを生み出さない、恐ろしい感情であり、犯罪がおきる根であるといえましょう。

 カインは怒り・妬みをコントロールすることができず弟を殺し、神様から「何ということをしたのか。… 今、お前は呪われる者となった。お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。」(10-11節)と言われます。呪われる者となって、どう生きて良いかわからなくなったカインに、神様は慈愛をかけられ、カインが殺されないよう印をつけて守られています。カインはもはや農業はできなくなり、さすらう者となりましたが、都市をつくり、彼の子孫は彼の名前のとおり「鍛冶屋」や、音楽を奏でる者がでてきたことが記されています。また、カインの子孫のレメクという人は、最初の一夫多妻制を始め、神様が定めた一夫一妻制という結婚の秩序を変え、無制限の復讐を始めました。

 更なる人間の罪の拡大という暗く、悲しく、希望がないような人類のストーリーに、一筋の光が差し込みました。一度に二人の子供を失ってしまったアダムとエバに、もう一人の男の子が生まれたのです。セツという名で、そしてセツは子を産み、エノシュと名付けました。主の御名を呼び始めた、つまり主なる神様を礼拝し始めたのは、この時代であることが章の最後に記されています(26節)。人が何をしようとも、神様は続く希望を残されています。

〇創世記3章1-24節  人が神のようになりたいと欲するとき:罪の始まり     2024年10月24日

  この章は最初の人アダムと女(エバ:命)が、神様の創造の秩序を壊してしまうという悲劇、人間の罪の始まりが記されています。

無邪気で無垢な人は、楽園のような何不自由ない環境で善い人ばかりに囲まれていれば、そのままでいられたかもしれません。しかし、神様が創られた生き物でもっとも賢い蛇が女を誘惑します。この蛇という存在が文字通り蛇という賢い生き物だったのか、悪魔が蛇の形をとって登場したのか、それとも象徴的存在なのかと諸説あります。とにかく、この蛇は女に巧妙に語り掛け、神様から言われたたった一つの禁止命令「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」を破ってしまいます。園に他にはたくさんの実が生えていて、好きに食べてよいと言われ、食物は満ち足りていたのに。

 人間にとって何が良いか、良くないかをよく知っているのは、人間を創ったメーカーである神様です(創世記1章31節,2章18節参照)。これによって、園の生活において人間は安全な状態に守られていたのですが、蛇の誘い「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」に刺激されて、女は神のように善悪を自分で決めたい、つまり神のようになりたいという思いが湧き上がってしまったのではないでしょうか。そして、男は直接神からこの禁止命令を言われ、その内容を正確に把握しているはずですが、女に反論もせず食べてしまいました。今やこの二人は自分自身のことは自分自身で判断し、決定するようになった。その結果が、まずは神に謝ることもせず言い訳と、他者への責任転換です。神様との信頼関係も失い、男と女の麗しい関係が破壊され、土地も呪われてしまいました(17節)。食べたら死ぬとは、神からの本質的な分離のことを意味し、体はある程度の寿命まで生きていても生きる意味も分からず、罪を拡大し、苦悩し続けることになります。善悪の木の実を食べるとは、人間が神から離れ「この体は、命は自分のものだから、自分が良いか悪いかを判断する」ということなのです。

 この暗い、絶望的なストーリーの中にも、神様のご自分が造られたものへの慈愛と人間への希望が示されています。まず、蛇の子孫の頭を女の子孫が砕く(15節)という神様の不思議なことばです。これは原福音ともされ、女の子孫、つまり人として生まれるイエス・キリストが、蛇の子孫:悪魔と死に勝利すること、そして罪を犯して神から離れてしまった人間を救うために神の御子イエス・キリストが十字架にかかられることを示していると言われます。

 神様が二人を園より追放したと(24節)とありますが、23節の原文は「人間はエデンの園から土地を耕作するために送り出した」のニュアンスだそうです*。  神様は裸で恥ずかしいと思っている二人に皮の衣を着せてあげて、自分たちの蒔いた種の刈り取りをすることになる、園の外での生活に送り出します。そこには、神様の心痛を伴う、愛を持って子を送り出す親の子への愛を感じ取れるのです。


*23節の「追い出す」と訳される原語(イシュラフ)は「派遣する、送り出す」という意味がある。大野惠三、「旧約聖書入門1 現代語りかける原初の物語」、新教出版社、2013年、P213引用

〇創世記2章4-25節  社会的存在としての人の創造  2024年10月17日

 創世記には、二つの資料からなる二つの創造記事が記されています。神様が天地を創造されたことには変わりがないのですが、二つの物語では創造の順序が異なったり、また創世記一章よりも、2章4節以下の方が人間の創造がより詳しく記されています。聖書はいくつかの伝承が記録され、それらが編集されて今の書簡になっているとされ、同じ出来事でも違った経緯で記されている部分があり、一見すると、矛盾があると思われる場合があります。しかし、聖書という書物は科学の本ではなく、信仰の本であります。人々が長い歴史の中で口伝の伝承が伝えられ、文字として記されていくうちに、二つの異なったストーリーが重なったとしても、先のものを取り消すことなく、両方とも残すというところが聖書の特色であり、両方を総合しての神様からの多面的なメッセージが記されているのだと思われます。この聖書が今の形として成立しているのは、人の作業の背景に、歴史の流れを超えて存在される神様の霊の働きによって書かれている*と言えるでしょう。

 1章では簡潔に神様が男と女を神に似せて造られたとのみ記されていますが、2章はこうです。神様は男(アダム)を土(塵:アダマ)から最初に造られ、そして「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」と、まずは動物を創られました。そして「人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった」ので、神様は男の側骨(あばら骨)を一本とって、それから女を創って男のところへ連れてきました。そして男はようやく自分と同じ人である、自分に合う助ける者を与えられ、女と名づけたと。

 エゼル(ヘブル語)という単語は、「助ける者、ヘルパー」と訳されますが、「応答する者」 という意味もあるそうです。男が先に造られた、だから後に造られた女性が男性に従属的であるという伝統的な、家父長制的な考え方がありますし、使徒パウロもそれにそった記述をしています*2。しかし、そのパウロが一方で、キリストを信じる者に男も女もないといっていますので*3、またこれも、聖書は多面的。女性は男性に「応答する者」とすると、上下関係・主従関係がない、パートナーとしての存在と見ることができます。女性も男性に助けられて生きる存在であることを否定できません。つまり、お互いパートナーとして助け合う存在であります。一方、社会の最小単位である家族の中にもリーダーシップをとる人が必要であり、それがないと二人以上の社会生活で秩序を保つのは困難であります。皆が平等であっても、皆がリーダーですと事がまとまらないからです。

神様は、人は独りで生きていけない、互いに助け合う存在として、人間を創造されました。家族という社会の最小単位として、夫婦の関係を最初の人間:男と女で造られ、二人は別々の個体であっても、心も体も一つになれる、お互いが信頼し合い、助け合う関係とされたことが記されています。ちなみに、イエス様は復活した人間について、「復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。」*4と言われましたので、新しい創造にあって、復活の体では結婚もなく、天国で皆が新しい関係なのでしょうか。

*1 「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。」テモテへの手紙2 3:16

*2 礼拝のかぶりものについて コリント信徒への手紙1 11章7-9節

*3 「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」ガラテヤ信徒の手紙3章28節 

*4 マタイによる福音書22章39節

〇創世記1章~2章3節  天地の創造     2024年10月10日

  「初めに、神は天地を創造された。 」 創世記 1章1節 

 旧約聖書の最初に、神様は天と地を無から創造されたことが記されています。「光あれ」との言葉から始まり、神様が言葉を発すると、その通りに造られていきます。その文体は一定の形式:「神は言われた。~となれ。」、そのようになり、神はそれを見て「良しとされ」、夕べがあり朝があり、第一日目である、という文体が第一の日から第六の日まで続きます。  

 最初に光を創り、光と闇に分けて昼と夜という一日の単位を創られました。そして、大空(水)を上と下に分け、地と海を分け、そして植物、天体、水中生物・鳥、その他すべての生き物、最後に人間を創られました。神様は人間だけを神様に似せて、かたどって創造されたとあり、自然界の他の造られたものを治めるように命令。そして、7日目に神様は創造の仕事を離れて、安息なさり、この日を祝福し、聖別されます。これが安息日の規定として、必ず7日目に仕事を休むよう、またこの日を神様のために他の日から取り分けるよう、後に十戒の規定の一つとなり、守られています。また、キリスト教ではキリストが復活された日曜日を安息日として礼拝の日とし、現代でも世界的に週に一度休みの日というのはここから由来しています。

 人が他の生き物を支配するように命じられましたが、それは神が創られた天地とその命あるものを大切に管理するよう、神から委託された働き、責任であって、人間が好き勝手に枯渇するまで資源を採掘し、動植物を乱伐、乱獲することではないはずです。人が創造主である神から離れ、自分が神のようになろうとしたとき(これが罪の始まり)、神との関係も、人との関係も、自然と他の生き物とのかかわり方も全て破壊的になってしまったのではないでしょうか。地球温暖化、自然災害の増大と無関係とは思えません。

 しかし、この創世記を通して、神様の創造の秩序から始まり、それが人によって損なわれてしまっても、失われた人間の救い、被造物全ての回復、新しい創造をすでに神様は計画されていたということを、新約聖書に照らされた光によって、私たちは部分的に理解することが出来るのが幸いです。その新しい創造がなされるのは、神の御子イエス・キリストによってであり、人がその罪を認め、神様を信れば救われるように、キリストが十字架にかかって下さりました。キリストこそ神の似姿であり、キリストを信じた者はの霊の働きにより、主イエス・キリストと同じ姿に造り変えられていくと使徒パウロが記しています*。人はあくまでも人であり、神にはなれません。それでも、人がキリストの十字架の救いを通して救われ、新しくされ、キリストの愛の性質を持つように変えられていく、キリストが復活されたように私たちも復活の体が与えられるという希望があります。神はなぜ天地を創造されたのか。なぜ神は人だけ、ご自分に似せて造られたのか?この問いに対する答えのヒントは、最終的に、今のこの壊れてしまっている世界が新しくされ、永遠に続く愛と平和の神の秩序の世界がもたされることを、最後の書簡、黙示録にいたる聖書全体を通して示されている神の御言葉から得られるのではないでしょうか。神様の大きな計画を信じ、神の御心がなることを祈っていきたいと思います。

*コリントの信徒への手紙2 3章18節、4章4節