Jan. 4, 2025 John 15:5 「つながり」
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」 ヨハネによる福音書 15章5節
先日、私たちはドキュメンタリー映画を観ました。この映画は都内にある児童養護施設が舞台で、施設という血のつながらない職員と子ども達の共同生活において、家族とも他人ともいえない微妙な「つながり」を持つ中で、成長していく子供たちの一年を追った内容です。「人のつながり」について考えさせられる作品でした。日本には施設等で暮らす社会的養護が必要とされる子どもたちが、約4万2千人(2024年時点)もいるとの心が痛む現実を知りました。このような子供たちが、目に見えなくとも神様がいて、一人一人を大切に思っていること、だから神様に祈って助けを求められること、独りでがんばらなくてもよいことを知ってほしいと願うばかりです。
つながりは大切です。自分が誰とつながっているかで安心感を持てますし、自分が何者なのかというアイデンティティの認識とも関連します。家族がいても、つながりを持つのが困難である関係も残念ながらあります。家族とは、必ずしも血のつながった親族の集まりだけでなく、安心してつながりを持てる共同体をも指すのではないかと思います。クリスチャンにとって、教会という共同体が家族のようなつながりを持っています。そのつながりは、聖書では「交わり」と記され、自分たちを造られた神様を信じ、神様が天の父であり、わたしたちは神のこどもであるという神の家族として交わりを持つことができます。この交わりは、神の家族として互いに自分たちを認識し、互いに愛し合う、お互いをケアし、支え合い、共に祈り、お互い赦し合う、また聖書に記される希望を持ってこの困難な世の中を生きることを励ましあえます。
イエス様はぶどうの木と枝の譬えから「木であるわたしに枝としてつながっていなさい」と弟子たちに言われました。「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」この「実を結ぶ」とは、愛の実を結ぶ、つまり互いに愛し合うことだと言えます。イエス様は、イエス様の喜びが私たちの心に満ち溢れるために、このことを弟子たちに言われています*2。
私たちは神の御子イエス様を信じることで、イエス様とつながることが出来ます。このつながりでは、自身を取り巻く状況が厳しくとも、状況に左右されない神様から与えられる愛と喜びを共有できます。神様は、この神様との交わりをイエス・キリストを通してすべての人に受け取ってほしいと願われています。この神様の愛を恵みとして体験させてもらっている者として、多くの方々に、特につながりを求めている方々に伝えていきたいと願っています。
*1 ヨハネの手紙 1 1章3-4節
*2 ヨハネによる福音書 15章11節
Dec.12, 2024 Luke 2:13-14
すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。 ルカによる福音書2章13-14節
先日、韓国で戒厳令が出されましたが、折しも、日本でそれに相当しかねないと懸念される「緊急事態条項」を憲法に追加することに関連する講演が地域での勉強会として開催され、参加しました。非常にわかりやすい内容で、日本の国政を考える上で、根本的なこと、つまり国民の平和のために、そもそも平和とは何かという平和学の観点からも学ぶことができました。一人の方が「平和とは何ですか?」と先生に質問していました。「3つの暴力①直接的な暴力:戦争や暴力、②構造的暴力:弱者が強者に虐げられる経済的仕組み等、③文化的暴力:戦争等を正当化、犠牲は仕方ないとする思想 が合わさって平和の実現を妨げている。よって平和とはこの3つの暴力をなくし、お互いをケアする、助け合う、人権を尊重する社会が構築されている状態。」と答えておられました*1。
人間のこれらの暴力を引き起こす原因は、欲であると私は思います。欲求自体が悪いという意味ではなく、人として生きる上で基本的欲求は満たされるべきであり、それが互いに尊重されるのが望ましいのですが、それを超えた「貪欲」が他者を害する悪につながるという意味です。多くの人は私を含めて自分がまず大切です。自分を大切にしようとすると、どうしても他者との利害関係が発生し、忙しくて他者のことまで手がまわらないのが現状だと思います。忙しいとは、心が亡ぶと書きますが、忙しくしていますと他者のことを気遣う余裕がなくなります。
この平和の定義を聞いて、聖書の平和と非常に似ていると気がつきました。聖書で平和のことを「シャローム」(ヘブル語)と言います。聖書における平和とは、何かが欠如していない充足状態をさし、無事、安否、平安、健康、繁栄、安心、親和、和解など、人間の生のある領域にわたっての真の望ましい状態を意味する語で、単に精神的な平安状態のみではなく、社会的具体性を伴う福祉状態を総括する概念を指しているそうです*2。
イエス様は「隣人を自分のように愛しなさい・」*3と教えられました。これが互いにできれば平和に繋がるのですが、机上での理想では平和は実現しません。実際、自分に余裕がない時、自分に敵対する人が目の前に置かれた時、初めて自分の力や意思で「出来ない」という限界に突き当たります。その時「人間だから仕方がない」と諦めるのではなく、どうしたらよいのでしょうか。そこで、私たちキリストを信じる者は神様に祈って助けを求めることができるのが、慰めであり、励ましです。神様を求めるきっかけは、自分で平和が作り出せない、自己中心的な自分を認め、私たち人間を創られた神様に助けを求めることからかもしれません。自分で頑張れる、自分の力(他者の力も)を信じているうちは、神の助けは必要ないからです。「私には神はいらない、神などいない!」という方には、真の神との平和がないと言えます。
神の御子イエス様は、神に背を向け、神との間に平和がない人々との和解をもたらすために、つまり上記の「地には平和」をもたらすために神様がこの世にイエス様を送ってくださいました。イエス様を通して与えられる神様の愛と救いの現実そのものが、平和を指していることが聖書を読んでいるとわかってきます。例えば、イエス様が12年間出血が止まらない女性をいやした時*4、罪深い女性の罪を赦された時*5、彼女たちに「安心して行きなさい」と言われ、この「安心」と「平和」が同じ言葉(エイレーネ:ギリシャ語)なので、「平和のうちに行きなさい」とも訳せます。イエス様によって病が癒されるとその人に平和の心がもたらされ、イエス様が「あなたの罪は赦された」と赦しの宣言を与えるとその人に平和が与えられます。究極の平和は神様との平和をまず持つことであり、それがイエス様の十字架と復活の御業を通して成し遂げられました。この救いの御業を感謝し、キリストにある平和を与えられて、この困難な時代を生き、周りの人々にキリストの平和を伝えていくことが、私たちクリスチャンの使命です。それは簡単ではないです。出来ません!と叫びたくなることもあります。しかしイエス様ご自身が平和の源であり「安心して行きなさい」と言って、今も私たちを日々送り出して下さる、そのような大きな励ましと力が与えられることを信じ、地には平和がもたらされるようにと祈り続けたいと思います。
*1 「緊急事態条項について考える」、宇都宮大学国際学部国際学科 清水 奈名子教授、2024年12月8日、於:益子町さやど公民館より
*2 『新聖書大辞典』p1199、キリスト教新聞社、1971年引用
*3 マタイによる福音書22章39節
*4 マルコ5章34節
*5 ルカ7章50節
Dec. 6, 2024 Matthew 11:28-30
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」 マタイによる福音書11章28-30節
私たちは普段は家で料理を作って食事をしていますが、たまにレストランに行くことがあります。お客様がいらした時や、何か大きなイベントが終わったあとの「お疲れ様会」のような時に、自分たちで料理を作って後片付けをするということなしに、食事を頂きリフレッシュするという目的があります。歴史的に外食する文化は古代からあり様々な呼称はあるそうですが、「レストラン」という言葉は 18 世紀に、フランスのパリで店を出した人が看板に「胃を痛む者は誰でも私のもとに来なさい。元気にしてあげよう」と記し、スープ、鶏肉、ゆで卵などをお客に出したのが始まりだそうで、ラテン語の「レストラーレ」(以前の状態に戻す、回復する)が語源だそうです。どこかで聞いたことがあるフレーズ。さすがキリスト教文化の歴史が長いヨーロッパならでわですが、上記のイエス・キリストの言葉「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」をもじったとされるそうです*1。
外食であれお家ご飯であれ、食事を共にするということは喜びであり、食事をとることで心身ともに回復されます。しかし、現代は自然なままの食物を食べることが難しくなっている、つまり遺伝子組み換えをされた小麦、成長ホルモンを投与された鶏肉、大量の農薬つき果物・穀物と保存料つきの食糧が多く市場で出回り、また産地の偽造など、食の安心が危ぶまれ、それらが体内に蓄積されて健康に害を与えているでしょう。食べて「回復」どころか、健康を損なう可能性があります。利益を追求し、自然のサイクルを損なって、結局それが人間自身に帰ってくることを考えますと、これだけ進歩した科学技術と知恵をもってして、利益追求でなく自然にそった生活と経済の流れを可能にする方法を研究開発できないものかと常に思います。
イエス様は、わたしたちが心身ともに疲れ、負のスパイラルにはまって疲弊してしまう弱さ、また他者のことより自分の利益を追求してしまう罪深さをご存じです。そこで「だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と招いて下さっています。イエス様の所へ行くとは、イエス様を通して提供される神様の救いを信じることです。これを信じるにはまず「自分はなぜ疲れているのか?その結果どうなっているのか?」と自分自身に問うとよいでしょう。そして、神様からのメッセージが記される聖書を読んでいると、こんなに疲れ、虚しく、死んだら終わりの希望がもてない人生を送っているのは、自分が神様から離れていたからだと気が付くのではないでしょうか。もともと神様は人間を愛するために創られ、自然と調和した極めてよい状態に造られたと聖書に記されています*2。そして、人間がその神様から離れてしまうことを、聖書では「罪」と言います。神なしで自分で生きられるという高ぶり、その罪を自覚した時、それに対する救いがあるのか?と求めるなら、さらに聖書の言葉を読むと答えが示されます。「だれでも、求めるものは受け、探す者は見つけ、門をたたく者には、開かれる。」*3 とイエス様の言葉のとおりに聖霊の働きで信仰に導かれるからです。
神様がわたしたちの罪を赦し、新しい命と希望を与えてくださるために御子イエス・キリストを地上に送ってくださりました。イエス様は私たちのすべての罪を負って代わりに十字架につけられて罰せられ、そのおかげですべての人の罪が赦されて、もとの状態、神様と共に信頼していられる平和な状態に回復:リストーレするようにしてくださったのです。そして、イエス様ご自身が3日後に死からよみがえられて、天に戻られたことで、キリストの救いを信じる者も死で終わるのではなく、永遠の命を与えられることが聖書に記されています。多くの疲れている人々、希望が持てない状態に悩む人々が、一時的なその場しのぎの回復ではなく、キリストを信じて休みを得、さらに魂の平安を得られる、つまり真の回復が与えられるよう祈り続けたいと願います。
*1「アレテイアー釈義と黙想 ヤコブの手紙 ペトロの手紙1,2 ヨハネの手紙1,2,3 ユダの手紙 ヨハネの黙示録」、日本キリスト教団出版局、2002年、184ページ引用
*2 創世記1章31節
*3 ルカによる福音書11章10節
Nov. 28, 2024 Isaiah 41:10
「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。 たじろぐな、わたしはあなたの神。 勢いを与えてあなたを助け
わたしの救いの右の手であなたを支える。」 イザヤ書41章10節
先日、テレビでトルコにある世界遺産、カッパドキアの岩窟群についての放映を見ました。この洞窟群は、2世紀初頭にローマ帝国からの迫害を逃れたキリスト教徒が建築した奇岩の中とその地下に至るまで洞窟内の住居や礼拝場所で、広大な地下都市の遺跡です。この遺跡群を見るにつけ、多くのキリスト教徒が全て手でこの岩山を掘り進めて作っていった労苦や、数世紀の間、ローマ帝国の迫害を逃れここに隠れ住んでいたことを思い感銘を受けました。当時彼らはローマ兵に捕まると、木に括り付けられて燃やされたり、競技場で獣に食い殺されたりと残酷な仕方で処刑されました。彼らがローマ皇帝を神として拝むことを拒否し、真の神のみを信じることを妥協しなかったからです。信徒たちはローマ帝国に対して反乱を起こしたり、戦ったりせず、捕まれば無抵抗で殺されていました。しかし、迫害されればされるほど信徒の数は増え続け、キリスト教が312年に公認され、392年ローマ帝国の国教となるまで、忍耐してこのような隠れ場にて生き延びてきたことをこの遺跡が語っています。
イエス様が「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」*1、「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」*2と言われ、攻撃してくる敵と戦おうとする弟子に「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」*3)と制し、復讐せず、悪をもって悪を返さないというのが聖書の教えです*4。一方で、命を狙う者から逃げ隠れするな、不正に対して黙って見て見ぬふりをするようにとは記されていません。ただし、すべての言動にはタイミングはあると思います。なぜなら、イエス様ご自身の生涯において、はっきり宗教家たちの偽善を糾弾する時、神の国が近づいたと福音を人々の前で公言する時、殺そうとするユダヤ人から身を隠される時、逮捕されて十字架にかかるまで彼らの暴力のなすがままに身を任されて沈黙されている時と、各々時があるからです。
神様はご自分の愛する民を守られる方であることは、聖書を通して示されています。洞窟に長年見つからず隠れて信仰を継承できたのは、神様の守りの中にあってのことだと思います。同時に、信仰のゆえに殉教していった多くの信徒を神様は見捨てたのではなく、共に苦しみ、そして天という安住の地でかれらを迎えられるお方だと信じます。イエス様は弟子たちを世に派遣される時、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と言われた約束が聖書に示されているので、たとえどんな状況にあっても独りではないと心が強められるからです。自分の無力・弱さを感じる時に、「すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」*5とも使徒パウロにいわれた御言葉にも励まされます。更に、信じる者の心の内側に住まわれる聖霊が目には見えなくとも私たちに何を語るべきかを教え*6、私たちの心の内を私たち以上に把握して祈りを神様へとりなし、慰めを与えて助けて下さる、そんな聖霊の働きが私たちキリスト者の信仰の持続を助けくれているということを改めて神様に感謝したいと思います。
*1マタイによる福音書5章14節
*2マタイによる福音書5章39節
*3マタイによる福音書26章52節
*4ローマの信徒への手紙12章17節
*5コリントの信徒への手紙二 12章9節
*6ルカによる福音書12章11-12節「会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。 言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる。」
Nov. 20, 2024 Mark 16:15
「それから、イエスは言われた。『全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」マルコによる福音書16章15節
水紋は水に小さな石を投げ込むと生じ、その波紋、波の和が徐々に幾十にも外側へ広がっていき、波は岸に着くまで、一方が他方を駆り立てながら延々と押し寄せます。小さな石の効果は大きいものです。ただ、しばらくすると水紋はなくなります。また次の石を投じない限り。
キリスト教の宗教改革を起こしたルターは、「(キリストの)福音宣教は、水に投げ込まれた石のようなものである」*1と例えたそうです。当時、復活された主イエス様が、上記のみことば「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」と弟子たちに言われました。そして使徒と呼ばれる弟子たち、また彼らから聞いて信じた信徒たちによって宣教が初められ、当時のローマ帝国内に急激にキリストの福音が宣べ伝えられ、クリスチャンが増えました。その過程で、迫害や、キリスト教国教化、形骸化そして宗教改革など様々な波乱万丈の出来事がありましたが、キリストの福音は説教者たちによって遠く世界のあちらこちらへと駆り立てられように広められ、福音を聞いたことのない人々へ知らされて、現代に至っています。
しかし、重要なことはこの宣教活動は人だけの働きでは到底成し遂げられるものではなく、神様ご自身が宣教の業を共に成してくださるから、絶えず聖霊が働かれているから起こっていることです。神様は、私たちに宣教の業に参与するよう呼ばれ、そして私たちは各々の場所へ派遣され(海外とは限らず、国内の、つまり自分の周りの人間関係のあるところへ)、そして良い知らせ(福音)を伝えていくのに、主キリストが共にいて働いて下さっていることは大きな励ましです。マタイの福音書でのイエス様の宣教命令には「いつもあなたがたと共にいる。」とあり、伝道、宣教の働きは世の終わりまで続き、どの時代にも主イエスが私たちと共にいるという約束があります*2。
この御言葉より、わたしたちが何かしていなくても、していても、うまくいかなくとも、神様は働き続けて下さることを改めて感謝する機会となりました。すぐに結果がでなくとも、私は小さな石を水に投げ続けるよう励ましを受け、さらなる神様の業がなされることを祈り求めていきたいと思います。
*1 参照 Luther, Martin, and John Sander. Devotional Readings from Luther’s Works for Every Day of the Year. Augustana Book Concern, 1915, pp. 149–150(PDF).
*2「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」マタイによる福音書28章19-20節 (引用 新共同訳聖書)
Oct. 20, 2024 Isaiah 55:11
「そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ わたしが与えた使命を必ず果たす。」 イザヤ書55章11節
今年は秋でも夏日が続くという、秋らしからぬ気候が続いたゆえに、秋の冷たい雨が降ると、ようやく例年並みの気温となったと感じます。神様は天から恵の雨を降らせ、冬には雪を降らせるように地球を創られました。雨と雪が、全ての人に(ある人の上だけ降らないということはなく)降り注ぐのは、それらが大地を潤し、植物の芽を出させ、生い茂って、人間と動物の食べ物を備える為であり、神様はそのように自然の循環を設定されました。与えられた自然の恵みを感謝しつつ、創世記に記されているように人は自然を守る、管理する役目を神様から与えられていることを、現代において警鐘的にも覚えておかなければならないと思います。
神様は自然の営みだけでなく、神様の言われた言葉(御言葉)は、神様の計画されたことを成し遂げ、使命を必ず果たすと上記の箇所で言われています。神様は、神様の言われた言葉を聖書という形で目に見える、理解できる形で私たちに残してくれました。その聖書の中に記されている預言の言葉を読むと、まだ成し遂げられていない預言もたくさんありますが、昔神様の言われた言葉がその後その通りになっていると確認する箇所もたくさんあります。聖書は科学の記録ではなく、神の言葉として読む者が信じる、信仰の書です。神の御言葉には力があります。なぜならいつの時代に聖書の言葉を読んでも、読む一人一人の時期にかなって、その人に必要な神様のメッセージが伝えられ、希望・励ましとなり、慰めとなり、戒めとなり、信仰生活で必要な生きた言葉としてわたしたちの心に与えられるからです。
また、イエス様の弟子のヨハネは、言(ことば)が人(肉)となって、わたしたちの間に宿られたと記しています。つまり言は神であり、神が人の形をとられこの世へ遣わされたイエス・キリストご自身であると聖書は記しています*。言であるイエス様は、私たち人間を救う神様のご計画のもとに、この世へ送られ、神様の与えたその使命を十字架の死と復活により果たされたからです。上記の箇所は預言者イザヤが、イエス様がこの世に人として生まれる約500年前に、イエス様の使命を預言していると言えるでしょう。
神様の考えられること、神様の思いは、わたしたちの想像をはるかに超えます。神様の救いの計画を、全て相手が納得できるよう説明するのは困難です。しかしながら、私の力や説得力ではなく、御言葉自体に神様の力があり、影響力があることに希望があります。そしてはっきり御言葉が示している神様の計画は、イエス・キリストの命を犠牲にしてまで、何の働きもない小さな存在の私を救おうとし、神様を信じない罪を赦し、罪の縄目から解放し、神様の子供として天に迎えようと、また地上での生活をイエス・キリストの愛に倣って生きるように、聖霊が導いてくださるという救いの恵みです。私たちキリスト者は、この力ある御言葉をもっと多くの人に分かち合えればと願います。
「信仰とは望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(へブル人への手紙11章1節)とあるように、希望とは望んでいる事柄です。見えない事実は、神様が見えなくとも、神様の計画が全て把握できなくとも、神様が全てを治めておられるという事実ではないでしょうか。この希望を毎回、御言葉で確信し、神様の真実を確認していきたいと思わされます。
*ヨハネによる福音書1章1-5,14節
Oct. 6, 2024 I John 4:19-21
「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。 『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。」(1ヨハネ4:19-21)
10月7日。昨年、イスラエル国にハマスというテロリスト集団が奇襲攻撃を始め、それから戦争状態が一年経ちます。そもそもハマスはパレスチナの代表でもなく、正式な軍隊でもない、テロリストであることを日本のニュースは報道しません。いつもイスラエルが悪いと報道するのは、日本のニュースが反イスラエルの中東諸国の国営放送からその情報を得ているからです。いずれにしても人々の命が奪われる世界の紛争が早く終わるように、平和のために、今、何ができますか?と問われると、両者とも戦いを早く終え、お互い和解するよう、人々が安全に生活できるようにと平和のために祈り続け、そして情報を識別し、マスメディアに操作されないようにと心がけています。
一方、人は他国の大きな戦争の和平を求めながら、自分の周りの人と、職場のある人と、家族と和解していないことがありがちです。つまり自分のことは棚にあげて、遠い国の国際紛争について早く和解すればと思えてしまうのです。
聖書は和解について、こう記しています。「つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。 」 *1 実は、私たち人間は生まれた時から、神様に敵対しているのです。その敵対とは、人は自分を創った神の存在を否定し、信じないこと(これを聖書では罪といいます)、そして自分の思うままに生き、他者を傷つけ、自分も傷つけ、個人差があってもどこかで争いを起こす、もしくは関わりたくないので距離をおく、無視すると、実は自分は気づいていないだけで和解していない関係をどこかに持っている可能性があります。神を信じない罪から派生して、人間関係の争いが生じ、そして様々な罪に発展しています。一方、神を信じる者は、人間同士互いに愛し合いなさい、赦し合いなさいという、キリストの愛に倣って歩むものと教えに従おうと励まされます。
神様は、全ての人間を大切に思い、祝福したいと、関係を修復したいと思われ、そこで世にご自分の御子イエスを送られました。その目的は、人が神に敵対してきたことを認め、その罪のためにイエスが十字架にかかられて死んでよみがえられたことを信じることで、全ての罪が赦されること、そして新しく生きることができるように心に聖霊が与えられ、地上で生きている間は、聖霊が正しい道へと私たちを導いてくださるので安心です。
私たちキリスト者は、ヒューマニズム(人道主義)ではなく、キリストの愛が動機で、平和を求め、対話しようとし、祈り、行動します。なぜなら「まず、神様がわたしたちを愛して、キリストをこの世に送ってくださった」*2 その十字架の救いの御業により、私たちはもはキリストに結ばれて生きるからです。神様の愛を受け、キリストを信じた者は、キリストの和解の言葉を他者に伝え、聖霊の働きにより平和を運ぶものとして、この世の中に派遣されていきたいと願います。
*1コリントの信徒への手紙二 5:19
*2ヨハネの手紙1 4:10
Sep. 17, 2024 Acts 1:8
「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」 (使徒言行録 1:8)
若い時に、私は約一ケ月程スペイン・ポルトガルの一人旅をしたことがあり、そこでの空の色が、今迄見たことがない鮮やかな深い青色で非常に感動したものでした。ローマ帝国時代に現スペインは、イスパニアと呼ばれ、当時西の地の果ての国とされていたそうです。ちなみに日本は東の地の果て(極東)ですが、そんな遠い日本へ16世紀にキリスト教の宣教師が西の地の果てから来てくれたのだと、驚きと感謝を改めて思わされました。
「私には夢がある I have a dream!」の演説で有名な、公民権運動を指導した牧師のマーティン・ルーサー・キング師は「破れた夢」という説教で、「人間の経験で最もつらい問題の一つは、自分の一番大きな希望が実現するのを生きて見られる者は、ほんの少数の者にすぎないということ」、それでも「無限の希望を固く抱いて、有限の失望を受け入れる」、「自分の破れた夢と真剣に対決しなければならない。」と言っています。これは使徒パウロが、イスパニアへの伝道旅行へ行くという夢、ヴィジョンを語っていた箇所(ローマの信徒への手紙15:24.28)からの説教の一部だそうです。
パウロは「地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒言行録 1:8)と主イエス様の言葉を伝え聞き、地の果てまで伝道しようと志したのでしょう。残念ながら、聖書の記録にはパウロがイスパニアへ行ったという記録がなく、ローマで殉教したという伝承が残されています。神様はパウロに別の計画を持ち、彼の希望はその後、他の伝道者たちによって全世界へキリスト教が伝えられているという形で、今も実現中です。
私たち人間が考え、計画することは必ずしもすぐに実現するとは限りませんし、道が閉ざされることもあります。挫折し、がっかりしますが、そこで止まらず、神様がすべて統括しておられることを信じ、神様のなさりたい事とその方向性をキャッチしていくことで、希望を固く抱けるのではないでしょうか。私たちの内に住む聖霊が私たちを導き、聖霊の力が注がれ、キリストの愛を知らない人に出会い、証しする機会が与えられるという、神様の救いの御業に参与させて頂けることを期待したいと思います。いつも救いの喜びを覚え、絶えず祈り、神様に感謝しながら*、今おかれた宣教の場所でキリストの愛を伝えていきたいと願います。
*テサロニケの信徒への手紙1 5章16-18節
Sep. 12, 2024 2 Corinthians 4:7
「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。」 コリントの信徒への手紙Ⅱ4章7節
先日、益子焼き体験で、ろくろで土の塊から、お皿と花瓶を作成された方から、その作品の写真を見せて頂きました。その方は今回初めてだそうで、マンツーマン指導を受けて作ったのですが、非常に難しかったと。けれども、自分の手で作品を生み出すことの楽しさと、また自分の作品をいとおしく思ったと言われていました。そしてその時、「神様が人間を創造した時も、同じようにその作品である人間に対しての愛情を持たれたのだろう」と、神様の人間への愛を、陶器づくりを通しても知ることができたとおっしゃっていました。そして、その作品は初めてとは思えない、とても素敵な作品でした。
一般的に、器というのは何かの目的を持って作られるものですが、益子焼きの作家さんたちの作品を見ても、機械でつくる大量生産の器と異なり、一つ一つの作品に特徴があり、思いが込められているのを、素人の私が見ても感じます。ましてや、神様が人間一人一人を創造される時、その人の人生で、その人の為の目的をもって創造し、そしていとおしく、大切に思い、そして人がその神様の愛に気づき、神様への信頼関係を持つことを願っておられることが聖書に示されています。たとえ、壊れてしまっても、神様は修復することが出来る方です。なぜなら創造される主なる神様は、救い主(贖い主)でもあるからです。神様の目にはわたしたち一人一人は値高く、貴いとみて下さる*1、と記されているとおりです。
「光あれ」と天地の創造のとき、神様は言葉で言われて、その通りになっていくように、神様の御子イエス・キリストが私たちの救い主であるという福音と、生きている間に経験するその救いの御業を悟る光を私たちの心に与えられます*2。パウロは私たちを土の器として例え、この並外れた偉大な神様の力を土の器の中に納めている宝と記しています。この宝がその器を通して光輝き、神様の力がわたしたちを通して現わされます。器である私たちに力があるのではないので、器は立派でなく、壊れやすく、欠けがあるかもしれません。しかし、各器の中にある宝に力があり、この神様の力を通して、私たちがどんな試練にあっても、神様の愛に根差し、愛にしっかりと立つものとして、他者に仕えていく力となるという希望が与えられていることは幸いです。人知を超えた、計り知れない神様の愛を、土の器より気が付かされ、神様へ感謝したいと思います。
(引用 新共同訳聖書)
*1 イザヤ書43章3-4節参照
*2 コリントの信徒への手紙Ⅱ 4章6節「「闇から光が輝き出よ」」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。」
Aug. 30, 2024 2 Corinthians 5:17
「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」 (コリントの信徒への手紙Ⅱ 5章17節)
以前ギリシャのアテネに旅行に行ったとき、ルーマニア人教会の礼拝に参加したことがあります。その当時ギリシャには多くのルーマニア人が出稼ぎ労働者として在住し、彼らのための教会が現地にあり、この時日本人のグループ向けに日本人の宣教師が通訳をして頂き、礼拝に参加させて頂きました。そこで驚かされたことは、まず小さい子供も静かに座って、お母さんと礼拝に参加していること(通常子供は礼拝の途中で退席、もしくは最初から子供の礼拝として別に行われている)、そして女性が頭にハンカチみたいな布をつけていること、こんなにも大勢の若い家族が、異国の地にて彼らの母国語での礼拝を捧げるため熱心に集まっていることでした。女性の頭の布はかぶり物と言われ、女性が礼拝に出席する際に身に着けるべきものとして聖書に記されており*1、キリスト教でも宗派によってそのことを今でも守っている教会はありますが、現代の特にプロテスタントの教会では服装は自由であり、かぶり物を女性がつけることを守っているのは珍しいからです。
私は聖書を読むとき、その時代の社会を反映している慣習や差別的記述に関してはあまり深く考えずにいました。特に女性の地位は当時低く、頭数には数えられないし、公的な場での発言は許されていませんでした。しかし、使徒パウロはイエス・キリストの福音を宣べ伝える上で、革命的なことを記しています。人種、性別、社会的階級は一切なく、キリスト・イエスにおいて一つなのだと*2。そして、礼拝において女性も与えられた賜物を用いて発言(祈ったり、預言したり)できるという画期的なことを記しています*3。キリストにおいて、人は新しく創造され、神様の前に違いはなく、平等であるからです。一方で、当時の社会的身分の違いがそう簡単にひっくり返るわけではなく、パウロがそれにそった発言をしていることも彼の手紙に示されています。その一見矛盾とも思われる記述について、それはパウロの平和や秩序を大切にしていたゆえの、周辺社会への配慮だと思えるのです。しかしパウロはさりげなく彼の手紙に、地域教会で奉仕していた女性たちの名前を挙げています。それは大っぴらには言えなくとも、キリストにある新しい信仰共同体(教会)においては、女性の立場と使命は新しくされていることを控えめに表現しているのではないでしょうか。
パウロは、キリストの十字架によって、人間関係における敵意が滅ぼされ、キリストにおいて一人の新しい人につくり上げることで、平和を実現し、キリストを信じる者を一つの体として神様と和解させてくださったと記しています(エフェソ2:14-16)。キリストを信じる者は、自分たちが救いに与ることに留まらず、キリストの福音を知らない人々に伝える、つまり神との和解を勧める任務があります。キリスト者は、差別や敵意を廃棄したキリストの平和を世の中に運ぶ役目があります。その際、相手の社会背景、宗教、歴史を無視し、これが真理だと押し付けるやり方は、キリストの愛に根差していないでしょう。過去キリスト教の宣教にそういう時代があったことも否定できません。その反省とともに、違った考えを持っている人とまずは対話し、困っているもしくは虐げられた人々の話を聞く、そして平和に向けて共に働いていこうとすること、その上でキリストの福音を曲げずに伝えていくことが問われるのではないかと思わされます。
(引用 新共同訳聖書)
*1 コリントの信徒への手紙Ⅰ 11章2-16節
*2 ガラテヤ3:26-28
*3 コリントの信徒への手紙Ⅰ 10:5 14:1-5
Aug. 16, 2024 Genesis 21:19-20
「神がハガルの目を開かれたので、彼女は水のある井戸を見つけた。彼女は行って革袋に水を満たし、子供に飲ませた。 神がその子と共におられたので、その子は成長し、荒れ野に住んで弓を射る者となった。」(創世記21章19-20節)
猛暑日が続く年です。驚いたことに、これとほぼ同じ気温が82年前の8月に名古屋市内でも記録されていたそうです。当時は冷房はありませんが、日本家屋は風通しを良くした作りで、蚊帳を使って虫をよけ、家の敷地内に木を植えて日陰を作り、井戸水を打ち水にしたりと工夫をし、なんとか乗り切ったそうです。現代では冷房がない生活が考えられません。しかし、森林の中は太陽の光が木々にさえぎられ、真夏の日中でも涼しく快適ですので、私たちは週に一度は車で森の傍まで行き、森を一時間程歩きます。
地球には、砂漠地帯のような年中酷暑の場所に住む民族もいます。古来からベドウィンなどの遊牧民は砂漠に点在するオアシスを利用し、ラクダ・羊の放牧や売買を営みながら、テントで移動生活をしています。現代は定住化する人が増え、その人口は減っているそうです。そのベドウィンの話に関連し、ハガルという女性の話が聖書に記されています。彼女はエジプト人で、古代イスラエル民族の祖先のアブラハムの妻、サラの奴隷として雇われました。神様がアブラハムとサラに子を授けると約束しましたが、高齢のサラはそれを待ちきれず、自分の代わりにハガルに夫と子供を作らせ、自分の子とすると提案しました。いざ神様の約束どおりにサラが子を授かると、彼女はハガルとその子イシュマエルを追い出すようアブラハムに要求し、哀れなハガルは息子と二人っきりで砂漠に追い出されました。ハガルが苦しんで泣いていると、天から神のみ使いが呼びかけ、井戸を見つけさせ二人を助けたというストーリです。この親子は砂漠に住み、イシュマエルから12部族の民族が生まれました。
聖書の本筋はイエス・キリストの祖先となるアブラハムとサラのストーリーですが、今回ハガルにあえて着目したのは、神様は弱い者の叫びをこの世界中のどこでも聞き逃さない方であると今一度気づかされたからです。そして、目の前にあっても、様々な事情や思いで覆いかぶされて見えなくなっている必要なもの、つまり神様のキリストに示される愛を、その人の目を開いて見せて下さります。ハガルがこの時神様への信仰を持っていたどうかは記されていませんが、虐げられ、悲しみに叫んで泣いていました。神様は、その人に信仰があってもなくても、全ての人の叫びを聞き、かわいそうに思って、助けて下さる、慈愛の方であります。その究極が、ご自身の御子イエス様を全ての人が救われるために、十字架で死なせ、復活させた出来事に現わされます。
今、戦争により生死の狭間におかれている状況、家庭内暴力、学校でのいじめ、会社でのハラスメント、多くの人々が神様を知らずに苦しみ、叫んでいます。これらの人々の声を神様が聞いて下さっていることを信じ、その方々のために祈り続けたいと思います。神様を信じることによる解放、救い、すばらしさ、そして神様にすべてを信頼し、委ねて生きることが出来ることを「知る」ことが出来るように祈りたいと思います。私たちは、明日についてどうなるかわからないので、思い煩ってもかえって心が病みます。むしろ、神様がなんとかしてくださるとすべて委ねて、神様に信頼しつつ、今生かされていることの感謝の祈りを日々ささげたいと思います。
July 28, 2024 Mark 1:40-42
「さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。」 マルコによる福音書1章40-42節
先日、施設に入所している方の面会にご家族と一緒に伺いました。その方は、病が進行し自宅での介護が困難となって最近施設に入所されました。今までは食事を摂れていたのですが、ここ数日食べなくなり始めたそうです。こちらから話かけると、目を動かされて反応しているので、耳は聞こえていて、話したくても話せない状態でお辛いだろうと察します。元気だった時のことを思いだすと悲しい思いになります。皆で讃美歌を歌って、お祈りを共にしました。私にはこの方のために何もできませんでしたが、主イエス様が共にいて下さるようにと祈りました。
「憐れみ」と一般的に言うと、どうも上から目線で「可哀そうだな」というイメージを持つ人がいるかもしれません。一方「断腸の思い」というのがありますが、これは中国の故事、はらわたが裂けるほど母猿が子猿のことを思って苦しんだのが由来とのことです。聖書(新約聖書)での「憐れみ」、「慈愛」を表す単語(原語はギリシャ語)も同じで、「腸が裂けるような苦しみ」という意味が転じて憐みという意味になったそうです。また旧約聖書の原語ヘブル語で「憐れむ」は「子宮」という単語からきており、つまり出産の際の母体の子供に対する感情、慈しみの心という意味が「憐れむ」となる、そして神様が人間を憐れむときの表現に使われている単語だそうです。
聖書に記録されているイエス様は、当時の政治的に虐げられ貧しかった民衆、治らない病を持つ人々、悪霊に取りつかれて苦しむ人々、「罪びと」と言われ社会から疎外され、同胞から差別されていた人々と積極的に関わり、「神の国」を宣べ伝え、彼らと食事を共にし、病を癒されました。イエス様の行動の動機は上記の箇所のように「深く憐れんで」と記されています。イエス様の憐みは単に可哀そうと思うだけでなく、その方々に寄り添い、共に苦しみ、そして助けるという慈愛の思いと行動を伴うものでした。その究極が、私たちが救われるために、ご自分の命を十字架で代わりに差し出したことに表されています。
私も以前、信仰から離れていて、辛く、惨めだった時、神様はかわいそうに思って、憐れんで下さり、はらわたが裂ける程の痛みをもって、共に苦しんで下さったからこそ、イエス・キリストによって私を救い出してくださったことを、深い感謝を持って思い起こします。私は神様の恵みを自分が受けるばかりで、表面的にしか他者を思いやっていなかった愛のなさを示され、悔い改めます。病にある人を思いやるだけでなく、差別で苦しむ人、「人と違う」「弱い」からなどでいじめられ、虐げられて辛い思いをしている方々のことをもっと気にかけ、共に痛みを苦しもうとするイエス様の心を少しでも持てたらと願います。
(引用 新共同訳聖書)
July 15, 2024 詩編14章2節
「主は天から人の子らを見渡し、探される 目覚めた人、神を求める人はいないか、と。」 (引用 新共同訳聖書)
先日、地域の平和を考える会に参加した時に、コスタリカという中南米の国のドキュメンタリー映画を観ました。コスタリカは軍隊を持たない世界でも珍しい国であり、その国がどのようにして超大国のプレッシャーと軍需産業が支配する世界の力関係の中で、永世中立国として独立を保ち、警察による治安維持と国際司法裁判所・国同士の話し合いによる解決だけでやってこられたその歴史と、現代の新たな問題:貧富の格差を知る機会となりました。私は20代の時に、コスタリカの村の小学校で英語の教師として働いていた友人を訪ねたことがありました。その時すでに、海外の多国籍企業の進出に起因する経済格差を感じましたが、村の子供たちの笑顔が輝いていたのが記憶に残ります。半世紀近く前より、コスタリカでは小学生から英語だけでなく、自国の平和憲法を学ぶカリキュラムがあり、教育・福祉に政府が予算をさいているとのことです。日本はどうでしょうか。
人には残念ながら、誰も教えなくとも闘争心というのを持っています。そして、それを正当化し、かっこよく見せるツールが、戦闘系のアニメ・映画・ゲームです。誰も娯楽として、気にもせずに楽しんでいますが、これらは戦わないと自分を守れない、暴力も自己防衛のために仕方がないというメンタリティーを植え付けるのに効率的です。私は平和を願うのであれば、世界のすべての国が軍隊を持たず、武器を廃棄し、国際間の紛争は国際機関による話し合いによればとかねてから願っていますが、現実は人々の間のこの暴力による戦いのメンタリティーをなくしていこうと努力しない限り、平和への道は困難でありましょう。ニュースでは犯罪の、戦争の現実が日々報道され、人々を恐れと失望感へと追いやっていきます。
しかしながら、そんな人間の状況であっても、神様は天から見渡して、目覚めた人、神を求める人はいないかと探しておられると冒頭の聖書箇所に記されています。神様は、諦めないのです。人がどんなに邪悪になろうとも、刑法的には罪をおかしていなくとも、無意識のうちに戦うことを「多少の犠牲はしかたがない、必要悪だ」と暴力を正当化し、受け入れてしまう者が、いつか平和に目覚めることを。そして平和とは、究極のところ神様にあって実現可能であり、そのことを求める人を探しておられるのだと思います。神様は「お前は悪いから、だめだ」と切り捨てず、立ち返ることを待ち*1 、弱さの中にある人々を憐れみ、助けようとされる方であります。その罪を赦そうと、この世に御子イエス・キリストを送ってくださいました。その十字架によって、どんな罪でも赦され、罪に対する罰はすべて、イエス様が十字架で追ってくれたことは、なんという神様の愛なのだろうかと、深く思わされます。死からよみがえって天におられるイエス様が神様と私たちの間に立ち、和解を取り次いでくださいます。
神様を信じず、反抗していることこそが根源的罪であり、ここから人間同士の罪に展開していくということを知り、そして悔い改め、神様に立ち帰ることが、人間同士の平和への道であると、聖書の言葉を通して、気が付くことを待っておられる。忍耐強く、何千年も。なぜそこまで、神様は待ってくださっているのかと、自分自身も赦された者として、自分のような小さな存在に目を留めて下さる神様の愛を感謝しています。まずは、武器で戦うというメンタリティーの刷り込みに対して疑問を持ち、それを無くしていくことから平和を考え、そして多くの人々が平和へ行きつく道に導かれるように、日々祈りたいと思います。「武器は農具に変えられる、もはや人々は戦うことを学ばない」*2 という神様の預言が実現されますように。
*1 エゼキエル書3章11節 参照
*2 イザヤ書2章4節 参照
June 28, 2024 Romans 10:28
「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」 ローマの信徒への手紙 8:28
30年という月日は遠い昔のように感じます。その頃のことは断片的にしか覚えていませんが、最近、30年前も神様が私をどんなに憐み、恵みを注いで下さっていたことを思い出す機会が与えられました。先日、新しく教会に赴任した教師のための、新任教師オリエンテーションに参加する恵みに預かりました。研修は非常に盛沢山の内容でしたが、何よりも同期の仲間が与えられ、お互いの召命や今に至るまでの証し、神様の恵みを分かち合うことができ、このプログラムを準備してくださった先生方に主にあって感謝しております。
講師の一人である神学校の教授の方と夕食の席でご一緒し、ある共通の話題で盛り上りました。私が約30年前に米国に国際関係論を学ぶため留学していた時、お世話になっていたカリフォルニアにある日本人教会に、その方もほぼ同時期(私が引っ越した直後と入れ違いですが)に関わっておられたのです。実はその頃、私は信仰的にスランプに陥っていた時で、教会に行っても喜びがなく、神様は私を見放しているだろうと思って心の底に深い絶望感を持っていました。卒業後、就職もうまくいかずと、様々な面で人生のどん底時代と重なり、暗い思い出ばかり。しかし、その日本人教会(シカモア教会)の牧師さんのメッセージを通して神様が、「お前は大丈夫だよ、赦されているよ」と語られているように不思議と受け取れ、それ以来行く先々の地域の教会に参加し続けている間に、信仰が徐々に回復されていったことを改めて思い出したのです。神様はこんな前からだめな、弱い私を支え、導くために、多くの方々との出会いを与えて下さったこと、そして、今に至るのかと思うと神様のなさる恵みの業に驚きと感謝でいっぱいになりました。
困難な時、苦しい時、悲しかった時は、実は神様の恵みが一番注がれている時であり、それに気づくか気づかないかの違いで、同じ状況でもどん底が喜びと感謝に変えられると思わされました。この世に生きている限りおこりうる(それが自分の失敗に起因するもの、不可抗力的なものも含め)困難、辛いことを通して、そこに神様は恵みを加え、困難の意味を変え、益に変えて下さる方であることを多くのことを振り返り、気が付かされ、感謝しています。この神様の恵の御言葉をいつも心に蓄え、何度も読んで味わい、神様によって万事が益になるように共に働くという上記の御言葉あって希望を持ちつつ、キリストによる救いの喜びで、日々祈って聖霊の導きに従って歩んでいこうと思わされました。
(引用 新共同訳聖書)
June 23, 2024 2 Corinthians 12:9-10
「すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」(コリントの信徒への手紙2 12:9-10)
2024年6月16日、益子教会にて、伝道師の就任式を関東教区議長の熊江牧師により司式をしていただきました。当日は小さい益子教会の礼拝堂は席がないほど、玄関にまで溢れてしまうほど大勢の方々が参加下さり、多くの方々から励ましの言葉を頂き、神様の祝福をたくさん頂くことができた式でした。熊江先生の「わたしの羊を飼いなさい」と題する説教にて、ご自身が若い頃伝道師として就任した時、先輩の牧師からアドバイスを受けたことを分かち合って下さいました。「神学的な知識も大事であるが、一番大事なのは信徒一人一人を愛することだよ」と言われたそうです。私もこのことを忘れずにいたいと思わされました。
今までは、信徒として、牧師の妻として足りないながらも神様と教会に仕えてきました。今後は、主任牧師と共に、神様が召して下さった益子教会にて、主イエス様の羊を任されるという重大な責務となります。このような責任を背負いきれるのか、私のような者に務まるのかと、自信はありません。しかし、召命して下さった主が必ず助けてくださるという確信を与えられ、また幸い今は主任牧師と二人体制なので、その大きな恵みに感謝し、信徒の方々の祈りにも援護して頂き、先輩先生方にも助けられて一歩踏み出していこうと思わされました。
そうこうしていると、早速、困難なことがおきました。私は出だしから、「ほら、おまえはダメだ!」と言われているかのようで、落胆させられ、就任式の喜びや感謝を奪い去られそうになりました。そんな時、上記の「すると主は、わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」が私に与えられ、立ち直ることができました。これからも主イエスの羊に愛を持って仕える上で、うまくいかないことがたくさんあると予想されます。私はうまく対応できない、ダメな者であっても、主イエス・キリストにますます頼り、たとえ困難な状況が変わらなくとも、困難な状況自体を恵みに変えてくだるという、弱さの中に働かれる主の力に希望を持っていこうと励まされました。そして、神様の御言葉を語り続け、御言葉で主の羊を養うことを徹底していきたいと思います。神様は真実な方ですから、御言葉の約束通りに、このような弱い僕をもいつも御言葉によってタイムリーに励まし、強めて奉仕にあたらせて下さることを信じ、神様の御心にそって、牧会していけるように、絶えず祈っていきたいと思います。
(引用 新共同訳聖書)
June 7, 2024
「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ローマの信徒への手紙 10:17)
先日、医療ソーシャルワーカーとして4年間務めた地域の病院を退職しました。益子の町に引っ越す前に仕事を探し、面接を受けた時は、まさか新型コロナウイルスの感染が拡大するとは予期していませんでした。ですから、このような世界的大混乱の時期に医療従事者として働き始めた時は「なぜこんな時期に、よりによって病院で」と思いましたが、神様が与えた職場と信じ、とにかく必死で勤めておりました。そして気が付くと、コロナにかかることもなく4年間が過ぎ、職員の方々に温かく送り出して頂き感謝でした。退職の理由について聞かれ、教会で伝道の働きに専念することを何人かの方々に話すと、「僕もミッションスクールに通っていたんですよ」「教会の礼拝にはいったことありますよ」「教会に行くとお茶とお菓子は出ますか?」「突然、行っても平気なのですか」など好意的なコメントをいただきました。「ぜひ一度益子教会にいらしてください」と伝えることができ、神様がこの病院に私を置かれたのも意味があったのだろうと実感しました。そして何よりも、病院という人の生死を日々目の当たりにする場で働く機会があったからこそ、今、キリストの福音を伝える伝道者になるようにと、神様からの召命を受けることが出来たのです。
2024年5月29日、日本基督教団関東教区総会にて准允を授かり、益子教会の担任教師(伝道師)として正式に遣わされました。益子教会へ2020年4月に牧師である夫と共に赴任してきた時は、信徒は私一人でした。しかし、一人二人と神様が信徒を加えて下さり、多くの方々にお祈りと献金で益子伝道を支えていただいことは感謝につきません。すべてが神様の恵みであります。これからは、主任牧師と共に益子での宣教活動を神様の導きに従って、その方法についても具体的に祈り、信仰で踏み出していきたいと願っています。准允式の司式をしてくださった先生がローマ信徒への手紙10章8-18節より説教をしてくださりました。
「ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。 」ローマ信徒への手紙10章14-15節
という御言葉を通して、伝道師としてこれから歩みにおいて、福音を宣べ伝える上で試練や困難があることを、「良い知らせを伝える者の足」は汚れてしまうかもしれないと例えられていました。私は実は気弱で欠けの多い者であり、困難や試練で挫けそうになるかもしれません。しかしながら神様からの召命の確かさを信じ、神様の助けと聖霊の導きによって、キリストの福音:良い知らせを宣べ伝える者として歩んでいきたいと、身の引き締まる思いで准允を受けました。たとえ私の足は美しくなく弱くとも、良い知らせ:福音の内容自体が神様の救いの美しさであるがゆえに、その救いの美しさが、伝える者の足をも強めてくれるのではないかと信じます。
キリストの言葉を一人でも多くの方々に伝え、聞いた方々に聖霊が働かれ信仰に導かれるように祈りつつ、神様とキリストの教会に仕えていきたいと願います。
(引用 新共同訳聖書)
May 18, 2024 神様を見ることはできますか?
「イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」ヨハネによる福音書20章29節
先日、ある方から質問を受けました。聖書には「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子だけである神、この方が神を示されたのである。」*1と書いてあるけれど、旧約聖書には人が神を見たことがいくつかかいてある。どう理解したらよいのか、と。
わたしはその日、聖霊の働きについて話をしたところで、聖霊は「あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」、「あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(ヨハネ16:13,14:26)とイエス様が話されたことに対しの問いであり、自分は注解書を調べても、聖霊によってもいまだにこの問題が悟れないとおっしゃるのです。私は旧約の箇所で長老たちが「神を見た」のは足元だけの描写しか記されていないので*2、全部の姿を見たわけではないと解釈していたこと、基本的には幻や夢などでしか人は神様を見ていないだろうと告げると、その方は、他にも旧約聖書に「主は…顔と顔を合わせてモーセと語られた」とか、「私は神を見てなお、・・・」と記されている箇所があると。
その方は、わたしよりも聖書を勉強し、知識はたくさん持っておられるのかと察します。しかし、神様の御言葉は神学的知識や学術的なことですべて解明できるものではなく、また聖書に書いてあることの中で整合性がとれていない事柄もあり、ここに少し、あそこに少し記されているという面もあります。私は、その整合性についてはわからないと申し上げた上で、神様は霊なので(イザヤ31:3,ヨハネ4:24)、基本的にわたしたち人間には神様を生で見ることが出来ないと思うし、幻や夢で部分的に見た人々はいても、物理的にこの体で神様を見ることはできないと理解していますと伝えました。「聖霊が、その時になれば、~さんに納得されるようにこのことを示してくださるでしょう」と言いますと、了承されました。
神の独り子である、神であるイエス様だけが、神様をじかに見ることができ、私たちが直接見ることができるのは、天国に行って新しい復活の身体でもって神様を見られる時ではと私は期待しています。私は、今、神様やイエス・キリストが目にみえなくとも、聖霊が私の心に住んでおられ、神様が共にいてくださっている、その臨在を信じています。なぜなら、今までの信仰生活で、その時その時に必要なみ言葉の理解、悟り、知識が与えられる、つまりこれまで生きてきた上での様々な状況に応じて神様が導き、必要なことを恵みとして与え、守られてきているという体験があるからです。聖書を読んでいて分からないこと、疑問はたくさんあります。そのような質問に対するお互いの理解を分かち合えることは幸いだと感謝します。そして互いに祈りつつ、もっと神様を知って、信頼していきたいと願います。神様は信仰の成長の度合いや必要に応じて、その人に納得がいく理解を、聖霊を通して与えてくださると信じます。
「また言われた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」 更に、主は言われた。「見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。あなたはその岩のそばに立ちなさい。わが栄光が通り過ぎるとき、わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、わたしの手であなたを覆う。 わたしが手を離すとき、あなたはわたしの後ろを見るが、わたしの顔は見えない。」出エジプト記33:20-23節
*1 ヨハネによる福音書1章18節
*2 出エジプト記24:9-11「…彼らがイスラエルの神を見ると、その御足の下にはサファイアの敷石のようなものがあり、それはまさに大空のように澄んでいた。神はイスラエルの民の代表者たちに向かって手を伸ばされなかったので、彼らは神を見て、食べ、また飲んだ。」
(引用 新共同訳聖書)
May 1, 2024 Psalms 42:2-6 心の渇きを満たす水
天気の良い日に、数時間、教会の庭の草取りをしていて軽い熱中症にかかりました。そうならないように、たくさん水を飲みながら、帽子もかぶって作業をしていたのですが。しばらくの間、頭痛が生じ、身体が水分を欲している状態で、のどが渇いてしかたがありませんでした。
身体には水分補給が必須で、脱水状態は致命的です。同様に、下記の詩で、魂が渇くという表現があります。それはまるで、涸れた谷に鹿が、水を求めるようだと、詩編の作者は表現しています。生きるために動物も水を求めてさまよいます。人は、魂の渇きが満たされることを欲してさまよいます。どんなに裕福でも、家族が健康で生活が満ち足りていたとしても、何か心が満たされない、心にぽっかり穴が開いていて、それを埋めてくれるものを探し求めているのではないでしょうか。先日ある方が、「寂しくて、ついSNSをしてしまうんです」と言われていました。そしてそのSNSの言葉で自分が傷ついて、不安になってしまうという繰り返しだと。人の飢え渇きを満たせるのは、誰かの言葉ではなく、自分の才能でもなく、実は人間を創られた神様、命を与える神様であることを、聖書は記しています。
神の御子であるイエス様はこの世に来られた時、一人の女性と井戸端で話をされました。彼女が井戸に水を汲みにきていたところに、イエス様は水の話をされます。
「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネによる福音書4:13-14)
また、エルサレムでの祭りに集まっている人々に「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」(ヨハネによる福音書7:37-38)と言われました。
心の、魂の飢え渇きを満たせるのは、救い主であるイエス様だけです。イエス様が与える水については「御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われた」(同7:39)と記されています。この霊は、聖霊といって、イエス様を救い主と信じる人に与えられ、この聖霊によって神様とイエス様と祈り、また導かれ、聖書の書いてあることを理解でき、また必要な時にみ言葉を思い出すことができるように、助け主として私たちの心の内側に住まれ、働いてくださる方です。
この詩編の作者のように、一時的に神様を見失いになるほど、神様はどこにおられるのかと、苦しみの中で追い詰められ、呻くことは信仰を持っていてもあり得ます。しかし、そんな苦難の中においても、「なぜ、うなだれるのか、私の魂よ、神を待ち望もう!」と自身が自分の魂に激励できるのです。なぜなら、今まで神様が自分をどれ程愛してくださったかを、イエス様の十字架を通して知り、心に喜びが溢れ、神様の愛で満たされた経験をしてきたからです。この神様の愛を受け取ることができ、信仰が与えられているからこそ、今すぐ神様の助けが得られなくとも、祈り続けても状況がなかなか変わらなくとも、希望を失わずに、きっと神様が助けて下さる、ふさがれている道を開いてくださる、閉ざされた扉を開けてくださると信じて、耐え忍ぶことができます。
一人でも多くの方が、イエス・キリストに出会い、神様の愛で心が満たされるよう、困難な状況にあっても神様の助けを得て日々歩めますよう、祈り求めたいと思います。
「涸れた谷に鹿が水を求めるように 神よ、わたしの魂はあなたを求める。
神に、命の神に、わたしの魂は渇く。
いつ御前に出て 神の御顔を仰ぐことができるのか。
昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。
人は絶え間なく言う 「お前の神はどこにいる」と。
5わたしは魂を注ぎ出し、思い起こす
喜び歌い感謝をささげる声の中を
祭りに集う人の群れと共に進み
神の家に入り、ひれ伏したことを。
6なぜうなだれるのか、わたしの魂よ なぜ呻くのか。
神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう
「御顔こそ、わたしの救い」と。」 詩編42編2-6節
(引用 新共同訳聖書)
Apr. 13, 2024 Psalms 23:1-5 春の嵐における小さな配慮
先日、台風並みの暴風雨が関東一体を覆い、そんな日に限って埼玉の森林公園に夫と出かける予定を立てていました。しかし、他の用事で埼玉まで車で出かけていたため、雨風が車を叩きつける中「奇跡的にちょうど雨が止んでくれれば」と、一応公園の入り口まで行ってみました。時は朝の11時頃、突然雨が止み始めたのです。公園の受付の方も悪天候で誰も来訪者がいない中、物好きなビジターを「いやーちょうど止んできましたね!」と迎えて下さり、公園内を歩き出す頃にはすっかり雨は止んでいました。そして5㎞近く、桜や、ポピー、ネモフィラなどを鑑賞しながら広い公園内歩くことができました。実はこの冬の間、仕事と勉強、教会のこと等で全く時間がとれず、ゆっくり歩く時間もなかったので、神様は悪天候の中、歩く機会と久しぶりにリフレッシュする機会を与えてくださったのだと、その絶秒なタイミングに驚きと感動で、喜びがいっぱいの日となりました。このような、ほんの小さいことから、人生を変えるような大きなことまで、いつも神様のタイミングと配慮によって日々たくさんの恵みを与えられていることを改めて感謝しました。
主イエス様と私たちキリスト者の関係は良い羊飼いと羊の関係に非常によく描写されます。イエス様はご自分を「私は良い羊飼いです。」と言われます。良い羊飼いは自分の所有する羊を大切にケアし、守る。羊飼いは、羊を良く知っていて、羊も羊飼いを知り、その声を他の羊飼いのものと聞き分ける能力を持つそうです。羊は群れでしか行動できず群れからはぐれると自力で帰ってくることができないので、羊はその生活すべてにおいて、羊飼いを頼って生きる動物です。下記の詩編23編は良い羊飼いであるイエス様の愛のご性質が示され、弱く、助けが常に必要な私たちをイエス様は養い、導いて下さることが書かれています。
羊は羊飼いを信頼し、委ねて安心して生きるように、私たちはイエス様の羊であり、日常的に大切に扱われていること、また迷いそうになったら正しい道に軌道修正してくださること、危険な状況から守ってくださることを生活の中で体験し、その度に安心してすべてを委ねようと信頼することができます。何か心揺さぶることがおこっても、下記の詩編23編を思い出し、良い羊飼いであるイエス様がわたしと共にいて下さることを思い出し、私たちの魂のケアをしてくださるその大きな愛のなかに安心して憩い、イエス様の声(みことば)に聞き従って日々歩んで行きたいと思います。
「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
主はわたしを青草の原に休ませ
憩いの水のほとりに伴い 魂を生き返らせてくださる。
主は御名にふさわしく わたしを正しい道に導かれる。
死の陰の谷を行くときも わたしは災いを恐れない。
あなたがわたしと共にいてくださる。
あなたの鞭、あなたの杖 それがわたしを力づける。」 詩編23編1-5節
(引用 新共同訳聖書)
Mar. 24, 2024 Acts 16:15 ヨーロッパの最初の教会
そして、彼女も家族の者も洗礼を受けたが、そのとき、「私が主を信じる者だとお思いでしたら、どうぞ、私の家に来てお泊まりください」と言ってわたしたちを招待し、無理に承知させた。 使徒言行録16章15節
私の両親は、家で伝道者を招いて定期的に家庭集会を開いていました。小学生の頃、母が家庭集会のために用意する特別なお菓子を一緒に食べられるのが楽しみでした。その頃から、自分が大人になったらおいしいお菓子とお茶を用意して、少人数で集まって聖書を学び、賛美をし、お祈りをしあうという集会を家で開きたいなと漠然と思ったものです。その後私が大人になってから、ある方々が提供してくださるご家庭や、自分の家にて定期的に家庭集会を開くことができたのは神様の恵であり、神様は私の小さな思いを覚えて実現させて下さったのだと感動します。クリスチャンの方だけでなく、そのママ友や、聖書を見たこともないけれど興味をもって参加してくださる方々が集ってくださり、少人数ですが、毎回よき交わりの時が与えられました。
初期キリスト教の教会は、家庭集会から始まったことが聖書に記録されています。使徒パウロが、当時の地中海沿岸・内陸地域へ伝道旅行を徒歩や船で周り、行く先々でキリストの福音を伝え、それを聞いて信じた人々が家に集まって礼拝をし、それが当時の世界に広がっていきました。リディアという女性は、使徒パウロが第二伝道旅行において、フィリピという都市で伝道した時に、「主が彼女の心を開かれ」(使徒16:14)イエス・キリストを信じた女性です。パウロの一行にとって、ピリピがヨーロッパ地域で最初に伝道をした街であります。彼女は「ティアティラ市出身の紫布を商う人で、神をあがめるリディアという婦人」(使徒16:14)とあるように、小アジアのテアテラ市(黙示録の七つの教会の一つ、黙示2:18-29参照)の出身の人でした。
リディアは信じた直後、彼女もその家族も洗礼を受け、パウロ達を家でもてなそうとして、強いて泊まるように招待したとあります。「私が主を信じる者だとお思いでしたら」という箇所は、「私が主に対して忠実な者と思うならば」とも訳せるとされます 。彼女は信じたばかりで、すでにイエス・キリストを「主」と呼ぶことの深い意味を理解し、自身は主イエスに従う者、忠実な者となった、もしくはなろうと決意しての発言ではないかと思います。彼女が家に彼らを引き留める理由は、彼女の救われた喜びと感謝により、もてなしを申し出たのかもしれませんが、それをパウロたちが受けたのは、単に彼女の押しの強さによってではなく、彼女の主イエスに対する真実を尽くそうとする態度も見て、安心して泊まったのではないかと思うのです。そしてフィリピの町の教会はリディアと、後に救われた看取の家の集会から発展していったようです。
私はイエス様を「主」と呼ぶとき、どれだけイエス様に従っていこう、真実を尽くそうという覚悟があるのかが、この箇所を読んで問われます。主と呼ぶからには、私は主の僕であり、そしてイエス・キリストは私たち(複数)教会の主であります。その主に信頼してすべてを委ね、自分の思いではなく、神様の思い(御心)がなるよう、聖霊の助けにより祈り求めていきたいと願います。
(引用 新共同訳聖書)
Mar. 20, 2024 Mark 14:23-24
また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。 そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。 マルコによる福音書14章23-24節
春の強風が吹くある日、古河市にある桃園に行きました。日本でも最大の桃園とありましたが、実際に行ってみてその桃の木の数は圧巻でした。ピンク色の美しい桃が満開で、鶯が時折花の蜜をせわしく吸っていましたが、ピンクの中に際立つ赤い桃の木に目が留まりました。数は少ないですが、赤という色はとても目立ちます。一般に何かの注意を引くサインは、大概赤色なのはそのためでしょう。
聖書のストーリーの中に、「赤い紐」によって救われた女性の話がヨシュア記に記されています。紀元前16世紀頃(諸説あり)、イスラエル民族がカナンの地(現代のパレスチナ地域)にあるエリコという町を攻略する際、先にスパイが送られました。そのスパイ潜入の情報は漏れ、追手がスパイ達に迫った時、町の城壁に住むラハブという娼婦の女性が彼らをかくまいました。そして、スパイたちは彼女とその家族を救い出す印として、赤い紐を彼女の家の窓に結び付けるように指示しました。その後、イスラエル軍がこのエリコの町を攻めた時、彼女と彼女の家族はこの赤いしるしにより助けられました。彼女は異民族であり、異教の神を信じる環境で、娼婦という職業をしていたにもかかわらず、イスラエル人の信じている偉大な神のうわさを聞き、真の神であり、信じれば救われると信じて勇気ある行動を起こしたのです。彼女は「あなたたちの神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられるからです。」*とその信仰を告白しました。
この赤い紐は、エジプトで奴隷状態のイスラエルの民がエジプトを脱出する時に、家の門柱の鴨居に塗った過越の小羊の血と、イエス様の十字架の血潮を象徴すると解釈されています。キリストが流された血潮を自分の為だと受け入れ信じる人には、神様は私たちの罪を赦し、その怒りを下すことはなさいません。神様は、私たちがどのような者であるか、過去に何をしたか、どんな生まれかを問われず、ただ信仰によって救われ、赦されるという型がラハブのストーリーにも示されていることは、現代に生きる私たちに希望を与えます。
赤い色の花を見る時、イエス様の十字架で流された血潮が思い起こされます。神の子であるのに人としてお生まれになり、人と同じ体を持って地上で神の国の到来を宣べ伝え、およそ人が体験しうる究極の苦しみ、悲しみ、痛み、恥を十字架の受難において経験してくださったのは、私の罪が赦されるためでした。そのイエス・キリストの大きな犠牲に示される神様の愛を深く感謝し、イエス様の復活を祝うイースターを迎えたいと思います。
*ヨシュア記 2:11
Mar. 9, 2024 John 21:5
「食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。」 ヨハネによる福音書21章15節
人は大きな失敗をしてしまうと、そこから立ち直るのに時間がかかります。また取り返しがつかないことを他者に対してした場合、罪責感がずっと残り、心の闇を持ちながら生きていかなければならない場合もあるでしょう。そんな状態から解放されるには、誰かからの励ましの言葉、慰めの言葉、そして何よりも、赦しの言葉であります。私も若い時、ある方へ謝りたいと思いつつ機会を逸し、その罪責感が重くのしかかった時期がありました。ある日神様は、そんな私にその相手に謝る機会を与えて下さり、その方は私を赦してくれました。心の重荷がとりさられ、本当に嬉しかったです。
イエス様の弟子の一人にペトロという人がいました。イエス様が十字架にかかって死なれ、3日後に復活されて、エルサレムにいた弟子たちに現れましたが、その後、ペトロを含む7人の弟子たちは、ガリラヤへ戻っていたとヨハネの福音書に記されています。弟子たちとって、イエス様が復活したことは大きな喜びでしたが、ペトロはちょっと複雑な気持ちだったことでしょう。なぜなら、イエス様が逮捕された時、弟子たちはみな逃げましたが、ペトロはその後をついていったために、恐れにより3度もイエス様を「知らない」「わたしは仲間じゃない」と周りの人々へ公言してしまったのです。そのことで、ペトロはイエス様に会わせる顔がない、自分はもはや弟子としてふさわしくないという失意の念を抱え、今後、どうしたらいいのかわからないまま、再び故郷に戻って漁師をしていたのかもしれません。
そこへ、復活されたイエス様が現れました。そして弟子たちと朝食を食べられ、その後ペトロに「ヨハネの子シモン、この人たち以上に、私を愛しているか」と三度聞かれます。これは、ペトロが三度イエス様を「知らない」といったことに対応して、もう一度イエス様の弟子として再出発させる機会を与えているようです。落ち込んでいるペトロを励まし、再びイエス様の羊を養い、世話をするように召命を与えている箇所だと言われます。私は、このことはペトロにとって、イエス様からの「赦しの言葉」を受け取る機会でもあったのだろうと思うのです。
神様は、私たち人間が弱さゆえに犯す罪を赦し、更に新たな使命を与えるために召命し、再出発させてくださる方です。すべての負い目、苦しみ、痛み、恥を取り除いて下さるために、神様は、御子イエス・キリストを私たちの罪の代わりに十字架で死なせるという方法をとられ、イエス様はその苦難を受けて下さり、そして復活されました。イエス様は天に戻られましたが、この世で生きる私たちを助け導くために、神様は聖霊を、キリストを信じる私たちの心に送って下さりました。私たちは赦しを受け取り、感謝しつつ、イエス様から与えられた使命を、生きている間に聖霊の力により果たしていければと願います。このことは私の性格や能力では不可能ですが、神様には不可能なことはないと、聖書の御言葉を通して約束が与えられています。私たちは、キリストを結ばれることで不可能が可能になると信じ、生きる希望が与えられること、また困難の多い世の中にあっても慰めと励ましが与えられ、聖霊が導いてくださるとう確信が与えられていることはなんと幸いでしょうか。
Mar. 1, 2024 世界にひとつしかない個体
「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。」コリントの信徒への手紙Ⅱ 4章16節
久しぶりに井頭公園へ散歩に行くと、水辺のカモたちに癒されました。まじまじと見ていると、一匹一匹みな頭や羽の色が異なっています。人なつこいカモは恐れもせず私たちのほうへ近寄ってきました。とても可愛らしく、見ているだけで和みます。カモだけでなく、人間も一人一人、耳の形、指紋等異なると言いますが、自然に造られたものは人口で作られるコピーと異なり、一個体ずつオリジナルです。つまり、人間も生物も世界に一つとして同じものがないと考えると、それが偶然に進化してそうなったという仮説を信じることに困難を覚えます。むしろ想像を超えた力を持つ、全能の神様がすべてを一から創造したというほうが、私は納得がいきます。
一方、自然界の壮大さや美しさを通して神の存在を覚えたとしても、それはどの神様なのか特定できません。昔から人は、自然自体、つまり太陽などを神として拝み、人が「これが神だ」と各々決めるので、各地域によって神々が異なります。こうして神々が数えきれないほど出来上がり、自然を通して知れうる神は相対的になりがちであり、例えば太陽と会話もできないし、関係性を持つことができません。
聖書が啓示する神様は、どのような性質を持つのかを私たちは知ることが出来ます。なぜなら、神の御子イエス・キリストが人となってこの世にこられたので、イエス様と人格的な知り合い方が可能であるからです。人格的な知り合い方ができると、神様と人との間に関係性が出来上がります。もちろん、2000年前に地上におられたイエス様と今私は会えませんが、聖書の言葉を通してイエス様を知り、そしてキリストを通して神様がどういうお方なのかを知ることが出来ます。神様は世界に一人しかいない私を愛して、恵みをたくさん与えようとしておられると分かります。逆にキリスト以外の方法で神様を知ることはできないのです。キリストを通して表される神様は唯一の本当の神様であり、キリストの十字架の死によって人間の罪を赦す方です。さらに神様は赦した後、その人をキリストと結ばせて新しく造られると聖書は記しています*1。新しく造られても、この体で生きている間外見は変わりませんが、内側が新しく造られると、神様の愛に信仰で応答していくという神様との温かい関係性が与えられることが幸いです。外側は衰えていっても、聖霊の働きで内なる人は、少しずつキリストのような性質に変えられて、新しくされていくという希望の約束が聖書に記されているので励まされます。
自分を見ると、変わっていないと落胆します。相変わらず、言葉で失敗しますし、感情的になることがあるからです。しかしながら、古い自分、つまりキリストを信じる前の自分はもはや存在していないことは確かであり、与えられた神の霊(聖霊)によって、神様から恵みとして与えられたものを知り*2、感謝の思いで満たされることを通して新しい創造を実感しています。下記の御言葉にあるように神様の約束を信じ、すぐに変わらない自分にも忍耐していこうと思います。自分の努力や性格、能力で変えられるのではなく、恵みによって、聖霊の働きで変えられていくことを信じ、神様に従っていくと決め、祈り求めていきたいと願います。
*1「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」 コリントの信徒への手紙二 5:17
*2「わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、“霊”に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。 」コリントの信徒への手紙一 2:12-13 (新共同訳聖書 引用)
Feb. 29, 2024 Romans 8:26-27
「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。 人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。」 ローマの信徒への手紙8章26-27節
生活のなかで、何かを人にお願いるとき、「できれば」「可能であれば」という前置きをつけることがあります。それは、相手に無理がないようにという配慮で言う場合と、ダメもとで、つまりできないかもしれないけれども頼んでみようという場合があると思います。しかし、緊急で必死の依頼の時は、相手の状況を構わず頼むでしょう。例えば、自分の子供が死にそうになっていて、治療について医者と話すときは、「できれば」と言う余裕はなく、「なんとか命を救ってください!」と必死になると思います。それに対して医者は、人間の能力には限界がありますから、「ベストをつくしますが(できないかもしれませんが、ご了承ください)」と答えるかもしれません
約2000年前、まだ医療が未発達の時に、ある子どもがいわゆる自傷行為を繰り返し、錯乱状態で自分をコントロールできない、なんとも痛ましい状況にありました。その原因が霊にとりつかれているためで、その霊がその子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込んたと聖書は記録しています。その子の親は祈祷してもらってなんとか霊を追い出してほしいとイエス様の弟子たちに頼みましたが、効果がなく、絶望状態でした。そこへイエス様が登場し、おそらく半ば諦めモードでその親は「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」と言いました。すると、「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」*とイエス様は言われました。その子の父親すぐに必死に「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」と叫びました。すると、イエス様は霊に命じて、その子から出るように命じ、その子は正気にもどりました。
この箇所を読むと、この親の発言「信じます。でも私は信仰がないのです:信じられないのです」と逆のことを同時に言っていることに気づきます。しかしこの親は、自分の不信仰をイエス様の前に悔い改めて告白しているのです。信じきれない自分でありますが、助けてくださいと叫んでいるのです。つまり、元来は子どもの為にお願いをしていたのですが、そのことを通して、自分とイエス様の関係において、信じられない自分、不信仰な自分に気づき、悔い改め、こんな自分を助けてくださいとの祈りに変わったのではないでしょうか。、
長い間祈り続けても、祈りが聞かれない、もしくは病がいやされないで闘病生活が長く続くと、不信仰になってしまうことも仕方がないと思います。そんな自分の状態であっても、正直に神様の前に祈りにおいて告白し、その上で「主よ、助けてください。あなたはすべてをコントロールしている方です。私の信仰を増し加えてください。」と祈れることは幸いです。疑ってしまう自分、強い確信をもって信じ切れていなくとも、神様は憐み深い方であるゆえに、イエス様を通して、天の父なる神様に祈り続けていこうと励まされます。さらに、下記の御言葉にあるように、どう祈ってよいかわからなくとも、私たちに与えられている聖霊が代わりに天の父に祈ってくれるとの約束が与えられていること、大きな慰めが与えられます。
*マルコによる福音書9章23節
Jan. 27, 2023
「 十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」コリントの信徒への手紙1:18
「十字架のネックレスって素敵ですよね」最近、教会に来始めた高校生が言った言葉です。彼女が教会に来たいと思ったきっかけの一つは、教会の十字架、教会の建物、十字架のネックレスが素敵だなあと思ったからだそうです。きっかけが何であれ、教会を尋ねてきてくれたことは私たちにとって大きな喜びです。現代では、十字架のイメージはこのように素敵なものですが、もともとは処刑の道具です。しかも、イエス様が十字架にかかった時代は、最も残酷な処刑の一つでしたので、十字架イコール呪いのイメージであったと思います。処刑された人が復活した神であると、宣べ伝えられていた時、人々の常識的な反応はおそらく、ばかばかしいと思って信じなかったのではないかと想像します。しかし、同じ十字架の言葉が語られ、ある人にはそれが神様の力により信仰に導かれて、今日に至っているとは驚きです。これこそ人間業ではありえない、神様の業の力ではないでしょうか。
キリストの使徒パウロが人々に最も伝えたかったことの中心的テーマは、この十字架の言葉です。十字架につけられたイエス・キリストを宣べ伝えており、それは当時のギリシア人にとっては愚かな話であり、ユダヤ人にとってはつまづきとなる内容でした。しかし、この十字架の言葉は神の知恵、神の力であると使徒パウロは説明しています。人の知恵では理解しがたい内容であっても、神の知恵にかなった、神様の救いの業が十字架の言葉に示されているからです。神様は十字架で死なれたイエス様を3日目に復活させ、そのことが福音として全世界に宣べ伝えられ、それを聞いた人々が信じて救いがもたらされる、という手段を神様はお考えになりました。日本の場合は、フランシスコ・ザビエル宣教師が大変な思いをして日本に福音を伝えて以来、迫害の時代を経て、今自由にキリストを信じて教会に集える時代となっていることを考えると、本当に昔の宣教師の方々の信仰と勇気と、それを導いてくださった主に感謝の思いが湧いてきます。
イエス様の十字架の死は、私たちの罪のためであり、私たちが赦されて救いを得られるために、イエス様は復活されました(ローマ4:25)。洗礼が、古い自分のお葬式と新しい自分が生まれる誕生日を象徴するように、神様から与えられる霊(聖霊)によって神様の恵を知るようになり(コリント一2:12)、将来に救いが完成することを待望しつつ、この世の歩みを主イエス様とともに歩めることは幸いだと改めて思わされました。
Dec.16, 2023 Luke 1:45
「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」 ルカによる福音書1章45節
クリスマスの季節、改めて聖書を読んで気づかされたことがあります。「あなたはみごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。」と天使のお告げを受けたマリアは、すぐに親類のエリザベトの家に出かけました。高齢で不妊であったエリサベトが、神様の奇跡で妊娠したということを聞いたからでしょう。マリアは予告なしに、エリサベトを訪問したわけですが、彼女はマリアから「おばさん、こんにちは!」(予想です)と挨拶を聞いた時、胎内の子が喜んで躍ったことを感じ、マリアが救い主イエス様を胎内に宿していることを聞く前に、「主のお母さまが来られるとは!」とマリアに与えられた恵を知っていったとは、驚くべきことだと思わされました。エリザベトはマリアに起こっていることを聖霊によって知らされて「わかってしまった」わけです。救い主イエス様が生まれることの喜びが、聖霊により、胎内にいる赤ちゃんにも、エリサベトにも伝えられたとは、不思議なことです。しかもマリアが「お言葉通りこの身になりますように」(ルカ1・38)とみ使いに言ったことも、マリアが何もいわなくともエリザベトはわかって、「主なる神様が『こうなる』と言われたことを疑わずに実現すると信じたあなたは幸いだわ!」と感極まってマリアに言ったのでしょう(ルカ1・45)。
私たちも御言葉を通して、神様の約束は必ず実現すると信じる信仰が与えられているので、実は同じように幸いなのです。その約束は、主イエス・キリストを信じれば救われ、永遠の命が与えられるということ(ヨハネ3・16)、また信じると聖霊が与えられ(ヨハネ14・16)、上記のエリサベトのように理性や知識を超えた方法で、聖霊により示される(ヨハネ14・26)ということです。つまり個人的に神様から啓示されたことを、頭の知識としてではなく、自分の身に及ぶ(信じられる)ということを体験することができます。
また、この信仰により地上の生活が、困難であっても、いつか再びイエス様が来られ、完全なものが来るという希望が与えられ、励まされてこの世を生きていくことができます。この希望がクリスマスの喜びでもあります。クリスマスは、神様が神の子であるイエス様をこの世に人として送った出来事であり、その命を十字架上で犠牲にするほどに、神様が私たちを愛してくださっていることを表しています。その愛を受け取ると信仰が与えられ、希望が与えられるからです。そして神様とイエス様との霊の交わりに、与えられた聖霊によって私たちをも招いて下さります。この愛の中に、感謝と喜びを持って日々歩んで参りたいと思います。「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」(コリント一13・13)。
Nov. 25, 2023 ハープによる祈り
「【指揮者によって。伴奏付き。ダビデの詩。】
神よ、わたしの叫びを聞き わたしの祈りに耳を傾けてください。
心が挫けるとき 地の果てからあなたを呼びます。
高くそびえる岩山の上に わたしを導いてください。
あなたは常にわたしの避けどころ 敵に対する力強い塔となってくださいます。
あなたの幕屋にわたしはとこしえに宿り あなたの翼を避けどころとして隠れます」
詩編61編1-5節 (新共同訳聖書)
「俺もすてたもんじゃないな、と思えた。」
これはあるホームレスの方が、ハープによる演奏と歌を聴いて、その感想を後から手紙でつづった中の一言です。彼は、おそらく生きることになんらかの絶望感を抱き、社会生活から身を引いて路上生活をされていたのだと思います。そんな彼が、たまたま山谷にある施設でのハープの演奏の会に飛び入りで参加し、心が癒されたのではないかと察します。
先日、リラ・プレカリア(祈りのたて琴)といって、病床にある方や、精神的な痛みを抱えている人のもとに訪問して、ハープの演奏と祈りを届ける活動をしている方の講演を聞きました。ハープの音色を聴くだけでも素晴らしかったのですが、演奏者の方々はラテン語の歌を歌います。それはあえて歌詞を理解できない曲を用いる、つまり思い出のある歌等を用いず、心を解放するためになじみのないケルト系の子守歌、テ-ゼ、グレゴリオ聖歌を、利用者の呼吸に合わせて歌を奏でるそうです。音楽を導くのは利用者自身だそうで、相手に合わせてハープを奏で、歌を歌い、沈黙の時間も持たれるそうです。その利用者に与える影響は、深く、大きく、そして静かにその人の魂の深いところへ、言葉を超えた方法で届くそうです。
古代のイスラエルの王であったダビデは竪琴の奏者であり、シンガーソングライターでした。彼の歌は詩編という聖書の書簡にたくさん記されています。私たちは詩編を読み、その詩を神様への祈りとしてとらえることが出来ます。その内容は、悲しみ、怒り、恐れなども含み、正直な感情や思いを神様に訴えていますが、どんな状況にあっても助けて下さる神様への信頼、感謝が含まれています。人生に絶望的になっている方、心の病気で苦しんでいる方、身体の疼痛で苦しむ方がこのハープを聞いてNoされるのと同じように、私たちも聖書の言葉を読み、聞き、そして賛美の歌を歌うことで生活の様々な局面で、励まされ、助けが与えられ、そして慰められます。聖書のことばは、私たちの生きる力となります。そして、聖書の言葉を深く理解し、自分への言葉として受け止めるには、神様の霊(聖霊)が必要です。
この路上生活者の方は、それが直接の聖書のことばではなくとも、演奏者が祈りをもって届ける音楽を通して、神様の霊が彼の心に触れたからこそ、人生を捨てて生きる以外の、自分の道があると悟ったのではないでしょうか。神様が愛するために造られた人間を、神様は決して見捨てられません。私はハープは弾けませんが、神様の御言葉を機会があるごとに、一人一人に届けていきたいと願います。
Oct. 30, 2023 Psalm 119:105
「あなたのみ言葉は わたしの道の光 わたしの歩みを照らす灯」 詩編119編105節
真っ暗な道、もしくは停電になって暗闇になった時、懐中電灯やロウソクの光が必要です。
上記は、神様のみ言葉はわたしの道の光であり、歩みを照らす灯だという詩編です。灯とはいわゆる現代でいる懐中電灯のような、ランプの小さな光です。それは自動車のヘッドライトのようではなく、また道路の高いところにあるライトのように先まで照らす光ではありません。真っ暗な道を一歩一歩、歩んでいくとき、その足元を照らす光です。懐中電灯では遠くの先までは見えないけれども、その光があれば、とりあえず安全に歩いていけます。そうして、少しづつ進んでいくと見えない物が見えてきます。
神様の計画も同様ではないでしょうか。私たちは明日のことや 来年がどうなるかがわからなくとも、今日という日に 日々の食べ物が与えられ、守られる、他者と争わずにお互い赦し合う、そのような生活がみ言葉の光によって可能となります。そこには、神様にお任せするという信頼が必要となります。もし不安な気持ちになれば、信頼できるように「信仰を増し加えて下さい」と祈れば必ず恵みとして増し加えてくださいます。そしてその信仰があれば、この先どうなるのかなと不安になることはなく、落ち着いて日々暮らせます。神様の示す道は、少しづづなのです。一遍に一週間分、一か月分を詳細を示されません。信仰によって歩むとは、このようにすべてわからなくとも、神様に信頼して、今わかることで平安に前進していくことでしょう。
私たちの信仰は単に、自分が健康で、守られ、すべてが自分の思い通りにうまくゆくことを保証する神様を信じていることではありません。私たちの罪を贖うため十字架で死なれ、復活されたイエス・キリストの父である神様を信じています。それ程までにして、私たちを愛してくださる神様に対する信頼をもとに、たとえ目に見えなくとも 目に見える聖書のみことばを通して、私たちの歩みを一歩一歩確実に導いてくださると信じることができます。
日々、様々なことが起こり、その度に心が揺さぶられ、疲れてしまうこともあります。体調が悪いと思うようにことが進まず、焦る気持ちばかりが募ることも正直あります。しかし、日々聖書の御言葉に触れると、私の内に住む聖霊が、私が忘れている神様からの恵みを思い起こしてくれて、何が一番大切なのかといつも初心に戻されます。そしてどんなことでも祈り続け、また他の方々にも祈っていただくので、互いに祈りあえることが本当に励ましであります。私が歩む道をみ言葉によって照らして頂き、日々与えられている恵を感謝しつつ、主イエス様と共に歩んでいきたいと思います。
Sep.24,2023 Matthew 7:12
「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」
マタイによる福音書7章12節
私の両親がアメリカに住んでいた時、車を誤って中央分離帯に乗り上げ動けなくなってしまったことがあったそうです。このアジア人の老夫婦が右往左往していた時、見ず知らずのアメリカ人の若い人たちが車を止めて、車を持ち上げて助けてくれました。お礼をしたいといっても、「いいですよ」と笑顔で去っていったそうです。私もNYCに住んでいた時、ベビーカーと母親が駅の階段の下にいるのを見た、通りがかりの男性の若者が(エレベーターがない駅でした)、「手伝いますよ」と階段の上までベビーカーを運ぶという行動を何度か目にし、やさしいなあと感心したものです。昨今では日本でも親子に対する配慮が公共設備として供えられていますし、このような親切な人がたくさんいるかもしれませんが、今私が公共機関を利用しない生活のため、出会わないのかもしれません。
このように自分自身が人の助けを必要としたときに、助けられると本当に感謝でいっぱいになります。私は見ず知らずの人、または良く知っている人から何か良くしていただくと、その相手に対する感謝と同時に「主よ、感謝します!」といつも祈りを捧げます。なぜなら、神様が今ここに、その人を送って下さったと確信しているからです。つまり神様は様々な助け、親切を目に見える人を通して私たちに与えてくださっています。ところが、自分は受けるばかりで、他者のために何かをすることを積極的にしていないと、気づかされるのです。
自分が受けるばかりでなく、もっと積極的に小さな親切ができれば、イエス様の愛を実践できるのにと普段できていない自分に反省させられます。上記の聖書の箇所は、イエス様が言われた言葉です。「自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」というイエス様の言葉ともリンクしているように思います。そして、その思いやりの動機が、単にイエス様の命令だからではなく、心から大変そうだな、かわいそうにという思いに突き動かされ、手を差し伸べられたらと願います。そして、それをした時「主イエスが喜ばれている」のを感じられれば、その喜びを動機として出来るのではないかと思わされました。何かしたかのような自己満足でするのではなく、自身がその時、その場所に遣わされて神様の愛を運ぶ器とされていることを喜び、主イエスも共に喜んでいることを感じたいと。忙しくて他者のことを考える心の余裕がない時、聖霊に促されて相手に声をかける、その優しさを職場でも家でも、教会の生活でも心がけるようしていきたいと願います。
(引用 新共同訳聖書)
Sep. 6, 2023 Romans 5:1
「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、 このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。」 ローマ信徒への手紙5章1節
先日、益子のいくつかの地域の会主催で「荒野に希望の灯をともす」という医師 中村哲さんのドキュメンタリー映画が上映されました。中村さんはアフガニスタンとパキスタンで35年以上にわたり、現地の人々の医療に関わり、また戦乱と干ばつが続く地域に現地の人々と共に井戸を掘り、川から用水路を建設し、人々が農業で生活が出来るように働いた方です。想像を絶する試行錯誤の繰り返しと、実現したときの地域の人々との喜び、これらの資金を募るための日本での講演活動、そして彼の次男の病と死、彼の凄まじい人生がこの映画に詰め込まれていました。彼のこれらの行動の根底にある思いは「平和の実現」ではないかと思わされました。映画には出てきませんが彼はクリスチャンでしたので教会でも公演活動をし、多くの方々が日本から彼の活動を支援していました。中村さんはクリスチャンであっても現地の人々の宗教・文化・教育のためにイスラム教のモスク建てました。ふと、欧米の宣教師が同じことをしようとして公共事業、教育事業を現地に投入したら、キリスト教の教会を立てたのではないかと思いました。おそらく彼は一人の人間として、宗教を超えて苦しんでいる人々のために尽力されたのではないかと察し、それはインドでのマザー・テレサの働きが思い起こされます。
だれでも平和を願います。しかし、ある人は人の命を犠牲にして、自分の利益を求めます。大概が権力やお金がある人々が利害の衝突で戦争を起こし、武器が必要なので武器を作り、それを売るためにまた戦争を起こすという繰り返しです。このような世界的・構造的問題に私のような小市民が声を上げても、大海の一滴なのかと悲観的になることもあるでしょう。しかし、私はキリストを信じる者として、キリストの言葉を信じ、キリストがもたらす平和を信じて祈り続けたいと思います。
私は人間同士の平和の前に、自分自身と神様との平和があるかを問題にします。私たち人間は生まれながら、人間を創造された神様と戦争状態、神様に敵対している者だからです。つまり神様の存在を否定し、誰も教えなくとも自分中心に生き、他の神々を神とする、あるいは自分自身が神かのように傲慢にふるまう人もいるかもしれません。そんな状態から救うために、神様は御子イエス・キリストをこの世に送ってくださいました。彼によって、キリストを信じる人と神様との間に和解がもたらされ、平和を得られるためです。目に見えない神様との平和を持つ人は、目に見える人間との平和を持とうと導かれるでしょう。たとえ利害関係があっても、キリストの愛に倣い、謙遜に話し合いで解決しようとする、歩み寄ろうとすることが信仰者には求められるからです。自分自身は自己中心的なものですから、日々神様に悔い改め、自分の周りの人々との平和を願っていきたいと思います。小さな集団の中での平和も広がっていけば、いつか大きな平和につながっていくことを信じていきたいと思います。(引用 新共同訳聖書)
Aug. 20, 2023 Psalm 149:1
「ハレルヤ。新しい歌を主に向かって歌え。主の慈しみに生きる人の集いで賛美の詩をうたえ。」 詩編149:1
8月11日の祝日に、益子教会ではゴスペルコンサートを開催しました。オリオリというゴスペルクワイアーのグループ(15名)を招き、当日は多くの方が参加されて狭い会堂がいっぱいとなり、観客とクワイアーの人たちが一体となって非常に盛り上がりました。このグループは音楽を愛し、歌を歌うことの喜びを体全体で表現されていて、ゴスペルの曲だけでなく、その他のジャンルも素敵なハーモニーで歌ってくださり、とても楽しいコンサートとなりました。やはり一番盛り上がったのはヘンデルの「ハレルヤ」でした。この歌を聞くと、若い時にクリスマス礼拝で歌うために、教会でのコーラスの練習を一生懸命したことを思い出します。あの時は無我夢中で歌っていましたので、歌詞に思いを込めて賛美する余裕がなかったのですが、歌い終わった時の達成感はあったことは覚えています。次回コーラスの機会があったら、歌詞の内容の一つ一つに思いを込めて、賛美できればと願います。
「ハレルヤ」とは、「主を賛美せよ」という意味で「主」とは神様のことです。ゴスペルは讃美歌ですので、「神様はなんて素晴らしい」ということを歌っており、欧米では教会のクワイアーで歌われるのが主流です。日本では、教会のクワイアー以外で、ゴスペルは歌のジャンルとして扱われ、教会外のグループでクリスチャンではない人たちが習って、歌を楽しんでおられます。ゴスペルの歌詞は詩編という聖書の書簡からたくさんその歌詞が使われています。詩編は、主に礼拝の中で歌われてきましたが、個人の祈りとしても使われてきたそうです。その内容も神への賛美だけでなく、神への語りかけ、嘆き、嘆願だったりします。嘆きの詩編であっても、最後の部分は神への感謝、賛美で締めくくられている詩編がほとんどです。つまり、困難な状況の中で、神へ助けを求める詩で始まり、最後には神が助けて下さるという、信頼の表明、信仰告白が盛り込まれています*1。
たとえキリストを信じる信仰を持っていなくとも、その人がゴスペルの意味を意識するしないに関わらず、神様をほめ称えているのは、素晴らしいと思います。信仰を持って礼拝の中で賛美し、また日常生活の中で賛美を口ずさみ、神様への感謝の思いを込め、喜びを持ってゴスペルを歌えることはもっと幸いです。ゴスペルは、信じる者すべてに救いをもたらす神の力です*2。つまり、神様がどんな状況からも救ってくださること、神様の人間に対する深い愛を示し、その主の慈しみ深さを経験した者は神様に対して感謝を賛美として捧げるのです(ゴスペルとは「福音」、「よい知らせ」という意味)。良い知らせの内容は、主イエス・キリストを通しての救いと希望です。どんな形であれ、日本にもっとゴスペル(福音)が歌われて、広がっていき、いつかその内容に興味を持ち、神様の祝福を受けとる人が増やされるよう願っていきたいと思います。
*1 W.H.シュミット、木幡藤子 訳、『旧約聖書入門下』、教文館、2003年、p202-210 参照。
*2 ローマ信徒への手紙1:16
Aug. 13, 2023 Deuteronomy 4:7
「いつ呼び求めても、近くにおられる我々の神、主のような神を持つ大いなる国民がどこにあるだろうか。」 申命記4:7
今年は日本全国で4年ぶりに開催されているお祭りや花火大会のことがニュースで報じられています。先月益子の町でもおみこしがだされ、太鼓の音が夜遅くまでにぎやかに響き、多くの人がお祭りに参加していました。お祭りと宗教は深い関係があり、昔からなされてきている地域の行事であります。人が神を拝むとき目に見える像が必要となります。なぜなら、目に見えないものを信じるのは難しく、御神体というように神が宿っているとされる木、鳥居、キツネ、仏教であれば仏像と、目に見える何かを作って拝み、願い事をするものです。日本はいたるところに八百万の神々が溢れていますが、世界の歴史をみても、古代からほとんどの宗教は目に見える形・像を作って神とし、もしくは太陽、月、星を神として拝んできました。
キリスト教の神様は目に見えません。神様は特定の人に現れて、メッセージを伝えますが、声だけで、もしくは夢や幻のなかで声が語られ、誰も神様の姿を見た人がいないと聖書にしるされています。キリスト教の前身であるユダヤ教は、神様がある日アブラハムという人物を約4100年前に呼び、彼の子孫から一つの民族:イスラエル民族を起こし、祝福することを約束されました。そして、神様はそのイスラエルの民族(ユダヤ人)から、全ての人々の救い主となる方を送り、ユダヤ人だけでなく救い主を信じるすべての民族が神様の祝福を受けるようになるとアブラハムと約束をされました。その救い主が、神でありながら人間としてユダヤ人から生まれて、この世にこられた神の子イエス・キリストです。
私たちが信じている神様は、冒頭の聖書箇所にあるように「いつ呼び求めても、近くにおられる我々の神」です。教会や神殿という特定の場所で礼拝しなければならない神様でもなく、お参りにいったり、祈祷師にお金を払ったり、お賽銭や献金をしてお祈りしてもらわないとお願いができないような神々ではありません。私たちの信じている神様は、人間を含めたこの世界を創造された唯一の真の神である、イエス・キリストの父なる神であり、そのキリストによって私たちも神様の子供とされ、「父なる神様」と親しく呼びかけ、個人的に直接お祈りできる神様であります。また、キリストを信じる信仰により、わたしたちはキリストのものとなるので、神様がアブラハムに対して約束されたことが、わたしたちにもあてはまり、信仰によりアブラハムの子孫であり、約束による相続人となると使徒パウロは記しています*1。また、このことを確証させてくれるのが、信じる者に与えられる聖霊であり、約束された御国(天国)を相続するための保証である*2とパウロはエフェソ信徒への手紙で記しています。
この聖霊によって神様が近くにいると信じられます。365日いつ呼び求めても、聞いて下さり、イエス様がともにいて下さる(インマヌエル)*3ことを信じ、様々な困難があっても、安心して直接お祈りし委ねることができるのは幸いです。日常生活でこの神様から与えられている祝福を忘れがちですが、このことを覚え、主に感謝しつつ今週もキリストと共に歩んでいきた いと願います。
*1「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。 洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。 そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。 あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。」(ガラテヤ3:26-29)
*2 「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。 この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。」エフェソ1:13-14
*3インマヌエルとは「神は我々と共におられる」という意味 マタイによる福音書1:23
July 16、2023 Matthew 18:20
「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18:20)
今年の4月から7月まで、東京で週一回、夫の母校で神学基礎講座を受講しました。通学には栃木から東京へ片道3時間以上かかるため、それもフルタイムの仕事をしつつ難しいと思っていましたが、ふと、週一度夜なら、という思いに奮い起こされ、体を壊すことなく続けられたのは、神様の恵みだと感謝しています。そして、夜中に車で迎えにきてくれたりと協力してくれた夫に感謝したいと思います。クラスで神学生・聴講生の方々と共に学べたことが貴重な経験でした。これから先も更に学びつつ、キリストの福音を伝えていきたいと願います。たくさんのことを凝縮して学び、課題も多く消化しきれていませんが、そのなかで、「自分が信じている神様はどういうお方なのか」ということの一つに、「目に見えないけれどもいつも一緒におられる神様」であることに深い理解が与えられる機会ともなりました。
今まで、礼拝や、祈り・賛美の集会等、教会には様々な集会に参加してきましたが、私はこれらすべてに主イエス様がそこにいて下さるということをいつも認識していたかどうかと、自分に問われたのです。教会はキリストを信じる人の集合体ですから、キリストの名のもとに集まるのが前提なのですが、それにも関わらず何か他のことに気を取られ、心が落ち着かずにこれらの集会に参加していた時はないだろうかと。イエス様はその人としての誕生の時から、「インマヌエル」(神は我々とともにおられるという意味)と呼ばれ、そして、私たちの罪を償うために十字架にかかって死なれました。そして、復活して弟子たちの前に現れた時、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と言われて、天国へ戻られました。つまりイエス様は、今は天国におられても、同時に、地球上のあらゆる集会の中に「いる」ことが可能な、目に見えない、想像を超える神様であります。
私たちは目に見えるものしか認識できないし、理解できないため、目に見えないものを信じることに困難を覚えます。しかし、信仰が与えられると目に見えないキリストが「今、そこにいる」ことを信仰で受け止められるのは幸いです。またイエス様は十字架にかかられる前に、弟子たちに「父は、弁護者(聖霊のこと)を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。・・・この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」*1と約束されました。この聖霊も見えませんが、信じる者の内側に住み、私たちの信仰を強め、励まし、目に見えない主イエス様の臨在を感じ、信じられるように助けてくださいます。
さらに、「わたし」がこの地上にいながら、イエス様にあって共に「今」天にもいるという面があるということを、イエス様は言っておられます。「こうしてわたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」*2、「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。」*3。わたしたちは、自分が天にイエス様と共に神様の御前に今いることを見ることができないので、そのイメージがわかないかもしれません。しかし、見えないだけで今もこの状況はおきていて、同時に将来天にいるということが顕れることを待ち望むという面があります。これは個人という捉え方より、教会という集合体の一部として、つまりキリストが教会の頭であり、私たちがその体であるという表現がパウロによってなされているように、キリストの体の一部であるから、キリストがおられるところに自分も実はいるのだと、信仰で認識することが可能でしょう。ある牧師の方が、このことを若い時代に信仰問答*4を通して知り驚いたと話されていましたが、私も驚いています。そうだったのか!と。私は、いつも主と共にいるということをもっとリアリティーを持って、信じていきたいと思わされました。私の日常生活のすべてのことにおいて、キリストの臨在を意識し、神様の御心が何か、何を今をすべきか、何を言うことが言わないことがよいのかを聖霊が助け導いてくださることを体験できるように願い、主イエス様が困難な状況でも共に歩んで下さっていることを信じ、大きな励ましと慰めが与えられることを神様に感謝したいと思います。
*1 ヨハネによる福音書14:16-7
*2 ヨハネによる福音書14:2-3 「行って、あながたたのために場所を用意したら、戻ってき、あなたがたをわたしのもとに迎える、こうしてわたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」
1*3 ヨハネによる福音書17:24
*4 ハイデルベルク信仰問答 問49 参照
July 4, 2023
「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。 上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。」 コロサイ信徒への手紙3:1-4
先日、益子教会で月一回の親子ゴスペル教室が開催された時、日本に宣教のため在住しているアメリカ人家族とアジア学院の学生(インドの方々)が参加してくれました。そのため、その日は英語の曲がメインでしたが、その一つは、「Hallelujah、Salvation and Glory」という曲を3パートに分かれてハーモニーで歌いました。すると、歌っている皆が一つになって、会堂が揺れ動くような、非常に力ある賛美となり、喜びにあふれて久しぶりに感動しました。賛美を歌うことでこれほど気持ちが高揚し、「神様が素晴らしい」という歌詞をゴスペルの曲調に乗せて高らかに歌うことができ、ああ、天国での礼拝、賛美(黙示録4章)はもしかしたらこんな感じなのかしらと、ふと思わされました。
これは一時の感覚的なものと言われればそれまでですが、天国はどういうところなのかを考える助けになる体験です。天国というのは将来でなければ存在しないもの、現在においては経験出来ないものと思いがちです。つまり、それはこの体が死んでから行く場所であり、今現在は関係ないところであるとしがちで、聖書に天国がどうであるか詳しく記されていないのもあってイメージが難しい事柄です。イエス様は天の国は祝宴、婚礼の宴会として譬えで表現されていますが、また黙示録では荘厳なる都、新しいエルサレムとして描かれています。またイエス様は、神の国はあなたがたの間にあるとも言われましたし*1、人間が将来与えられる「復活した体」については、もはや婚姻関係もない、つまりこの世の人間関係はなく、皆が「天使のようになる」と言われています*2。これは死んだら天使になるという意味ではなく、「のように」という類比表現であり、また時間的な空間的な制限のない体、天国で生きられる体であろうとイメージすることができます。
目に見えないキリストが私たちと共にいて下さるということは、この地上でだけでなく、天の国でも共にいる状態(それが完全になるのは将来ですが)であることを信じていきたいと願います。聖霊の働きにより心に平安を与えられ、この世の生活にあっても、天の国のことを考え、天の国を部分的でもこの世で味わえる、先取りできる行為につながればと願います。その行為の一つには礼拝であり、兄弟が互いに愛し合うということでしょう。天国での礼拝にちかいものを、普段の礼拝で少しでも神様に捧げられるように、リアリティを持ちたいと願います。すると、それが日常生活の、現実の厳しい局面、困難な状況になった時の励ましとなり、忍耐が与えられるからです。
何事も忍耐するには希望が必要です。その希望とは、天の国における希望であり、それは「将来」だけでなく、「今」も、私はキリストにあって、自分は復活させられて天の父の前にいると、(イエス様は弟子たちに「こうして、私のいる所に、あなたがたもいることになる。」ヨハネ14:2-4 と約束されました)、もっと信仰で認識できると、明確な希望となるでしょう。今、私はこの地上にいるので、自分が天にキリストとともにいる状態が見えません。上記のみ言葉にあるように、もしかしたらその状態は「キリストと共に神の内に隠されている」から見えないのであって、聖霊の働きで信仰においてこのことを認識し、そしてそれが将来現われることを待ち望んでいきたいと願います。
*1 「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」ルカ17:21
*2 マタイによる福音書22:29-30イエスはお答えになった。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。
June 11, 2023
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」 (ヨハネによる福音書15章5節)
梅雨が始まる頃、我が家では毎年プランターで野菜を植えます。今年はアジア学院から分けて頂いた土に、きゅうり、とまと、ピーマンの苗を植えました。本当はぶどうやキュウイなどフルーツを育てられたらという願いもありますが、今の場所では難しく、野菜だけにしています。同じ土、同じ日の当たる場所におかれ、同じ幹になっているピーマンでも、サイズが大小あります。それでも幹につながっているかぎり、実はなっていきます。ほんの少しの野菜ですが、育てているといつも思い出す聖書の箇所があります。
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」
イエス様は、ご自分がぶどうの木で私たちはその枝であるとたとえられました。果物や野菜はその収穫まで枝につながっているから育ちます。つながっていれさえすれば、木から栄養が送られるからです。この「つながる」という原語は「とどまる」という意味もあり、他の訳では「とどまっていれば」となっています。では具体的にとどまるとはどういう意味なのでしょうか。イエス様はこうも言われました。
「あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」(ヨハネによる福音書15:10)
と続いて、その掟とは「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」と。
神様は愛を私たちに示すだけでなく、神様とイエス様と聖霊にあるつながり(とどまること)を、信じる者にもつなげてくださります。木が枝に栄養を送るようにつながらせて頂き、私たち自身が神様の愛の業に「参加する」ように招いてくださるのです。「招く」と表現したのは、それが強制的ではないからです。神様の愛につながっていれば、互いに愛せるように、愛が私たちの心に注がれるとも、パウロは言っています。それを可能にしてくれるのが聖霊であると。
「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」 (ローマ5:3-5)
神様の愛は自分の中で作り出せる愛ではないことを、社会における人間関係で「できない」と実感されているかもしれません。かくいう私は自己中心的であり、自分に敵対してくる相手を愛せない者です。
「わたしを離れてはあなたがたは何もできない」(ヨハネ15:5)
とイエス様は言われるように、離れた状態では何もできないのです。だからこそ私はイエス様につながり続けたいと思います。大きい実はならないかもしれませんが、枝である私はイエス様という幹(木)になんとかつながっていれば、きっと神様の愛を流していただいて、小さい実がなると期待したいと思います。神様の愛は、この交わり(つながり)を私たちが持っている限り、私の心に流されて、他者を愛せるようになる、つまり実を結ぶ*という希望を持って、祈り求めていきたいと思います。
*「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、節制です。これらを禁じる掟はあません。」ガラテヤ信徒への手紙5:22-23
(引用 新共同訳聖書)
May 13, 2023
「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。 」 コリント信徒への手紙1 14:7-9
教会の入り口の横に花を植えました。水をやっていると、花壇のすぐ横にある下水のマンホールからの臭いに気が付きました。よく見てみると、マンホールの蓋はしまっていても、側面がかけていて、そこから土砂が常時入り込んでいるのです。先月も排水が詰まって業者にきてもらったのですが、これでは常時詰まることになります。修理費用はいったいどれくらいかかってしまうのかと懸念しつつその業者に連絡すると、まずは町役場に聞いてくださいと言われました。下水のマンホールは町の所有なので町が修理するということで、すぐに直してくれました。何に関しても所有者に管理責任と修復責任がありますが、それがどこからどこまでが実際の使用者に負担義務があるのかわからない場合があります。今回は費用が掛からず安堵しました。
人がもし会社に属していれば、何か業務上で問題が生じたとき、個人の責任も問われるケースもありますが、基本は管理不行き届きであると会社の責任が問われます。フリーランスで仕事をしていると、自分の望むままに仕事ができ自由ですが、収入の面も、そのほかすべて自分で責任を負わねばらないという両面あります。何かに所属しているという状態は、助けがあるという安心感があるものです。
上記はキリストの使徒パウロが記したみ言葉ですが、クリスチャンはもはや自分のために死ぬことも生きることもないという不思議な表現がされています。これは、キリストを信じた時から、新しい生き方、新しい命に移される、つまり主権が罪と死の支配からキリストへ移動するからと言えます。キリストを信じる前は、自分がこの命の所有者、生きるも死ぬも自分次第ということで、一生懸命なすべきことを自分の努力と力でしているものです。しかし実態は、常に罪と死の支配下にあります。人は死を克服できません。完璧に善にいきられる人間もいません。そして物事がうまくいかない時は行き詰ってしまいます。そして誰かからの助けが得られない場合、結局自分で責任をとるしかないのかと絶望的になるもしくは、考えないことにして現実逃避的なことで紛らわして生活するという二通りに分かれるかもしれません。いずれにしても、不安定であり心が真に休まることはないでしょう。
しかし、自分は主のもの(神様のもの)であるということを信仰で受け取れると、自分自身の存在は神様の主権のもとにあり、保護され、またすべてを委ねられるという状態になれるのは幸いです。自分が神様に属していれば、人には期待できない状況でも、神様には望みをおくことができるという強さが与えられます。たとえ、自分が思うような助けが与えられなくとも、キリストを信じて委ねる者には万事が益になる*1方向に導いてくれるという安心感が与えられます。そして、そこには自由があり、縛りや強制がないのが世の中で何かに属している状態との違いです。私の魂と意思は存在します。しか
私は、私を救ってくださったキリストを信じ、キリストのためにいきたいという自発的な思いで物事を判断し、行動していこうとしているので、そこに強制はないのです。もちろん、社会生活している中で、そう望んでもうまくいかない場合のほうが多いですが、私の心の内側に聖霊が住んで(「住む」というからには、物ではなく、人格的存在)、私の意思や思いに働きかけ、正しい選択へと導いてくれるのが更なる安心です。「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない」*2とイエス様が弟子たちに言われたように、わたしは決して見捨てられることなく、父なる神の愛のもとに安心して、その庇護の中にいられます。もし、「自分の命だ、自分の人生だ」と思えば、自分でなんとかしなければなりませんが、自分はどこからきてどこへいくのかを知り、この人生は天におられる父なる神様のもとへいく途上であり、今もわたしたちは主なる神様のものであるという、このことに対する信仰を働かせれば、「祈って任せよう」と委ねられるでしょう。クリスチャンとはそういう者ではないでしょうか。この信仰を基盤にし、日々聖霊の導きにしたがって、歩んでいきたいと願います。
*1 「神を愛する者たち、つまり、ご計画従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、私たちは知っています。」ローマ信徒への手紙8:28
*2 ヨハネによる福音書4:18
May 3, 2023
「シオンは言う。
主はわたしを見捨てられた
わたしの主はわたしを忘れられた、と。
女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。
母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。
たとえ、女たちが忘れようとも
わたしがあなたを忘れることは決してない。」 イザヤ書49:14-15
今年は、花々の開花が1-2週間早まる程、早い春の訪れとなりました。先日、藤の花で有名なあしかがフラワーパークというところへ母を連れて行く機会があり、雨でしたが、長時間の歩行が難しくなってきた母を夫が車いすに乗せて園内を周り、壮大な藤棚の美しさに母も驚き、喜んでいました。もっと若い時から、両親をあちこちへ連れていけばよかったと今頃悔やまれます。一方、親というのは、子である私が旅行に連れていかなくとも、優秀でなくとも、親の期待に添わない人生を歩んだとしても、親のほうから見捨てることがなく、忍耐を持って見守り、必要な時に助けてくれます。なぜなら、親だからです。個人差はあっても親は子を愛し、大切に思う。子は親を頼る。このような親子関係つまり血縁は切れない強い絆です。「縁を切る」と言われますが、実際親子関係は変えられない事実であり、連絡を絶つことはできても親子という縁は切れません。
聖書の神様は人間の親子関係のように、私たち人間と人格的な関係を持とうとされていることが記されています。その顕著な表現が「父なる神」です。実際、神に人間のような性別があるのか?というと、ないはずです。性別というのは被造物が持つ性質で、すべての創造主である神は性別を超越された存在であるはずだからです。しかしイエス様も「父よ」と天の父なる神様を呼び、イエス様は「子なるキリスト」と記され、父と子という関係で記されていますから、私たちは聖書が記すとおりに理解し、信じています。一方で、神様を現わすときに母性的な表現の箇所も聖書にはいくつかあり、上記のみことばがそうです。母がその子を忘れないように(忘れることはありえるがと、人間の弱さ、限界も示したうえで)、わたし(主、神様)はあなたを忘れることは決してないと。そして、子供は親を信頼し、従い、尊敬するという面があります。このように、神様を信じるということは、最高で完璧な親がいたとしたら、その親との親子関係を持つことにたとえられるのではないでしょうか。
このように「関係」というからには、双方向的な体験が伴うので、私は「父なる神様」と祈る時、「神様は私を守り、導き、愛してくださる方」という思いを前提に祈ります。そして、その祈りが聞かれることで、「ああ本当に、神様は生きていて、働かれている」と実感できることは幸いです。まだ、私が祈ってないことでも「最善の道に導いてくださっていた」と、後から振り返ってわかったりするのです。
私たちの社会では悲しいことに、親からの愛を受けることができずに、自身の子をどう愛してよいかわからず傷つけてしまうという、「負の連鎖」をひきずる親子関係が現実にあります。しかし、たとえ自分の親が良い親でなくて、親子関係でトラウマがある人であっても、最高の父である天の父なる神様がいることをその御子イエス・キリストを通して知り、その神を信頼することが誰でも可能です。一人でも多くの方が、この神様の愛を知って、癒されてほしいと願います。その神様を「知る」ためには、聖霊が知ろうと求める人の理性に、心に働きかけ、一人一人と親しい関係を持とうと望んでおられるキリストを、そして神様を「知る」、「体験する」ように導かれるはずです。
(引用 新共同訳聖書)
Apr. 22, 2022
「神の約束は、ことごとくこの方において「然り」となったからです。それで、わたしたちは神をたたえるため、この方(キリスト)を通して「アーメン」(そのとおり)と唱えます。」 コリントの信徒への手紙2 1章20節 ()は追記
約束は守られるものでしょうか。「では、今度それをお渡します」と仕事上なされた約束は、支払いが伴うので期日までになされ、約束が守られるということはあります。では、支払いのない家庭内ではどうでしょうか。親が子どもにした約束、例えばどこかに家族で出かけるという約束が、親の都合でなされないこともあります。また、大人同士でも支払いを伴わない約束、つまりボランティア的な好意で何かを相手にしてあげるという口約束がなされた場合、それが必ずなされるでしょうか。私は経験上、特にお忙しい方は残念ながら「口だけ」の方もいるということを知り、そしてあまり期待しないようにしています。なぜなら、忙しい相手に時間をさいて、好意を要求できないですし、もしして下さったら有難いと感謝するという程度にしています。
一方、キリスト教の神様は人と約束をされる方(契約を結ばれる方)であり、人と異なり、約束は必ず守られる方であります。約束の内容は、神様が恵み深いことを示しています。どのように守られているかが分かるかというと、神様の約束はキリストを通して私たち人間を罪から救うという内容で、それがイエス・キリストが人となってこの世に来られ、十字架に架かられて死んで3日後によみがえったことにより約束が果たされています。またその他のたくさん神様の約束、例えば神様は祈ったことは必ず聞かれる、祝福と平安を与える、守って下さるという約束が聖書に記されていて、これも先に信仰を持った人たちの経験からその約束が果たされてきたことが聖書に示されており、神が真実であることを知ります。そして彼らと同じ経験が、時代を超えて今に生きる自分にも当てはまるということを「知って」神様に委ねる、それが神に対する信仰であると思います。
「知る」とは自分が神様の約束の成就を体験して「ああ、神様は今も生きていて、本当なのだ」と納得し、神様に対する信頼が増す、つまり信仰が強められていくというものではないでしょうか。宗教改革者のルターさんは「信仰とは、約束する神を信頼することとほぼ同じこと」と言っています。神は存在するという単なる科学的、哲学的存在証明だけでは人は神を信じることは困難でしょう。信じることは、神との人格的な関係であり、神が真実であることを体験的に知る必要があり、そこには神の霊(聖霊)がその人の理性と思いに働きかけるという面があると言われています。そしてその聖霊は求める人の心に与えられるというのも神様の約束の一つです* 。求めれば必ず与えられ、そして信仰に導かれる、すべて神様から頂けるというのはなんと幸いでしょうか。
(引用 新共同訳聖書)
*ルカによる福音書22章9-13節 「そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。 あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。 また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」
Apr. 11, 2023
イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。…モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。 それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。 ヨハネによる福音書4章3.15節
イースターエッグ。キリスト教の文化を持たない日本であっても、ここ数年にディズニーランド等で導入されているイースター・イベントの影響なのでしょうか、一般の人々向けに様々なイースターグッズが販売されています。キリスト教文化を持つ西洋では、イースター(キリストの復活をお祝いする日)に、子供向けに「エッグハンティング」といって、飾りつけをしたゆで卵(イースターエッグ)を教会の庭等に隠して、それを子供たちが籠を持って探す遊びを行い、イースターバニーというウサギのぬいぐるみがプレゼンされています。元来、卵やひよこ、うさぎというイメージはキリストの復活という聖書由来でなく、キリスト教以外の春の豊潤のお祭りが由来していると言われています。
クリスチャンにとって、イースターはクリスマス以上に重要なイベントです。本当は、この日だけでなく、日々、キリストが復活されたことを覚えている必要があると思います。しかし、キリストの復活が私たち個人の生活と何の関係があるのかを知らなければ、また知ってそれを信じなければ、イースターはただの子供向けの行事になってしまいます。一方、子どもというのは言われたことを素直に吸収するという面があります。益子教会でもイースターエッグを用いて、牧師がイースターの意味を子どもに説明しようと、「この卵はなんの意味か知っていますか?」と4歳の子に質問しました。するとまだ説明されていないのに、「永遠の命」とポツリと答えたのに、一同驚かされました。おそらく前に、聞いいた言葉を覚えていたのでしょう。
「新しく生まれなければ、神の国を見ることができない」とイエスが下記の箇所でも言われたように、この霊的な新生は、肉体的に再び母の胎から生まれることを意味するものではありません。キリストの復活は、キリストを信じる者が今生きている世界にて内面的に「新しく生まれる」ことが確証される出来事であり、同時に、将来自分の肉体が死んだ後、よみがえることを信じる信仰が与えられます。このように、キリストの十字架の死と復活により、そのことを信じるものに永遠の命が与えられるようにと、神様が計画してくださったのです。このイースターの良い知らせ(ゴスペル)を一人でも多くの方に伝えたいと思います。
April 6, 2023 アイデンティティ
天は神の栄光を物語り 大空は御手の業を示す。
昼は昼に語り伝え 夜は夜に知識を送る。
話すことも、語ることもなく 声は聞こえなくても
その響きは全地に その言葉は世界の果てに向かう。 詩編19編2-5節
先日、地域のある会主催の勉強会に参加しました。お題は「人間と国家」で大学の先生を講師に招いて、日本という国の現状:安全保障や他国との関係、軍事についてお話を聞く機会が持てました。このような内容は普段の生活ではあまり話題にならない、先生いわく「日々の生活が忙しくて考えるのがおっくうになる」話題で、真剣に議論される場があまりなく見過ごされ、気が付くと法案が可決していて、いつでも戦争を行使できるように平和憲法が空洞化されつつあるという危険をはらむ,
とても重要なことだと思わされました。TVで流れる報道はほんの一部であり、ネットで検索をあえてしない限り、これらの情報はなかなか入ってこない事柄です。具体的に何かすぐにできなくとも、まずは現状を「知る」ことが大事だと先生は語っておられました。また、「自分は日本国民である」というアイデンティティのほかに、自分が「何者であるか」という、いわゆるあなたのアイデンティティは何ですかと聞かれました。いくつか持っているのが普通であろう(「文人主義」で言われるような)、という話題にも触れていました。
私は改めて自分のアイデンティティは、キリスト信徒であることだと思います。私の存在自体が、私が努力して作ったのではなく、偶然に生まれたのでなく、神様が私をこの世に存在するために送ったと信じているからです。信仰とは、通常自分自身が告白して信じることなので、自分で開始したかのように思われがちですが(実際、そういう面もありますが)、聖書によると信仰さえも、プレゼントだとされています*1。信じる心も与えられるということですね。もちろん、人は自由な意志があり、それを拒むこともできるでしょう。私は、日本人であるという意識以上に、神の民であるという意識がメインであり、この世で生きている生活は寄留者であると思っています*2。そうするとある意味、いろいろなことに拘らなくなりました。財産を残すことや自分のお墓もこともあまり考えないですみ、また今は健康ですが、命に係わる病気にかかったとしてもその先があることを信じる信仰で、思い煩い、悲しみが軽減されるでしょう。
平日仕事の休みが取れる時、茨城県常陸大宮市にある教会で開催されているゴスペル教室に行っています。そこでは、ゴスペル(賛美歌)をただつらつらと歌うのでなく、「もっと、体幹に力を入れて、声を前にだして!」と先生に多くの指導をしていただき、魂の底から、思いを込めてゴスペルを歌うことを習っています。歌詞にこめられている神様のすばらしさをたたえ、神様が主イエス・キリストを通して私にしてくださった救いのみ業を感謝して歌っていると、本当になんとも言えない喜びと平安な気持ちに包まれる時であります。この社会で生きる上で、同時に多くのことを考えなければならないですが、それでも私は実に「神様を賛美するために存在する自分」というアイデンティティが、生活のなかにおいても、広がってほしいと願っています。そして、冒頭のみことばにあるように、たとえ私が賛美出来なくとも、天と地にある自然そのものが、つねに神様の御業を示すでしょう。
*1「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。」 エフェソ信徒への手紙2:8-9 (新共同訳聖書)
*2 「これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。」へブル人への手紙11:13 (口語訳聖書)
悲しみの果てに寝る
「イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。イエスは言われた。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」ルカによる福音書22章45-46節
睡眠は言うまでもなく、生きていくうえで重要な活動であり、心の状態を調整する機能があり、それがうまく作動しないと心身に悪影響を与えます。幼児が泣きつかれて、そのまま寝てしまうことがあるように、大人になっても悲しい思いに打ちひしがれて、そのままベッドに入り、寝るということも必要なことかもしれません。ちなみに私の問題点は、睡眠不足・疲労の有無に関わらず、じっと座っていると、起きていようと努力しても眠くなることです。轟音がするMR検査の最中でも気が付くと寝ている程です。
イエス様の弟子たちも、ここぞという時に眠ってしまったことが聖書にしるされています。イエス様は十字架にかかる直前、これからご自身に起ころうとする受難を知っておられ、父なる神様に血の汗が出る程もがき苦しんで祈られていました。「この杯をわたしから取り除けてください」と。杯を飲むとは苦しみを受けることの表現です。イエス様の受難は、すべての人の罪を負って、十字架上で死んで陰府に下られたことです。すると、初めから父なる神様と子なるイエス様は一つで、一緒であったのに、イエス様が陰府に下った時は神様とも断絶されてしまうことになります。十字架の肉体的、精神的苦しみ以上に、この父との断絶のほうが、イエス様にとって、私たち人間には計り知れない大きな苦しみと恐れだったかもしれません。
このイエス様の苦しみの祈りの際中、「誘惑に陥らぬよう、祈っていなさい」とイエス様は2-3回弟子たちに言われましたが、彼らは「寝ていた」と記されています。ルカによる福音書には眠ってしまっていた理由が、「悲しみの果てに」と記されています。おそらく、弟子たちは、イエス様がこれから恐ろしいことになる、つまり死ぬかもしれない、自分たちとはもう一緒にいられないということを思うと悲しくて、祈りながらそのまま、眠ってしまったのでしょう。
私たちも弟子たちのように、起きて祈っていることが出来ない状態があるかもしれません。目の前の状況や人間関係が重圧となって、心が押しつぶされそうになる。もしくは、悪への誘惑が目の前に迫ってくる。しかし、そんな弱い私たちにも「起きて祈っていなさい」とイエス様は何度も祈ることを思い出させてくださる方です。主イエス様は「自分の力で起き上がれ」とは言っていません。私たちを起き上がらせてくださるのは、死に勝利し、復活されたイエス様です。自分の力で立てない、立ち直れない、どうしようもないとあきらめた時、立てるように引き上げてくださるイエス様、死に打ち勝った、復活されたイエス様を思い出し、助けを求めて祈れるのはなんと心強いことでしょうか。また、どのように祈ったらよいかわからなくて、心が悶々としていたとしても、私たちの内側に住む聖霊がかわりに神様に祈りの内容を「とりなしてくださる」*と聖書には記されています。これは、さらなる安心です。自分の心を私以上にわかって下さる方がおられるということ、またその方に信頼して任せてよいことは感謝につきません。
*「私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」ローマ信徒への手紙8:26
引用:新共同訳聖書
「なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。 その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。」 コリントの信徒への手紙2 5章14-15節
気が付くと、冬を感じている間もなく、春の訪れを味わっています。それほど、この時期はあることに集中していてそれをやり終えるまで、いわゆる自分を忙しくしていたのでしょう。今朝与えられた聖書のことばを読み、はっと気が付かされました。日々の忙しさに流されてしまうと、自分は何のために生きているのかと、もう一度問われるからです。
キリストを信じる前、私は、「自分のために生きるのが疲れた」と思うことがありました。人は実は意識していなくとも、皆オギャーと生まれたときから、誰も教えてくれなくとも自分のために生きるでしょう。もちろん、他の人のために何かしよう、役に立ちたいという思いは、後からその人の育った環境、親の影響により出てきます。しかし基本は自分のためにあくせく動いているのです。自分の思いによって行動し、自分のために働く、楽しむ、それが悪いことではないし「普通」の生き方かもしれません。しかし、私はその「普通」に空虚を覚え、疲れたのです。
一方、ある人は自分の家族のため、特に親が自分の子供のために一生懸命最善の環境を作る、犠牲を払う、愛を注ぎます。それは素晴らしいことです。しかし、子供にも人格があり、親が「こうなってほしい」と望んでも当人はそうならない、いつか一人の独立した大人として巣立つ時がきます。親子関係に限らず、人はみな、人のために良かれと思い善意を持って何かをしても、相手にとってはそれが困る場合があります。結局相手が自分の思い通りにならないと、不満足、ストレスとなり、人間関係に問題を起こします。
キリストを信じる者は、今日の箇所に示されているようにもはや自分のため、人のために生きません。キリストのために、神様のために生きると決断します。結果的に神様のためにすることが、他者の益になります。なぜなら目に見えない神に仕えるのは、目に見える人に仕えることになるからです。ただし、その違いは神のためであるので、人の反応がどうであれ、つまり相手が自分の思うように動かなくとも、自分の望む反応をしなくとも、落胆しないのです。神様に対してしたことだからと、その人に拘らないですむからです。
では、なぜキリストのために生きるのでしょうか。上記の聖書の箇所にあるように、キリストを信じる者は、キリストが自分のために十字架で死んで、復活してくださったと信じ、その信仰により、信じる前の「古い自分は死んだ」ことになるからです。古い自分とは、自己中心の思いとそれによって引き起こされる罪から縛られていた不自由な自分で、新しい自分はそこから解放され、神様の恵みを日々感謝して受け取るようになり、この地上にいる間、神様のために何かをしようと、強制ではなく自発的に志そうとする者へと変えられる、新生した自分となります。そこには自由があります。「キリストの愛」が動機で何かすることに駆り立てられるので、それはもはや誰かのために、自分のためにという動機でなくなります。それが動機だと、自分のこだわりや相手の反応に揺さぶられないですみます。もちろん、感情的に、一時揺さぶられ、反応することはあります。しかし、何度も信仰の立ち位置に戻れるのは幸いです。
私はキリストを信じる信仰が与えられ、生き方に関して以前のように「むなしい」と思うことがなくなり、神様に感謝しています。今は喜んで、主イエス・キリストに従って、日々歩めるように導いてくださいと祈りつつ、多くの方々がこの主イエスの福音の恵みを知って、信仰に導かれ、平安を得られるよう祈っていきたいと思います。
台湾のために祈る
「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。 」ヨハネの手紙1 4章7-9節
私たちの教会には台湾の方がおられます。折しも今年は、年に一度の世界祈祷日といって、毎年一つの国のために祈るというプログラムがありますが、今年は台湾のためでしたので、彼女に少し台湾について話を聞く機会が持てました。私は台湾に多くの民族、言語があること、そしてそれに関わる政治的問題を彼女の生活の中からの話として聞く機会が与えられました。彼女は、自分の国のために世界中の教会で祈ってくれていることを、とても感謝していました。
知らないということは、相手を理解する情報がないため、差別や偏見につながる恐れがあります。現代日本において、言葉が通じなくとも、通訳アプリ等を利用しコミュニケーションをはかり、個性や能力が人それぞれ違うことを受け入れることを、子供のうちから教育されることがこの多様性の社会で共存していくために大事ではないかと思わされます。
多様性を受容できず、「自分たち」という利害を主張すると民族の分断、政治的分断、戦争が生じ、これらを平和に導くことは困難です。しかし、違いがあっても私たちは同じ神様が創られた大切な存在であること、そして互いに愛し合うような人間関係を持つよう神様によってデザインされていることが信じられれば、もう少し世界は歩み寄れるのではないかと思います。ここで、神イコール宗教とすると「恐ろしい」という偏見を持つ人がいます。宗教は洗脳する、戦争をするではないかと。しかし宗教が戦争をするのではなく、神が戦争をするのではなく、結局「人間」が宗教を大義名分にして戦争をし、洗脳しているということを識別すべきでしょう。そもそも、相手に危害を加えることを正当化する神々は本当に神なのでしょうか。それこそ人間が作り出した、自分たちに都合のよい、偽の神々ではないでしょうか。
私が信じている神は、「神は愛である」「互いに愛し合いなさい」というメッセージを啓示する神であります。では、神が愛であるということはどのようにわかるのでしょうか。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。」 と聖書に書かれています。独り子とはイエス様のことです。この分断・争いの中から抜けられず、罪の縄目から私たちを救い出すために、イエス様はこの世に人となって約2千年前に来て下さいました。そして十字架にかかり、私たちのすべての罪を負って、代わりに死なれましたが、3日目に神様が甦えらせ、死に打ち勝ちました。今は天におられ、私たちの祈りを日々神様にとりなしてくださっています。そして、お互い違いがあっても、一つになれる方法を可能にしてくださいました。その方法とは、
「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こ「神は愛である」「互いに愛し合いなさい」こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、 十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」 エフェソ信徒への手紙2章14-16節
とあるように、皆が「新しいひとに作り上げられること」です。新しい人とは、外面的には同じですが、内面的に聖霊が与えられ、もはや自分のために生きるのではなく、キリストのために生き、聖書が示すように「神は愛である」「互いに愛し合いなさい」ということを自発的にやっていこうとする人です。一方、新しい人になったからといって、自分自身の人格・個性が消えるわけではなく、感情的には「愛せない」と思うこともあります。「もう、これ以上無理だよ」という状況になることもあります。しかし、「それでも愛そう」「神様がこの状況をなんとかしてくれる」と思いなおせるのは幸いです。神様に祈って助けを求め、導きを求め、神様の与える希望をもって生きていこうとするのが新しい人でしょう。この世に生きている間は、古い人が顔をだすことがありますが、徐々に新しい人の領域が心の中で広がっていく、つまり新しい人へ変えられていくという希望があるからこそ、この世でのキリストにある平和の実現、まずは自分の小さな世界から期待していきたいと思います。
2023年1月14日
「ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。
命のある限り、主の家に宿り
主を仰ぎ望んで喜びを得
その宮で朝を迎えることを。」 詩編27編4節
最近、ある牧師さんと話していて、はっと気が付かされたことがあります。彼女はとても多忙な方で、それにも関わらず、月に一度、遠方から私たちの教会で開催している「親子ゴスペル」の講師として来てくださっています。彼女は「家事をしている時も、礼拝説教の準備のための、黙想しているのよ。時間がないからね」とさらっといわれました。その言葉を聞いて、私は自分が家事をしている時、何を考えているかと問うてみたのです。人と比較するのは意味がないことですが、他者から学ぶこと、気づきを与えられることは大切です。どんなにやることがあっても、たとえ教会のためで、もしくは仕事のためだとしても、生活の中の根底に神様との対話をしていなければ、つまり主が共にいるという臨在を感じていなければ、心に平安を保てないのは当然だと思わされました。
ブラザー・ローレンスという17世紀の修道士がいます。彼は「敬虔な生涯―ふだんの生活の中におられる神」の著者です。私は若い頃、この本を読むことを勧められ読んだことがあり、しばらく忘れていましたが、この牧師さんの言葉を聞いて今一度思い出しました。ブラザー・ローレンスは修道院の厨房で下働きをしていましたが、仕事をしながらいつも神様の臨在を感じることができたそうです。食器を洗うという動作一つ一つの中に、神様に対して喜んで行うという思いを込めていたと、つまり神様と対話しながら働いていた様子がこの本に記されています。彼は当時の修道院で、神学を学んだ社会的に地位の高い修道士ではなかったので、修道院では雑用、労働作業を担当したようですが、もしかしたら、その当時の中世の宗教社会の上層部の方々よりも、神様と共に歩んでいたのではないかと思います。
古代イスラエル王のダビデは、若い時に羊飼いをしていた時から、神様を愛し、神様をいつも感じ、そのことを詩編として残してたのが、冒頭のみことばです。ダビデの人生は波乱万丈で、多くの成功、そして失敗もありましたが、生涯神様への信仰は失いませんでした。それは、いつも神様と対話していたからではないでしょうか。だからこそ、彼にとって多くの問題、たくさんの願いがあったとしても、それらを全て覆う、根本的な一つの大事なことだけを願い、求めようと、自分自身にも語りかけていたのではないかと思います。「宮」とは神様のおられる場所、つまり神様の臨在するところ、そこにいつもいたい、喜びをもって朝を迎えたいと。神様の臨在を感じるところは、物理的な場所を示すのではなく、自分の心の内側のことなのです。
パウロは、聖霊の住む宮は私たちだと言っています。
「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」コリントの信徒への手紙1 13章16節
神の霊、つまり聖霊が信じるものの心に与えられているので、その聖霊を通して神様の臨在を感じ、対話できるとは、なんと幸いなことでしょうか。
現代社会の中で、キリストを信じる信仰を貫いて生きようとすると、力が入りますし、覚悟のようなものがいるように思いがちです。また心が忙しく、平安がないのに、表面だけ、言葉だけクリスチャンのようなふるまいをしても偽善となります。私は、もっとみ言葉を読み、手を動かしながら、歩きながらも神様に祈り、対話していけるよう、神様に求めていこうと思わされました。この、文章を討ちながらも、「神様、気づきを与えて下さりありがとうございます!」と。それが、私にとって生きる上で最も大切なことであるからです。
(引用:新共同訳聖書)
Dec. 20, 2022
「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、 彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」黙示録21章3-4節
私の仕事は病院のソーシャルワーカーといって、患者さん、その家族から医療、介護の相談を受け、彼らの必要に沿って病院、施設、制度の説明をし、支援をする仕事です。ほとんどが困難な相談で、うまくいかないことが多い中、時々嬉しと思うことがあります。それは、患者さんが自分を信頼して、任せてくれる時です。先月も、身寄りがなく一人暮らしの癌術後の高齢の方のため、退院後の在宅生活で必要とされる医療・介護・様々の行政的手続きの準備をしていました。そのために本人の了解を得る際、「俺は今まで、お金のことで騙されたことあるから人を信用できないんだけど、あんたを信用して任せるから」と言い、さらに「あんたをかあちゃんだと思って任せるよ!」とまで言われました。「えっ、私はあなたより20歳も年下なのに、お母さん?!」と一瞬心の中で思い、横で医師が笑いながら「大下さん顔がひきつっているよ」と言っていました。私はひきつるどころか、それを誉め言葉として受け取らせて頂きました。その方が退院してから、外来に車いすに乗せられて受付に来られた時も、私を見つけて「おはようございます!」と元気に声をかけてくれました。長期間入院した後、自宅で少しでも過ごせて、その方の顔が明るくなっていました。
私が仕事で出来ることはとても小さなことですが、人は信頼されるとうれしいものです。世の中は、SNSが発達しますます、巧妙なお金をだまし取る詐欺がまかり通り、人や企業、団体が本当に信頼してよいのかを判断するのが難しいです。私たちの住む社会は、信頼関係を前提として成り立っているといっても良いでしょう。しかし、それが機能しない場合が多く、結果的に多くの人がトラブルに巻き込まれ、辛く、悲しい思いを持つというのが現状でしょう。
天の父なる神様は人間を大切な存在として創られ、ご自分と信頼関係を持ってほしい、神様が人間にその神様の愛に気づいてほしいと願い、神の子イエス・キリストをこの世に人として送って下られました。それがクリスマスの意味であり、良い知らせ(福音)であります。しかも、この世に来られたのは、十字架にかかって死なれるためです。なぜそんなことが必要なのかというと、超自然的、目に見えない神様の存在を信じるためには、神ご自身が私たちの視線、立場まで降りてこられて寄り添い、信頼してよい神だということ、人々を大切に思っていることを現わすためだからでしょう。キリストの十字架の死は、私たちが今まで神様の存在を否定し、自分本位の人生を歩んできたという罪が神様によって赦されるためです。しかも、死んで終わりではなく、キリストが3日後に復活され、天に戻り、また、新しい天地、世界が作られる前に再びいつか来られること、これもキリストを信じる者の信仰です。
クリスマスとは、2千年前にイエス様が人として来られたことを喜び、感謝してお祝いすると同時に、いつか再びいイエス様が来られることを待ち望む、希望の時であります。この世ので不正が行われ、戦争が続き、悪がはびこり、いったい何時平和は実現されるのだろうかという、だれもが持つ問いに答える、希望を叶えるのがイエス様の再び来られる時です。冒頭の箇所にあるように新しい世界には、悲しみ、涙もなく、平和で互いに人々が愛し合い、天の父なる神様とイエス様を全ての民族で礼拝できる世界だということが、聖書の黙示録に書かれています。聖書に書かれていることは一部ですのでその詳細まではわかりませんが、すべてわからなくとも、神様に信頼し、任せることができるのは幸いです。なぜなら、将来に対する思い煩い、不安、恐れが神様の愛によって取り除かれるからです*。そして人が信頼されて嬉しいように、ましてや天の父なる神様はもっと喜んで下さるのではないかと思い、ますます、神様に委ねつつ、すべての人が受け取れる神様の祝福と恵が一人ひとりの心に届くよう祈り続けようと思います。
*「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。」ヨハネの手紙1 4:18
Dec. 10, 2022
「いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。 」テサロニケの信徒への手紙1 5章16-18節
最近、心が折れることが続きました。そのうちの一つは仕事上の忙しさ。あまりにも忙しくて、頭をどんなに回転させてもついていけないほど、一度に多くの業務をこなさなければならない日があります。毎日、朝祈り、そして仕事が始まると終わるのだろうかと途方にくれ、「神様、助けてください!」と昼休みに祈り、夕方までにはなんとか終わります。今日も神様が共にいてくれて助けてくださったと実感し、感謝して家路につくことができるのは幸いです。一方で、仕事と異なり、他の問題はこのように一日で終わらないことであり、この状態がいつまで続くのだろうかと心が重くなることもあります。もし、私が神様を信じていなかったら、ストレスで心の病気になっていると思います。ですが、神様の恵みによって心が守られていることを実感し、感謝しております。
神様は思い悩み、自分ではどうしようもない、そんな状態の私の心をご存じで、その悩んでいる状態のなかでこそ、神様は私に出会ってくださります。この憂いている状況のなかで、神様は私と向き合って下さり、導き、必ず、光を与え、心を引き上げてくださる方だと信じます。私はこの苦しみのなかで神様が共にいてくださること、弱い自分をも顧み、変わらない愛を注いでくださることを経験し、そうして神様への感謝と喜びを持てるようになると期待しようと思います。そう思える根拠はいつも聖書のみことばにあるからです。
冒頭のみことばは、いつも幸せで、苦労もなく、すべてが順調に進んでいる状態においてならできる事柄として使徒パウロが書いているのではないと思います。むしろ 苦しみ、悩みの状況が生活のなかであるからこそ、神様に助けを求めていくと、問題にばかり目を向けている視野から、実は「神様から恵を日々与えられているではないか!」という気づきが与えられる、つまり視点が変えられる。そうして、状況が変わらなくとも、神様の平安を少しずつ与えられ、喜び、祈り、感謝できるように心が変えられていくのではないでしょうか。そして、イエス・キリストは「インマヌエル」という方:訳すと「神が我々と共におられる」*であることより、私がたった一人で向き合わなければならない問題においても、共にいてくださるということを信じ、それを実際体験させて頂きたいと願います。神様が必ず、私の心を変えて下さると信じ、思い煩いをいっさい委ねていこうとみことばで励まされ、感謝の思いで、少し心のおもりが軽くされます。
*マタイによる福音書1章23節 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
(引用 新共同訳聖書)
Nov. 8 2022
弟子たちはこれを聞いて非常に驚き、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言った。イエスは彼らを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われた。 マタイによる福音書19章25-26節
先日、軽井沢にあるいくつかの教会を訪問しました。観光地にもなっているこれらの教会は、明治時代、19世紀後半以降に欧米の宣教師たちによって建てられた歴史的建造物でもあります。私は建物の古さよりも、この時代に海外から来て、この地に移り住んだ宣教師たちはどのような思いだったのかと、静かな礼拝堂のなかでしばし想いをはせました。
私がアメリカに住んでいた時、部屋をお借りしていた時の家主は、若い時日本に在住していたことがあるそうです。彼女の両親は日本で宣教師として新潟に在住し、その影響もあってか彼女も宣教師を目指し、軽井沢にある宣教師訓練の学校に行っていたと話していました。しかし彼女は、自分の召命が宣教師ではないという結論に達し、アメリカに戻って看護師になったそうです。その時も、「なぜ軽井沢に宣教師訓練校があったのかな?」と思ったものです。そこで軽井沢の歴史を調べてみると、日本の開国と同時に入ってきた外国人宣教師たちが、蒸し暑い日本の避暑地として軽井沢を発見し、口コミで宣教師、外国人に広まり、参勤交代がもはやなくなり、さびれてしまった宿場町の軽井沢が、外国人別荘地として発展していったそうです。きっかけは暑さに弱い西洋人から始まったということでしょうか。
日本という国は、世界の宣教師にとって伝道が困難な場所の一つだと言われます。現実的にはどの国も困難なはずです。なぜなら、その国独自の歴史、文化があり、西欧で発展したキリスト教の概念を理論的にも、精神的にも理解し、信仰に入るというのは常識で考えても難しいからです。ましてや、明治期のキリスト教が帝国主義を掲げる西欧の列強諸国とともに入ってくると、キリスト教を国の近代化に利用する人々もいれば、侵略者・外国の宗教と排斥感情を持つ人々もいたはずです。一方、似たような歴史を通過したインドネシアではイスラム教徒が多数派ですが、キリスト教徒の割合も多いのです。
イエス様は下記のみことばにあるように、「人にはできないが神にできる」と弟子たちに言われました。私たちの常識で、「これは無理だろう」「誰が、2千年前に十字架にかけられて死んだイエスを、神だと信じられるのか?」と思うことでも、神に不可能なことはないということです。ある人がキリストを信じる信仰に導かれるということは、奇跡と言えます。奇跡でないと信じられない・不可能だと思える内容がキリストの福音だからです。しかし、イエス様が言われたように、何世紀にもわたり、イスラエル国のエルサレムという小さな町で、数人の弟子たちの伝道から始まり、世界に伝えられ、信じた一人ひとりの人生に多くの奇跡が起こっていることを思うと、神様には不可能はないということが実証されているのではないでしょうか。キリストを自分の救い主だと信じることのできる人は幸いであり、また超自然的な力、つまり聖霊の働きによってそれがどんな人にも可能であります。日々この奇跡が、人々の間で起きるように祈っていきたいと思います。
Oct. 29, 2022
すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。 コリント信徒への手紙2 12章9節
毎週土曜日に、益子教会では礼拝に参加される高齢の方を車で迎えに行きます。いつもの時間、いつもの場所(その方の家の前)で待っていましたが、その方が出てこないので、家に電話してみても応答なし。今日はお休みなのかと戻ると、一時間後にその方から「今日はどうして迎えに来られないのか、何かあったのですか」と電話が来ました。その方には申し訳なかったのですが、何故かお互いが「見えなかった」のです。私たちの生活の中で、視力は見えているのに見えないことがあります。例えば目の前にあっても、「ない、ない」と探し物をしたりすることはないでしょうか。また「思い込み」という精神的な要素も加わると、探し物が見つからず、お互い会えない時があります。いずれにしても次回からは、出る前に電話して確認したほうがよいでしょう。
イエス様はある時、生まれつき目の見えない人の目を見えるように癒されました。この人は他の人のケースと異なり、自分から「目を見えるようにしてください」とイエス様に頼んだのではなく、イエス様の弟子たちが「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」という質問に対して、イエス様は「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」*1と言って癒されました。弟子たちの質問はこの当時のユダヤの人々の考え方であり、おそらくどの国もどの時代も、生まれつきもしくは途中で病気や不自由な体になると、「バチがあたったのだ」「行いが悪いからだ」と、思う人はいるかもしれません。酷い場合には「あなたの先祖の罪があるからこうなったのだ、だからそれを償うためにこの壺を買いなさい」といって、高額なお金を支払わせるカルト宗教の霊感商法につながります。
聖書では、その人の罪はその人自身のことであるとして*2、また何か身体に障がいがあることイコール因果応報に結びつけません。そんな負い目に縛られる必要はないのです。ではイエス様が言われた「神の業がこの人に現れるためである。」とはどういう意味でしょうか。この人の場合は神様の奇跡の業がなされる、生まれつき目が見えない人の視力を回復されるということです。つまりこの人の目が見えていたら、この人はイエス様に出会うことはなく、驚くべき奇跡も経験することもなかったかもしれませんし、神様の超自然的な力による業が人々の前に現されることはなかったでしょう。
一方、この時代も、現代の医学を持ってしても治らない病気もあり、すべての人がイエス様にお願いしたら癒されるわけではありません。しかし、神様の業は私たちにとって「良い」と思うことだけに現わされるのではなく、むしろ私たちが「良くない事、不自由なこと、弱さを覚えること、不幸だと思える状況」においても現わされます。つまり、病気が治らなくとも、その病を通してその人の信仰が強められたり、たとえその人が皆の必死の祈りにも関わらず亡くなったとしても、周りの人々に予期せぬ良い影響を及ぼすことがあります。それらすべて神様の業が現わされると言えるでしょう。
重要なことは、身体的な目より、その人の心の目が見えるようになること、つまりイエス・キリストを信じる信仰を持てることだと思います。この体はどんなに健康であってもいつかは衰え、寿命がきます。また人それぞれに、何かに対する負い目やしがらみに縛られて心が不自由な状態にいるかもしれません。しかし、イエス様の十字架の贖いで、私たちのすべての罪は赦されて負い目を感じる必要はなく、縛られている心は解放されます。これは、自分の罪を自覚し、神様の前に悔い改めるところから始まります。人の魂・霊は永遠に続き、つまり心と心の目も続くとなりますと、このキリストに示される神様の愛を信じる信仰が与えられることは幸いです。将来のこと、死んだ後の事を心配する必要はなく、今生きている間のことも、たとえ辛い状況であっても、自分の弱さの中にあっても、神様の業が働かれるだろうと期待することができる、このような希望を持って日々生活できるからです。それぞれが置かれた状況において、神様の業がどのように現れるだろうか、キリストの力が私の弱さの中にどのようにあらわされるだろうかと期待して、恵みによって与えられている自由を感謝していきたいと思います。
*1 ヨハネによる福音書9章2-4節参照
*2 エゼキエル書18章14-20節参照
Sep. 25, 2022 アメージング グレース
「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、 心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。」エフェソ信徒への手紙1章17-18節
先日、ウガンダ、ケニアというアフリカの国、インドネシアの留学生達の話を聞く機会がありました。彼らは、アジア学院という農業訓練指導者の専門学校の学生で、この度益子教会の礼拝に参加し、彼らの国のことを分かち合ってくれました。特に、ウガンダの学生の話が衝撃的でした。近年彼のフィアンセ(ウガンダ人)とアメリカ人の女性と3人で、”Girl’s Now”という、若い女性たちのためのNPOを立ち上げ、活動していることを話してくれました。新型コロナウイルスのパンデミックで、政府の政策であるロックダウンにより、国の経済は大打撃を受け、人々は仕事を失い、大勢の人が貧困状態になると、多くの10代の女性たちが親に売られてしまうという恐ろしい現象が広がってしまったというのです。彼らはこのことに心を痛め、女の子たちを守るための活動や彼女たちへの教育を、行政機関とともに協力して行っているとのことです。またアメリカなど西欧諸国の同世代の女の子と彼女たちが文通をできるしくみも作り、支援金を募るということもしているそうです。
日本でもコロナで仕事を失い、多くの人が貧困状態になったとしても、親が子供を奴隷として売買することはできません。しかし日本では戦前はありました。現代でもなおそれが他の国々でまかり通っているということに怒りを覚えます。他国を責める資格はないのですが、資格がなくとも、人を売買し、所有物として何をしても良いという考え方を許してはならないと思います。残念ながら、まだ世界の国々で子供が教育も受けられず、働かされ、人身売買されることを取り締まる法律、制度が行き渡っていない地域があるという現実について深く考えさせられました。
神様ははじめに人を創られた時、その愛のご性質からすると人と人との関係において、一方が他方を支配し、奴隷とすることを望んでいません。人が奴隷制度を作ったのであって、神様が作られたのではありません。神様は人を「良いもの」として創られ、互いに愛し合う、つまりお互いをいたわり、尊重しあう、平和な関係を持ってほしいと願われているはずです。遠いアフリカの国の問題としてだけとらえず、日本でも辛い思いをしている子供たち、大人たちはたくさんいることを覚え、神様の助けが与えられるように祈っていきたいと思います。また、一日も早く、人身売買にかかわる人たちが悔い改め、人をだまして搾取するようなことをやめるように祈ろうと思います。「アメージング・グレース」を作詞した英国人は、かつては奴隷船の船長でしたが、自分のしたことを悔い改め、こんな自分をも救った神様の驚くばかりの恵みを表し、今やクリスチャンでない人も耳にする有名な曲となっています。神の招きと恵はすべての人に注がれています。
そして、この地域にて何かそのような方々と出会う機会が与えられた時、小さなことでも助けになることが出来たらと願っています。なによりも、日々与えられる聖書のみことばによって、他者に仕える心を持てるよう、神様に祈り求めていこうと思います。
Sep. 198, 2022
「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」マルコによる福音書10章14節
先日、氏家キリスト教会ヒカリ園で月に一度開催されている、園児のリトミック教室に夫と二人で見学をさせて頂く機会がありました。折しも益子教会でこの9月から「親子でゴスペル」という企画を始めたことを、たまたま他の会議にて話すと、「うちも子供たちのためのリトミック教室をやっているので、参考にどうぞ見学に来て下さい」と、園長(牧師)先生が誘って下さったのです。
見学してまず思ったことは、園児たちが皆楽しんで、自由に動いていたことです。先生のいう通りに皆が動かなくとも:つまりある子は駆け回る、ある子は太鼓をたたく、ある子は泣いていてスタッフやお母さんに抱っこされている、不思議と音楽、リズムに合わせて全体が調和されている様子に驚きました。他の幼稚園だと、みながよく先生のお約束を守り、きちっと同じ動きをする、静かにするときは静かにするとして、秩序が保たれているでしょう。もちろん、それはそれで素晴らしいと思います。一方で、皆が同じ動きをしなくとも、子供が音楽に合わせて、それがどんなジャンルであれ、歌ったり、踊ったり、駆け回ったり、とにかく一人一人が自由に動く、子供たち一人一人が自分を表現し、何よりも「楽しんでいる」という形態が集団保育で成り立つのだと新しい発見がありました。子供たちのパワーに力を与えられ、益子の親子ゴスペルもいつか、子供たちがゴスペルに合わせて、このように楽しむ時間となればと、この見学によりイメージが与えられたことは感謝です。子供たちから学ばされることはたくさんあります。
イエス様はこどもたちに対しては特別な眼差し、態度を持っておられたことが聖書にしるされています。弟子たちが、子供たちがイエス様の近くにくると、邪魔だから追い返そうとすると「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」とイエス様は言われて、子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福されました*1。イエス様は子供たちを優しさをもって受け入れるだけでなく、大人である弟子たちに対してこう言われました。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。」*2 これは、弟子たちの「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」というイエス様に対する質問に対しての返答です。つまり、こどものように「素直に」イエス様を救い主として信じる態度、また弱い者であることを自覚する謙遜な態度を弟子たちに求めておられるのではないかと思います。この「偉くなりたい」という弟子たちの動機は何でしょうか?
もし「偉くなれば、他者が自分に従う」、そのような優越感を持てることを期待しているのであれば、イエス様の治める神の国に入ることが難しいわけです。神の国では神様に従順に従い、人間同士では、他者を自分よりも優れていると思うほど謙遜な思いを持つようにと記されています*3。これはイエス様が言われた、多くの戒めを集約した二つの大事な戒め「神を愛する、自分を愛するようにあなたの隣人を愛する」*4に基づいています。神様に従わずに自分勝手な思いと行動をし、他者に対して高慢な思いでいるならば、尊敬しあうことも、平和を保つこともできません。争いは相手が悪いと思う、相手を見下し自分が上に立ちたい(マウント)という思いから始まるからです。
このようなみことばは、日々自身の心に刺さります。自分はふと気が付くと、このような高慢な思いになってしまうからです。こどもたちから、いつもこの謙遜な思いを学ばされ、主イエス様に従い、高慢な思いを取り除いていただくよう日々祈り求めたいと思います。
*1 マルコによる福音書10:14,16節
*2 マタイによる福音書18:3-4
*3 フィリピ信徒への手紙2:3-5
*4 マタイによる福音書22:35-40
Aug. 20, 2022
「あなたがたにまで伝えられたこの福音は、世界中至るところでそうであるように、あなたがたのところでも、神の恵みを聞いて真に悟った日から、実を結んで成長しています。」 コロサイ信徒への手紙1章6節
益子教会では、2022年9月より 毎月第一土曜の午後3-4時に 親子で参加する「親子ゴスペルクラブ」を始めることになり、今準備をしています。
ゴスペルを歌うことを通して、教会という敷居が高そうに思われる場所に誰でも気軽に来られるようにと、2年半前からゴスペル賛美礼拝を日曜午後に毎週開催してきました。折しもコロナが始まったころでしたので、なかなか人を集めて何か行うというのが難しい状況下。人はなかなか集まりませんでしたし、私たちはどこかのクワイアに入ってきちんとゴスペルを習ったこともなく、CDを流して歌っています。それでも、礼拝として続け、いつか神様がゴスペルをリード出来る人を送って下さるだろうと期待し、祈ってきました。
それから2年半たったある日、GP(Gospel Praise)というゴスペルクワイアのメンバーで(益子教会のゴスペル賛美礼拝では彼らの歌を取り入れています)、「益子でゴスペルを」とづっと覚えて祈って下さった方がいて、その方が6月に茨城県の常陸大宮チャペルでのゴスペル教室に私たちを誘ってくれました。そこでは、教会の近所のご婦人がたが集まって、お茶を飲んで話した後、ゴスペルを習って歌い、教会の結婚式でそれを発表するために練習していました。私たちはビジターとして参加させていただいたのですが、こんな風に、教会に人が集まって、楽しく歌う様子を見て、益子でもいつかこうなればよいなあという、ビジョンを神様から示していただいたようでした。そして、7月にもう一度参加させていただいた時に、突然その誘ってくださった方が、「益子でやり始めようよ!」と言って、勝田教会の牧師でもあり、GPのメンバーでもある先生を誘って、スタートの日にちまで決めてしまったのには、正直、驚きでした。私たちは、勉強のためにと参加させていただいていたのですが、実際益子に来てくださって協力してくださるということを即座に了解いただき、本当に感動しました。二人ともお忙しい身で、頼んでしまってよいのだろうかと恐縮しながら、これは神様の導き、プレゼントに違いないと確信し、この企画を進めることにしました。
なぜ親子でというと、まずは礼拝に来るというのはなかなか抵抗があるでしょうから、ゴスペル教室のように教える先生がいて、親子で歌って踊ってと、安心して、楽しいひと時を過ごせる場所を益子教会が提供できるところか始めたいと思ったからです。もちろん、親だけ来ても、子供だけ預けたいというケースも歓迎です。そして、参加される方々の中でもし聖書に興味があれば、聖書の学びの会へと発展させ、子供たちは横で卓球をしたりして遊んでいるという、そのような空間を益子でもつことができたらというのが、私たちのヴィジョンであり、構想です。私は、アメリカに住んでいいた時に、聖書の勉強会をいくつか開いていましたが、お母さんと子供で何組か集まる親子向けの会を開いていました。子供同士は横で遊んでいて、お母さんたちに私が聖書の話をし、その後、お茶を飲んだり、時には夕ご飯も食べたり、女性どうし話がはずみ、楽しいひと時を月一回開催していました。そこに来ていた日本人の女性たちはご主人がアメリカ人の人もいれば、日本人同士の夫婦もいましたし、クリスチャンでない方もママ友つながりで参加され、聖書に振れたのは初めてだけど、とても興味深いと喜んで参加しておられました。私たちの共通点は、アメリカという異国社会での日本人で、それぞれ生活に不便や不都合さを覚えることでした。その状況で、聖書のことばからヒントを得て前向きに、希望をもって生きていこうと互いのために祈って励ましあうことが出来、とてもよい会でした。もちろん、ここ日本では環境が異なりますが、厳しい社会状況であることは変わらず、その中で夫婦で、キリストの福音をなんとか伝えていきたいと、日々祈り、その実現を求めています。
というわけで、長く続くコロナ禍において思い切って、「マスクをしてても 楽しくゴスペルを歌おう!」と、協力者を与えられ益子で始めることになりました。ゴスペルの意味「福音、良い知らせ」をこの益子の親子クラブにて 一人でも多くの方が知ってほしいと願いつつ、神様がこれからこの会をどんな展開にしてくださるか、とても楽しみで、期待しいきたいと思います。
Aug. 11, 2022
「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」 コリント信徒への手紙13章13節
栃木県の益子町では、毎年夏に「ひまわり畑」が見頃となります。遠くから見ると、広大な緑の田んぼの一角が黄色一色となっています。そこがちょうど私の通勤路にあたり、朝早くから多くの観光客がカメラを構えてそのひまわり畑を撮っている姿を横目にし、その美しい光景に癒されております。しかし、しばらくするとその黄色が茶色になり、秋に入ると突然その広い一角からひまわりがなくなり、整地され、翌年には畑もしくは水田に代わります。花畑は美しいけれども、いつまでも残るものではありません。それでもひと時の楽しみが味わえるのは感謝なことです。
冒頭の今朝読んだ聖書のみことばによると、「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」と記されています。この三つのことは目に見えるものではありませんが、私たち人間の心にいつまでも残り、つまり続くものであると思います。その中で最も重要なのは愛であると記され、この箇所の前に愛とはどういうことかが具体的に書かれています。神様の人に対する愛は、人間同士の愛の中で、もし似ている部分があるとしたら、非常に優良な親の子に対する愛かもしれません。しかしどんなに良い親でも、人である限り限界がありますので、子供にとって良かれと思って親が行うことが、その子供に対して適切でないこともあります。
しかし、神様の愛は、誰に対しても同じで、偏りがなく、人に見返りを求めません。そして、神様の愛は私たちにキリストを信じる信仰を与え、そしてその信仰に基づいて、生きる希望を与えることが出来ます*1。「神は愛である」*2と言われるように、神様のご性質そのものが愛であるからです。人がしたいと思ってもなかなかできないことのリストが、神様の愛:「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」*3ではないでしょうか。
私は日々の生活で、なんとこれらの愛が自分のうちにないことを実感させられます。特に職場で、愛のない自分の言動に落ち込み「ごめんなさい」と悔い改めることばかりです。この進歩がない私を神様は日々赦し、恵みを与え、愛で包んでくださり、みことばで朝と昼休みに励ましてくださるから、前に進んでいけます。「神様助けて下さい。あなたの愛を、忍耐する心を与えてください!」と心のなかで祈り、叫ぶと、なんとか自身の感情を抑えられ、たとえ自分はこれ以上何もできない状況でも、結果的にことが進んだりすることがあります。そして「主よ、今日もありがとうございます!」と感謝の祈りを捧げられるのです。
自分の中に愛がなければ求める、そうすれば神様は聖霊によって愛を与えて下さるというみことば*4により、私は支えられています。どんな困難な状況であっても、良い方向へと神様が導いてくださるという希望をもって、すべてはキリストのお陰であることを覚えつつ、たえず主に感謝と賛美を捧げていきたいと願います。
*1 ローマの信徒への手紙 5章1-2節 「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、 このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。 」
*2 ヨハネの手紙第一 4章8節
*3 コリント信徒への手紙13章4-7節
*4 ローマの信徒への手紙 5章5節 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」
July 17, 2022
「イエスは、たとえで彼らに話し始められた。ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。 収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を農夫たちのところへ送った。」 マルコによる福音書12章1-2節
収穫を期待する
我が家では、毎年夏野菜をプランターに植えています。きゅうり、なす、トマト、ピーマン。台風などで枝が倒れてうまく実を結ばなかった年もあり、その教訓により、今年は台風が来たときは軒下に移動し、難を逃れさせました。毎日、とまでは行きませんが、実がなっているかなと毎朝プランターを覗いては、少しずつ収穫し、その日の食卓で感謝して頂いています。プランターですので小さな家庭菜園ですが、生ごみを肥料に変えるコンポストというものを使い、その肥料を使って苗を植えています。りっぱに野菜が育っているのを見ると自然と笑顔がこぼれ、幸せな気分になります。
一方、農家で苦労して育てた果物や野菜が、夜中に泥棒に盗まれてしまうという被害をニュースに聞くにつけ、農家の方々がどんなにショックだろうと心が痛みます。工場で生産される商品とは違って、商業的に作物を育てることは設備投資がかかるだけでなく、人が一つ一つ手を使って、土壌から準備し、苗を植え、毎日その生育状況を見て大切に育てるという工程が伴います。それが、一晩にして奪われてしまうのは悲しいことです。
イエス様はたとえ話で、農作物の話をよく用いられました。実を結び、収穫するということを様々なことにたとえています。私たちは、神様の愛を受けて、自発的に良い実を結ぶように神様から期待されていると言えるでしょう。良い実とは心の状態のことで、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制*1の心と態度を持つことを「御霊の実を結ぶ」とたとえられています。私は自分の心の中を覗くと、これらの実がいつも結ばれていないことを本当に悲しく思います。ましてや、神様が「実を結んでいるかな?」と期待して見てみると、逆の状態(怒り、イライラした思い、敵意、不穏)を私の心の中に見出すと、どんなにがっかりするだろうと思わされます。仕事の忙しさ、大変さにかまけて、私の心は実を結べる状態になく、すさんでおり、なんとか根がつながっているぐらいの状態で、そんな自分が情けなく、恥ずかしく、もう神様の前に出られないと思ってしまうほどです。
しかし、私がどんなにひどい状態であっても、実を結べないだめな者であっても、神様は見捨てない、愛のある方であることが私にとって大きな慰めであり、また悔い改めて、仕切りなおそうと前向きに一歩踏み出すための、励ましであります。実を結ぶためには、どんな状況であっても、神様のみことばに触れ、祈り、自分の心の思いを全て打ち明け、助けを求め、委ねていこうと思います。そして、いつか、収穫を期待している主が「実がなっているぞ!」と喜んで下さることを期待して、木であるイエス様*2につながり続け、枝である私の心に愛を流し下さるよう求め続けようと思います。
*1 「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、 23柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」ガラテヤ信徒への手紙5章22-23節
*2「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」 ヨハネによる福音書15章5節
July 10, 2022
「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。 そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、 命の言葉をしっかり保つでしょう。こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。」 フィリピの信徒への手紙2章14-16節
先日テレビの番組で、あるレストランのカニの看板を酔って壊した二人の男性とそのオーナーの美談が目に留まりました。彼らの看板を破壊している様子が防犯カメラで録画され、それがニュースで全国に流れ二人への批判がネットで炎上しました。そして、二人は恐れおののいて、レストランのオーナーに謝罪に行きました。オーナーは二人が謝りに来たこと、また二人がコロナで仕事をくびになった直後でイライラしていて酔ってしてしまったことを聞き、二人を赦し警察への被害届を取り下げたそうです。オーナーは一言、「俺は教会に行っているから」と言っていました。それがきっかけで、二人もオーナーと一緒に教会に通い、またそのレストランの仕事を手伝ったりして、とても良い関係になったそうです。
日頃どんなに神様がよくして下さり、恵まれているかを感謝していないと、小さいことに不平不満になります。神様の恵を感謝していれば、不満やつぶやきにならないはず。不平や不満は何もよいものを生み出さず、争いの火種となります。私たちがキリストにならって、人の悪口をいわず、文句も言わず、犠牲をいとわず働いていたとしたら、他者は不思議に思うでしょう。なぜなら世の中は損得で判断され、損なことはなるべく避け、損害があれば賠償を請求するのが当たり前だからです。もしこの放送を観てこの話を知れば、「教会へ行っている人は、あんな損害をうけても、赦してしまうのか?」と世の中の人が思うかもしれません。それが、「あの人はクリスチャンだからだ」と、自分から言わずとも、他者がその違いを認識してくれれば、幸いです。
紀元一世紀のキリストの教会が出来た頃、コリントという町にある教会の信徒同士の間で何か損得に関する争いが起こり、当事者たちがそれを教会の外の、この世の裁判沙汰にしていたことをパウロは知り、こう述べています。
「兄弟が兄弟を訴えるのですか。しかも信仰のない人々の前で。 そもそも、あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです。なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです。 」 コリント信徒への手紙6章6-7節
イエス様が「あなたがたは世の光である」*1と言われました。イエス様を信じる者はこの暗い世にあってイエス様の光を反射して輝くことが可能となります。また、「光の子として歩みなさい」*2と使徒パウロは記しています。私たちは、この犯罪や不条理がはびこるこの世の暗闇の中で、小さい光となりたいものです。キリストの光の反射を受けて星のように輝き、そして「命の言葉(命に導くみことば、福音)」をしっかり持って日々過ごしたいと願います。このレストランのオーナーのケースは、他者に影響を与えられる例の一つではないかと思います。暗闇の中で輝く小さな星がたくさん集まれば、平和につながる大きい光となることを望みつつ祈っていきたいと思います。
*1 マタイによる福音書5章13-16節
*2 エフェソの信徒への手紙 5 章 8 節
June 25, 2022 John 14:16-17
「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。 」ヨハネによる福音書14章16-17節
今年は梅雨を通り越し夏が訪れたかのような、早くも猛暑の日が続いています。私たちは季節の移り変わりを通して一月を、一年を5感で認識します。一方、私たちが意識する・しないに関わらず時は刻々と過ぎていきます。未来がどうなるか予測はつきませんが、必ず予測できることは、夕が来て朝が来ることです。時の流れの中で、今、していることが次の瞬間過去の出来事になります。しかし私たちの活動の中で、一つだけ過去にならずに、続いていることがあります。それは、生きるという活動で、私たちの体は生命が与えられてから死ぬまで、心臓は止まることなく動き続けています(病気で一時的に止まる人もいますが)。人が寝ている間も、体の臓器の動きは続いていると思うと、100歳以上長生きしている方々は凄いと思わされます。しかし、いつかはこの体の活動は停止する、それを死と言いますが、私たちはその死がいつ自分に訪れるのかはわかりません。明日がくるのは確実ですが、その明日に自分が生き続けているかはわかりません。
聖書には「永遠」ということばが出てきます。この永遠という言葉は時間の流れでいうと、点ではなく、線がずっと続くというイメージでしょうか。キリストを信じる者は、神様がキリストを通して与える「永遠の命」を信じて、この世の生活を続けています。この体が死んだら私という存在が「過去」になるのではなく、その後も魂が存在し続ける、そのことを信じているからです。ただ、どのように魂が存在し続けるのかが問題となります。もし、体がなくなり、自分という存在が生前と変わらない性格のままで、魂だけがふらふらとこの世に目に見えなくとも存在し続けるのであれば、私は個人的にそんな形で永遠に存在したくないと思います。今の体のままで、つまり私の罪ある性質のままで、またいつになっても戦争が終わらない不条理が多いこの世で永遠に生きなければならないのであれば、それこそ永遠の苦しみです。
上記のみことばのように、天の父なる神様が、弁護者を一人一人に与えてくれて、永遠にわたしたちと一緒にいるようにしてくれると記されています。つまり、私という存在は変わらなくとも、真理の霊(聖霊)がともにいて、心の内側に住んでくれるというのですから、そうであれば永遠に存在したいと願うのです。「私」という存在はあるけれども、神様が送ってくださる聖霊がともいてくれるのであれが心強く、永遠に生きようと希望が湧きます。聖霊によって神様の思いを知り、神様の愛が注がれるよう願い、様々な状況で忍耐する力が与えられるのは幸いなことです。「弁護者」と訳されていることばは「ヘルパー」とも訳されるように、助けてくれる存在がともにいるというのはなんと幸いなことでしょうか。
ある時、イエス様は弟子たちにこう言われました。
「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」*
心が貧しい、悲しい という状況は普通で考えれば幸いな状況ではありません。しかし、キリストを信じ、聖霊が心に与えられて、その聖霊の助けを日々求める者は、心が貧しい、つまり心が破綻するほど苦しい、辛い、悲しい状況であっても、神様がともにいて慰め、ヘルパー(弁護者、聖霊)を送ってくれているので、その叫びを神様に訴えることが出来ます。そしてその渦中にいる時は幸いといえなくとも、その過程において慰めや助けが与えられていき、後になってであっても「幸いだ」と感謝が出来るのではないでしょうか。私たちの生活は物価上昇、戦争と世界の分断、コロナ以外の感染症の世界的拡大の脅威、犯罪の増加等不安定な要因は尽きません。しかし、永遠の命が与えられている幸いを覚えて感謝し、日々、聖霊に導かれ、神様に祈り求めていきたいと願います。
*マタイによる福音書5章3-4節
(引用 新共同訳聖書)
June 12, 2022
「キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。 だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、 心の底から新たにされて、 神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。」 エフェソ信徒への手紙4章21-24節
先日、突然、夫の高校時代の親友が益子教会の土曜礼拝に訪ねてきてくれました。30年振りの再会で夫は仰天。30年間連絡を取り合っていなかったので、彼は夫の名前を検索し、ホームページだけを頼りに遠路はるばる訪ねてきてくれたとのこと、夫は大変喜んでいました。30年という時間はお互い人生でいろいろあったことでしょう。高校生の時から風貌は変わっていたとしても、声は同じで、目元に面影があるよねと、お互い再会の時を楽しんでいるようでした。
するとふと、今の自分は学生時代から成長しているだろうかと思わされました。外見的には年を重ね変化はありますが、内側の成長や変化はあるのだろうかと。若い時、イエス様をまだ信じていない時代は、一言で言い表すと「暗闇」でした。社会人として仕事をし、交友関係もそれなりに広かったのですが、希望がなく、いつも孤独でした。一時的な楽しみを求めていろいろ試してみたりはしましたが、いつも心の中に空洞があり、それを埋めるものに出会えなかったため、虚しさだけが残っていたのです。
感謝なことに、キリストを信じる信仰が与えられてからは暗闇から光に移され、キリストの愛が私の心の空洞を満たしてくれました。イエス様を知り、イエス様の十字架に示される神様の深い愛によって救われ、困難なことが起こっても、生きる希望によって支えられ、2度と暗闇に戻ることはないという安心感が与えられていることは、なんと幸いでしょうか。一方で、暗闇に戻そうという見えない力もあり、誘惑も常にあることは否定できません。しかし、いったんイエス・キリストによる救いの喜び、聖霊の内住を経験すると、以前の古い生き方にとどまり続けることが困難になり、光の方へと導かれます。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」 ヨハネによる福音書3章16節
上記のみことばにあるように「神の独り子」(イエス様)を信じる者が滅びず、信じた時から永遠の命が与えられて続けているおかげで、暗闇ではなく光のなかに日々歩めます。この与えられた「命」とは、日々内側を新しくされることを経験していくことだと思います。なぜなら、一回信じたらその後自動的にすべてがバラ色になるわけでなく、環境も、人間関係も自分の人格もしばらくは同じままのケースもあるかもしれません。新しい命には、私自身が様々な困難な状況に遭う度に、神様の心と同じ思いを求め、そして与えられて、内側が変えられていくという体験が伴います。そして、祈って助けられる度に、「神様の約束は聖書に書いてある通りだ」と神様に信頼し、これからも委ねていこうとする人生のあゆみが繰り返されていくからです。つまり神様によって信じた時から与えられる「永遠の命を持つ」*とは、神と共に日々新たに歩むことと言い換えられるかもしれません。
日々みことばを読み、神様に祈り、また同じ信仰を持つ友と交わりの時(ともに思っていること、感謝、喜び、悲しみをシェアする)を持ち、もっともっと内側が新しくされ、古い人を脱ぎ捨てて新しい人を身に着け続けていけるよう、祈り求めていこうと思います。
*「そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。 永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」 ヨハネによる福音書17章2-3節
(引用新共同訳聖書)
May 22, 2022
「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」 コリント信徒への手紙一 10章13節
ムロ ツヨシさん主演映画の「マイ・ダディ」を観ました。彼が演じる主人公は牧師で、彼の愛する娘が白血病となり、そこで初めて自分と娘との間に血縁的親子関係がないことが判明、骨髄移植のドナー候補の本当の父を探すことになるというストーリーです。すでに他界した妻と愛し合っていたと信じていた牧師の苦悩と、娘の命を助けるために追い詰められていく様子を描く親子愛のヒューマン・ドラマでした。おそらく監督はクリスチャンではないと思いますが、キリスト教のことをよく調べストーリーが作られています。
映画の中で、教会でホームレスの人たちに炊き出しが行われている時に、ある人が「神なんか信じねえよ!」と言われながらも、牧師が笑顔で「~さん、礼拝に来てくださいね」と優しく接する場面、白血病と告知された娘が「神様は耐えられない試練は与えられないよね。。」と父に訴えるシーン、何度も礼拝堂で静かに牧師が独り静まって祈る場面がありました。その祈りの場面を通して、人間同士の愛の背後で、目に見えない神様がその祈りを聞き、困難な状況の中でもあきらめずに生きようとする親子を導いている、そういう印象を受けました。
今日与えられた聖書の箇所が試練についてでした。試練は、誰にとっても喜ばしいものではなく、出来れば避けたい、苦しみや悲しみを伴うことです。もし利益だけを与え、災いは退散させるという都合の良い神のイメージを求めれば、試練が起こった時「神がいるならなぜ、こんな事が起こるのか?」と不信仰にもなりえます。しかしキリストを信じる信仰の目でとらえれば、試練は私たちの信仰が強められるために与えられ、その信仰が本物であることが試されるために通る道であると記されています*。また、たとえ大切な人を失ったとしても、信じる者には天国で再会できるという希望があります。死んだら終わりではなく、またこの世でのことがすべてではなく、キリストの十字架を信じる者には永遠の命が与えられていることを「知識として」とらえるのではなく、自分自身が試練に直面する時に初めて「本当にそのことを信じているか」が問われます。もちろん、感情的には悲しみと寂しさ、苦しい思いは伴いますが、神様から与えられる深い慰めや励ましを受けて、その時期を乗り越え、これから先の神様の計画を信じて前進できる力が与えられることは幸いです。神様は試練を通るその真ん中で、寄り添ってともに歩んでくださる方です。神様は私たちの弱さもご存じですから、耐えられるように力を与えて下さいます。このことを体験すると、「やはり、神様は真実な方で、乗り越えさせてくださった、感謝!」と神様への信頼関係が増し加えられます。
この半年の間に、自身の身内の間に次から次へと病気と怪我がおこり、心配なく平穏に過ごしていた時から目を覚まされた時期でした。まさに信仰が試され、覚悟を迫られたこともありました。またこれからも何度も起こるでしょう。神様は真実なかたであり、み言葉の約束とおり、私たちは神様に励まされ、強められ、さらなる試練も乗り越えると希望が与えらます。これは、本当に主イエス・キリストにおける神様の愛と恵によるものです。日々、様々なことが起こり、心が揺さぶられ、未熟な私は正直、時には叫びたくなることもあります。その都度イエス様がともに試練を乗り越えさせてくださるという、大きな恵、励ましを思い出し、すべてのことに感謝し、賛美を捧げていきたいと思います。
*「それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、 あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。」ペトロの手紙1 1章6-7節
May 4, 2022
「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって与えて下さった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。」エフェソ信徒への手紙1章4-6節
私たちの住む益子町は自然豊かな里山に囲まれていて、ちょっと行けば散策や短時間の登山ルートにアクセスが出来ます。先日も根本山という場所を歩き、鳥のさえずりを聞きながら、新緑の美しさや沼を泳ぐオタマジャクシを見ながら、心身ともにリフレッシュされて、この自然を創られた神様に感謝しました。近所にこのような場所があるのだから、もっと定期的に里山を歩く時間を取りたいと願いつつ、日々の忙しさでたまにしか来られない現実を思い、時間はあえて作ろうと努めなければ過ぎてしまうものと実感します。
私はどちらかというと森林派ですが、海が大好きだという友人がいます。海へ行くと、癒され、パワーがもらえるからだと言っていました。確かに、海や山にはマイナスイオン効果というのが目では見えませんがあるそうで、空気も良いし体には良いので、癒し効果はあります。しかし、人間というのはこの自然を破壊することで都市生活の利便さを追求し享受してきました。自然を破壊しておいて、限られた自然に癒しを求めるという、自分でもなんとも矛盾した生活のように思えます。
自然の癒しを感じる時、忘れてはならないのは、この自然を創られた神様に感謝することです。自然の営み、その調和を知れば知るほど、これらを総合的に設計された神様の業は素晴らしいと感じます。さらに、この自然を創られた目的は、私たち人間がこの地上で生きられるように、そしてキリストにあって救われるようにとあらかじめ天地を創造する前から計画されていたことが冒頭の聖書の箇所より知ることができます。また人はその与えられた環境を適切に治める仕事を神様から任されていることも聖書には記されています1*。この人の責任は重いということを覚えつつ、そもそもの人を創られた神様の目的、御心にいつも焦点を戻したいと思います。
神様は人を愛する存在として創られ、人間同士も互いに愛し合うようにとイエス様は教えられましたが*2、現実はどうでしょうか。それが出来ていない理由は、人間の欲、自己中心な心、また創造主である神様の存在を無視し、勝手な神々を作り上げて拝んでいるという罪からではないでしょうか。この私を含む人間を救うために、神様はイエス・キリストをこの世に送って下さり、十字架で私たちの罪のために代わりに罰を負って死なれ、それゆえに信じる者が罪を赦され、神様と和解させてくださいました。このことは自然を創って下さったこと以上に重大な神様の業であり、今も復活されて天で生きて私たちの祈りをとりなして下さるイエス・キリストに感謝し、賛美を捧げるべき理由であります。いつも自然に触れることができなくとも、心身共に疲れていたとしても、キリストにあって、今与えられている恵とその救いの業に感謝し、たたえつつ、心の内側に神様からの愛と生き続ける力を求めていきたいと祈ります。
*1 創世記1章29節
*2 ヨハネによる福音書13章34節
May 3. 2022
「わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。 それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」コリント信徒への手紙1 13章12-13節
GWが始まり、初日は嵐のように激しい雨が降りましたが、2日目は良いお天気となりました。その日、茨城県土浦市にある教会でウクライナ支援のためのバザーを開催するということで、私たちは少量の物品を持参して参加しました。ここ数年の間コロナ禍でイベントの開催がされていなかったので、教会で行うバザーに参加するのは久しぶりでした。この売上金が少しでもウクライナの戦禍にある人々の支援に役立てばと願っています。
ロシアによる侵略戦争として、ウクライナの惨状が毎日のように報道され、心が痛み、平和への祈りを続けています。一方、メディアに報道されないだけで、世界では他の国々でも内戦が続き、人々が苦しんでいます。私たちの教会関係の友人はアフリカのカメルーンという国の出身で、日本に宣教師として来ている夫と共に日本に在住しています。彼女の国は植民地時代の名残による内戦が続いており、同じ国民同士が残虐な殺し合いをしており、その見せてもらった写真には、ぼかしなしの死体がたくさん写されていて、衝撃的な映像でした。国連も、関与していません。また、ウクライナでの戦争が始まる以前から続くミャンマーの軍事政権の状況は、報道されなくなりました。私たちは、世界で起こっているすべてのこと全てを把握できません。どんなにインターネットが普及していても、報道統制があり一部だけなのです。
聖書に「預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、 わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。 完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。」*としるされています。完全なものが来た時には、部分的なものが廃れるとあります。しかし、いつまでも残るものがあり、それは信仰と希望と愛だと記されています。
私が今生きている時代も過去も、情報が開示されている部分しか知ることができず、ましてや未来を知ることはできません。一部のことしか把握できないし、日々新しい情報と入れ替わっていき、それらに信ぴょう性があるかも疑問です。しかしながら、どんなに時代が変わろうとも、この体が滅びようとも、私の魂が持ち続けられることは神様への信仰、希望、愛であり、そしていつか部分的にしかわからなかったことがすべて知られるようになるという、この神様の約束が与えられているのは幸いです。この愛は神様の愛であり、感情に左右されてしまう人間の愛ではありません。神様の愛は無償で与える愛、忍耐する愛、柔和な愛であり、私は自分の持ち前の気質で表すことは困難です。日々、部分的な情報や自分のその時の感情に支配されないように心がけ、神の言葉である聖書を読み、平和を祈りつつ、すべてのことにおいて、そこに愛はあるのかと、神様の導きを求めて過ごせたらと願います。
*コリント信徒への手紙1 13章8-10節
Apr. 10, 2022
「兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、 神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。 」フィリピ信徒への手紙3-13-14 (新共同訳聖書)
「まっ、過去には戻れないんだから」私が職場から帰ってきて、その顔色や様子で今日も大変だったのだろうと夫が察します。私は具体的内容について言いませんが、うまくいかなかったことで私が落ち込んでいることは分かり、夫がよく言う言葉です。そのとおり、落ち込んでも時間を戻すことができないので、気持ちを仕切りなおして前に進むことにしています。日々、悔い改めることは祈り、すでに起きてしまったことは神様に委ね、今後も助けてくださいと祈りながら、勤め続けられるのは、神様の憐みと恵によります。
昨日参加した、アジア学院という農村指導者養成専門学校の入学式の校長のスピーチの中で、創立50周年であること、この50という数字は聖書的に「ヨベルの年」といって、解放の年*1であることが話されていました。50年目ごとに、奴隷として売られた人は自由人になれる、借金が免除される等、神様がイスラエルの民に解放すべき年として律法に制定された年です。またこの解放が、救い主であるイエス・キリストによってなされる解放、恵の年の予表であることを下記の聖書の箇所から思い起こしました。
主がわたしを遣わされたのは、
捕らわれている人に解放を、
目の見えない人に視力の回復を告げ、
圧迫されている人を自由にし、
主の恵みの年を告げるためである。*2
現代のように人権が尊いとされる時代であっても、物理的に奴隷状態の人がいますし、さまざまな障がいにより不自由な状態の人もいれば、精神的に縛られている人がいると思います。それが他者による束縛である場合と、自分自身で心を縛っている場合もあるでしょう。いずれにしても、イエス様は捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にして下さる、救い主であると、聖書は記しています。このことを信じれば、すべてのことからの解放が与えられるからです。
もちろん、クリスチャンになったからと言って、すべてが順調にいくわけではなく、また信じたからといって突然性格や人格が変わるというケースはそう多くないと思います。多くの人は、キリストを信じて、救われた喜びを味わい、心が生まれ変わっても、その人をとりまく環境や状況が変わらない場合もあります。しかし、周りがかわらなくとも、信じた人の内側が聖書のみことばによって整えられ、徐々に神様の力で変えられていくという希望が与えられます。それが神様の約束だからです。内側から外側へとその影響が現れるのには時間がかかると思います。しかし、時間がかかっても、神様は忍耐を持って徐々に変えて下さり、過去を振り返って悔やむという後ろ向きな姿勢や、昔の他者に対して苦い思い出からも解放してくださる方であります。そして、なすべきことは、ひたすらキリストのために生きるという目標に向かって、時にはつまづきながらも、時にはうずくまって止まってしまうことがあっても、この世での歩みを聖霊の力によって助けられ前進していこうと、今日のみことばから示され、励まされました。
*1 レビ記 25章8節~10節
*2 ルカによる福音書4:18-19
Feb. 27, 2022
「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、 規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、 十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」エフェソ信徒への手紙2章14-16節
誰も戦争を望んでいません。しかし一部の政治家たちの間でことが始められてしまい、多くの人々が犠牲になる。これほど理不尽なことはありません。多くの人が反戦を訴え、話し合いを呼び掛けていますが、一度始まってしまうと止めることが困難となってしまいます。また当事者以外の国は、どうかかわるべきか問われます。戦争の難を逃れて隣国にいる人々のために、たとえば物質的支援を送ること、これが日本国のとれる立場ではないかと思います。国連もNATOも両国に休戦を呼び掛けることをしてほしい。しかし現実は、火に油を注ぐこと:戦っている国に武器を供与することが始まってしまったのは非常に心が痛みます。ウクライナの人々は世界が彼らのために何もしてくれないと思い、失望しているかもしれません。ナチスがポーランドへの侵攻を始めたとき、またユダヤ人虐殺がなされていた時、世界は何もできなかったこと、結局、世界大戦という戦争に発展してしまったという歴史を鑑み、同じことを繰り返してはならないと叫びたいのです。
今祈ることは、一日も早く終戦となること。そして日本が破壊されてしまった街の復興を経済的に支援していければと願います。日本に在住のロシア人も、ウクライナ人も祖国の家族を思い、心が張り裂けそうな思いで過ごしているのを、ニュースのインタビューからも知り、ウクライナの平和のために日々祈り続けようと思います。そしてその祈りは必ず神様が聞いてくださることを信じて。
キリストは私たちの間に平和が造られるために、十字架にかかって死なれました。それは、キリストを救い主として信じる個人が広がり、コミュニティとなり、そしてもっと大きな団体となって、単なるヒューマニズムでの戦争反対ではなく、キリストを信じる信仰に基づき、互いに赦しあおう、争いはやめようと決意と祈りが、国をも動かす原動力となるように、神様の御業がなされるように祈りたいと思います。
Feb. 6, 2022
「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。 二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」 マタイによる福音書18:19〜20
益子教会では木曜日の夜に聖書の学びとお祈りの会を毎週開いています。最初は二人でしたが、徐々に一人、二人、三人と加えられ、多いときには六人集まることもあります。聖書を学んでみたいという方で、祈り方がわからない、人前で祈るのを躊躇される方は、祈ってもらいたいことを分かち合い、他の人が祈るのを聞いています。この会に集まることで、お互いの今困っていること、悩んでいること、また感謝したいことも含めて話せる範囲で分かち合い、お互いのために祈りあうので、自然と親しい間柄、家族のようになれるのでとても幸いです。
独りの祈りも大切ですが、このように複数で祈るともっと力があります。最初の教会ができた頃、使徒ペテロが迫害のゆえに、ヘロデ王により投獄されました。すでにヤコブが捕らえられ殺害された直後でしたので、信徒たちは一つのところに集まって熱心にペテロのために祈りました(使徒言行録12:5)。すると、その祈りは聞かれ、天使によって奇跡的にペテロは牢から脱出でき、また公然とイエス様の福音を皆に話し続けることができたのです。イエス様は上記のみ言葉にあるように、「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。 」と言われました。そしてイエス様は目に見えないけれども、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」とあり、心を一つにして祈っているその祈りの中にいてくださっているという約束は、複数で祈る強みに確証を与えてくれます。
複数で祈ったとしても、祈りの聞かれるタイミング、方法は私たちの思った通りではないことがあります。また、上記の迫害の時代に、皆が殉教しないように互いに熱心に祈っていたことでしょう。しかし、現実は信仰のゆえに殺されたクリスチャンは大勢いました。それは祈りが聞かれなかったのではなく、その時は悲しいけれども、神様はその殉教された人々を通して次の世代へつながる何か計画があったのだと信仰で受け止めたいと思います。その悲しみはいつか天国で再会できるという喜びに変えられる、という希望も与えられています。一方、もし自分に都合の良い祈りがすべて、すぐにきかれてしまったとしたら(例えば今すぐ100万円宝くじ当たりたい)、世の中はどうなるでしょうか。自分には把握できない多くの他者の都合や願いが、私の思いと都合と相反する可能性があります。その相反する人の祈りも、イエス様のみ名で同時に神様に祈られているのです。結局、すべての人の状況を把握できるのは、神様だけであります。祈ったことは必ず聞かれていて、神様のタイミングと方法でその祈りが答えられるのは感謝です。その神様に委ね、どうなるか任せるのが一番だと思います。
私は個人的にこの数か月、様々なハプニングが起き、どうなるのだろうかと思うことが同時多発、仕事の忙しさも倍増し、今この時期をどうやって乗り越えられるのか思い煩いが多くあります。しかし、その都度心は不安になったとしても、祈ったことは神様に必ず聞かれているという信仰が与えられているので、不安で寝られなくなるということはありません。自分の思う通りにならなくとも、神様に委ね、「たとえそうでなくとも、神様の導かれる道へ進んで行こう」と聖書の言葉に日々励まされて、歩んで参りたいと思います。
Feb. 5,2022
「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。 律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。 だが、互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。 」ガラテヤ信徒への手紙5章13-15節
自由という言葉をどうとらえますか。逆に自由の反対語は何でしょうか。束縛、不自由、奴隷。生活の中でどんな時に、自由がないと感じるでしょうか。一般的に自由とは、人から強制されず、自分の意思で選択肢がある中から何かを選べる状態といえますが、社会という共同体の中で生きている限り、何かしらの制約があります。また、自由や権利の主張は、責任を果たせるかどうかも関わります。
一方、自分で自分を不自由にしてしまうケースもあります。例えばある人に対して敵意や憎悪、イライラする思いを持ち続けると、その苦い思いが心を支配し、それに囚われてしまいます。また「あの人は私に対してこう思っているに違いない」と被害妄想にもなりかねません。しかし、相手と話してみると、そう思っていないことが、そんなつもりはないということが分かるということがありがちです。しかし、対面で話合わず、ネット上でのコミュニケーションだけで放置しておくと、疑心暗鬼となり関係が悪化してしまいます。また、病気・障がいのために自由が利かない生活もあります。しかし、ある状況を自由ととらえるか、不自由だと思うかはその人次第という面があるでしょう。
キリストの十字架による救いは、そんな私たちの人生を変えます。私たちの状況にかかわらず得られる、心の自由を得るために奴隷状態から解放して下さったのです。しかしクリスチャンになった後でも、不自由だ、何かに束縛されていると思うことはあるかもしれません。その不自由さを、前述のように自分で作っているというケースもありますし、もしくはある人の影響が強すぎて、束縛されているケースもあるかもしれません。もしそうであれば、神様に祈り、心を自由にしてくださいと祈る必要があるでしょう。
また私たちを不自由にする原因の一つは、自己中心的思いです。使徒パウロは下記の箇所でも、「愛によって互いに仕えなさい。」と言っています。私たちは基本的に何をしてもよいですし、当時のユダヤ人が律法という生活の隅々にわたる細かな守らなければならない規定に縛られることもないのですが、パウロは自由であっても、益にならないことをすべきではないとも言っています。* つまり、自由なのだから何をしてもいいのではなく、平和をお互い保つために、互いに配慮しあう必要があるからです。
イエス様の教えで「神を愛すること」、「隣人を愛すること」が律法のなかで一番大切だと教えました。しかし、各々に与えられている自由を乱用すると、神様をも隣人をも愛することができません。私を含めた人間は肉の思い、自分が損をしたくない、気分を害されたくない、自分が好きなことをしたいという思いをもってしまうものです。しかし、争いのあるところにキリストの平和はありえません。私たちはみな考え方も異なるし、立場も違い、利益が相反するものです。しかし、キリストが私たちに忍耐してくださったように、私たちも互いに忍耐しあい、仕えあうことを目指したいと願います。これは、本当にハードルが高いことです。日々、自分が自己中心であることを悔い改め、仕切り直し、寛容な心を神様から与え、キリストがその尊い命をかけて与えた下さった自由を、他者との関係で愛する機会に用いていけるよう、聖霊に導いていただきいと願います。
*「すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。「すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない。 だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい。」 第1コリント信徒への手紙10:23-24
引用新共同訳聖書
Jan. 10, 2022 Matthew 12:23
「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。 」マタイによる福音書13章23節
自然に熟成してできる肥料が土に撒かれれば、手間はかかりますが作物にとってよい土壌となるでしょう。先月、アジア学院という農業指導者養成専門学校へ見学に行ったときに、「ぼかし」という有機肥料がどのように作られるか説明を受けました。大量生産をする農場では人工的に作られた肥料を散布して作物を植えますが、ここではすべてを循環させ、無駄なく再利用されているという説明を受け、まさにSDGsにのっとった生活が行われていると感銘を受けました。しかし、この作業には手間と時間がかかります。現代はスピードをもって大量生産・大量消費という、利益優先のもとに行われているので、結果的に自然の循環を崩して食料を生産している社会であります。便利で効率的、スピーディの半面、自然の循環にひずみを生じさせ、また人は何事においても時間をかけることをマイナスととらえ、短気になり、忍耐力を育てていくことができないという現象がある、このことにどれだけの人が気づき、問題意識をもって、改善しようとしているでしょうか。
聖書の中で有名な「種まきのたとえ」があります。イエス様は人々に何かを伝えるとき、身近なことをたとえて話をされました。この種まきのたとえは、種をまく人が、いろんなところに撒きます。道端、岩地、茨の生えている地、そしてよい土壌の地。常識的には、種をまく人は作物を育てるためには良い土地にしかまきませんが、このたとえでは、とても作物が育たないだろうという場所にさえ、種がまかれます。私はこの「種まきのたとえ」が「土壌のたとえ」でもあると思います。種は聖書のことば、み言葉のことです。み言葉は一部の人々だけではなく、すべての人に伝わるように神様はその人の人生の中で、必ずみ言葉に触れる機会を与えて下さるはずです。しかし、そのみ言葉を受け取る側の心の状態によって、芽がでないもの、出ても枯れてしまうもの、成長して実を結ぶものがあります。そのことをイエス様はこう解き明かしをされました。「だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。 」*1
クリスチャンになった時、つまりイエス・キリストを救い主だと信じた時はいわば霊的に生まれたばかりの赤ん坊です。そこからスタートであり、大人として成長していかなければ実を結ぶまでいかないでしょう。聖書でいう実とは、「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」*2とあり、その人の品性がキリストのように愛ある心と行動に移せる者へと変えられ、他者に示していくことだと思います。この霊の実は工場ではなく、有機栽培の農場で生産される実であり、一晩では実を結ばないし、時間がと手間がかかることです。時間と手間をかけて、心の土壌を耕し、豊かにしていくことは私たち人間の側がすることです。日々み言葉にふれ、祈って神様とのコミュニケーションを続け、神様を礼拝する、これらは最低限の必要な「手間」なのではないでしょうか。
幸い、神様は寛容で、忍耐深く、情け深い方であるので、今の心の状態が道端であっても種をまいて下さる方です。私自身、短期で、忍耐がなく、失敗を繰り返すものでありますが、神様の愛を注いでくださいと求め続け、この愛の実を結べるように心が変えられて、周りの人と接していきたいと忍耐をもって祈り続けたいと思います。
*1マタイによる福音書13章19-23節
*2 ガラテヤ信徒への手紙5章22-23節 (引用:新共同訳聖書)
新しい年における望み Psalm 62:5
「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の望みは神から来るからだ。 」詩編62編5節
朝起きると、外は一面銀世界が広がっていました。昨晩から降り続けた雪が、益子の町の里山と畑を真っ白に覆い、車を運転していてつい見とれてしまう程ですが、スリップしないように慎重に運転をしなければなりません。毎年一月の中旬は大雪になることが多く、降雪による不便もありますが、それでも雪景色の美しさには感動します。神様の創造された自然をしばし堪能できることを感謝いたします。
先日、黙想のために読んだ箇所がこの詩編でした「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。」。日々の生活の中で、自分はどれだけ黙って、心静かにしていられる時間があるのだろうと思います。ニュースを見れば、感染拡大のニュースが不安をあおります。私の周りにはまだ感染した方がいなくとも、勤務上3回目のコロナワクチンを打たねばならず、今朝はその副反応の頭痛もあり朝起きるのが辛く、いつまでこれを繰り返すのかと思うこともあります。それでも一日が終わる際に床につき、今日一日を振り返ると、神様がともにいて下さった、感謝だなあと静まって神様に祈る時間が短くともとれて、安心して眠りにつけるのが本当に幸せだと思います。こんな不肖の私にも拘わらず、神様は日々良くしてくださり、恵みを下さるので、ついこんな愛の神様に甘えてしまいます。
日常生活のあわただしい中で魂が静まっていられるのは、容易なことではないです。それでも私が主を信頼し、心静かになれるところに戻れるのは、何もできない赤ちゃんが、時折ギャーと泣いて自分の不安を訴えますが、その後母親の世話のもと安心して眠れるかの如くです。自分は体と気持ちは大人ですが、今自分の力では何もコントロールできない、無力であることを実感せざるをえない社会的状況におかれています。ですから基本は母親に頼る赤ん坊のように、神様にゆだねるしかないのです。私はいろいろなことが起こっても、この信頼のもとに天の父なる神様の御手の中にすべてゆだね、平安に過ごしたいと願います。
私たちが信じている神様は、誠実で、約束を守られる方なので、聖書に書いてある平安の約束に基づく希望と、わたしたちに注がれる神様の愛を信じて、今年も一歩一歩歩んでいきたいと思います。
「求めなさい。そうすれば、与えられる。 」は聖書の文脈から転じて、慣用的表現として一般的に使われています。故事ことわざ辞典によると「求めよさらば与えられんとは、与えられるのを待つのではなく、自ら積極的に努力すれば、必ずよい結果が得られるということ。」とあります。もちろん、このような神様の存在ぬきの、成果主義的な意味ではありません。
イエス様はこの箇所の前後に二つのたとえ話を話されています。一つ目は、夜中に旅人が訪ねてきて、その人をもてなすパンがなかったので貸してくれと頼み続ける非常識な友人の話です。当時の家は、皆が一つの部屋で寝ているという環境ですので、主人だけが起きてごそごそ動けば、ようやく寝かしつけた子が起きてしまうし、家族皆にとって迷惑であります。その人は「面倒をかけないでくれ」と戸口で断っていますが、しつようにその友人が願うので起きて必要なものは何でも与えるだろうという話です。ここで注目したいのは、この友人が自分のためでなく、自分のところに訪ねた友のためにしつこく願っているということです。自分のための願いではないのです。この箇所を読んで、私は自分が他者ためにどれほどしつこく、熱心に祈っているかと問われました。すると、自分のことばかりで、ほかの方のためにはある程度祈ったら、祈らなくなってしまうことがあると正直に認めざるをえません。
二つ目は、どんな悪い人間でも最低限、自分の子には願えば良い物を与えるという話です。現代では児童虐待が多く、この話がすべての親にあてはまるとはかぎらないという、悲しい現実があります。このたとえは、祈りに答えて下さる天の父である神様を強調するために、一番与えてくれそうもない悪人のケースと豊かに与えて下さる神様を対比する表現法で、「まして天の父は」(新共同訳)、「とすれば、なおのこと天の父が」(新改訳)と続きます。なおさら、天の父なる神様は願えばよい物をくださるということを、イエス様は伝えています。
イエス様のこの「求めなさい、探しなさい、門をたたきなさい」という命令は、どれも祈って神様に願いなさいということを言っておられると思います。つまり3つの祈りが段階的に積極的になっているともとれます。最初はシンプルに願い求める。さらにこの願いは神様の御心なのかと探し求める。神様のみこころだとしても、行くべき道の前の戸が閉められこれ以上進めないように見える状態だったら、戸が開けられるまでたたき続ける。つまり、すぐに答えられなくとも忍耐し、熱心に祈り続けることをイエスは教えられていると思います。祈りとはそれほどに、真剣に祈るべきことなのです。このたとえのあとに「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」*1とイエス様は言われます。イエス様を主キリストとして信じていない人には聖霊が与えられていませんが、だれでも信じれば聖霊は与えられます*2。一番重要で、神様に熱心に与えて下さるように祈り求めるべきものは、聖霊であり、それが最も良い物ではないでしょうか。
願うことはいろいろあるとは思いますが、皆がイエス様の十字架に表される神様の愛を知り、救われるようにと祈ることが最も神様の御心にかなうことであると思います。すぐには聞かれなくとも、忍耐をもって自分の周りの人のために祈り続ける、しつこく祈りたいものです。キリストの愛を知らない方々がみことばを聞き、そして信じて聖霊が与えられ、信仰に導かれるようにもっと熱心に祈っていきたいと思います。(Y.O)
「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」ルカによる福音書11章9-10節
*1ルカによる福音書11章13節
*2「すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。 」使徒言行録2章38節
Dec. 12, 2021 Luke 15:8-10
「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」 ルカによる福音書15章8-10節
クリスマスの時期が近づきました。今年も益子教会では12月25日の夜にクリスマス礼拝を開催する予定です。そのチラシを益子の道の駅の町の情報コーナーに置かせて頂き、益子教会の近辺にポスティングをしました。私たち夫婦といつも教会の礼拝にきている女性が、「私がこのチラシを配ることに意味あると思って!」と、一緒に配ってくれました。一人でもチラシを見て教会に足を運ぶ人がいることを願いながら。またこのチラシを作成して下さった方、献金を捧げて下さった方、祈って下さる方等、多くの方々によって益子教会の伝道活動は支えられていることを、主にあって心から感謝しています。
確率的にチラシの効果というのは低いものです。人口2万人程の小さな町で数百枚ちらしを配っても、目に留められないかもしれません。しかし、神様を求めている人の目には必ず留まり、神様がその人の心に触れれば「行ってみよう」という気持ちが起こされ、教会に来てくれるきっかけとなると期待しています。「チラシを見てきた」という人がたった一人だとしても、私たちは大喜びで迎えたいと思います。そして、その方が聖書の言葉を聞き、神様の愛を知るきっかけが与えられ、いつか信仰に導かれたらと願うばかりです。
冒頭のみ言葉にあるように、イエス様はなくした銀貨のたとえを語られました。ある女性がなくした銀貨を一生懸命見つけるまで探し、ようやく見つけると、友達や近所の人を呼び集めて、「見つけたのよ!一緒に喜んでください!」と大喜びします。なくした銀貨を懸命に探すこの女性の姿は、神様から離れた人を探す、神様ご自身をたとえていて、 一人の人が神様の愛を知り、今までの人生を悔い改めてイエス・キリストを信じれば、天国で天使たちの間に喜びがあると、イエス様がたとえの解説をされています。「一人の罪人(つみびと)」とありますが、聖書において根源的な罪は神様を信じていないことです。ですから、「私は罪人ではない。人さまに迷惑をかけたことないし、警察のお世話になったこともない」と思われるかもしれませんが、人は生まれたときから神を知らず、誰かかが教えない限り真の神を知らないので、神の存在を無視し自己中心的に生きています。ですから、私自身も含めて皆罪人であるといえます。しかし、その罪から救ってくださるのが、イエス・キリストで、神様はこのキリストを信じる人を忍耐をもって、ずっと探しておられ、見つかると(つまり、救われると)、天国の皆で大喜びしてくださるのでしょう。
クリスマスという言葉は、「キリストを礼拝する」という意味です。なぜ、キリストを礼拝するかというと、イエス・キリストは礼拝されるにふさわしい、本当の神様であるからです。神から離れた、罪人であるすべての人を救うために、神の御子イエス・キリストはこの世に人としてきてくださり、十字架で私たちの罪が赦されるため代わりに罰をうけて死なれ、3日後に復活され、今も天で生きておられる。このことを信じていると、そのキリストのしてくださった大きな犠牲とそのことを計画した神様の深い愛に感謝して、礼拝をせずにはいられません。つまりクリスチャンにとって、毎週日曜日の礼拝がクリスマスともいえます。
神様が救いに応答する人を探しておられるにあたり、人間の私たちはどんなに小さいことでも手伝えることがあると思います。まずは神様を求めている人に出会えるようにと願いつつ、あきらめずに祈り続けたいと思います。神様の喜びに少しでも私たちが預かれるのはなんと幸いなことでしょう。多くの教会で、クリスマスの準備がなされていると思います。各々の教会の上に、神様の祝福と恵みがあふれ、新しく来られた方を喜んで迎えられるように祈りつつ。(Y.O)
Nov. 28, 2021 Philippians 4:4
「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」フィリピ信徒への手紙4章4節
社会福祉の学校時代の友人たちと数年ぶりに会いました。私は地方に在住していて首都圏には出ていく機会が少なく、またコロナもあってしばらく集まることができませんでしたが、久しぶりに会って、近況を報告しあい楽しいひと時を過ごせました。5年も過ぎれば何かしら変わりはあります。転職、病気、家族との別れ等、それぞれの人生で大変なことがあり、今の職場でも人間関係、制度上の問題と決してお気楽な状況ではありません。しかし、ともに分かち合うことで、お互い励まされ「また頑張ろうね」とそれぞれ帰途につき、感謝でした。
一方、日本は他国に比べてかなり安全であり、コロナも一時抑えられているようですが、世界では政治的に不安定で家を追われてる人々、さらなるコロナ感染拡大の波が来ており、病気に苦しんでいる人々もいて、また自分たちがいつ感染するのかという不安を持ちつつ、経済もどうなるかと先行きは不透明です。日本もいつ感染拡大により非常事態宣言になるかはわからず、ニュースを通して耳に入る専門家たちの予測により、恐れや不安が沸き起こってきます。一時的に励まされても、不安材料は常につきまとうという社会状況であります。
下記の聖書のみことばは使徒パウロがフィリピという市に住む信徒あてに書いた手紙の内容ですが、パウロ自身はこの手紙をキリストの宣教のゆえに、迫害され獄中で書いています。ですから、状況的にはとても喜べない、逆に劣悪で、いつ殺されるか、またいつ釈放されるかわからない絶望的状況でした。にもかかわらず、彼が失望せず、かえって他者を励ませる手紙を書けるほど喜んでいられたのはなぜでしょうか。それは彼のキリストを信じ続ける信仰だと思います。
パウロは、私たちの今おかれている「状況において」喜びなさいと言っていません。「主において」常に喜びなさいといっています。社会情勢がどんなに悪くとも、どんなに落ち込んでいても、常に喜べることがクリスチャンにはあるはずです。それは自分がキリストによって罪の赦しが与えられ、救われて、神様との間に和解が与えられていること、それによる平安が与えられているという、恵みにおいて喜べるということでしょう。この救いの喜びを思い出す時、今自分が決して喜べるような状況にない時、辛い時も励まされます。主が共にいてくださるという信仰を働かせることによって、前向きに物事をとらえ、また疲れて力が失われていても起き上がれます。もし信仰が働かないほど、落ち込んでいるのであれば、「わたしどもの信仰を増してください 」*とイエス様の弟子たちがお願いしたように、祈って信仰を増してくださいと願い求めることができます。信仰を持ち続けるには、自分の意志や力だけでは限界があります。しかし、信仰さえも増し加えてくださる神様が共にいてくださるというのは、何にも勝る、変わらない励ましであります。また、ともに祈ってくれる仲間が教会にはいることは、目に見える励ましでもあります。
最近、日々の疲れがたまって朝起きるのが辛いと思うことがあります。今月は特に通常のルーティンの上に、研修や面接で遠方にでかけたり、課題提出があったりと時間がとられ、何のためにこれらをしなくてはならないのかと投げ出したくなり、イライラしそうになったこともありました。そんな時、いつもこの信仰の原点に戻り、キリストに従って生きるという本来の位置に自分の心を戻せることは幸いです。状況の左右されず、神様のすでに私にしてくださったこと、またこれからも与えられる恵みに感謝し、日々過ごしていきたいと思います。Y.O
*ルカによる福音書17章5節
Nov. 14, 2021 Romans 8::38-39
「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。 」 ローマ信徒への手紙8章38-39節
先日、久しぶりにハプニングがあり、冷や汗をかいたことがありました。その日、今まで在宅で何時間もかけて準備してきた研修の、しかもその集合研修日の当日に栃木から東京まで電車で向かう際、途中到着が間に合わないという状況がおこり「ああ、もうだめだ!神様助けてください!と祈りました。一方で、「間に合わなかったら、それはこの研修の修了・資格保持ができなくとも、私の将来の方向には差し支えないのかもしれない。自分の計画が通らなくても、神様にゆだねよう」と、ふと冷静に思いました。そして待っている間に夫に電話し窮状を訴えると「大丈夫、間に合うよ、祈っているから」と励まされ、その後なんとかタクシー乗り場まで走り込み、会場の受付に開始3分前に到着。無事に研修が受けられほっとし、感謝でした。次回は前の日から東京の実家に泊まることにします。
いちいち夫に電話しなくとも自分一人やればよいのですが、何か起こったときは夫に助けを求められること、特にその場で祈ってもらえることは心強く、幸いです。しかし、夫が人間である限り、物理的に体は一つしかないし、空間的にいつも共にいるわけではなく、また助けたくても助けられない状況がある、つまり限界があることは承知しています。結局、独りで立ち向かわなければならないという状況は必ずあり、独身でも既婚でも、皆同じだと思います。
私は今まで、神様により多くの危険から守られ、助けられてきました。日本でもどこにいてもそうですが、特にアメリカで独りで生活していた時は、いま振り返ると「よく、無事だったなあ」と思うほど、無茶をしていたと思うことがあります。アメリカでは一部の一般人が銃をどこでも持ち歩いているという点で、怖い面があります。治安の悪いフィラデルフィア中心部やニューヨークで、タクシーも乗れず夜中に路面電車や地下鉄で帰宅したこともあり、また危機的状況の中で誰からも助けが得られず、自分独りで対応せざるを得ないこともありました。しかし、どんな時も神様が共にいて下さったから、独りではない、神様が守っていてくれるという信仰が与えられ、実際安全が保たれ、本当に感謝であり、またこれからもどんな状況になろうとも、神様がいるから大丈夫だという絶対的信頼を持てます。
使徒パウロは当時、私たちが想像も及ばないほど多くの危険や困難な目に会い、それでもキリストの福音を伝えるために、ローマで殉教するまで宣教活動をしていたことが聖書にしるされています。冒頭のみことばのように、彼の実体験を伴う神様への信頼はとても重みがあり、このことを信じるすべての人に、この神様の愛が及ぶということが記されています。死でさえも、私たちを神様の愛から引き離すことはできません。ただ、私たちがこの信仰を持ち続ける必要はあります。信仰とは、神様に対する絶対的信頼であるとも言えます。世の中に絶対というものはないですし、相対的なことばかりですが、神様に関しては絶対という形容詞を使えます。信仰もプレゼントですから、まだ信じられないという思いであれば、求めれば不思議と与えられます。「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。 」(ローマの信徒への手紙15章13節)とあるように、この信仰によって、状況に左右されない救いの喜びと平安が私たち一人ひとりの心を日々満たすように、祈っていきたいと思います。(Y.O)
Nov. 7, 2021 Ephesians 5:15-17, 20
「愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。・・・そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。 」 エフェソ信徒への手紙5章15-17、20節
先日、福島県にある安達太良山に夫婦で登山に行ってきました。往復約5時間のコースとなりへとへとになりましたが、天候にも恵まれ、自然のすばらしさ、紅葉の美しさを満喫し感謝でした。しかし、途中、山の頂上が見えたときに私は大はしゃぎで写真を撮ろうとカメラを手に取り一歩踏み出すと、つまづいて転倒。カメラを構えていて、足元を注意しなかったのです。カメラを持っていたので両手を付けず、右手上腕から転びました。一瞬「あっ、骨が折れたか!?」との思いがよぎるほどの痛みが走りました。幸い打撲ですみ、痛みをこらえながら少し自重して、残りの登山を続けられました。登山に限らず何事もそうですが、足元を見ないで歩くとつまづきます。基本的なことですが、他のことに気をとられていると忘れてしまいがちなことです。痛い目にあって学ばされ、また今回骨折しないですんだことを神様に感謝いたしました。
日々の歩みの中で様々なことを同時進行させていくと、気持もあせり、私は特に二つ三つのことを同時にすると片方に気を取られ、もう片方のことにミスが生じたりしがちです。ですから、どんなに忙しくても手を止めて一つのことに集中し、終わらせてからもう一つのことに進めるようにと気を付けています。それでも、時々失敗し、落ち込みます。足元に注意。自分がいま立っているところはどこか、目的のための自分の立ち位置を確認しないと、気が付くと、本来あるべき姿を見失うことがあるのです。
私は多くのことについて、信仰の視点からどうあるべきかを考えるようにしています。例えば、今なぜ働いているのか、なぜ勉強しているのか、なぜ益子という地に住んでいるのか、今なぜ家事を効率的にする工夫をしなければならないのか等々、これらすべてには同じ目的と計画があります。しかし、一つ一つの忙しさや期日、大変さに気を取られて目先のことに目が行き、目的の焦点がづれてしまうことがあります。そこで、もう一度聖書の言葉を読み、祈り、聖霊の導きにより心の中で、「なぜ慌てるのか、あせるのか、何のためにこのことをしているのか、優先順位は何か」とふと気が付かされ、焦点を戻しています。私の目的は、生きている限り、主キリストに従って歩むこと、キリストの救いの福音を人々に機会があるごとに証ししていくことです。今の生活の中の小さなことすべてがこの目的と関連があり、そのために益となり、手段として必要なのです。私はおおざっぱな性格で、なかなか細かく気配りが持てず、間抜けで、愚かなものですから、冒頭のパウロの言葉は耳が痛いです。
しかし、さらに大事なことは、生活の中のすべてのことに神様への感謝を忘れずにいることだと思います。日々、神様から与えられる恵み、例えば食べるものを感謝し、登山をした時はその自然の美しさに感謝し、すべてのことに対して主キリストにあって感謝し、生かされていることを喜ぶことができます。この感謝と喜びがないと、目的達成のためにひたすら走ることばかりで、生活がギスギスし、燃え尽きてしまいます。どんなに気を付けていても、焦点がづれることもあり、また失敗もあるでしょう。そんな弱い愚かな私さえも、神様は見捨てず、寛容に、愛を持って見守り、正しい方向へと導いてくださることに慰めと励ましが与えられています。(Y.O)
Oct. 29, 2021 Matthew 7:7-8
「 求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜さがせ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。 すべて求める者ものは得、捜す者ものは見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。」 マタイによる福音書7章7-8節
10月末、コロナ禍のため延期となっていたアジア学院サンデーを益子教会でようやく開催することができました。アジア学院サンデーとは、那須塩原市にあるアジア学院(農村指導者養成専門学校)の留学生達を教会の日曜礼拝に招き、礼拝メッセージと彼らの国の状況を分かち合って頂き、アジア学院の働きを理解し、支援するというプログラムです。私たちが西那須野教会に在籍していた頃は月に一度開催され、毎回アジアやアフリカの彼らの出身国の様子を知り、交流をする機会がありましたが、益子教会では今回初めての開催となりました。残念なことに、今年は海外からの留学生はコロナ禍によりビザが下りず、学生はすでに日本に在住だったギニア人の方と3名の日本人だけとなり、今回そのギニア人の方と日本人学生の2名と宣教師ご夫妻の参加でした。
アジア学院の留学生は、クリスチャンだけでなく、イスラム教徒や特定の信仰を持たない方々もいますが、このアジア学院サンデーの時は宗教や信条に関わらず、学生たちは皆で参加しています。この日本人の学生は、アジア学院での共同生活は全てにおいて初めての経験・生活様式で、最初は慣れるのに大変だったと話していました。彼はアジア学院に入学した動機を分かち合ってくれましたが、今迄、すでに出来上がっている安くておいしいファーストフードや弁当をコンビニ、スーパーで買って食べていた生活から、自分達で一から種を蒔き、収穫し、家畜を飼い、料理し、無駄なく再利用するという循環型の生活スタイルへと変わったこと、今問題となっているフードロスもなく、自然と調和した生活を送ることができ、貴重な経験だと言われていました。このように今ある大量消費社会のひずみに気付き、環境と調和し、自然界と共存していくには、何がよいことかを考え、取り組んで行こうという人が増えていけば、徐々に社会も地球も変わっていくのではないかと思わされました。
約一年振りに、感染対策をしながらも社会は通常営業に戻りつつあります。コロナ前のように、夜中まで飲んで食べて騒ぐことにが制限された経験を通して、人々は何か学んだことはあったのだろうかと思わされます。非常事態が起こるということは、負の側面だけでなく、今迄当たり前に思っていたことを、今一度、この生活スタイルは良いことなのだろうかと考え直すプラスの機会でもあると思います。需要以上の大量食品がスーパーに並ぶこと、エネルギーを大量消費する24時間営業の店、深夜営業の飲食店が必要なのかという生活の中での問いから、そもそも何のために生きているのだろうという精神的な問いに至る迄、一人一人が流されずに、考える良い機会だと思います。しかし、その機会を見逃して、再び自分の快楽、遊興をストレスの解消と称して、以前と同じことを続けてしまう人もいるかもしれません。人の欲や深いもので、制御し難いものです。
アジア学院のようにストレスがあまりないように思える平和的な環境であっても、それでも一人一人が向き合わなければならない心の課題があると思います。人間的努力と思いだけで、恒常的に楽しく、満足できるということには限界があるでしょう。私は、お金はありませんが、どんな状況にも満足できる心とキリストの愛による喜びを与えてくれる存在:イエス・キリストを信じる信仰があたえられて、本当に幸いだと思います。日々、色々なことがあっても、平安の内に戻れるところがあるからです。大切な人を失って悲しみのふちにいる人、仕事を失って途方にくれる人、生きている意味があるのかと希望がない人。。そのようなマイナスの局面にいる時こそ、神様を求め、そしてキリストを信じる信仰に導かれるチャンスだと思います。そのチャンスを逃さず、神様を信じて、心が豊かにされ、困難な状況に立ち向かえる力が人々に与えられるように、祈りたいと思います。聖書の言葉に触れる機会はネット上でも、教会でも、今の時代求めれば与えられます。探せば、見つかれります。門をたたけば、開かれます。イエス様がそう約束されたからです。求める対象は、モノや人、金ではなく、神ご自身です。「神に」何かを求めるのではなく「神を」求める。 冒頭のみことばは、そのことを言っているのではないでしょうか。(Y.O)
Oct. 10, 2021 Philippians 2:13
「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。」フィリピの信徒への手紙2章13節
私は時差ボケの時以外はいつでもすぐ眠れます。しかし、起きていなければならない時に、それが一方的に講義を聞いたり、本を読んだリすると眠くなってしまいます。若い時、日曜の礼拝に出ていても、大変申し訳ないのですが、お話しが始まると眠くなり、横に座っている母に脇腹をつつかれたものです。勉強しなければならない時も、いつも机の上にうつぶせに短時間ですが意識を失ったように寝てしまい、こんな勉強不足で今迄よく、受験勉強や様々なコースを修了できたなと思います。振り返ると、自分の能力以上のことをせざるを得ない状態で、全て神様の助けがなければやり遂げるころはできなかったと思います。
今回この年になって再び働きながら学ぼうという志が与えられています。最終的に、この道を行くことを神様が背中を押して下さっていると、冒頭のみことばを通して示されて、意気込みはあります。しかし、いざ仕事から帰宅し、色々終えていざ本を読もうと思うと、たった1分で眠くなり寝ています。夜が眠いなら、朝方早く起きてと試みましたが、これもダメでした。やはり、休みの日の昼間しか集中できないのですが時間が足りません。カフェインは全く聞きません。どうしたら目を覚ましていられるか、またただ目を覚ますだけでなく、読んだ内容が多少なりとも頭に残るための集中力が必要です。この数週間で、すでに挫折状態です。
先日イチジクの実を頂きました。イチジクの実は柔らかく、ほんのり甘くとてもおいしいです。イチジクはイスラエルの地域でたくさん取れる果物なので、聖書の中でたとえ話としてよく出てきます。「いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいたことがおのずと分かる・・・しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」*1 ここで、人の子とはイエス様ご自身を意味し、またこの世の終末はいつ来るのかという事に関し、そのタイミングは誰もわからないし、突然来るものだが、その前兆はこういうことが起こるから、その前兆が起きてきたらそろそろ来るなと心の準備をしておきなさい、言い換えれば「目を覚まして祈っていなさい」と言われています。日常生活の忙しさで、すぐにこの緊張感を忘れるので、いちじくを見て思い出すきっかけとなるというのは、生活の中のものを用いた譬え話の効用であると感謝しています。
寝ている暇はないのです。しかし寝なければ健康を害してやるべきことさえも出来なくなってしまいます。この健康を害さない程度になすべきことをこなし、また、イエス様が言われたように「霊的に」目をいつも覚ましていなければならないとは、軟弱で怠け者の私にはとてもハードルは高いように思えます。また、いくら私が今後の計画を立てたとしても、その前に終末が来るかもしれない。それはそれで良いとして、下記のみことばを心に留め
「あなたの業を主にゆだねれば 計らうことは固く立つ。*2
「人間の心は自分の道を計画する。 主が一歩一歩を備えてくださる。」*3
心に与えられたことを神様に委ねて、一歩一歩進んで行けば、神様が道を備えて下さると信じて、自分を奮い立たせることにしました。大地震もいつくるかわかりませんし、コロナ禍のような予想外のことがこれからおこるかもしれませんから、思ったとおりにことが進まないのが、ある意味普通なのかもしれません。たとえ、身体的には寝てしまって志したことがうまくいかなくとも、みことばをいつも心に留め、常に祈り、目を覚ましていられるように神様に助けて頂きたいと願います。(Y.O)
「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。」フィリピの信徒への手紙2章13節
*1 ルカによる福音書21章29-36節
*2 箴言 16篇3節
*3 箴言 16篇:9節 (聖書引用 新共同訳聖書)
Sep. 25, 2021
それで、こう書かれています。「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる。」ヤコブの手紙4章6節
プライドを持つ事は一般的に良いこととして推奨されています。プライドを持てない人は、自尊心が低いとされます。では、自己卑下する人は本当にプライドを持っていないのでしょうか。どんな人であっても、プライドを持っていない人はいないはずです。他者と自分を比較して、自分を卑下しながら、同時に別の他者を見下げることが可能だからです。これは「自分を認めてもらいたい」という欲求のようなものが無意識に働き、他者を見下すことで自分はそれよりもましだからと思う、もしくは自分の存在価値を持たせるという心の中の操作を行うのです。本当に謙遜な人というのは、人と比較せず、高ぶらず、自分の現状に満足している人かもしれません。
先日、ある事があって、それに対して自分のプライドが傷ついてイライラしたことがありました。その内容を人に話さず、後で神様の前に静まって、心の内全てをぶちまけてから、「神様、ごめんなさい。赦してください。今後、私の心がこのようなことで苦い思いを持たないよう、私の心を変えて下さい。」と祈り、ようやく収まりました。そんなことくらいで傷つくようなプライドなど、なくなってしまえばよいと願い、もっと謙遜に、柔和な心を持ち続けたいものです。
高慢な者は神様を敵とし、謙遜な思いを持つ者に神様は恵みを与えて下さるということが冒頭のみ言葉に記されています。高慢な人は、自分はこれで大丈夫、誰の助けもいらないし、神など必要ないと豪語します。神さまに助けを求める・任せるという概念がありません。「自分で今迄も何とかしてきたし、これからも自分だけが頼り」だからです。そういう状態ですと、神様が恵を与えようとしてもその恵みをはじいてしまいます。
イエス様を信じて神さまの霊を頂き、その聖霊が私の心に住んでおられるので、神様に感謝し、喜び、祈っている状態だと聖霊はそれを喜びます。そういう時は心が平安で穏やかです。一方、私の内に怒りとか、他者を批判したり裁いたりする思いが沸きあがると、聖霊はそれを悲しみます*1。そして、聖霊の火を消してはならないと聖書に書かれています*2。火は酸素が欠乏し、水をかければ消えるように、聖霊の働きもみことばと祈り、賛美が欠乏し、苦い思いを持ち続ければ止まってしまうという警告でしょう。聖霊の火を灯し続ける、つまり聖霊が私たちの言動において働かれるために、柔和な心を持ち、親切にし、憐れみの心で接していけるようになりたいと願います。なぜなら、神様がキリストによって私を憐れんで、赦してくださったように、私も目の前におかれた相手に自分が受けた愛を示していきたいからです。これは難しいことです。しかし、神様のみことばに従いたいので、そう出来るように祈り続けようと思います。
そして、誇るものがあるとしたら、ただ一つ:「主(キリスト)を誇れ。」とありますように*3、主である真の神様を知って信頼することを誇りたいと思います。主がどういうお方なのか、その愛を知れば、その主において自分が今立っていられるという自信を持つ事、自分の拠り所を置ける事が可能だからです。主は慈しみと正義と恵の業を行われる方なので、虚勢を張らずに、自他の評価で自己卑下することなく、安心して、自分は神様に愛されていて、大切にされている存在なのだ、というその恵みを感謝して受け取りたいと思います。(Y.O)
*1 神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。 エフェソの信徒への手紙4章30-32節
*2 いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。“霊”の火を消してはいけません。 テサロニケの信徒への手紙1 5章16-19
*3 むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい/目覚めてわたしを知ることを。わたしこそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事/その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる。 エレミヤ書9章23節 (聖書引用 新共同訳聖書)
Sep. 13, 2021
「わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています。」 コリント信徒への手紙2一章9-10節
日本人にとって忘れらない、悲しみの日の一つは2011年の3.11、東日本大震災の日であると思いますが、アメリカ人にとって同様に忘れられない日は、2001年の9.11、同時多発テロが起こった日です。今年でちょうど20年が経ち、アメリカの各地で式典が行われ、教会でも残された遺族たちの悲しみに神様の慰めが与えられるように祈ったことでしょう。私は個人的に、これらが起こった日にアメリカと日本にいなかったのですが、その前後に両国に在住していた者として、両日ともにその日が来ると深い悲しみを覚え、祈りを捧げています。そして今、新型コロナウイルスのパンデミックが起こり、もはやこれは一つの国や地域だけでなく、世界中の地域でこのウイルスが広まり多くの方が亡くなっているという患難の時代に私たちは直面しています。
なぜこれらが起こるのか?というよりも、なぜ人の命が突然奪われてしまうのか?という疑問に行きつくのだと思います。災害も、事故も、病気もなければ、人は長くて100歳くらいまで生きられるだろうという前提があって、その前提が破られるからです。建物であれば、壊れてもある程度再建がなされます。しかし、命は再建ができません。逆に言えば、たとえすべてが失われてしまっても、命さえ残ればやり直せます。元通りの生活ができないとしても、新しい生活にて生き続けられます。その命よりも、経済を優先するのかとの声が今巷であがっていますが、経済活動と人命救助の両立は、どの政府にとっても難しい政策です。政府も試行錯誤しますが、国民も何をしてよいか、何が最善なのか、私たち一人一人に問われていることだと思います。
「神がいるなら、なぜこのような災害やテロ、病が起こることを許されたのか」と、思う人々のことも考えます。もし神がいるなら全て平和になるよう支配できるはずだと。なぜ人間を好きにさせているのかと。もし神が、人を平和的に生きるようプログラムしたロボットとして創られれば、そうなるかもしれません。しかし神様はそうなさらず、自由意志を持つ存在として人を創られました。自発的に自分の意志で「良い」ことを選択し、神様を信じてほしいからでしょう。不条理なことはたくさんあります。しかし明らかなことは、神様が不条理なことを引き起こすのではなく、人間が引き起こしているということです。そうだとしても、「なぜ?」という質問はでてきます。それを神様にぶつけてよいのです。そこから、模索が始まり、神様との対話が様々な媒体を通して始まり、結局、神様を求めることに繋がるからです。そしてその質問に答えられるのは、人ではなく、神様だけです。
聖書では命は、単なるこの体が生物学的に生きることだけを指しません。命とは、キリストを知って信じ、救われることを指し、死とはキリストを信じず、救いから外れてしまうこと、という2元論的な内容と言えます。キリストについてどの様な情報を「信じる」のでしょうか。まず、イエス・キリストが今存在している全てを創った神であること*1、そしてキリストがその被造物である人間を大切に思い、永遠に神と共に生きられるように、自ら人となってこの世来られ、私たちの罪が赦され、救われるために、代わりに神からの罪に対する罰をうけ、死なれたこと、神様により復活されて今も天で生きておられること、これらのことを信じる人が永遠の命を与えられるということです。
そんなことをどうやって信じるのか?と思われる人もいるかもしれません。「人には出来ないが神には出来る」*2、とイエス様は言われました。これは、人には「そんなことを信じるなんてありえない」と思えても、神様の力によって、求める人には信仰も与えられることを含みます。人はどういう時に本当の神様を求めるかというと、たいがい、その人が困っている時、自分の思うように人生がいかない時、苦しんでいる時に助けを求めます。そして、自分を救ってくれる神様を求め、そしてキリストに個人的に出会うのです。単に、神様は今困っている状態から救うのではなく、魂のもっと深い根本的なところから湧いてくる質問「自分はなぜ存在していいのか」にキリストは愛を持って答えてくれます。「私があなたを目的を持って存在させた、愛するために存在させたんだよ」と。
使徒パウロは、上記のみことばにあるように、キリストを宣べ伝える活動において死を覚悟する程の患難に何度も会いましたが、そのたびに助けられ、神様への希望が強まって行ったことを記しています。このように、をあらゆる苦難の中にある人々に、信仰を持つきっかけ、もしくは信仰が強められる時は、ある意味、患難の時かもしれません。そう思えるとしたら、その辛い体験をした人にのみ理解できることでしょう。今、多くの辛い思いの中にいる方々が、パウロやそのほか多くのキリストを信じる信徒たちが経験してきたように、神様に助けを求め、神様に助けられるという経験を重ね、どんな時でも神様がなんとかしてくださると信頼できるようになり、心に安らぎと希望を持てますように、祈ります。また、神様が、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださったので、今こうして、平安のうちに恵みを受けて生きています。ですから、神様が全ての人を心にかけて下さり、慰めを与えて下さる方であることを、今苦難の中にある方々へ伝えていきたいと願います。(Y.O)
*1 「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 」ヨハネによる福音書1章1-3節 (言とはイエス・キリストを指します)
*2イエスは彼らを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われた。 マタイによる福音書19章26節 (聖書引用 新共同訳聖書)
Sep. 4, 2021 Ephesians 5:18-20
「むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。」 エフェソ信徒への手紙5章18-20節
先日、「賛美する喜び」というオンラインによる教会音楽ワークショップに参加しました。私は普段、教会の礼拝で賛美歌の奏楽をしているのですが、なかなかただ弾くだけで技術的なことはもとより、奏楽をする上で教会音楽の基礎的なことを少しでも学べればと願い、またコロナ禍における賛美を他教会がどのように工夫しているか等も知る良い機会だと思い、2日間にわたる講座に参加することにしました。ほとんどがすでに録画されたものを聞く形でしたが、Zoomによる奏楽相談室では、一人一人礼拝で奏楽する時の質疑応答の時間がもたれ、非常に参考になりました。前の教会で、パイプオルガンの奏楽を少しだけ学ばせていただき、実際礼拝で奏楽する機会があった時も、先輩に色々教えていただいたのですが、今回は私にとって技術的なことよりも、大事なことは、会衆が神様に賛美を心を込めて歌えるように、奏楽者はどのように仕えるかという点で、私にはレベルの高い話ですが、とてもチャレンジを受けました。また、録画の場所のチャペルを見て、懐かしい思いに駆られましたが、何十年も前、自分の学生時代に、身近にパイプオルガンやチャペル・礼拝があったのに、自身がほとんど関わることをしなかったことが非常に残念に思います。
賛美の歴史を見ると、時代によってスタイルは変わっていきます。しかし、神様を讃美する歌詞は変わらずに何千年も歌い続けられていることが神様の業によるものだと改めて思わされました。時代や教派によって異なる賛美の多様性があることを受け止めつつ、自分の出来る範囲で奏楽を続けていこうと、モチベーションが挙げられ、感謝でした。
使徒パウロとシラスは、キリストを伝える中で迫害を受け、獄に入れられることがありましたが、権力者たちは彼らを物理的に閉じ込めることはできても、彼らの賛美と祈りを妨げることはできませんでした。彼らは獄中でも賛美を歌い、それを他の囚人たちが聞いていたと聖書に記されています*1。獄中ですから、もちろんアカペラで歌っていたでしょう。究極的には楽器の奏楽がなくとも、たとい音程が違っていても、賛美は歌えるのであり、その讃美を神様が喜んで受けて下さるということが大切だと思います。
私は、時々頭の中で賛美を歌い、その演奏の音まで頭の中で思い返し、時には仕事中、廊下を歩きながら頭の中で歌っています。仕事をしていると9-10時間があっという間に流れますし、その間づっと神様のことを意識できないのですが、それでもほんのひと時でも頭の中に賛美というBGMを流しながら、神様に助けを求め、そして実際職場でいつも助けられているので本当に感謝です。賛美の喜びは、奏楽する時も、歌う時も豊かに与えられる、神様からの恵であります。神様は、日曜の礼拝の時だけでなく、仕事中でも、家でも私の主であり、全てをコントロールして下さる方、共にいて下さる方です。それを私が意識すればするほど、神様への感謝が賛美となり、祈りともなり、神様とのコミュニケーションが増えます。賛美の内容は、主に聖書のみことばからとられていますので、みことばが自然と頭の中に蓄積されて、折にかなってそれを思い起こし、困難な状況の時にそのみことばによって力を受け、励まされて、日々生活していきたいと願います。 Y.O(新共同訳聖書引用)
*1 使徒言行録16章25節
Aug. 22, 2021 Luke 10:36-37
さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」 ルカによる福音書10章36-37節 (新共同訳聖書)
最近のニュースで日本国の外国人寄留者に対する扱いについての問題が取り上げられるようになりました。また、先日、日本在住のイラン人の方から、日本の難民問題について、またマスコミに全く放映されていないイラン国での深刻なコロナ感染状況について話を聞く機会があり、非常に考えさせられました。もちろん、これらの問題は今始まったこではなく、マスコミに取り上げられていなかっただけで、以前から日本は海外からの難民の受入が他国と比較して非常に少ないという統計は発表されていました。日本国民の意識の中に、難民イコール治安が悪化するというステレオタイプがあり、内戦等で政治的に祖国を追われざるを得ない、困っている人々を助けようという思いには中々いきつかないのでしょう。
一方、日本国民であっても犯罪をする人はいますし、外国人を違法に雇用し犯罪に利用しているその親玉は日本人であり、ネットを使って国外から日本に侵入してきているハッカー集団等が活動しているという現実があります。そのような現実を鑑みれば、治安悪化があるから難民を受け入れないというのはあまりにも狭い、非国際協力的考え方だと私は思います。日本という国は、グローバル化を経済、利益の面だけで他国にて拡大し続けてきた一方、メンタル的には全く鎖国を続けていた時代と変わっていないのではないでしょうか。もちろん、歴史的に移民で出来上がっているアメリカのようにはいきませんが、今の時代、もう少し難民を迎え入れる制度・体制を構築していく必要が政府にはあり、また国民側も共通理解を得られるよう、視野が広がっていけばと願います。
聖書には、移民(外国人寄留者)の扱いについて記されているところがいくつかあり*1、そこには、民族を超えた、人間すべてを大切に思い、愛して下さる神様の思いが示されています。例えば「隣人を愛しなさい」という律法があったとしても、「隣人」の定義が個々人異なったらどうでしょう。はるか海の向こうの外国人は隣人なのでしょうか?難民を受け入れるべきだと思ったり、普通の生活場面で外国人と接する場合に親切にしようと思えるには、個々人の行いの動機、またはその行いに導く法律があると思います。イエス様はユダヤ人として生まれましたが、その神様が与えた規律、教えを厳格に守り、「自分は神の前に正しい」と思っているユダヤ人たちに対して、たとえ話を用いて、この「『隣人』とはだれですか?」と問いました。当時のユダヤ人にとっては、隣人とは同胞で、自分と関係が良好な人だけでした。しかし、イエス様的に隣人とは、自分と同じ民族や近所の人、知人だけではなく、究極的には仲が悪い人もそのカテゴリーに入ります。なぜなら、神様の御子であるイエス様にとって、人間は皆同じ愛する対象であり、イエス様は人種や性別、国籍、身分はもちろん、犯罪を犯す人・犯さない善良市民(?)等とわけ隔てをなさらない方だからです。
私はこのイエス様から、こんな自分であるのに関わらず、愛され、大切にされていることを信じ、感謝して、この世での生活を天国という最終目的地にいくまでの寄留者として、キリストの愛に倣って生きていこうと思っています*2。こんな自分とは、今迄神様を知らず逆らってきた人生を歩んできた者であっても、キリストが代わりに十字架で私の罪にたいする罰を負って下さったから、全て赦されていること、そして信じた後も失敗も多く、信仰が弱い者であることです。私は神様に良くして頂いても、目に見えない霊的な神様にお返しができません。神様は私たちにお金は要求しません。キリストを信じるだけです。しかし、私としては何もできなくともせめて その神様の愛に応答し、目に見える自分の目の前の人々に対して、上記のみことば「行って、あなたも同じようにしなさい」というイエス様のことばに、たとい出来なくとも、従いたいという思いが与えられています。
私たちがこの世の生活で困難な状況であっても、自分に敵対する人が周りにいても、今もキリストは天において助け、導いて下さっていることを信頼し、全て委ね、不安にならずに生きていけることは幸いだと感謝しています。この神様の計り知れない愛を受け取れたからこそ、隣人の定義をイエス様的にまで広げ、愛を広げていければと願います。私は大きいことはできません。まずは、今自分が接する周りの人々、何人であっても、自分にかみついてくるような人であっても、神様からその愛を心に注いでいただき、時には忍耐しつつ、親切にできればと努めようと思います。(Y.O)
*1 「寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で 寄留者であったからである。寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。」出エジ プト記22章21-22節
「主はこう言われる。正義と恵みの業を行い、搾取されている者を虐げる者の手か ら救え。寄留の外国人、孤児、寡婦を苦しめ、虐げてはならない。またこの地で、 無実の人の血を流してはならない。」(エレミヤ書22章3節)(新共同訳聖書)
*2 「これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。 」ヘブル人への手紙11章13節 (口語訳聖書)
Aug. 15, 2021 Matthew 21:
イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える。』だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」 マタイによる福音書 21章44節 (新共同訳聖書)
私たちが住んでいる益子教会の建物は、一階の部分の外壁が大谷石という、栃木県大谷町付近一帯で採掘される石材で造られています。私は個人的に大谷石の存在を栃木に引っ越すまで知らなかったのですが、先日、大谷石資料館に行く機会がありました。その資料館は、地下の採掘場跡からなっていて、夏でも12℃という涼しさです。その採掘場は地下深く、またとても広い空間が広がっており、以前どのように採掘していたかの説明と展示がされています。暗い空間に、ところどころライトアップがなされていて、あたかも古代エジプトの遺跡に見えるような錯覚を覚えるほど、幻想的な場所でした。大谷石が使われ始めたのは6-7世紀に遡り、1960年代迄は手作業で石を切り出していたそうで、暗い地下に働き続けていた労働者の方の苦労を思いました。大谷石で出来ている建物は、夏でも涼しく、昔から穀物や食物の倉庫(石蔵)として用いられ、栃木県のあちらこちらで、今でも大谷石で出来た倉を見かけます。大谷石は比較的柔らかく加工しやすい石材でありますが、耐震性、耐火性は強いとのこと。西洋諸国と異なり、日本のほとんどの建築が木造でしたので、昔から石材の建物が日本でもあったというのは以外でした。
石材といえば、古代イスラエル国のソロモン王が建てた神殿も石で建築されていました。その神殿の建築についての詳細が聖書に記されていますが、その時の様子について下記のような記録があります。
「神殿の建築は、石切り場でよく準備された石を用いて行われたので、建築中の神殿では、槌、つるはし、その他、鉄の道具の音は全く聞こえなかった。 」 第一列王記6章7節
この「よく準備された」という形容詞の原語は「シャーレーム」が使われているそうですが、「自然なままの」、あるいは「完全な」という意味があるそうです。そして、「平和」を意味するそうです。神殿の建築現場では、すでによそでカットされた石材を組み立てるだけでしたので、石を切る時の大きな音がしていなかったということでしょう。もちろん、多少石を組み上げていく上で音がしていたとは想像しますが、それでも現場にこのような静けさがあったということは不思議です。神様が臨在する聖なる場所、神様を礼拝するための場所にふさわしいことだなと改めて思わされました。
石や岩というのは聖書的にも意味があり、神様を石や岩として譬えられます。「家を建てる者の退けた石が隅の親石となった。これは主の御業 わたしたちの目には驚くべきこと。」*1の「隅の親石」というのがキリストを指し、イエス様ご自身がこの聖書の箇所を下記のように引用しています。この時代の建築において、土台となる隅の親石は基礎部分において重要でしたが、にも関わらず、この譬えでは神殿を建築している当事者がそれと認識できず、「この石はどこの部分なのだろう」と捨ててしまったとあります。その当事者はユダヤ人であり、彼らにはメシア(救い主)が与えられることを昔から預言者を通して示されていましたが、いざイエス様が来られてもメシヤだと認めず、十字架に架けてしまうことが示されています。そしてイエス様の救いは、ユダヤ人以外の民族へ与えられるということを比喩で預言しています。そのおかげで、日本人である私も、現代でイエス様を信じることが出来ているわけです。また、ユダヤ人であっても、キリストをメシヤだと信じれば救われます。
使徒パウロが、「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。 」*2と記しているように、キリストを信じる信徒が神の神殿であるという根拠は、何人であっても、誰であっても、イエス様を救い主として信じた者はイエス様という基礎の上に一体となり、神の宮として建て上げられているからであり、神の霊(聖霊)が私たちの内に住んでおられるからです。これは、神様がなぜそのように図られたのかが私たちにはわからないので、私たちの目には不思議に見えるわけです。
私たちは「自然なまま」で、ありのままで恵によって救われましたが、そしてイエス様を信じる信仰によって、少しづつ「完全」に内側が変えられていく石となっていきたいと思います。聖霊の業によって、私たちはよく準備された石となって、キリストの体、神様の神殿の一部に組み入れられ、愛の実を結ぶ神の民になりたいと。一夜にして出来ることではないですが、日々祈りつつ、キリストに委ねていきたいと願います。(Y.O)
*1 詩編118編22-23節
*2 第一コリント信徒への手紙3章16節
Aug.2,2021 Acts17:26-27
「神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。」使徒言行録17章26-27節
この数年間で、東京は多くの改修工事、新設工事が行われてきたのは、2020オリンピックのためで、円形競技場やその他の競技の為の新しい建設物が東京の新しい情景を創り出しています。円形競技場の由来は、古代ローマ帝国の時代に遡り、もともとはスポーツ観戦の場ではなく、剣闘士が殺し合いを行い、観客がそれを見るという娯楽を提供する場所でした。映画「グラディエーター」を観た方は想像がつくと思いますが、なんとも残酷な娯楽です。しかし、人々はそれを良しとし、政治的にはそのような娯楽を提供することで人々の帝国に対する不満を解消させるための道具としていたと言われます。また、オリンピックの時期だということで、これに関する記事があり、目にとまりました。「剣闘士:殺し合いのイメージは誤解だった」という説を古代の壁画、歴史的一部の文献から、あたかもそれが現代のスポーツのように審判がいて殺すまでに至らないケースもあったとか、剣闘士訓練施設で大切に育成されていたとあり、しまいには「剣闘士は勇敢に戦い、時には命を落とす、男らしさや美徳の象徴にほからならなかった」と書かれていました。どんなに悪を美化しても、歴史的事実であり、もし美化された内容通りであったのならば、皇帝によって廃止されることなく、今も続いてるはずです。
先日、この悪しき習慣であった剣闘士を終わらせるきっかけとなったのが、キリスト教の修道士であったことを知りました。この娯楽は、ローマ皇帝により5世紀初頭に禁止令が出され、最終的に競技場を閉鎖されるまで7世紀頃まで密かに続けられていたそうです。テレマクスという修道士 は、ある時、このむごたらしい剣闘士の戦いを止めようとして円形競技場に入りました。すると、観客が逆上し石を投げつけて彼を殺してしまったという事件が発生し、それをきっかけとして、当時ローマ帝国はキリスト教が国教となっていたので、皇帝により禁止令が出されたそうです。テレマクス修道士の命が犠牲となってこの悪しき娯楽は終焉しました。
古代から、ある人々は人と人とが殺されて倒されるまでの戦いを観て興奮し、ストレスを解消するという本質を持っているのではないかと思います。なぜなら現代では、剣闘士の代わりに、バーチャルのゲーム上で同じことが行われているからです。IT技術が進化すれば進化する程、この戦って相手を殺し、ポイントをゲットして「やった!」と興奮する、ある種の満足感を得る娯楽が拡大し、人々の心を知らぬ間に蝕んて行くことを私は懸念しています。「ただのゲームではないか」と言われます。実際に人に命が失われなくとも、ゲーム上で「殺す」という精神的構造を、なんの良心の呵責なく続け、心が麻痺していくのに気がつかないのでしょうか。そして、世界的に行われている、現代のバーチャルの殺し合いゲームという娯楽を、誰が命をかけて終焉させることが出来るのでしょうか。
私は、人はどんなに高尚な立派な人でも、心に暗い部分、罪悪という部分を個人差や程度はあれ持っていると思います。それが良心で抑えられていればいいのですが、「魔がさした」と言われる様に、やってはならないことをしてしまう、酷いことを心で思ってしまうということを誰もが経験しているはずです。そんな私たちの罪の部分から解放し、赦し、そして罪を犯さないように、愛の心を持てるように変えることが出来るお方が、イエス・キリストしかいないと信じます。神の子であるイエス様は、私たちを救うために、ご自分の命を十字架上で犠牲にされました。修道士テレマクスは、キリストの愛に生きて、自分が殺される危険があろうとも、とにかく剣闘士を止めさせようと競技場に入っていったのだと私は思います。また、神様はイエス様のこの犠牲により私たちを救って下さるだけでなく、イエス様を信じて生きる、新しい生き方において生きる希望が与えられることが、幸いであり、この不確実な先行きが不透明な時代において、特に、私たちには必要ではないかと思います。一人でも多くの方々が、なぜ自分が今生きているのかを真剣に考え、それを求めた時、神様を見いだせるはずです。使徒パウロは、キリスト教の神様を全く知らない、ギリシャ時代の多神教を信じるアテネの人々に、真の神様を伝えようとして宣べ伝えた内容が、下記の聖書の箇所です。私は、日々、このコロナ禍にあって、苦しんでいる人々、人生で悩んでいる人々が、このような聖書のことばに触れる機会がネット上でもあって、求めて、キリストを知って、幸せになってほしいと祈っております。神様は私たち一人一人から遠く離れておられる存在ではなく、見えなくとも近くにはおられ、一人一人をケアして下さる優しいお方であることを知ってほしいと。(Y.O)
*「ナショナルジオグラフィック」日本版8月号「グラディエーター熱狂の舞台裏」
July 24, 2021 John 15:4
「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。」ヨハネによる福音書15章4節 (聖書引用、新共同訳)
梅雨が明け、猛暑の時期となりました。今年は我が家で、プランターになす、きゅうり、トマト、ピーマンの苗を植え、しばらくの間収穫を楽しむことができました。近所の方もこれらの小さな野菜の成長を見ていて下さり、そのことで会話をかわし、少しだけですがお裾分けできたり、毎日実がなるのを楽しみにしていました。ところが、折しも、熱海に土石流を引き起こした線状降水帯の大雨の時に、これらの野菜は風と大雨で根ごと倒されてしまいました。急いで修復したのですが、それ以来元気がなくなり、水をあげても実がならなくなり、厳しい太陽に照らされて涸れてきてしまいました。とても悲しくなりました。来年は、大雨が降るときには、軒下に移動するなどして野菜を守らなければならないと思います。このように、植物は自然のままではうまく成長せず、損なわれてしまうことがあり、実を結ぶことは簡単ではないことを毎年失敗しながら、試行錯誤しています。
私が小さな野菜を惜しんでいる一方、今年の自然災害、特に洪水の被害は日本だけでなく世界各地でもニュースで報道されており、多くの方々の命が失われていることは心痛みます。聖書に、小さな木が枯れたことを惜しむ人と、12万の人々の命を惜しむ神様のストーリーがヨナ書という書簡に記されていることを思い起こします。ちょっとわがままなヨナという預言者は、自分に日陰を作ってくれていたトウゴマの木が一夜にして涸れてしまい、翌朝太陽がヨナの頭上に照りつけ、暑くてぐったりすると、「生きているよりも、死ぬ方がましです。」と神様に文句を言いました。すると、神様はヨナに「お前はとうごまの木のことで怒るが、それは正しいことか。お前は…一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」*1と言われました。
そもそも、ヨナは神様から「ニネベに行け」と命令されていましたが、自国を苦しめていた残虐な国アッシリアへ行くことを拒み、結果船の旅の途中、大魚に呑まれて生死をさまよい、神様に悔い改めて、ニネベの岸に吐き出されます。ヨナは、ニネベの人々が神様からのメッセージを聞いて悔い改め、救われてほしくなかったのです。案の定、ニネベの人々は、ヨナの簡単なメッセージで悔い改めてしまったのです。私たちは、目の前の小さなイベントにがっかりし、文句を言ったり、ましてや残虐に人を殺す者を「赦せない」と思ってしまうのが正直な感情でしょう。ヨナは私の自己中心的な態度、また自分の正義感にもとづく他者にたいする裁きの心を現しているようで、ヨナを責められません。 しかし、神様は私たちとは全く異なり、どんな人に対しても、滅びて欲しくないと救いの手を差し出す方であり、慈悲深く、情け深い方だと聖書を読んでいて思わされます。そのような神様にキリストを通して救って頂いた私は、今でもヨナ的であり、他者に対していつも慈悲深くなく、冷たい人間だなと自分をみると落ち込みます。
しかし、それでも、いや、それだからどうしたらいいのかと考えると、不完全で、実を結んでいなくともイエス・キリストにつながり続けることだと下記のみ言葉を通して示されました。つながるには、私が「つながろう」という自分の意志、いつもそう出来なくともそう努めようとしつづける決意が前提であり、それは能動的に私のなすべき責任です。ただ棚から牡丹餅状態で何もしないのでなく、自分の思いをキリストにつながらせようという意志を持ち続ける必要があります。そして、自分をイエス様につなげて頂いた後はお任せする、つまり受動的に栄養を流していただけることになります。私自身が栄養を造らずとも、イエス様が流して下さる栄養をもって、時間がかかっても実を結んでいけるのではないでしょうか。イエス様の側からすると、「わたしもあなたがたにつながっている」というのは、私たちがまず、イエス様を受け入れて、イエス様を私にコネクトさせてはじめて、イエス様が私につながっていてくださり、木が枝に養分を送るように、キリストの力を、愛の性質を私に送ってくれるわけです。
キリストにある愛の実、たとえば喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制*2を、自分の素の性質で結ぶことは私にはなかなか出来ません。しかし、私が生活の中で与えられる希望の一つは、こんな自分でもイエス様につながり続ければ、いつかは実を結び、周りの人々にキリストの愛を示せるように変えられていくということです。主体的、能動的にイエス様につながっていようと、日々み言葉を読んで、思いめぐらし、後は受動的にキリストの愛を流して頂き、それが自分から溢れ出て外へ流れ出ますように、祈りたいと思います。Y.O
*1 ヨナ書4章9-10節
*2 ガラテヤ信徒への手紙5章22-23
Y.O
(聖書引用、新共同訳)
*1 ヨナ書4章9-10節
*2 ガラテヤ信徒への手紙5章22-23
July 10, 2021 Colossians 3:1-3
「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。」コロサイ信徒への手紙3章1-2節
先日、テレビの番組で「パレスチナ紛争はなぜ起きているのか?」という内容が放映されていました。そのゲストの方々のコメントから推測すると、多くの日本人はパレスチナ問題についてあまり知らないし、エルサレムがどこにあるかさえしらないかもしれないと気がつきました。それは、日本とイスラエルはなんらかの関係があったとしても、そのことがクローズアップされていないからでしょう。その解説者は、パレスチナ紛争は「誰の土地か?」でアラブ人とユダヤ人が争っているとし、ユダヤ人にとっては「この土地は神様が我々に与えると約束した土地だ」と主張していると述べていました。
また、アラブ人の中には、イスラエルと共存していこうという穏健派(東ヨルダン地区)と、ユダヤ人を必ず追い出すというガザ地区の過激派(ハマス)があり、何時も先制攻撃でロケットをイスラエルに打ち込んで、反撃をイスラエルから受けます。その結果民間人もまき沿いになり、「イスラエルの攻撃で子どもたちが殺された!」と世界にニュース発信し、同情を買い、同時にアラブ人の同胞たちへ、自分達過激派の存在意義をアピールしていると解説されていました。軍事的にハマスとイスラエル軍のレベルは、野球で言えば少年草野球チームと大リーグのチーム程差があると。ニュースだけを見ている人々は、「イスラエルは民間人を殺すなんて酷い」という印象を持ち、そもそもなぜそのような結果になっているかを知らないで、イスラエルだけを批判することになります。もちろん、軍事的にも政治的にも、全てイスラエルのしていることが正しいとは思いません。少なくとも、イスラエル国内にも、パレスチナ問題に関して穏健派と強硬派の政党もいて、実際やられたらやりかえしていて、平和的解決には至っていません。
日本人は「ご先祖代々からの土地」として、特に地方では大切に守っている方が多いと思います。しかし、行政が道路を拡張するため、その先祖代々の土地を手放さなくてはならない場合もありますが、決して売らない所有者もいます。今、益子で農道だった道が両側の水田の部分が売られて、広い道路に工事がなされています。おそらく、益子駅とその周辺からちょっと離れた益子の道の駅につながる道を広げたいということで工事がなされていると推測しますが、農業を営む方々にとっては土地を手放すという犠牲が伴います。しかし、その広げられた道路の間に、新しい道路と道路の間に、細長く水田が残っている部分があります。そこは、なぜかは知りませんが、その部分だけ、所有者は土地を売らずに通して、協議の結果、そこを避けたまっすぐではない道路になったのだと思います。私はそこを見ると、パレスチナ問題を思い出します。(いささか飛躍しすぎ)
誰でも、自分たちの持っているものを次の世代に残したいと思うものでしょう。それは良いことであります。しかしどんなに良いことも、そこに欲がからむと争いを引き起こします。私たちキリストを信じる者は、地上での土地は寄留の地であり、天国で、永遠に相続する場所が与えられることが、聖書にユダヤ人だけでなく、全てのキリストを信じる者に約束されていると信じています。ですから、あまり地上の所有に関してこだわらないよう、争わないよう、下記のみことばように、使徒パウロも聖書で勧めています。地上のことには、たとえ損することがあったとしても、なるべく最低限に関わり、その分、上にあるものにいつも心を留めたいと心がけたいと思います。上にあるものとは、キリストに関わること、つまり天の父なる神様の御心にそったことでしょう。そのためには、日々み言葉に触れ、み言葉を生活の中で適用していくことに心を配りたいと願います。また、日本人であっても信仰の目でみるとイスラエルは非常に自分達と関係のある国であり、現代においてこの国で起きていることが聖書に記されている事と直結するという、重要な国です。神様のご計画で起こされたイスラエル人(ユダヤ人)という民族、そして彼らに約束された祝福*が、イエス・キリストを通して全ての人におよぶという聖書の約束を信じる時、現実の歴史で起こってきたことが聖書の預言と重なって行き、また今後起こりそうなことも、ぼんやりとですが予想がつきます。すると不確かなことに対する恐れ、思い煩いが薄れていき、その分、神様に対する感謝、満ち足りた思いが与えられ、幸いです。
かくいう私は日々、突発的なことが起き(仕事の性質上仕方がないのですが)、その対応に追われたり、思うように行かないことばかりで、計画したことも本当に成し遂げられるのかどうかも不明と、あくせくしているような者です。それでも、神様に助けを求め、計画したことも全て、どうなるかは神様に委ねて、神様の御心にそった一日一日を過ごしたいと祈り求めて行きたいと思います。(Y.O)
*創世記12章 1-3節「主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷父の家を離れてわたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にしあなたを祝福し、あなたの名を高める 祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る。」
June 29, 2021 Hebrew 9:11-12
「しかしキリストがすでに現れた祝福の大祭司としてこられたとき、手で造られず、この世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋をとおり、かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである。」ヘブル人への手紙9章11-12節
「あの小屋は何だろう?」益子町にある道の駅は、緑豊かな水田が広がる場所に建てられたおしゃれな設計の建物ですが、この4月からその横に小さな小屋が建てられました。毎日その横を通勤で通り、気になっていたところ、ある日そこに一匹のヤギが登場しました。おそらく観光客、特に子ども連れの家族がヤギと触れ合うために飼うことになったのでしょう。隣の市のリス村から連れてこられたそうです。先日、二人でそのヤギを見に行きました。確かに人にとっては動物の存在はかわいいし、癒し系なのですが、一匹でぽつんと客寄せのために置かれ、寂しそうだなというのが正直な感想です。せめてつがいで置いてほしいと願います。このヤギは「やっくん」という名前がつけられています。かわいそうに、人を突かないよう、角もおられていました。
「スケープゴート」という言葉は日本語にもなっていますが、「身代わり」「生贄(いけにえ)」などの意味合いを持つ、聖書由来の用語です。政治家が、「秘書がやった」と言って、責任を秘書にかぶせ、刑事責任を負わせたり、遂には自殺に追いやるということがあります。まさに秘書はスケープゴートにされたと言えます。また、その時代の政府の不平や憎悪を他にそらすため、ある人々、ある民族がスケープゴートとして罪や責任をかぶせられ、迫害されてきたというたくさんのケースが歴史的にも見られます。ひどい話ですが、人間が古来からしてきたことです。
動物たちには申し訳ないのですが、かれらはいつも人間の犠牲になります。聖書に、祭司が古代イスラエルの民の罪を贖うために、動物を犠牲にして毎年儀式をしていたことが記されています。その一つが贖罪(しょくざい)の山羊という儀式で、これがスケープゴートの由来です。「祭司は二頭の山羊の為にくじを引き、一つのくじは神の為に、一つのくじはアザゼルの為とする」*1(アザゼルとは『完全に除去する』という意味)とあり、やぎの頭に両手をおき、イスラエルの人々の悪と罪をその上に告白して、これをやぎの頭にのせて、荒野に放ちます。また、過越しの祭りでは、小羊を屠ります。その過越しの時に屠られる小羊はまさに、イエス・キリストの十字架を示す型であると言われます。洗礼者ヨハネがイエス様のことを「見よ、世の罪を取り除く、神の小羊」*2と人々に言ったように、小羊も同様に人の罪のために犠牲になっていました。事実、イエス様が十字架にかかり死なれたと同時刻に、エルサレムの神殿では過越しの小羊を屠る儀式が行われていました。
これらの動物の犠牲により、人がその罪を動物に負わせますが、それ自体で罪を除くことができず、しかも罪から解放されないまま、人は罪をくり返し犯すので、この儀式を何度も行わなければならないのですが、下記の聖書の箇所にあるようにイエス様は神の子であるので、たった一回の犠牲で全ての人の罪を背負える背負えるように、またすべての罪に対する赦しが与えられるように神様が計画して下さったのです。キリストは、全ての民を永遠に罪から救われるアザゼルのやぎでもあり、過越しの小羊であり、しかも罪の除去だけでなく、人類を罪から救い、その救いを信じた者を天国に招き、永遠の命を与えて下さるメシヤ(救い主)であると、聖書は記しています。
人はどんなに他人に罪を負わせたとしても、心の底では自分の罪や悪を自覚しており、それがいつか暴かれて責められるのではないかという負い目や恐れを持ち続けなければならず、その罪責感を他者に負わせることは不可能です。そして、赦されているという安堵感も与えられません。しかし、イエス様の十字架はそれを取り除くことができ、赦され、心に平安が与えられます。また自分が赦されて、神様がイエス様の命を犠牲にしてまで、愛してくれているということを受け取れると、他者に対しても柔和な心が与えられ始めます。私は、キリストを信じる信仰が与えられても、他者に対する柔和な心が充分に、品性としてまだ備わっていないのが正直なところです。ひとりでも多くの方が、キリストの愛によって罪責感や恐れ、トラウマから解放されることを祈りつつ、私自信もキリストの柔和な心を与えてください、と日々祈り、全ての人と平和を保ちたいと願っています。 (Y.O)
*1 レビ記16章1-22
*2 ヨハネによる福音書1章29節
June 13, 2021 Genesis 1:31
「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。」 創世記1章31節
最近メディアでもSDGs 持続可能な開発目標(Susutainable Development Goals)のことが取り上げられるようになってきました。SDGsは2015年9月の国連サミットで採択されたもので、国連加盟193か国が2030年までに達成するべく掲げた目標です。世界規模で貧困をなくす、持続可能なエネルギーを開発する、不平等をなくすなど 17の目標(ゴール)を掲げています。日本でも二酸化炭素の排出量を減らすという具体的目標数値をかかげているのもこれと関連していて、個々人のレベルでエネルギーの使い方や、環境のためになる、小さいことから始めようと推奨されています。
「バナナはなぜ安いのか?」高校生の時、この問いを投げかけられましたが、私はこの問いを通して考えなければならない問題を理解できませんでした。逆に、ミッション系の学校のキリスト教の授業の中で、先生が聖書の話をしないで、なぜこの話題を取り上げたのかがわかりませんでした。安いイコールお得。私たちは自分の財布が得すれば、なぜ安いのか迄考えません。しかし、フィリピンの人達が超低賃金で、その当時は子どもが働いていたから、人件費が安く抑えられてバナナの価格が安いという現実がある、つまり開発途上国の人々が先進国企業により搾取されているという犠牲の上に「バナナは安い」のです。私はこのことに問題意識をもったのはもっと後になってからで、「持続可能な開発」という言葉は、アジア・アフリカの開発途上国の開発の為のことばとして30年位前に学んだコンセプトでした。そのころは未だ先進国と称する西欧諸国が植民地時代のアジア・アフリカ諸国との関係をひきづっている物の見方、社会構造があり、この問題を国連等が主導になって取り組んでいくのは不可能なように思えました。しかし、30年近くたって、SDGsが全ての地球上の国が、同じ目標に向かうというアジェンダとなり、少しは前進しているのかもしれません。
一方、SDGs達成のためには、人が互いを尊重し、利益中心ではなく、国境を越えて互いに助け合おうという思い、自然を大切にしようという共通の認識が必要でありますが、個々人の価値基準が異なるのでその道は容易なことではないと思います。しかし、もし17項目の中の一つにもある 「正義や平和」を、キリストにあって皆が共有できれば実現可能ではないかと思います。なぜなら神様が人にしてほしいことは、神を信じ、人間同士互いに愛し合いなさい*1ということにつきるからです。見えない神を信じ、愛するということは、神様の命令(言い換えれば、私たちにしてほしいこと)を守ることだと聖書にあり、その命令は難しいことではないとあります。*2
神様は人と人が居住できる地球を創った時、それらを全て見て「極めて良かった」と言われたと冒頭の聖書の箇所に記されています。なぜ「極めて良かった」人と地球が今のようになってしまったのかは、最初の人間アダムとイブが、神様の命令を守らず、神様から独立して、自分達で善悪を決めようかのごとく、食べてはならないと言われた善悪の木を食べてしまったからです。それ以降人は創造主である神様を知らないで生まれ、誰かが教えない限り、神様の存在を知らず、信じず、己の利益のために人を傷つけ、自然を破壊・操作してきているのではないでしょうか。そうなる以前は、人は神様と自由にコミュニケーションができ、無垢に神様に全て委ねて平和な生活を自然と調和しつつ、エデンの園の中で送っていたので、心には神様との平和、自然との調和があったはずです。もしかしたら、人の潜在意識の中には、初めに神様が創造された、自然と調和していた世界、平和あ人間関係への渇望があるのではないかと思います。
たとえ今の状態が楽園ではなくとも、キリストを信じることで、この世に生きながら神様との間に平和があり、神様に全てを委ね平安な気持ちが与えられ、神様の与えて下さるその恵みに感謝して日々過ごすことが可能と信じられること、これは、なんと幸いなことでしょうか。私は、全てを神様に頼り、委ねることができる特別な恩恵を”SDG” (Special Dependency on God)と勝手ですが思いつきました。私はキリストにあるSDGをいつも心に留め、神様に感謝し、結果的に国連が掲げる17項目にも少しでも生活の中で実践していければと願います。(Y.O)
*1「「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」。 イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。 これがいちばん大切な、第一のいましめである。 第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。 これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。 」マタイによる福音書22章36-40節
「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」ヨハネによる福音書15章12節
*2「神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。そして、その戒めはむずかしいものではない。」第一ヨハネの手紙5章3節
May 23, 2021 Revelation 21:1-5
「わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。 黙示録21章1-5節 (引用:口語訳聖書)
我が家にあるダイニングテーブルと椅子は、夫の両親から譲り受けた家具で、いわゆるアンティークですが、とても気に入って使っています。なんでも古いものと新しいものがあり、新しく購入したり、造ったりもしますが、古いものをあえて好んで買う方もいますし、現代のようは大量生産・消費の時代において、古いものを大切に使いづつけることを私は好みます。洋服、家具、電化製品も壊れたり、破れたりしなければ、なるべく新しいものを買わず使い続けたいと思います。
一方、自分の品性や身体に関しては、「新しくなれれば。。。」と思うこともあります。今迄生きてきて、「あのことをしなければよかった」、としてしまった罪や失敗については、神様は既に赦して下さっているという恵みが与えられ、罪責感にさいなまれることなく、後ろ向きに過去を振り返ることがなくなったのは幸いです。が、してしまったことの刈り取りや失ってしまった事柄はもとには戻れません。そのことに対する不満や自己憐憫を続けるのではなく、そのことを受け入れて、共に生きていこうと前向きに捉えるようにしています。例えば、病気になってその後遺症が続く場合は、その後遺症とも、自分の一部として共に生きていこうと思う。また、人間関係については、神様は赦してくれても、人は赦してくれない場合があります。その相手との関係が改善されることを祈りつつ、相手の自分に対するネガティブな感情を受け入れていかなければならない、ということもあるでしょう。
聖書にははっきりとこう書かれています。
「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。 」第2コリント人への手紙5章17節
「わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのである。」テトスへの手紙3章5節
聖書の最初の書簡「創世記」で、「はじめに神は天と地とを創造された。」*1とあるのは、将来に新しい天と地が現れることが含まれた、神様の啓示の言葉だと思います。このみ言葉は、神様の御子、イエス・キリストが今ある天と地を組み立てるところから始まり*2、そしてキリストの十字架による罪の赦し、その罪によって失われた良い状態の回復、つまり新しい創造の「型」として聖書の最初に記され、そして聖書の最後の書簡「黙示録」において、その全てが新しく、創造される天と地のことが書かれています。天と地だけでなく、永遠に神様と共に生きれる新しい体が与えられ、人と神様が共存できる世界がいつかくるという約束は、私にとって大きな慰めであり、励ましであります。
キリストを信じながら、私の感情や思いが古いままのように思えても、また体に不具合があったり、年とともに衰えていったとしても、聖霊によって新しく造られ、古い自分は過ぎ去っていること、そしてこれから神様が全てを新しくされる日がくるという冒頭のみことばを心にとめていきたいと思います。毎日の生活で個人的にも、社会情勢においても色々困難はありますが、信仰によって、待ち望みつつ、日々過ごしていきたいと祈り求めます。
*1 創世記1章1節
*2 「【主】は、ご自分の働きのはじめに、そのみわざの最初に、わたし(1節の「知恵である私」つまり、キリストを指す)を得ておられた。わたしは、大昔に、初めに、大地の始まりの前に、立てられていた。まだ深淵もなく、水のみなぎる源もなかったとき、わたしは生み出された。 山が立てられる前に、丘より先に、わたしは生み出された。主がまだ地も野原も、世界の最初のちりも造っておられなかったときに。主が天を堅く立てられたとき、わたしはそこにいた。主が深淵の面に円を描かれたとき、上の方に大空を固め、深淵の源を堅く定められたとき、 海にその境界を置き、その水が主の仰せを越えないようにし、地の基を定められたとき、わたしは神の傍らで、これを組み立てる者であった。わたしは毎日喜び、いつも御前で楽しんでいた。」 (新改訳2017聖書】箴言8:22~30 ()は加筆
「御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生れたかたである。万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。」 コロサイ人への手紙1:15-16 (口語訳聖書)
May 9, 2021 1 Peter 5:7
「神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい。 」第一ペテロの手紙5章7節
仕事をしていて、自分の担当でないことを他者から「やっておいて」と頼まれることがあります。その人が上司であればやれと言われたことをするのは仕方ありませんが、例えば同僚同士の場合、その人との関係がよく、自分に余裕があるときは快く引き受けられます。が、そうでない時は「丸投げするなんて。。。」と思ってしまうこともあるでしょう。仕事はチームワークですから、特定の人に業務が偏らないよう、お互いが助け合って、分担しあい業務を終了していくのが理想ですが、現実は多忙な中、なんとかこなすのが精一杯ではないでしょうか。
仕事の事なら手伝えますが、人間関係に基づく個人の抱えている内面的な問題ならどうでしょう。その人の話を聞くことはできますが、その解決方法を提供するのは困難ですし、その人の問題を引き受けることはできません。逆に、自分自身が思い悩む身である場合、他人の問題を聞いて聞き流せず、感情移入してしまうと厄介なことになります。また聴き手がカウンセリングのプロだとしても、結局は思い悩んでいる人自身の気の持ちよう、捉え方が変わらない限り、なかなか前には進めず、ぐるぐる同じところで思いが回ってしまいます。問題となっている相手が変わってほしいと願うより、自分を変えた方が早いのですが、その自分を変えられないから悩み、思い煩うわけです。しかし、思い煩いは心をさらに蝕み、悲観的な考えを拡大させ、良いことはありません。
冒頭の聖書の箇所は「自分の思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい」とあります。この「委ねる」と訳されている原語は「投げる」という意味であり、すると「自分の思い煩いを神様に丸投げしなさい」と訳せます。神さまは人と異なり、全能で、慈愛と忍耐に富む方であるので、全て投げても受け取られ、解決の方法へ導いて下さる方です。
では、神様にどのように委ねればよいのでしょうか。イエス様が言われたように、自分が神様に祈ったことは全て聞かれている*1と信じ切ることだと思います。また、祈りの答えとして与えられたことを、受け取る覚悟が必要だと思います。自分の想う通りに神様が答えてくれると願っている限りは、神様に委ねていないのです。神様に問題を丸投げしたのならば、神様は各々にとって良いという方向へ導かれると信じ、それが自分の思い描いたとおりでなくとも、受け止めるということです。また、待つということも必要です。ただ待つのではなく、神様を「待ち望む」こと、なぜなら希望を持たなければ長いこと待つ事は苦痛であり、ついに諦めて、神様に対して「ああ、神様は結局聞いて下さらなかった」と不信感を持ってしまうからです。
「主を待ち望む者は新たなる力を得…走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。」*2という神様の約束が与えられているのですから、この先の見通しがつかない時勢において、どんなことでも、全て神様に委ね、待ち望んでいきましょう。(Y.O)
*1 「そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。」マルコ福音書 11章24節
「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。 」ヨハネ福音書15章7節
*2 「しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。」イザヤ書40章31節 (引用、口語訳聖書)
May 5, 2021
「わたしが福音を宣べ伝えても、それは誇にはならない。なぜなら、わたしは、そうせずにはおれないからである。もし福音を宣べ伝えないなら、わたしはわざわいである。」第一コリント人への手紙9章16節 (口語訳聖書)
よく、クリスチャンの世界では「あなたの神様からの召命はいつ?どのようにありましたか?」と、特にある人が牧師もしくは宣教師になろうとすると必ず聞かれます。その答えとして「どこどこの集会で祈っていた時、神様に私は呼ばれました」、「聖書のこの箇所が示されて、私は牧師になる決心が与えられました」等、また晩年牧師になった私の父の場合は「イスラエル旅行に行った時、死海のほとりで神様の召命を受けた」と言っていました。また、伝道集会に行って、その場でキリストを信じる決心をし、まもなく「私は献身し、神学校に行きます!」と信じてすぐに牧師になろうという若い人もいます。各々が牧師や教師になる自分なりの理由を持っていて、他者への説明が求められます。何事も、その動機が重要です。しかし、いつ、どこでという、ピンポイントの召命でなければならないのでしょうか。
オズワルド・チェンバース*という、スコットランド出身の19世紀の伝道者、神学校教師、説教者が神の召命についてこう記していました。「我々が忘れがちなことは、神は私たちに、霊的に、超自然的に触れられるということです。もし、神の召命を受けたのはいつ、どこで、どのようにと正確に全て説明できるのであれば、あなたが本当に神の召命を受けたのか疑問です。神の召命はそのように来ないからです。神がその人を呼ばれたと認識する仕方はもっと超自然的な呼びかけであり、雷鳴のようなもの、もしくは、ゆるやか夜明けのようなものです。…それは表現し難いものであり、輝きを生み出します。」
私は、オズワルド・チェンバース師のような霊的な神様に用いられた偉大な人の定義する召命が、全ての人に当てはまるかどうかはわかりませんが、「表現のし難い、もっと心の深い部分での霊的な呼びかけである」ということには同意できます。召命というのは、神様が個人に語り掛けるものであって、個々人の体験であり、よって必ずしも論理立てて他者に説明できるものとは限らないですし、もしかしたら口で説明するともっとあいまいなぼんやりしたものの場合もあると思います。聖書を読んでいて、旧約時代の預言者やパウロのことばから見いだせる共通点は、神様から呼ばれている人々は、神のことば・福音をなんとか人々に伝えたいという、「そうせずにはおられない」という一種の押えがたい欲求で動かされていること、それが原動力となって、どんな迫害にも困難にも耐え、主に期待して、喜んでいるという姿です。
私は、パウロと異なり、もし迫害されたるすぐに逃げてしまうような弱虫の信徒ですが、少なくとも、神様の愛、キリストの福音をもっと人々に知らせたい、説明したいという欲求は夜明けのように、ある時から次第に与えられてきました。私の場合それが原動力となって、突然アメリカに単身で移住したリ、日本に帰ってすぐに結婚と傍から見るといつも展開が急で驚かれます。しかし、私の中には一貫性があり、神様に守られ、導かれているという安心感があり、神様がキリストの福音を伝えるために私をどう用いられるだろうかと迷いながらも探り求めた結果が、今の自分であると言えます。私は欠点の多い、神様に用いられるにはふさわしくない資質で、自分を見ると落ち込みます。しかし、神様はあえてそのようなふさわしくない者さえも用いられると信じます。もし、こんな私がどんなに小さい働きであっても、誰かの心に神様を求めるきっかけの種を蒔くことに用いられれば、自分の能力・資質を誇るのではなく、全て神様の力と業のおかげであると神様に栄光が返されるためのサンプルとなり、私の喜びとなります。キリストを信じる信仰が与えられている人生の豊かさと神様の救いの恵み、神様の私たちに対する無償の愛を知らない人々に伝えたい、また辛い時には神様が共にいて下さるから、なんとかなるという事を伝えたいと、日々願っています。自分の内側にキリストにある「輝き」が造られることを期待しつつ。 (Y. O)
*オズワルド・チェンバーズ(Oswald Chambers, 1874年6月24日 - 1917年11月15日)は、スコットランド出身、バプテスト・ホーリネス ムーブメントの伝道者、神学校教師、説教家。著書「『いと高き方のもとに(My utmost for his highest)』、いのちのことば社、1990
Apr. 29, 2021 Proverbs 29:11
「愚かな者は怒りをことごとく表わし、知恵ある者は静かにこれをおさえる。」 箴言29章11節
「なぜ、あんな態度をとられるのか。」ある人が何かのきっかけで、自分に対して怒りを表してきた時、まず驚いて何も言えず、ついこちらが悪くもないのに「すいません」と謝ってしまい、後から良く考えると、なぜあんな態度を取られるのかと怒りがこみ上げてくる。。。こんな体験はしたことはないでしょうか。そのような人を、「あの人時々、スイッチ入っちゃうとああなるんだよね」と陰でささやくのを耳にすることがあります。要は怒りのスイッチが入り爆発したり、態度が豹変したりする人の態度を現すのでしょう。
怒りをコントロールできれば、どれだけの争いや問題を最小限に抑えられることでしょう。かくいう私も、「言わなければよかった。。」と後から思うことを口に出してしまう失敗はいまだにあり、そんな愚かな自分自身を責めて落ち込みます。口をコントロールする必要性については、聖書にあれだけ書いてあるのに、なぜ静かに抑えられなかったのかと落ち込み、しばらく立ち直れません。 。そんな時、聖書のデボーションの箇所がタイムリーに送られ、冒頭のような聖書の言葉が私を悔い改めに導き、赦しを受け取って、いつまでのくよくよせずに神様がいつか私の品性を変えて下さると信じ、気持ちを切り替えていけるのは幸いです。
また、私自信の感情のことより、私が怒りや苦い思いを持つと、私のうちに住む聖霊が悲しむとのみことばにより*、はっとさせられました。そうか、神様が悲しまれるのだと。私は神様を喜ばせたいし、神様の御心にかなったことをしたいと思っていても、神様を悲しませてしまっていることがいかに多いのではないかと気がつかされるました。
同じスイッチを入れるなら、信仰のスイッチをオンにしたいと思います。信仰が働くか働かないかは、電気をつける時のスイッチに例えられます。神さまを信じていても、疑いや不信感を持ったり、思い煩いで神様に委ねられないでいたり、自分の罪をそのままにしておくと、信仰が働かなくなり、神様の力が私のうちに流れなくなってしまう。そういう時はみことばを思い出し、罪を悔い改め、信仰のスイッチをオンにしようと。つまり、私の状態がどうであれ、神様の私に対する愛は変わらないし、見捨てられることはなく、私の失敗を通しても私を成長させる方向へ導くチャンスに変えて下さる方であり、信頼していていいのだと、心を自分ではなく、神様の愛に目を向けることにします。結局、私自信の内には何もなく、私は管のようなもので、その管の中に神様の力やみことばが流されると、周りに神様の業が現れ、良い影響を及ぼせる可能性があると信じて、神様に期待していきたいと思います。(Y.O)
*「神の聖霊を悲しませてはいけない。あなたがたは、あがないの日のために、聖霊の証印を受けたのである。すべての無慈悲、憤り、怒り、騒ぎ、そしり、また、いっさいの悪意を捨て去りなさい。互に情深く、あわれみ深い者となり、神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、あなたがたも互にゆるし合いなさい。」エペソ人への手紙4章30-32節 (口語訳聖書引用
Apr. 17, 2021 Isaiah 49:14-15
「しかしシオンは言った、『主はわたしを捨て、主はわたしを忘れられた』と。「女がその乳のみ子を忘れて、その腹の子を、あわれまないようなことがあろうか。たとい彼らが忘れるようなことがあっても、わたしは、あなたを忘れることはない。 」イザヤ書49章14-15節
ネグレクト。この言葉があらわす状況ほど、悲しいものはないと思います。先日、ある高校生の話を聞き、心が痛みました。詳細は個人情報なのでここでは言えませんが、行政が何もその子の為に出来ないし、民間の団体の支援に頼ろうとしても、その親が支援を受けることにストップをかけてしまうので、手の出しようがないのです。親権が子供の生きる権利を妨げてしまい、最悪の場合は子供の命を奪ってしまう事に対し、何もできないもどかしさと怒りが湧き上がります。
日本の子どもの為の福祉制度と子供を守る法律は、先進国の中で非常に遅れています。アメリカでは義務教育が高校まであり、授業料も無料です。また、虐待の疑いがあると、また親がいて学校を休ませていると、親の監督怠慢ということですぐに行政により親子分離がなされ、、子供は行政に保護されて必要な住居と費用が保障され、学校へ行かされます。また、小さい子ども達だけを家においておいて、親が出かけてしまっていると警察に通報されます。それほど子供に対する保護が法律で保障されているという背景は、親の虐待、ネグレクト、子供を狙った犯罪により子ども達の生死が危ぶまれた深刻な社会状況があり、それに対する方策です。それでも、子供の拉致監禁、虐待は絶えませんが、100%でなくとも子供を守る行政の仕組みが機能しています。日本もせめて、これくらいのレベルに行政が早く動けるよう法改正がされてほしいと願っています。
生きるか死ぬか。この二者択一ほど究極的な選択はないと思います。誰もが生きたいと思い、また生きるのなら幸せな祝福された人生を望みます。現代の壊れてしまっている社会で、特に子供は大人のように社会のシステムが分からないし、分別もないので、辛い苦しい状況、環境で一日一日を過ごさなければならないのです。ある国では生まれた時から戦争下で、いわゆる戦争のない時を知らないで育つ子供達がいます。生きたいと願っても、その選択肢がないかのような状況に置かれている人々。神さまはこういう子供たち、大人を見捨てておられるのか、という思いが沸いてしまうのも仕方がないことかと思います。
しかし、下記の聖書のことばにあるように、例え親が忘れても見捨てても、神様は忘れないと書かれてあります。だから、諦めないで、命を選びなさいと*。神様は人間を愛するために創られて、永遠の命を得させ、祝福を与えたいと一人一人に願っています。それは全ての人に対してであって、いわゆる加害者も被害者を問わず、全ての人に対してです。神様は人の罪が生み出した悪の連鎖、虐待や犯罪から救い出そうとして、神の子であるイエス様をこの世に送ってくださいました。そのイエス様が、本来受けるべき呪い(罪の結果生じる罰、負い目、罪に対する神様の怒り)を全て代わりに負って下さり、十字架で死なれました。それは、私たちが命を得、神様の祝福を得られるために身代わりになって下さり、そして死に打ち勝って3日目に甦えり、天において、今なお、私たちに救いの手を差し伸べ続けておられます。
死と生、呪いと祝福。どちらも2者択一であす。私たちが生と祝福を選ぶと決めれば、すでに用意されている神様の救いが与えられるのです。つまり、神様を信じるか信じないか選ぶだけです。選べないで迷っている人にも、様々な状況を通して、人を通して選ぶように招いておられます。目に見えない神様からのその招き、救いを差し伸べる手は、聖書に示されています。信じる選択さえすれば、心に平和が与えられ、、生きる希望と神さまから愛されているという喜び、自分の存在を大切に思ってくれる神様の存在を知る事で、自分の存在価値を認められます。そして、今の状況がづっと続くのではなく、必ず試練に耐えられる心を与え、また脱出の道も与えられると、聖書に約束が書いてあります。 この聖書のことばは、私たちの近くにあります。遠くにあるものではなく、理解が出来ないような難解な内容ではなく、子供でも理解できる、シンプルな内容です。心を開いて、受け取ればよい、信じるという選択をするだけです。一人でも多くの特に子供たちが、このキリストの福音を知って、信じて、将来に向けて生きてほしいと心から願い祈っています。
*「わたしは今日、天と地をあなたたちに対する証人として呼び出し、生と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。あなたは命を選び、あなたもあなたの子孫も命を得るようにし、あなたの神、主を愛し、御声を聞き、主につき従いなさい。」申命記30章 19-20節
April 4, 2021 1 Corinthians 15:19-21
「もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。」第一コリント15章19-21節
今日は教会暦でキリストが死んで3日後に甦られた日曜日を祝うイースターの日です。西洋諸国では、うさぎ、卵などをシンボルに用いて、新しい命が芽生える春のお祭りと掛け合わせて、子供達にエッグ・ハンティング(卵を庭のどこかに隠して、それを探すゲーム)をさせたり、ウサギのぬいぐるみがたくさん店頭に売られてたりしています。つまり、世俗化され、ディズニーランドなどを通して日本でさえも、イースターがうさぎや卵といった春の祭りとされ、本来のキリストの復活を祝う日ということが薄れてしまっているのが残念です。
ある方から聖書に関する質問をされたことで、聖書の中に「希望」という単語がいくつあるか検索してみました。英語の聖書の検索ですと、180箇所*1ありました。聖書の中で文脈的に「希望」を含む文章は二種類に分けられると個人的に思います。一つは、人が主体の(もしくは神様抜きに人の視点における)希望と、もう一つは神様が主体もしくは、「主にあって」のように、神様にあっての希望とに分けられるのではないかと考察します。
最近、ある若い作家の方が「押し」をテーマにした小説で、2021年芥川賞を受賞したというニュースを観ました。その作家は主人公が「押し」という応援する対象の存在に希望をおいて、辛い世の中でも生きていこうとする姿を描いたものだと語っていました。その「押し」という対象を多くの若い人たちは多かれ少なかれ持っていると。芸能人に限らず、その憧れの存在が彼らにとってアイドル(原語は”偶像”という意味もあり)になるのでしょう。その作家いわく、必ずしも「押し」の相手と直接触れ合ったり話したりという双方向性コミュニケーションの必要はないとのことでした。自分の中で満足し、完結していればそれにすがっていられて、それは逃避でもなく依存でないというのです。しかし、その片思い的なアイドルがどれだけその人を励まし続けられるのか、またいつまで、自己完結にすぎない思い、結局は逃避であるという虚しさから目を背け続けられるのでしょうか。それらの若い人たちが、中高年、高齢になったとき、別のアイドルをみつけて、明日に希望を持って、励まされて生きていけるのでしょうか。
希望とは先のことについて、まだ目に見えない、不確実な事柄に関して、こうなってほしいとの願いであり、人は何かしらに希望をおいて、それを信じて生きていこうとするものです。聖書の文章の中で、「明日」と「希望」のセットで検索してみると、一つだけありました。それはコリントという町の信徒たち向けに書かれた、キリストの使徒パウロの手紙ですが*2、概略は 「人間のもつ希望だけで、危険を冒して何かをしたとしても、何の役にも立たないし、同様に、死人が(キリストが)よみがえられたという信仰がなかったのであれば、どうせ明日死ぬかもしれないのだったら、飲んで食べよう! という刹那的な生き方になるしかない、つまり希望がないとパウロは言っています。
私は、何かに生きがいをつくること、または人の思いの中での自己完結的なアイドルが、全て悪いことだとは思いませんが、それらはあくまでも一時的で、その人の生活や人生に確かな励ましや希望を与えるものだとは思いません。一方で、問題にたった一人で向き合い、自分の力で、自分の想いでなんとか解決しようと悩み、頑張り続けることにも限界があると思います。誰であっても、本当の神様の存在、私たちを創られ、大切に思って下さっている愛の神様がいるということを信じる信仰が必要だと思います。
イースターには喜びと希望があります。なぜなら、クリスチャンはキリストが十字架に架かって死なれ、3日後によみがえられ、今も天国で生きておられることを信じているから、明日に希望が持てるのです。この復活を信じれなければ、自分の力を信じて頑張るか、自分の設定したアイドルを励みするか、どうせ死ぬんだから今を楽しく生きよう的な人生かにならざるを得ません。復活を信じないのであれば、聖書に書かれていることは、ただの道徳的な教えとしてとらえるにすぎないでしょう。キリストが経験された十字架は、本当にむごたらしい苦難と死、そして天の父なる神様ととづっと一つであった子なるイエス様がその時だけ神様と断絶され、見捨てられた時でした。それは私の罪に対する神様の怒りを代わりに受けるために必要であった、神様の救いの計画でした。このイエス様の死が、死んで終わっただけであれば、そこに喜びはなく、申し訳ないで終わってしまいます。しかし、そのキリストの十字架の死が、死で終わらず、死を克服された最初の方がイエス・キリストとなられました。そしてその復活がキリストだけでなく、信じる者にも将来起こるという約束が今日の聖書の箇所に記されてあり、そこに喜びと希望があります。
生きていれば、仕事のこと、家族のこと、人間関係のこと、病気や災害等辛いことや問題は必ずあります。しかし、それでもなお、私たちはキリストにあって、希望をもって生き続けられることは本当に感謝です。クリスチャンは日々の思い煩い、心配ごとについて、目を背けたり、他のことでごまかしてその場その場を生きる生き方ではなく、神様が何とかしてくださる、神様に任せられるという信仰をもとに希望が持つ生き方をすることができるはずです。つまり問題を神様に祈って、助けて下さい、道を開いて下さい、導きを与えて下さいと日々祈ることが出来るのです。神様は天国に行けるという先のことだけに対する希望だけでなく、明日のこと、身近な日々の問題に対する希望を与えてくださいます。イースターの主イエス・キリストにある希望を、この時期だけでなく、いつも心に覚えていきたいと願っています。(Y.O)
*1 Bible Gateway. 検索 Hopeは旧約で97、新約で83箇所。NIV訳
*2 第一コリント人への手紙15:23 ”If I fought wild beasts in Ephesus with no more than human hopes, what have I gained? If the dead are not raised,“Let us eat and drink, for tomorrow we die.” 日本語の聖書の訳では 「希望」が「動機」 と訳されています。
Mar. 21, 2021 1 John 2:15-17
「世と世にあるものとを、愛してはいけない。もし、世を愛する者があれば、父の愛は彼のうちにない。すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、持ち物の誇は、父から出たものではなく、世から出たものである。世と世の欲とは過ぎ去る。しかし、神の御旨を行う者は、永遠にながらえる。」 第一ヨハネの手紙2章15-17節
権利。もともと権利という概念はどこから来たのか、ふと考えてみました。私は哲学者ではないし、知識もないので専門的なことは考えられません。単純に思ったことは、権利というのは例えば人の命や生活がないがしろにされている状態が生じ、それから人を守るために生まれた概念だと思います。ですから、もし生活している環境に何の脅かされる要因がなければ、生まれてこない発想ではないかと。権利の主張は、歴史的に人が人を虐げる、命を大切にしない社会の構造に対して、例えば政治家、雇用主、もしくは立場的に人を支配してしまう者に対抗する、法的な根拠として発達してきたのだと思います。一方、いざ権利が確立されると、今度はそれを乱用したり、必要以上に振りかざす者がでてくるという皮肉な状況も生まれます。全て、人の自己中心的な思いが根本にあるかもしれませんが、これが世の中というものでしょうか。
神様は人や自然界を創造された時、全てが良かったと言われたと聖書に記されています*1。それが人の罪により、悪いものへと変わってしまい、人の集合体である世の中全体に及び、今日に至っています。もちろん、感謝なことに人にも自然にも全てが失われたわけではなく、良い部分も残っています。しかし初めに神様が創造された世界においては、人権の主張をする必要がない程、人間同士も、人間と自然との関係も調和していて平和だったのです。「互に愛し合いなさい」*2というイエス様が弟子達に言われたことばがあります。もし、これが出来ていれば、人を虐げたり、争ったり、妬んだりしないので、権利の主張をしなくとも平和に暮らせるのではないでしょうか。つまり権利とは、神様の存在を抜きにして、人間の力で暴力や虐待、争いから人を守るためのものと私は思うのです。
クリスチャンにとって、人権の主張がいつのまにか、神様の創られたもともとの秩序や概念より優先してしまう、つまり人道主義(ヒューマニズム)、人間中心にとって代わってしまう場合があります。一方で、「聖書にこう書いてあるのだから、それはいけない!」と、他者を糾弾しがちでもあります。しかし、一体誰が、聖書の言葉を全ての状況へ正しく適用することが出来るのでしょうか。神様の想いに従って歩もうとすれば、他者を裁くべきではないと思います。裁くことができるお方は神様だけであり、私たちは相手を裁くのではなく愛する、これが神様の御心だからです。また、神様の愛は情け深く、憐み深い面だけでなく、厳しい面もあります。愛を持って相手に助言をすることは裁くことではないのですが、言い方やタイミングが難しく、言われた側は裁かれたと思うかもしれません。いずれの側にしても、感情的に捕らわれるのではなく、神様の視点からするとどうなのだろうと、冷静に自分自身をみ言葉と照らし合わせ、見つめ直す必要があると思います。人から何か指摘されると、自分のプライドは傷つくし、言い訳をするか相手に対して矛先を向けたりしがちです。しかし、そんなプライドなどなくなるべきだと思います。謙遜になって、指摘されたことを受け止め、神様が一人一人を大切にするように、私たちもお互いが尊敬できればと願います。これは、私にとって非常に耳が痛い言葉です。そうしたくても感情的に出来ていない事が多いので、プライドが砕かれて、低くなりたいと思います。
今在る、不公平や不条理、差別、貧困は人間が作り出したものです。神様の視点からすると私たち人間は皆平等であり、神様はわけ隔てなく、ご自分が造られた大切な命として一人一人を見て下さっています。その愛の表れは、神様の御子イエス・キリストが十字架にかかって、私たちの罪全てに対する罰を負って死んでくださったことにあります。そして、死んで終わりではなく復活され今も生きておられる、そこに私たちの生きる希望が与えられるのです。私たち皆が神様から赦された者、愛されている者として自分の存在を受け止められた時、どんな状況にあっても相手を思いやることが可能になると思います。平和で良い関係を保つことは、人間の想いだけでは不可能でしょう。しかし、神様にあっては不可能はなく*3、この十字架の愛を信じ、神様の支配される国(領域)では可能であると私は信じます。たとえこの世的には正しいことと認められる事項であっても、もしくは、相手にも非があり、自分のプライドが傷つこうとも、神様の御心という視点ではどうなんだろう?と見極める力を与えてくださいと、祈っていこうと思わされます。(Y.O)
*1 「神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった 」創世記1章31節
*2 わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。 ヨハネによる福音書15章12節
*3 「イエスは彼らを見つめて言われた、『人にはそれはできないが、神にはなんでもできない事はない』」。マタイによる福音書19章26節 (引用:口語訳聖書)
Mar. 13, 2021 James 4:14-15
「あなたがたは、あすのこともわからぬ身なのだ。あなたがたのいのちは、どんなものであるか。あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない。むしろ、あなたがたは『主のみこころであれば、わたしは生きながらえもし、あの事この事もしよう』と言うべきである。」 ヤコブの手紙4章14-15節
首都圏に住んでいる両親たち、親族と一年近く会っていません。電話ではまめに連絡を取っていますが、やはり直接顔を見れないのは寂しいです。いつ頃なら安全に会えるか、なかなか見通しがつきません。こういう時は待つしかありませんし、仮に計画を立てたとしても、その時になったら実行できるかどうか、先行き不透明であります。これは個々人の生活においても、企業や団体の事業計画においても共通の抱えている課題でしょうし、いずれにしてもある程度計画は立てるものです。
先日、茨城県の梅林を訪れました。私たちの住む場所は栃木県といっても茨城との県境ですので、気軽に車で行けるところです。この一年は観光地にはいかず、四季ごとに自然の美しさを楽しめる近隣の場所を探索してきましたが、この山沿いに広がる、満開の白とピンクの梅林は圧巻でした。平日なので人はまばらで、マスクをつけていてもほのかに梅の香りが漂い、水戸にある有名な偕楽園とはまた一味違い、山に咲く梅がこれほどみごととは驚きと感動を覚えました。遠出や観光地へ行けなくとも、近隣で楽しめる場所に恵まれ、感謝であり、幸いだなと思います。
「たとえ明日、世界が滅亡しようとも今日私はリンゴの木を植える」*1ドイツの宗教改革者ルターの言葉です。この言葉は今日の上記の聖書にみことばに記されている、信仰の一つの側面がベースになっていると思います。先のことを思い煩わず神様に全て委ね、いつも通りの日常を過ごせるという心構えは、神様から与えられる平安によるものでしょう。
計画を立てること自体は必要なことですし、意味がないわけではありません。その計画の動機が問われます。イエス様は、「もっと儲けるために、先行投資していこう!」と自分の欲のために計画しても明日死んでしまったら意味がないという、愚かな金持ちのたとえ話をされました*2。計画を立てるとしてもこの金持ちのように欲の為の、自分中心の人生設計ではなく、神様から一人一人に委ねられた人生、生活を探りながら、神様のみこころだったらこうしたらどうかなと、神様に祈りつつ神様中心の計画を立てることが、クリスチャンの考えたかではないかと思います。そうすれば例え思い通りに、計画通りにいかなくとも、虚しさや失望で希望を失うことはないでしょう。そうすれば例え思い通りに、計画通りにいかなくとも、虚しさや失望で希望を失うことはないでしょう。「そうか、違ったんだな。神様はもっと良い、最善の方向を用意しているのだろう」と、軌道修正すればいだけですから。
中高年になるとあと、何年生きられるかと算定し、このことをやろう、あのこともしようと考える年になります。しかし、いくら健康診断をまめにし、生活習慣に気をつけた生活をしていても、病気になってしまい、計画していたことが実行できないという時もあるかもしれません。私は今元気に過ごせているのは、すべて自分の努力や計画ではなく、神様のみ心だと経験上も思えますので、あまり、気にしないように変えられました。そして、明日自分の命がなくなろうとも、それはそれでよしと。もちろん、もう少し生きたいとは正直思います。もう少し生きられるとしたら、夫婦で神様のために、キリストの愛と希望を伝える宣教活動をしたいというメインの目的のもと、プラスアルファで多くの人との出会いを大切にし、自然の美しさを楽しみつつ、小さなことにも感謝する生活を淡々と続けられればと。「悔いのないように、一生懸命生きなければ!」と気負うのではなく、もっと肩の力を抜いて、今日も神様の恵に感謝しつつ、いつも通り過ごそうと思います。(Y.O)
*1”Even if I knew that tomorrow the world would go to pieces, I would still plant my apple tree.” マルティン・ルター(ドイツの宗教改革者)1483年11月10日 - 1546年2月18日。宗教改革の中心人物となったことでプロテスタント教会の源流をつくった。
*2 ルカ12:13-21 「そこで一つの譬を語られた、「ある金持の畑が豊作であった。そこで彼は心の中で、『どうしようか、わたしの作物をしまっておく所がないのだが』と思いめぐらして言った、『こうしよう。わたしの倉を取りこわし、もっと大きいのを建てて、そこに穀物や食糧を全部しまい込もう。そして自分の魂に言おう。たましいよ、おまえには長年分の食糧がたくさんたくわえてある。さあ安心せよ、食え、飲め、楽しめ』。すると神が彼に言われた、『愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。そしたら、あなたが用意した物は、だれのものになるのか』。自分のために宝を積んで神に対して富まない者は、これと同じである」。
Feb. 28, 2021 1Corinthians 15:58
「だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。 」 第一1コリント人への手紙15章58節
有名な芸術家は必ずしも、彼らが生きている間に評価されているとは限りません。絵画や音楽等、その人が亡くなってから、後世に続く芸術作品として評価され、多くの人々に鑑賞され、影響を及ぼす場合もあります。きっと彼らは生きている間、「ああ、自分は才能がないのかな」と失望することもあったでしょうし、生活に困ったことあるでしょう。一方で「自分の表現したいものを表現したい」と、単に商業的に人受けるすものを制作するにとどまらず、自分の持っているものを固辞しているのではないかと思います。
ジョージ・スミス氏という、宣教師としてアフリカのある地に赴きましたが、短期間しか滞在できず国外追放となり、自国に戻らざるを得なかったという人がいるそうです。彼はその限られた時間に、たった一人の方だけにキリストを宣べ伝え、彼を通してその人だけが信じました。その宣教師は、もしかしたら自分のミニストリ―は成果がない、結局神様の導きではなかったのかと、がっかりしたかもしれません。しかし、100年経ったあと、そのアフリカの地に13000人のクリスチャンがいて、彼らの信仰のもとをたどるとその宣教師につながったという話があります。つまり、神様の目には無駄なことは一つもなく、たった一つの蒔かれた種が木に成長し、多くの実を結ぶことが可能なように、時を経て、その成果が表れることがあります。ただ、その宣教師自身が生きている間は、その神様の業を知ることはできませんでした。
私が米国フィラデルフィアに在住していた時、ホームステイでお世話になったジェニーという友人は、ご両親が日本で宣教師として数十年新潟の地で伝道活動をされていました。晩年になって御夫妻の証を聴いたことがありますが、日本での宣教活動の成果はほとんど得られず、非常に限られていたと。唯一目だったことをいえば、北朝鮮による拉致被害者家族の横田早紀江さんを信仰に導いたことだったと。その彼女が他の被害者家族とともに、日本政府だけにととどまらずアメリカに渡って、当時の大統領に、拉致問題解決のために嘆願しに行くほどの大きな働きをする人になるとは、宣教師夫妻は想像もつかなかったことでしょう。横田さんは「神がいるなら、なぜ、自分の娘は帰ってこないのか?なぜ長年祈ってもかなえられないのか」と、思われた時もあるかもしれません。しかし、横田さんは祈り続けたそうです。そして、その祈りの会は、数十年続き、昨年の11月200回になるとの、記事を読みました。*1
信仰は、今目に見えないことにたいして神様にあって望みを持ち*2、祈り続け、働き続けるものであり、粘り強さ、忍耐が問われます。そして、一つの小さな種であっても、それはキリストの福音という大きな力を秘めている種であり、決して無駄に地におちることがなく、必ず神様の力が現れることを信じ続けようと思います。たとえ時間がかかっても、直接的な活動ができない時期が続いても、大きな成果をするにみられなくとも、全てを神様に委ね、神様に期待する信仰を持ちたいと願います。そして、たとい自分が生きている間には成果が見られないかもしれなくとも、小さな種を蒔き続け、天国にて、「ああ、こんなところで、実を結んでいるじゃないか!」と、共に喜べる日が来ることを期待する、そのような信仰を願い、祈り続けようと励まされます。(Y. O)
*1「横田早紀江さん支えた聖書と仲間 「祈り会」200回に」朝日新聞デジタル版、2020年11月14日 https://www.asahi.com/articles/ASNCG5SVRNC5UTIL04R.html
*2 「さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。」へブル人への手紙11章1節。
Feb. 21, 2021 Romans 8:28
「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。 」ローマ人へ手の手紙8:28
益子という町の由来を調べてみました。徳川幕府時代の水戸藩家臣益子氏から来ているといわれ、名字としても茨城県、栃木県に多いそうです。なぜ調べてみようと思ったのは、今日の日曜礼拝にてある方が「”益子”っていう漢字を見て、ふと、思いついたんです。”神さまの益に仕える子”という意味で、神さまが益子に教会を置かれているんじゃないかと。自分自身もそのために、ここに呼ばれているように思いました。」と言われたからです。きっと神様は町の名前とご自分の信仰とがふと、結びつけられるという啓示をその方に示されたのでしょう。
米国東部にフィラデルフィアという市があります。この街はアメリカ合衆国建国の父、ウイリアム・ペンが聖書の黙示録に記されるフィラデルフィア*1(ギリシャ語で”兄弟愛”という意味)にちなんで名前をつけたそうです。アメリカの建国にはこのペン氏のようなクリスチャンたちが関わり、ヨーロッパでの宗教的迫害を逃れて新天地を開拓し、イギリスから独立したという歴史があります。街を新しく建てようとする時に、その街が「こうありたい」という希望や願いが込められて名付けられることはよくあります。ペン氏は兄弟愛を持って、平和的な、争いのない、民主主義の自由な国を目指して、フィラデルフィアと名付けたのではと察します。私も、両親とともにフィラデルフィアにある日本人教会では、短い期間ですが信徒の方々に大変お世話になり、まさに兄弟愛を持って親しくさせて頂いたという思い出があります。このように、聖書に出てくる地名や人の名前が町の名前になったりすることを考えると、益子という、全く関係のなさそうなところに、聖書的な意味があてはめられるのも、その住民としては親しみが持てるものです。
神様のみこころ、神さまの包括的な大きな計画にそったことは、神様の益であり、また私たちにとって益となります。ここでいう「益となる」とは、この世的なもうかる利益とか、自分に都合のよいご利益(りやく)とは異なります。私たちがこの世に生きている限り、損することのほうが多く、不当な扱いを受けたり、様々な困難、試練は必ずあり、キリストを信じているからといってこれらがなくなるわけではありません。しかし、信仰の中で試練をとらえる時、試練は私たちを神様により強く頼せ、神様への信頼関係が深くなり、信仰が成長するチャンスでもあり、また耐えられないようなレベルの試練は与えられず、また試練の中らから脱出する道をも供えて下さるという約束が与えられています*2。また最終的には、全てのこと、良いことも、また悪いと思えることも合まって、益となるように変えて下さるというみことば*3により、私たちを励まれて前進できつことは、本当に幸いです。
今置かれた場所で、神様の計画や願いに沿って、神様と人とに仕えたいと日々夫と共に祈り求めています。益子教会の第一のビジョンは、礼拝を第一にする教会で、たとえ人数が少なくとも礼拝を続け、そしてここに集まる人々がシンプルに神様のみことばを聞き、そして信仰が養われ、日常生活においてみことばに励まされて過ごしていこうと思える教会でありたいと願っています。そして、神様は同じ思いを持つ人々をこの益子教会に加えて下さることを信じていきたいと思います。これからも、大変なことはあると思いますし、自分の能力では乗り越えるのが不可能に思えるようなこともあるかと思いますが、神の御心であれば人には不可能でも神にあっては可能である*4というみことばにより、これからも一歩一歩進んで行きたいと感謝をもって励まされました。(Y.O)
*1黙示録 3:7-13
*2「あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。 」第一コリント人への手紙10:13
*3「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。 」ローマ人へ手の手紙8:28
*4 「これを聞いた人々が、『それでは、だれが救われることができるのですか』と尋ねると、イエスは言われた、『人にはできない事も、神にはできる』」。 ルカによる福音書第18章26-27節
Feb. 14, 2021 Psalm 8:3-4
「わたしは、あなたの指のわざなる天を見、あなたが設けられた月と星とを見て思います。人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか、人の子は何者なので、これを顧みられるのですか。」詩編8篇3-4節
先日、近隣の公園に3KMのウォーキングコースがあり、休日にそこを歩いていた時のことです。季節は梅の花が咲き始めるころでした。その公園内の梅園では、まだほとんどが蕾でしたが、白や赤色の梅が少し咲き始めていました。世の中の状況がどうであっても、季節ごとに必ず芽を出し、蕾を膨らませ、花を咲かせていく自然の美しさを観る度に、これらを創られた神さまの業を思い、畏敬の念とともに感動を覚えます。私たちは自然の美しさを求めて、以前はよく日帰りで観光地へ出かけたものですが、最近は人混みをさける時勢であるので、代わりに近隣の普通の公園や、畑や田んぼの道、また小さな森の中トレッキングコーすなどに出かけています。そして、そこでもいつも素朴な自然の美しさを発見し、本当に幸いだと思います。
イギリスの数学者、哲学者でノーベル賞を受賞したバートランド・ラッセル氏によると、「飽きることへの恐れは少なくとも人類の半分の罪の原因である」と言ったそうです。私は彼がどういう文脈でこのことばを記したのかは詳しくは知りませんが、一般の哲学者からみても、人がもっと、もっとと新しいこと、新しい刺激を追い求めるという欲は、良くない結果を引き起こすと観察していたのだと思います。一方で、人類の新しい技術を求める探求心、好奇心によって、人々の生活が豊かになり、芸術やスポーツ、文化活動は発展していきますし、これら自体は良い物です。しかし、”Curiosity killed the cat”(好奇心が強すぎると身を滅ぼすことになりかねないという英国のことわざ)という面もあります。また、社会が豊かになって、科学技術がどんなに進もうとも、すぐ飽きてしまってもっと他のものを欲しがる人の欲とそれに起因する犯罪、人間関係の悪化、戦争の勃発等は全く改善しておらず、かえってより複雑になり、悪化しているといってもよいでしょう。
私はもともと、新しいもの、新しいことを追い求めてお金を使わない者で、夫も同様でした。人々はこれらの物に並んで高いお金をだして購入していますが、並んで買うバーゲン等には全く興味がありません。しかし、最初から物欲がなかったわけではありません。20代のころは、新しいスポーツや習い事にチャレンジしたり、旅行に行ったりしましたが、それらは全て一時的で、長く続きませんでした。これらはみな飽きてしまい、それ以上続けることに価値を見いだせなかったのです。結論はみな一時的楽しみであり、私の心の深いところを、継続的に満たすもの、価値のあるものはこの世にはないということでした。もしかしたら、つまらない人間とみなされるかもしれません。しかし、自分では日々とても充実していて、満足できるので幸いです。これは、イエス様を信じる信仰が与えられてから、今迄気がつかなかった神さまの与えて下さる恵みで喜ぶことができ、結果、かなりシンプルに物事をとらえるように変えられてきたのだと思います。
自分を含めた人の言動を見ますと、感動する話もありますが、ニュース等、ほとんどが残念に思う、落胆することが多いです。しかし、神様がこの素晴らしい自然と人を目的をもって創られたこと、そして、人を大切に思い、命を永遠に続けてほしい、神と和解してほしいと願われて、神の御子イエス・キリストをこの世に送って下さったことを思うにつけ、感動します。なぜ神さまは、欲を追い求めてしまう、自己中心的な私たち人間に価値を見いだし、御子の命まで犠牲にして、忍耐して愛し続けてくれるのか。それも、良い行いをする人間のためだけでなく、全ての人のために。聖書に記されているみ言葉をとおして、このことを知るにつけ、ただ、感謝の思いで、賛美を捧げ、礼拝したいという思いが沸きあがります。
上記の箇所は、古代ユダヤ人国家の王であるダビデの詩です。彼の人生は波乱万丈で、失敗もありましたが、生涯神様と共に歩み、そして神様は彼を愛されました。彼も、神様が創られた月と星の美しさを見て、このような大きな宇宙の中の小さな存在である自分を顧みて、守ってくださる神様に対して、驚きと感謝、そして畏敬の念を覚え、この詩をつづったのではないかと想像します。この詩を読んで思うのは、本当の変わらない神様の深い愛が、自分自身に向けられていることを知った時、今与えられているものや状況に満足し、不必要な欲、つまりむさぼる心は自ずと薄れていくのではないかと思わされます。神さまの恵が私の心の深いところをいつも満たして下さり、私の願いが、神様のみ心がなるようにと思えるように変えられていく、これは驚くべきこと、ワンダフルな神さまのなさる業の一つではないでしょうか。 (Y.O)
Jan. 31, 2021 Psalm 118:24
「これは主が設けられた日であって、われらはこの日に喜び楽しむであろう。 」詩編118編24節
日曜の午後3時から、約50分くらいですが、ゴスペルを歌う集会を2020年の4月から益子教会では開催しています。30分くらいはCDの伴奏によって、ゴスペルを歌い続け、その後牧師のショートメッセージで終わります。私は、普段の礼拝では奏楽をしているため、賛美歌を歌う余裕がないので、この時間は思いっきり、体でリズムをとりながら楽しく賛美を歌っています。人数が少ないので3密にもならず、距離をとってマスクをしながら歌っています。軽快なテンポで、ゴスペルを歌える機会は、本当に楽しい時間であり、感謝です。今後、キーボードやギター、ベースなど伴奏が出来る人が参加してくれたらと願います。神さまがいつか送って下さると祈っています。
古くから歌われるゴスペルソングで、私たちも時々い歌う曲で、「この日は」(“This is the day”)という歌があります。とてもシンプルな歌詞の繰り返しで、歌いやすい曲ですが、歌詞はとても意味深いものです。
この日は この日は
主が造られた 主が造られた
我らは喜ぼう、
この日をば この日をば
This is the day, this is the day.
That the Lord has made, that the Lord has made.
I will rejoice, I will rejoice,
And be glad in it, and be glad in it. (“This is the day”)
この歌詞は、当時のユダヤ人がエルサレムにある都に礼拝に上って行くとき(巡礼の、都のぼりの時)に歌われていた詩編から引用されたものです。2千年前、イエス様ご自身も、過越しの祭りという時期に、弟子達と最後の晩餐を共にされてゲッセマネの園に行く途中に歌われたと思われる一節であります。*1 イエス様は、このゲッセマネの園で宗教家たちに逮捕され、違法の裁判に架けられ、十字架刑に処せられるという、想像を絶する死と苦しみの直前にこの歌を歌われたことになります。そんな恐ろしい、とても喜べないような時に、「神さまが設けられたこの日を喜ぼう」と心底歌えたのでしょうか。ゲッセマネの園では、イエス様じゃ父なる神様に血の汗を流しながら、苦しみ悶えて祈っておられたと聖書は記しています。しかし、祈りの最後には「あなたの御心が行われますように」と、神さまに全て委ね、十字架に向かわれました。イエス様にとって、この苦しみの日は死で終わるのではなく、神さまが計画されていた、人間を救うために必要だった大きな犠牲の日で、その後にイエス様は復活されるということをご存じだったからこそ、恥と苦難の日であっても、それを忍ばれて、神様が設けられた日を喜び楽しめたのではないかと思うのです。
私たちの日々の生活も、いつも楽しいことばかりではありません。むしろ、心配や苦悩、骨折れる日々を過ごされている方のほうが多いと思います。それでも、一日一日を神さまに感謝して喜べたらと願います。イエス様も「だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。 」*2と言われています。その根拠は、その前述の「神の国と神の義を求めなさい、そうすれば。。。与えられる」です。神様の支配される領域(国)と神様の基準の正義(義)を求めていれば、必要なものは与えられるから、心配することはない、明日のことは神様がなんとかしてくれるから、神様に委ねて、平安な心でいなさいと言って下さるのです。なんという励ましの約束でしょうか。今抱えている状況を無理に喜ぶのではなく、悲しい時には悲しみ、泣きつつ、同時にすでにイエス様が十字架で私のためにして下さった事を思い起こして、そのことを感謝出来ると思います。またイエス様がその苦しみを忍ばれたことを思い、自身も神さまの助けを求めつつ励まされて、日々歩んでまいりたいと思います。
*1マタイによる福音書26章30、36節
*2マタイによる福音書6章33-34節 「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」
Jan. 24, 2021 Hebrews 13:
「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。 」ヘブル人への手紙12章2節 (口語訳聖書)
先日、義理の兄が用事があって益子を訪ねてきてくれました。義理の兄とは一年ぶりに会いましたが、彼が益子に来るのは24-5年ぶりだとか。近くに住む、家族ぐるみの長い付き合いの友人宅にも一緒に立ち寄ることができ、四半世紀近く経っての再会をお互い喜んでいました。短い時間でしたが、やはり顔と顔を合わせて、またその人の家を訪問して様子を知ることができる機会は、今のようにいつでも自由に会えないという状況下において貴重なことです。
ある人と会いたい、いつか会える・・・と想うことは、普段の生活をする上でも励みになったり、楽しみであります。私の短い人生の中で、日本とアメリカとを行き来していて、多くの友人が与えられ、お世話になりました。それらすべての人と会う機会がなかなかないかもしれませんし、まめに連絡をとり続けるというのも、難しいものです。しようと思えばネットの普及でPCやスマホ越しに、コミュニケーションを取れるのですが、正直私は、多くの人といつも連絡を取り合うまめさがないのです。しかし、連絡を頂ければ返し、思い出してはその人のためにお祈りをしています。
先日、朝に聖書とともに読む本を読んでいると、ヒットすることばがありました。
「キリスト教徒は、突き詰めれば、「イエスというお方の姿を見たい」という望みと、そのための努力にほかなりません。」*1
私は正確に全ての他の宗教を把握していませんが、おそらく他の宗教において、神様に会うのを楽しみにして生きている、それが人生の動機や言動力となるという宗教はあまりないと思います。神さまや仏さまは、「今」の自分や家族を守り、願いを叶えてくれる存在であり、それさえしてくれれば特に会いたいとも思わないでしょうし、せいぜい、人が造った仏像等の像を拝見して、あらたかだ、素晴らしいと思う機会はあって、それを楽しみにする人はいるかもしれません。しかし、目に見えない神に会えるのを楽しみにし、希望を持って、今生きている生活を続けていこうと励まされるのは、イエス・キリストを神と信じているキリスト教だけではないかと思います。
なぜそんな望みを持てるのでしょうか?私にとっては、キリストが私の為にすでにして下さったこと、また今もこれから先のことに対して、その恵みに感謝し、感謝し尽くすことができない程だから、というのが理由です。すでにして下さったこととは、キリストが私に命を与えるために、十字架に架かってくださったこと、そして私は全ての縛りや罪の支配から解放され、赦されて、天の父なる神様より、子としての全ての特権を与えられていることです。そして今もこれから先のこととは、私が生きている上で、聖霊が内に住み、弱い、欠けのある私をやさしく導き、守り、どんな困難に会おうとも、この体が滅びようとも、いつか天でイエス様に会えるという希望により、平安でいられることです。試練・患難はあります。あると聖書にも書いてありますし*2、どの人でも試練のない人生はないと思います。しかし、キリスト者は、キリストにあってその試練を乗り越えられる、神様がなんとかしてくれると委ねられます。不安の念に襲われたり、仕方がないと投げやりなることもなく、困難に向き合って歩む力があたえられるというのは、本当に恵みです。
このキリストを信じる信仰を持ち続けられるよう、日々導き、そしていつか完成して下さるイエス様にいつかお会いできるという思いをもって、人生の行程を走り続けていきたいと願い求めていきたいと思います。(Y.O)
*1「ひと時の黙想 主と歩む365日」 1月17日 主イエスを見つめる より、
マックス・ルケード著 日本聖書協会 発行・翻訳
*2 「これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。
ヨハネによる福音書16章33節
Jan. 7, 2021 Philippians 3:20
「しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。」ピリピ人への手紙3章20節 (口語訳聖書)
2021年がスタートし、はやくも一週間が経とうとしています。夫と結婚してから毎朝二人でしていることは、聖書を読み、そのことについて自分たちが示されたことを短く分かち合い、祈ってから一日を始めています。どの聖書の箇所を読むかは、年ごとに毎日読む箇所(大概、短い文章)が記されている本、いわゆる「日々のみことば」の類のもので、いわゆるデボーション用の本でネットでも多く見られますが、それにそっています。今年の1月1日の箇所は、「私たちの国籍は天にあります。」ピリピ人への手紙3章20節でした。
普段の生活で、あまり自分の国籍というものを意識することはないかもしれません。私は海外に住んでいた時は、自分がエイリアン(異邦人)であることをひしひしと感じていました。その国民であることによって受けられるサービスや恩恵を受けられ、自由に自分の想いを表現できる言語を使いこなせる土地に住む事ができるのは幸いだなと、日本に帰国して実感いたします。また自分のアイデンティティを確認する時に、自分は日本人だということを考えるのではないでしょうか。在米の私の日本人の友人たちでアメリカでの人生が長い人は、アメリカ国籍を取得している人もいました。つまり、日本人であっても、国籍はアメリカとなります。
一方で、海外在住が長くとも、日本にいつかは帰りたいという思いがあり、日本国籍のまま働き、生活している方々もいます。いずれにしても、最終的に帰りたい、何かあれば帰れるところであるという安心感を持てる、そのような故郷が日本にあると思います。また、日本国内でも地方から都会に出てきている人々には、故郷という場所は家族がそこに居る限り、何かあったら帰れるという場所であり、都会での生活が大変であっても、その故郷のことを思って頑張ろう!と励まされる人もいると思います。
クリスチャンにとって、この世での生活は仮住まい(寄留者の生活)であり、いつか天の故郷へ行けるという望郷の思いが与えられていることは幸いです。なぜなら、この世の生活では嬉しいこと楽しいことばかりではなく、むしろ困難なことの連続かもしれないからです。若い時はその時なりに、学校や会社で人間関係に悩み、年を重ねると、以前のように活動できなくなったり、病気になったりと、いつも順調には人生進みません。しかし、どんな時でも、「ああこれで終わりか、もう踏ん張れない、、」という思いではなく、「そうだ、最終的には天国という故郷が用意されている、今は神さまに全てお任せしよう!」と信じられる信仰が与えられると、それが生きる上での支えになり、前向きに困難にとりくめる力が神さまから与えられます。
下記のように聖書のヘブル人への手紙に記されています。
「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。」へブライ人への手紙13章13-16節
天の故郷を待ち望みつつ、今、特定の国や人ではなく、全ての人が大変な困難を通っているという時代において、このことを覚え、日々励まされ歩んでいきたいと念頭から励まされました。(Y.O)
Dec. 30, 2020 Luke 15:4-7
「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め、『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう。よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう。」 ルカによる福音書15章4-7節 (口語訳聖書)
「サプライズ!」思いもかけないプレゼントが用意されていたり、何も知らされず、その当人が驚かされるような状況が与えられる時に使われる言葉ですが、当人は驚きと喜びでびっくりするものです。思えば神さまはいつも、サプライズで私たちを驚かせ、喜びに満たして下さる方です。最近のサプライズは12月25日に与えられました。この日は、益子教会に専任して初めてのクリスマス礼拝の日。今の社会情勢により、集まって礼拝を行うべきかどうか迷いもありましたが、いつもの礼拝堂のスペースと隣の部屋の間の仕切りを外して広く場所をとり、参加者全員にマスク着用、入口での消毒をお願いし、感染対策を取って準備しました。もともと、益子教会では10人以下の集まりですので、新しい方が来たとしても密になることはないと予測していましたが、リスクはありますので、神様に守っていただくよう祈り委ねることにしました。結果、私たち夫婦以外、9人の方々が参加され、クリスマスの賛美歌を歌い、夫のメッセージを聞き、とても和やかな時間を共に過ごし、無事にクリスマス礼拝を開催できたことは、本当に神さまの恵でした。
9人の内の二人が新しい方でしたので、そのうちの一人に私が「初めまして」とお声をかけると、「一度、木曜日の聖書を学ぶ会に来たわよ」と言われ、ハッとして思いだして失礼を平謝り、慌てましたがすぐに驚きと喜びで一杯になりました。彼女は益子教会のチラシを見て来られた方のお友達で、半年ほど前に一度だけ木曜日の聖書の学ぶ会に来られ、それきりでした。暫くは、また来て下さるようにと祈っていたのですが、いつのまにか彼女の為に祈ることを忘れていました。ところが、折しもクリスマスの日に、彼女から木曜の学び会についてお問いあわせがあり、その彼女とは知らずに夫が電話で対応し、「今晩、クリスマス礼拝があるので、それにもぜひいらして下さい」とお誘いしたら、なんと来て下さったのです。クリスマスのチラシを近隣にも配ったので、誰か来られるかなあと期待して、一ヶ月以上前から祈ってきたのですが、あの時の方が来て下さるとは、本当にサプライズでした。
教会に新しい人が来るというのは非常に貴重なことです。ですから、一期一会の出会いを大切にし、フォローアップしなければならないのに、私は連絡先がわからないとはいえ忘れてしまっていて、そんな自分が情けなくなり、神様にごめんなさいと謝りました。しかしながら、私は忘れていても神様は決してお忘れにならず、彼女のことを覚えていて、ちょうどクリスマスに日に彼女の心に「また行ってみようかしら」という思いを起こしてくださったのです。本当に神様のなさることは素晴らしいと、感謝の思いで一杯です。引き続き、木曜の学び会に来てほしいと願います。
もう一人の新しい方は、いつも遠くから来て下さる方(大下の父が足利で牧師をしていた時の信徒さん)の娘さんで、クリスマス礼拝にお母さんと一緒に参加して下さり感謝でした。教会というのは、近隣の方に限らず、車や電車で遠くから来て下さる方もいますが、引き続き、お二人で来て下さることを祈っていきたいと思います。
益子教会はある時から信徒がいなくなり、他教会の牧師さんが兼務で他教会の信徒数人とともに土曜礼拝を続けてきましたが、2020年4月から私たち夫婦が益子教会に移り住んで専任となり、日曜礼拝を再開したという経緯があります。ですから、新しい人が来られるたびに私たち夫婦には大きな喜びが与えられます。様々な理由で聖書に興味を持ったり、教会に来る機会があって、聖書の言葉に触れ、神様の愛と恵みを知るようになってほしいと、私たち夫婦にとってその事が一番の願いであります。生活の中で、様々な問題で苦悩している人々、失意の中にいる人々が神様から与えられる安心と希望・救いを見出し、そのことを皆で共に喜ぶ時、それは下記のみ言葉のようにさまよっていた羊が羊飼いに見つけられた時のような大きな喜びです。私たちにとって、この喜びこそが何よりも大きなサプライズであります。そして、益子教会を献金とお祈りで支えて下さっている多くの方々に、この喜びを分かち合うことで感謝を表し、神様に栄光を返していきたいと思います。益子教会が今迄無事に礼拝を続けられていることを神様に心から感謝しつつ、神様が来る年も、一人二人と益子教会へ送って下さるみ業を期待して祈り続けていこうと思います。(Y.O)
Dec. 19, 2020 Ephesians 5;21
「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。 」 エペソ人への手紙5章21節
「切れる」ということばはいつから、日本語においてイライラした瞬間を表す用語として使われだしたのでしょうか。少なくとも、この2-30年位前ではないかと思います。ぶちっと堪忍袋の緒が切れたという表現からくるのかはどうかは不明ですが、「切れる」人が多い世の中で、切れて暴力的な行動・言動に出てしまうと、警察沙汰になってしまい、多くの人が被害を受けます。一方、切れた当人は自分の行為の正当性を主張します:相手が悪い、だから自分はこういう行動をしたんだと。しかし、どんなに相手が悪くとも、暴力で返してはならないのです。そこまでいかないとしても、だれでも、自分の想った通りに事が進まないとイライラし、相手にたいする口調がきつくなってしまうことがあり、それに対抗して相手もきつくなりと、人間関係の悪化のきっかけとなりえます。私も以前、短期な性格により、よくイライラしていましたが、今はその傾向性を自覚し、なるべく穏やかに、口調に気をつけ、たとえ不当な扱いをされても切れないで、忍耐しようと務めています。逆に、自分の言動や失敗で、相手をイラッとさせてしまい、冷たい態度を取られてしまうことがあります。素直に謝るべきことは謝り、自分からは穏やかに接し、相手との関係がよくなるように日々祈ります。
人間関係における全ての争いのもとは互いに権利を主張することからくる、と言えるのではないでしょうか。自分がこうあるべき、こう扱ってもらうべきだと思った通りに事が進まないと、相手に訴えます。それにより、身体的もしく物質的に損害を被むれば、裁判という手段を用います。裁判はお金や時間もかかり、なかなか、判決も自分が勝訴したとしても、失ったものは元通りにはならないし、この世のやり方での争いの解決は、結局心の傷や後遺症が残り、さらに次の争いに発展するというケースがあることは、悲しい現実です。どこかで、自分が損した分を取り戻そうという主張を手放し、相手をとりあえず赦すということが、少なくとも自分の中で争いを終焉させる方法ではないかと思います。
ここで冒頭の聖書のことば「互に従いなさい」に触れてみたいと思います。「従う」ということは、一番人間がしたくないことであり、仕事や学校、家庭で、仕方がなく従うことはあっても、自分のプライドがあるので、本当は他者が自分に従ってもらいたいと思う傾向性が誰にでもあるのではないでしょうか。しかし、キリストを信じる信徒に対して、キリストの使徒パウロは「互に」従いなさいと勧めています。片方だけでなく、互いに。これはなぜできるのかというと、人間関係において、私と相手という2者の間に、第3者の存在があり、お互いがその第3者を通して、互いにプライドが低くされ、仕えあおう、従おうという思いが与えられるからです。その第3者とは、イエス・キリストです。互いにキリストの愛を受けている者であれば、キリストが自分を赦し、良くして下さったことを感謝して、他者に対してもそうしようという思いが与えられます。「与えられる」としたのは、素の自分では出てこない思いだからです。キリストを信じた時に与えられる聖霊の働きにより、感情ではたとえ相手に従うのは納得できなくとも、キリストがそう言っていたから、そうしようと思い直すことができるからです。したくないけど思い直す、これが私の正直な反応です。もちろん、もっと信仰が練られている人は、思いなおさずとも、最初から自然にそう思えるのではないかと思います。そこまで自身の品性が変えられていくように願います。
現代は、失うものが多く、大変辛い時勢です。多くの人が職を失い、経営状態が悪化しと、お互いの権利を主張し合います。そうしないと生きていけないからです。しかし、私たちの思いを超えた、見えない存在の全知全能の神様の存在を認め、神様がなんとかしてくださる、そして私たちに災いではなく、将来と希望を与える計画を用意して下さっているという約束*を信じられれば、どんな状況となっても、生きていけます。そして、「互に」こだわっていることを手放し、互いを尊敬できれば、争うかわりに、互いに助け合うことにつながるでしょう。それには、人間同士の美しい関係だけでは限界があります。やはり、イエス・キリストをまず信じること。これが全ての争いの解決の基盤となると思います。
今日は、夫が那須のホテルでウエディングの司式の仕事をしているため、雪の積もった景色を見ながら、日々与えられるみことばを通して思わされたことをつづっています。今日、夫婦となるお二人に、夫の司式での短いメッセージを通して、お互いに敬い、愛し合えるご夫婦になられることを祈りつつ。。。
*「主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。」エレミヤ書 29章11 節 (口語訳聖書)
Dec. 6, 2020 1 John 1:2-3
「愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストがきよくあられるように、自分をきよくします。 」 第一ヨハネの手紙1章2-3節
クリスマスにクリスマスケーキを食べることは、クリスマスの意味を知らない日本人にとっても、日本の文化の一部となっています。先日、私たちも知り合いの息子さん夫婦が開いている洋菓子店で、クリスマスケーキを予約しました。最近日本では、パン屋さん、洋菓子店でシュトーレンというケーキを見かけるようになりました。シュトーレンとは、ドイツで伝統的にクリスマスの時期に食べられる、ドライフルーツとナッツが入ったフルーツケーキです。このケーキは粉砂糖で真っ白に覆われた楕円形で、イエス・キリストが赤ちゃんとして生まれた時にくるんだ、おくるみをイメージしているそうです。このケーキは、クリスマスの当日に食べるものではなく、待降節といって、クリスマスにむけて4週間前から教会はクリスマスの準備期間を持ちますが、その時期にクリスマスが来ることを楽しみにして、少しづつスライスして食べます。
この待降節(アドベント:「到来」という意味)は、イエス・キリストが人となって2千年前に生まれたその誕生日を喜び祝うための準備期間をいいますが、もう一つのことを準備する期間でもあります。それは、第二の到来、主イエス・キリストが再びこの世に来られること(再臨)を覚えて、それに備えていく時でもあります。
キリストがもう一度来られることについて、イエス様が弟子達に幾つかたとえ話で話されていたことが聖書に記されています。10人の乙女のたとえ、遠くへ旅に出かけた主人と家を任された僕たちのたとえ等、どれも共通している点は予告なく「突然来る」ということです。つまり、いつ来るかという予測は誰もできないし、知らないので、いつキリストが来られても良いように、日ごろから心を準備しておきなさいという警告でもあります。これは、あれから2千年もたち、結局、キリストの再臨はない、裁きもないとたかをくくって、神様を恐れず好き放題なことをしている人たちへの警告です。しかし、神様にとって、1日は千年、千年間は1日という長さで*1、時間の感覚は人と異なります。
イエス様の弟子ペテロは、この再臨の際に起こると記される天変地異、つまりすべてのものが崩れてなくなる、この世の終わりの現象に触れ、「このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほどきよい生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。」*2と言っています。大切なことは、いつ来るかと予測することや、この世の終わりだと恐れることではなく、神さまを信じ、清い生き方をして、キリストの再び来られることをを待ち望むことだと言っています。今日の下記の箇所は、別の弟子ヨハネもこの再臨に望みを持つ者は「キリストがきよくあられるように、自分をきよくします。」 と記しています。
キリストの再臨における望みとは、最後の審判において、キリストを信じて生きそして死んだ者たちは、復活と永遠の命を与えられ、先に復活して天で生きておられるキリストと共にいつまでも生きる者とされることです。神様は、イエス・キリストを通して、私たち人間がこの最後の裁きを恐れなくてもよいように、救いの道を用意してくださいました。神の子でイエス様は私たちの罪のために十字架に架かられて、その罰を負ってくれてたので、この最後の裁きの時に、キリストを信じる信仰により、責められることがないのです。たとえ、完璧なクリスチャンとして歩めなくとも、失敗があり、何度か神様を悲しませることをしたとしても、信仰さえ持ち続け、悔い改めて、神様にすがっていけば、キリストによって私たちは正しいとみなして頂けることは、なんと幸いなことでしょうか。ですから、世の終わりのキリストの再臨と、そこで起る最後の審判は恐ろしいものではなく、救いの完成の時だとなり、待ち望むことができます。
日常生活の中で、心を清く保つのは努力がいります。なぜなら、まだ心ではキリストを信じて内側が聖霊が住み、新しくされていても、いまだこの肉体を持っている状態で生きているので、外側から入る情報、環境、過去の記憶等にかなり影響されます。影響されにくくするには、なるべく心に悪い影響を与える情報や環境を避けることです。また、仮にそうしたとしても、ふいに、過去の映画等で見た怖い映像やある人に対する苦い思いがフラッシュバックしたり、マスコミに操作されて必要以上に恐怖心を煽られたりすることが起こります。私は牧師たちに教えられたことは、道を歩いていて、自然に入ってきてしまう誘惑の映像や、相手を悪い言葉でけなしたり、下ネタでゲラゲラ笑っているTV番組が待合室のTVで放映されていたら、「2度見」をせず、その場を立ち去ればよいと。つまり、何かに反応してぱっとわいて出た悪い思いを、そのまま心の思いのなかで進めないことでストップできます。そのままにしておくと、思いはどんどん広がっていきますから、私は思いがわいた時に神様に瞬間的に祈ります、「この思いを消してください」と。すると、感謝なことに消えていくので、それに捕らわれることなく、心が汚されることを防げます。
信仰を持って、長年教会へ行っていても、いまだに私はこんなやりとりを神様と心の中でしなくてはならない、なかなか清くなれない者です。しかし、アドベントの時期だけに限らず、普段の生活の中でも、キリストが来られることを待ち望み、心を聖霊によって徐々に清めていただき、準備していきたいと願います。(Y.O)
*1「しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。 」第一ペテロの手紙3章8節
*2 第一ペテロの手紙3章12節(新改訳)
Nov. 29, 2020 Job 14:7
「木には望みがある。たとい切られてもまた芽をだし、その若枝は絶えることがない。」 ヨブ記14章7節 (口語訳)
ある日、いつもの道を車で走っていると、両側の街路樹が次々に切り倒され根株だけ並んでいるのに気がつきました。これは2022年開通予定の、宇都宮駅から周辺の工業団地まで走る、新しい電車の工事のために取り除かれていたものでした。毎年この道を通る度に、その美し銀杏の木の紅葉を楽しんでいたので、非常に残念に思います。ところが、数週間後に同じ道を通ると、その切り株から枝葉が少しづつ出ているのに気がつきました。木の生命力は改めてすごいと思いました。しかし、人間は次々に自然を犠牲にして、己の利益のために工業団地を建てていくわけです。
アメリカ人は、言葉の頭文字をつなげて言葉の意味の文章を作り出す、ことば遊びをするのが上手なようですが、先日なるほど!と思うものを見つけました。HOPE(希望)の頭文字をとって、Holding On with Patient Expectation. (直訳すると”忍耐の期待を持ち続けること”) 何かを期待する時は、ある程度忍耐が必要とされます。すぐに希望通りになる場合もありますが、大概、時間的に待たなければならなかったり、希望とおりにならないことが多々あります。つまり、希望には思い通りにならないことに対する忍耐が伴うという面があると思います。人が希望を持つ時というのは、状況が厳しい時、苦しい時であり、これからは良くなる、楽になることを期待することで、希望を持って励まされ、頑張ろうとするからです。逆に、何もかも物事がうまくいっている時は、希望を持たなくとも生きていけるのかもしれません。
聖書で、ヨブという人のことが記されています。彼は、神をおそれ、神に褒められる程正しい人でしたが、ある時悪魔が「ヨブは、財産、健康、幸せがあり祝福されているからで、それを取り去れば神を呪うよ」と言い、そして神は悪魔にヨブを試すことを許されます。そして一度に妻以外の家族(10人の子供達)を失い、財産も使用人も失い、そして自分の健康も失われるという非常の過酷な状況に置かれました。しかしながら、ヨブは神を呪うどころか、「『われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか』。すべてこの事においてヨブはそのくちびるをもって罪を犯さなかった。 」*1と言ったと記されています。そして、彼の友だちが彼に「お前が何か悪いことをしたから、罰が下ったんだ」と彼を責めるので、ヨブは自分は何もしてないと言い張り、次第にその論争がヒートアップしていく様子が、ヨブ記の中で詩の形式で表されています。冒頭の箇所はその中でヨブが言った言葉ですが、これを「こんな状況でも、希望を持てる」という励ましの意味にもとれますし、「木は切り倒されても復活できるが、人はここまでボロボロにされたら立ち直れない」、という嘆きを示した文脈にもとれます。ちなみに、最終的にヨブは、神様ご自身から語り掛けられ、その崇高な存在の前にひれ伏し、再び、子供が与えられ、財産も与えられるというストーリーです。
聖書のなかで、「若枝」という言葉には意味があり、あることが象徴されている。若枝とはメシヤ、救い主を象徴していると解釈されます*2。ですから、イエス・キリストという救い主にあっては、人はどんな状況であっても希望を持てるのです。なぜなら、イエス・キリストは私たちを絶望から希望へ、暗闇から光へ、死から命へと導く、神の子、救い主だからです。現代のような暗い社会情勢にあっても、希望が与えられていると思えることに、日々感謝しています。それは、何か目に見える保証やお金があるからでもなく、自分や家族が健康だからではなく、政府が何かしてくれるという期待によるのではありません。キリストを信じる信仰が与えられると、どんな状況でも、神さまに感謝出来る心が与えられるからです。使徒パウロは「私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。 」*3と言っています。私自信は使徒パウロが経験したような苦難や貧しさを経験したことはありませんが、信仰の成長の中で徐々に、今神さまが与えて下さっている状態・環境で満足し、充分であると思えるように変えられてきていることは感謝です。もちろん、生活の中で様々なことが起こり、忍耐しなければならないこともあります。しかし、その状況がすぐに変わらなくとも、忍耐しつつ神さまに任せようと思っています。なぜなら、神様が全てのことをコントロールしていて、なんとかしてくださる、というイエス・キリストにある希望が与えられているからです。
クリスマスの時期が近づいてきました。このイエス・キリストにある希望を一人でも多くの人が知り、その恵みに預かれるように祈りつつ、イエス様の誕生を祝う準備をしながら、神様のなさるくすしい業に期待したいと思います。
*1 ヨブ記2章10節 (口語訳)
*2「エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び、その上に主の霊がとどまる。これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。」 イザヤ書11章1-2節 (口語訳)
*3 ピリピ人への手紙4章11節(新改訳)
Nov. 15, 2020 Romans 10:14-15
「しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。『良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。』」 ローマ人への手紙10章14-15節
最近は、外食よりも家族や少人数で「お家ごはん」やテイクアウトが以前より用いられるようになりました。外食産業としては痛手ですが、感染対策にはとても有効です。結局、マスクを常時していてソーシャルディスタンスをとっていても、食べる時はどうしてもマスクを外し、そして多少でも話すことになるので、ウイルス感染の機会となるからです。そのことが分かっていても、たまにはレストランで食べたいという、外食にはそれなりの価値があります。座ってオーダーすると、美味しい料理が運ばれて来て、食べ終わるとお店の人が下げてくれますし、料理を作らず、後片付けもせず、家の中とは異なる空間で、食べて、話して、何もかまわずお支払いだけすればいいわけですから。一方、たとえおいしい料理であっても、店の人の対応が悪かったら、嫌な気分になり、せっかくの料理の味が台無しになることはないでしょうか。また、ピザのデリバリーの人が、乱暴な運転をしてピザの箱をひっくり返してしまい、中身が崩れたものを渡したらどうでしょうか。基本は味ですが、料理を運ぶ人の態度や方法も大切な要素です。
イエス様がこの世に生きておられた時、5千人の人にパンと魚を奇跡で増やして給食したことが聖書に記されています。*1 イエス様は5つのパンと2匹の魚を、5千人が満腹し、さらに12のかごに有り余るまでにパンを奇跡で増やされました。これは、イエス様の話を聞きにきた群衆がお腹がすいていて、かわいそうに思って必要を満たされたのですが、同時に霊的な意味も示しています。パンは神のことばを指し、神のみことばはどんなに人数が多くても、十分届けられ、皆が味わうこと(知ること)ができるのです。私達は生きるためには食べ物が必要なように、心の食べ物が必須で、それが神のことば、つまり聖書に書かれている神の言葉です。
「人はパンだけで生きるのではなく、神の口からでる一つ一つのことばによる。」 *2
ここでは、イエス様がそのパンを運ぶのではなく、弟子達が運びました。このように、クリスチャンは牧師や教師に限らず、神様の伝えたいメッセージ:聖書に書かれているみことばを、自分の置かれた立場と様々な方法で知らない人々に「伝える、運ぶ」という役割があると思います。
冒頭の箇所は、キリストの福音を「伝える」ことについて書かれています。デリバリーの人は運ぶ中身には手を出さないように、伝える人はメッセージの中身(キリストの福音)を変えることは出来ないし、付け加えたり、差し引いたりしてはならず、聖書に書かれていることをそのまま伝えるべきです。そして、運んだあと、つまりメッセージをした後や、個人的に神様がどのように自分の人生を変えて下さり、救ってくださったかを証した後は、その結果(聴き手が神さまを信じるか、信じないか)に対しては責任を負うことはないと思います。なぜなら、メッセージを受け取る側を信じさせることは神様のなさる領域であって、神様だけがその人の心に語られたみ言葉を響かせ、気づかせ、そしてもっと知りたいと神様を求めさせ、救いに導くからです。人の役割はデリバリーの人、ウエイター・ウエイトレスの役割。ただ宣べ伝える人としての責任は、そのメッセージを忠実に伝えること、また私たちの態度で台無しにしないよう、相手をつまづかせないように配慮することではないでしょうか。そのためには、神様の愛と知恵をいただかなければならないと思います。
「神の計画は神からの霊感を受けた人間が、神のことばに従ってあげた成果によって実現するばかりではなく、人間の過ちによっても、罪によってさえも実現するのです」*3と記している人がいます。聖書を読んでいると、神様が選ばれた信仰の人達でさえも、失敗や罪を犯すことも記され、それでも神様はその人たちを用いられるケースがあるからでしょう。ましてや私のような普通のものが、今までを振り返ると、いつもメッセージの運ぶ時の態度等が適切であったかは自信がありませんし、失敗、失言が多いことを認めます。つまづいてしまった人もいたかもしれないので、ごめんなさいとその方々と、神さまの前に謝るのみです。いつか、神様がその人の心を和らいで下さることを祈ります。神さまの憐み、赦し、愛は深く、その御業は私たちの思いを超えたところで行われる、と安心して委ねられることは、なんと幸いでしょうか。相手に伝える際、みことばの内容に忠実に、そして自分の態度についてよく吟味しつつ、文章を書くときも、話すときも、人と日常生活で関わるときも、神様から助けを頂いて日々歩んでいきたいと願います。
*1 ヨハネによる福音書6章1-4節
*2 マタイによる福音書 4章4節
*3 ポール・トゥルニエ 「人生の四季」より
Nov. 7, 2020 Psalm 133:1
「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。 」詩編133編1節
先日、久し振りに西那須野の地を訪れました。西那須野教会の皆さんとお会いするのは、益子へ引っ越して以来。皆さんお変わりない様子で安心しましたが、一つだけ以前と異なることは、マスク姿で顔を合わせていることでした。今回の訪問の目的の一つには、病気の方々を見舞うことでしたが、その方々は退院したばかりだったのに関わらず、お会いする機会が与えられました。ソーシャルディスタンスを取り、マスクをしながらでも、このように顔と顔を合わせて集まることが出来たのが本当に感謝でした。お互いの近況等、しばし共に語り合い、楽しいひと時が持てました。
その週末、義理の両親が我が家へ訪問してくれました。お正月に会って以来(約10ヶ月振り)でしたので、益子教会の礼拝にも参加し、また両親の友人で益子在住の方も招いて、家で団欒の時を持つ事ができました。今迄電話では話していましたが、なかなか以前のように頻繁に行き来ができないので、高齢の両親の体調も守られて再会が実現できたことに、本当に神様に感謝しています。家族や友人たちと気軽に会えないという今の世の中において、顔と顔を合わせて会えることがどんなに貴重な時か、改めて思わされます。
上記のみことばの「兄弟」というのは、実際の血のつながりがある兄弟に限定しているのではなく、神の家族という意味合いであります。神の家族とは、天の神様がお父さん、そしてキリストが長子で、キリストを信じる者が神様の子どもとされ、この「座っている」(ヤーシャブ)という動詞 は「住む」という意味もあり、ただ座っているというより、家族のように共同体的に集まっている状態を表しているのだと思います。この詩編の文脈的にも表題が「都に上る歌、ダビデの詩」とありますから、都つまりエルサレムの神殿への巡礼の旅において、ユダヤ人たちはこの賛美の歌を歌いながら都への道を歩いていたのでしょう。神様を礼拝するために都へ上るわけですから、その行く途中も神様を賛美しつつ歩む、つまり礼拝の一環とも言えるでしょう。それがどれ程喜びであり、恵と祝福であるかを、この詩の著者であるダビデは表現したかったのではないかと思います。キリストがこの世に全人類の救い主として来て下さったおかげで、ユダヤ人だけでなく、血のつながりや人種・身分・年齢の違いを超え、神の家族が集まって礼拝できる時間と場所が今は与えられています。それは教会です。教会は、時代が違っても、礼拝のスタイルが異なっても、キリストを信じる者たちが共に集まり、神様に礼拝を捧げ、このダビデの感じていると同じ喜びと恵み、神様の祝福に預かれるということは、感謝につきないと思います。
また、教会というのは場所的な意味、つまり建物ではなく、キリストを信じる神の家族の集合体です。譬えて言うならば、教会はキリストの体であり、ひとりひとりが体の器官として生かされ、調和して生きていると、使徒パウロは記しています。「それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」* キリストの体においては、健康な人の体の中で調和があるように、各器官がうまくお互いを補いあい、機能しています。
時には、集まってお互いの喜び、苦しみを共有できない事情もあります。たとえ物理的に遠く離れていても、神の家族は霊的に各々がキリストに繋がっているので、互いに祈り合いながら、共に座っている恵み、喜びを味わいたいと願っています。
* 第一コリントの手紙12章25-27節 (引用 新改訳聖書1965年版)
Oct. 16, 2020 Hebrews 12:1-2
「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。 」 ヘブル人への手紙12章1-2節
新型コロナウイルスは誰でもかかる可能性があります。有名な政治家でも、普通の子どもでも。重症になる人もいれば、無症状や軽症の人も。善い行いをしている人、立派な人もかかり、いわゆる悪人と人々からレッテルをはられるている人もかかります。最近、クラスターが起きたであろうとされる、アメリカ大統領の主催のパーティに参加した、ある牧師さんもコロナに感染したというニュースをみました。その牧師さんは神様に大いに用いられている人で、コロナ禍で礼拝に集まれない信徒たちのために、また不安の中にいる人々に向けてITの技術を駆使し、リモートで多くの宣教活動を行い、結果、今迄彼が開いてきた集合型伝道集会の時よりも、多くのアメリカ人が信仰に導かれたという報告を聞くたびに、励まされ喜んでいました。ですから正直なところ、「え?彼もかかってしまったの?!」という反応はあります。その方の回復を祈りつつ、かかってしまったというネガティブにとられる状況を通しても、神様はプラスに用いられると信じております。
「私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。」
何のために私たちは人生というレースを走るのか。それはイエス・キリストの為に走っているのです。このレースは他の競技者と競い合う必要はありませんが、競技者たるもの、レースではベストを尽く、賞を目指して走ります。そのように、信仰のレースは自分の自身において、神様の前にベストをつくそうと努めているかどうかが問われると思います。私達は自分の自己実現のために、もしくは誰か自分を必要としている人の為に走るのではなく(結果的には誰か人の為になりますが)、わたしたちを暗闇から光へ、死から命へと導き救って下さった方のために、走り続けようと、この聖書の著者も励ましています。
生きていれば、辛いことはあります。私は心が弱く、特に職場ではくよくよし、落ち込むことがあり、聖書のみことばで励まされ、なんとか引き上げられている日々です。多くの方は、もっと大変な状況:病気や経済的困難、災害に被災するという状況にあると思います。しかし、状況についても他者との比較ではなく、神様は個々人の大変さ、抱えている問題に寄り添い、助けて下さる方なので、平安と安堵を与えられます。この神様にすべてを委ねつつ、信仰の創始者であり、完成者であり、助け主であるキリストを目指して、人生のレースを走り続けようと、互いに励ましあっていけれたらと願います。(Y.O)
「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。 」 ヘブル人への手紙12章1-2節
Oct. 10, 2020
「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」 マタイによる福音書28章19-20節
現代は世界中のほぼどこへでも、交通手段の発達のおかげで行くことが出来、またIT技術により、たとえその場所に行けなくとも、スマホがあればリモートで顔を見てコミュニケーションが可能な時代となっています。一方で、その技術を何のために使うかによって、話は異なってきます。残念ながら、これらの技術が人々の益となるだけではなく、悪用され、犯罪も巧妙になっているというのも事実です。また便利だからとは言え、ネット社会においてその便利さが人々の心に様々な影響を与える可能性があり、そのことによる「ひずみ」も生じています。
NY在住の日本人の友人から、NYの治安が最近悪くなっているとの報告がありました。その原因は、昨今の抗議デモ後、警官の配備が以前より少なくなったこと、またコロナ禍により失業し生活苦を抱える人が増大していることなどがあるそうです。以前は夜中に地下鉄に乗っても問題なかったのですが、今は遅い時間に地下鉄に乗ると、襲われるという事件や銃を伴う強盗、殺人が増え、最近NY在住の日本人ジャズ・ミュージシャンが被害にあったというニュースを見た人もいることでしょう。社会で何か問題が起きた時こそ、お互いが協力し、助け合っていく世の中が理想ですが、残念ながら、その混乱に乗じて犯罪に走ってしまう、自分の保身しか考えず、他者のことまで考える余裕がなくなってしまうというのが現実です。個々人の心に平安や希望が必要です。
光は周りが暗ければ暗いほど、輝きます。こんな暗い時だからこそ、どんな小さな光でも必要です。それも、一時的でなく、いつまでも続く光が。 心を照らすことの出来る、そのような光とは何でしょうか。信仰と希望と愛だと思います。「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」*1とみことばにあるように、キリストの光を今だからこそ、世界の全ての人に伝える最大のチャンスだと思わされます。もちろんこれからも、もっとIT技術は発達するかもしれませんが、ネットで聖書がどこでもアクセスでき、牧師の説教も聞くことができ、集まる事が出来ない状態でも、リモートで礼拝もすることが出来る時代だからです。そして何よりも、人々の心が今一番飢え渇いている時だと思います。目に見えないウイルスの脅威にさらされ、これから完全に守られるという保証もなく、今迄当たり前にできたことができない社会情勢の中で、何が生きる上で大切かを求め、それが神様を求めることに繋がるはずです。
イエス様が私たち人間の罪を贖うために十字架にかかり、死なれて3日後によみがえられ、弟子たちに現れ、天に帰る前に弟子達に言い残した言葉。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。 」*2 これは牧師や宣教師だけに言われている命令ではなく、本当にキリストを信じ、キリストに従っていこうと決めた人であれば、「自分」にもイエス様が言われていることだと受けとめることが出来るのではないでしょうか。特別な知識や技術は、皆に必要なわけでなく、今それぞれが置かれた場所で出来ることがあるはずです。全世界に出かけていけなくとも、ネットで配信できる福音のメッセージや証し(証とは神様がどんなに自分に恵深く、憐み深くしてくださったか、信仰に導かれた経緯や、その人におこった神様の業を分かち合うこと)が可能です。また、たとえ人前で話すのが苦手な人も、言葉で表現するのが得意でない人でも、その人の態度や言動でキリストの愛、希望、信仰を表すことが可能です。
私は良い人格ではないし、欠点もあり、神学校教育を受けてはいません。聖書には、全ての人が教師になる必要があるとも書いてありませんし、かえって使徒の働きという書簡には、使徒や弟子達だけでなく、普通の信徒が、迫害の中においても口コミでキリストの福音(良き知らせ)を伝えていることが記されています。普通の信徒であっても、聖霊が私の内側におられて共にいてくれるので、祈って、聖霊のより頼めば、自分が思った以上のことで神様の力が注がれて、奇跡が起きると信じています。最大の奇跡は、人がキリストを救い主だと信じられるということだと思います。これは聖霊の力によらなければ起こりえない現象ですし、人の説得で、強制や洗脳という操作では起こりえないことで、神様は求めている人を必ず様々方法や人を使って導き、信仰を与えて下さります。今が、本当の神様を求める時。私は、日々この奇跡が世界中の全て人々の間で起こるように祈り、私のような小さい存在であっても、神様のすばらしさ、愛をもっと発信していきたいと願っています。(Y.O)
*1 第一コリントの手紙13章13節
*2 マルコ福音書16章15節 (引用 新改訳聖書1965年版)
Sep. 26, 2020 1 John 5:14
「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。」第一ヨハネの手紙5章14節
先日、夫が婚約式の司式を執り行うため、郡山へ一緒に出掛けました。婚約式とは、結婚の約束を神様の前で約束する式ですが、クリスチャンであっても婚約式は特にせず、結婚式だけするカップルも多いです。夫が司式したカップルは40代前半で、二人共長い間結婚のことを神様に祈ってきたそうで、神様が用意して下さった相手に出合えたという喜びに溢れ、幸せそうでした。女性の方は神様が長年の祈りに答え、素晴らしい人を与えて下さったと泣いていました。男性の方は、婚約式をすることで結婚式への心の準備と決意が固まり、身が引き締まる思いですと言っていました。今の時勢ですから内輪の集りでしたが、心温まる式とその後の簡単な交流の時が持たれ、皆でお二人の神様への感謝と幸せの思い、喜びを共に分かち合えました。そして、私達夫婦にとってもちょうど4年前の婚約式、結婚式のことを思い出す機会ともなり、あらためて神様にこの結婚を感謝することができました。私達も神様が導く結婚を長い間祈り、諦めかけそうになりながらも待ち続け与えられたので、このカップルの気持ちが良く理解できます。
神様には、何でも自分の願いを求めることができますが、それがすぐには叶えられない場合、また自分の願った通りに叶えられない場合もあります。タイミングとその方法が私たちの希望と神さまの計画と異なることが多々あるからです。しかし、神様のタイミングがベストであり、また私の願った通りにならなくて、かえって結果良かったということが多かったと思います。聖書には、祈りがすぐに聞かれないというストーリーがいくつかあります。(例えば、なかなか子供が生まれないで苦悩するハンナ、晩年になって子(洗礼者ヨハネ)を授かったエリザベツのケース等)しかし、聞かれるまで祈り続けたその過程に意味があり、その間に祈りの動機が変えられ、神様の計画や思いに近づけられるプロセスとなることがあります。一方、ある祈りはすぐに聞かれ、最終的に聞かれない祈りもあります。しかし、重要なのは、祈りとは自分の願いが通ることではなく、全てを神様に委ねつつ、自分のありのままを神様に訴える、信頼にもとづくコミュニケーションだと思います。
最近益子教会では、教会の礼拝が終わった後、その場で短く祈りのひと時を皆で持っています。これは、先月、アメリカのフィラデルフィア日本人キリスト教会の礼拝にリモートで参加した時、「とりなしの祈り」という形でこの教会でなされていたことで、「これはいい!」と夫が益子教会でも導入しようと決めたのです。この祈りの時を始めると、参加されている方々はそれぞれの家族の病気や、今抱えている問題、もしくは神様が祈りを聞いて下さり、こんなに良くして下さったという感謝の祈りも含め、礼拝後その場で分かち合うことができます。この祈りの時は短い時間なので、礼拝後すぐに帰りたい方でも参加可能です。神の家族として、お互いが喜びも悲しみも共有出来、皆が心を合わせて最後に夫がまとめて祈るので、祈祷会という別枠の時間帯に来られない方々にとってももれがなく、神様が祈りのひと時を持つよう導いて下さったと、感謝しています。
「みこころにかなう祈りは何でも聞かれる」と上記のみことばにあります。何が「御心にかなう」願いなのでしょうか。マクロ的、究極的な神の御心とは、人がキリストを信じて、永遠のいのちをもつことだとイエス様は言われていますが*1、もっとミクロなレベルに関してはどうでしょうか。私たちの思いでは、例えば「病気が治ること」は御心にかなうことと断定したいですし、悲しいこと、辛いことが神様の御心だとは思えないものです。しかし、「なぜ?」と神さまに叫びたくなるような結果が与えられたとしても、たとえ自分の想う通りにならなかったとしても、神様はなにかしら私の思いを超えたところで、取り計らって下さると平安のうちに受けとめられるように心が変えられていきたいと願います。「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。」*2とあるように、次第に「自分がこうしたい」という願い自体が最初から、神様のみこころに沿ったものとして出てくるようになり、それを実行に移す機会が与えられるようになればと願うところです。
私は自分の思いがつよく、自分の感情にまだまだ左右されてしまう足りない者です。日々祈り、聖書のみことばに触れて神様の思いを知り、それを自然と願えるよう変えられ、徐々に神様に全て委ねられるようになりたいです。忍耐を持って私を愛して下さる神様の業に期待したいと思います。
*1 「事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。 」ヨハネの福音書6章40節
*2ピリピ人への手紙2章13節 (引用、新改訳聖書より)
Sep. 19, 2020 Mark 10:42-45
"そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者と見られている人々は、その民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、すべての人の僕とならねばならない。人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」。 ” マルコの福音書10章42-45節
数十年前の日本では、セルフサービスのガソリンスタンドはほとんどありませんでした。お店の人に「レギュラー満タンお願い」と言うと、一人がガソリンを入れてもう一人が車の窓を拭いてくれてと、私たちはただ車に乗ったままでお金を払えばよいのです。現在でも、そのサービスは続いていますが、改めて全て人にしてもらうことが快適と感じたのは、その後、アメリカに住み、給油をセルフでするのが当たり前だったことを経験してからでした。給油に限らず、人に何かしてもらう、「こうして」というと、その通りに人が自分に仕えてくれるのはいい気分です。また、通常仕事上で管理職になれば責任を伴いますが、部下は上司の指示に従います。
Servant Leadership(直訳すると、僕的リーダーシップ?)。これは相対する言葉をつなげたように見えますが、アジア学院という、有機農業とリーダーシップを教える学校の基本理念の一つとして打ち出されている言葉です。正確な意味については、アジア学院のホームページに書かれているので参照いただければとおもいますが、この姿勢は農業に限らず、どの分野でも適用されうると思います。リーダーには統率力、リーダーシップ、決断力、能力・技能が問われますが、そのリーダー自身が部下をこき使うのではなく、かえって部下に仕えるという、謙遜な姿勢を持って共に働くと、そのリーダーの下に皆が働きやすく、良い成果を上げることが出来るのではと思います。現実には、政治家でも、企業でも上司は威張っている人が多いかもしれません。しかし、本当に仕事の出来る人、ある分野で秀でる人、皆に信頼されている人は謙虚な方なのかもしれません。
この精神は聖書に記されている、イエス・キリストが言われた言葉に由来しています。イエス様は神であられたのに、わざわざ限界のある人間となって生まれ、私たちに仕える為にこの人間界に来てくださったからです。下記の聖書の箇所にあるように「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためである」(人の子とはイエス様ご自身を指す)と、イエス様は弟子たちにも、ご自分に倣って、仕える人になりなさいと教えられています。更に、仕えるためだけでなく、ご自分の命を与えるために来て下さったこと、これは神の子であるイエス様にしかできない業です。
もし、キリスト教の神が、全能で畏れ多い、恐怖で支配するような存在であれば、私は信じたいと思いません。恐れでは人を支配出来ないからです。しかし、私が信じている神様は、愛そのものであり、優しい方であり、そのご性質は、人となって現れて下さった神の子イエス・キリストに示されています。だから、私はその愛を受けとることが出来、信じる信仰が与えられて、今は日々感謝して過ごすことができます。信じたからといって、良いことばかりでなく、生活上、人生の中で困難なこと、苦しいことも、引き続き起こります。しかし、どんな状況においても神様の守りの中に、自分が生かされているという安心感が与えられます。それだけでなく、信じてキリストに従って歩んでいこうとすると、自分の内側の性質が、キリストの光に照らされて、汚い部分、心の苦い部分が変えられていくという希望が与えられているので、日々、自分の心のふがいなさに落ち込むことにとどまらず、仕切り直してなんとか生きています。
傲慢な心、不満を持つ心では、人との関係においてどうしてもギクシャクしてしまいますが、相手がどうであれ、親切に、謙遜な姿勢で、立場とかに関わらず相手に仕える気持ちで対応していくことができれば、相手も柔らかい態度になってくるでしょう。私も、日々傲慢な心がふっと湧ます。そういう時はすぐにこのイエス様の相手に仕えるという姿勢に倣い、家庭でも、職場でも、教会でも、街中でちょっと出会う人に対しても実行できるように、変えられていきたいと願います。(Y.O)
Sep. 13, 2020 Proverbs 1:1-3
「人は心に計画を持つ。主はその舌に答えを下さる。人は自分の行ないがことごとく純粋だと思う。しかし主は人のたましいの値うちをはかられる。 あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない。」 箴言16章1-3節 (新改訳聖書)
私は10年前に介護支援専門員(ケアマネージャー)の資格を取得しましたが、その時期にアメリカへ転居してしまったので、その資格を用いて実務経験をしていません。今日本で勤務している仕事でも必要ないため、この先使わないのであれば、時間とお金をかけて講習を受け更新をする必要があるのだろうかと考えるところです。ただ、将来使えるようにと、この資格を持てるように計らって下さった神様の意図を思い、保持をしてきたという経緯(一度試験に落ちたのに、試験問題の不備で繰り上げ合格となったという奇跡!)があります。とりあえず、コロナ禍もあるので、更新講習を一年延期することにし、来年また考えることにしました。
私は先々のことを考え、計画を建てて、こつこつと準備するタイプです。でも、私の計画はいつも計画通りにいきません。つまり、私の計画は完全ではないし、ましてや社会がどう動くかは先行き不透明であり、何事にしても計画通りにいかないのが当たり前と思っています。しかし、社会生活をする上で、計画をたて、実行することはむしろ常識的で、求められることです。ただし、計画を立てる上で、その動機というのが今日の聖書の箇所のよると計られるようです。
自身も含め、人は自分の考えたことは正しいし、妥当だと、自分の常識や自分の置かれた立場、状況によって思い、それらの考えに基づいて、計画し、実行するでしょう。ただし、人の価値基準は相対的であり、時代や国によっても異なります。その人には良くとも、周りの人には共通して正しいことでない、損となる場合もあります。皆が神様に自分の都合に基づき、「願いを叶えて下さい」と祈ったとしたら、利益が相反してしまうのではないでしょうか。
「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。」 *1と聖書には書かれています。性格の良い人、仁徳がある人は、「私は陰険ではない」と思うかもしせません。しかし、もしかしたら本人に自覚がないだけかもしれません。聖書の前提が、人は罪の性質を持って生まれ、自分の持ち前の気質では聖く、正しくいられず、自己中心的な思いは必ずあるというところに立っています。それを「陰険」と表現してしまうのは、いささか言い過ぎなのでしょうか。キリストを信じた後でさえも、その陰険な性質が残っている場合があります。例えば聖書を基に、自分の行い・主義・主張が神の前に正しいと思い、他者を裁き、愛の心が欠ける、そして決裂してしまう悲しいケースが教会の中でも見られます。なぜ和解できず、決裂してしまうのか。それは陰険さが残っているからではないでしょうか。
グッドニュースは、だれもその陰険を直せないけれども、神様には直せるということです。そのために、神様がイエス・キリストを救い主としてこの世に送って下さったからです。すぐには、性格や性質はかわらなくとも、まずは自覚するところから始め、神様に正直に祈って告白することが互いにできれば、平和の源であるイエス様が和解に導いて下さると信じます。「これくらい、いいでしょう」という小さいことは心に根付き、後々大きな問題となっていきます。だからこそ、私も日々、自分の内側を聖霊に探っていただき*2、罪があれば示され、その罪をごめんなさいと神様の前にもっていき、赦され、清められたいと願います。自分の思いや計画が異なっても、寛容な心を与えられ、他者が自分より優れていると思える、柔和な、謙遜な心で対応できるように、その機会があるごとに心が変えられていきたいと願っています。 そうしていけば、陰険さが直されていくことでしょう。すると、たとえ思ったように物事が進まなくとも、神様に委ねることができます。そして、一度自分の立てた計画の狙い、動機をもう一度吟味し、神様の思いにそった計画に導かれること期待し、柔軟性を持っていきたいと思わされました。(Y.O)
*1 エレミヤ17:9 (新改訳聖書)
*2 「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」(詩篇139篇23-24節)
Sep. 7, 2020 Hebrews 10:23-25
「約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。 」ヘブル人への手紙10章23-25節(新改訳改訂第3版)
PCの画面の上には、4年振りにお会いする懐かしいお顔がいくつも並んでいて、私は思わず手をふり「お久しぶりです!」と声をあげました。昨晩は、両親と私がアメリカ在住時に大変お世話になったフィラデルフィア日本人キリスト教会の礼拝に、リモートで日本から参加する機会が与えられました。折しも、その教会の牧師さんがお休みを取られるということで、ゲスト説教を私の夫が頼まれたのです。私たちの今仕えている益子教会を紹介する上でちょうど良い機会でもあったので、依頼を受けた時はすぐに引き受け、試行錯誤をしながらZoomのソフトをダウンロード。実際つながった時は思った以上に臨場感があり、ITの恩恵に感謝しました。
この教会ではこの方式を導入して半年経つそうです。今では、アメリカ東部地域は新型コロナ感染がコントロールされているので(それでも数字的には日本とはケタ違いに多いですが)、参加人数を少なくし、礼拝堂に集まる人とリモートで参加する人とにわけ同時並行で礼拝を行っているそうです。そして、この教会の工夫の素晴らしいと思った点は、礼拝が終わった後「さようなら」ではなく、その後、順番にこの一週間の近況を報告するという、分かち合いの時間を持っているところでした。司会者が建てられ、人数も20人前後なので、一人数分話しても一時間もかかりません。もちろん、用事がある人はいつでも退席可能です。この分かち合いをすることで、遠方のため、また病気、その他の事情でその場に行くことが出来ない人でも、リモートでお互いの顔を見つつ会話ができ、孤独にはならず、お互いのことを覚えて互いに祈り合えるという、新しいスタイルの交わり(フェローシップ)だと関心しました。
もちろん、実際集まれることがベストです。しかし、そうできない社会情勢がある場合、リモートを利用する価値と意義はあると実際参加して思わされました。私たちの教会は人数が少ないため3密になることはなく、感染対策をしながら礼拝を集まってしてきましたので、他の教会がリモート礼拝をしていることを聞いてもあまり興味を示しませんでした。しかし、アメリカの教会で、日本にいながら説教ができる、礼拝に参加できるということは本当に恵みだと感動します。贅沢を言えば、時差がなければもっと楽なのですが。(アメリカ東部と日本は11-12時間の差)
キリスト教が初まった頃の教会の信徒達は、厳しい社会情勢(宗教的迫害)により、自由に集まって礼拝できない時期がありました。トルコの有名な観光地の一つに、「カタコンベ」といって、山の斜面に穴を掘って隠れて住んでいたクリスチャンたちの住居の遺跡は有名です。迫害を恐れて礼拝に集まることを辞めてしまった人も多かったと察します。もしくは、「信仰は独りで信じていれば良い」と他者との関わりをしない主義の人々もいたかもしれません。しかし、教会は「集まる」ことに関しては、他の団体以上に意味がある、大切なことです。なぜなら、教会のことをギリシャ語で「エクレシヤ」と言い、「呼び集められた者たち、集まるように召し出された者たち」を意味 するからです。ですから上記の聖書の箇所の筆者は、「いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合おう」と勧めを書いているのだと思います。公に集まることが許されなければ、隠れて集ったように、現代のように公衆衛生上集会が開けない状況であれば、リモートで集ればよいのです。パソコン・スマホの操作ができなければ、出来る人に基本を設定してもらい、後はボタンを押すだけの最低限の操作にまで準備できれば、誰でも利用出来るのではないでしょうか。実際、フィラデルフィアの礼拝に参加されている日本人の方々の半分は若い世代ではなくとも、最新のITを使いこなされていました。
私たちは、一人では信仰を持つ続けるには弱い存在です。夫が説教の中で「互に愛し合う」*という箇所を話し、お互いを覚えて祈り合うことの大切さを話していましたが、独りでは「互いに」ができません。相手があって初めて「互い」となります。お互いのことを知り、近況を分かち合い、そしてお互いの悩み、問題を神様に委ねて祈り合えます。そして何よりも大切なことは、共通の希望を持っていることです。その希望とは、イエス・キリストです。キリストご自身が平和であり、愛であり、その方を信じる私たちも、その平和と愛にあずかることが、人の能力や意志の力ではなく、聖霊の働きで可能だからです。そしてこの希望は、聖書に記されている神様の約束に基づいています。ですから、日々聖書のみことばを読み、なんらかの手段でコミュニケーションを取り続け、互いに祈り合って、励ましあっていきたいと思います。(Y.O)
*「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互に愛し合うべきである。 」 第一ヨハネの手紙4章10-11節 (口語訳)
Aug. 30, 2020
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。」ヨハネによる福音書15章5節
近所の方より、おいしいぶどうを頂きました。果物や野菜は買ったり頂いたりして食べる分にはあまり感じないことですが、実際自分で育てようとすると、実がなるまでどんなに大変な世話がいるかを実感するものです。そして、世話以前に、当たり前のことですが、全ての植物は木や幹に繋がっていないと、すぐに枯れてしまい、実はなりません。
上記の聖書の箇所は、ブドウの木と枝をキリストと私たち人間に譬えてイエス・キリストが弟子達に言われたことばです。キリストにつながっていれば実を結ぶが、繋がっていなければ何一つ出来ない。何一つ。ここでの「実を結ぶ」というのは、もっと内面的なこと、つまり聖霊の実を結ぶこと*1や、人の魂がキリストを信じて救われることに関してだけを言われていると思ったのです。しかし、結局社会生活をする上で、生きていく上で、全てのことにおいてキリストに繋がっていることがどんなに大切かと、最近しみじみと思わされます。
若い時は傲慢だったので、自分で努力すればある程度は成果が出せたし、仕事でも、頭の回転をくるくる回して同時に沢山のことをこなせると思っていました。一方、人間関係はそうはいかず、大体うまくいかなかった人間関係は諦め、距離を持つことでその場をしのいでいたように思います。ところが、中高年になると(年を言い訳にしたくはないのですが)転職して新しいことを覚え、忙しくともミスなくテキパキとこなすということが、以前のように出来にくくなっています。自分が情けなくなり、自信がなくなります。最近は頻繁に仕事のことで、神様に具体的に祈り、助けて下さいと祈るようになりました。祈って、祈って、助けて頂いて、日々なんとか過ごしているのが現状です。
教会での働きに関して、神様の御心にそって日々何をなすべきかと日々夫と共に祈っています。傍からみると、見える部分での成果も見えず、コロナ感染防止の為に積極的な活動も出来にくい状況で、このままでいいのか、もっと何かしなければ。。と焦ってしまいがちです。しかし、自分達の思いや、他人の評価により焦ってはならない、むしろ、日々祈って神様に導きを求め、神様に示されたことを続けていこうと、夫と心を合わせて毎朝、食事のごとに共に祈っています。どんなに頑張っても、今の自分たちの能力や気質では限界がありますが、全ての状況・人間関係をコントロールしておられるお方に委ねるというのが大切なことだとお互い認識して祈れるのは幸いです。私独りだと、以前信徒伝道をしていた時よくありましたが、人からの評価により「もっと神様のために働かなければ」と追い立てられ、一種の強迫観念のような思いにかられて苦しみ、遂には投げ出したいと思ったことが何度もあったからです。これは、私のなかなか克服できない精神的弱さの一つでもあり、その弱さを補ってくれるパートナーを神様が与えて下さっていると感謝しています。
人同士は、相手に依存してしまうと、お互い不健康になりがちです。しかし、人が神様には依存してよいのです。神様にははばかりなく依り頼み、必要をお願いし、助けを求めるという恵をキリストを通して与えられれていることは本当に感謝です*2。なぜなら、聖書を読んでいると神様の包容力は超自然であり、万能だからです。私は、自分の弱さや欠点、むしろ自分では得意だと思っていたことでさえも、全て神様に祈って指針を求め、助けを求めて行きたいと思います。すると私とキリストとの信頼関係はもっと深くされ、自分の願いや狙いを超えたところで、全てをコントロールされている神様がなんとかしてくださるからです。私のようなどうしようもない、取るに足らない者に、キリストの力が流れ、実を結ぶまでに至ることを忍耐を持って待ち望みつつ、祈り続けようと思います。(Y.O)
*1「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。 」ガラテヤ信徒への手紙5章22-23節
*2「この大祭司(キリスト)は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。」ヘブル人への手紙4章15-16節 ()は追記
Aug. 16, 2020 Psalm 145:9
「主は寄留の他国人を守り、みなしごと、やもめとをささえられる 」 詩編146編9節
暑さの厳しい日、先日、益子教会では久しぶりに、子供達の声で賑わうひと時がありました。この子供達のグループは、キッズシェルターといって、那須塩原市にあるNPOで、いわゆる育児放棄されていてる子供たち(小学生から中学生まで)を放課後の時間に預り、食事やお風呂を提供し、宿題を見てあげたり、家庭的な暖かさで子どもたちの居場所を提供しているところです。私の夫は西那須野にいた時からこのグループにボランティアとして関わり、夕食を一緒に食べたり、遊んだりしてきましたが、今回は夏休みの遠足として、バスを貸し切って子供達10名程と、ボランティアスタッフを含めた大人たちが益子のお店で陶器の絵付けをしたり、教会でお昼を食べたり、卓球をしたりしました。私は残念ながら仕事があり参加できませんでしたが、夫は子供達と会うのも数か月ぶりでとても喜んで、楽しいひと時が過ごせたようです。
私たちは益子教会での活動に一つとして、将来的にこの地域で「これこれの境遇の子ども(人)」と特定せずに、近所の子も含めて子供達が集まって、卓球をしたり、DVDを見たり、自由に遊べる場所として、教会を平日提供できたらと願っています。今は、コロナ禍で積極的に人を集めて活動をすることは困難ですが、いつかワクチンや治療薬が普及し行動制限がなくなる時期が来ると願い、状況を見つつ、このような単発や小規模の集まりから始めていきたいと願っています。
先日、私の職場にアジアの方が来て、日本語が話せないので私が通訳をする機会がありました。私は簡単に通訳しただけですが、その方は非常に喜んで「親切にしてくれてありがとう」と何度も言っていました。日本に在住する人は、日本語が使えなくて不便な場面が多いのだろうと思い、私もアメリカ在住の時、アメリカ人の方々に色々助けてもらったり、親切にして頂いたことを思い出しました。この地域で、自分が出来ることで、少しでも日本在住の外国人の方の助けになれる機会が与えられるといいなあと思いました。
「主は寄留の他国人を守り、みなしごと、やもめとをささえられる 」*下記の聖書の箇所にあるように、神様は古代のイスラエルの民に、寄留の外国人とみなしごを不当に取り扱ってはならないという戒めを与えました。つまり、これらの社会的弱者は、昔から差別され、不当に取り扱われていたからこそ、あえて神様は言われたのだと推測します。神様は社会的な支援を必要としている人や弱い立場の人を守り、支えられてきました。西洋諸国では教会が中心に孤児院、病院、学校などをミッションとして設立してきたという歴史がありますが、このような聖書の教えが今日の社会福祉の原点となっています。神様いつも弱い立場の人々を顧みて下さる方です。私たちは自分たちのことで精一杯で、在留の外国の人々ことや、社会の中で虐げられている人々、困難な家庭環境にある子供達のことになかなか目が届かず、政府がやるべきだと任せきりになりがちです。もちろん政府が社会福祉制度を十分に拡充できれば理想ですが、現実は限界があります。従って、多くの福祉的、慈善的活動を行うNPOが設立されていて、政府の支援策からこぼれている人々を助けているというのが現状だと思います。ましてや、教会がそのような働きに積極的に取り組んでいく必要はあると思わされます。
私たちキリストを信じる者は、キリストが私たちを大切に思い、ご自身の命まで犠牲にして愛して下さったことを信じていますが、私個人としてはその愛を受けるばかりで、周りに分かち合えていないのが正直なところです。神様から受けたことを「やらなければ」という強制感でははく、神様から受けた愛に感謝し、その応答として、キリストの愛を行動を持って周りに示していきたいと願い、神様にそうなれるように祈り求めたいと思います。
「寄留の他国人または孤児のさばきを曲げてはならない。寡婦の着物を質に取ってはならない。」申命記24章17節
*詩編146編9節
August 8, 2020 Matthew 5:13
「あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。 」マタイによる福音書5章13節
私は平日、車で約30分弱の通勤をしていますが、日々あるラジオ番組を聞くことを楽しみとしています。この番組は米国フィラデルフィアにあるカルバリー・チャペルという教会の牧師が、過去にしてきた創世記から黙示録まで聖書全体を順にメッセージをしている内容が30分に編集されたプログラムで、朝の通勤時間帯に地元のラジオ局で40年近く続けられている番組です*1。続き物の番組というのは、TVの連ドラと同様、毎回「次はどうなるのだろう。。」という期待感があって、短時間であっても継続的に楽しめるもので、聖書のメッセージもしかり。このラジオを何気なく、朝の通勤時に聞き続け、多くの人々がキリストを信じる信仰に導かれてきたそうです。私は10年程前アメリカに在住していた時も車通勤でしたので、このラジオをよく聞いていたものです。運転中なので全て集中して聞けませんが、それでも一日を始める上で、心の糧を得られ、今日も頑張ろうという思いが与えられてきました。現在はスマホのアプリから聞いていますが、IT社会の恩恵を神様に感謝しています。
今聞いている箇所は、使徒の働き(使徒言行録)で、キリストが十字架で死なれ、3日目に復活し、弟子たちに現れてから天に戻られた後のお弟子さんたちの宣教活動の様子が主に記されている書簡です。2千年前、ネットも、TVもラジオも何もない時代、人々は歩いて遠距離を移動していた時代に、エルサレムの小さなユダヤ教の一派と言われたグループが、どのように当時の世界に瞬く間にキリスト教を広めることが可能だったのか!?と驚かされます。しかも、自由に伝道できたわけでなく、いつも迫害されていたにも関わらず、クリスチャンは増えていき、とうとうローマ帝国もクリスチャンを迫害するより味方につけたほうが得策と考えたのか、キリスト教はローマ帝国で国教化されて容認されるまでになります。なぜこれほども影響力を持てたのか、その答えは、聖書に記されているように、人の力ではなく、神様の力、聖霊の働きで可能だったからです。
この新しい宗教の布教に対する人々の反応は、素直にキリストを信じる者もいれば、既存の宗教で利益を受けていた人々のように恐怖を覚えた人もいました。後者は、なんとか使徒たちの宣教活動を阻止しようとしてきました。彼らが役人たちに彼らを訴えた時の表現は、「世界中を騒がせて来た者たちが、ここにも入り込んでいます。 」*2、英語訳ですと「世界をひっくりかえそうとしている者たちがここにも来てます」*3であり、何とか罪状をでっちあげて、逮捕させようとしました。まさに、キリストの弟子達が口コミで、また講堂や会堂で宣べ伝えていた内容には、世界をひっくり返すような力があり、多くの人が信仰に入っていきました。当時の世界観、宗教観、個人の人生観とは全く異なる、それらを根底から覆すような信仰に。この現象は、彼ら自身に力があったわけではなく、彼らを通して働かれている聖霊の力によって、人々がひきつけられ、信仰に導き入れられ、そして信じたばかりの人々が喜んで他の人に伝えていくという口コミで広がって行きます。良いニュースも悪いうわさも、あっという間に広まりますが、「人のうわさは75日」と言われるように、あまり長く人々の記憶に残されません。しかし、グットニュースは何世代へと語り継がれます。
福音(ゴスペル)とは、グットニュース(良い知らせ)という意味です。何が良い知らせなのでしょうか。キリストを信じるだけで救われるというニュース。つまり、どんな身分であっても、どんなことを過去にしてこようとも、どの人種であれ、誰であっても、罪と悪魔の力から心が解放されて自由になれること、そしてキリストにあって聖霊が与えられ新しく、神様ために、目的を持って生きるように変えられていくという素晴らしい知らせ。そのために、神様が御子イエス・キリストをこの世に遣わして、私たちの罪が赦されるために、十字架にかかり、3日後に復活させて下さいました。そして、信じたらその人で完結するのでなく、2千年前の信徒たちのように、周りに大きな影響力を持つ可能性があるのです。
一方、信じている自分自身を見ても、そんな影響力を持ったことはなく、逆にこの世の影響を受けてしまいそうな弱さを見いだす時、これはあの時だけ、特別の人にだけ与えられただけのことと思ってしまいがちです。しかし、神様は一人一人に他者とは異なる、ユニークな役割を与えておられていると信じ、いつか聖霊の力が自分を通して働かれ、上記のイエス様のことばのように、塩味のような良い影響力を持てる者になりたい、そのようなチャンスがあることを祈って行こうと思います。個々人が変えられれば、教会も力を持つように変えられる。そのためにも、日々時間を見つけ、聖書の言葉が自分の心に書き込まれるように、どんな時でも短くとも神様に祈り、全てのことに感謝を捧げ、日々過ごしていきたいと励まされます。(Y.O)
*1 The daily Bible teaching ministry, “Straight from the Heart”, by Senior Pastor Joe Focht of Calvary Chapel of Philadelphia. It began in 1981 when Pastor Joe Focht started a small Bible study in a catering hall. With a strong emphasis on teaching God’s Word verse by verse, the church has grown to minister to approximately 12,000 people weekly with a variety of outreaches and ministries.
*2 使徒の働き17章6節 新改訳改訂第3版
*3 Acts 17:6 “And when they found them not, they drew Jason and certain brethren unto the rulers of the city, crying, These that have turned the world upside down are come hither also;” (King James Version)
July 25. 2020 Psalm 39:7
「主よ、今わたしは何を待ち望みましょう。わたしの望みはあなたにあります。 」詩編39編7節
忙しさにかまけて、暫く近所の森から足が遠のいていたうちに、季節は春から夏へ移り変わっていました。森に入ると、野の百合があちこちに咲き、セミの声が響いていました。野百合はお店で売られている整った美しさの百合と比べると、何か力強い自然の美しさを感じます。野の百合について、イエス・キリストが下記のように言われているのも改めて納得できます。「栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花(野百合)の一つほどにも着飾ってはいませんでした。」*1 すぐにしおれてしまう草木だとしても、神が自然に美しく着飾ってくれるのであれば、尚更、人間である私たちを神が心にかけないわけがないので、何も心配しなくてもよい、くよくよ思い煩っても寿命はのびることはないでしょうという文脈です。
久し振りの森の散歩は変わらず静かで、心地よく、人とすれ違うこともほとんどありません。森の薄暗い中に、見た目はカゲロウのような黒いものがひらひらと優雅に飛びかい、とても神秘的でした。後で調べて見ると、ハグロトンボというそうで、その飛び方は蝶のようで、留まって羽根を休める際もチョウのように羽根を立てた状態で、四枚の羽根を重ねて閉じて止まります。かげろうというと、「はかなく短い命」の象徴とされています。これはかげろうが、成虫になって1日で死んでしまうことからだそうで、カゲロウの仲間を意味する学名「Ephemeroptera」は、「1日」という意味と「翅(はね)」という意味のラテン語から作られた造語だそうで、古今東西、かげろうのイメージは変わらないようです。
自分の命がどれだけか、長いか、はかないかを意識することは、その人の生き方に反映されると思います。若い時、そして健康に何も問題がない時は、人生の長さなど考えることもなく、いつまでもこのままが続くと思います。しかし、晩年になってくると、また若くても大きな病気を経験すると、当たり前に思っていたことがそうではないということに気がつかされ、逆に一日一日を大切に生きようという思いが強くなるものです。なぜなら、いつこの命が終わるかわからない、もしくは限られているという意識をもつことで、残された時間を大切にし、また、特別なことをしたい人はしてもよいですし、いつも通りに生活することにおいてもそこに価値を見出すことが可能です。もちろん、余命宣告をされた場合、すぐには前向きにはなれません。怯えたり、恐れたり、嘆き悲しむことはノーマルな感情です。誰でも、そのような感情の過程を通った後、最終的に平安な気持ちにたどり着くことができれと願います。
キリストを信じる者にとっては、この体の命のはかなさを知り、価値を見出すだけにとどまらず、その先に待ち望むものがあります。下記の、詩編という詩を書いた古代イスラエル時代のダビデ王は、自分の命のはかなさを知り*、また世の中に悪がはびこり、自分の命が狙われている状況を神様に訴えつつ、最後には神様にのみ望みをおくと宣言しています。このように、現代に生きる私たちにとって、望みとはキリストであり、キリストを信じる信仰を通して、死んだ後のことに対しても希望が与えられています。それもただ天国で魂がふらふらしているのでなく、天の国で何かを相続する、つまり神の子供としての特権があり、また罪のない永遠に生きる新しい体が与えられ、神様とづっと過ごせるという約束が書いてあり、たとえそれが漠然とした把握であっても、待ち望むことが出来るからです。もはや罪がお互いないということは、この世の中のようではなく、もはや悲しみも嘆きも、戦争もなく、平和だということですから、それがいつになるかは知らされていませんが、その新しい世界を待ち望みたいと思います。同時に、今与えられているこの体における地上での生活において、日々神様に感謝しつつ、この喜びの福音(グット・ニュース)を知らない人々に伝えていきたいと思います。(Y.O)
*1 「あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。」 マタイによる福音書6章27-30節
*2「主よ、わが終りと、わが日の数のどれほどであるかをわたしに知らせ、わが命のいかにはかないかを知らせてください。見よ、あなたはわたしの日をつかのまとされました。」詩編39編4-5節
July 24, 2020 Hebrews 12:1-2
「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。」ヘブル人への手紙12章1-2節
「私は聖書に今日初めて触れ、話を聞いていてもちんぷんかんぷんだった。けれど、一つ興味深かったことは、キリストにはお弟子さんがいて、そのお弟子さんを派遣する時にちゃんと指示を与えて送り出していたということです。」私たちの教会では、毎週木曜の夜に聖書に親しむ会というのを開いていますが、これは初めて参加された方が言われたコメントです。この会では新約聖書の最初から順番に夫が解説しています。初めは夫婦二人だけでしたが、最近は教会のチラシを見て、聖書に興味を持ってきてくださる方、他教会の信徒の方が参加されています。そして今回は、その方のお友達も一緒に参加されました。その方曰く「彼女は無神論者なんだけど、面白いグループが益子にあるからと、連れてきたんだ」。その方が「面白いグループ」と思って参加してくれているのだと聞いて、私はとても嬉しく思いました。なぜなら、日々夫と、「新しい人を教会に送って下さい」と祈っているので、来る人数は少なくとも、確実にお祈りは聞かれているんだと、とても励まされるからです。
「弟子はその師以上のものではなく、僕はその主人以上の者ではない。弟子がその師のようであり、僕がその主人のようであれば、それで十分である。」*1とイエス様が言われたところを、今回の聖書の学びで触れました。これはある意味、一般社会では、当てはまらない事柄かもしれません。なぜなら、様々な師弟関係において最初は弟子は先生のもとで見習い、訓練され、そのうちある人は才能を発揮し、師以上になることもあるからです。そして今度はその人が師となって、次の世代のお弟子さんを訓練していきます。しかし、イエス様がいう天の国の世界では、神であるイエス・キリストという先生を私たち人間が超えることはなく、完全にまねることもできません。しかし、少しでもそれに近づけるように求め続けること、実はそのことさえ難しいのですが、聖霊の助けによって、イエス様の愛の心そして行動に近づこうとする、それで十分だと、イエス様は言ってくれているようで、出来の悪い私はとても慰められます。
キリストから習うべき事柄で、最も大切なのことの一つに「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」*2とあります。神様の持っておられる愛の基準は、人間の能力を超える程高く、誰もそれを完璧にクリアすることができません。例えば、自分に敵対する相手を恨まずに、相手が神様に祝福されることを祈ること、親切にすること、赦せない相手を赦そうとすること、自分を犠牲にして相手のために何かすること。これらは特に人間関係において、簡単に出来ない、場合によっては不可能なことではないでしょうか。しかし、師であるキリストがこれらの愛を私たちに対して既に行って下さり、また今も、これからもこの愛で愛し続けて下さります。この愛はキリストの十字架に現わされています。
キリストを信じ、従っていこうと思う者は、たとえ私のように失敗が多い弟子であっても、決して見捨てられることはなく、愛されているという安心感が与えられていて、このことは心の支えであり、大きな励ましでありす。この世で生活している限り、辛いこと、うまくいかないこと、悲しいことがたくさんあります。しかし神の子であるイエス様ご自身は、人としてこの世に来られた時、もっとも過酷な状況を経験されて、十字架を忍び、今は復活されて天国におられ、私たちのために日々生きて働かれておられることを覚えて、師であるイエス様を仰ぎ見て、イエス様に習って喜びを忘れずに、人生の道をゴールに向かって走り続けていきたいと思います。そのルートは長距離で、途中転んだり、歩いたり、止まってしまうこともあるかもしれません。しかし、私がその走るルートから外れないよう日々導いて下さっている神様を信じ、与えられている恵に感謝しつつ一日一日を過ごしていきたいと思います。(Y.O)
*1 マタイによる福音書10章25節
*2 ヨハネによる福音書15章12節
July 19, 2020 Ephesians 2:16-17
「キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。」 エペソ人への手紙2章14-16節
プチ家庭菜園を始めました。性格的にまめにではない、初心者の私たちは、手がかからないナスとトマトの苗をプランターに植えました。今年は雨が多く、6-7月の日照時間が少なかったにも拘わらず、見る見る大きくなり、実のサイズは小さいですがたくさんなり、それを取っては食卓で楽しんでいます。教会の礼拝に参加されている農家を営む方より「肥料をやるといいよ」とアドバイスを頂き、土の上にそのまま散らすだけの簡単な肥料を月に一度くらい足しています。
もう一つ、益子に引っ越した時にお祝いに頂いた小さなオリーブの木を、教会の正面玄関のサイドに植えました。これも順調に成長しています。オリーブの実がなるにはまだまだ時間がかかるかもしれませんが、オリーブの木に関しては実を食べることより、その木の成長自体を楽しみにしています。なぜなら、その木は益子での伝道活動を始めた記念に植えたということで、その木に教会の成長に重ねて、思いを込めて神様に祈っているからです。
その昔、地上に人の悪が増大し、神様は大洪水を起こしましたが、ノアとその家族、そしてつがいの動物たちだけを40日降り続いた雨の中、箱舟の中で生き残らさせました。雨が止んで水が引き始めた時、一匹の鳩を箱舟の窓から放つと、オリーブの葉っぱを加えて戻ってきたとあります*1。これは全て水浸しになっいていた陸に草木が生え始めた、つまり大洪水が終わったことの証拠です。以来、鳩がオリーブの葉を加えているモチーフは、平和の象徴として知られています。また、イエス・キリストの生涯において、彼が洗礼を受けた時に、天が開いて鳩のような形をした聖霊が天から降りてきたと記されていて*2、よって鳩は聖霊をあらわす象徴でもあります。
上記の聖書の箇所にあるように、イエス・キリストご自身が平和そのものであり、人と神との和解をもたらす方であると記されています。すると、イエス様がこの世に来られる何千年も前のノアの洪水の時代に、すでに平和のモチーフである鳩がイエス・キリストの到来の予表として示されていたのではないかと、ふと関連づけてしまいます。聖書の中には、数字やある物がシンボルとして様々な意味を表している場合があります。聖書自体の一つ一つの書簡が時代も異なり、書いた人も異なるにも拘わらず、一貫して神様の人類の救いに対する計画が歴史や預言書、詩を通して示されていることは驚きであり、奥が深いです。人間が聖書を編集したつもりでも、神様の救いの計画が時代や民族を超え、内容も変わらず、全世界に語り継がれているのは、その背後に神様が編集者として働かれているからでしょう。
一方、オリーブの実は、圧縮すると油が出て、古くからオリーブオイルとして食用、香料、点火用など人間の様々な生活に用いられています。イエス様はゲッセマネの園という場所で、十字架に架かる前に苦しみ悶えて祈られたと記されていますが*3、ゲッセマネは「オリーブの油搾り」という意味で、その園にはたくさんのオリーブが植えられていたからではと言われています。オリーブの実は潰さなければオイルが生成されることはありません。このことは、人と神様との間の平和の為に、人同士の平和がもたらされる為に、イエス様ご自身の身が圧縮されるほどの苦難と死を経験しなければならなかったことをゲッセマネの園はシンボル的に指し示しているのではないでしょうか。ノアの箱舟の後、再び人類は人口が増え、人の悪がはびこり、人の間にはいつも争いがあり、神様と人との間に罪という大きな隔たりができてしまいます。しかし、2千年前に、究極的に人に平和がもたらされるために、神様はイエス様の十字架の死という犠牲を成就されました。そしてイエス様が死から3日後に復活されることで、私たちもこのイエス様の救いを信じて新しい命を頂き、聖霊の力により新しく生きることができ、平和も与えられると聖書に約束が記されています。この救いの約束を信じ、イエス様にある平和を求めつつ、地上での生活を過ごしていけたらと願います。(Y.O)
*1 「はとは夕方になって彼のもとに帰ってきた。見ると、そのくちばしには、オリブの若葉があった。ノアは地から水がひいたのを知った。」 創世記8章11節
*2 「イエスはバプテスマを受けるとすぐ、水から上がられた。すると、見よ、天が開け、神の御霊がはとのように自分の上に下ってくるのを、ごらんになった。 また天から声があって言った、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。 マタイによる福音書3章16-17節
*3マタイによる福音書26章3節、ルカによる福音書22章39-44節
July 12, 2020 Matthew 7:7
「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、開けてもらえるであろう」 マタイによる福音書7章7節
「私は毎朝、二つ読む物がある。聖書と国家機密情報レポート。この二つを並べ置くことは非常に難しい。しかし、主が私にアメリカの人々を保護するために、これらの挑戦に正面から取り組むための知恵と忍耐力を与えてくれることを願い祈っています。」この抜粋は、アメリカ国務長官のマイク・ポメオ氏は、5月24日に流されたアメリカの牧師、グレッグ・ローリー (Greg Laurie)師*とのインタビューで言っていたことです。ポメオ氏はトランプ大統領政権で重要な役割を持つ人だと思います。次の大統領選挙を控え、クリスチャンの多いアメリカ国民に影響力のあるメガ・チャーチの牧師とのインタビューに応じることは、政治的意図があるとも察します。そうであったとしても、私は彼は嘘は言っていないと思うのです。あくまでも私の個人的見解ですが、アメリカの現政権で唯一、まともに見えるのはこのポメオ氏だけです。いずれにしても彼は立場上、非常にストレスもあり、頭の中を24時間回転させても足りない程の大変な職務についていると思いますが、それでもやって行けるのは、日々聖書を読んで、力を得ているからではないかと、このインタビューからも思わされました。
一部の報道により誤解が多いのですが、アメリカのキリスト教の教会、特に福音派と言われる人々皆が現大統領を支持しているわけではありません、そのことは統計上明らかですし、私のアメリカ人のクリスチャンの友人でも、二手に分かれます。おそらく、ある人々は性格や人格的には現大統領に同意できなくとも、今建てられている国のリーダーだという理由で、聖書が言う通りに彼の為に祈っていて、それが政権支持という形に現れているかもしれません。私はアメリカに住んでいた時、このグレッグ牧師と同じグループのNYの教会に通っていました。NYの教会(Harvest Christian Fellowship NY)は、彼の教会の様にメガチャーチではなく、むしろ一時期より人数が減っていました。私がいた頃はちょうど、長い間借りていた礼拝場所もリースを終了され、小さい雑居ビルに移らざるを得なくなったという困難な時期でした。私たちはそれでも、教会の為に祈り、礼拝を捧げていました。人数が少なくなっても、グレッグ牧師は何度か、ゲストスピーカーとしてNYのHarvest教会にメッセージに来てくれていたことを思い出します。
今特に、日本の政治家達の為に日々祈っています。彼らはクリスチャンではありませんが、彼らに神様の知恵と忍耐力が与えられて、国民を守り、今そこにある国家的危機に対する妥当な政策を打ち出せるように。自然災害、ウイルス感染拡大という、科学や人間のコントロールしえないことに対して、私たち人間が、己の弱さ、限界を認め、全てを創造され、コントロールしておられる神様に祈り求め、キリストに出逢えるよう、そして心に平安と恵が与えられるよう、祈って行きたいと思います。神様は求める人には、必ず与える方だと、聖書に約束されています。それは物質的なものだけに限るのでなく、信じる心、信仰も与えられます。神様を探せば見出すことができる、そして、閉じている門戸は神様により開けてもらえるからです。(Y.O)
*Greg Laurie (グレッグ・ローリー )は、アメリカの伝道師、ハーベスト・クリスチャン・フェローシップ教会の主任牧師。毎年アメリカ各地のスタディアムで、大規模な伝道集会を行い、多くの人がキリストを信じている。
July 5, 2020 1 Timothy 4:11-12
「そして、あなたがたに命じておいたように、つとめて落ち着いた生活をし、自分の仕事に身をいれ、手ずから働きなさい。そうすれば、外部の人々に対して品位を保ち、まただれの世話にもならずに、生活できるであろう。 」テサロニケ信徒への手紙 第一 4章11-12節
20年以上前のことです。スペイン在住の日本人の友人を訪ねるついでに現地の語学学校に2週間、観光で2週間というプランを建てて、独りでスペインへ行ったことがあります。ホームステイでお世話になったスペイン人の方から気付かされたことがあります。ホストファミリーのご主人がこういいました。「日本人は働くために生きるんだろう?わしらは違う、働くために生きているのではなく、生きるために働くんだよ!」(”trabajar para vivir y no vivir para trabajar”) 日本人はラテンの方々からすると、なぜそんなに働くのかと不思議がるほど勤勉なのでしょう。彼らは仕事は生活の為にするけれども、あくまでも仕事は生きることを楽しむための手段と割り切る人が多いようです。最近の動向は知りませんが、おそらく、これが彼らの仕事と人生に対する考え方の根底にあるものなのでしょうか。一方、人種的傾向性に関わらず、仕事をいい加減に、無責任に行うことは、常識的に許されない世の中です。なぜなら、お給料を支払われている限り、それに相当する労働力を提供するという契約社会の中に私たちは生きているからです。しかし、まじめに仕事していて、過剰な仕事の責任感に押しつぶされ、心の病を患ったり、過労死してしまったら、一体だれがその人の命の責任をとるのでしょうか。
「仕事が出来なくなったら終わりだよ」病気になって、今迄の仕事が出来なくなったある日本人の方がこう私に言われました。そしてその方は絶望の中にいて、私がいくら励ましの言葉や、仕事だけが人生ではないし、生きていること自体が大切であることを言っても、耳を傾けてくれなかった、という悲しい経験をしたことがあります。仕事が生きがい、プライドとなることは良いことですが、それが全てになってしまうと、ラテンの人曰く仕事の為に生きている人生となります。もちろんそれ自体が良い悪いの問題ではなく、個々人の価値観だと思いますが、どんな人種でもどの職業についていたとしても、仕事より命、生きることの方が優先順位が高いと思います。
仕事より人生を楽しむ、もしくは仕事が人生と、どちらか偏りすぎると、様々な問題が起こります。私は感謝なことに、キリストを信じて新しく歩もうと決めた時から、生きることへの価値観が変わり、これらのどちらにも偏らない、もっと大切なこと:キリストのために生きるという目的が人生の優先順位として与えられました。聖書では、勤勉に働くことの大切さが書かれています。例えば、2千年前すでに「この世の終わりがくる、キリストが再臨する!」と騒ぎ、どうせ終わりが来るなら働くのを辞めようといったクリスチャンがいました。それに対して使徒パウロは、きちんと働きなさいと下記の聖書の箇所にあるように戒めています。また、家々を回りゴシップをばらまく若い未亡人のクリスチャンが当時いたようですが、その人たちにもパウロは注意をしています*1。
聖書では困った人の救済をし、慈善、施しをするようにも書かれています。ですから、心身的に病気があって働けない人は、社会の福祉的な恩恵を感謝して受け取られれば良いですし、誰でも働きたくとも働けない状況もあります。私も職がみつからない時期、病気で働けない時期などが過去あり、いつも働けていたわけではありませんでしたが、その時その時、周りの方々に支えて頂き、神様は私を養ってくださいました。また、この仕事をしてはならないとか、この仕事の人が素晴らしい、といった細かいことも記されていません。従って「互に愛し合いなさい」というキリストの教えから類推し、法律を犯したり、他者を傷つけたりするような仕事でない限り、その人が出来る仕事であれば、どんな仕事でも良いのです。すると、信仰生活が健全に日々続けられるという優先順位だけを残し、仕事を選ぶことにおいて、これでなくてはならないというこだわりが削られ、またことさらに或る職種を称賛、もしくは見下すこともなくなります。お給料に換算されない働き、例えば家での家事、子育て、ボランティア活動も仕事です。
大変な、辛い仕事をしている方々に対して、日々感謝の念を持つことも大切であり、特に今の時期は、医療従事者の方々のために健康が守られるよう祈りたいと思います。信仰を第一優先にすれば、食べる者も与えられ、必要は満たされる(つまり仕事も与えられる)*2とイエス様は約束されているので、生活のことは思い煩わす、安心して、神様に様々なことを祈り、導きを求めていきたいと思います。(Y.O)
*1「その上、彼女たちはなまけていて、家々を遊び歩くことをおぼえ、なまけるばかりか、むだごとをしゃべって、いたずらに動きまわり、口にしてはならないことを言う。…反対者にそしられるすきを作らないようにしてほしい。」 第一テモテへの手紙5章13-14節
*2 「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」マタイによる福音書6章33-34節
June 21, 2020 Exodus 15:24-25
「ときに、民はモーセにつぶやいて言った、『わたしたちは何を飲むのですか』。モーセは主に叫んだ。主は彼に一本の木を示されたので、それを水に投げ入れると、水は甘くなった。」出エジプト記15章24-25節
クリスチャンといえども、この世に生きている限り病気にもなり、危機的状況にもあい、それらによって生じる恐れや心配からフリーなわけではありません。私は小心者なので、聖書のみことばでどんなにたくさんの神様のよる保障や守りの約束が書かれていて、知っていても、何かが起こりますと瞬間的に恐れが生じますし、頭でクルクル色々考えてしまいがちです。しかし、その後、この感情を引きずらずに、心を平安に保てるという方法が神様により与えられているのは感謝です。
古代イスラエルの預言者、モーセは奴隷状態にあったイスラエルの民をエジプトから脱出させるというミッションを神様から託され、多くの神様による奇跡を通して、なんとかエジプトから脱出、神様が彼らに与えると約束された土地に向かって出発しました。ところが、常識ではあり得ないような奇跡的な方法で、危機的状況から神様に救い出されたことをどんなに経験しても、民はいつもことある毎にリーダーのモーセに不平を言います。こんな苦い水飲めない、エジプトの生活のほうがましだった等。民は何度も何度もモーセに不平不満をぶちまけ、酷い時にはモーセを殺そうとまでします。モーセは神様から選ばれた偉大な信仰者でありましたが、彼も人間ですから弱さもありますし、謙虚な人だったと書かれていますので、リーダーとして権力を振りかざすタイプではありませんでした。
このような状況で彼がいつも取っていた態度は、上記の聖書の箇所にあるように、人々に何か言うのでもなく、何かするのでもなく、まず神様の前に問題を持って行き「神様はこの民はこうこう~です。助けてください!」と叫びます。すると、いつもすぐに神様は解決策を与えて下さる様子が聖書に記されています。時にはモーセは、忍耐が限界に達し、民の前に怒りを表してしまったこともあります。それでも神様は彼の訴えを聞き、助けて下さいました。残念ながら、たった一度それをしたことで、彼は約束の地へ入ることは許されなかったという、神様の厳しさもあったことは事実です。
今迄、誰かから脅しのツイッターや、E-mail、電話などにより恐れを経験したことがありますか?そんな時は、古代イスラエルのヒゼキヤ王が、当時の強力なアッシリア帝国による侵略の脅しを受けた時、神様の神殿にのぼっていってその報告書を神様の前に広げて、助けを祈ったように、神様に問題を持っていきたいと思います。そうすれば、まず心が恐れに支配されないよう守られ、また自分に危害を加えようとする者から守られるでしょう。(Y.O)
*「ヒゼキヤは使者の手から手紙を受け取ってそれを読み、主の宮にのぼっていって、主の前にそれをひろげ、主に祈って言った」イザヤ書37章14-15節
June 15, 2020 Ephesians 5:1-2
「こうして、あなたがたは、神に愛されている子供として、神にならう者になりなさい。また愛のうちを歩きなさい。キリストもあなたがたを愛して下さって、わたしたちのために、ご自身を、神へのかんばしいかおりのささげ物、また、いけにえとしてささげられたのである。 」 エフェソ信徒への手紙5章1-2節
良好な親子関係を持つ人はとても恵まれています。そのような人は、自分を愛し、育ててくれた親を幼い時から見ているので、子供として愛されることを経験として知っており、自分が親になった時にそれに倣おうとするでしょう。一方で、愛を与えられ、守ってくれるはずの親から、虐げられ、最悪の場合には死に至ってしまう、もしくは生きていてもそのトラウマを抱えながら成人していく子供たちがいることは、悲しく、心痛むことです。そしてそのような親たちは、自身も子供の時に親から虐待されていることが多く、その結果どのように子供を愛してよいのかわからないという、不の連鎖の結果が現代社会で生じています。どの親であっても、人間ですから完璧ではないし、親になる心の余裕がない人もいます。また、虐待はされていなかったとしても、自分の親を尊敬できない人もいるでしょう。親との関係がぎくしゃくしたまま月日が過ぎていくのは悲しいことです。しかし、もう一つの良い道もあります。
聖書では「あなたの父と母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。」*1とあります。そこには「良い親の場合のみ敬え」という特記事項はありません。どんな親であろうと、親であるというその事実だけで、敬う存在とあるのです。なぜなら、自分の存在は親無くしてはこの世に命が与えられていないし、それも神様が与えた命だからです。親としての権威は、神からであり、子は親に従うようにと聖書では一貫して記されています。もちろん、親が不法なことをしろと命令したら、従う必要はないのです。神様は親に対しても「父たる者よ。子供をおこらせないで、主の薫陶と訓戒とによって、彼らを育てなさい。」*2と言われており、主(神様)の薫陶と訓戒によって育てるのであって、自分の気ままな感情に基づいて、子に対する権利を振りかざして暴力をふってはならないし、不法なことを子供に命令することは主の訓戒に反します。つまり、親も子も第一に神様に従うことで、親子関係の秩序が保たれるわけです。
人間の親は完全ではないけれども、私たちを創られた神様は完璧な親であり、完璧な愛をもって一人一人を子供として愛していることを知って、信じてほしいと願い、忍耐して待っておられます。もし、そのことを信じられれば、たとえ親の愛を知らない環境に育った人でも、聖書で記されている父なる神様の愛を知ることができ、倣うべき親のモデルが与えられます。下記の聖書箇所は、神様の子供として私たち一人一人がどれ程愛されているかが記されています。神様がどれ程わたしたちを愛しているかは、神さまの一人子、イエス・キリストの命を犠牲にしてまで、私たち人間を救おうとされたということに表されています。いったい、誰が他人の罪をつぐなうために、自分の子どもを身代わりに死刑という処罰を受けさせるでしょうか。神様はそれをして下さいました。私たち人間も神様が創られた神様の愛する子供で、その子供たちを滅びから救うために、神であるご自分の子、キリストの命を神様は犠牲にされました。
また、父なる神様に従った子なるイエス・キリストを通して、彼の父なる神への従順と具体的にどのように人が互いに愛しあうかのモデルも示されています。その父なる神様とキリストを信じて、その愛を受け止められると、負の連鎖をする必要がなくなり、愛のうちに歩もうと心が強くされ、そして神様と共に困難な人生を歩んでいけるでしょう。そして、親を含めた他者を赦せるようになると、同時に自分の心の傷が癒され、神様の愛のうちに少しづつ心が平安に変えられていくはずです。もちろん、素晴らしい、尊敬できる親を持つ方々もたくさんいますし、そういう人は自分が受けた愛を自分の子や他者にも分け与えようという人徳が自然に身についているかもしれません。しかし、どんな優れた人でも、神様の愛を知らなければ限界があるでしょう。そのことに気がついた時、謙遜になって、自分には愛のないことを認め、神様の愛が与えらえれるよう、祈り求めたいと思います。 (Y.O)
*1 出エジプト記 20章12節
*2 エフェソ信徒への手紙 6章4節
June 13, 2020 Romans 8:26-27
「御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである。」ローマ信徒への手紙8章26-27節
先日、夫と一緒に高齢者施設に入っておられる教会の信徒の方に面会に行く機会がありました。面会も事前に予約し、当日は大きな移動可能なガラスのつい立がその方と私たちの間にしきりとなっておかれ、面会時間も15分以内でした。その方の元気なご様子を伺えて安心しましたが、あらため、”Withコロナ”の時代の面会方式なのだと思わされました。それでも、実際お会いできるのでネットによるリモート面会よりはベターだと思います。
”「解決」はできなくとも「解消」はできる”という日めくりカレンダーの言葉が目に留まりました。ガン哲学を専門とされる樋野先生というお医者さんが書いた本*の言葉ですが、このお医者さんはガンにかかった方とその家族に寄り添うために、執筆活動やセミナー、またこのような方々が自由に話しをし、それを傾聴するスタッフがいる「がんカフェ」を全国に広めた人です。多く方が彼の本のことばに励まされ、またそのカフェに行くことで”With病”という、いわゆる完治しなくともがんを抱えながらも前向きに生きていく勇気と励ましを得たことでしょう。
彼が言うように、多くの問題は完全に解決できないかもしれません。しかし、今社会で多くの人々が、未解決状態において、困難な状況で色々工夫され、開発して商売を続けたりして少しづつ解消している人がいると思います。一方で、長年続けてきたことを止めなければならない人もいるかもしれませんが、それでも別の道が開かれるはずです。人生において、未解決状態であっても、前進が可能だと思うのです。
時に、問題があまりにも大きく、長期的だと、何が根本的問題なのか、また何が今必要なのかもわからなくなることもあります。言葉に表せないということがあると思います。今朝読んだ上記の聖書の箇所に、私は再び励まされました。クリスチャンが持っている希望の一つに、そのような自分の混沌とした心の状態で、どう祈ったらいいかさえも、いや祈る気持ちの余裕がない祈れない時でさえも、代わりに心の中におられる、神様が与えてくれた聖霊(御霊)が、かわりに神様に祈ってくれるというのです。それも、自分の視点でしか問題の解決、解消方法が見えない場合も、それを超えた神様の計画、み旨にかなうように、代わりに祈ってくれるというのは、大きな安心感を与えられます。自分が祈れない時さえも、自分が知らないところですでに、聖霊がとりなしの祈りをしてくれているという、大きな神様への感謝とその懐の深い愛を覚えます。
日々、色々なことが同時進行でおこり、対応したことないことを経験する度に、頭が回らない、結果ミスをするなど、自分の能力のなさに落ち込むことがあり、その最中には祈っている余裕もないというのが現実です。それでも、時間を見つけて神様と会話をして、仕切り直していければと願いつつ、神様から頂く日々の恵に感謝して過ごしていきたいと励まされます。(Y.O)
*「人生を変える言葉の処方箋」、樋野 興夫著、いのちこことば社フォレストブック発行
June 7, 2020 Genesis 50:20
「あなたがたはわたしに対して悪をたくらんだが、神はそれを良きに変らせて、今日のように多くの民の命を救おうと計らわれました。 」創世記50章20節
「選タクシー」というドラマの再放送を見ています。このタクシーはタイムマシーンでもあり、もう一度その時点に戻ってやり直したいという過去の地点に戻れるという内容です。大概、過去に戻っても、今度は別の問題が生じてドタバタ劇となるという、とてもコミカルなドラマで、私は毎回ゲラゲラ笑いながら見ています。
生きていると、良いこともあれば悪いと思えることもあります。嬉しい時、悲しい時、辛い時、恐れを感じる時。良いことは楽しいことはそのまま受け入れられますが、例えば、自分の愛する子を突然病気・事故で失ってしまう悲しみ、今のように見えないウイルスがいつ自分の体内に入り、重篤になるのではないかという恐れ、孤独にさいなまれる辛さ、人にいじめられたり傷つけられたりする経験。。。誰でもその渦中にある時、「これはいい経験だ!」などど、肯定的にとらえることは難しいでしょう。私は20代の時アメリカに留学・就労したことがありますが、それは人生で辛い時期となり、無駄だったと思えました。出来れば過去に戻り、アメリカに留学せず、もう一つの選択肢:日本で福祉の専門学校に行く道を選んでいれば、もっと幸せな人生だっただろう、こんなに失うものが大きくなかったのにと、悔やむことが以前はありました。しかし、いくら悔やんでも、選タクシーに乗って過去に戻ることは出来ないのです。
聖書には、過去が変えられた話は記されておらず、逆にその過去が意外な良いことに生かされたり、用いられたりする話がいくつか記されています。例えば、ヨセフという男性は、10代の時、他の兄弟たちに妬まれて、エジプトに奴隷として売られてしまいます。そのエジプトでも冤罪で牢に入れられたり、辛いことばかりでしたが神様への信仰は持ち続けます。牢に入っている時に出逢った人を通して、エジプトの王様からヨセフの知恵と夢を解き明かす能力を買われ、エジプトの総理大臣を任されることになったのです。これは、その地帯全体に酷い飢饉が起こる前のことで、神様はヨセフを通して、エジプトだけでなく、その周辺の国々の人々も穀物が手に入れられるよう計られました。これはヨセフが30歳になった時のことで、彼は10代で奴隷として売られた時に、自分がこのような役割を担うためだったとは想像できなかったでしょう。上記の聖書の箇所は、ヨセフの兄達へのヨセフの言葉であり、これも、この時のためだったのです。
神様は一人一人の人生にその人にしかない計画を持っておられますが、一方で人には自由意志があり、自分で様々な分岐点で選択をしていき、その結果が必ずしも喜ばしいことばかりでなかったり、失敗を刈り取らねばならないこともおこります。神様はそれらを無駄なこととせず、私たちの想像しなかったような意外なことに役立てられたり、ああ、あのことがあったのも、この時につながるのだと思えるような展開に、神様が軌道修正をして導いて下さります。
キリストを信じる信仰が与えられてからは、後ろ向きな考えをすることが少なくなりました。してしまったこと、おこってしまったことをくよくよ思い返さずに、今後は自分の思いではなく、「神様はどう考えられるかな」という思考回路にもっていくように努め、迷った時は答えを求めて祈り、苦しい時には助けを求めて祈り、物事を選択していくようになりました。それは、神様という方は私が何をしようと、しまいと、神様の計画通りに私が動かなくとも、それでも神様は私をそのまま受け入れ、罪を犯せば赦し、愛して下さっているという安心感が与えられているからです。私への責めも恥も、全てキリストが十字架で負って、代わりに死んで下さったのですから。
ちなみに、日本に帰国してしばらくしてから福祉の専門学校に行く機会に導かれ、仕事も与えられました。そして、アメリカに住んでいた時に得た様々な経験、多くの人との出会いは私にとって貴重な宝となり、これらが相まって今の自分があることを、神様に心から感謝しています。(Y.O)
May 27, 2020 Philippians 1:6
「そして、あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいないと、確信している。 」ピリピ人への手紙1章6節
私たちの家では、いつもゴスペルソングが流れています。車で移動する時もCDをかけて、自然に口ずさみ、歌っています。我が家でこのような習慣となったのは、ちょうど一年程前、牧師である夫が、「来年4月から、教会でゴスペル賛美礼拝を始めようと思う」と言い出したことに始まります。今迄も、賛美歌やプレイズソングは聴いたり、礼拝で歌っていましたが、2020年4月から、今迄の土曜礼拝に加え、日曜日に新たなスタイルの礼拝を始めることを考え、二人で色々相談してきました。このゴスペル賛美礼拝では、ゴスペルソングを皆で歌う時間を長くとり、聖書のメッセージは子供でも、初心者でもわかりやすい簡潔な内容にし、地域の人が気軽に来られるスタイルの礼拝を始めることにしました。
そのための準備として、昨年から那須塩原市のゴスペルクワイアー(ミンゴス)の練習に参加をし始めました。そしてなるべくたくさんのゴスペル賛美の曲を聞き、自分たちが歌えるようになり、遂には礼拝に参加する人々の賛美をリードできるようにまでなれればと願い、既にそのような礼拝をしている他教会の人々からアドバイスを頂いたり、話を聞いたりしてきました。以来、私たちの頭の中にはいつもゴスペルが流れ、時折どちらともなく、森を歩いていても、車を運転していても口ずさむようになっています。一方、あまり音楽的才能のない私たち夫婦には、途方もなく難しいプロジェクトに思えました。まず、二人共ゴスペルをリードできる楽器を弾けないですし、私はせいぜい従来型の礼拝で賛美歌を奏楽する程度のレベルで、ゴスペルをキーボード等で自由自在に伴奏する才能はどう頑張ってもないのです。しかし、いつか演奏の才能がある人、教会でゴスペル・クラスをひらけるような人材を神様が送ってくださること祈り求めながら、とりあえず今は生演奏でなくともゴスペル賛美を歌っています。
賛美は力です。一般的に音楽は人の心に影響力がありますから、なおさら賛美は歌詞の内容が聖書のことばであったり、神様への祈りであったりするので、歌っていると励まされ、くじけそうになっても力が与えられます。賛美で重要なのは、誰に向かって、何のために歌うのかという点であり、コンサートのように自分たちを喜ばせたり、観客を楽しませるためでは本来ありません。つまり賛美は神様に向かって、神様を崇める為、感謝を捧げるために歌うのであり、心がこもっていれば奏楽や音楽のジャンルに関わりなく、神様に受け入れられるのです。もちろん、それに加えて、レベルの高い演奏、コーラスがあれば素晴らしいことですし、神様を信じていない人は是非ゴスペルを聞いたり歌ったりするのを楽しんで頂きたいですし、それはそれで素晴らしいことです。ただ、信徒にとっては賛美は礼拝、神様への感謝の捧げものだからです*1。
一般的には、才能や技術、知識、経験がある人々を集め、それに基づいてプロジェクトを準備し、広告宣伝をして人を集め、開始していくというのが事業です。しかし、キリスト教の教会の伝道に関しては、必ずしもそうではなく(もちろん、これらがすでに与えられていれば恵ですが)、一番大事なのは、神様からその牧師やリーダーに与えられるビジョンです。「 神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。」*2 と聖書に記されているように、自分たちのやりたいことを行うのではなく、神様がなさりたいことを私たち信じる者がビジョンとして捉えて、祈りながら、計画を進めていきます。そして、必ずしも計画通りにいかないことが多々あります。しかし、神様はもっと大きな視野と時間の流れの中で、そのビジョンがなされるように導かれることがあります。それは人間には見通しがはっきりしないものなので、そこで問われるのが信仰です。神様への信頼と、聖書で約束されている多くのことばに裏付けされた確信が信仰として私たちに与えられ、それだけが頼りです。必要なことはその時期に与えられる、チャンスも与えられるという希望によって、前向きに日々生活をしていけることは本当に神様の恵です。
私たちの教会は資金もない、人もいない、まして、この春から新型コロナ感染拡大で3密自粛という社会となり、教会の宣教にとって全ての状況が不利に転じたかのような幕開けとなりました。地域のゴスペル・グループをゲストに迎えてのイースター礼拝は延期、教会の集会を積極的に広告宣伝できない状況下。それでも、私たちは神様が一年前に夫にその志を与えたのだから、それが神様のみ心にそう計画であれば、下記のみ言葉のように、必ず福音のよい業を始められた神様(主)が完成させてくださると信じつつ、この4月から二人だけでも集会を続けてきました。土曜・日曜の朝の従来のスタイルの礼拝、そして、日曜午後にゴスペル賛美礼拝、そして夕礼拝、木曜夜の聖書の学びの会と開き続けてくると、以前から土曜礼拝に来て下さっていたが方々を中心に、数人の方々が参加されることもあり、少人数なので自ずと3密にならず、マスク・消毒をして細々と毎週礼拝を神様に捧げられていることは、この上ない恵であり、感謝の想いで一杯です。
このように、私たちの弱いところにこそ神様の御業が力強く働かれるというみことばに励まされて*3、実際たくさんの恵を神様から受け礼拝を続けて約2ヶ月が経とうとしています。このことは、多くのキリストにある兄弟姉妹たちのお祈りと献金によるもので、彼らを通して、主から与えらている恵です。その方々に、主にあって心から感謝するとともに、引き続き教会で感染が起こらないように対策は取りつつ、徐々に社会情勢に合わせて、延期している宣教活動がなされていくことを願い、自分たちだけでなく、日本の、世界の教会のために、日々祈っています。こんな時だからこそ、神様を求める人々が一人二人と教会を訪ねてくると信じ、主に期待して、今出来る事をこつこつとしていこうと思います。(Y.O)
*1「だから、わたしたちはイエスによって、さんびのいけにえ、すなわち、彼の御名をたたえるくちびるの実を、たえず神にささげようではないか。そして、善を行うことと施しをすることとを、忘れてはいけない。神は、このようないけにえを喜ばれる。 」へブル人への手紙13章15-16節
*2 ピリピ人への手紙2章13節
*3「ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。」第2コリント人への手紙12章 9-10節
May 22, 2020 Isaiah 53;4-5
「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。
しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。
彼はみずから懲しめをうけて、われわれに平安を与え、
その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。」イザヤ書53章4-5節
“…we are like pariahs.” (私たちはまるでのけ者だわ) *1 これはアメリカの新聞記事から引用ですが、アメリカで新型コロナにかかり、ようやく回復、陰性反応も出て、家に戻ることが出来た後、自身の存在が病から生還した証として人々の励ましになると期待し、血漿を寄付して治療に貢献できた者として意気揚々と戻ってきた人々に起きた悲劇が報じられていました。現実は、近隣の人や家族からあたかも伝染病患者と接触をさけるような態度を取られます。ショートメイルで連絡しても、返事はこない。近所を歩いていると、自分を見た途端、走って逃げ去る近隣の人々。治ってから数週間たち、別件で入院し(住んでいたマンションが火事になり、煙を吸って入院)、病院側から、本人が家族と会いたいと言っていると伝えるも、家族は会うことを拒絶。多くの新型コロナウイルス・サバイバーは病気には打ち勝っても、周りから隔離され、精神的に追い詰められているという記事を読み、心が痛みました。
アメリカの感染者数は、人口も異なるので日本のそれと比較にならない程未だに多いのですが、それでも減少しているとされ、徐々に経済活動を再開する政策が取り始められているとのことです。しかし、治った人々が職場や地域に今まで通りに復帰できるかどうかは、そう簡単ではなく、様々な問題がこれから出てくるのではないでしょうか。日本も同様です。日本では、感染していない医療従事者の子どもたちさえ、保育園の預りを拒否されることがあります。どの国でも、恐れが偏見を生み、そして酷い場合はそれが暴力的行為になり、新たな犯罪に繋がる可能性があります。もし、自分が、身内が感染したら、陰性反応がでるまで他者と接触はできないし、ある程度の期間孤独に耐えなくてはならないのは仕方がないことですが、その間リモート面会や電話で話すなどなんとか会話をしたいものですが、社会に戻って差別的待遇を受けることは辛いです。
イエス・キリストは2千年前の社会において、伝染病のゆえに隔離されていた人々に接し、その病を癒やされたり、罪人として社会からのけ者にされ、食事も付き合いもしてもらえない人々と共に食事をされたと聖書に記されています。なぜそのようなことをされたのでしょうか。まず、イエス様は神の子でありましたが、人の体をもって生まれてきたので、お腹もすくし、疲れる、つまり人と同じ条件の肉体を持っていました。その上で、人の痛み、孤独、蔑み、悲しみ、そして十字架刑での拷問と死、とおよそ人が経験するであろう全ての苦しみを経験されたので、人の気持ちに同情できるお方です*2、今迄一体だった天の神様とも、十字架で死なれ3日後に復活されるまで断絶され、独りで全人類の罪を負われました。冒頭の聖書の箇所は、預言者イザヤがそのイエス様の救い主としてなさることを預言した箇所です。だから、そのような差別された隔離された人々に寄り添えたのです。彼は人々の物理的・精神的苦しみから解放することが出来る救い主として、この世に来て下さったのです。それは、イエス様と天の神様が人を愛するがゆえです。そしてイエス様が十字架の死で終わらず、復活されて今も天で生きておられるという信仰によって、信じる者に希望が与えられます。
人は独りでは生きていけない、社会的な生き物です。しかし人の中に罪と恐れがある限り、差別や偏見はなくなりません。たとえ、家族からも見放され、全ての人から拒絶されたとしても、全ての人に同情出来るイエス・キリストだけは見捨てないという約束*3は、大きな励ましです。私は彼らのような差別や隔離された経験はありませんし、比較のしようがないですが、孤独の体験、全て悲観的にとってしまう時期はありました。大きな病気をした時、しばらく手術後体力もなく体の痛みもあり、仕事や教会へ行くことさえも出来ない、家で、家族とも離れて暮らしていた時、本当に孤独でした。後に仕事に戻ったとしても、一人暮らしなので、だれとも話すことがない日もあり、寂しいと感じていたことは何度もありました。それでもなんとかやってこられたのは、イエス様が共にいてくれるという信仰に支えられていたからでした。目には見えなくとも、イエス様が聖書の言葉を通して、祈りを通して、私が孤独に押しつぶされないように寄り添って下さったからです。その経験を通して、主イエス様は生きていて、私を愛し、辛い時には助けて下さる、強めて下さる優しい方だと信じられるのです。
今、孤独の中にいる方々が、神様に助けを求めて、祈り、そしてなんとかこの辛さを乗り越えてほしいと願います。社会から取り残されたように感じる時があったら、その時こそ、SNSで呟くより、神様に祈り求めるほうが良いと思います。他者は自分が期待した通りに自分を理解してくれないし、動いてくれません。その辛さを神様に叫んだ時、神様それを聞いておられるので、その後、心に平安が与えられ、独りでも、心が強められて、一日一日を乗り越えられたという経験をすると、次回に何か起きた時、それを思い起こして励まされるからです。そして、立ち直ったら、今度は自分が、孤独の中にいる人の少しでも励ましになればという心が与えられます。神様の愛は自分が受けたら、他の必要としている人へ流すという愛の連鎖、それが神様が望んでおられることでもあり、そのような機会が与えられればと願います。(Y.O)
*1 “They Beat the Virus. Now They Feel Like Outcasts.” By Sarah Maslin Nir, May 20, 2020, New York Times.
*2 「この大祭司(イエス・キリスト)は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。」 へブル人への手紙4章15-16節 ()は追記
*3 「金銭を愛することをしないで、自分の持っているもので満足しなさい。主は、「わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない」と言われた。」へブル人への手紙13章5 節
May 19, 2020 1 Timothy 2:1-3
「そこで、まず第一に勧める。すべての人のために、王たちと上に立っているすべての人々のために、願いと、祈と、とりなしと、感謝とをささげなさい。それはわたしたちが、安らかで静かな一生を、真に信心深くまた謹厳に過ごすためである。これは、わたしたちの救主である神のみまえに良いことであり、また、みこころにかなうことである。」第一テモテへの手紙2章1-3節
マスクが来ない!10万円の給付金の案内が来ない!休業補償が十分じゃない!経済の回復をどうするつもりか!「緩み」とか言わないでほしい! メディアでも、人との会話でも巷ではこのような政府に対する不平、文句のことばが飛び交います。私もうっかり、家族に言ってしまいがちです。しかし、不平、批判を言うのは簡単ですが、ではもし自分が政治家たちの立場だったら、もっと良く出来るのか?と問いつつ、批判するのを止めて、彼らが適正で知恵を得た政策を施行していけるように、日々祈ることにしています。そして、すべて政府が解決してくれると思わず、新しい生活スタイルに自らどう行動していくかを考えた方が、建設的で効果的ではないかと、自分自身に言い聞かせています。
第35代大統領 のジョン・F・ケネディ氏が就任時のスピーチで、「あなたの国があなたのため に何ができるかを問うのではなく、あなたがあなたの国のために何ができるか考えてみましょう 」といったのはある意味、的を得ていると思います。結局、国というのは国民全体の協力がなければ、いくら政治家だけが法律を整備し、政策を打ち出しても、その主体は国民です。もちろん、お上に盲目的に従うのではなく、独裁的、不条理な政策に対しては、非暴力的方法で声を挙げてそれをストップさせなければならない時もあります。しかし、今のように、国民の安全を守ることと経済活動のバランスをどう保っていくかは政府にとっても困難な課題であり、段階的政策が必要です。政府も試行錯誤をせざるを得ないことだとある程度理解しようと務め、批判ではなく、どうしたら互いに協力しつつ、生き残っていけるかを模索していかなければならない時ではないでしょうか。
キリストの使徒パウロは、2千年前のローマ帝国独裁政治時代の人でした。その信仰ゆえに、政府から迫害され、投獄、最終的には死刑に処せられたと伝えられています。しかし、彼は迫害されても忍耐し、今日の聖書の箇所は、彼がその迫害の最中で書いた、テモテという自分が信仰を育てた教会のリーダーへの励ましの手紙の一節ですが、そこで王や上に立つ政治家たちのために祈りなさいと勧めています。自分の家族が処刑されたり、自分も地下で隠れて生活しなければならないという状況であれば、革命を起こして武力で政府と対決することで平和を得ようとするのが、人間が今まで歴史的に繰り返してきたことです。しかし、真のキリスト者は違います。どんな政治家であっても、その人たちのために祈ることが神様の愛の実践、平和へ至る道だと、これはキリストご自身が言われてきた教えにそっています(前日のブログ参照「祝福するとは」)。この時代の上に立つ政治家とはローマ皇帝で、しかもクリスチャンに対する最も残虐な迫害で有名なネロ皇帝でした。自分を迫害する相手のために祈る事で、祈っている私たち自身が、安らかな生活を送り、信仰を持ち続けて過ごせると、それが神様のみ心にかなうことだからと説明しています。祈っていても表面的には不安定で苦しい生活が続くかもしれませんが、心の平安、信仰は持ち続けることは可能であり、心の中でどう思うか、信じるかまで、他者や政府がコントロールできないですし、誰もこの信仰を取り去ることは出来ないのです。
日々のニュースで政府の政策が報じられる時、批判的な気持ちが沸いてきたら、それを「神様、彼らに知恵が与えられ、国民の生活のため良い施策が行われますよう、彼らを導いて下さい」と、出来るだけ具体的な願いも含めた祈りに変えていこうと思います。そして、たとえ状況が思わしくなくとも、祈るときには感謝できることを見つけて、神様への感謝を忘れずに、そして神様は人間を大切に思って、救おうとしておられる全能のお方であり、必ず良い方向に導いて下さる方だと信じて祈り続けようと思います。(Y.O)
May 19, 2020 Romans 12:14
「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福して、のろってはならない。」ローマ人へ手紙12章14節
葬儀の時、弔辞、追悼の言葉が述べられる機会が多いと思いますが、その場合、故人を偲んで、その方との良い想い出が語られたり、その方の生前の立派だったこと等、通常良いことが述べられます。たとえ、その故人があまり良い人でなかったとしても、特に功績があった人でなくとも、その人の良かったところが語られるでしょう。なぜなら、その亡くなった人がたとえどんな人であっても、葬儀の時に故人を悪くいうものではないという、葬儀での礼儀があるからです。
先日、教会に来た方が礼拝後に突然こう言いました。「相手を赦すっていうのは、出来る事じゃないですね」と。具体的になぜ、誰をどうして赦せないのかについては話されませんでしたが、同時にその方はこうも言われました、「不思議なことがあってね、昨日まではこれはおかしいと思っていたことに対して、今日、教会の礼拝に来たら、自分の中で納得してしまったんですよ。」これについても、具体的に何に対して違和感を持ち、そして翌日には大丈夫になったのかをその方は話されませんでしたが、聞いていた私たちがわかることは、その方は土曜も日曜も、教会の礼拝に来ていたことです。
聖書の言葉は科学の本でも、小説でも哲学書でもないので、理論的、この世の常識では理解できない箇所があり、また矛盾すると思われる箇所があると思います。しかし、聖書は信仰を持って読むとき、自分の知識で理解するものではなく、その時その時に、インスピレーションと表現されるでしょうか、「あっ、そういう事なのか!」とひらめいて、心にストンと落ちるかんじでその内容が理解できることがあります。ですから、私も聖書で何度も同じ個所を読み、牧師さんたちからそのメッセージが語られていても、以前はわからなかったところが、その時には理解が与えられることがよくあります。つまり、私の信仰の成長の度合いに応じて、理解できるように不思議に神様が心の目を開いて下さるのでしょう。
冒頭の聖書の箇所は、この箇所だけ読むと、「あっ、これ無理。そうすべきと頭ではわかっているし、キリストの教えだからそう出来ればと願うけど、実際は難しいですよ」と、先の方と同様、クリスチャンでさえも、赦せないと諦めてしまいう相手がいるでしょう。今日、ある牧師から教えられたことは、ここでの「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい」の「祝福する」ということばの原語(eulogeō)の意味は「弔辞」eulogy:英語 と語源が同じで、相手のことを良く言うという意味だそうです。「神の祝福がありますよう」(May God Bless You)のように、神が主語で人を祝福する場合は、神が人に恵を授けると言った意味合いになりますが、人が主語の場合では、相手のことを良く言うと言い換えることができます。相手を赦せなくても、嫌いでも、自分に対して敵対してくる人であっても、キリストの教えは、その相手のことを良く言いなさい、そして呪いのことば、つまり悪口をいってはならないということです。もしくは、自分が積極的に相手を良く言える余裕がないのであれば、渋々であっても、「神様の祝福があるように」と相手の為に祈ることから始めることができるのではないでしょうか。
キリストを信じると心に与えられる聖霊は、わからなかったことに理解を与えたり、忘れていたことを思い起こし*、不思議に心が変えられているとい現象のように、例えば、赦そうという心に導く働きをされます。聖霊は目に見えませんが神の霊であり、人がキリストを信じる前はその人の傍らから、つまり外側から、聖書の言葉だけでなく、人の言動をも通してその人の心に働きかけます。そして信じる心に導き、その人が信じると聖霊は心の中に入って、その人の内側から静かに語り掛け、導きを与えます。常識的に、理論的に、性格的に、「これは無理」と諦めていたことも、そのことが人との平和に繋がること、神様の愛に繋がることであれば、神様は必ず相手を赦せるように心を変えて下さる方です。赦すとは、その人が赦すに相応しいから赦すのではなく、単に弔辞では良いことしか言わないものだという礼儀以上に、キリストが自分をそもそも赦してくれたのだから、自分も人を赦そうと決めること、そして時間がかかっても赦す心に変えられるまで神様に祈り求めることが必要だと思います。そうすると、いつか、ある時、「不思議なことがおこったんだよ」という経験をし、相手に対する苦い思いが心を支配することがなくなり、心が解放されることでしょう。
心の内で、何か赦してもらうべきことがありますか?自分を傷つけたことを赦せないという憎しみ、ある人を嫌い続ける苦い思い、傲慢な思い、人に言えない過去にしたことと、それによる罪責感、強迫観念、そして神なんかいないという思い。。。どんなことであっても、神様はキリストを通して、赦して下さる方です。ただそれを神様に持っていけば良いのです。自分自身が神様に赦された経験をした人は、人間同士の関係において、たとえ相手がどんな人であっても赦そうという思いに導かれるからです。(Y.O)
*「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。 」ヨハネによる福音書14章26節
May 13, 2020 Colossians 1:21-22
「あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行ないの中にあったのですが、今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。」 コロサイ人への手紙1章21〜22節
ハーブといえば、ミント、カモミール、ローズヒップなど、ハーブティー、またお料理や、アロマセラピーのオイルにも利用され、その独特の良い香りが心身のリフレッシュに効果があるといわれる植物です。その歴史をたどると、古代からハーブは薬として用いられていたようで、中世ドイツの修道院の院長のヒルデガルト*1という女性はハーブを研究した人物として有名だそうです。ハーブ薬は自然のものですから、科学的に造られた薬の様に即効性がないかもしれませんが、人の免疫力を強める、つまり自分の病気に対する抵抗力を強めるという作用があるのでしょう。ハーブとまで特定しなくとも、植物自体に何か自然由来のもので、人の心身を健やかにする成分を放っているように思えます。森林浴と言われるように、様々な種類の草木、樹木からなる森の中はマイナスイオンがたくさんあり、それが体をリフレッシュさせると言われます。私が住む地域は自然が豊かで、近くにちょっとした森があり、時々朝早に1時間程そこを歩くことができます。そこではほとんど人と会うことなく、鳥のさえずりだけが聞こえます。日に日に新緑が濃くなっていく森の中を歩いていると、日々報じられる危機的状況を一時でも忘れることができ、むしろ自然という生態系の中で人間がいかに小さな存在であることを思わされます。自然は厳しい面もありますが、すべての生物が共存できるよう、神様は当初この世界を創られた時、「それは、はなはだ良かった」*2とコメントしているように、全てが最初は調和していたのでしょう。
神様は人に自然を「治める」ように命じていたことが聖書に記されています*3。この「治める」という表現には、国王が国を治める(reign, rule, have dominion)と言った意味をもつ原語が使われているように、秩序を保ち、平和的に統治することであり、よって、人が自然を自分の利益のために過剰に使ったり、遺伝子組み換えをして人工的な穀物を造ったりすることではありません。神がこの天地を創造したことを信じない人であっても、現実的に人間がどれ程自然環境を破壊し、その結果、多くのひずみを引き起こし、異常気象、自然災害となっていることは気がついているはずです。そして人は、それを科学的方法で取り繕おうとして、また生態系バランスを崩し、新たな問題を起こしていく、負の連鎖を続けているように思えます。
20世紀以降、サービス業の増加に伴い、便利で効率的な世の中になっているかもしれせんが、それだけエネルギーを必要とします。それには原子力発電や原油の消費が伴います。掘削による地下資源の枯渇、原子力発電所の事故による被害と、いくら一人一人の市民が環境のために資源を節約、エコ活動していても、一方で大規模に24時間営業のサービス業等がこうこうと電気を使っている現実を見逃してはなりません。病院・施設や警察など24時間交代制が最低限必要である職種を除き、夜中まで営業する必要があるのかを、今の自粛という新たな生活スタイルが長期的になる可能性に伴い、見直す必要があると私は思います。もっと良い生活をしたいからお金を稼ぐという必要性と、企業がもっと収益を上げるための雇用増加という需要と供給が見合い、生活が忙しくなり、複雑になり、ストレスも増大していく世の中。これがもっとよい生活、人にとって幸せなのでしょうか。
自然との調和。シンプルな生活。そもそも神様が創造された世界では、神と人との関係、人と人との関係、人と自然との関係の中に調和と秩序、そして相手や自然を大切に思う心がベースになると思います。それには、まず下記の聖書のことばのように私たちが神様との和解が必要で、そのためにすでに神様はイエス・キリストをこの世に送ってくれているのが、Good News(福音)です。和解をさせて下さったキリストに感謝し、日々自分の自己中心的な思い・行動を悔い改めて、自身の心が自然に対しても人に対しても平和的になれるよう、聖霊の力で変えられていきたいと思わされます。 (Y.O)
*1 ヒルデガルト・フォン・ビンゲン(Hildegard von Bingen, 1098~1179年) ドイツ・ビンゲンの地に自ら作ったのベネディクト会系女子修道院の院長で、医学・薬草学の研究をし、「ドイツ薬草学の祖」と呼ばれる。
*2「神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。夕となり、また朝となった。第六日である。 」創世記1章31節
*3「神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。」創世記1章31節
May 10, 2020 1 Corinthians 10:13
「あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。 」 Ⅰコリント10章13節
先日、競泳日本代表の選手で、白白血病が一年前に発症した方のその後のドキュメンタリーをTVで観ました。彼女はたった一年で闘病生活から復帰し、ジムでトレーニングを開始し、そしてとうとうプールで軽く泳ぐことまで出来たという、その時の彼女の笑顔に感動しました。残念ながら、その直後、コロナウイルス感染拡大の為、屋外でトレーニングを続けられなくなりましたが、彼女は今も家の中で続けているそうです。自分のこれからの使命としては、病気の人に回復の希望を与える為に自身も頑張りたいと、また、新型コロナだけでなく、その他の病気と闘っている人もいることを覚えていてほしいとも言っていたのに感銘を受けました。誰でも病から回復したいという思い、それが難病であっても、諦めずに前向きに闘病される方々にとって、彼女の発信により、どれ程勇気づけられることでしょう。
先月、アメリカの実話を基にした映画を観ました*。あらすじは、主人公の小学生の女の子が突然腸の難病を患い、物凄い痛みに日々苦しむも、その原因も分からず治療法もなく、家族は飛行機でテキサスからボストンまで権威ある小児科専門医に通いますが、治る兆しもなく、経済的にも追い詰められます。その家族はクリスチャンで、家族皆で教会に通っていて、家族は必死に神様に癒しを祈りますが、その母親は神に求めても無駄だと信仰を一度諦めます。ある日、その子が(おそらく白血病で)入院治療中の同室の女の子に「死ぬのが怖い?」と尋ねます。そして、「イエス様が共にいるから、怖くないわよ」とその子に説明するのです。その後、主人公の女の子は家にいる時に木から転落し、一度死にかけましたが、なんとその難病もその時に治ってしまったのです。彼女が言うには、意識を失っている時、一度天国に行ったのだけれど、地上に帰れと神様に言われたと言います。もちろん、それを信じる、信じないは個々人の自由です。むしろ私が感動したのは、その子が生き返ったこと以上に、その後同室だった子が死んでしまったのに、その父親が神を信じたという告白でした。普通だったら、子供が癒されれば信じそうなものですが、この同室の子の父親は当初、「宗教の話をうちの子にしないでほしい」と、主人公の母親に言った程でしたが、その後、自分の娘がイエス・キリストを信じて、死を恐れずに、安らかに亡くなっていった様子を見て、神はやはりいるのだと信じたということに、感動しました。
人は病気になり、ある人は助かり、ある人は亡くなります。それがなぜなのかは私たちにはわかりません。誰でも懸命に努力して、復帰できれば素晴らしいことです。では、亡くなってしまう場合には希望はないのでしょうか。私は、この同室の天国に安らかに召されていった少女のこと、そしてその父親のことを知り、少女の死自体は父親にとって想像を絶する悲しみであり、慰めが必要ですが、この死は絶望に終わらず、父親の人生を全く変える力が現わされたと思います。そして、この映画を観た多くの人々に、特に病気の家族を持つ人々にとって、たとえ病が治らなかったとしても、希望を与えると思います。その希望とは、イエス・キリストを信じて、生きている間に起こりうる様々な困難なことに対して、全ての悲しみも、苦しみも、神様の不思議な仕方により、信仰により乗り越えられること、そして天国でも命が続くという希望です。神様は真実な方ですから、無意味に私たちに苦しみや悲しみを与える方ではありません。なぜなら、神様は私たち一人一人を大切に思っていて、愛しておられる方だからです。ただ、神様の考えていること、その計画は私たちには理解を超えます。わからなくとも、その真実であることは、このような多くの人々の証から、立証され、励ましが与えられることが本当に感謝です。
新型コロナウイルスにより、多くの人々が命を失い、アメリカでは子供たちが新たな病気にかかっているそうです。家族を失われた方々に深い慰めと、いつか希望が与えられるように、今闘病中の方々が癒されるように、日々祈り続けます。(Y.O)
*”Miracles from Heaven” (「天国からの奇跡」), アメリカ, 2016, Columbia Pictures Ind.
May 2, 2020 1 John 2:28
「さて、子たちよ、御子のうちにいつもとどまりなさい。そうすれば、御子の現れるとき、確信を持つ事ができ、御子が来られるとき、御前で恥じ入るようなことがありません。」第一ヨハネの手紙2章28節
今朝のニュースにおいて、学生たちへの9月入学制度導入の賛否とその理由についての、アンケート集計の結果が報じられていました。日本社会では、社会全体の年度始まりが桜の季節である4月であるものを、欧米の入学時期である9月に変えるということは、教育制度にとどまらず、日本の社会制度を大きく変えうる政策であります。学生のみならず大人も、そのような変化によって生じる不確実な未来に対して、懸念を示す人のほうが多いことでしょう。一般常識的に考えると、不確実なこと、先行き不透明なことは”良くないもの”として、私たちはとらえる傾向があります。一方、コロナ感染脅威により今迄のように事が進まない時期に、前向きになんとか対処しよう、乗り越えようとして、危機をチャンスとして捉えている方々もいるということは、励まされます。
信仰の世界というのは、人間の思い中心ではなく、神という存在がベースでありますから、このような確実性に縛られることはありません。イエス・キリストは十字架に架かる前に、弟子たちに大切なことを話されました。彼らはよく理解できず、先生はどこへ行ってしまうのだろう、これからどうなるのだろうという不安な気持ちになり、そこでイエスは弟子たちに、こう言われました。
「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。」*1
世の中の常識、目に見えることに基ずく確実性は、ある程度の安心感を与えますが、同時にこれがいつ変わるかわからない、何が起こるかわからないという不確実性がいつも伴うので、100%安心できません。これがイエスが言う、「世が与えるように与える」平和です。しかし、イエスが与える平和は、神を信じ、イエスを信じる信仰によって与えられます。ですから、不確実性のなかにおいても、感情的には一時的に心が揺らぐことはあっても、心の深いところで、神に信頼しようと、神のなさることの範囲内で今のことは起きているし、将来も起きるから、委ねようという気持ちになり、恐れや虚無感に支配されることはなくなります。この信仰の根本には、下記のみ言葉にあるように、イエス・キリストが再び戻って来られて、全てを新しくするという約束を待ち望んでいることにあります。それがいつ来るか、どう来るかは明らかにされていませんが、私たちが生きている間考えることは、御子(イエス・キリスト)のうちにいつもとどまることです。
どうしたら、とどまれるか。イエスは「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」*2という命令を守るなら、わたしにつながっていられる、わたしのうちにとどまれるよと言われました。
命令を守る。これはプレッシャーになったり、重荷になったり、強制感が伴いがちなフレーズです。しかし、その命令自体が、互いに愛し合うということであれば、互いの益になり、問題の解決の糸口となるでしょう。愛は全てのことを覆います。また、愛せないのであれば、愛せるように助けるよ、たとえ命令を守れなくとも、私はあなたを決して見捨てないよというのがイエスの約束です。自分の力ではなく、神が愛せるように、わたしたちの心や行動さえ変えられるので、また、命令を守れなければ罰則が伴うものではないので、恐れや重荷なりません。他者を愛することに弱い私たちでも信仰を続けられます。これからも、御子のうちにとどまり続けられるよう、助けを祈りたいと思います。(Y.O)
*1ヨハネによる福音書14章1、27節
*2ヨハネによる福音書15章12節
Apr. 26, 2020 Jonah 2:2
「(ヨナは)言った。「わたしは悩みのうちから主に呼ばわると、主はわたしに答えられた。わたしが陰府の腹の中から叫ぶと、あなたはわたしの声を聞かれた。 」 ヨナ書2章2節 ( )は追記
”Stay Home” 、今の時期、日本で出された感染防止対策。春という、一番新緑の美しい時期、観光シーズンの時期に多くの人にとって、これは厳しい自粛要請かもしれませんが、必要なことであります。しかし、最低限ネットでコミュニケーションができるし、普段忙しくてできないことをしたり、本を読んだリ、DVDを観たりと家での過ごし方は工夫すればあっという間に時間はすぎます。同じ状況をストレスに思うかどうかは、その人の気の持ちようでもあります。狭い空間で、自分の思いや希望ばかり通そうとせず、互いに、忍耐することがキーでしょう。
しかし、全く思い煩いや不安がないのかというと、そうではありません。この状態が長期化し、仕事も出来なくなるかもしれないという懸念はあります。今これを書いている最中に、震度4程度の地震がおこり、ちょっと怯えます。メディアを通して、人々を元気づけようと、多くの著名人、スポーツ選手たちが様々な動画を流していますが、同時に一日中報じられているコロナの感染状況が、その励ましや娯楽を覆ってしまうほど大きく、再び気分は暗くなります。私はもともと、娯楽番組。動画が気晴らしにならず、むしろ観たいのは、人々が様々な困難を乗り越えようとして頑張っているドキュメンタリー等で、悲しみの、もしくは感動の涙を流せるコンテンツがもっと放映されればいいなあと願います。いずれにしても、報道、TV局の人々が国民を励まそうと頑張っていることには変わらず、そのご苦労を感謝していますし、日々祈っていることは、医療従事者の安全です。コロナとの闘いに命をはって、最前線で働く方々の健康が守られるようにと。
私たちは、人と人とが助け合い、互いを思いやるという愛や絆に感動を覚え、これで頑張ろうと励まされますし、そこに希望を置く人が多いと思います。しかしながら、自分を含め、人が出来ることの限界を考えると、人に、また人がなしうる科学技術に、お金に、人の自己実現による生きがい等に希望を完全に置けるでしょうか。冷たい人間に思えるかもしれませんが、私はこれらに期待をかけても、必ず失望すると思います。もちろん、世の中には立派な働きをする人、徳がある人はたくさんいて、その方々には感謝はしていますし、自身のように何もない者と比較しようがないですが、それでも完璧な人はいないし、万能ではない、結局のところ、自分が希望を置いた対象が、必ずしも自分の都合のよいように、自分の願うように動かないということは、生きていれば誰でも経験することでしょう。では、自分だけ信じればいいのでしょうか、何に期待を置けるのでしょうか。
上記の聖書の箇所のヨナ書には、ヨナという古代イスラエルの預言者が、苦難の中から神様に叫んだ祈りが記されています。彼は、実は反抗的な預言者で、神の命令に背いて、そのおかげで彼が乗船した船で嵐に合い、海の中に投げ込まれて、大魚の腹に飲み込まれてしまったという、情けない人です。しかし、彼は腹の中でもう死ぬという、絶望の状態で、神様に叫び求めます。すると、神様はそれを聞き、答えて下さったと、まだ彼の命が助かる前に(つまり、魚の腹の中ではいつまでも生きていられませんから)このように祈っています。このことから、彼が神に信頼し、希望を置いていることがわかります。そして、彼は3日後に大魚の口から吐き出され、神が最初に彼に行けと命じた、アッシリア帝国の首都ニネベの浜辺に打ち上げられ、そこで神のミッションをすることになるのです。真の神は全知全能な神で、全ての人を目的を持って創り、命を与えて下さった方なので、完全な希望を置ける神です。信じるには、もっと知る必要があります。どんな神で、なぜ希望を置けるのかが聖書のことばを通して分かり、そして信じる信仰も与えられていきます。
明日は自分が感染して、死ぬかも知れないとい可能性はゼロではなく、まだコロナウイルスに対する治療薬もワクチンも開発されていない、医療崩壊が起こるかもしれない、先行きが不安な現実にあっても、私もヨナのようにイエス・キリストに希望を置こうと思います。この希望は失望に終わらない*1と信仰の先人達のことからも、確実だとわかりますし、そのような信仰が与えられています。どんな状況になっても、私の魂の平安を取り去るものはないという、信仰を強めて頂きたいと、神様に願っています。というのは私の信仰ほどあてにならないものはなく、自分の意志の力で自分に希望を置いたり、自分を信じたりするほど強い者ではないからです。信仰とは求めれば神により与えられ*2、強められる、成長させられるものです。キリストはただ天国にいて、人々が苦しんでいる状況、不安におびえている状況に高見の見物をしている方ではなく、目に見えなくとも、傍に寄り添って励まし、導いて下さる方だと聖書に記されています。私の今の状態もそのようにして、生かされていることを、神様に感謝しつつ、信仰に固く立つ力を日々与えて下さいと祈っています。Y.O
*1 「このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。 わたしたちは、さらに彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる。 それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、 忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。 そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。」ローマ人への手紙5章1-5節
*2 信仰さえも、神からのプレゼントであることが記されている。「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。 」エペソ人への手紙2章8節
Apr. 22, 2020 Matthew 7:24-27
「それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまう。そしてその倒れ方はひどいのである。」マタイによる福音書7章24-27節
これまでも大規模な自然災害、疫病の流行は歴史的にも起こってきていますが、今回の新型コロナウイルスの世界的蔓延は、史上で最大規模であり、お互いこれを乗り越えるために協力していくことが大切だと、メディアを通じて日々伝えられています。科学が現代のように発達し、流通と人の活動がグローバルに発展している環境に慣れていると、昔のように家でシンプルに過ごさねばならないことが、さらなるストレスとなってしまう人もいるかもしれません。
科学ではどうしようもないと、また直接的な因果関係がわからない災害・事故について、普段神を信じていないのに、無意識的にそれが神の罰とか裁きだと考える傾向が人々の中にあります。日本では、小さいころから「罰があたるぞ」というフレーズを耳にしてきました。この疫病は人間の傲慢さに対する神の厳しい裁きだという人、聖書に記されている「この世の終わり、終末」だと短絡的に考える人もいたりするしょう。確かに、人の科学・知識が万能であるとするおごりはあり、謙遜になる必要はあるかもしれませんし、神を“畏れる”気持ちを持ったほうが良いと思います(“畏れ”と“恐れ”は意味が微妙に異なる)。しかし、単に神の裁きだという恐怖心だけでは、信じる気持ちにもならず、不安ばかり増して益になることはありません。
聖書で一貫しているメッセージは、神は人間を愛していて、大切に思っている、恵を与えよう、祝福したいということです。そして、聖書の神は善人にだけ恵みを与えるのではなく、天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さる方 *1であり、一方で、災害や病気、試練は誰にでも起こりうるのです。*2 ですから全体の論点をみず、部分的に聖書を引用すると、おかしな解釈や理解となり、そうなると神の存在が平安や感謝ではなく、恐れと疑いとなります。しかし、これらは愛の神の性質から来ているものではありません。
神が愛なら、なぜこんなことが起こるのか?という疑問。しかし、その疑問を持つ前に、起こしている原因のほとんどは人間の欲、傲慢さにあるということを認めることが必要ではないでしょうか。神が愛であることを知るには、まず自分の傲慢さ、神を認めない罪を悔い改め、そして自分の意思や力で善になれないと自覚し、そのために自分には救い主が必要だと求めることから始まります。そして求めれば信仰が与えられ、キリストを信じる信仰が人生の土台となります。すると、様々な人生の嵐が来ても、土台がしっかり据えられているので、その人は倒されないと、下記の建築のたとえをキリストは語られています。これからも、様々な試練が生きている上で起こるでしょう。だからこそ、このキリストという土台によって、恐れではなく、自分を愛して、助け、導いてくれる神を信頼し、励まされて日々歩んでいきましょう。(Y.O)
*1 マタイによる福音書5章45節
*2 ヨブ記には、ヨブは「そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった。」と神にも認められていたが(ヨブ記1章1・8節)、彼には過酷な試練(自然災害、略奪により家族・財産を一機に失う)が起こったことが記されている。
Apr. 15, 2020 1 John 3:19
「それによって、わたしたちが真理から出たものであることがわかる。そして、神のみまえに心を安んじていよう。」 第一ヨハネの手紙3章19節
人は、その人に信仰心があるなしに関わらず、どんな時、祈る気持ちになるでしょうか。特に、特定の神様を信じていない人にとっては、人間の力、能力、方策、技能でもってしても、どうしようもない時、最後にすることかもしれません。「祈るほかない」と。現在の状況ですと、肉眼で見えないウィルスの脅威に対して、どんなにマスクをして消毒しても、誰が感染しているかわからない為、どこで感染してしまうか見極めることができない、100%防御率がありません。そして、その治療薬、ワクチンもまだ開発されるには時間がかかります。
アメリカは、日本と比べてクリスチャンの数も多く、キリスト教的歴史背景、文化、慣習がある国ですが、それでも真剣に信じている人、教会に熱心に礼拝に行く人はそう多くはありません。しかし、政府による緊急事態宣言に伴う厳しい外出制限後、オンラインで礼拝をおこなっているある教会の統計によると、今までにない程の多くの礼拝配信へのアクセス数になっているとのことです1*。つまり、普段教会には、冠婚葬祭、イースターとクリスマス位しか行かないアメリカ人の多くが、オンラインで礼拝を聞き、牧師の話に耳を傾け、祈りに心を合わせていると察します。まさに、祈るしかない、という状態です。
一方、日本はこのような西欧文化ではなく、また神社やお寺が礼拝のオンライン配信することはないと思います。では日本人はどうしているのでしょうか?詳しくはわかりませんが、今までと異なる生活スタイルを構築するのに必死になり、自分たちで努力して、ストレスがかからないように過ごせる、巣ごもりの方法を模索しているかもしれません。
キリストを信じる者にとって、祈りとはまさに、「神のみ前に」出ることではないでしょうか。祈りが単なる、お願いごと、嘆願を叫ぶだけでなく、本質的には、祈りとは大いなる、畏敬の念を抱かずにいられない神のみ前に、安心して、自分をさらけ出すことが出来ることだと思います。祈りを通して神様の前に出ることは、特別の場所に行く必要がなく、人里離れたところに独りで籠らなくとも、日常生活の中で心の中できるます。自身がどこにいても、神様の御前にいるということに意識を集中すれた、周りのことを全て忘れて、あなた(私)と神だけのマンツーマンの世界になれます。そこには、自分が神様に祈る資格がなくても、ふさわしくなくても大丈夫、ありのままで神様の前に出られるのです。ありのままで出られる理由は、私と神様の間に、完全な仲介者が入って下さっているからです。その仲介者とは、神様が送って下さった、真理である御子、イエス・キリストです。私たちは「イエス・キリストの名によって」祈ります。イエス様が、「私の名によって祈りなさい」と弟子たちに言われたからです*2。
そうはいっても、日常生活中で、なかなか意識を集中できませんが、少しの時間でも、歩くとき、何か家事をしている時、出来るだけ心の中で神様に語り掛けるようにしています。すると、どんなに不安にさせるようなニュースが日々流れようとも、私は神様の前に、心を安んじていられ、神様への感謝の想いが賛美歌として、心の中で歌えるのが幸いです。Y.O
*1 アメリカの教会、Harvet、Greg Laurie牧師による、礼拝オンラインの統計。アメリカでロックダウンが施行された直後の日曜日に、オンラインによる出席者が250,000人以上、続く週は100万人以上のアクセスがあった。”Digital Worship May Create America’s Next Spiritual Awakening",bGreg Laurie* Blog , Apr. 14, 2020より。
*2「その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。」 ヨハネによる福音書16章23-24節
Mar. 24, 2020 Psalm 8:6
「あなたの民が、あなたによって喜びを得るため、われらを再び生かされないのですか。 」詩編8篇6節
冷汗がたれました。私がいつも使用しているUSBメモリーが突然、使えなくなったのです。今迄もPCがUSBメモリスティックを認識しないことはよくおこり、差し込みなおすと機能していたのでしたが、今回はUSBの中のファイルが文字化けし、何度差し込んでも認識しないのです。あせった私は、壊れたUSBをどう復元するか調べたり、別のPCに差し込んでみたりと、数時間にわたり悪戦苦闘。この数週間、様々な大切な書類を作成していましたが、バックアップを取らず、プリントアウトもしていなかったことを悔やみ、かなり絶望的になりました。ああ神様、助けてください。。。と一言祈りながら、何度もPCに差し込んでいると、突然認識。いまだ!とファイルを新しいUSBに急いでコピーしました。今後は、初心に戻りバックアップをまめにとることに。神様、ありがとうございます!
デジタルのファイルは技術とお金があれば復元できるかもしれませんが、一度壊れると元の状態に戻せない物はたくさんあります。人の体もケガや病気をすると、元の状態に戻るのに治療とリハビリをして、ある程度までは回復は可能です。しかし、なかなか完全に以前の状態にまで回復するのは困難です。では、壊れた心、傷ついた心はどうでしょうか。これは、身体や物を直すより難しいかもしれません。ちょっとしたことであれば、忘れてしまうことはあります。忘れるというのは、実は人の精神を正常に保つのにとても必要な機能であると言われています。もし生まれてからのすべての悲しみ、怒り、恐れを覚えていたとしたら、人の心はその記憶に耐えられないからでしょう。トラウマ、PTSDは、あまりにも衝撃的なことを経験し、忘れるという機能が働かないことによる後遺症ではないかと思います。
クリスチャン用語で、リバイバルという言葉があります。「日本のリバイバルの為に祈る」という時、キリストを信じていない人々が信仰を新たに持つことに使っている人もいるかもしれません。しかし、リバイバルとは本来、復元、再び命を戻すという意味で、眠った状態のクリスチャンが覚醒することを表し、聖霊の働きにより大きな神様の御業がなされることに使われるものです。リバイバルがその人に起こると、熱心に伝道する様になり、それによって周りの人々が信仰に導かれ、キリストを信じるということが起こります。ですから、信じていない人は元に戻されるというより、新しく生きる命を与えられる(新生する)ので、彼らに必要なのはリバイバルではなく、キリストの福音です。リバイバルは、休眠しているクリスチャンに信じた時のイキイキとした喜びが再び与えられる、キリストの為に生きようと立ち上がる状態とでもいえましょうか。つまり、信仰とは一度洗礼をうけたら終わりではなく、信じ続ける必要があります。この世に生きている限り、信じ続けること、信仰をいつも熱く持ちつづけ、疑いもなく、神様のために生きようとするのは努力を必要とします。努力とは何かを行いをするという意味ではなく、イエス・キリストに繋がり続ける*1ことに努めるということです。
初代の教会では、「使徒の働き」(使徒言行録)での聖書の記録を読むと、いつも大勢の人々が一度の説教でキリストを信じるという、爆発的なムーブメントが起こっています。つまり、宣教をする信徒たちが、いつもリバイブされている、霊的に覚醒している状態を保ちつづけて、その結果、信徒たちが伝える福音の言葉を通して、多くの人がキリストを信じるようになります。人が神を信じるということは、理屈や説得でもなく、聖霊の働きによらなければ起こりません。なぜなら、この世の常識や科学で考えると、宣教のことばは愚かなことに聞こえるからです*2。しかし、目に見えない聖霊がその人の心に触れると、神様の前に悔い改める心が与えられ、罪が赦されたいと願い、そのためにキリストを救い主として信じることが可能となります。その結果、喜びが与えられ、霊的に新しく生まれた状態になり、生き方が180度変えられます。
もし、信じて洗礼を受けても、霊的に成長しておらず、未だ自分の為に生きている状態であれば、その方にはリバイバルが必要かもしれません。冒頭の聖書のみことばあるように、私たちが喜びを得るため、再び生かして下さる方が神様です。神様にリバイブ、回復できないものはありません。壊れてしまった心、希望のない人生を送る人の心、喜びのない辛い日々を送る人を神様は憐み、助けて下さる方だからこそ、この詩編の作者は、当時落ちるところまで落ちてしまったイスラエルの民の回復を神様に求めているのでしょう。人がもし、信仰の途上で悩んだリ、信仰上に停滞し、喜びもなく、ただ教会に行っている状態であれば、神様は必ずその人にもう一度、リバイバルを与えて下さると信じます。私も、停滞したことは何度もありましたが、そのたびに引き上げられてきました。これからも、必ず神様がみ言葉により、また様々な状況を通して私に与えられた霊を強めて下さることを信頼し、その意味で日本のリバイバルを祈り、そして多くのまだキリストをしらない人達が聖霊に触れられて、信仰に導かれるように祈りたいと思います。Y.O
*1「わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。 」ヨハネによる福音書15章4-5節
*2「この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。」コリント人への第一の手紙 1章21節
Mar. 18, 2020 Philippians 4:6-7
「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。 」 ピリピの信徒への手紙4章6-7節
私の通う教会では、毎週水曜日午前中に教会に集り、聖書を学んで共にお祈りをしてきました。しかし、今月はコロナウイルス対策で暫くお休みとなり、個々人が家で、牧師の作成したレジュメに基づき、聖書を読んで、互いの為に、また今の状況の為に祈ることになりました。このことを自分独りで家で行うと、顔と顔を合わせて交流の時を持てる恵みの有難みを感じ、どんなに貴重な時間であるのかと改めて思わされます。
国内外の教会は大勢集まる場所であるため、他の施設同様暫く閉鎖状態となり、ネットで礼拝の配信をしているところが多いようです。しかしネットができる環境にない人、そのような操作が困難な人々にとってはそれも利用できません。家で、一人もしくは家族と礼拝することになります。一方で、今回のことを通して、礼拝の基本的在り方が問われる時ではないかとも思います。結局、信仰とは自分と神様との間のことだからです。もちろん、信仰は本人が持ち続けるという側面と、他者と関わり、互いに愛し合うことを目指すことで信仰が成長させられるという面もあります。そうでないと独りよがりの信仰となってしまいますから、集まって、互いに仕え合うことは大切です。神様を礼拝することをまず信仰の基盤とし、他者との関係に愛が持たらされるよう、互いにキリストの教えに従うことを目指せればと願います。
しかし、基本は本人が神様に信頼を置いて神様に語り掛け(祈り)、心の中で平安な気持ちが与えられ、神様への感謝の思いが湧き、自ずと賛美の歌を口ずさむという、本人の心と思いによって礼拝がなされることだと思います。目に見えない神様との間のマンツーマン(God To Man?)の世界であっても、それを続けていくと、聖霊の働きにより神様の臨在を感じ、平和に満たされるかもしれません。いずれにしても、どこにいても、心を静め、神様と共に過ごす時間は必要です。
今、家に独りでいる時間が与えられ、年度末の季節的な多くのことを余裕を持ってすることができ、何よりも、いつもバタバタ忙しくしている自分が、神様と静かに向き合える時間がたくさん与えられ、本当に感謝しています。特に、4月から新しい生活スタイルが始まり、今迄とはかなり変化があることを考えると、体力的にも精神的にもそれをこなしていけるだろうかという懸念もあり、その生活リズムに慣れるまで時間がかかることでしょう。しかし、イザヤ書に「あなたは全き平安をもって こころざしの堅固なものを守られる。 彼はあなたに信頼しているからである。 」*とあるように、神様が与えて下さる全き平安により心が守られるとあるので、先のことを思い煩わずに、神様より与えられた志に沿って前進していきたいと励まされました。Y.O
*イザヤ書26章3節
Mar. 8, 2020 Romans 5:1-5
「信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」 ローマ信徒への手紙5章1-5節
困難の中で体験する神様の慰めと愛
母がこの4月で米寿(88歳)となる為、親族でお祝いの会を開催する予定でした。しかし、ちょうどコロナウイルス感染対策で延期せざるを得ず、急遽3月初頭に内輪で一足早くお祝いをしました。折しも、天国にいる父の8周忌と重なりました。天国の父も、一緒に祝ってくれていたことでしょう。母は一人で暮らしていますが、健康に恵まれ、教会の礼拝に喜んで通い、日々意欲的に過ごせるという幸いを、神様に心から感謝しています。
初春は、私にとって何か突発的な事が起こる季節です。2011年は東北大震災が起こり、2012年は元気だった父が突然眠りながら亡くなりました。今年は、感染症の世界的アウトブレイクの恐れが日々報道され、多くの日常的に行われていたことが一変しています。この数週間で、多くの予定がキャンセル、延期されました。企業にとっては経済的損失は甚大です。また、多くのイベントや行事を時間をかけて準備してきた人々にとって、大きな失望感が払拭出来ないことでしょう。ご家族をこのウイルスの故に失った方々の上に、慰めが与えられますよう、早期に治療が開発され収束するよう、日々お祈りします。
一方で、この非日常へと変えられた状況をどう生かすか、という工夫と気の持ちようが問われる時ではないでしょうか。マイナスのことをマイナスにばかりとらえると、心に良くないだけでなく、他のことに対しても悲観的になります。マイナスのことの中に、プラスのことを見出すと前向きになれ、今の暗い状況さえ楽しむことができ、そして神様への感謝に繋がります。私の母はいつも前向きです。戦後、母は10代後半の時に父を亡くし、5人の兄弟と母を父親代わりになって働いて養い、結婚後も、夫のフィラデルフィア日本人教会への招聘で渡米するまでの72歳まで働き続け、傍からみると苦労の連続だったと思います。母は呟くこともなく、いつもニコニコ笑顔で、「大丈夫、主様にお任せすれば、なんとかなるわよ!」と言っていました。そして、88歳を迎えるにあたって人生を振り返り、「私は特に大変だったと感じないのよ。」とさらりと言っていました。この母の強さ、前向きな生き方は、若い頃からキリストを信じる信仰に支えられていたからでしょう。
冒頭のみ言葉にあるように、恵によって信仰を与えられた人は、患難さえも喜べるとあります。その患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出し、この希望は失望に終わることがないと。なぜなら、神様の愛が私たちの心に注がれるから、神様の力で乗り越えられ、損失と思えることも益に変えられていくからです。このことのベースには、私たちは主イエス様の十字架のおかげで、信仰によって義と認められ、神様との平和を持てるという祝福があると思います(ロマ5:1)。私たちは神様の前に、到底義(正しい)と認められるような者ではありません。しかし、イエス様の十字架の贖いを信じるだけで、義の衣が着せられ、それを通して正しいと見なして頂けると言う恵を与えられています。これは、なんという大きな恵でしょうか。私はそんな素晴らしい神様との関係が与えられるに相応しくない、罪深い者であるのにと、この恵を思うだけで感謝と喜びがいつも湧いてきます。この救いの喜びは環境や状況に左右されずに持つ事ができます。パウロがこの「喜び」を表現するのに、「誇りにする」(新共同訳】とも訳せる言葉を用いて、なんて素晴らしいのだろうと、大きな喜びを表現しているのだと思います。この喜びに支えられ、困難な状況を乗り越えられるように、忍耐する力が与えられ、そして練達(練られた品性)へと成長させられ、主にあって確かな希望を持てるという、パウロは自分の経験から得たことを記し、私たちはそのみ言葉に今も励まされています。
世の中的には、困難な状況はマイナスな事として捉え、喜ぶどころか、苦しみ、悲しみという悲観的な思いになるのが普通です。信仰がなくとも、強い精神力を持つ人はいるでしょう。そういう人は、自分の意志の力で乗り越えようと前向きに頑張りますが、皆がそのような強さを持っているわけではありません。自分の意志、自分の力で乗り越えようとする人は、ある意味自分を信じ、頑張れた自分を誇ることでしょう。しかし、私たちは自分ではなく、主を誇ります。この世で弱い者は、ダメなものと見られても、私たちはその弱さをも誇れます。なぜならその弱さの中でこそ十分にキリストの力が発揮されるからです(2コリ12:9)。神様の支配の中にあっては、損とみなされることも益へと変えられ、また悲しみの中にあっても、この救いの喜びが私たちを支え前向きな姿勢へと導いてくれます。むしろ、私たちは苦難にあう時にこそ、み言葉の約束を信じて祈り求め、委ねて、その結果、不思議に乗り越えられたという経験を通して、神様の約束の確証を与えられます。神様は私たちの苦しみに寄り添ってくださる方です。全てが順調に行く時よりも、苦しみの中で、より神様の慰めと愛を体験し、神様との関係を一段と深めることができたと、私も小さな苦しみの経験を通して思い返すことができます。
私はどちらかというと悲観的で、心配性の性格ですし、このようなみ言葉や恵の体験をすぐに忘れてしまうような、弱い者です。ですから、日々み言葉に触れ、気持ちを新たにされて、母を含む信仰の先輩たちに倣いつつ、神様に祈り求め、すべて委ねて歩んでいきたいと思います。Y.O
Feb. 27, 2020
「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」マルコによる福音書10章45節
命。「これをイメージして絵を描いて下さい」と言われましたら、どのような絵が頭に浮かぶでしょうか。ハート♡、赤ちゃん、植物の芽。。。 命のイメージは個々に異なるでしょう。大きな災害や戦争を経験した小さい子に命のイメージを描かせると、真っ黒に紙を塗りつぶした絵を描くことがあると聞きました。命という概念は、それ自体目に見えないですし、言葉で表現しようとしても漠然としてますが、よく使われる言葉です。
一方、命を守るために、私たちは出来るだけのことを、いや、出来ないことでも必死にしようとします。コロナウイルスのように、目に見えない脅威から、自分の身を守ろうと私たちは必死になります。感染したら死に至るかもしれないという、恐れがあるからです。このように、命は「生きている」ことに関連し、この肉体が死ぬと命はなくなると一般的には考えられています。では、命はどこから始まりどこで終わるものなのでしょうか。このことをよくわからないまま、生きている人の方が多いと思います。何事でもはっきり見えて、こうなると予め把握出来、それを信じられたら、多くの恐れは軽減されるかもしれません。
イエス・キリストは「命」という言葉をよく使われました。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」*1ここでは、死んだら終わり、生きてなんぼという意味ではありません。なぜならイエス様は別の箇所で、弟子たちに「からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。」*2と言われ、体しか殺せない「人」を恐れるな、むしろ体も魂も滅ぼすこともできる、神を恐れなさいと言われているからです。つまり、お金や名誉、権力、また死んだらなくなる命に執着することより、魂に関連する「命」を与える神様を求めよと示しています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得る為である。」*3ここでの「世」とは人間のことを指し、神様は独り子イエスの命を犠牲にして、世(人間)を救い、永遠の「命」を与えるために、イエス・キリストが十字架で死に、3日後に復活するという計画を実行されました。
一度生物学的に死んだら、どんなにお金を支払っても生き返らせることできません。しかし、神様には人の命を買い戻すことができる、ということが先ほどのみ言葉(マタイ16章26節)の背後にあります。(なお、単に「買う」と「買い戻す:贖い」とは異なります*4。)冒頭の箇所にあるように、イエス・キリストは、全ての人の、罪のゆえに霊的に失われていた命を買い戻すために、十字架でご自分の命を代価として捧げられました。このキリストによる贖い、救いを信じる人に、永遠の命が与えられます。
このキリストの復活は、キリストご自身が復活されたことで終わらず、キリストを信じる者が後に霊的な体が与えられ復活することを意味すると、使徒パウロは説明しています*5。イエス・キリストを信じている限り、この命は永遠に続くという約束を信じて、日々様々な恐れや思い煩いの要素となるものに心乱されず、今日という日を、神様に感謝して過ごしたいと願います。私の命のイメージは、「神と共にある永遠」です。(Y.O)
*1 マタイによる福音書16章26節
*2 マタイによる福音書10章28節
*3 ヨハネによる福音書3章16節
*4 買い戻すとは、贖いともいい、本来は、奴隷の状態にあった人をお金を払って自由にすることを言う。聖書は、人は皆、罪の奴隷であったので、そのような状態から解放するため、神は代価(キリストの命)を払って買い戻し、自由にして下さったと記している。 第一コリント6章20節、エペソ1章7節
*5 第一コリント人へ手紙15章
Feb. 21, 2020 Isaiah 49:15
「女がその乳のみ子を忘れて、その腹の子を、あわれまないようなことがあろうか。たとい彼らが忘れるようなことがあっても、わたしは、あなたを忘れることはない。 」イザヤ書49章15節
以前の職場で、私の同僚に嫌な態度を取る男性に、そのことに対して私は直接その男性と話合いをした時、私は「普通、そういうことしないですよね?」と言うと、「あんたの言う、普通ってなんだよ?俺は普通じゃないのか?」と切り返されたことがあります。私たちは無意識に「”普通は”~ですよね」と言います。確かにその男性が言うように、普通とは何であろうかと考えさせられます。相手にこの言葉を言う時、その言う人間の”普通”と相手側との”普通”が必ずしも一致するとは限らず、そして、言われた方は「自分は普通ではないのか?」と激怒、もしくは気分を悪くするでしょう。
もう一つの普通。女性であれば、誰でも母性が持てると思われています。しかし、そうでない女性もいます。子供を産んでも、その子供を愛せない人、母性が持てない、子どもを置き去りにしていまう人もいます。そのような母親を持つ子供達は心に傷が残り、大人になって自身の人間関係で影響がでてきます。幼少時に母親から虐待を受けた女性が、自分が受けたことのない愛情をどのように自分の子どもに注いでいいのかわからず、子育てに悩みます。彼女たちは、精神的に追い詰められていたり、問題を抱えて苦しんでいても、誰にも相談できずにいるかもしれません。そして、周りの人のちょっとした一言「普通は。。」で、自分がそうでないことにさらにプレッシャーを感じ、落ち込むことでしょう。
あるアメリカ人の牧師が、最初、自分が日曜の礼拝でメッセージを語っている人々がごく普通の家族を持つ人々だと思っていたのですが、実はそうではなかったことに気付いたと言っていました。この牧師にとっての”普通”の家族とは、例えば両親が揃っていて、彼らの子供がいる、まあまあの車に乗り、一戸建てに住むような世帯。しかし、実際話しを聞いてみると、例えば親は離婚し、片親と住む子どもたちや、親が再婚同士で、それぞれが前の結婚での連れ子と共に暮らす家族、離婚して独りでタワーマンションに住み、 高級車に乗っている人等だったそうです。彼らの心は、傷ついています。問題をたくさん抱えて、多くのことに失望し、心の中は空虚な思いで、満たされない。だから、神様を求めて、教会に来るのでしょう。
神様は、「普通」という枠組みで人々をわけ隔てしない方です。聖書のイザヤ書という書簡に、女性が自分の産んだ子を忘れることはあるかもしれないが、私(神様)は決してあなたを忘れることはないと、記されています。神様は、母親であっても子供を愛せない女性たちもいるということをすでにご存知です。そして、普通という基準に達せないことを責めるのではなく、冒頭の聖句にあるように「私はあなたを忘れないし、見捨てないよ」と言われています。これは、もともとはイスラエルの民に神様が語られた言葉ですが、現代に生きる私たちにも適応される神様の約束です。
多くの人は様々なことを普通に、当たり前にしたいと思っても、出来ない弱さを持っています。他人からは、そのことを責められるかもしれません。差別や仲間外れにされ、見下されるかもしれません。しかし、神様は決してすべての人を見放さず、ご自身の愛で包み、傷ついた心を癒そうとされ、回復される方です。だから、教会には普通ではない人々がやってきます。私もしかり。しかし、教会にきて、聖書の言葉を聞くことから始め、信仰が与えられると、回復が与えられます。回復された人同士で、不完全であっても互いに愛し合おうとします。そして、教会でも人間関係でうまくいかないことがあっても、神様が助けて下さり、心が変えられていきます。赦す心も与えられます。私には決して裏切ることのない、確かな神様の愛に包まれているという信仰が与えられるので、失望するようなことがあっても、落ち込んだままではいません。また立ち上がる力が与えられます。なんと、感謝なことでしょう。だからこそ、自分が神様の愛を受けるだけでなく、他者と接する時に話す言葉に、よく注意を払えるよう、神様に助けていただく必要があります。他者のことをおもいやるイエス様の愛を「注いで下さい」と祈ろうと思います。Y.O
Feb. 13, 2020 Romans 11:11-12
「彼らがつまずいたのは、倒れるためであったのか」。断じてそうではない。かえって、彼らの罪過によって、救が異邦人に及び、それによってイスラエルを奮起させるためである。しかし、もし、彼らの罪過が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となったとすれば、まして彼らが全部救われたなら、どんなにかすばらしいことであろう。 」ローマ人への手紙11章11-12節
ホロコーストを知らない人はいないと思いますが、この恐ろしいナチスによるユダヤ人大量虐殺の歴史的背景を深く知らない方もおられると思います。先日、私はある会に参加し*1、ユダヤ人とキリスト教国の歴史をまざまざと映像で見る機会があり、自分の無知さと、この悲しい現実にショックを受けました。ユダヤ人はA.D.一世紀に現、パレスチナ地域にあった国を滅ぼされ、全世界に離散して街を作り住んでいたのですが、キリスト教がローマ帝国に国教として認められて以来、キリスト教は彼らを徹底的に迫害し続け、根拠のない反ユダヤ主義思想を人々に植え付けてきたという歴史が1700年間に及ぶという背景があります。そして、ホロコーストが起こったときも、全世界は見て見ぬふりをしました。彼らは全ての人々から見捨てられたと言っていました。
イスラエル国は、シオニズム運動(ユダヤ人国家建設運動)を経て1948年5月14日に建国 、以後それを認めない周辺のアラブ諸国との戦争、いわゆるパレスチナ問題が続いています。西欧諸国にも、いまだ反ユダヤ主義思想が残っているという恐ろしい現実があります。このような辛い歴史を歩んできたユダヤ人が、幾度もの民族的絶滅と迫害の患難にあいつつも、希望を捨てずに生き続けてこられたのは、彼らの神(ユダヤ教)を信じる信仰と民族のアイデンティティ保持によります。従って他国の人と交流をせず、自分たちだけで結束し、勤勉に働き財をなし、様々な社会の分野で活躍しているのも理解できます。
このような歴史から、他民族がユダヤ人に寄り添うというのは難しいことです。しかし、いくつかの民間団体はなんとか和解の架け橋になろう活動を続け、特にイスラエルの貧しい人々(貧困率が高い)の支援をしているNPOもあります*2。また、ユダヤ人は日本人に対してはとても好意的に思ってくれています。なぜなら、ホロコーストの際、リトアニアの日本領事館領事に赴任していた杉原千畝氏が、政府の命令を守らず多くのユダヤ人に日本経由で亡命するビザを発給し、手助けしたからです 。当時7歳だったユダヤ人の女性は、2016年のイスラエル建国記念式典(MOL)*3に参加した日本人のクリスチャン・ロックグループに、「私は杉原千畝によって生き残れたのよ!」と熱く語りかけたそうです。
日本には西洋諸国のようにユダヤ人街もないので、彼らと接する機会も少ないしあまり情報も入らないでしょう。ユダヤ人は、イエスがキリストだと信じず、いまだに神が送ると約束しているメシヤ(救い主)を待っています。キリスト教による迫害の歴史のゆえに、彼らにはクリスチャンと大きな溝がありますが、それでもメシアニック・ジュ―と称する(クリスチャンとは決して称しません)、イエスをキリストと信じるユダヤ人信徒も少数派ですがいます。そして、旧約聖書の預言によると、ユダヤ人はメシアの再臨(イエス・キリストが再びこの世に来ること)の前に「恵みと哀願の霊」を注がれて、イエスがメシアであると信じる時が来ると記されています。*4
ユダヤ人であったキリストの使徒パウロは、神様の救いに関してユダヤ人と異邦人との関係について、選民であるユダヤ人がつまずいたおかげで、キリストの救いが今まで全く縁のない他民族(異邦人)にもたらせれたという、不思議な神様の計画があるのだと、ローマ人への手紙にて記しています。もともと、神様はアブラハムを選んでイスラエル民族を起こし、以後イスラエルの民をずっと愛されてきました。かれらが他の神を信じた時期もあったり、メシヤを受け入れなくても、彼らを決して見捨てず、いつかメシヤを信じる時がくるという計画を持っておられます。ですから、下記のみことばにあるように、民族に関わらず、誰であっても、ただキリストを信じれば救われるという恵にあずかることができたのは、ユダヤ人がイエスをキリストと認めなかったおかげなのです。
よって私たち異邦人は、与えられた信仰を誇ることも出来ないし、ユダヤ人を見下すこともできない、ましてやユダヤ人を迫害するというのは、クリスチャンであれば本来あり得ないわけです。しかし、私も他人ごとではありません。無知のゆえにユダヤ人に対する偏見を受け入れ、彼らの祝福のため、救いの為に祈らなかった罪、聖書に記される神様の大きな計画を考慮せず、世界のメディアにより放映されるイスラエルに批判的なニュースをそのまま受け止めていた罪を、今回悔い改めました。ユダヤ人がイエス様を信じた時の喜びは、私たちの想像をはるかに越えますが、そのために祈ります。そして99%の日本人もキリストの福音を知りません。私は、ユダヤ人のため、そして日本人の救いのために忘れずに祈ろうと、今回強く思うきっかけが与えられたことは、本当に感謝でした。(Y.O)
*1 2020年2月11日東京オープンハイナイト @淀橋教会 イスラエル(ユダヤ人)のため、また4月に行われるイスラエルの建国式典(Int”l Mrach of the living, MOL)に参加して、ヘブル語で賛美を歌う日本人のゴスペルクワイアーの方々のために祈る祈祷会。 参照リンク https://www.christiantoday.co.jp/articles/27704/20200212/blessing-zion-2020.htm
*2 Biridges for Peace Japan (B.F.P. Japan) クリスチャンがユダヤ人の方々に愛と尊敬を実践的な行動を通して伝え続ける団体。イスラエルに帰還するユダヤ人新移民や子供たちを継続して生活品、食料品を支援するプログラム、家屋の修繕、ホロコースト生存者支援など16の支援活動をしているNPO。
*3 MOL とはInt”l Mrach of the livingの略で、世界のユダヤ人の若者が参加するツアーで、ポーランドのアウシュビッツの死の行進がなされたところを「命の行進」として歩き、続いてイスラエルへ飛び、エルサレムの嘆きの壁まで歩き、イスラエル建国式典に参加するという催し。2016年に日本のクリスチャン・ロックバンド、ナイトdeライトがこの式典に異邦人として初めて参加した。
*4 ゼカリヤ書12章1-14節 イスラエルの民がどのようにしてメシアを受容し、回復されるかが預言されている。 (引用:口語訳聖書)
Feb. 10, 2020 Ephesians 4:1-3
「さて、主にある囚人であるわたしは、あなたがたに勧める。あなたがたが召されたその召しにふさわしく歩き、 できる限り謙虚で、かつ柔和であり、寛容を示し、愛をもって互に忍びあい、 平和のきずなで結ばれて、聖霊による一致を守り続けるように努めなさい。」 エペソ人への手紙4章1-3節
映画「タイタニック」で日本でも広く知られるようになった、1912年に北大西洋で氷山に追突し沈没したタイタニック号の悲劇。多くの人々が命を失いましたが、生き残れた人々からその時の生死の境目の実話が語り継がれていると思います。ある人達は我さきにと救命ボートに乗ったでしょうし、ある人々は他者を助ける為に、限られた数しかないライフジャケットを譲って救命ボートに乗せたり、一人分くらいしか支えられない海に浮かぶ舟のがれきに他者をすがりつかせて、自身は氷の海の中沈んで行った人がいたことでしょう。とっさの非常時に、他者が生きれるように自分の命を犠牲にすることが、果たして自分は出来るのかと思うと、出来ないと正直に思います。逆に、自分は助けられる側になってしまうような、弱い、自己中心的な者であることを認めます。
先日、そのタイタニック号にまつわる、ある方の話を知って心を打たれました。ジョン・ハーパー氏(John Harper、(1872 – 1912)は、スコットランド人の牧師で、このタイタニック号の沈没で亡くなった人の一人です。彼は自分を犠牲にして救助活動をしただけでなく、もっと重要なことを同時にしていたのです。すでに妻を亡くしていましたが、船が沈没し始めると、6歳の娘と自分の妹をライフボートに乗せた後、他者を助ける行為を続けながら、「あなたは救われていますか? そうでなければ、今、キリストを信じなさい。そうすれば救われます」と、聖書のことば(使徒の働き16:31)を短く伝えながら氷の海に飛び込んで他者を救助し、そして最後に、若い男性にこの言葉を伝えながら、がれきを彼によりかからせて、自らは氷の海の中に沈んで行ったそうです。この若い男性は助かった後に、自分が最後にハーパー牧師によってキリストを宣べ伝えられた人だったと知り、キリストを信じたそうです。ハーパー牧師は、肉体の命の救助だけでなく、魂の救いを最後まで人々に伝えた勇敢な方でした。
聖書を読んでいると、必ずしも彼のように特別に活躍した人々のストーリばかりを載せていないことが、励ましです。むしろ、かれらが大きなことに用いられる前は、普通の人、普通に社会で働いている人も多いのです。ハーパー牧師も専任牧師になる前は、工場で働きながら生計を支えつつ、宣教活動をしていたそうです。私がアメリカの牧師たちから良く聞いた言葉「神はあなたの能力を求めているのではなく、あなたが用いられる準備があるかを求めている」(God is not looking for ability but availability. )を思い出します。特別な能力も技能もなくとも、雄弁でなくとも、ただ自分自身を神様の福音の働きのために「用いて下さい」と差し出せば、その能力も機会も神様が与えて、豊かに用いられると。実際、そう話している大きな教会の牧師たちは、自分たちも普通の人だったが、自分が神様に召されたと信じ、一歩踏み出すと、自身を通して神様の働きが広がっていったという経験から語りますので、リアリティーがあります。
誰もがハーパー牧師やマザー・テレサのようなヒーローにはなれません。一方で、神様が計画されている働きに一人一人が呼ばれて(召されて)いると私は信じます。ですから、私たちのなすべきことは、自分が仕えたいという心を神様に差し出すこと、もし何か特定の人々のために手伝いたいという思いがあれ、それも具体的な導きを祈りつつ、とりあえず小さいことから信仰で一歩踏み出し、始めてみることではないでしょうか。その自発的な人間側の思い、志をみて、神様は一歩一歩導き、様々な神様のための働きのドアを開いて下さり、必要な能力、知識や機会をも与えて下さる方です。そこには、一般社会でなされる他者との比較をしなくてよいので、うらやましいと思ったり、ねたみや、自己を卑下もしくは、高ぶりの思いは不要です。(それでも、そのような思いを持つ誘惑にかられますが)神様が一人一人にカスタマイズされた計画を持って下さり、何もかも備えて下さるので、私がすることは感謝と賛美を持って、喜んで召されたことをイエス様に従って、パウロが冒頭の箇所で勧めているように、お互い別の働きをしていると尊重し合い、キリストにあって一致して行ければと切に願い求めます。Y.O
(引用:口語訳聖書)
Feb. 6, 2020 2 Corinthians 1:3-4
「ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神、あわれみ深き父、慰めに満ちたる神。 神は、いかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さり、また、わたしたち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにして下さるのである」第2コリント人への手紙1章3-4節
2019年12月4日、アフガニスタンで中村哲医師が銃撃を受けて亡くなられた、というショッキングなニュースが流れたことはまだ記憶に新しいと思います。アフガニスタンでも、日本でも、多くの人々が「何故?」と悲しみの声を挙げ、彼の死を悼まれたでしょう。中村医師はクリスチャンで、1983年に日本キリスト教海外医療協力会(JOCS)を通して最初はパキスタンのペシャワール・ミッション病院に派遣され、その後パキスタン側のアフガン難民の診療を開始し、以後、アフガニスタンでも医療だけにとどまらず、水源確保事業等、現地の人々の生活改善の為に長年活躍されてきたそうです。ペシャワール会は彼とその仲間たちの活動を日本で支えてきた団体で、私たちの教会に送られてきていたその会報を通して、彼の事業を改めて知り、本当に心が痛みました。
もう一つの忘れらない事件は、2014年11月上旬、イスラム過激派組織イスラム国にシリアで拘束され、2015年1月30日に殺害された後藤健二氏のことです。私は個人的に彼を知りませんが、その動画がインターネットで流されたというニュースは、同胞としてあまりに衝撃的で、怒りと悲しみで涙が止まりませんでした。後藤氏はアフリカや中東などの紛争地帯の取材に携わるフリージャーナリストで、戦争と貧困から孤児を救いたいという思いで報道を続け、彼もいつしかキリストを信じるようになり、取材の際には小さな聖書を持ち歩いていたそうでうす。 先日、ある方が後藤氏のことでこんな証しをされました。「自分は晩年になってクリスチャンとなり洗礼を受けたが、暫く迷いがあった。ある時、ジャーナリストの後藤さんのニュースを見て、神様、なんとか彼を助けて下さいと思ったが、彼を助けるために自分が身代わりになってもいいとまでは、どうしても思えなかった。私には出来ない。その時、ふっと思った。ああ、イエス・キリストは私の身代わりに自分の命を捧げて十字架に架かってくれた。そこまでして自分を救おうとしてくれたのだと。後藤氏のことより、はっきりキリストを信じる確信を得た。」
ある人は、神がいるのなら、どうしてこのような犠牲があるのか、助けが与えられないのか?という疑問を投げかけます。聖書を読んでいても、キリスト教を信じるがゆえに拘束され、信徒たちはその人が助けられるよう熱心に神様に祈りましたが、ある人は殉教し、ある人は神様の奇跡的方法で牢獄から助けられます。何故ある人は助けられ、ある人は殺されてしまうのか、このことは神様のみが知ることです。もちろん、その遺族の悲しみは計り知れません。そして、他人がその遺族の方に対して「天国でいつか会えるから。この死には意味があるはず」と言ったとしても、慰めにはならないと思います。確かにクリスチャンには希望があります。この世の生だけではなく、この体が滅びても、霊魂は神様のもと、天国へと導かれ、そして天国で永遠に生きる新しい、今迄とは異なるからだが与えられると聖書に約束が記されているからです。しかし、遺族や故人を愛する人々が、大切な人の死をそのように受けとめられるようなれるとしても、それには時間がかかるでしょう。
冒頭の彼らの様に生きている間多くの働きをなし、人々を助けてきた方々が犠牲になることは受け入れ難いことかもしれません。一方で、何か業績を残したわけでもなく、普通の人の死であっても、幼子のように生きた時間が短くとも、同様なのです。しかし、神様はその方々の死を通しても、残された人々に様々な影響を与え続け、意味あるものとして下さる方です。また、神様の慰めを受けて悲しみを乗り越えられた人は、その経験を通して、たとえ悲しみ苦しみの状況が同じでなくとも、今悲しみにある人に寄り添って励ますことが出来るという、プラスの連鎖が生まれます。多くの試練を経験し、キリストの福音を世界に宣べ伝えた使徒パウロも「わたしたち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるように(神が)して下さる」:()は筆者追記と記しているからです。私たちは何か言葉を言うより、悲しみに寄り添い、その人の為に神様からの慰めと励ましが誰かを通して伝わるように、そしてキリストにある天国での希望を信じて受け取れるように祈りたいと思います。 Y.O
(引用:口語訳聖書)
Jan. 31, 2020 2 Corinthians 4:7
「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器の中に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。」2コリ4:7
登り窯とはNHKの連続テレビ小説スカーレットの信楽焼にも登場する、陶芸用の窯のことですが、16世紀後半に中国・朝鮮を経て日本で導入され、全国で普及したそうです。登り窯は傾斜の地に複数の焼成室が繋げて作られ、上から見ると房が繋がった様な形をしています。私達夫婦が4月から住む益子の町は陶器の町で、以前その登り窯を見に行ったことがあります。登り窯での焼き味は、陶芸を志す人ならば一度はその窯で焚いてみたいと思うそうです。残念ながら、近年は噴煙対策の条例により、登り窯は減少傾向にあり、以前登り窯を持っていたけれども、3.11の震災で壊れ、復旧費用が高額で再建を断念してしまったという話を、益子在住の知人から聞きました。
一方、2020年は益子焼を広めた陶芸家の濱田庄司氏が、英国の陶芸家の友人と共に、西欧で初めて登り窯をセント・アイビスという英国の町に作って100年目の年とのことで、益子の町でも様々な記念行事が開催されるそうです。その際、私も簡単な陶器に挑戦してみようと、とても楽しみでもあります。
聖書で、預言者イザヤやエレミヤを通して、神様はご自分と人間との関係を陶工と陶器(粘土)にたとえられている箇所が記されています。エレミヤが神様により、陶工が制作中の所へ行けと示され、陶器が作られる工程を見た後、次の言葉を神様から言われます。「イスラエルの家よ、この陶工がしたように、わたしもお前たちに対してなしえないと言うのか、と主は言われる。見よ、粘土が陶工の手の中にあるように、イスラエルの家よ、お前たちはわたしの手の中にある。」(エレ18:6) 火は粘土を陶器に変えます。神様がエレミヤに陶工の家に行くように命じたのは、神様がイスラエルの民に対して造り直し、かつ、火を通して完成させることを伝えるためだったのでしょう。
「しかし、主よ、あなたは我らの父。わたしたちは粘土、あなたは陶工 わたしたちは皆、あなたの御手の御業。」 (イザヤ64:7)陶工である神様が、私達の生まれる前から一人一人の人生に「こんな器に作ろう」との計画を持たれ、粘土を練るところから器として完成し、そして用いられるまでの全ての工程が神様の御手の中にあります。陶工により形造られたそれぞれの器が、最後の仕上げとして窯で焼かれるように、私たちの人生も火を通ることが必要なのでしょう。一つ一つの陶器が違うように、私達人間は神様の手で、愛を持って造られたこの世にたった一人しかいない存在。従って、人生に様々なことがあっても、神様を信じて生きていけば、私達は神様の働きのための器として用いられ、万事が益となるように共に働く(ローマ 8:28)という約束が、自分の人生に実現されるとは、なんと幸いなことでしょうか。
一方で、焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器を造る権限があるように、神様は御心のままに私たちを器として用いられること(ロマ9:19-21)をパウロが述べています。神様は造り主であり、私たちは造られた器に過ぎないものだと謙遜になり、自分の人生の上に神様の主権を認める必要があると思います。神様を信じていると言いながら自分を捨てることができず、キリストに従うとの思いがなければ、「何をしているのか あなたの作ったものに取ってがない」と粘土が造り主と言い争ってしまうようなおかしな状況になりかねません(イザヤ45:9)。しかし、キリストの贖いを信じて、その大きな犠牲に示される神様の愛を本当に受け取り、信じているならば、自ずと神様の御手の中にあることを感謝しつつ、平安の心で今の自分とその状況を受け止めることが出来るのではないでしょうか。自分は土の器にすぎないけれど、造って下さったのは神様であり、冒頭のみ言葉にあるように、その器の中に神様の光が世に照らされ、神様の計り知れない力が自分を通して現わされる、そしてそれは決して自分の力ではないことが分かると、「自分主体」という思いが砕かれて、神様の前に低くさせられると思います。
生活の中で様々なことが起こり、火をくぐる様な試練があったとしても、それは主と同じ姿に造りかえられていく(2コリ3:18)ための火として必要なことかもしれないと忍耐し、神様の守りに支えられて乗り越えていけるという希望を与えられ行きたいと願います。神様の御手の中にあるという安心により「神様に全てお委ねすれば大丈夫」と心が強められることは、本当に感謝です。この恵を受けて、み言葉を信じ、神様のご計画にある器として、欠けが多いものですが従っていきたいと励まされます。(新共同訳)Y.O
Jan. 19, 2020 1 John 5:3
先日、幼稚園の行事に参加していたとき、園の先生が, おしゃべりをしている園児達に注意している様子が目にとまりました。「お話しを聞くときは、おしゃべりをしない、というお約束をしたよね。今は静かにしましょう!」先生たちは、園児たちと園生活の中で様々な「お約束」をしているようです。このように集団生活の中で幼い頃から、「約束を守ること」を教えられ、身につけていくことは、社会生活の基本となることなので、とても重要だと思いました。社会とは様々な契約から成り立ち、人々は互に法律の順守がなされるだろうという信頼関係が前提となり、法律を破れば罰則が科せられます。法律が伴わない、個人的な約束を取り交わしたとしても、それをお互い守ることが期待され、どちらかが破れば、両者の関係にひびが入ります。
聖書の神様は人と約束をする方です。しかし、最初に、人間を創造された時からこのかた、人間はいつも約束を守れず、その結果、人は生まれながらにして神様から断絶してしまっています。しかし、それでも神様はなんとか人との関わりを続けるために、その後様々な約束、戒めを預言者等を通して、まずはユダヤ民族に与えました。たとえば、たくさんある中で一番大事な戒めは「神を愛しなさい」*とされています。神の与えた戒めを守れば神は人を祝福される、しかし、守れなければ神の守りが伴わず、神の怒りをうけ、人は自分のしたことに対する責任をとらなければならず、自分が蒔いた種を痛い思いをして刈り取らなければなりません。神様は人間が平和に互いに尊重し合って生きれる様に、戒めを与え、それを守るようにと言われてきましたが、その約束がなかなか果たせないがゆえ、人間の悲しい戦争の歴史、互に傷つけあう社会が繰り返されてきていると言えるでしょう。
神様が与えた約束を守れない人間の救済措置として、人となってこの世に来てくださったのが、神の子であるイエス・キリストです。人が神様との約束を守れなくても、そのペナルティを人が支払うのではなく、代わりにすべてイエス様が十字架上で払う、罰を負うことにして、その結果、私達が犯した罪に対する刑罰はあったのにそれが帳消しにされ、私達人間はキリストのおかげで神様に赦され、新しい命が与えられるという、恵の約束、それがゴスペル:福音(良いしらせ)です。
「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」 (ヨハネ15:13) ここで「人」とはイエス様を指します、イエス様は私たちを友とみなして、友のためにご自分の命を捨ててくださったのです。そこまで私達を愛して下さっている。この大きな愛の約束は、ただこの救いを信じれば成立するのです。
神を愛し、人を自分を愛するように愛しなさいという神様の戒めは、たくさんある戒めの中で最も大切で、他の全ての戒めはこれらにかかっているとイエス様は言われました。要は神様の戒めは愛で、見えない神を愛するというのは具体的にその戒めを守ることなのです。そしてキリストを信じれば、キリストによって示された愛によって私達の内側が変えられていき、私たちも神と人を愛せるように、聖霊の働きによって徐々に変えられていくという希望も聖書に記されています。だから、下記の聖書のことばのように、自分の力で守れなくて、ああ無理だと!その戒めを守ることが重荷とならないのです。すべてのことが恵として神様に用意され、私達が約束を守れるように助けて下さることを、日々感謝しつつ、賛美を捧げ、互いの平和のために祈っていきたいと思わされました。Y.O
「神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。そして、その戒めはむずかしいものではない。 」第一ヨハネの手紙5章3節(口語訳聖書)
*「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」。イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。 マタイによる福音書22章36-40節
Jan. 5, 2020 Philippians 4:8
「最後に、兄弟たちよ。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて愛すべきこと、すべてほまれあること、また徳といわれるもの、称賛に値するものがあれば、それらのものを心にとめなさい。」ピリピ人への手紙4章8節
皆さんは、朝起きてから、様々な活動をしながら、何か自然と頭に思い浮かんでしまうことはありますか?私の場合、将来はこうなれば良いなあと、実現可能かどうかは神様の計画次第ですが、色々な夢や希望を空想したりします。一方、洗濯物を干しながら、あの時はこう相手に言えばよかった、ああしないでこうすればよかった。。。と、変えようのない過去に対して空想する生産性のない、非建設的な思いが、時折沸いてしまいます。また、心配性でもあります。例えば、健康診断で何かひっかかり再検査となる。するとその結果がでるまでに、最悪のシナリオを空想。もしこのようなマイナスの思考が無意識に頭に上ってきたら、はっと気づき、神様、この思いを消してくださいと祈ります。
たとえ、ブログでどんな話題になる面白いことを書けても、もしくは社会的に地位がある人で美辞麗句を人前で話せたとしても、人の言動はその人の心にあるものを反映し、ボロはでるものです。自分の生まれつきの性格、傾向性は簡単に変えられないかもしれないし、社会に生きている限り心に悪い影響を与える様々なことから自分を守るには限界があります。しかし、昔の西洋のことわざで、「鳥が頭上を飛ぶのを止めることはできないが、鳥が自分の頭に巣を作るのは阻止できる」とあるように、自分の心に内外から入って来るものをある程度コントロール出来るはずです。それには意識的に行動をとる必要がありますが、どうしたら巣を作られないように心をコントロールできるのでしょうか?
私の場合は、神様のことばである、聖書のことば(みことば)に力があると信じ、朝起きたらまずは聖書を夫と一緒に読んで、共に祈ってから一日を始めるようにしています。また、なるべく、賛美歌やゴスペルを家にいる時、車を運転している時BGMで流し、自分だけのときは口ずさむようにして、積極的に心に良い物を取り入れようと心がけています。そして、生活の中で具体的に「こうこう思っているんですが、どうしたらよいですか?」と神様に祈り求めます。実際今まで人生の、生活において、みことばによって決断で導かれ、励まされ、また戒められてきて、今の自分があります。みことばは私の力であり、それを与えて下さる神様に感謝しています。
マイナスの思考、過去の嫌な思い出のフラッシュバック、恐れが、私の頭上を矢のように飛んでくるのは、日々さけられません。しかし、それをブロックする聖書のみことばを盾にして、意識的に、真実なこと、尊ぶべきこと、正しいこと、純真なこと、愛すべきこと、ほまれあること、徳といわれるもの、称賛に値するものをまめに心にとめ、それらで心を占められ、自身の言動に反映されてほしいと願います。これらの良いことは全て神様のご性質にあり、みことばに示されています。キリストに従い、自分自身もこのような思いに満たされ続けるように、賛美をいつも身近で流し、みことばに触れていきたいと祈り続けようと思います。Y.O
Dec. 26, 2019 Luke 10:41-42
「主は答えて言われた、『マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである』」 ルカによる福音書10章41-42節
もし、毎日がクリスマスだったら?一般にイベントやお祭りごとというのは、特別な機会、季節ごとに行われるものであり、日常の生活や業務とは違い、特別なことだからこそ、そこに労力が注がれるものです。そして、また日常に戻ります。では、毎日がパーティ、お祭り、催し物だったらどうなるでしょうか。達成感や、興奮、喜びと刺激的かもしれませんが、その高揚感、ハイテンションが毎日続くと、心身にお財布に支障をきたすかもしれません。日常生活の同じことを静かに続けることは大切だと、この師走の忙しい時期に考えさせられます。
ある教会に、高齢のご婦人(70才台)がいて、徒歩と電車で1時間半程かけて熱心に喜んで日曜の礼拝と水曜の祈祷会に教会へ通っていました。12月になり、クリスマスの教会での行事が多くなり、教会に足を運ぶ回数も増え、彼女は夕方教会から帰宅し、ふと「あー疲れた」ともらしたところをご主人に聞かれ、その後面倒なことになったそうです。そのご主人はクリスチャンではなく教会も行かない方ですので、理解をしてもらうのが難しかったからでしょう。クリスマスという一年で一番イベントが多い時期に、クリスチャンが救い主・キリストの誕生の喜びを分かち合い、楽しんでいる様子を、それも自然に人々に示せれば、大変であっても疲れても意味があります。なぜならそのイベントが教会外部から参加された方にとって、教会にクリスマスだけでなく、他の時も行ってみようかなというきっかけとなれば、つまり人々をキリストに招きたいからです。
クリスマスの意味は「キリストを礼拝する」で、クリスト(キリスト) マス(礼拝)の合成語です。実は教会は、一年中クリスマスをしています。つまり、いつもキリストを礼拝しています。しかし、それは忙しいイベントごとではなく、日常のことです。クリスチャンは本来、毎日神様の前に静まり、キリストを礼拝することに喜びを得ているものです。なぜなら、神様が救い主としてイエス・キリストをこの世に送って下さった事、そして、十字架で私たちの罪にたいする罰を代わりに受け、それゆえ私達が神様に赦されて、神の子となり、天国に行ける道、永遠の命を与える約束をして下さった、その大きな愛と恵と憐みに感謝するから、祈り、賛美歌を歌い、聖書を読んで心にとめる、つまり礼拝をするのです。
宗派によって、毎日礼拝(ミサ)が行われている教会もありますが、教会という建物に必ずしも出かけて行く必要はありません。家で、また声にださなければ通勤電車の中でも、お昼休みでも一人で礼拝できます。一方で、皆で集まって礼拝することは大切です。集まれば、お互い顔と顔を合わせて親しくコミュニケーションを取り、共に祈り、共に賛美を歌うことができるので、もっと神様の祝福と恵が溢れ、またお互いが励まされ、慰めが与えられます。神様は私が教会の奉仕活動を頑張らなくても、何もしなくても、それでも私に注いで下さる愛は変わりません。神様の愛は恵であり、報酬ではないからです。何かしたければ呟かずに喜んですれば良し、また何もしなくとも、大切な事にさえ心に留めていれば、それで良い方を選んだのだ、とイエス様は言って下さいます*。大切な事、良い方とは、毎日のイエス様から聞き(聖書を読み)、祈り、讃美の歌を頭のなかで巡らせてイエス様を礼拝すること、私はこれを日々続けて行きたいと願います。Y.O
*ルカによる福音書10章41-42節 イエスがマリアとマルタという女性(前者は静かにイエスの話を聞き、後者は台所仕事に忙しく、イエスに、なぜ妹に手伝うように言ってくれないかと言う)の家に訪問した際、マルタに言われた言葉。
Dec. 23, 2019 1 John 4:10
「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。」 ヨハネの第一の手紙4章10節
私が現在那須塩原市で開いている聖書勉強会には、クリスチャンだけでなく、キリスト教を信じたいけどまだ信じられない人、求めている人も参加されています。彼らからの質問やコメントは毎回新鮮で、はっとさせられ、気がつかされることが多く、感謝です。聖書を何度も読み、説教で話しを聞いていたりすると、もう知っている、分かっていると勘違いしがちですが、実は私は聖書に関しても、神様の愛や恵に関しても、まだまだ知らなければならないことさえ分かっていない者です。また、目に見えない霊的な恵や祝福を見逃して、具体的活動にばかりに目を向けてしまいがちです。
今回受けた質問では、「信仰が薄かったキリストの弟子たち、キリストが逮捕された時逃げてしまった弟子たちが、その後なぜ急に大胆に、迫害を恐れず宣教する様な信仰になったのか、信仰のレベルは何によるのか?」でした。それに対して、弟子たちが変えられたのは、キリストが復活した後、聖霊(神の霊)が彼らに与えられたからですと説明しました。すると、「つまり、信仰が薄い・深いというのは、弟子たちの性格(例えばリーダシップがあるとか、冷製沈着)ではなく、聖霊の働きなんですね。」とその方が納得されたのを見て、そうだった、信仰さえも、聖霊が働いて神様から与えられ、強められるのだと自分で説明しながら、再認識させられました。
先日、大学生向けに伝道している友人夫婦からのニュースレターを読んでも、励まされました。彼らが参加した教会開拓者のための修養会にて示されたことを分かち合ってくれたのです。「どうしたら宣教が前進し、教会が成長するのか?」ということ以上に「神は、私たちが何かをしたからではなく、何かをする前から私たちを愛してくださっている」ということに中心が置かれていたことでした。私達夫婦も、2020年の4月から益子町に移転し、そこで開拓伝道をしていく予定です。感謝なことに、現在はヘルプで他教会から土曜礼拝に参加してくださる方々、祈って下さる多くの方々によって支えられています。宣教の計画、具体的な活動など夫婦で話合ったり、様々な書類を準備したりと、私の頭の中で、くるくるとしなければならないことリストが回っています。しかし、このような事務的な事よりも、何よりも大切なのは、神様は私達が何かをする、しないに関わらず、愛して下さっているのだから、その愛に応答してなすべきことをやる、そして必ずこの教会に信徒を、神様を求めている人々を神様が送って下さると信じていこうと思います。
教会に人が来るというのは、ビジネスと異なり宣伝したからといって効果があるわけでもなく、またたとえ教会内で何か事業をして人を集められたとしても、それによって確実に人々が信仰につながるわけではありません。しかし、確信の持てることは「神様が」救いを求めている人を送ってくれて、信仰をその人に与えるのも神様の業だということです。この信仰に立って、聖霊の力を注いでいただき、益子でも神様の福音が広がることを祈りつつ、示されたことを地道にやっていこうと思います。私が神様に救われたのは、私が何かをしたからではなく、何の働きもなく*1、ふさわしい人間でなはなくとも、恵によって信仰が与えられること*2、全てが神様の恵であることに、いつも初心に帰ろうと気がつかされました。Y.O
*1「 いったい、働く人に対する報酬は、恩恵としてではなく、当然の支払いとして認められる。しかし、働きはなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのである。 」ローマ人への手紙4章4-5節
*2「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。 」 エペソ人へ手紙2章8節
Dec. 13, 2019 Luke 2:10-11
「御使は言った、「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。」ルカによる福音書2章10-11節
12月、クリスマス会といえば、サンタクロースとプレゼント。これが一般の人々のクリスマスの認識でしょうか。先日、地域の子育て支援の会(幼稚園前の幼児とお母さんたちの会)でクリスマス会があり、友人に頼まれてクリスマスソングの演奏をする機会がありました。先方から依頼の曲目はサンタクロースの歌ばかりでしたが、「きよしこの夜」「もろびとこぞりて」の賛美歌も含まれていました。大きなサンタを見て泣いている子供もいましたが、ほとんどの子どもたちはニコニコして、お母さんと一緒にクリスマス会を楽しんでいた様子でした。キリスト教が文化的に浸透している西欧諸国でさえも、このように、クリスマスといえばサンタクロースからプレゼントをもらって、ケーキやご馳走を食べるというのが定番です。プレゼントというのはもらって嬉しいかもしれませんが、一時的な喜びでしょうし、またもらえない人もいると思います。クリスマスパーティは美味しいものを食べて、飲んで楽しい時かもしれませんが、その後は写真くらいしか残りません。そのようなパーティに参加する機会もない人がいるかもしれません。
毎年この時期、私たち夫婦は教会内のクワイアー(聖歌隊)として、高齢者の施設や教会のクリスマス礼拝などでクリスマスの賛美歌を歌う機会があります。先日も、毎年訪問する施設で歌ってきましたが、教会の聖歌隊が外部で歌う目的は、クリスマスの意味とその喜びを伝える為であります。クリスマスは、プレゼントやパーティのような一時的楽しみや、一部の人々だけが楽しむものではないということを、歌(ゴスペルソングや賛美歌)を通して、一人でも多くの人に知らせたいのです。本当のクリスマスはキリストの誕生を祝う日、キリストを礼拝する日(クリスマス;キリストを礼拝するという意味)です。キリストの誕生は一部の国民、人種に関係することではなく、「全ての人」に喜びの訪れを知らせるためであります。最初のクリスマスは2千年前、神であるイエス・キリストが、現イスラエルの国で人となって生まれた日。天使たちが人々に伝えたことは、このイエスが救い主として生まれたということです。救い主がこの世に来たことが、なぜ喜びなのでしょうか。当時、多くの人々は苦しんでいたからです。どんな苦しみかというと、圧政に苦しんでいたり、差別されて苦しんだり、様々な理由で虐げられている人々が心の叫びを挙げていました。神様はその人々の叫びを聞かれ、キリストをこの世に送ってくださったのです。
それから2千年たった現代の日本でも、苦しみ、悩んでいる人々がいます。もしかしたらその問題が他人から、政治的、制度的に圧迫されているのではなく、自分自身の内面にあって、心を閉ざしてしまっているケースもあるかもしれません。いずれにしても、全ての問題の根っこは、人の心にある暗闇:罪であって、この問題を持たない人は人である限りいないはずです。救い主はその罪から救うために来た事、そしてそれから派生するすべての問題に対して、神様が共にいてくれて助け、導いて下さるという事を信じられると、私達は希望が持てます。クリスマスにて、一人一人が、静まって自分の内面と向きあい、本当のクリスマスを体験できることを祈ります。 Y.O
(聖書引用、口語訳聖書)
Nov. 27, 2019 Romans 14:17-20
「神の国は飲食ではなく、義と、平和と、聖霊における喜びとである。こうしてキリストに仕える者は、神に喜ばれ、かつ、人にも受けいれられるのである。こういうわけで、平和に役立つことや、互の徳を高めることを、追い求めようではないか。食物のことで、神のみわざを破壊してはならない。すべての物はきよい。ただ、それを食べて人をつまずかせる者には、悪となる。 」ローマ人への手紙14章17-20節
近年は食物摂取の際に起こるアレルギー反応が問題となっています。特に子供たちは、大豆、乳製品など健康に良いとされる食物でも体が反応してしまうので、食品に何が含まれているかを生産者側で表記しなければ、最悪命の危険を伴う結果となります。一方、宗教的理由や主義で肉を食べない人々もいます。ユダヤ教・イスラム教はたくさんの食べてはならない食物規定がありますし、動物殺生を一切したくない主義の方々は動物の毛皮、皮製品にも反対します。
その人の体に害がない限り、またそのことで他者に害を加えないのであれば、基本的に何を食べても飲んでも自由だと私は思います。動植物も不自然に操作してたりせず、育てたられたものを感謝して頂のが理想です。また、自分の宗教、主義を守りつつ、そうではない人々の文化、習慣を理解する広い心も必要ではないでしょうか。しかしそれによって害が生じる場合には、公共政策的に法律で制限することも必要でしょうし、法律で制限される程でないとしても周りに与える影響を考える、という配慮を持つということは大切だと思います。
一世紀にキリスト教がユダヤ人の間から始まり、世界に広がって行った時、ユダヤ人とそれ以外の民族の信徒の間でこの食事の問題が生じました。ユダヤ人としては、キリスト教はユダヤ人から始まったのであり、他の民族も自分たちが守ってきた食物規定やその他の法律を守ってほしいと思ったのです。しかし、当時の伝道者であったパウロはもっと広い心を持っていました。そしてそれは彼が考え出したことでなく、彼の信じているイエス・キリストご自身が言われたこと「全ての食物は聖いのです」*1とその愛の教えに従って、このことでもめている信徒たちに勧めを手紙に書いています。
その勧めとは、何を食べる、食べないという問題、またどの日が重要かどうかで、互いに裁きあわないことです*2。なぜなら、全ての人のためにキリストは死なれたのであって、それ程全ての人は神様に愛されているのだから、食べ物のことで人を裁くなということなのです。また、キリストを信じている者は神様の恵み受けて、感謝し、何をしても自由であると。ただその自由によって、相手をつまづかせないようにするという配慮は必要であり、全てして良いからといって、全てのことが益になるわけではないと言っています*3。こうしてユダヤ人であるパウロは、自身は肉を食べることに何の問題を感じないけれども、問題視する人々を配慮して、自分も肉を食べることを控えていました*4。
お互いに違いに目を留めるのではなく、それぞれが大切にしていることを尊重しつつ、自分自身は人に縛られず、神様に感謝して、平和的な関係を持つことを目指していきたい、実際失敗も多いですが、そう祈り求めていきたいと思います。Y.O
*1 マルコによる福音書7章18-19節 「『あなたがたも、そんなに鈍いのか。すべて、外から人の中にはいって来るものは、人を汚し得ないことが、わからないのか。それは人の心の中にはいるのではなく、腹の中にはいり、そして、外に出て行くだけである』。イエスはこのように、どんな食物でもきよいものとされた。」
*2 ローマ人への手紙14:1-6 ユダヤ人は土曜日を安息日として大切にしている。
*3「すべてのことは許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。すべてのことは許されている。しかし、すべてのことが人の徳を高めるのではない。だれでも、自分の益を求めないで、ほかの人の益を求めるべきである。」 第一コリント人への手紙10章23-24節
*4 ここでは、肉全般のことではなく、異教の神にその神殿で捧げられた肉が、その後市場に売り下げられ、その近くのレストランの食事に使われているという想定で、その肉が汚れているから、食べるべきでないという論争があった。第一コリント人へ手の手紙8章、10章18-33節
(聖書引用、口語訳聖書)
Nov. 25, 2019 Luke 7:35
「しかし、知恵の正しさは、それに従うすべての人によって証明される。」 ルカによる福音書7章35節
子供の頃、「ごっこ遊び」をしたことがあると思います。お店やさんごっこ等、子ども達は大人たちが実際していることを真似、それを遊びの中に取り入れます。ただ私が覚えている限り、「お葬式ごっこ」はしたことがありません。おそらく近代日本ではお葬式が家で行われず、葬儀場で行われるようになり、人の死というものを積極的に子供に見せないようになされているからかもしれません。一方、2千年前のイスラエルでは冠婚葬祭に幼い子供も一緒に参加していて、生活の様々な場面で必ず歌を歌っていたため、子ども達はお葬式ごっこを歌と共に遊びに取り入れていたようです。
「のりがわるい」と言われるように、「笛吹けど踊らず」とはあることを手を尽くして準備し、誘っても人々の反響・反応が悪い様子を現わすことわざです。これは聖書の中でイエス・キリストが言われたことば「笛吹けど踊らず、弔いの歌を歌えど泣かず」*が由来となっています。子供たちが広場に座って互いにごっご遊びをしているなかで、お祝いの笛を吹いたのに一緒に喜んで踊らないし、葬儀の歌を歌っても誰も悲しみ涙を流さないという、無反応・無関心の様子をたとえで話しています。
無反応、無関心。イエスはこのたとえを、当時の人々の心の状態を現わすために話されました。その当時、洗礼者ヨハネという預言者が人々に罪の悔い改めを説き、荒野で仙人のような生活をしていると、ある人々は彼を批判し、彼の呼びかけに無反応でした。その後イエスが宣教を開始し、神の国の福音を説き、様々な奇跡を起こして病気の人々を癒し、社会的弱者やのけ者にされている人々に寄り添っていると、形骸化した宗教システムに縛られている指導者達がイエスをねたみ、拒否しました。当時の多くの人々が、自分たちの現状維持にしか興味がなく、新しいイエスの教えと神からの権威の多くの業に無反応、無関心、批判的だったことをたとえられたのです。
これは2千年前の中東の国の出来事だけではなく、現代の日本でも同じ状態ではないかと思わされます。表面的に多くの情報をネット等で得られますが、人として大切なことや、心温まるような出来事があまり注目されず、逆に批判されることもあります。真剣に取り組まなければならない事:生きること、その目的、死ぬこと、その後に無関心で、ある意味考えることがタブー視されています。これは知恵がない状態によると思います。人間の間で何が正しいか悪いかが相対的なため、知恵といっても様々な知恵がありますが、ここでは「神の知恵」についてです。神の知恵は普遍的で時代や国によって変わらないものであるということが、それを信じて従う人によって証明されるだろうと、イエスはこのたとえの続きで話されています。
もし、人が神によって創造され、神に愛されて大切にされている存在だと受け入れ、信じられれば、神は人間の小さな考えや視野を超えたレベルで、全ての人にとって正しく、善いこと、平和的なことを持っておられるはずだと、自ずと理解できるようになるでしょう。「キリストが来て以来も、社会は良くならないし、戦争もなくならず、何も変わらないではないか」と表面的には見えたとしても、見えないところでは変革が起こっています。だからこそ、約2千年にわたりキリストの福音が伝えられ、個々人の心の中に変革があり、神に従おうとする人々の国が広がり続けているのは事実です。どんな弾圧, 懐柔政策によってもこの信仰はなくなることはありませんでした。私はキリストを信じて従った人々のしてきたこと、言ってきたこと、たとえそれらが完全ではなくても、これらのことを神の摂理や恵という視点で捉え、ああ、やはりこのキリストが本当の神であり、今も生きておられると感謝をもって信じ続け、それを他の人に伝えていきたいと日々願い、祈り続けたいと思います。Y.O
*ルカによる福音書7章32節 (聖書引用、新共同訳聖書)
Nov. 18, 2019 Isaiah 11:1-2
「エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び、その上に主の霊がとどまる。これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。」 イザヤ書11章1-2節
私の住む街には運動公園があり、その敷地内は沢山の木々があって、その遊歩道を歩くたびに四季折々の風景を楽しむことができました。ところが、この一年で、道路沿いの大きな木が次々と切り倒されてしまい、切り株だけが残っています。おそらく、駐車場か何かの用地を広げる為なのでしょう。それらの切り株を見る度に、人間の都合による自然破壊を悲しく思います。一方、切り株というのは、その根が生きていれば根からまた新しい芽が生えて来るものもあります。それらは再び大きな木には成長しないかもしれませんが、木の命は小さい枝ながらも脈々と引き継がれています。自然の生命力の力強さに感動します。
聖書に、切り株をたとえた話が出てきます。預言者イザヤは、切り倒された木の切り株から若枝がでると語り、その若枝はメシヤ(救い主)を指し示すと言われます。つまり一度は切り倒された木のように、全てが失われてしまったような状態、この預言者の時代ではユダヤの国が他国に滅ぼされてしまうという絶望状態でも、切り株は残されていると*1。そしてそこから、将来、平和の王(メシア)が出現するという、神様から与えられた預言です。その平和の王は、この地上での政治的な王ではなく、主(神)の霊がその上にとどまり「目に見えるところによって裁きを行わず 耳にするところによって弁護することはない。弱い人のために正当な裁きを行い この地の貧しい人を公平に弁護する。」*2とあり、そのように世界を治める王だと記されています。この預言はまさに、約700年後に地上に来られたイエス・キリストによって成就されますが、キリスト(メシヤ:救い主)は実際は2回地上に来られるとされ、最初は人として生まれ、十字架にかかり3日後に復活され、信じる者に救いをもたらすために、2回目(再臨)は王として世界を裁き、完全な平和をもたらすために来られると預言されています。つまり、一度目はすでに2千年前に成就していて、再臨はこれから先、未来に起こることです。
人々は平和を求めますが、人の心に罪があり、キリストの救いを受け取らない限り、平和を達成することはできません。なぜなら、個人差はあっても人はお互いの利害が対立し、ねたみや差別、いじめなどを誰も教えなくてもしてしまう者だからです。また、自分を犠牲にして相手を愛したり、赦すということに弱い者です。その弱さを認め、神様の前にごめんなさいと悔い改め、イエス・キリストがその罪を全て赦すために十字架上で代わりに罰せられたことを信じた時、キリストに在る平和を求める心に新しく変えられていきます。新しく生まれるには、古い自分は死なななければならないと聖書に書かれています*3。 これは肉体の死の話ではなく、霊的な話であり、外側は信じても何も変わらないように見えますが、キリストを信じると内側の、心の中が新しくされています。この内側の新生を信仰で受け止めると、神様に感謝し、喜んで神様に仕えたいという思いが沸き起こり、キリストにあって将来の希望が与えられ、キリストの再臨を待ち望めるのです。
毎日のニュースを見ていると希望を見出すのが難しい世の中です。国のリーダー達は自らの利権の為に動き、裏で不正やわいろがはびこり、民主主義は表面的にすぎないと知ると、人々は何も信じられなくなり、絶望、虚無感ついには無関心となってしまいます。しかし、聖書の預言を信じれば、いつかキリストが再び王として来られ、悪を裁かれ、平和がもたらされるという希望が与えられます。暗い世の中にあっても、キリストにあって光の中に歩めます。また暗い心を照らす光としての預言の言葉*4、慰め、励ましを記す聖書の言葉に励まされて、日々歩んでいきたいと思わされました。Y.O
*1 イザヤ書章6節11-13節
*2 イザヤ書章11節3-4節
*3「それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。」ローマ人への手紙6章3-4節
*4 「こうして、預言の言葉は、わたしたちにいっそう確実なものになった。あなたがたも、夜が明け、明星がのぼって、あなたがたの心の中を照すまで、この預言の言葉を暗やみに輝くともしびとして、それに目をとめているがよい。」 第2ペテロ手紙1章19節
(聖書引用、口語訳聖書)
Nov. 7, 2019 Malachi 3:16
「そのとき、主を恐れる者は互に語った。主は耳を傾けてこれを聞かれた。そして主を恐れる者、およびその名を心に留めている者のために、主の前に一つの覚え書がしるされた。 」マラキ書3章16節
傾聴。これは、もともとはカウンセリングやソーシャルワーク用語で、その漢字「聴」にある通り、相手のメッセージに「耳」を傾け、声の調子や表情などに「目」で注意を払い、言葉の背後にある感情に「心」を配って話に共感するコミュニケーションの技法です。私は社会福祉士として働いていた時、クライアント(福祉サービスの利用者、その家族等)と面談するとき、このことを心がけて仕事をしていましたし、以来、仕事上だけでなく個人的に誰かと話しをする際、自分がなるべく話さずに、相手の話を聞くことに意識をしています。それでも、自分が話しすぎてしまう時がありますし、失敗も多いですから、まだまだ修行中です。口をコントロールできる人は、人間関係において争いを避けられ、相手と良好な関係を築けるでしょう。コミュニケーションは慎重にしてもし過ぎることはないと思います。
冒頭の箇所は、聖書の中でマラキという預言者が記した言葉ですが、なんと、神様は人の話していることを傾聴してくださることが書かれています。特に、主(神様)を恐れるものが互いに語り合っている内容を注意深く聞いておられ、神様の名を心に留めている者のことを覚えておくために、書類に記録しておくというのです。「主を恐れる」とは畏敬、つまり神様を敬い畏れることで、実はこのことが知恵の初めとも書かれています。*1 神を恐れない人は、基本的に神などいないし、自分に対して何の力もないと思い、自分の好き勝手に、自分の基準で行動し、発言します。神を信じている人々に対して、「神なんて、弱い人間が作り出す気休め。 結局、自分なのさ、」と侮ることでしょう。
一方、日本人はたくさんの神々を祭って、自分の願望にそって祈願し、お参りをしますが、宗教には深入りしないという人が多いのではないでしょうか。なぜなら、特定の神を信じて熱心になることで、今迄の自分自身でなくなってしまうかもしれないという恐れからくる、拒否感があるからでしょう。確かに、カルト宗教のような人を洗脳し、普通の生活ができないような状態にしてしまう宗教は拒否すべきです。しかし、全ての宗教がカルト的ではないし、本当の神を信じる宗教であれば人に平安、愛、善意など良いことを与え、また信徒はそれに基づいて社会の中で行動しているはずです。明治時代に創設された学校、福祉施設、病院は、ほとんど海外からのキリスト教の宣教師たちがキリストの愛に基づいて建てています。このように、キリストが人々をどんなに大切に思い、愛を与えようとし、それを人間同士でもするようにという良い教え、そしてそれを基に人々の福祉のために活動しているというキリスト教と、例えばオウム真理教のような破壊的な宗教を「宗教:怖いもの」となぜ一緒にとらえてしまうのでしょうか。それは無知からきています。知ろうとしない、無関心。
私達が無関心であっても、神様は私達のことを傾聴し、私たちの願いを聞いて下さり、良くして下さる方です。私達が自発的に神を求め、信じることを忍耐をもって待っておられる方です。恐れにより強制もすることなく、本人の意志を尊重してくださいます。信じるとは神様に対する信頼関係が与えられることでもあり、今自分の起きていること、よいことも、悪いことも、全て神様に委ねようと思えるます。また、私達一人一人の全てを一度に見ることができ、また未来のことも見据えることができる全能な方です。これは、後ろめたいことをしている人にとってはそんな神の存在は恐ろしいかもしれませんが、自分は不完全な者、罪ある者と神さまの前に認め、キリストの十字架を通して全て赦してもらえるという救いを信じる人にとっては、平安と感謝が与えれられます。なぜなら、例え私たちが神様の命令を守れなくても、キリストを信じていれば責められないし、悔い改めるチャンスがあり赦されて、やり直すチャンスを何度も下さり、次第に良い心、行いへと自身が変えられていくという希望を持てるからです。
また、たとえ何か他者の為に尽くしたことが誰からも評価されなくても、見えない神に向かってしているという心で行えば、くじけることはありません。なぜなら、神様がその善行を記録しておいてくださり、天国で「よくやったね」と、天での報酬が期待できるからです。「わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。 」*2とあるとおりです。神様に対してするように、目の前の人に、どんなに小さいことでも、良いことを相手にしようと日々心がけたいと願います。まずは、日々出会う人たちに、優しい言葉をかけたり、ドアをおさえて「お先にどうぞ」と譲ることなどからまずは、始められるのではないでしょうか。Y.O
*1箴言1章7節
*2ガラテヤ人への手紙6章9節
(聖書引用、口語訳聖書)
Oct.20, 2019 Romans 12:18
「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。」ローマ人への手紙12章18節
私は実は、カスタマーセンターの方と話すのが苦手です。たいがい、イライラしてしてしまうからです。その理由は、電話が繋がるまで長時間待たされた上に、あまりにも仕事が分業されていて問い合わせたいことがたらい回しにされ、その担当以外のことはいっさい「致しかねます」という対応が多いからです。制度上仕方がないことですので、なかなか一回で対応してもらえなくとも穏やかにやりとりをせねばと、ぐっと感情を抑えています。一方、こちらが何もしているつもりがなくても、(相手にとっては主観でそうとるので仕方がありませんが)自分の態度や言動を悪くとられたり、誤解されたりすることもあります。しかし、これも忍耐し、反論したいことがあっても抑え、最低限伝えなければならないことを柔らかい口調で説明しようと努めなければ、更に相手との関係が悪化する可能性があります。
人間というのは、お互い自分の主観で物事を受けとめ、互に相手の立場を考えないことが多いため、自分の思う通りにならない他者と共存する社会に生きています。また、片方が利益を得れば、もう片方が損をする経済システムの中で生きています。ですから社会生活をしていく上で、理不尽なこと、我慢しなければならないことが日々あるのはノーマルなことで、ある意味それが、社会性を身につけるということでしょう。社会には様々な考え方の人がいること、そして自分の思う通りに事が進まないということを経験していくことで、忍耐力・適応力・柔軟な心も養われていくかもしれません。現代は、インスタントにすべての事が進む社会。しかし、それを”当たり前”に思っては、結局、自分の短気によって損気を引き起こすわけです。と理論上ではわかっているのですが、私の課題は、「致しかねます!」という言葉にぴくっと反応してしまうところでしょうか(笑)。
聖書(書かれた時代も広く、幾つかの書簡から構成されています)の中に、歴史的書簡の部分には、人間が過去してきた目を覆いたくなるような残虐な戦争等についてもそのまま記されています。また、その他の書簡でも現代と変わらない人間関係のもつれや殺人、嫉妬、いさかいが、神が選んだ民族の間で、またキリストを信じた信徒たちの間でもあったことが正直に書かれています。だから、信徒たちあてに書いた書簡の中で、使徒のパウロはキリストの愛に倣うようにと忍耐を持って諭し、時にはいさめることもあります。そして、自分が置かれている社会の中で、怠けないで働き(当時、もうキリストが再び戻って来るから、働かなくてよいという信徒がいた為)、互いに愛し合いなさい、互いに相手が自分より優れていると思いなさい、謙遜になり、仕え会えなさい等と具体的に勧めています。下記の箇所も全ての人と平和に過ごすようにと、信徒に向けて勧めています。つまり、クリスチャン、つまりキリストを信じて礼拝していても、個人の人間関係では争いをしている人が当時いたから、そう書いたのでしょう。そして、現代もしかり。クリスチャンも、失敗もし、人を傷つけ、争ったりすることがあります。完璧な聖人はいません。すると、クリスチャンになった人と信じていない人との違いは何でしょうか?
それは、神様への悔い改めと赦しの有無という点でしょう。キリストを信じていない方々は、自分の善悪の基準と主観で物事を判断し、行動し、人付き合いをしますから、自分が基準であり、人それぞれ異なり相対的です。また人には良心というものがありますが、その良心も個々人によって感じ方が異なります。すると「これくらいいいではないか、皆していることだ」、もしくは「相手が悪いから仕方がない」と開きなおってそのまま続け、反省はすることがあっても繰り返す可能性があります。その価値基準ですと、相対的な自分の中での合理化処理となりますが、そこには神に対しての悔い改めという概念はなく、その赦しも不在ですので、誰かの赦しがないと負い目や責罪感が残るかもしれません。一方、キリストを信じる者は、聖書に書かれている神の基準に基づいて、神に対して悔いて改めますと祈り、赦しを受け取って、新たに仕切り直すことができます。なぜそうするかというと、今は、キリストが自分の命を犠牲にして迄私を愛してくれていることを信じたので、その大きな愛に感謝して、私なりにどう応答できるかと考えると、キリストが言われたことに従い、キリストに倣うことだと決めているからです。私は失敗も多いですが、すぐに神様に悔い改めるようにし、また、謝るべき相手がいればすぐに謝るようにしています。たとえ自分だけに責めるべきところがなく、他に責任転嫁できる要因があろうとも、謝ります。そして、相手がそれを赦してくれるかどうかは、相手の問題ですので、それ以上は神様に任せることにしています。そして同じ過ちを繰り返さないように、神様に祈ります。
「憐み深い人々は、幸いである。その人たちは憐れみを受ける。」*1 また「人を裁くな、あなたがたも裁かれないようにするためである。」*2 イエス・キリストはこう言われています ここでのあわれみ深いとは、相手を赦す心を持つ事だそうです。そもそも、自分自身が神様に赦されたという自覚があると、自ずと自分も赦してもらったのだから、相手を赦したくなくとも、赦せるように神様に心を変えて下さいと祈り、相手のしたことを裁くのは神様に任せようと思えるのでしょう。
全ての人と完全に平和に過ごすことは無理です。だからこそ、パウロも「せめて」(if possible (英訳), ”可能な限り”とも訳せる)という言葉を使っているのが、有難いです。相手方が戦いを仕掛けてきた場合、それをどう平和的に交わすか。このパウロの勧めは、何もあたりさわりもなく避けて、和解に努めようともしないという態度のことではなく、平和を保つよう自分のなすべきことはするという行動を伴う、強い言葉(原語のギリシャ語)だそうです。それでも、関係の修復、和解を相手が拒否する、もしくは相手が悪を、戦いを続けるのであれば、相手のことを神様に委ね、自分は苦い思いを相手にもたず、時には距離や時間を置くことも必要となるかもしれません。後になって、和解ができるかもしれません。それも祈りつつ、平和の心、相手を裁かない心を神様から与えられたいと願います。 Y.O
*1マタイによる福音書5章7節
*2マタイによる福音書7章1節 (聖書引用、新共同訳聖書)
Oct. 14, 2019 Jeremiah 29:11
「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。・・主の御告げ。・・それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」 エレミヤ書29章11節
今回の台風19号の被害は、事前に警戒態勢をしていたにもかかわらず、甚大な被害となりました。河川の決壊があちこちでおこり、街は浸水。多くの方々が亡くなり、行方不明者も未だ見っかっていません。私たちが住む栃木県も、川沿いの地域は甚大な被害を受け、台風一過の日曜日に、何人かの方々と安否確認を互いにし合いました。たとえお互いが大丈夫であって「よかったですね」と言いつつも、他地域で被災されている方々のことを思うと、心が痛み、被害がこれ以上進まないよう、人々が守られるよう祈るばかりです。
3.11の時に、SNS上で多くの海外から励ましのメッセージと支援が寄せられたように、今回も「#PrayForJapan#」(『日本に祈りを』)というハッシュタグが投稿されているそうです。日本のために、祈ってくれる海外の、知らない場所の人々がいるというのは、とても励まさ、慰められます。今回に関わらず、大きな災害がおこると、皆途方に暮れてしまいます。被災者ご自身たちにとって、目の前の必要に支援してくれる物資、人材はもちろん第一に必要で、それによって助けられ励まされると思います。一方、心の傷、悲しみを感じる暇もなく、生きるのに精いっぱいの精神状態に対しては、誰かに祈ってもらうこと、これが目に見えない行動で、あてにならないと思われるかもしれませんが、大切だと思います。なぜなら、信仰を持って祈る祈りは、必ず聞かれ、また聖書にこのように約束が書かれているからです。、
この冒頭の言葉は、平穏無事な時に与えられた言葉ではありません。この言葉は、エレミヤという預言者に、神様が与えた預言のことばで、当時、ユダヤ人は国をバビロニア帝国に破壊され征服され、捕囚の身となって他国に移住させられ、苦しめられていた時の言葉です。捕らわれの身となり、絶望的な状況の時に、「70年たったら元住んでいた国に戻れる」、と具体的に神様が約束され、実際、それが歴史的にも起こりました。バビロニア帝国はこの後ペルシャ帝国に滅ぼされ、そのペルシャ帝国の王がユダヤ民族をエルサレムに帰還することを許可したのです。
この言葉は、当時のユダヤ人にだけ当てはまるものではなく、現代に生きている私たちすべてにも適応できるというのが、聖書のことばの素晴らしいところです。つまり、信じて、祈りを捧げている神様は、過去の神、一民族だけの神ではなく、今も生きておられる本当の神だから、この約束が私たち日本人にも適応される、というのが大きな励ましです。
「家はこんなになってしまい、家族も失い、もう何の望みもないよ。」という状況にある時こそ、神様がエレミヤを通して語られた「あなたの人生は将来と希望に満ちたものだ」という約束を、自分のものとして受け取り、信じることをお勧めします。破壊の後には、必ず回復があります。無秩序な状態はいつまでも続きません。なぜなら神様ご自身が平和の神だからです*1。もちろんインスタントには事は進まないかもしれませんが、これから色々な扉が開かれ、助けが与えられていくでしょう。今日、この聖書の言葉はあなたのためにも用意されている言葉です。
また、神様が一人一人に与えられているという、将来の計画と言われても、今すぐに具体的にわからないし、検討もつかないかもしれません。もしかしたら、後になって振り返ると見えてくるものかもしれません。それでも神様が将来良くして下さるという希望と、それに伴う神様が与えられる平安を持ちつつ、復旧を祈り続けます。では、なぜ神様が、私たちにこのような約束を与えてくれるのかという理由は、神様が私たちをそもそも計画を持って命を与え、人として生きるように創られたからです。制作者は自分の創ったものを大切にするように、神様はそれをはるかに超えた次元で私たち人間を大切に見てくれています。だから、必ずどんな大水が襲ってきても、大火が迫ってきても、守られるという、安心のことばも、私たちに与えられている言葉です*2。 これらを受け取りつつ、私たちを愛してくれている神様を信じて、様々な困難な状況がありますが、前に進んで行きましょう。Y.O
*1 「神は無秩序の神ではなく、平和の神である。 」第一コリント人への手紙14章33節
*2「あなたを造られた主はいまこう言われる、「恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ。あなたが水の中を過ぎるとき、わたしはあなたと共におる。川の中を過ぎるとき、水はあなたの上にあふれることがない。あなたが火の中を行くとき、焼かれることもなく、炎もあなたに燃えつくことがない。わたしはあなたの神、主である」 イザヤ書43篇1-3節
Oct. 8, 2019 John 4:13-14
「イエスは答えて言われた。『この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。』」
「私、死にたい」「一緒に死のう」こんな言葉が10代のお子さんの口から出たら、それを聞いた親はショックです。詳しい内容は言えませんが、先日ある人の子どもが、その子の同級生の口からこのような言葉を聞いて、驚いてその人に伝えたそうです。そして、その方はその同級生の親を訪問して、子供の状況を知らせたそうです。案の定、相手の親は何も知らず、何か問題があることに気がつかなかったと。このようにまだ、口に出して他者に言えれば未然に止められるものの、何も言わずに、相談することもできず、自ら命を絶ってしまう子ども達もいるという現実に、本当になんとかならないのかと胸が痛みます。
子ども達(大人も)は、自分が何で悩んでいるのか、何が問題なのかさえわからずに、そして何かサインは出ていても、解決方法を知らず過ごしてしまう、というケースがほとんどではないでしょうか。そこに相談できる親、お兄さん、お姉さん、カウンセラー等と話す機会があれば、その子たちは幸せです。しかし、相談する人がいたとしても、自らそこまでたどり着けない子供もいるでしょう。自分自身の10代を振り返ると、まさに心の中に不安定なものを抱えていましたが、それを親や他人相談することなく、表面にださず、よって色々心身に支障がでたものです。一方で、死のうと思ったことはありませんでした。おそらく、小さい頃から親に教会に連れていかれ、神様がいて、人間を創ったことをシンプルに信じていたので、よって自らの命を絶つことは「してはいけないこと」だと無意識に思っていたのかもしれません。しかし、神様が単にいて、困った時は助けてくれるということだけでは、自分の問題を解決する存在としては結び付かず、虚しい思いのまま、社会人を続けたものです。大人になってもその心の深いところにある、満たされない思いは続いていました。そう、ある方に出逢うまで。。。
昔、ある村に、一人の孤独な女性がいました。彼女は様々な理由で結婚を5回し、6回目は相手と同棲をしていました。よって、その小さな村の中では、人から白い目でみられ、女性たちのコミュニティーから仲間外れにされていたので、水道のなかった時代、ひと目をさけて、日中の暑い最中に町はずれにある井戸に水を汲みにいっていました。するとそこへ、旅の途中の一人の男性が現れ、彼女に声をかけます。「水を飲ませてほしい」と。この見知らぬ男性はそこから少しづつ彼女と会話をかわしていき、彼女が抱えている問題、真の必要を引き出します。彼女のことを知らないはずのその男性は、彼女の心の深い部分での飢え渇き、そして絶望しながらも救いを求めていることを、自覚させていきます。そして、彼は彼女に飲んだらなくなる水ではなく、なくならない「生きた水」を与えることができると話されます。彼女は結婚に対して、社会に対して、人生に対して満たされない虚しさを持ち、また地域から疎外され、寂しさ、悲しさを抱えていた。この女性は自分を満たしてくれる「本当の愛」を求めていても得られずに、その心の渇き、虚しさに蓋をしたまま、とりあえず生きる為に水は汲みに行き続けていた。しかし、その蓋を開けてしまった男性がいた。しかも、彼女の心の渇きを満たしてくれる人が、その男性であり、生きた水であった。そして彼女の先祖が信じて来た神が送った、メシヤ:救い主が、その目の前の男性だと知らされた。彼女はその救い主と出会い、信じて、ようやく心が満たされ、人生が180度変わり、この喜びを村の人々に大胆に伝えたのである。それを聞いた村の人々は、彼女の言葉に耳を傾け、その救い主を村に向かい入れ、また信じた。
この話は、聖書に記されているイエス・キリストの話です*1。イエスは、特にこのような社会から疎外されている人々、絶望している人々や、病いを患い治る希望もなく、様々な問題に縛らている人々のところに直接行かれ、癒やし、寄り添われ、救いを与えられました。このイエスご自身こそが、私たち人間の心の飢え渇きを満たせる方、救い主であるということは、2千年前も、現代も、そして将来も変わらないのです。人は誰でも、物資的充足感だけでなく、存在を認められているという承認欲求、愛されているという安心感により、心が満たされることを求めます。そしてそれが完全に満たされないという虚しさを抱え、他のことで紛らわすことができなくなると、生き続けることさえ辛く思うのではないでしょうか。だからこそ、私自身もそうでしたが、心を満たし続け、その喜びが泉のようにふつふつと湧き出つづける、永遠の命へとつながる、生きた水であるイエスに出逢う必要があります。イエスはいつでも求めている者に、聖書のことばを通して、信じている人を通して現れて下さります。イエスはご自分の命を十字架で犠牲にしてまでも、私の神に背をむけていたという根源的な罪を赦すため、絶望に捕らわれた状態から解放するために、救い主として来て下さったことを、神様に心から感謝しすることができます。この救いの喜びがある限り、人生にどんな困難が起こっても(この世に生きている限り問題フリーではないので)、共にいて、助けて下さるという安心感に支えられています。
「人間のこころには空洞がある。」そ空洞のゆえに人は空しさを覚えそれを満たそうとして地位や名声、学歴や財産、お金や快楽などをはめ込もうとする。しかし、どれをどれだけ入れても、ピッタリする物はなく、むなしくなる。「そのこころの空洞は、神様のかたちをした空洞であり、神様しかぴったりと満たすことはできない。」と。 パスカルという人がその著書 「パンセ」に記しています*。こころの空洞をキリストにあって、神様に埋めてもらえることを、多くの人に知ってほしいと祈り続けます。様々なことが起こっても、主の愛に支えられ、心のうちに喜びが湧き、全てのことに神様に感謝して日々過ごしていきたいと、願いつつ。 Y.O
*1 イエスとサマリヤの女 ヨハネによる福音書4章1-42節
*ブレーズ・パスカル(1623年生)- フランスの数学者・物理学者・哲学者、キリスト教神学者、発明家、実業家 。『パンセ』(仏:Pensées)は、晩年思いついた事を書き留めた記述を、彼の死後に遺族などが編纂し刊行した遺著。 ちなみに、天気予報で用いられる気圧の単位「ヘクトパスカル」 も、パスカルが大気の圧力の研究をしたことからきている。
Oct. 1, 2019 Hebrews 13:9
「さまざまな違った教によって、迷わされてはならない。食物によらず、恵みによって、心を強くするがよい。食物によって歩いた者は、益を得ることがなかった。 」ヘブライ人への手紙13章9節
「これを食べればガンにならない!?」毎日のように、TVでは健康に関するバラエティ番組、特集が放映されていますが、情報が多すぎてわからなくならないでしょうか。少なくとも「これだけ食べれば大丈夫」という情報は信憑性が疑われます。結局、バランス良く、なるべく自然に近いものを食べ、適度に運動し、ストレスをかけないようにすれば、病気の予防となるかもしれません。しかし実際、現代社会に生きる限りそうできないからこそ、皆が情報を求め続け、とにかく試してみるのでしょう。
食べ物といえば、日本ではあまり見られない光景ですが、伝統的ユダヤ人たちは独特の食物規定を持って生活しています。欧米では、彼らはユダヤ人街を作り彼ら独自の生活しています。彼らは、他者と変わらぬ文明と教育を利用していますが、それでも数千年もの間、彼らの法律(律法)を守って生活しています。例えば、服装、髪型も独特ですし、毎年お祭りと儀式を守り、食物規定(食べて良い物と悪い物)に従い、安息日(働かない日、土曜日)を守っています。豚肉、甲殻類、うなぎ系、チーズバーガーも食べられません。もちろん、血筋はユダヤ人でも、一般人と同じ生活スタイルをしているユダヤ人も世界各国大勢います。しかし、この生活・宗教スタイルが彼らのアイデンティティーであり、そして迫害を受けながらも、数千年にわたり各国に散らされても、人種を保ち続けてこられた「強さ」なのかもしれません。
ユダヤ人はこの律法と伝統を守ることが、彼らの信じる神の前で正しく、天国へ行けると信じています。つまり、全て自分たちの”行い”にかかっています。2千年前に、イエス・キリストはご自身もユダヤ人として生まれて、30歳位まで一般市民と変わらない生活してきていましたが、宣教活動を始められて、神の国の福音を宣べ伝えられた時、この律法を人々が守ることを監視していた宗教家達と対立しました。なぜなら、宗教家たちは心を伴わない形骸化した儀式を神に捧げて敬虔ぶり、生活の細部に亘る細かい律法を作り守るよう人々に重荷をかけ、憐みや慈愛もなく守れない人を罰し、守れない人々を罪人として、社会から村八分にしていました。こうして神様が本来与えた掟の趣旨から離れ、人の命よりも、法律を守ることを優先していたので、イエスはその偽善をつくため、あえて安息日に病人を奇跡で癒されたのです。
イエスは彼らを単に責めるためではなく、彼らがその偽善に気づき、悔い改めて、神様に立ち返ってほしいと、また法律を守るという「行い」では救われない、神様が救い主として送ったご自分を「信じることが救い」であることを伝えたかったのです。しかし、ほとんどのユダヤ人の宗教家の心は頑なで、自分たちの地位を脅かすイエスを憎み、拒み、十字架につけました。ところが、神様はこのユダヤ人の頑なささえもご自分の計画に用いられました。つまり、イエスが十字架にかかり、全人類の罪を負って身代わりに罰せられる、復活するというのが、神様の救いの計画でした。そして、ユダヤ人も、いつか救い主があのイエスだったと分かり、信じて救われる日が来ると、聖書に預言が記されています。*1
現代でも、ユダヤ人以外の間でも似た現象が見られないでしょうか。「これこれをすれば、大丈夫」「これこれをしないと、成功しません」と、行いの有無でその人の価値が決められてしまう。また、元来は人を守るために作られた法律も、いつのまにかて形骸化し、人の命が、人の尊厳が損なわれても、法律順守が優先されしまうこともあります。様々な情報が飛び交い、何が良いことなのか見極めるのが難しい時代です。よって自分で自分の心を強くし、何かをすることで、自分を守らなければならない社会であり、それが出来ない弱い人々は自信をなくす、卑屈になる、ある人は心を病んでしまいます。
しかし、キリストのもたらす世界では、この世と異なり、その人がした事、しなかった事でその人の価値は決められませんし、何かの行いが救いの条件ではありません。あえていうなら、キリストを信じるだけです。もし、神に認められるために、何か条件をつけたとしても、それを完璧にできる人間はいない、だから無条件で与えられるのがキリストによる救い、恵みです。神の恵みとは、「受けるのにふさわしくないものが、神の一方的な好意により与えられるプレゼント」のことを言います。通常プレゼントをもらえるのは、誕生日、お祝い、お礼等、何かもらえる理由があります。しかし、神様の与える恵みは、その人がプレゼントをもらえる理由もなく、かえって受ける資格がない、ふさわしくないくとも、人である限り全ての人に与えられようとしています。その最大の恵というのが、イエス・キリストご自身です。
その神様からの最大の恵:キリストを受け取れば(信じれば)、さらに恵に恵みが加えられます。なぜなら、今迄、当たり前に思っていたことや、自分の才能、能力、家族、自分で得た地位、資産さえも、神様が恵みとして与えて下さったことだと思えて、神様に感謝できるように変えられるからです。すると、傲慢だった自分に気がつき、謙遜にさせられます。一方元来謙遜な方は、自分のおかげではなく「皆様のおかげ」だと言われるでしょう。それはそれで良い考えですが、神様の恵を知る者にとっては「皆様のおかげ」ではなく、全て「神様のおかげ」です。つまりその「皆様」から与えられる支援、助けさえも、神様がそのような人々を周りに置いて下さった、神様の恵みと考えるからです。このようにして、恵みがわかると全ての見方も変わり、恵が増し加えられ、様々な状況に対しても、神様が支えて下さるという信頼感が与えられ、心が強められます。
キリストを信じる時は、自分がふさわしくない、資格がない者だと気がついた時です。なぜなら、自分が結構いけてると思う人は、「自分自身で充分足りてます、キリストに赦してもらう罪もないし、自分の人生、自分次第だ」と考え、キリストの救いは必要としないからです。恩恵は受けたいけど、自分の罪を認めたくない。神にコントロールされたくない、自分で生きる!、そのように強く生きられる人は自分の意志である程度強くなれますが、限界があるでしょう。もしかしたら、そんな強い人でもあることが起こって、自分の限界を感じた時が、キリストを求めるチャンスかもしれません。実は信じられること自体も、神様の恵だからです*2。私は、一人でも多くの人が、シンプルに、キリストという神の恵を受け取られ、恵みによって心を強くされてほしいと願います。日々神様に感謝し、キリストにあって周りの人々にも感謝しつつ。。。Y.O
*1 「わたしはダビデの家およびエルサレムの住民に、恵みと祈の霊とを注ぐ。彼らはその刺した者を見る時、ひとり子のために嘆くように彼のために嘆き、ういごのために悲しむように、彼のためにいたく悲しむ。」ゼカリヤ書12章10節
*2 「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。」エペソ人への手紙2章8節
(引用、口語訳聖書)
Sep. 27, 2019 Romans 12:6-8
「このように、わたしたちは与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っているので、もし、それが預言であれば、信仰の程度に応じて預言をし、奉仕であれば奉仕をし、また教える者であれば教え、勧めをする者であれば勧め、寄附する者は惜しみなく寄附し、指導する者は熱心に指導し、慈善をする者は快く慈善をすべきである。 」ローマ人への手紙12章6-8節
私の夫は、栃木県内の同じ教派の中で人数的に一番大きい教会(西那須野)の副牧師と、一番小さい教会(益子)の主任牧師の二つを牧会しています*1。この二つの教会が地理的に離れているため、どうしても片方に在住し、そこでの働きが主になってしまい、両立が難しいのが現実です。益子教会は、以前は信徒がいましたが、高齢化などで次世代が続かず、夫がそこへ就任する以前から建物だけあっても信徒も専任牧師も不在の状態でした。現在は私たち夫婦と他教会の信徒の方数名とで、土曜日に礼拝だけを行い、日曜日の西那須野教会の礼拝のためにとんぼ返りをしている状況です。一方、陰で多くの方が益子のために祈り、献金してきて下さり、ご自分達の教会の働きがあるのに関わらず、土曜日に礼拝に来てお昼を毎週作ってきてくださる方などに支えられています。つまり信徒数という目に見える人数では測れない、多くの方々の働きによって、この小さな益子教会が支えられているのは、奇跡であり、神様の恵だと思います。これが法人や団体だったら、当の昔に合併されていることでしょう。
キリスト教の教会では、各自が様々な働きを分担して教会が運営されています。各々の能力、才能の応じて、事務的な仕事、運営管理、広報、礼拝での奏楽、聖歌隊、受付、バイリンガル礼拝のあるところは通訳等、たくさんの奉仕があります。人数が少ない教会では、一人の人が何役もこなさなければならず忙しいですが、大概、それなりにアットホームな教会として和気あいあいとやっているところもあるでしょう。一方、規模の大きい教会ですと、牧師もしくは役員会をトップにした組織が形成され、まるで企業のように見えるかもしれません。しかし、教会と企業やNGOなど世の中の集合体とは根本的に異なる点がいくつかあります。
一番の大きな違いは、教会は目に見えない、イエス・キリストを中心として稼働していて、目に見えない神の霊(聖霊)の導きに従って教会は何事でも決断したり、活動していることで、教会活動の中心は神様への礼拝です。また教会は建物ではなく、キリストを信じる人の集合体であり、教会堂は確かに場所的に礼拝の場、祈りの場ですが、たとえ教会堂でなくとも、どこでも地上で二人または三人、キリストの名に集まって、どんな願い事であれ、心を一つにして求めるなら、天の父はそれをかなえてくださるし、その集まるところには、キリストもその中にいると、キリストは言われています。*2そして、教会の中で、一人一人の信仰に応じて、奉仕の役割が与えられ、皆で協力して、互いに助け合い、意見の違いがあっても理解し合い、忍耐しあって、全て神様のために行うのが本来の教会の麗しい在り方でしょう。しかし、現実はなかなかそう麗しくいかず、問題があるから、教会が歴史的に国家権力と一緒になり悲しい戦争を起こして来たのも事実ですし、また聖書理解の違いなどから教派が分裂しと、キリスト教の教会全体が一致できていないのが現状です。一番悲しんでいるのは、キリストだと思います。なぜならご自分の体の中で、あたかも免疫疾患のように、免疫系が自己の細胞を異物として攻撃してしまうかのようなだからです。
教会はキリストの体だと使徒パウロは例えています。*3人間の体はたくさんの器官から成り立ち、それぞれが異なる役割を持ち、人が生きるために一つの体として機能していて、その司令塔は脳です。よって、キリストがその体である教会の頭だと例えています。*4また、目は手にむかって、「おまえはいらない」とは 言えないように、教会もキリストという司令塔に従って、それぞれの信徒が働き、互いに必要で、一つの体です。ですから、皆が同じ機能を持つわけではないし、神様がそのために各々に才能や霊的な賜物(ギフト)を与えています。たとえある人が、目に目える活動をしてないとしても、不必要な器官が体にないように、その人は実は大事な役割をしているのです。人間側がどう組織しようとも、規則を作ろうとも、キリストにとって、全ての教会がキリストの体として一つになってほしいと願われ、そのように天の神様にイエス・キリストが祈っています。*5
益子教会は小さな弱い教会ですが、この教会がキリストの体として、いつか礼拝に多くの人が参加するようになり、皆で喜んで賛美を歌い礼拝を捧げる場となる、礼拝がない日でもあの場所にいったら、楽しくお茶とお菓子をつまみながら和める場所、信仰をもっていなくても、自分の居場所として来てくれる方が集う、そのような地域に開かれた教会になれば。。。このような将来のビジョンをキリストにあって持ち、今出来る事を祈って準備していきたいと、夫と話しています。必ず、神様がここに集う人を送って下さると信じて。Y.O
*1 日本基督教団というキリスト教の教派の栃木県内での、教会員数において。
*2 「また、よく言っておく。もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」。 マタイによる福音書18章19〜20節
*3 「ちょうど、体がひとつでも、それに多くの部分があり、体の部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストのそれと同様です。」第一コリント人への手紙12章12節
*4「そして、万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた。この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。 」 エペソ人への手紙1章22-23節
*5「わたしは彼らのためばかりではなく、彼らの言葉を聞いてわたしを信じている人々のためにも、お願いいたします。父よ、それは、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、みんなの者が一つとなるためであります。すなわち、彼らをもわたしたちのうちにおらせるためであり、それによって、あなたがわたしをおつかわしになったことを、世が信じるようになるためであります。」 ヨハネによる福音書17章20-21節
Sep. 18, 2019 Romans 4:25-6:2
「主は、わたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるために、よみがえらされたのである。このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。わたしたちは、さらに彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる。」 ローマ人への手紙4章25節~5章2節
日本が受けた原爆の被害という目を覆いたくなるような事実を伝えることは、これらが二度とあってはならないということを伝えることです。このことを次の世代、小さい子どもたちへ、どの媒体で伝えたらよいかと考えていると、紙芝居という方法に出逢えました。先日、「ちっちゃいこえ」*1という「原爆の図」*2の絵を用いた紙芝居を原爆の図 丸木美術館を訪れた時に折しも手に入れることができました。表紙は猫の絵。ちっちゃいこえとは、細胞が出している命のひびき。あの日、広島の生き物すべてにふりかかったことを題材にしています。この紙芝居の作成者(脚本家)がアメリカ人の詩人というのも興味深かったのです。今回教会の研修会で訪れた丸木美術館では、私は消化しきれない程多くのことを知り、またその絵が訴えるメッセージ性の強さに圧倒されました。
被害者と加害者。私は、原爆の図を通して、この二つをどちらかの国に当てはめることが実はできないという事実、くっきり分けられない局面があることを認識しました。誰が悪い、良いという議論ではなく、この原爆自体が、虐殺が、戦争が、人としてあってはならないことだと捉える必要があります。しかし、歴史は繰り返します。人間という生き物の罪深さを思い知らされます。その罪から抜け出せないのは、神を畏れないことが根本的原因であると私は信じます。多くの人は神の存在を否定し、もしくは人間に都合よい偶像の神々を気休めに作って利用し、人間中心の世界に生きているのではないでしょうか。聖書によると、人はもともとは神の形に似せて作られた良い被造物でした*3。しかし、最初の人間が神から離れ、罪の性質がもたらされ、その後の人類は全て生まれながらにして、その性質:原罪を持ち、よって自分中心にしか考えられない者、神を信じない者になってしまったのです。*4
しかし神様はそこで終わらせません。最初の人間が犯した失敗を、最後の人間として神様から送られた神の子である、キリストが、全てを回復するためにこの世に来られたのです。キリストは、全ての人がその罪から解放され、救われるために、人類全ての罪の罰を十字架上の死を持って代わりに負われました。一人ひとりの命を創られた神様は、その命を大切に思い、その命を救うために、ご自分の御子の命を犠牲にして下さいました。そして、3日後に復活され、天の神様のところに戻られ、今も私たち一人一人の”ちっちゃいこえ”を聞いて下さっています。そして、神様は私たちの地上での新しい歩みを助けるために、聖霊という神の霊を信じる者に与えて下さっていることは、何という励まし・慰めでしょうか。
私は以前、自分を含めた人間の限界や悪、繰り返す戦争、命が軽んじられるという不条理な事件に出会う度、ただ心を痛め、怒り、やるせない思いでいました。親がクリスチャンでしたので、小さい時に良いこととして聖書の知識を与えられましたが、自分の深いところにある罪を自分の力で治めることが出来ませんでした。自分の力や教育、訓練だけでは良い人間になれないこと、したいと思うことをできない、したくないことをしてしまう、そんな情けない自分に絶望していたものです。そしてどうしたらよいのか悩み、紆余曲折して、やっと大人になって、この自分の罪の性質から救うのはキリストしかいないと、キリストを信じる信仰に導かれたのです。それ以来、くり返し起こる悲しい事件に対して、単にやるせない思いにとどまらず、もしくは恐れて逃げる、耳をふさぐのではなく、神様がいつかこのことを正義と公平を持って扱って下さると神様に委ねています。これは、全ては神様にあって解決方法・摂理があるという希望を持つ事ができるように変えられたからであり、本当に感謝なことです。このキリストに在る平和が個々人の内側に与えられるよう祈りたいと思います。また、自分自身の内側から罪が出てきた時に、神様の前にその都度持って行き、ごめんなさいと告白して赦しを頂き、聖霊の導きにより、日々主と共に歩んでいきたいと願います。 Y.O
* 1 「ちっちゃいこえ」いのちのひびきに耳をすます紙芝居 脚本 アーサー・ビナード、絵 丸木俊・丸木位里 「原爆の図」より
*2 丸木位里・丸木俊 「原爆の図」シリーズ、原爆の図 丸木美術館所蔵、埼玉県東松山市
*3 「神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。「神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。夕となり、また朝となった。第六日である。 」創世記1章26、31節
*4「このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである。 」ローマ人への手紙5章12節 (引用、口語訳聖書)
Sep. 17, 2019 Matthew 11:26-29
「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。」 マタイによる福音書11章28-29節
先日テレビで、ある医師の方の活動について観ました。その方は、ご自分のお母さんが薬物依存で苦しんでいたのを見て、ご自分はそういう様々な依存症、中毒に苦しんでいる人々に寄り添いたいという思いで医者になったこと、様々な医師としての経験を経て、現在は刑務所での矯正医療(受刑者を観る医師)として働かれているそうです。その方が依存症の治療について、こんなことをおっしゃっていました。「人が海で溺れそうになっていて、浮き輪にしがみついているとします。その浮き輪を他者が取ろうとしたら、その人はどうすると思いますか?その人は、余計その浮き輪を離さないでしがみつくでしょう。これは、何かに依存している人の状態です。しかし、もし他者がその浮き輪を取理上げると同時に、手を差し伸べ、これに捕まれば大丈夫なんだという、安心感を徐々に与えていけば、依存しているものを手放せるようになるでしょう。」では、その手とは何(誰)でしょうか。しかし多くの方がなかなか、「その手」を差し出されても、握れないでいるから、その状態から脱出できないのではないでしょうか。その家族も苦しい思いをしています。
イエス・キリストは捕らわれた者を解放し、目が見えない人を見えるようにし、落胆している人に自由を得させ、神様の恵がきたことを知らせるために、この地上に遣わされたのだと、ご自分のミッションを述べられています*。これは物理的な状態だけでなく、精神的に何かに縛られ、盲目的にされ、希望がない、辛い思いをしている人々を神様の恵により自由にしようという意味でもあります。まさに、何かの依存・中毒から抜け出せない人、人や何かを恐れ内に閉じこもってしまっている人に、イエスは手を差し伸べて、「大丈夫だよ、私に頼りなさい、自由になれるから」と言われている様子が、聖書に約束されているのです。
神様は愛するために、大切な存在として一人一人を創られたので、人が捕らわれて苦しんでいる状態を見て心を痛めておられ、なんとか救いたいと手を日々差し伸べています。宗教はお金を要求するかもしれませんが、本当の神は何も要求しません、すでに豊かで全能だから、人から何かしてもらう必要がないからです。一つだけ人に求めていることは、その神様の愛に応答する事、差し出す手を握ることです。人が差し出す手には限界があります。もちろん、神様は他の人を使って、様々な方法を使って、間接的にその人が捕らわれた状態から脱出するきっかけを与えて下さるでしょう。しかし、根本的にその人の心の飢え渇きを、ぽっかり空いた穴を埋めることができるのは、依存の代替物となりうる、趣味、善行、仕事、ボランティアそのものではなく、人知を超えた神様の豊かな愛、慰め、赦し、希望であると信じます。
それを受け取るには、まず、キリストのところに行くこと。そして、自分は存在しているだけで神様の目には大切なことを知り、そのままの自分で行っても受け止めてくれるキリストの存在を信じていく。そして徐々に、自分は神様から離れ、自分中心に生きていたことを認め、神様の愛を知ることで、自分は自分の為に生きているのではないことを知って行く、すると、自ずと自分の抱えている問題(重荷)をキリストに祈って相談し、委ねていけるようになるでしょう。大切なことは、今迄の自己中心の人生(聖書ではそれを罪といいます)を悔い改め、キリストから学んでいくことです。キリストという愛に満ちた方から、その品性、考え方、生き方を聖書を通して知って行く。そうすれば、自分のことばかり考え、何かを恐れ、それから目を背ける為に依存していたものから解放されている、変えられている自分に気づきます。世の中の心理療法には、自己中心の自分を認め、悔い改めるという過程はありません。ただ、本人をありのままに受容し、依存に変わる代替物を探させようとするのですが、それが根本的な解決になるでしょうか。
キリストのところには、そのまま(ありのまま)で行ってよいのです。しかし、キリストを信頼し、その愛を受け取れるようになると、心が変えられていくので、づっと「そのまま」ではないのです。必ず、変えられます。何かに捕らわれて苦しんでいた状態から、キリストの愛に包まれて喜びがある人生へと。 Y.O
*「主はわたしをつかわして、囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ、主のめぐみの年を告げ知らせるのである」 ルカによる福音書4章18節 (引用、口語訳聖書)
Sep. 2, 2019 Psalm 43:5
「わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。何ゆえわたしのうちに思いみだれるのか。神を待ち望め。わたしは なおわが助け、わが神なる主をほめたたえるであろう。」 詩編43編5節
先週、一泊二日で湯河原という温泉がある街へ行った時のことです。その夜から大雨が降り続け、ホテルの傍の小さな川の水位があっという間に上がり、流木を含む濁流へと変貌、このまま溢れてしまうのではと恐れを感じました。翌日もこの雨は降り続け、帰りの電車に乗る際、この嵐で電車が止まるのではと思った程です。そして、無事に帰宅し夜のニュースを見ますと、この大雨で佐賀県の家々が浸水している映像が報道されていて、驚きました。被災された方々の苦悩を思い心が痛みます。災害大国、日本と言われる程、近年何十年に一度しか起きなかった災害が毎年のように起きているので、次は自分の住む地域に起こってもおかしくはありません。
今日の聖書の箇所は、著者が現在の境遇を嘆き、神様に訴えている詩が祈りとなっているところです。この著者は、紀元前6世紀頃、自国(イスラエル)が他国(バビロニア帝国)に侵略され、バビロニア地方へ捕虜として連行され、 移住させられていました。彼らの元住んでいた街、エルサレムにあった神殿も含み、全てが破壊され、異国の地で捕囚の民として嘲られ、辛い日々を送っていたのです。しかし、イスラエルの民は、その嘆きを神様への祈りとして詩に記したので、詩編という形で聖書に残されています。
詩編42編から43編は、もともとは一つの詩で、3つの部分に分かれているそうです。各区切りが、下記の「わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。何ゆえわたしのうちに思いみだれるのか。神を待ち望め。…」で終わっています。3回同じフレーズが歌われていますが、この語調がその文脈で変化していきます。最初は、過去の良かった時代を思い出し、現状を憂い、自問自答的に、自分の魂に呟くような語調です。しかし、2回目、3回目と前向きに変えられていき、最後の「わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。何ゆえわたしのうちに思いみだれるのか。神を待ち望め。」は、神様が助けくれるから大丈夫だと確信をもって宣言するかのような、神様への賛美になっています。
これは、著者が神様に祈っている間に希望が与えられたことによります。その希望とは、「あなたの光とまこととを送ってわたしを導き」(3節)とあるように、神様の光とまことがあれば、自分はこの状況を乗り越えられる、自分の力には限界があり、状況も変わらない、先行きが不透明であっても、神様の光とまことが自分を平安に導き、助け出されるという信仰が与えられ、希望がもてたのだと思います。その光とまこととは?イエス・キリストのことです。この祈りが記されてから数百年後、キリストは光として、まこと(真理)としてこの世に来られたからです*。それは、全ての人々を暗闇から光へ導くため、また当時の哲学者達を通しても、時代によってかわらない真理などないと語られ、絶望と諦めしかない状況に、変わらない真理として神の救いの福音をもたらすために来られました。この筆者は、この光と真理が、いつ来るのか、またどのように来るのか明確に示されていなくても、神様の霊によって示されてこの詩を書くように導かれたのだと信じます。
どの時代でも、どの国でも、様々な環境により、苦難に会っている人々はうめいています。今、日本でも。その方々に必要な助けが与えられますように、そしてその支援は目に見える者を通して与えられるのですが、その背後に働かれている神様の光とまことを見出し、希望を持ってほしいと、願いつつ、特に今困難な状況にある人の為に祈っています。Y.O
* 「わたしは光としてこの世にきた。それは、わたしを信じる者が、やみのうちにとどまらないようになるためである。 」ヨハネ福音書12章46節、「イエスは彼に言われた、『わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。 』」ヨハネ福音書14章6節
(引用、口語訳聖書)
Aug. 17, 2019 Psalm 18:2
「主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。」 詩編18篇2節
栃木県の那須は避暑地として、以前は知られていましたが、ここ最近の気候の変動により、もはや暑さを避けられなくなってきたようです。私はこちらに住んで3年目ですが、今年は那須の山のエリアも湿度・気温共に高く、ましてや私たちが住む市街地は東京とほぼ変わりなく、寝室にエアコンのない我々は、寝苦しい夜を過ごしています。
先日、私たちはこの暑い夜に、エアコンもないチャペルでのゴスペルの練習に参加しました。ミンゴス(みんなでゴスペルの略)というグループが毎週火曜日に、このアジア学院内のチャペルで練習を開催していますが、指揮者にリードのもとに暑さを吹き飛ばす勢いで、ゴスペルソング”The Lord is my rock”(主はわが岩)等を英語と日本語交互にを歌いました。一時間程でしたが、とても楽しかったですし、元気になります。また、このグループは誰でも歌いたい人は気軽に参加でき、アジア学院の学生等。様々の国の人がいて、国際色豊かです。ゴスペルソング自体は神様に捧げる賛美ですが、賛美をしている側にも力が与えられます。毎週来ている私たちの友人は、その日仕事でどんなに疲れていても、ここに来て歌うと、元気になって帰宅できると言ってます。
ゴスペルの歌詞は、多くは聖書の詩編という詩の中から引用されています。たとえ、那須塩原がもはや避暑地でなくても、このミンゴスの練習場所は気温やエアコンに関係なく、まさに暑さを吹き飛ばせる場所であります。なぜなら、この詩編で歌われているように、神様ご自身が、どんな状況からも私たちが身を避けることができる岩であり、盾であり、救いだからです。私は様々な困難な状況に直面する時、神様に助けを祈って叫ぶと、必ず逃れの道、場所を備えて下さったということを今迄経験しているので、だからこそ、神様にありがとう!神様はすばらしい!と、心を込めて歌えるのです。そして、ゴスペルソングを歌った後は、しばらく頭の中で歌の余韻が流れ、益々神様の恵を感謝して、自身の心が引き上げられます。
これからも、出来るだけ参加し、もっとたくさんのゴスペルソングが心に書きつけられて、いつも口ずさむことができたらと願います。日常生活で様々な事が起こります。心身ともに疲れ、心が引き下げられたり、不条理なニュースを見て「何故?」と心が痛んだり。。しかし、それらの気持ちを引きずらないで、下を向かず、目を挙げて、イエス・キリストに心を向けることはとても大切です。このことは現実逃避ではなく、気晴らしでもなく、逆に、これらの状況に向き合う為にも、心を強くし、励まされるため、キリストが救い主であること、またこの方にあって、どんな状況でも希望を持つ事ができるということを確認する必要があるからです。まさに、主は私の避け所、岩、盾、私の救い主です。
日本各地、特に都市部では、ゴスペルのグループはいくつかあると思いますので、お勧めです。多くのグループはクリスチャンでない人も多く、単に歌うのが好きな方々が集まり、熱く歌っているそうです。ミンゴスの場合、今の季節、水分補給は必要なので、タンブラーかペットボトルを持参で。(今回うっかり忘れてしまいました。。)O.Y
Aug. 3, 2019 Psalms 97:10
「主は悪を憎む者を愛し、その聖徒のいのちを守り、これを悪しき者の手から助け出される。」 詩編97篇10節
今年も暑い8月が始まりました。日本では多くの平和のための行事が、各地で行われていると思います。私たちの教会(西那須野教会)でも毎年8月は平和月間として、今年も平和に関する講演を講師を招いて開催する予定(講演のタイトルは「平和の反対語は?」)で、また礼拝中には特に平和のための祈りを捧げています。さて平和の反対語はなんでしょうか。戦争、争い?
「私は、日本に再び戦争をもたらそうとしているA総理は赦せないし、『悪を憎んで人を憎まず』と言われても難しいです!」先日の教会での聖書勉強会で、あるご婦人がこう発言されました。牧師がちょうど、聖書の箇所から「人を憎むのではなく、悪を憎む、つまりその人の背後にいる悪魔を憎み、人は憎む対象ではなく、愛する対象です。」と説明したことに対するコメントでした。現在の日本では、経済的豊かさを保ってくれる政治家が支持され、世界で唯一の平和憲法を変えてしまっても、やむをえない、仕方がないと考える人が多い中、若い時から戦争のない平和を求て活動してきたの彼女にとって、きれいごとを言っていられないのだと思います。
「どうしたらよいんですか?」と彼女は続けて牧師に質問しました。牧師は「A総理が変えられるよう、祈ることです。」と答えました。イエス・キリストは、「しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。 」*と教えられました。これは感情的には不可能に近いことですし、キリストを信じて、その教えに従おうと決めている者にとって、いつもチャレンジです。しかし、神様が相手を憎まないように、「私たち」の心を変えて下さることを願え、またその祈りはきかれるのが感謝です。また、神様を信じる者にとって、人ではなく、悪自体を憎むべきが今日の箇所から示されます。そして、神様は悪を憎む者の命を守り、悪い人たちから攻撃されても助け出してくれるというのです。この聖書に記される神様の約束が、私たちのような弱い存在の心を支え、平安を与えてくれます。
「祈るなんて、現実的ではない。何か具体的にしなければならない」と思われるかもしれません。もちろん、国民としての意志を選挙等で表明したり、なすべきことはたくさんあり、無関心にならず、どんな小さなことでも平和的な活動をされることは良いことです。また、神様に世界平和を祈ってもすぐには聞かれないかもしれません。しかし、神様の御心にかなう祈りは必ず聞かれると聖書は記しています。ただ、神様の答えられるタイミングと方法が、私たちの想像するものと異なる可能性が高いです。
世界政治を操る大きな悪の力に対して、一番効果的なのは、実は祈りなのです。なぜなら、愛と平和と正義を人の社会に臨まれる神様が、そもそもこの世界を創り、支配されているからで、その大きな存在が祈りに答えるからです。神様は、一つの点だけを見ているのではなく、大きな時の流れを同時に見ることが出来る方です。人間の視野は狭く、時によって限られていますから、一時だけみると、戦争や不条理なことがたくさん起きて、本当に神なぞいるのか?と疑ってしまいがちです。しかし、世の中の不条理なこと、戦争は罪ある人間がしていることであって、神様がしていることではないことを認識し、神様のせいにしてはならないと思います。神様は公平・正義な方で、最終的には悪を裁かれ、いつかキリストにある平和が支配する時がくることを信じ、忍耐強く祈りを怠らないようにしたいと願います。 Y.O
July 27, 2019 2 Corinthians 2:14
「しかるに、神は感謝すべきかな。神はいつもわたしたちをキリストの凱旋に伴い行き、わたしたちをとおしてキリストを知る知識のかおりを、至る所に放って下さるのである。」 コリント信徒への手紙2 2章14節
今年は、長い梅雨も明け、台風の到来と共に夏本番となってきました。私は夏の暑さは好きですが、夏で困るのは虫です。蚊、ダニに刺されると、私の皮膚は人一倍腫れあがり、かゆみが続き、なかなか治りません。虫よけを体にたえずつけるのは体に悪いですし、実はあまり効きません。同じ効果がないのであれば自然のものをと色々調べ、ゼラニウムというハーブが虫よけになると知り、その液を薄めて体にスプレーしたり、お湯に垂らして部屋に香りを漂わせたりしています。効果は? よくわかりませんがとにかく刺される時はさされますが、ハーブの良い香りという点で満足しています。
香りとにおいの違いはなんでしょうか。少なくとも食べ物に対しては香りを使うより、匂いがよく用いられますし、不快を感じるもの対しては臭うを使います。花の香、お香の香り、また香ばしい香りと食べ物にさえも、どちらかというと、心地よい、さわやかな、良いにおいのする事に関して、香りを使うのではないでしょうか。
香りが良い品性とか影響力として比喩的に聖書で用いられています。クリスチャンというのは、本来信じている神様、キリストがどういう方なのかを知識として聖書を通しても知っているはずで、そして知識にとどまらず、それに倣うものであるはずです。もし、知っているとおりに、キリストに倣っていれば、その良い品性を接する人みなに、醸し出しているはずです。しかし、現実に私を含めて、なかなかそうはいかないのではないでしょうか。私はいつもこれで失敗するのですが、攻撃的な出方をする人や、相手のことを全く考慮しない自分本位の要求を突き付けてくる人に対して、言葉には出さずにいても、嫌悪感が顔にでてしまうことがあり、相手に対して嫌悪臭を放ってしまいます。目の前に、自分にしか見えない鏡があって、自分がどういう顔をしている見えたらいいのにと思うことがあります。(笑)以前は言葉にも出してしまっていた時があり、信仰を持ってから、言葉に出さないようにと自制がはたらき、少しは変えられたようです。言葉は一度出てしまったら、取り返しがつきません。
一方、心で相手に対して苦い思いもちながら、表情でニコニコしているのは偽善です。偽善を神様は嫌われます。心の内側から、苦い思いを持たないよう変えられなければなりませんが、いずれにしても、一晩では品性は変わらないものです。時間がかかりますが、諦めずに、そういう相手が攻撃をしかけてきても反応しない、つまり心の中でも静かに反応し、どう相手に対応すべきかをその場で神様に祈って、神様に助けて頂きたいと願います。
古代イスラエルの国に、ネヘミヤという人がいました。彼は当時世界を征服していたペルシャ帝国により、国を奪われていましたが、才能があったため王の件酌官(毒見役のようなもの)という職について、王の横にいつも仕えていました。彼は、突然の王の質問に対して、それに答えるまでの数秒間に、心の中で神様にどのように答えたらよいかを祈り、そして知恵が与えられ、結果、彼の征服された国の首都で、破壊されたままのエルサレムの城壁を修復してよいという、寛大な許可を得ることができたのです。*
私もこの信仰の人、祈りの人であるネヘミヤのように、その瞬間に心の中で祈って、適切な対応を出来るように変えられていきたいと思わされます。ハーブの香りとまではいかなくても、せめてバッファーゾーン(緩衝地帯)のような、争いとか衝突を和らげるような雰囲気、例えば、争うのがどうでもよくなるような、天然ボケ的匂いを醸し出せるように心が変えられたらと思います。 Y.O
*ネヘミヤ記2章1-8節
July 19, 2019 Romans 11:6
「しかし、恵みによるのであれば、もはや行いによるのではない。そうでないと、恵みはもはや恵みでなくなるからである。」 ローマ人への手紙11章6節
先日、はっとさせられる絵本「たいせつなきみ」(マックス・ルケード著)、に出逢いました。内容は、木で造られた小人の世界の話です。その小人の村では毎日、互いに体にシールを貼りあっています。それは星シールとダメシール。星シールは、「あなたは素晴らしい!」、「いいね!」と他の小人が評価したとき体にはられ、ダメシールは失敗をしたり、見た目が悪かったり、他の小人と同じでないと「あなたはだめな人間だ!と」だめシールを貼られます。主人公はいつもダメシールを貼られ、自己嫌悪になり、自分は価値がないと卑屈になります。ある日、彼は一人だけ体に何のシールも貼られていない小人に出逢います。理由を聞くと「エリに会いに行っているからよ」と。
エリとは、村の丘の上に住む、村のすべての木の小人を創った彫刻家。そして、主人公はエリに会いに行き、エリと話しをします。エリは主人公に、互いにシールを貼り合うことがどんなに意味がないことかを説明します。なぜなら、造ってくれたエリが、一つ一つの小人を異なって作ったので、他の小人がおまえをどう思うか、気にすることはないと。気にするからシールがくっつくと。「大事なのは、このわたしがどう思うかなのだ。わたしはおまえのことを、かけがえのない宝だとおもっているのだよ。」「時間がかかるけど、私のところに毎日会いに来れば、私がどんなにおまえのことを大切におもっているか、気づいていけるようになるよ」と言われます。
この話は、全部で6話構成となっていて、これは最初の一話ですが、私はいまだに、星シールとダメシールを貼り合っている習慣に対して、正直に向き合わず、ほおっておき、よって心がかえられてない、未だに縛られていて自由でないと改めて気付かされたからです。頭では、キリストを信じる信仰を与えられ、聖書を読んで、人と比較することの無意味さ、神様に目を向けて、神様に仕えて行こうと思っていたのですが、実際、特に教会の人間関係のなかで、人の評価を気にして奉仕している時があります。しかし、そこには喜びがなく「ああ、また失敗してしまった。」「こう思われるのではないか。」「こう言われるのではないか」と頭なのなかでくるぐる考えてしまい、本当に疲れます。初心に戻ろうと励まされました。
一人一人が神様に創られた大切な存在。神様の与える恵みというのは、その人が何か才能があって仕事ができる人、性格がよい人、人徳がある人、神を信じている人だけに与えられるものではないのです。それは”全ての人”に対して与えられる救いの恵だからです。その証拠は、このような愚かな行動をしている、この小人のような、欠けがあり、それでいてプライドが高くてすぐ傷つき、いじけてしまう自分を救うために、神の子、イエス・キリストが命を犠牲にしてまで十字架で死んで下さったことだと聖書に記されています。そして自分の存在価値は、人が決めるものでもなく、自分で決めるのではない、神様がどう、自分を思うかで、それはイエス様の十字架で示された愛によってわかります。どれほどわたしたち人間を価値あるものとして愛し、正しい道に導こうと、命が心に与えられるようにして下さったのです。このことを信じられるのは、幸いです。私も、毎日エリ(ちなみに、エリとはヘブル語で”神”の意味)に会い、この愛をおもいださなければと思います。徐々に、人からの評価を気にしないように変えられる。SNSでいいね!がつかなくとも関係ない。人と比較せず、人の評価を気にせず、神様の愛に応答して、何をするにしても神様の為に喜んでしようと心が変えられていきたいと願います。Y.O
*「たいせつなきみ」マックス・ルケード著、“You are special”Max Lucado、翻訳:ホーバード豊子 出版社:いのちのことば社フォレストブックス, 2007
July 10, 2019 Ephesians 5:15-17
「そこで、あなたがたの歩きかたによく注意して、賢くない者のようにではなく、賢い者のように歩き、今の時を生かして用いなさい。今は悪い時代なのである。だから愚かな者にならないで、主の御旨がなんであるかを悟りなさい。」エペソ人への手紙5章15-17節
皆さんは、ご自分の予定をどの程度先まで建てますか?私は仕事をしていた時は、一ヶ月の予定表に訪問先や会議の予定などをざっとうめ、急なアポが入ってもよいように余裕を持ってスケジュールを建てようと努める方です。そして、締め切りがあることは先延ばしにせず、なるべく早めに終わらせておくほうです。それでもその通りにいかず、ギリギリになることもありました。結局、その日に今日中になすべきことは何かと、優先順位をつけ、自分が建てた予定を柔軟に変えていかなければならないでしょう。
お金のこともしかり。家計簿をつけ、計画的に使うことは必要ですし、貯金をする余裕があればそれに越したことはありません。しかしその余裕がなく、予想外の出費があっても、それにみあう仕事がその時までに与えられ、なんとかやりくりできたということが多々あり、全て神様のおかげだと本当に感謝しています。身近な母の人生を見ていてもそうだったし、私の短い人生を振り返ってもそうでした。「何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。…あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。」* とキリストが言われたことばのとおりで、思い煩う必要はないと安心できます。ただ、神様は「今」必要な分しか下さらないし、前もって余分に与えられませんでした。それは、余分にあると余計なことを考え行動するからでしょう。お金が余分にないことは感謝だと思います。なぜなら、お金はあればあるだけ人間関係で争いの基となり、もっと増やそうとすることに心を奪われるからです。今日も、友人が訪ねてきてくれて色々話をしていた中で、「でも、お金は足りないと思っているくらいが幸せかもね」、「神様がぎりぎりで、なんとかしてくださるしね」という話になりました。
しかしながら、今の世の中、神様がなんとかしてくれるから何もしないで、何も気に留めずぼーっとしていてはよろしくないというのが、今日与えられた聖書の言葉より気がつかされます。聖書というのは、ここに少し、あちらに少しと、一つのことに対してバランスを取って書かれている事柄があります。神様に委ね、思い煩う必要はないが、一方で賢く歩みなさい、今の時を生かして用いなさい、なぜなら今は悪い時代だからとあります。キリストの時代から約2千年経った今、産業が発展し、IT技術が進んで便利になりましたが、貧富の差は拡大し、孤独な人が増え、犯罪が巧妙になり、もっと悪い時代になっているかもしれません。貯蓄があればオレオレ詐欺に狙われ、ネット上ではSNSを利用した様々な悪の道、危険な罠が巧妙に張り巡らされている為、それに惑わされないためにも、賢く常に判断しなければならない世の中であります。
また、今の時を生かすということは、今日神様から与えられた時に、自分のしたいことをするより、神様のみ旨にそったことは何かを判断して選び取っていくことではないでしょうか。例えば今の私は、家事をする時間、運動する時間、人と会う時間、教会の奉仕をする時間、寝る時間、テレビ等で世の中で何がおきているか最低限の情報を入手る時間。。。、これらも日々必要なことです。しかし私にとって一番優先順位が高く、時間を費やしたいことは、聖書の言葉と向き合い、祈ることです。聖書のことばから、魂の心の栄養を受けて、それを自分の為だけでなく、他者にも分かち合う、そして人と接して、相手の必要を聞いて共に祈る、これは神様の御心にそったことだと思います。なかなかこのように時間をやりくりできないのが現実ですが、優先していきたいと願います。 Y.O
*マタイによる福音書6章31-32節
July 4, 2019 Psalm 90:12
「生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように」 詩編90篇12節
先日、東京の実家に帰っていた時に、大学時代の友人から、また一人、共通の仲良くしていた友の訃報を聞きました。思わず声を挙げ、しばし泣きました。「また」というのは、40-50代のこの数年間で3人の学友と1人の元職場の同僚が病気等で他界し、皆後になってから知らせを受けたため、4人とも突然のことで最後に会うチャンスもなく、葬儀にも行くこともできませんでした。私が落ち込んでいると、そこに居合わせた妹が「人はいつかは亡くなる。お姉ちゃんだって、以前死にかけたじゃない」と言われ、ああ、そうだったと。自分も40代前半で癌を患い大手術をして生かされ、これからは一日一日を大切に生きようと決意したものでした。あれから時が過ぎ、そのことを忘れかけている自分に気がつかされます。その夜、知らせてくれた友人と久しぶりに会うことが出来て、二人で故人を偲ぶ時が持てたことは大きな慰めであり、感謝しています。
若い時は死を考える暇がなく、高齢になる迄、同世代が亡くなるということはそれほど現実味がないものです。人は他者の死に際し、その時は人生や死を考えますが、日々の忙しさの中で次第に埋没されていくのではないでしょうか。逆に、死んだらどうなるかが分からないまま、死のこと、将来の先行きばかり考えてしまうと、心の病になってしまうかもしれません。それでも、現実に私たちの体は日々老化し、永久にはこの体で生きることはできません。何のために生きているのか、なぜ自分が存在しているのか、そんな難しいことを考えることはせず、とりあえず目の前のやるべきことを一生懸命こなすしかない。また、うまく心のバランスを取るために、一時的な気晴らしや癒しを求めて、何かに打ち込むこともできます。しかしながら、私の友人たちのように、死は突然やって来ます。
もし、瞬く間に過ぎ去っていく人生であっても、「死んだ後にこうなる」という、いわば希望があればどうでしょうか。私は神の存在を信じ、自分が目的を持って神に創られた存在で、私が生きている間も私を助け導き、死んだ後も天国でケアしてくれると聖書に書かれているので、その約束を信じています。すると、死に対する恐怖、自分の存在がいつか消えてしまうのかという不安に怯えることはありません。もちろん、感情的には家族や友人の死は悲しいし、思い出して泣くこともありますが、その都度神様から慰めが与えられます。寿命については、どんなに頑張っても私がコントロールできないことも承知していますが、夫とは、共に力を合わせて人々に仕えられるように神様が夫婦としてくれたのですから、なるべく長く共に生かさせてくださいと願い求めています。しかし、たとえそうでなくとも、全てのことは神様が何とかしてくださるという信頼が持てることは、本当に幸いです。
ちょうど、タイムリーに与えられた聖書の箇所が下記の「生涯の日を正しく数える」というところでした。「生涯の日を正しく数える」とはどういう意味なのでしょうか。これは、何歳まで生きられるかしら?と算定することではなく、いつかはこの世での生活が終わるという現実を受け止めた上で、「きょう」という日に何をなすべきかを見極めることかと思います。それは、ある人を赦すと決めることかもしれない。何もできなくても、ベッドで静かに祈ることかもしれない。私の思いは愚かで、状況に左右されやすく、頼りにならないので、神様からそのような判断力、知恵を頂く必要があります。私を創った全知全能の神様は、今のこの時の私に何が必要か、また何を私がするのがベストなのかをご存知だからです。同時に、私がロボットのように神様のプログラムに従えというわけではなく、神様は私の願い、私の志も考慮した上で、また私が自分の判断で失敗したとしても、優しく軌道修正に導いて下さる、愛のある方であるのが感謝です。
今日が最後かもしれないと覚えつつも、その日を喜んで通常通りに生活し、そして死ねば天に召されるという平安な気持ちでいたいと願います。残された日々を大切に生きようと、以前した決意を忘れずに。。 Y.O
June 30, 2019 John 15:8
「あなたがたが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう。 」ヨハネによる福音書15章8節
先日、久しぶりに市営プールで泳ぎました。通常私は好んで泳がないのですが、折しもアクアビクス初級のクラスが開催されていたので、それに出るついでに少しコースを泳ぎました。私は潜水している間が好きです。潜水といっても、泳ぎ出す時に壁を蹴って、その反動で潜水し、そして浮かび上がって泳ぎだすまでの短い間のことですが、水から出る瞬間がなんとも言えない爽快感があり、特に折り返すときは、すでに25m泳いで疲れているのて、次の25mへ泳ぎだすまで水中で呼吸を整え、体を思い切り前へストレッチできるからです。昔、スキューバダイビングをかじったことがありますが、水の中というのは一種神秘的な世界です。
キリスト教ではバプテスマ(洗礼)という儀式があり、キリストを信じると決めた人が、皆の前でその信仰を表明するために行うものです。もともとは、川や湖で体全部を一瞬静めて、すぐに上がるというやり方でしたが、その後、歴史の中で宗派によってそのやり方は様々となり、例えば、私の母は利根川上流でザブント体を浸して受けたそうですが、私は教会堂の中で水を少し頭にかけるというやりかたで受けました。バプテスマはラテン語の”バプティゾー”から来ていて、「浸る」という意味だそうで、その点で本当は私も水の中に浸り、ザバッと水から出る瞬間を味わいたかったのですが、形式にこだわる必要はなく、洗礼を受けること自体に意義があるのでよしとしています。
洗礼は古い自分のお葬式と新しい自分の誕生日とよく例えられます。キリストを信じることで、信じる前の古い自分は水の中で一度死に、水から上がった時に新しく生まれることを象徴しています。イエス・キリストは「人は新しく生まれなければ神の国を見ることができない」*1と、言われました。つまり、人として生まれてきたままでは天国へ行けないということです。新しく生まれるというのは、もう一度母親のお腹のなかに入って出てくるということではなく、キリストを救い主として信じて、新しい命が与えられることです。これは心の中の変化のため見た目は変わらなくても、内側が信仰をもつことで新しくなり、今迄と異なる生き方をしていくということです。新しく生まれた私は、もはや自分のために生きるのではなく、神様のために喜んで生きたいという思いに変えられていきます。神様が何を喜ばれるかというと、実を結んでいくことです。
実を結ぶとは、私の言動がキリストのようになっていくこと、具体的には愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制 *2を周りの人に表すことです。私が愛を示していければ、周りの人が「ああ、あの人が信じている神様がそのような方だからか。キリストはすばらしいね」と私ではなく、神様に栄光が返されるためです。それが新しく生きる私の目的となり、その目的のためには、神様は願いを叶えて下さるという約束があり、自分の力や性格によってできなくても、神様が助けて下さるというのが大きな励ましです。実を結べるようになるには時間がかかります。たとえ時間がかかっても、新しい命にあって、聖書のことばから学びつつ、キリストに倣い日々実を結べるように過ごしていきたいと思わされます。Y.O
*1「イエスは答えて言われた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」。 」ヨハネによる福音書3章3節
*2 ガラテヤ人への手紙 5章22-23節
June 27, 2019 Hebrew 11:17-19
「信仰によって、アブラハムは、試錬を受けたとき、イサクをささげた。すなわち、約束を受けていた彼が、そのひとり子をささげたのである。この子については、「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるであろう」と言われていたのであった。彼は、神が死人の中から人をよみがえらせる力がある、と信じていたのである。 」 へブル人へ手紙11章17-19節
「これから、山へ行くぞ山へ。」朝の一仕事を終えて家に戻ってきた夫の第一声。前から、茶臼岳を登ろうと計画をしていたので、後は天候とお休みの日程次第でしたが、「え?今から?」、。と服を着替えてすぐに出発。その日、那須連山は雲で覆われていましたが、幸い雨は降らず、かえって日差しが強くないので快適でした。登山口に車を止め、いざ歩き出しましたが、最初から石段の斜面を登るコースで、息が切れて足取りが重く、これから約3時間のコースを達成できるのかと自信がありませんでした。しかし、途中緩やかな道もあり、そこで息を整えられて、美しい新緑の山々と、硫黄が所々吹き出す岩だらけの斜面をじっくり見る余裕もあり、しばし感動に浸りました。山の尾根から少しだけ除く青空に、鳥のさえずりがだけが響きわたり、風で運ばれる冷んやりとした雲が、私たちの体を撫でていきました。お昼の休憩を峰の茶屋で取り、後半は急な岩だらけの斜面を登り、ようやく茶臼岳山頂へ。登山はハードなスポーツですが、頂上に着いた時や、後ろを振り返り今迄登ってきた道を見下ろせた時の達成感は、なんとも言えません。私達のようなビギナーから、熟練した登山家まで、登山は多くの人を魅了します。
同じ登山をするのでも、非常に暗い、悲痛な気持でしなければならなかった人がいます。それは聖書に出てくる、アブラハムという、イスラエル人の先祖です。彼は神様から言われて、モリヤ山を息子と登らねばなりませんでした。その目的は、登山を楽しむためでも、旅行のためでもなく、なんと、大切な一人息子イサクを山で、神様に捧げなさいという命令のためでした。この子は、アブラハムが75歳の時に神様が子を与えると、そして彼の子孫を大いに祝福すると約束された、100歳の時にようやく与えられた子でした。3日かけての険しい登山の目的は、山頂で息子を手にかけること。アブラハムの苦悩は想像を絶します。しかし、アブラハムは寸前まで青年の息子にそのことを告げずに、「捧げものの羊はどこにあるんですか?」と聞かれても、「息子よ、神様が用意してくださるんだよ」と答えています。彼は、「実はこれはこういう結末となる」と知らなくても、とにかく神様は約束したのだからと、イサクはたとえ死んでも生きかえるだろうと信じて命令に従おうとしました。そして、実際、神様はアブラハムを試みてこう命令されたのであって、山の上でイサクを捧げることなく、神様が代わりに用意した羊を捧げたというストーリーです。
ある人は、いくら命令に従うか試すにしても、あまりにも残酷ではないかと言います。しかし、これは後に、神ご自身が残酷な犠牲を払ってくださることを示す型なのです。神が自分の独り子である、イエス・キリストを十字架を、つまり、このイサクの代わりに捧げられた羊はイエス・キリストを示しています。人の罪は、誰かが代わりに命をもって贖わなければならない程、神の前に重く、深刻です。神様は、誰一人として、人間を犠牲にしたくない、だから自分の子(神の子)を犠牲にされた、そこまでして人間を救いたかった、この大きな神様の愛が、このイサクを捧げる試練を通して示されてます。さらに、死んで終わりではなく、イエス様は神様が復活させますが、そのイエス様の復活が示すことは、私たちも、この神様の救いの計画を信じて、悔い改め、イエス様を救い主として受け入れれば、新しい命が与えられるということなのです。
アブラハムのケースから、目に見えない神を信じ、また確証されたものがはっきりと示されていなくても、神に委ねて一歩踏み出すと、想定外な道が開かれ、やはり神は生きていて働いてくださっていると感謝する。この繰り返しにより、私たちの信仰は成長させられるのだと思います。そのために、神様は聖書を通して、たくさんの救いの約束を与えて下さっています。この世がどんなに暗くとも、不条理なことばかりでも、その約束には希望の光があります。その光に照らされ、時にかなった神様の助けと、日々与えられる恵に感謝し、ゴールに向かって一歩一歩、歩んで行けたらと、祈り求めます。 Y.O
June 21, 2019 John 15:5
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。 」ヨハネ福音書15章5節
ご高齢の方と共に歩く際は、歩くペースを相手に合わせ、色々気を遣う必要があります。このことは他人に対してだと覚えているのですが、身内に対してだとつい忘れてしまいがちです。少し前に、私は母と共に電車とバスで初めての場所へ行こうとした時、駅でバス停を探さねばなりませんでした。私はちょっと先に歩いてそのバス停の場所まで行き、確認して戻ろうとすると、母の姿が見えません。驚いて駅のロータリーを探しましたが、どこにもいない。さほど広い場所ではなく、見通しも良いので、ついてくるものかと思ったのです。携帯をならしても出ない。するとまもなく、駅の改札に向かう階段から母が下りてきました。母は私の姿を見失い、私が階段を上がっていったと思って、上に行ったのでした。一緒に目的地に向かうには、時間がかかっても、乗り遅れそうになったとしても相手のペースに合わせて歩かなければと反省させられます。
聖書には「神と共に歩く」という表現が、クリスチャン生き方としてよく使われています。「このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受けいれたのだから、彼にあって歩きなさい。 」*1、「主のあなたに求められることは、ただ公義をおこない、いつくしみを愛し、へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか。」*2 具体的に、「神と共に歩く」とはどういう意味なのでしょうか。ここで記されているように、不正なことをせず、慈しみの心を他者に持ち、謙遜な思いと態度で日常生活を過ごす、つまりキリスト・イエスに倣って日々歩むということだと思います。
しかし私たち人間は、このような神の基準には到底達しえません。それでも神様の愛を受け、感謝し、神様のなさることが人にとってベストだと同意するからこそ*3、一緒に歩んで行きたいと願い、そう求めるうのではないでしょうか。自分の力や性格でキリストのように出来なくても、祈って神様からその愛を注いで頂き、出来る力を与えてもらう、素直な心に変えてもらうことは可能なはずです。
「神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません。」*4 イエス・キリストの歩まれたように歩もうとする人は、神のうちにとどまり続ける、つまり神様と繋がっている状況においてそれが可能となります。ブドウの枝がその木に繋がっていさえすれば、栄養分が送られ、実を結べるように。いつも、イエス様に繋がっていられるよう、日々祈り求めていきたいと思います。Y.O
*1 コロサイ人へ手の手紙2章6節
*2 ミカ書6章8節
*3 「二人のものは、同意していないのに、一緒に歩くだろうか」 アモス書3章3節
*4 第一ヨハネの手紙2章6節
June 14, 2019 Colossians 3:13-15
「互に忍びあい、もし互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。これらいっさいのものの上に、愛を加えなさい。愛は、すべてを完全に結ぶ帯である。キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。 」 コロサイ人への手紙3章13-15節
アメリカ合衆国の元大統領のオバマ氏が、2016年5月に広島平和記念資料館を訪れた際、4羽の折り鶴を持参し、2羽を広島の子ども達へ渡し、もう2羽を記帳台に置いたそうです。おそらく、日本の文化を配慮した上での平和を祈願して行った行為だと察します。その3年後、現在の大統領が国賓として来日しましたが、その際自衛隊に高額な兵器を売りつける交渉がなされたとのことです。折り鶴と兵器。同じ一国の大統領が携えて来るものとして、なんと対照的でしょうか。
シャローム。これはイスラエル人が「こんにちは」・「さようなら」の挨拶として、日常的に交わされていることばで、ヘブライ語で”平和”を意味することばです。イエス・キリストも弟子たちを伝道旅行に送り出す際に、「その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。」*1 と指示されました。つまり、イスラエル民族は、昔から挨拶のことばに、相手の平和を願う祈りが込められているようです。これは、この民族が祝福、恵み、平和というのは神様が与えるものだということを知っていて、それを互いに願うという、宗教的背景からきているのでしょう。
自分の愛する肉親を、ナチの強制収容所で殺され、自身だけは奇跡的に収容所から生きて出られたコーリン・テン・ブームというオランダ人の女性がいました。彼女は戦後、その信仰により、キリストが与える愛を持つ人として、元収容所の看守を赦すことができたという証を彼女の自伝*2 より知りました。最初、彼女の目の前にその元看守が現れた時、怒りの感情、赦せない心が沸き起こったそうですが、不思議に神の愛が注がれて、その元看守に握手の手を差しだし、赦せたそうです。これは彼女の意志の力ではなく、キリストによる平和が恵みとして与えられたから可能だったのでしょう。このように、キリストを信じる信仰により、敵対していた関係が和解の関係へと奇跡的に変えられていくという証が世界中で起きていて、それを聞くにつけ、個々人の平和は可能なのだと励まされ、慰められます。
人は誰でも平和・平安を願う心を持っているはずです。しかし、互いの利害が相反したり、大切な人の命を奪われると、争う状況や相手を赦せなくなります。この社会で生きている限り、いつも平和な心を自分の意志だけで保ち続けることは限界があるのではないでしょうか。 しかし各々がキリストを通して与えられる平和があるようにと、互に祈りあえれば、きっと平和が実現すると私は信じます。なぜなら、キリストこそが平和であり、十字架の死によって、まず人が神と和解できるようにして下さり、その平和が、コーリーのように、人同士の平和に及んでいくことが可能だからです。相手を赦せると、自身の心に平安がもたらされるという、キリストの平和を経験する人が増えていくことを願いつつ。Y.O
*1 マタイによる福音書10章12節
*2 Corrie ten Boom, ”The hiding place”, 日本語訳 「わたしの隠れ場」、いのちのことば社
June 10, 2019 Hebrews 11:1
「さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。 」ヘブル人への手紙11章1節
2019年の5月末から劇場公開となった邦画「僕はイエス様が嫌い」を観ました。あらましは、おじいちゃんが亡くなり、雪深い地方で独り暮らしとなったおばあちゃんと一緒に暮らすため、両親と東京から引っ越して来た小学生が主人公。この小学校はキリスト教系の学校のため毎日礼拝が行われており、彼はいつもキリスト教の神様(イエス様)にお祈りするという環境に戸惑いを感じつつも、友達も出来、次第に慣れていきます。ある日、目の前に小さなイエス様が現れ、願いを叶えてくれるという経験をし、イエス様の存在を信じるようになりますが、その後、思いがけない悲劇が起こります。
最後の場面をどう受けとめるか、この映画のテーマは何かは、個々人の想像・解釈に任せるように出来ているようでした。その鍵の一つは、映画のエンディングの讃美歌の歌詞にあるのではないかと思いましたが、実際この歌詞を聞いていた人はどれだけいたのかとも思いました。
♪主イエスとともに 歩きましょう いつも
うれしい時も 悲しい時も 歩きましょう どこまでも ♪
聖書では、神を見た人はひとりもいないと記されています。神の幻を見た人々、神のイメージを見た人々、神の現れを見た人々はいますが、完全な神を見た人はひとりもいない、もし直に見たら生きていられないというのです*。イエス様が2千年前に地上に人となって現れましたが、この状態は神でも人でもあり、天にいる状態の神としては人の前に現れていないからでしょう。つまりキリスト教の信仰とは、この映画のような目に見えるイエス様が出てきて、お祈りしたことを叶えてくれる神様を信じることではないのです。むしろ、下記の聖書の箇所が示すように、見えないけれどもその存在を信じ、また自分の願いがその通りに叶えられなくても、祈りは必ず聞かれていて、神様に事の沙汰を任せるのがベストだという確証を得ていることではないでしょうか。
一般的に、目に見えるものしか信じられないという方が多いと思います。一方で、例えば「心」は目に見えないものですが、「心」の存在を前提として人は生きていて、どの民族にもどの時代にも言葉の表し方が異なっても「心」の概念を持っています。この映画の讃美歌のように、嬉しい時、願い通りになる時だけ見えて、ともに歩いてくれるイエス様を信じるのではなく、悲しい時、イエス様なんかいないじゃないか!と絶望のうちにいる時も、見えなくても共に歩いてくれていたことを信じることが信仰ではないかと、そのような信仰が与えられ、希望を持って、イエス様に感謝して日々生活をしていきたいと、この映画を観て思わされました。Y.O
*「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」出エジプト記33章20節
June 4, 2019 John 10:14-15
「わたしはよい羊飼であって、わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている。…そして、わたしは羊のために命を捨てるのである。」ヨハネによる福音書10章14-15節
「メエーーー!」と毛を刈られるのを嫌がる羊が、悲痛の声で鳴いていると、夫が「よしよし、もう少しの辛抱だからね」と羊の頭をさすっていました。今日は、夫が務める幼稚園で飼っている羊たちの毛刈の日でした。この2匹の羊たちは園庭に飼われていて、園児たちが餌を挙げたり世話をしていますが、年に一度長く伸びた毛を先生たちが業務用バリカンで刈ります。園児たちもちょこっとハサミで毛刈体験が出来ます。刈られている間、時折暴れる羊を先生たちが3人がかりで抑えているのを横で見ていた私は、「やってみる?」と言われましたが遠慮しました。牧場で飼われてい羊は、もっとまめに毛を刈られ慣れていてこれ程抵抗しないかもしれませんが、この羊たちは一年に一度であり、時間もかかるのでしょう。まもなく、刈り終わってすっきり、きれいになった羊は、水と餌を安心して食べていました。
羊という動物は、人間により定期的に毛を刈ってもらう必要があります。もし長期間刈らないでおくと、その毛の重さで皮膚が剥離してしまい、動けなくなり、ついには死んでしまうそうです。古代から羊飼いという職業は存在し、羊は人間にいつも世話をしてもらわないと生きていけない動物です。羊飼いは通常、それぞれの群れを任されていて、オオカミ等の野獣が羊を襲いに来たら追い払い、場合によっては命がけで戦わなければなりません。当時は羊飼いは銃などの武器をは持っていないため、野獣と戦うには危険が伴います。羊は群れの中にとどまり、羊飼いの声に従って動いていれば守られ、安全に過ごせます。
聖書に、イエス・キリストがご自分のことを「私は良い羊飼いである」と言われる箇所があり、羊が人間として例えられています。どのように良い羊飼いかというと、羊の為に命を捨てると言われています。ここでの「羊のために命を捨てる」というのは、イエス様が十字架で私たちのために死なれることを指しています。私たちの罪が赦されるために、代わりにイエス様が罰を十字架刑にて受けて下さったからです。そして、このイエス様による救いを信じた羊たちは、イエス様が死んで復活され、天に戻られてからも彼の声に聞き従って、地上での人生を歩んでいくということを意味しています。
ここでの「羊のために命を捨てる」というのは、イエス様が十字架で私たちのために死なれることを指しています。私たちの罪が赦されるために、代わりにイエス様が罰を十字架刑にて受けて下さったからです。そして、このイエス様による救いを信じた羊たちは、イエス様が死んで復活され、天に戻られてからも彼の声に聞き従って、地上での人生を歩んでいくということを意味しています。
キリストを信じた後も、各々自由意志があり、信仰の在り方、成長も一人一人異なるので、イエスの導きの声を無視してしまうこともあります。羊飼いの庇護の中にいれば安全なのに、自分の思いで行動を起こし、失敗し、人を傷つけてしまうこともあり、相変わらず頑固で弱い羊であるかもしれません。しかし、私たちがイエス様を信じている限り、たとえ彷徨ってしまうことがあっても、イエス様は決して私たちを見放さず、また立ち返って安全な羊飼いのケアのもとに戻るのを待っておられます。そのような優しい牧者である、イエス様に安心して、全てを委ね、聞き従っていけるよう、日々祈りたいと思わされます。 Y.O
May 26, 2019 Psalm 139:23
「神よ、どうか、わたしを探って、わが心を知り、わたしを試みて、わがもろもろの思いを知ってください。」 詩編139篇23節
昨年の夏、佐渡ヶ島へ旅行へ行った折り、佐渡金山跡へ訪れました。ここでの金採掘は室町時代まで遡りますが、多くの労働者が劣悪な環境で、掘り続けた様子を知り、心が痛みました。金に限らず、価値のある鉱石をまず探り当て、掘削し、精錬し、とその工程は非常に時間と労力、コストがかかります。だからこそ、製品としての価値があるわけです。
今日読んだ下記の聖書の箇所は、古代イスラエルの王様、ダビデが書いた神様への詩ですが、この「私を探って」の原語:探る(ヘブル語)は、「鉱山を掘り、鉱石を見つける」という意味も持つ動詞だそうです。ダビデがそう神様に語りかけたのは、自分では自分の心の深いところがわからないから、神様に探って下さいとお願いしています。私は以前この箇所を読んだとき、続く「わたしに悪しき道のあるかないかを見て、わたしをとこしえの道に導いてください。 」という文脈から、単純に神様に私の悪い思い・動機がないか探って、正しい道へと導てくださいという意味だと思っていました。
しかし、鉱山から鉱石を掘るという意味から、私のような心の中にも、神様のために用いられる可能性のある良いもの、志しなど宝となる原石みたいなものを探して下さいとお願いしていると解釈すると、より深い意味にとれます。神様に心の中を探してもらうだけでなく、「私の心を知り、私を試みて」と続くように、この「試みる」という動詞も「金属を火で試す」、つまり精錬するという意味もあるそうですから、私の心の思いを精錬し、良いものだけが残る様に、余計な不純物;思い煩い、悪い動機、苦い思いは火で精錬しそぎ落として下さいととれます。
生活の中で、全てが順調であると、自分の本性について気がつかない部分がたくさんあります。問題が起こり、当たり前に思っていたことがそうでなくなる、というような困難な状況になると、その人の心が揺り動かされるものです。その時に、このダビデの祈りを思い出したいと思います。私の心の深い部分は、もし火(問題)で試されなければ、自分がまあまあいい人かもと勘違いしかねません。揺り動かされた時こそ、神様に余計な、不純物の思いをそぎ落として頂き、やさしい、柔和な心で他の人と接することができるよう、神様のために用いられる器に変えられていくように、日々神様に導いていただきたいと願います。 Y.O
May 23, 2019 Hebrews 11:3
「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。 」 へブル人へ手紙11章3節
先日、私が月一回開いている幼稚園の保護者向け聖書勉強会に、私の友人がママ友を誘って参加されました。この幼稚園では新学期の時期に、園児たちに天地創造*1(神がこの世界すべてを創られたという、聖書の最初のストーリー)のDVDを見せています。そこで私は保護者の方にも、神様が六日かけて天地を創造し、最後に人間を創られたところを聖書にそって説明した後で、「これを皆さんが信じるか信じないかは別としても、もし神様がいたとしたら、なぜ人を創ったと思いますか?」と質問してみました。ある方が「おそらく、神様は大切にする相手がほしかったんじゃないかしら。。」と答えられました。私は別の聖書の箇所「天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び…愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。」*2を示し、一言にまとめて「神様は愛するために人を創ったようです。その人の人種や才能等に関わらず、一人一人が大切な、神様の前には価値のある存在として創られているから」と説明しました。
一人で悩んでいる人たち:いじめに遭っている子供、自分の抱えている責任や重荷に潰されそうになり苦しんでいる人、自分は生きている意味があるのだろうかと落ち込んでいる人。。。私はこのような人たちに「君は愛されるために生まれた」と伝えたいと願うのです。例え、自分を愛する人は誰もいないと感じても、目に見えない神様はその人を愛していて、愛する為に創られて、目的をもってこの世で生を与えたということを信じられると、どんな状況でも、どんな境遇に生まれ育ち、生活しようとも、そこに生きている意味を見出せて、自分の存在価値に確信を持て、一歩踏み出せるのではないでしょうか。
そして神様の存在と神様の愛を現わしているのが、イエス・キリストです。つまり、神の御子イエスの命を十字架で犠牲にしてまで、私たちを救おうとしたのは、それ程に私たち人間に価値があるとみなしてしてくれているからです。このような神様の大きな愛、またその父なる神様の計画に従順に従われた御子イエス様の愛は、なんと驚くべきことでしょうか。愛されている存在、意味のある人生、これらを神様の創造を前提として確信が持てると、もう一歩進んだ信仰に進んでいけます。神様は何もお返しを私たちに要求しないけれども(献金でさえ本来強制されていません)、私たちは神様に感謝すること、信じ続ける、求め続けることはできるはずです。神様が自分をこれ程までに愛して下さっていることを知り、その愛に自分はどう応答できるかと、神様のために生きたいという思いに変えられてゆき、自分中心から神様中心の思へと変えられていくことは、環境や状況に左右されない深い、大きな喜びを伴います。
多くの人たちは、聖書を神のことばとして信じず、信じたとしても部分的に信じ(例えば天地創造の部分は神話だとする)、人の知能で測りうる科学で整合性をつけようとします。しかし聖書は科学の本ではなく、信仰の書であり、聖書をどう信じるかはその人の信仰だと思います。私は人の知識を超えた、目に見えない全知全能の神様を信じ、私たちを愛して、イエス・キリストによって神の子にしようと前もってお定めになったこと、この世界は神様のことばから出来たと下記のように書かれている聖書をそのまま信じ、証していきたいと思います。 Y.O
*1「はじめに神は天と地とを創造された。」創世記1章1節
*2 エペソ人への手紙1章4-5節
May 17, 2019 Matthews 19:26
「イエスは彼らを見つめて言われた、『人にはそれはできないが、神にはなんでもできない事はない』」。 マタイによる福音書19章26節
20代の時、一度だけ湖でウインドサーフィンを試みたことがあります。とてもエキサイティングでしたが、方向転換や止まり方を習得していなかった為、怖くなり間も無く沈没。この地球上では全ては重力の下にあり、ある一定の条件下と乗り物にのれば、人は飛行機で空を飛び、船で水の上を走れます。人も横たわれば、しばらく水の上に浮いていられますが、直立した状態で人が水の上を歩く方法はまだ誰も成功していないでしょう。
聖書には人が水の上を歩いたという、信じら難いことが記されています。ある日の夕方イエスの弟子達だけで大きな湖に船をこぎ出すと、途中で嵐に遇い、先に船が進まなくて困っていると、イエスが湖の上を歩いて彼らの方へ行かれました。それを見た弟子たちは幽霊だと思い、恐怖のあまり叫び声をあげましたが、イエスはすぐに彼らに「しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない」と声をかけました。すると弟子の一人のペテロが「主よ、あなたでしたか。では、わたしに命じて、水の上を歩いてそちらへ行かせて下さい」と願うと「来なさい」とイエスは言われ、ペテロは舟からおり、水の上を歩いてイエスのところへ行けました。しかし、彼はすぐに足元の波と風をみて怖くなると沈んでしまい、イエスに引き上げてもらって、二人共舟に乗り込みました。
このような記事がなぜ聖書に書いてあるのか考えてみました。イエスは3年半の宣教活動の間に多くの奇跡をされましたが、多くの病人を癒したり、5000人にパンを増やして給食したり、病気で死んだ人を生き返らせたり、みな人々の必要に答えるための奇跡が記されています。イエスが奇跡を起こす時には目的や神の国についての教えが伴います。ですから、単に人の欲望を叶えてくれるため(例えば一攫千金を得る、名誉を得る)には奇跡を行われませんし、必要なこと(病気が治る、良い結婚、いい会社に就職等)を願ったとしても、その通りに奇跡がおこるとは限らないのです。神様の側には計画と思いがあり、人の思いとは異なります。つまり神様が奇跡をなさらなかった事柄でも、そこに神の計画や御心があるはずです。この水の上をペテロに瞬間的に歩かせるという奇跡は、イエスに力があり、その人にするように命じれば、”その人を通して”奇跡は起こるということを弟子が信じて一歩踏み出すという、信仰のレッスンだったのではないかと思います。
信仰というのは、電気のスイッチに例えられます。スイッチを押すと、電気が流れ電球がつくように、信仰を働かせると、神の不思議な力が流れて奇跡がおきます。ですから「これは無理だろう」「神でもこれはできないだろう」という不信仰の状態には、神の力は流れず何もおこりません。私たちの内には何の力もないのですが、神には出来ると信じる信仰を持って何事も祈り、その願いが神の思いに沿ったものであれば、私たちの人知や科学を超えた不思議なことが起こるでしょう。この弟子の場合、イエスに命じてもらえば歩けると信じたから、重力の法則を超えて水の上を歩けたわけです。しかし途中で波と風を見て怖くなる、つまり人の現実的な思いで信仰のスイッチをオフにしてしまうと沈んでしまいます。現代の私たちへの適応は、絶望的な状況、不可能に思えることでも、イエスに力があると信じて信仰のスイッチをオンにできるかが問われと思います。
そもそも、この世で信仰を持ち続けて生きることは、ある意味水の上を歩くような、重力に逆らう奇跡的なことだと思います。傍から見ると、目に見えない神が存在して、2千年前に十字架に掛けられた神の御子イエス・キリストが死んで復活したことは自分の罪が赦され、天国へ行けるためだという信仰は、多くの人には信じがたいことでしょう。しかし、聖書に書いているイエス・キリストのなさったこと、言った事が本当だと信じて、現代における自分の生活の中でも祈って神様に委ねていくと奇跡がおこります。それも、自分の思う通りではなく、神様のやり方やタイミングで。この世という深い海に沈むことなく、水の上を歩いて信仰を保っていけるのは、自分の力や意志ではなく全て神様の恵であり、奇跡の力であると捉え、日々神様に感謝していきたいと思います。また、信じられなくて溺れそうになっても、助けを求めれば、イエスが腕をつかんで、引き上げてくれるので、安心です。 Y.O
May 5, 2019 Philippians 2:2-4
「どうか同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、一つ思いになって、わたしの喜びを満たしてほしい。何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。 」 ピリピ人への手紙2章2-4節
何事も、自分でしないと気が済まない、もしくは頼むのが面倒くさいので、大変でも自分でしてしまうということがないでしょうか。私はどちらかというと、なるべく人に迷惑をかけず全部自分でしてしまおうという方です。また独身時代が長く自分で全てしなければならなかったという状況もあり、結婚した後もまだその癖が残っていて、時々夫にあきれられてしまいます。先日も10連休で道路が大渋滞になった時、途中で運転を夫が変わろうと言ってくれたのに、私は運転を変わる暇があったら早く着きたいとの一心で、結局大渋滞の中休みなく4時間運転してしまいました。一方、全て人任せで自分はやろうとせず、最低限自分のすべきことさえもしようとしない人もいるかもしれません。人に任せることと自分がすべきことを見極める、またバランスをとるのは難しいことです。
信仰の面でも神様に任せることと自分がなすべきパートがあります。ほとんどが神様に委ねるのですが、祈って何もしない、あとは神様が何かしてくれるまで寝ていよう、というのでは棚からぼた持ち状態です。例えば、就職活動において「神様、これこれの仕事を与えてください」とまず祈ることは一番です。また人間関係がうまくいかない場合、「神様、夫(妻)との関係、職場の同僚との関係がよくなりますように。相手が悪いですから相手を変えて下さい!」と祈ったとします。しかし祈りと共に、自ら行動するパートがあるはずです。就職なら、自分で調べて履歴書を送る、誰かに紹介してくれるように頼む等、また働き始めたばかりは慣れるのが大変であっても、すぐに辞めずある程度忍耐して働いてみるなど。また人間関係にしても、確かに相手がいつも攻撃的、意地悪かもしれませんが、自分の態度はどうか?最近、問題の相手を尊敬したことがあるか、その人に優しい言葉をかけたこと、最後に「ありがとう」と言ったのはいつか?と顧みて、悔しくても感情がついていかなくとも、こちらから態度や言葉で優しさを示すことはできます。これらは自らがするパートであって、神様がしてくれるパートではないでしょう。
信仰の成長は、物事がうまくいかない、困難な環境の中でなされます。そういう時こそ、正直な自分の感情を含め、状況のそのまま神様に祈り、静まって神様が動かれる、働かれるのを待ちつつ、自分は忍耐し、謙遜になって、自分が出来る事をしていく。すると、ある時状況が変えられていく、というのを経験し、神様の恵みわざに感謝しつつ、自身の信仰も成長させられるでしょう。私はもっと、忍耐力が与えられ、何事にも寛容になる、というキリストのような思いに変えられる必要があり、また相手と共に重荷を分かち合う、つまりチームワークを実践で学んでいく必要があります。まずは神様に祈りつつ、自分のなすべきことをしつつ、成長の遅い自分自身にも忍耐して、変えられ続けるのを望んでいきたいと願います。 Y.O
May 2, 2019 2 Corinthians 4:16
「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人は」衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人は」日々新たにされていきます。」 第2コリント人への手紙4章16節
毎年、西暦で新しい年を迎える時と日本の場合は4月からが学校や会社の会計年度の始まる時と、事実上年に2度新しい区切りが気持ち的にも持てることになり、今年の5月は元号切り替えにより3回目の区切りとなります。しかしながら、環境の変化や暦などが新しくなり、区切りがつけられていたとしても、人の心はそれで何か変わるのでしょうか。それで心のコントロールがうまくいく人は良いですが、何も変わらない、もしくは益々悪化していく様な恐れ、悩みがある人もいるかもしれません。
聖書では、下記のようにキリストを信じる人は日々内側が新しくされると書かれています。内側が日々新しくされるとはどういう意味でしょうか。まず、これは環境的な要因や自分自身に言い聞かせるということで心が新しくされるものではなく、キリストの霊(聖霊)が人の内側(心)に働き、新しく変えられていくことと言えるでしょう。具体的には、日々、新しい悩みや事件に直面する人、もしくは単調な生活で飽きてしまっている人、仕事や介護で忙しくて何も考える余裕がなく日々流されていく人、悲しみ・恐れ・止めなければならない悪習慣に捕らわれている人。。それぞれ状況が異なるとしても、信仰が与えられると、聖書の言葉をとおしてキリストの恵により、その時はあせったり感情の起伏が起こるとしても、落ち着けるところへ導かれる、満足して神様に感謝する心に変えられる、これが日々心の中で起こることが、日々新しく変えられることだと思います。これは、傍から見てもわからないことですが、その人の心がこのようにかえられて神様に感謝できる日々を保てるという事こそが、日々内側が新しくされている証拠なのです。
キリストを信じて信仰を持っていても、性格などすぐには変わらない部分もあり、また罪も犯してしまうこともあり、突然聖人になるわけではありません。しかし、善悪の判断にしても相対的(人や社会によって異なる)なものでなく、神様の基準でこれはして良い悪いと心に示されます。すると、心が悪から守られ、たとえ弱さの故に悪いことをしてしまったとしても、悔い改めれば神様から赦しが得られ、そのようなことを繰り返ししていくうちに罪を犯さないように徐々に変えられていきます。そのためにキリストが十字架にかかったからです。
クリスチャンは、たとえ自分の願い通りにならなくても、自分の弱さ不完全であっても、神様がベストの答えと必ず導いていくださると信じて委ねることができます。自分で心をコントロ―ルして守ろうと一生懸命頑張らなくも、もしくは人間が造った神々に願をかけ、お金を使う必要はないのです。このイエス・キリストを通して与えられる恵を感謝しつつ、変えられなければならないところがたくさんある、欠けのある私は、日々忍耐できる、謙遜な心に変えられるよう祈ります。 Y.O
Apr. 19, 2019 1 Corinthian 3:7
「だから、植える者も水をそそぐ者も、ともに取るに足りない。大事なのは、成長させて下さる神のみである。 」
第一コリント人への手紙3章7節
昨年の秋、ふと桃の木の苗に目がとまり、庭に植えました。今の庭には前の持ち主の方が生垣も含めて季節ごとに様々な花が咲くように植えられているので、十分だったのですが、私たちは自分たちで何か植えて育ててみようと思ったのです。肥料をまき、水をやり、順調に根付くかなと見ていました。
冬になると、緑の葉が紅葉することなく全部落ちてしまったので、「枯れてしまったのか!?」と植物に無知な私は悲しくなりました。折しも、夫が仕えている益子にある教会の庭に、こじんまりとした枝垂桜の木が植えられていて、毎年美しく咲いていたのですが、昨年の春を最後に突然木が枯れてしまったばかりでした。それで木も虫や病気にやられてしまわないよう、世話が必要なのだと思っていた矢先だったのです。しかし、我が家の桃の枝には、よく見ると春に向けての花のつぼみが、細い枝の先に用意されていて、ほっとしました。そして、厳しい冬を超え、今庭先で美しく桃の花が咲いているのを見ることができ、神様の創造された自然の美しさに感動しています。
春はイースターの季節で、イエス・キリストの復活を特に覚え、希望を新たにされる時でもあり、自然界を見ても新しい命があちこちで芽生える、生まれる時期でもあります。キリストは十字架にかけられ、確かに死んだことが確認され、埋葬されましたが、3日後に甦られ、弟子たちに現れた後、天に戻られたことが聖書に記されています。そのことを目撃した大勢の弟子たちが、全世界に出て行って、キリストの十字架と復活のことを伝え、このことによって人間の救いがあるという福音を宣べ伝えました。そのおかげで東の果ての日本に住む私のようなも、この福音を聖書を通して知ることが出来、魂が死んでいたような状態から、新しい命が与えられました。キリストを信じる信仰が与えられていることは本当に感謝です。なぜなら目には見えないですが、今も天でキリストが生きておられ、信じる者の心に聖霊が与えられ、日々新しく生きていけるように様々な生活の場面で導いて下さっていることを、ことさらイースターの時は喜びをもって実感できるからです。そして、信仰の成長を見守り、また必要な助け、慰め、励ましを人を通して、聖書の言葉を通して与えてくださるキリストを心から感謝しています。
桃の実がなるのは、数年先のことだと思いますが、今後引っ越したとしても、可能な限り一緒にこの木を持っていき、この小さな木が季節ごとに成長していく様子を見届けたいと願っています。私たちのような小さな者の信仰が成長していくのを、神様が忍耐と愛をもって見守って下さるように。 Y.O
「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。」 ローマ人へ手紙5章8-9節
ヨーロッパの国では、顔から胸にかけて赤い色をしたコマドリが生息し、特にイギリスで人々に親しまれる、別名ムネアカドリという野鳥がいるそうです。この特徴的な赤い胸の由来にまつわる話がいくつかあり、その一つは3-4月のイースターの時期に語られ、日本でも絵本「むねあかどり」*として出版されています。
その内容は、かつてこの鳥は全身が灰色だったので、この鳥は「なぜ自分だけ他の鳥のように色鮮やかじゃないの?」と、色がつくために様々な努力(胸が張り裂ける程鳴いたり、他の鳥と激しく戦ったり、赤いバラの近くに巣をつくったり)をしましたが、灰色のままでした。ある日、十字架に架けられたイエス・キリストを見ていたたまれなくなり、その頭にささっているいばらの冠を外そうとして血が胸にかかって赤く染まり、以来胸が赤い鳥になったというお話しです。十字架上でキリストの血潮で胸を赤く染められたこの鳥に、キリストはこう言います。「ありがとう、これからは本当にお前はムネアカドリだよ」
私はこの絵本を読んだとき、胸が熱くなりました。子供たちはどのように感じ取るのかはわかりませんが、私はこの灰色のコマドリが、赤い色をつけようとして一生懸命努力しているところが、まるで人間:自分が自分の力や能力で清くなろう、また美しくなろうと試みるが、どうにもならず、失望して諦めていることと重なったからです。この鳥が十字架に架かったキリストに近付き、その血がかかることで、本来の美しさを持つ名前の通りのムネアカドリになったように、私たち人間もキリストに近付き、救い主として信じた時、罪が赦され、清められ、また本来神様が創造された時のあるべき美しい人間に創りかえられることを暗に示しているように思うのです。
今日は、幼稚園の保護者の方のための聖書を学ぶ会があり、この絵本を紹介してイースターのお話をしました。幼稚園の礼拝のなかで、夫がこの絵本をこどもたちに、イースターのお話しとして読み聞かせをしているからです。お母さんと子供がこの絵本を通して、イースターを単なるウサギや卵をモチーフとした春のお祭りとしてとらえるのではなく、本来の意味(キリストが十字架にかかって死に、3日後に甦ったことを記念する日)を知るきっかけとなればと願っています。Y.O
*ラーゲルレーヴ/著 日本基督教団出版局
Mar. 31, 2019 Psalms 115:18
「しかし、われらは今より、とこしえに至るまで、
主をほめまつるであろう。主をほめたたえよ。 」 詩編115編18節
讃美歌は、小さいころから私の身近にあり、歌ってきた音楽です。昔から歌われている賛美歌の他に、現代的なプレイズソング、またゴスペルソングと賛美歌といっても様々な種類があります。しかし、どれも歌詞の内容は、神様をほめたたえる曲で、元来礼拝の時に神様に賛美を捧げるための歌です。若い世代が多く集う欧米の教会の流れを受ける教会では、バンドに合わせて、まるでライブハウスのような雰囲気で賛美を歌っているところもありますが、日本のほとんどの教会は昔ながらのオルガンの伴奏で静かに歌う形式です。
私はどちらも好きですが、今通う教会はオルガンで静かに歌う賛美歌で、以前はギターに合わせて歌うプレイズソング形式の教会に通っていました。今の教会で、奏楽担当の時は事前に練習するので、自然と頭の中で静かな賛美の曲が流れています。また、小さい時はその歌詞の意味を考えることもなく歌っていたのですが、今はその詩を味わって歌うことができます。
賛美を歌う理由は、人が神様をほめたたえる為に捧げる歌であって、自分が歌っていて高揚感を感じるためにあるものではありません。もちろん、信仰がない人にとって、例えば趣味でゴスペルを習う場合、もしくは教会の礼拝にたまたま参加して耳にする賛美により、その方々は良い影響力を受けます。聞いていて、またご自身が歌っていて楽しいと感じることもあり、それは素晴らしいことだと思います。たとえ信じていなくても、ゴスペルを歌う事で、事実上神に賛美を歌っていることになります。しかし、キリストを信じる者にとっては、神様に捧げる、礼拝の一部です。それでも、賛美を歌うことにより、自身が励まされたり、慰められたり、喜びが溢れてきますので幸いです。つまり、賛美を歌うこと自体が、恵みを受けることなのです。
聖書では、神様は賛美を受けるに相応しい方だとされ、そして、今日の箇所のようにその讃美は永遠(とこしえに)に続くとあります。つまり、この地上に生きている間にだけ賛美はなされるのではなく、天国でも行われており、もっとスケールの大きな数の天使たちの合唱隊も賛美を神様に捧げ、人間だけでなく全ての生き物も賛美を歌っているようです。*1 これは想像を絶する光景ですが、天国に行った時のお楽しみとしてとっておき、地上にいる間はたとえ小さな賛美であっても、いつも神様に賛美の歌を捧げたいと思います。 Y.O
*1 黙示録5章11-14節
Mar. 25, 2019 Matthew 28:20
「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである。」 マタイによる福音書28章20節
アメリカのある研究によると、心配事というのは85%実際起こらないそうで、残り15%の確立でその心配していた事が起こるという統計があるそうです。しかし、その15%の中で心配事が起こってしまうだけでなく、それ以上に大変な状況となることもあります。突然の病気の発症、事故、災害はいつ起こるかわかりません。
聖書では、人はこの世に生きている限り、痛みのない世界で過ごすとは保証していません。様々な困難が起こるのは避けられませんので、心配事はつきないでしょう。では、神を信じても、信じなくても困難が起こるなら、どうしたらよいのでしょうか。信仰が与えられている幸いは、どんな状況になろうとも、今日のキリストの言葉(約束)より、目に見えないけれどイエス・キリストがいつも共にいて下さるという安心感があることです。誰も助けがないと思える状況において、孤独の中で、キリストがに祈りつつ、先がどう動かされていくか落ち着いて様子を見ることができます。すると、意外な方向から助けが与えられることがあります。それを偶然ととるか、神がコーディネートしてくれたととるか、祈る者は後者と信じます。事が起こった時、一瞬不安はよぎりますが、すぐになんとかなるという、良い意味で楽観的にとらえることができるのは、信仰によって支えられているからです。
今、母が骨折したため、その入院、手術の立ち会い等で実家にきていますが、普段は離れて暮らしているため、母と一緒に過ごし、介護できる機会が与えられるのは感謝なことだと思わされます。ただ、夫には不便をかけ申し訳ないのですが、夫は「お母さんと一緒にいてあげて」と優しく送り出してくれています。本人も痛みを堪えながら「左手が使えるようになっていいのよ」と手術後に予定されてる旅行や女学校時代の同窓会などの参加に向けて、意欲的にリハビリをしていく様子です。母のことも、主イエスが共にいて下さると信じ、娘があれこれ心配しすぎないで、母に寄り添えればと願います。Y.O
Mar. 18, 2019 Philippians 4:4-8
「あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。あなたがたの寛容を、みんなの人に示しなさい。主は近い。何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。」 ピリピ人への手紙4章4-8節
「皮肉なことに、私の父が日本へ呼んでくれたんだと思います。。。」先日も、再び痛ましい乱射事件がニュージーランドで起こりました。この事件が勃発した日の数日前から、私たちの教会の信者の方が危篤状態となり、急遽クライストチャーチ在住の息子さん家族が日本へ飛び立ちました。そして、その翌日にこの事件が起きたのです。息子さんは現地の学校の教師でしたので、もしお父さんのことで日本に来ることがなければ普通に学校で働いていて、この事件に巻き込まれていたと、そして彼の小学生の息子さんの親しくしていたお友達がモスクで殺されてしまった一人だったと聞き、涙が出ました。世界各地でこのような惨劇が繰り返されるたびに、心が痛みます。犠牲者の方々の遺族に慰めが与えられるように祈るばかりです。
人間の残酷性は、歴史を見ても何千年前から変わらないと思うにつけ、深いため息がでます。最近見た映画「パウロ」は、2千年前のローマ帝国時代にて迫害の中でのクリスチャンたちの様子が描かれていますが、目をそむけたくなるようなシーン、痛ましいシーンがたくさんありました。クリスチャンは、ローマ皇帝から迫害され、生きたまま柱に括りつけられ火がつけられて街灯としてローマの街で燃やされていました。また大人も子供、女性もクリスチャンは、競技場でライオンに食べられるという見世物とされて、人々がそれを見て興奮していました。聖書のいくつかの書簡を記した信者のルカは、パウロという牢に繋がれている伝道者に感情をぶつけます。「なぜこんなことが?」「どうしたらよいのか?」と。パウロは武力ではなく、愛を持って戦うように勧めます。
パウロは、劣悪な牢獄の中でこれから処刑されるのを待つ状況下で、なんと主にあって喜んでいました。パウロは彼自身が受けて来た苦難を通して、キリストにあって苦難を乗り越え、希望を持つ事を他の仲間に励ましたのです。これは、人が自分の意志や力では生み出せないパワーであり、神様からのみ与えられる力と、平安なのでしょう。人は神様に頼ることなくして、このような逆境で平静を保つことは困難ですし、悲嘆にくれ、何も希望を持てなくなり、被害を受けた方々は加害者に憎しみを持たざるを得ないのではないでしょうか。
しかし、どんな状況に陥っても、思い煩わず、神様に今生かされていることを感謝しつつ、必要な助け、願いを祈るようにと、パウロが勧めている今朝の聖書の箇所より励まされました。あまりにも酷いことが身に起こり、喜べない時でさえ、全てそのままを神様に祈りで叫んでもよいのです。神様は私たちの叫びを聞いて下さいます。そして、他者に対する憎しみをエスカレートさせてしまうような人が、一人でも神に立ち返り、自分の悪い思いを悔い改めて、神を畏れるようになってほしい、このような惨劇が繰り返されることがないようにも祈っていこうと思います。Y.O
Mar. 14, 2019 John10:14-15
「わたしはよい羊飼であって、わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている。…そして、わたしは羊のために命を捨てるのである。 」ヨハネによる福音書10章14-15節
もし、自分の名前が親によって、奇妙な名(キラキラネーム)をつけられていたら。。先日、親が子に「王子様」という名前をつけ、その子が改名を裁判所に申し立てたというニュースが報じられました。「名は体を表す」ともいわれ、名はその実態を表すと一般に言われますが、人の場合はどうでしょうか。名前というのは、その人が唯一の「その人である」というアイデンティティでもあり、非常に重要なものです。
聖書には、神は唯一ですがいくつかの名前を持っていることが示されています。そして、それぞれの名や称号により、神がどういう神か、どういう性格を持っているかがわかります。これらの神の名前すべては、神が私たち人間に与えようとしている祝福を表しています。イエス・キリストという名の意味は、イエスが「主は救い」という意味で、キリストというのはヘブライ語のメシヤ(救い主):「油注がれた者」という意味です。クラッシックの音楽会でよく演奏される「メサイア」はここから来ています。またイエスは「インマヌエル」とも呼ばれ、「神われらと共にいます」という意味です*1。
その名前の通り、聖書の神は救って下さる神、また共にいて下さる神です。更に、どうやって、何から救うのかを聖書を通して、もしくは人から聞いて知れば知る程、信頼できる神なんだなと思うようになります。例えば、私たちの存在は、イエスが命を捨てる程に大切な存在として扱われていることを、下記の聖書の箇所で羊と羊飼いのたとえから話されています。キリスト教は単なる宗教(レリジョンReligion)ではなく、”関係”(リレーションシップRelationsihp)だと言われるのは、神様との関係を経験する醍醐味があるからです。人間同士の関係構築のように、神と人との関係も神が一人一人を知っていることを知り、私たちも神を知る必要があります。
もし、人から大切に扱われていない経験をしている人、誰も信用できない人がいたら、この神は自分を唯一の存在として大切に思ってくれている信頼できる存在でだと信じて、祈り、その祈りが答えられるという双方向の経験をしてほしいと願います。なぜならキリストの名で神に祈ると、それが答えられ、心に喜びが満ち溢れるという、神の確かな約束が与えられ、多くの人がその経験をしているという証があるからです。*2 Y.O
*1 マタイによる福音書1章23節
*2 ヨハネによる福音書10章23-24節
Luke12:1-3
「パリサイ人のパン種、すなわち彼らの偽善に気をつけなさい。おおいかぶされたもので、現れてこないものはなく、隠れているもので、知られてこないものはない。だから、あなたがたが暗やみで言ったことは、なんでもみな明るみで聞かれ、密室で耳にささやいたことは、屋根の上で言いひろめられるであろう。」 ルカによる福音書12章1-3節
那須塩原エリアは美味しいパン屋さんがたくさんあります。もともとは、那須が別荘地として開発されるに従い、こだわりのパンのお店が増えて行ったそうです。パンはイースト菌を入れることで膨らみます。イースト菌(酵母)は目に見えない程小さな菌ですが、生地全体をふくらますという、驚きのパワーを持っています。
聖書には、ユダヤ人の間では過越しの祭りというのがあり、その間はイースト菌なしのパンを食べるという慣習があり、何千年もそのお祭りが彼らの間でなされています。その由来は、ユダヤ人(イスラエル人)が昔エジプトで寄留していた時に奴隷として酷使されていたのを、神がそれを顧みてエジプトから数百万人の民を脱出させた時、夜中に急いで逃げる為、パンを発酵させる時間がなかったのもあり、以後この出エジプトを覚えるためにイースト菌を除いたパンをこのお祭りの7日間に食べます。*1
イースト菌を除くというのはあることの象徴であります。小さな悪でもほおっておくと、パンが膨らむように悪が広がってしまうので、除く必要があるということです。下記の箇所にあるように、イエスご自身も「パリサイ人のパン種に気をつけなさい」と言われていて、彼らの悪い教えや偽善を指して言われました。生活の中で「これくらい、いいよね」と思い不正や悪い事、偽善を続けると、大変なことになります。またちょっとしたことで相手に対して嫌悪感を抱きそれを持ち続けると、それが悪口・ゴシップとなり、自分だけでなく、周りの人をもまきこんだ人間関係の悪化を引き起こします。
私は何かをする時、また思いを持つとき、人は気がつかなくても神様が見ているという健全な抑止がかかることは幸いだと思います。小さい悪は自分だけの被害にとどまらず、回りを巻き込み、その痛手は大きく、自分も他者も心を傷つけてしまいます。神を恐れることは、結局人同士の問題の勃発を防ぐことにつながります。イースト菌は良いものですが、小さい悪はすぐに悔い改めて、赦して頂き、取り除きたいと思います。 Y.O
*1 申命記16章1-8節 出エジプト記12章15-20節 過越しの祭り参照
James 1:3
「あなたがたの知っているとおり、信仰がためされることによって、忍耐が生み出されるからである。」ヤコブの手紙1章3節
私は20代の頃からスポーツクラブに行き始めました。その後、何年も行かない期間も度々ありましたが、今に至るまで少しづつ有酸素運動とウエイトマシーンによる筋肉トレーニングを続けています。黙々と重いウエイトを引っ張ったり、持ち上げたり何回か反復していると、なぜこんなことをしなければならないんだろう?と思いながら、それでも、やれば体がとても調子良く、目的のために続けています。
身体だけでなく、私たちの品性も筋トレが必要だと思います。したくなくても、しなければならないことや、背負いたくない困難も起きてしまうことが人生の中で誰にでもあると思います。何もおこらず、人生順風満帆であれば楽ですが、同時に我慢すること、耐え忍ぶ機会もなく、いつも他者(例えば親とか)が自分の代わりに何かをしてくれてしまうと、自分で問題をどう対処するかという考える力もつきません。精神にウエイトがかかる、つまり試練を通ることによって、なんとかやって行こうという強さが育くまれ、忍耐力がつき、精神が成長する機会となるのではないでしょうか。しかし、皆がそんな簡単に心が成長できたら、心の病もおきないでしょう。人間は自分の意志の力だけでは、乗り越えられない状況があります。
ですから、私は信仰が必要だと思います。信仰とは目に見えないものですが、これがあれば自分以外の、人間以外のもっと大きな存在、神の存在を信じ、神が良くしてくれる、救ってくれるという希望を持てます。キリストの弟子ヤコブという人は下記の箇所にあるように、試練をいわば信仰の筋トレのウエイトのように例えています。人生に苦難や辛いことが起こることによって、自分の信仰が試され、結果的に忍耐が生じ、成長するというのです。聖書の神はご利益宗教ではないので、自分に悪い事がおこっても、神は良いことに繋がる様その試練を用いられる、何か意味があるという信仰が与えられます。すると、感情的にはアップダウンしながらも、忍耐して、神が道を開かれるのを待つという選択をとることで、信仰が成長させられます。また、自分だけでなく、同様の問題を抱える人にも励まし、慰めの言葉をかけられるようになると書かれています。*1 神は私の能力・弱さをご存知であるので、ウエイトの重さは神にお任せし、自身の忍耐力のアップだけでなく、他者を励ましたりできる品性に変えられていきたいと願います。 Y.O
*1「神は、いかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さり、また、わたしたち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにして下さるのである。」第2コリント人への手紙1章 4節
Mar. 6. 2019 Mark 10:13-16
「イエスにさわっていただくために、人々が幼な子らをみもとに連れてきた。ところが、弟子たちは彼らをたしなめた。それを見てイエスは憤り、彼らに言われた、「幼な子らをわたしの所に来るままにしておきなさい。止めてはならない。神の国はこのような者の国である。よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない」。そして彼らを抱き、手をその上において祝福された。」
マルコによる福音書10章13-16節
近代になって、ようやく法の下の平等が法律で定められ、人権という概念が普及してきていますが、昔は日本でも西洋諸国でも、女性と子供は見下された存在でした。神はもちろん、このような差別や階級を設けたことはなく、これらは人間が作り出したものです。イエスがこの世に生きておられた時代もこのような不平等、差別はありました。イエスの弟子たちであっても、子どもなんかに自分たちの先生を煩わせてはならないと、追い返そうとしたところが今日の箇所です。
イエスはやさしい、愛の方でありますが、憤ることもありました。それは、人が子どもであっても誰であれ、神に近付こうとすることを誰かが妨げる時、また妨げるシステム(神殿における高手数料の両替や高価な捧げものの販売)に対してイエスは怒られています。子供たちがせっかくイエスに祝福してもらおうと近寄ったのに、弟子たちはそれを妨げようとしました。
神はイエス・キリストを通して、私たちの心が神から遠く離れている状態をご自分に近付けようとされ、その道を開いて下さっています。それは、資格や階級、人種に関わらず、お金もいりません。ただ幼子が単純に疑わずに何でも信じるように、キリストを信じるだけで誰でも神に近付き、神の恵と愛を受け取れるというキリストという道です。その道を歩み続けたいと願いつつ、同時に自分が無意識にしていること、正しいと信じて熱心にしていることにより、他者が神に近付こうとしていることを妨げてしまわないように、神に助けて頂きたいとも思わされました。 Y.O
Mar. 2, 2019 Matthews 7:24-25
「それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。」 マタイによる福音書7章24-25節
本日の箇所はイエスの教えを聞いて、それを従順に行うことが大切であることをイエスご自身が言われてるところです。耳が痛いことですが、イエスの教えをただ聞くだけに終わらず、聞いたことが実際、その人の言動や態度に現れていて初めて、その人の持っている信仰が明らかにされるものです。つまり、何か起こった時(洪水のような試練、災害)、その人の信じていることがしっかりしていれば、その人は安定していられるでしょう。
「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(マルコによる福音書8章34節)ともイエスは言われましたが、具体的に「自分の十字架を背負う」とはどのような意味なのでしょうか。この言葉が「わたしに従いなさい」にかかっていることから、自分の十字架を背負うことがイエスに従うため必要なことであるようです。
使徒パウロが「…わたしはキリストと共に十字架につけられたのです。生きているのはもはや私ではありません。キリストがわたしの内に生きているのです。」(ガラテヤ2章20-21節)と言っているように、自分を捨て、自分の十字架を背負うとは、私の思い、欲求を捨て、キリストのなさりたいことを選び取るという新しい生き方をしていくことではないでしょうか。つまり、古い私は十字架上で死んでいることを思い出すためにも、自分の十字架を背負うという表現をイエス様はなされたのではないかと思います。
私たちも不完全ではありますが、神に助けて頂きつつ日々、イエスに喜んで従うために、古い自分を捨て、主の御心を求めつつ歩めるように、祈っていきたいと思わされました。 Y.O
Mar 1. 2019 Psalm 147:3-5
「主は心の打ち砕かれた者をいやし、その傷を包まれる。
主はもろもろの星の数を定め、すべてそれに名を与えられる。
われらの主は大いなる神、力も豊かであって、その知恵ははかりがたい。」 詩編147篇3-5節
はやぶさ2号のリュウグウ着陸:ミクロからマクロまで
地球から3.4億km離れた、新しい小さな星リュウグウ。日本のJAXA は2月22日8時29分に小惑星探査機はやぶさ2号の着陸を成功させ、日本中、いや世界中にそのニュースが駆け巡りました。昨今の宇宙科学の進歩には、目覚ましいものがあります。人は新しい星を発見しては名前を付け、探索する宇宙船を送り出します。
今日の聖書の箇所を読むと、神は、すでに星の数を定め、名前を付けておられるということが書かれています。なぜなら、人が科学を通して探求するはるか昔に、神が宇宙を創造されたと聖書に記されているからです。なんとその力と知恵は測りがたいことでしょう。
一方、主(神)は、人間一人一人の心の内側をご存知で、その心の傷を癒やして下さり、打ち砕かれた者に寄り添って下さる方です。人間の存在に比べてはるかに大きな宇宙も把握されている偉大な、人知を超えた神が、私たちをケアして下さっていることを知ると、安心して神様に委ねようと思わされます。 大下 陽子(Y.O)